第二部 2.光と闇  -永遠の闇の国の物語-

とん、とん、とん…
 何かが服に当たる気配を感じて、泥沼のような眠りから目を覚ました光太郎は一瞬、何が起こっているのか理解できずに眩暈を残す重い頭に腕を上げようとたが、身体が激しく痛んで悲鳴を上げてしまった。

『光太郎!?良かった、目ぇ覚ましたんだな!!』

『俺たちもう、お前が死んでるんじゃねぇかって心配で心配で…』

 鼻声だったり涙声だったり、漸く自分の身の上に起きたことを思い出した光太郎は、そんな風に心配して声をかけてくる魔物たちに気付いて、少しでも動かせば悲鳴を上げる身体を引き摺るようにして壁際まで移動すると、凭れながら深い溜め息をついた。それまでにかかった時間がカタツムリでも這うような速度だったとしても、光太郎がただ生きていてくれたそれだけでも、魔物たちは安堵して泣いていた。

「大丈夫だよ…」

 散々悲鳴を上げた咽喉は潰れたのか、掠れた声がすすり泣く魔物の声に紛れて消えてしまう。
 痛む上半身を起こしたとき、パラパラと零れたパン屑を見て、あの優しい魔物たちは光太郎が傷付かないように最大限考慮していたんだなぁと感じて、満身創痍でボロボロになってしまった少年は小さくはにかんだ。

(大丈夫だ…俺はまだ生きてる)

 感覚すらなくなってしまっている両足の付け根に、べっとりとこびり付いた血液と精液が乾いていて、それだけでも気持ち悪かったが態々見たいとも思わないし、何よりもまだその部分に触れる勇気がなかった。

「ホントに大丈夫だから…心配ないよ」

 痛む身体を庇いながら息を吸い込んだ光太郎が、なんとか先程よりも鮮明に声を出すと、泣いていた魔物たちが鉄格子に縋りついた。できれば今すぐこんな細い格子など打ち破って助け出してやりたいのに…どう言う訳か、この牢獄に入れられたときから魔物たちは実力を出せないでいるのだ。
 なんと言うか、魔力を吸い取られているような。
 それは錯覚なのかもしれなかったが、それでも全力が出せないことは致命的だった。

『助けられなくてごめんな。お前は身体を張って俺たちの命を救ってくれたんだ…この恩は、たとえ死んだって忘れやしない』

『俺もだ!』

『俺だって、光太郎のためなら何だってするからな!』

 オーンオーンと声を上げて泣く魔物たちの真摯な誓いに、光太郎は怯みそうになっていた心を叱咤して小さく笑った。
 どうして自分が。
 なぜ自分だけが…
 身体中が痛むたびに叫び出したい言葉だったが、咽喉元までせり上がっていたその言葉を飲み込んだのは、この世界に導かれて何も知らない自分を、まるで家族のように受け入れてくれた魔物たちが、そうして自分のことのように光太郎の痛みを感じながら自分のことのように泣いていくれている姿を見た瞬間、こうなることもまた何かの運命に違いないと思えたからだ。
 それは、何か辛いことがあった時に歯を食い縛りながら自分に言い聞かせてきた言葉だった。
 身体は鉛でも飲み込んだように重いし、下肢はまるで別人のものように制御できず、そのくせ痛みだけは最大限に身体の芯を貫くから図らずも舌打ちが漏れてしまう。

「…はぁ、死んではないけど。でもまだ、動くのは無理みたいだ」

 人間の目では見分けられない暗闇の向こうで何かが動く気配がして、人間よりも数倍長けている視覚でぐったりと壁に凭れている光太郎の姿をハッキリと見分けている魔物が低く呻いた。

『当たり前だろが!絶対に動くなよ?今度、アイツらが来たら隙をついて人質を捕る!』

『そうだ、バッシュ!それがいい。それで、光太郎の看病をさせよう』

 そうだそうだと頷き合う魔物の声を聞いていると、どこか緊張に張り詰めていた糸がプツンと切れたような、言いようのない安堵感を覚えて光太郎はクスクスッと笑ったが、それだけでも身体に響いて眉根を寄せてしまう。息も出来ないぐらいの痛みなど生まれて初めてだったから、恐らくボーッと頭が鈍くなっているのは熱でも出てきたのだろう。

「駄目だよ…そんなことしたら、バッシュたちが危ない」

『馬鹿だな!そうでもしないと、今度こそアイツらに殺されちまうぞッ』

 心配そうに紡がれる言葉は、この狭い牢屋内でたった一人、首輪に繋がれ両手を縛られたままの不安に怯える身体にゆっくりと浸透して、熱を持つ身体に壁の冷たさが心地好いようにその言葉は心にも安堵感として広がっていった。

「俺が泣いたこと…内緒にしてくれる?」

『…あのなぁ』

 一瞬、言葉を飲み込んだバッシュだったが、それでも呆れたように溜め息をついた。

「あははは…ッ!イテテテ…」

 それがおかしくて光太郎は声を上げて笑ったが、すぐに身体に響いて顔を顰めたまま蹲った。

『大丈夫か!?』

 ガシャンッと鉄格子を鳴らしながらバッシュと仲間の魔物が焦ったように心配すると、光太郎は我が身を抱き締めながら痛みをやり過ごして大丈夫だと呟いた。その声音はいつもの精彩を欠いていて、弱々しく頼りなげで儚かった。ともすれば掴んでいる生命の手綱さえも、ちょっとしたことで手放してしまいそうな危うささえ感じて、バッシュたちは光太郎が必死で陽気に振舞おうとしている健気な心根を知って奥歯を噛み締めた。
 助けたかった。
 その小さな身体で、ましてや同じ同族である人間に犯されて、心を手放さない光太郎の強さに彼らは感謝すらしていた。
 身体が受けたダメージは想像すらも出来ないだろう、だが、その心も同じぐらい激しいダメージを受けているに違いない。

「…このこと、シューにはその…言わないで欲しいんだ」

 生きて帰れることを信じている言葉に、バッシュはもちろんだと頷いた。
 恐らく今、光太郎を突き動かしている情熱は、シューの元にみんなで帰ろうと言う決意なのだろう。

「よかった。シューはああ見えても優しいから、きっと後悔すると思うんだ」

『心配するな、光太郎。誇り高き魔族はその辱めを生涯忘れない。たとえ何らかの事情で今回のことがその…シュー様の耳に入ったとしても、あのお方は必ずや復讐してくれる。もちろん、俺たちもだ!』

「…それじゃ駄目なんだよ」

『何故だ?』

 魔物たちが驚いたように顔を見合わせて、それからぐったりと壁に凭れている光太郎を食い入るように見詰めた。拒絶も出来ないまま無理矢理身体を開かされて、抵抗する小さな器官に捻じ込まれるようにして犯された身体は未だに悲鳴を上げているのだろう。辛そうに溜め息をついた光太郎は、汚水の溜まる床を見詰めていた。

「血を血で洗うのは駄目だ…とか、そんなことじゃなくてね。これは…はぁ、俺のエゴなんだと思う」

『?』

「シューに、危険なことはして欲しくないんだよ。本当は、こんな、無意味な争いなんかなくなればいいって…思ってたりするから。バッシュたちにしてみたら…とんでもないって思うかもしれないけど」

 言っている意味が判らないというように蜥蜴の顔をしたバッシュは、傍らにいる犬面をした魔物と顔を見合わせた。だが、その犬面の魔物も理解できなかったのか、困惑したように首を左右に振っている。
 その気配を感じた光太郎は、魔物たちが困惑しても仕方がないと思って小さく自嘲的に笑った。

(判りっこないよ…俺も、犯されて初めて気づいたんだ)

 心の中で呟いた独白は、熱に浮かされたようにボーっとする頭の中にエコーがかったように響いた。

(俺は…シューのことが好きだ。だから、あの人に会うまでは絶対死ねないって…本当はずっと考えていた)

 そんなに自分はいいヤツじゃないと、無条件で信頼を寄せてくれる魔物たちの気持ちを思って唇を噛み締める。
 シューに、ただ、あの獅子の頭部を持つあの魔物に、会いたいのだ。
 誰かの為に命を張るなどと言う正義感だとかそんな大義名分の為じゃない、ただ、自分の心に素直に従っているだけの、我侭でしかない。その思いを、勘違いして素直に信頼してくれる魔物たちの気持ちに、光太郎の心は酷く痛んで申し訳なくて眉を寄せてしまう。
 ただ、シューが好き…
 その思いは、いつだったか、この世界に導かれて間もない頃、初めてシューと出逢っ時からきっと感じていた気持ちだった。
 危険なことをして欲しくない、と望みながらその半面で、早く助けに来て欲しいと思う。
 そうして、我武者羅にその胸に飛び込みたいとすら思っているのだ。
 そのくせ、この醜く汚されてしまった身体を見られたくないとも思う…人間の持つ、底知れない欲と言うものは計り知れず、気付けばいつも我が身に最適な道を選んでいる。
 ともすれば魔物たちの信念こそ、もしかすると純粋で一途なのかもしれない。

(俺は…俺は醜いよ。こうしてる間にも、頭の中はシューのことでいっぱいだし。逢いたいって思ってる…)

 いったい、何人の男に抱かれたのかすら覚えていない穢された身体を、少しでも動けば激痛が走ると言うのに、光太郎はのろのろと腕を上げて抱き締めるようにして瞼を閉じた。
 魔の国の夜明けは暗く、同時に彼らは眠りにつく。
 シューの部屋は魔将軍だと言うのに狭く、それはもともと彼の性格が広さを疎む傾向があったせいで、だがそれを知らない光太郎は初めての夜を一緒のベッドで過ごすことにドキドキしていたことを思い出したのだ。
 普段は眠りが浅いのか、シューは光太郎が動けばすぐにうっすらと瞼を開いて煩そうに丸い耳を振って牙を剥いていた。狭いベッドで気付かないように動けと言うシューの方がどうかしているのだが、それでも光太郎はクスクス笑いながら、仏頂面で背中を向けてしまった獅子面の魔物に抱きついて初めての夜を過ごしたものだ。

(シューに会いたいよ…)

 ポツリと、呟くように漏れた思考に、光太郎は自嘲的な笑みを浮かべた。
 ごく自然に逢いたいと思えるなんて…それはきっと、魔の国があまりに平和で幸せだったから。
 だが恐らく、多くの魔物たちが無条件で受け入れてくれたからこそ、その『幸せ』を手に入れることが出来たのだろう。
 あのシューでさえ、仕方なさそうな困ったような、あの複雑そうな表情を浮かべながらも受け入れてくれたのだから…

「逢いたい逢いたいばっか言ってて何もしないんだ。俺だって頑張らないとッ」

 呟いた言葉に気付いたバッシュたちが、唐突に黙り込んでしまった光太郎の調子が悪いのかと、ハラハラしていただけに少しホッとしたような吐息を零していた。
 その気配に気付いて、光太郎は閉じていた瞼を開いて暗闇の中で微かに何かが動いている場所に目線を向けた。
 犯されたことに絶望して独りの殻に閉じ篭っている光太郎を心配しながら恐らく、一睡もしていないだろう魔物たちに気付いたのだ。
 傷付き疲れているのは自分だけではないのに…魔物たちは、戦場から捕まってきたのだから、恐らく生死の境を彷徨っていた者たちだって少なくはないはずだ。なのに、光太郎は自分ばかりが酷い目に遭って一番可哀相なんだとか思い込んで、くよくよしていたことが恥ずかしくなっていた。
 ふと、握り締めていた掌を開いたらポロポロになってしまったパン屑が零れ落ちた。
 一体どれぐらい気を失っていたのか判らないけれど、パン屑の数が1日以上を物語っていた。その間、この優しい魔物たちは一睡もせずに、自分たちが食べることもせずにパンを千切っては投げ、投げてはまた千切っていたんだろう。その地道な行為に、そのぬくもりに、光太郎はますます自分が情けなくなって居た堪れない気持ちになってしまった。
 だが、それすらも凌駕するほど、この冷たくて寒々しい牢獄の中でたった独りぼっちのはずなのに、格子を挟んだ向こうにいる仲間の優しさが愛しかった。
 今はまだ、すぐに復活するには心が状況に追いついていないから無理かもしれないが、それでも確りしなくてはと光太郎は唇を噛み締めた。
 何が危険なことをして欲しくないだ。
 いつだって、危険は当たり前のように転がっているのだから、それに蹴躓かせるのも回避するのも自分次第ではないか。

「バッシュ!やっぱ、一矢報いなきゃ気が済まないね!…ッッ、俺、頑張って復活して、こんな目に遭わせた連中を片っ端から殴ってやるッ」

 そこまで言うのにたとえ数十分掛かっていたとしても、バッシュを筆頭にした魔物たちは顔を見合わせて、次いでホッとしたようにニヤッと笑うと鉄格子に噛り付いた。

『そうこなくっちゃな!』

『殴るんじゃねーぞ。ぶん殴れ!』

『殴るどころか同じ目に遭わせてやろーぜ!』

 口々に同意する仲間に、光太郎は痛む身体に呻きながらも、嬉しそうに笑っていた。

「同じ目に遭わせるのはちょっと…キモイよ」

『任せろ!俺たちならだいじょーぶ』

『グハッ!俺はヤだぞッ』

『文句言うな、楽しもうじゃねーか♪』

 悪乗りした連中がニヤニヤ声で言い合うのを聞いて、光太郎はクスクスと笑った。
 身体は果てしなく痛むし、汚されてしまった事実を思えば滅入ってしまいがちになるがそれでも、この仲間といればどうしてか、何もかもが上手く行きそうな気がしてきて仕方がないのだ。

『…その、光太郎。本当に大丈夫か?』

 不意に蜥蜴の親分のようなバッシュが鉄格子を掴んだままで低く問い掛けてくる。
 その背後で魔物たちも、心配そうに身じろいでいるようだ。

「うん…まだちょっと身体は辛いけど。大丈夫だよ」

 そうかと呟いたバッシュは、それから思い詰めたように俯いた。

『俺が…俺がいたのに、ごめんな』

「ええ?何を言ってるんだよ、バッシュ!ここに君たちがいてくれてるから、俺は頑張れるんだ。その…君たちこそ大丈夫?」

 えへへと笑った後、少し不安そうに問い掛ける光太郎に魔物たちは安心させるように『大丈夫に決まっている』と優しい嘘を吐いた。「そう」と呟いてホッとする、容易く騙されてしまう光太郎のお人好しさに魔物たちは、やっぱり光太郎を好きだとじんわり思っていた。人間など考えるにも値しない存在だったはずなのに…
 ふと、感情を読み取ることの出来ない表情をして、バッシュは鉄格子を掴む掌に力を込めた。

『今度こそ、俺が守るから。お前を死なせたりはしないから』

「バッシュ…」

 光太郎は、その痛みを、まるで自分のことのように受け止めて光太郎を慮ってくれるバッシュの、そしてその背後で同じように頷いている魔物たちの気配を感じて泣きたくなるほど嬉しく思っていた。
 ああ、そうだ。
 大丈夫、自分にはこの『仲間』がいるじゃないか。
 シューのことしか、いや、自分自身のことしか考えてもいないこんな身勝手な人間を、家族のように慕って愛してくれている『仲間』がいたのに…そして、その仲間たちは無情な仕打ちで傷付いてしまっていると言うのに、何もしなくていいなんてどの口が言ったんだと光太郎は自身の吐き出してしまった言葉を恨めしく思っていた。
 だが、そんな言葉よりも光太郎の身体を心配してくれていた魔物の存在に、光太郎は自らの思いを悔い改めて決意したのだ。

「…バッシュ、それからみんな。本当にありがとう」

 彼らといれば何もかもが上手く行くような気がする…そんな思いを、どうか魔物たちも感じてくれていたらいいのに…そんな存在になれたらいいのに。

『なんだよ、改まって。俺たちの方こそお前に助けられたんだぜ?礼を言うのは俺たちのほうだ。ありがとう、光太郎』

『そうだぜ、光太郎』

 頷き合う魔物たちの礼を言う声を聞いて、光太郎はクスクスと笑った。

「じゃあ、みんな一緒だね」

 きっと、思っていることも一緒だ。

『そんなこと、当たり前だろ?』

『ヘンな奴だなー、光太郎』

「…そうだね」

 光太郎は傷付いて疲れ果てているに違いない魔物たちが、それでも陽気に笑っている声を聞いて自分も頑張らねばと思った。ただ、ただ嬉しくて…そうして光太郎も笑うのだ。
 恐らく、ふと光太郎は心のどこかで感じていた。
 恐らく、これが『仲間』と言うものなのだろうと…

Ψ

 沈黙の主は頭巾を目深に被ってその表情を隠していたが、居並ぶ彼の家臣たちは渋面で立ち尽くす主人に注視していた。

「なるほど。北の砦は落ちたか…恐らく、シューだろうな?」

「ハッ」

 傍らに跪くようにして控えていた騎士が呼応すると、主はふと、口許に小さな笑みを浮かべて小首を傾げて見せた。
 どうやら端から見当はつけていたのか、然程驚いた様子も、困惑した気配すらも漂わせない。だからこそ、居並ぶ彼の家臣たちの疲れた心に不安の翳りを落とすのだが…彼はそれすらもどうでもいいことのように気に留めた様子はない。

「まあ、よかろう。あれもそれほど抜けた男ではないからな。早々に居城に引き揚げたんじゃないのか?」

 的を得た主の言葉に、控えている、彼の影のようにつき従う忠実な部下は言葉もなく項垂れてしまった。引き留めておくにはあまりにも強大な存在は、やはり必死で張り巡らせた包囲網を易々と突き破って引き返してしまった。

「いずれにせよ、時間は稼げたと言うワケだ。無駄なイタチごっこに過ぎないんだがな、こうでもしなければ奴らの勢いを止めることも侭ならん。我らにも体勢を持ち直す時間は必要だ」

 尤もな主の言葉に、家臣たちは言葉もなく目線を落とした。
 今は、攻め入るほどの力もない。
 悔しいことに、ラスタラン軍は先の戦で壊滅的とまでは言わないまでも、大きなダメージを食らっていたのだ。
 恐らく、沈黙の主の目論見が通るならば、彼の策略を凌駕するような策士が現れなければ、暫くはこのまま睨めっこ状態が続くだろう。彼の企みは、その間に傷付いた兵士たちや疲弊して戦えない者、国を守る女子供、年老いた者たちの休息をとることだったのだ。
 漆黒の外套と頭巾で全てを覆って隠してしまっている彼らの主は、だが、居並ぶ家臣の面々が疲弊して項垂れてしまっていると言うのに、まるで疲れを知らないとでも言うかのように威風堂々たる佇まいは少しの乱れも見せていない。
 それが家臣の、そしてこの国で生きる全ての民たちに勇気や希望と言ったものを与え続けていた。この曇天に覆われてしまい、すでに太陽すらも姿を隠してしまった暗黒の世界に光があるのだとしたらそれは、沈黙の主を除いては他にいないだろうと脇に控えた忠実な部下はソッと顔を上げて主の顔を盗み見た。
 真っ直ぐに見つめるのは、何れその手に取り戻すはずの彼の故郷だろうか…
 ふと、跪いた彼がそんなことを考えていた時だった、重厚な天蓋を軽く押し開くようにして入ってきた伝令が、バルコニーから外を眺めている主に跪きながら口を開いたのだ。

「畏れながら、主!第二の砦より取り急ぎの報告でございます」

「…なんだ?」

 振り返ることもなく呟くように漏れた声音に畏まった伝令は、片膝をつくと「ハハッ」と頭を垂れてセスから預かってきた内容を報告した。

「セス隊長が風変わりな人間を捕らえましてございます」

「風変わりな人間だと?」

 ふと、目深に被った漆黒の頭巾を微かに揺らして、沈黙の主は肩越しにチラリと振り返った。
 さほど興味を示しているわけではないのだろうが、報告にしてはあまりに素っ頓狂で馬鹿馬鹿しい、それこそ風変わりな台詞に眉を顰めたのだ。

「どう言うことだ」

 軽く溜め息を吐きながら外に視線を戻した沈黙の主は、腕を組んで首を微かに左右に振った。
 また、新たな厄介ごとでなければいいんだがな…得てして沈黙の主の懸念が的中するかどうかは風のみぞ知るところだが、こめかみに痛みを覚えたラスタランの王はそっと眉間に皺を寄せて伝令の言葉を待った。

「ハッ…魔族と共にある者だと」

「魔族だと?フンッ、馬鹿なことを」

 この世界に生きる全ての人間が憎む魔物と、共に生きる人間など存在するわけがない。
 沈黙の主が何を馬鹿なと鼻先で笑ったとしても、この世界で生きる者全てが同じ行動を起こしていたに違いない。ラスタランの王が取った行動は、それだけ自然でなんらおかしなことなど何もなかった。
 そう、敢えて言うならば、困惑した面持ちで報告を述べている伝令こそ、自分で言っておきながら信じられないと言った表情をしているぐらい、彼の方がどうかしているのだ。
 この世界では。

「いいえ、主!その者は確かに魔族と共にありました。信じられないことに、魔物どもを庇う一面すらありました」

 この目で確かに見ているはずなのに、伝令の兵士は自らが口にした言葉を考えあぐねて困惑し、戸惑ったように視線を石造りの床に落としてしまった。

「…畏れながら。捨て置くにはどうかと」

 ふと、傍らで控えていた騎士が低いが、よく通る声音で控えめに進言すると、そんな彼をチラリと見下ろした沈黙の主は、暫く何事かを考えているようだったが、それでもまだ信じ難そうに首を左右に振りながら吐き捨てるように言ったのだ。

「…ふん。ならばこの俺が、その風変わりな人間とやらをこの目で見てやろうではないか」

「主!」

 脇に控えていた謙虚な騎士がハッとしたように顔を上げるが、こうと決めてしまうと頑として意思を変えない主の性格を誰よりも知っているせいで、眉をソッと顰めて頭巾の奥で見え隠れするいっそ凶悪なほど強い光を放つ双眸を盗み見た。
 後方で主の一挙一動をハラハラしたように見守る重臣たちの視線にも、どこ吹く風の沈黙の主は腕を組んだままでバルコニーから見渡せる暗い暗い、曇天に覆われてしまった本来ならば緑成す大地を睨み据えている。

「第二の砦にいると言ったな…今夜発つぞ」

「いけませんッ」

 いつもなら頭を垂れる忠実な彼の部下は、片膝をついた姿勢のままで悠然と立っている王を見上げていた。気に食わねば斬り捨てるだけの激情を持つ沈黙の主はそんな騎士をチラリと見下ろして、漆黒の頭巾の奥の凶悪な双眸を一瞬ギラッと光らせてから、まるで獰猛な肉食獣が獲物に襲い掛かるその一瞬、気配を潜めた時のようにうっそりと口許に笑みを浮かべるのだ。

「何が悪い?魔物どもに媚び諂うような人間がいるということは、何れ我らの士気にも何らかの形で関わってくるだろう。災いの種は芽吹く前に一掃せねばなるまい。今のこの時だ、いや、だからこそなのかもしれん。今夜発つ」

 腕を解いた沈黙の主は腰に手を当てると、いっそ堂々と宣言でもするかのように言い放った。
 愚かではない主のこと、何か考えがあるに違いないのだろうが…それでも、影のように寄り添ってきた騎士は頭から顔をスッポリと覆っている鉄兜に隠れた眉をソッと寄せている。

「主…」

「あらゆるえぐい手を使って我らを追い詰めてきたように、今度は俺たちから追い詰められる気分はどんなものだろうな?苦渋を舐めるだろうその顔を拝むことができないのは残念だが、さて魔王よ。今度はどんな手でくるんだ?」

 いっそ、楽しんでいるようにも見える沈黙の主は、頭巾で隠れてはいるがその口許を笑みに歪めながら眼下の荒涼たる領土を見下ろしている。

「主、しかし…」

 控えめな口調ではあるが憤然と主の強行を止めようとする騎士の言葉に、沈黙の主は咽喉の奥でくくく…っと笑うのだ。そうして、騎士からしか見えない頭巾の奥の双眸がチカリと瞬いて、控える家臣を目線だけで見下ろした。
 この時でも重鎮と呼ばれている面々は成す術もなく、年若い王の言動をハラハラしたように見守っている。

「要は物の考えようさ。魔物に懐いた人間と言うのも興味深いが、それを受け入れている魔物の行動も大いに興味深い…そうは思わないか?」

 指先で軽く頭を突くような仕種をする沈黙の主の言葉に、僅かに眉を寄せる騎士を除いては、居並ぶ面々がハッとしたように居住まいを正した。
 彼らが崇拝する王が何を言わんとしているのか、その時になって漸く気付いた一同は、畏れ多いとばかりに一斉に頭を垂れるのだ。

「なるほど、仰る通りでございます」

「いや、さすがは主」

「感服致しまする」

 感服されても困るんだがなぁ…と言外に言いたそうな表情を頭巾に隠して、やれやれと肩越しに後方を盗み見る沈黙の主は、控えたままで真摯に彼を見上げている対の双眸に気付いて肩を竦めた。

「まだ、何か言いたいことでもあるのか。ユリウス」

 溜め息すら零れそうな主の顔を見上げたまま、ユリウスと呼ばれた騎士は形こそ畏れ多いと恐縮したものの、意志の強い双眸はけして逸らさない。

「とんでもございません、主よ。しかしながら、貴方様が第二の砦に赴かれることもありますまい。僭越ながら、私めが向かいたく存じます」

「それはダメだね」

 まるで我が侭な子供が駄々を捏ねるような物言いで、ニヤッと笑う主を見上げて騎士ユリウスは一瞬困惑したように眉を顰めた。

「魔王の手に因る者ならば、どんなことをしてでも俺が見なくては意味がない…判らない、お前じゃないだろう」

「…」

 騎士は一瞬言葉を失くしたが、それでも主の安否を気遣う表情を鉄仮面の奥にひっそりと隠したままで、噛み締めるようにして進言するのだ。

「…判りました、主。ですかどうか、私もお供致しますぞ」

 それだけは譲れないと、主を気遣う忠実な家臣を見下ろして、沈黙の主はやれやれと溜め息をついた。

「お前の頑固さには敵わない。好きにするといい」

 あっさりと降参する主の態度に、後方に控えていた老齢な家臣たちが密やかに笑った。
 この戦乱の火蓋が切って落とされたあの日から、主に付き従う甲冑の騎士ユリウスの主を、ひいては国を思う意志の強さは誰も敵わないのだ。その意思は岩よりもダイアモンドよりも固く、時に頑なな沈黙の主ですら閉口するほどだった。
 問題は、的を得ているだけに誰も反論できないのだ。こと、国と主のことになると頑固で仕方がない。誰もがそんな彼のことを知っているから、好ましい思いで主とその忠実な家臣を見守っている。
 魔天に煌く星すらもない空に、時折雷鳴が響き渡る。
 世界がゆっくりと、数多の思惑を乗せて動いていた。

Ψ

「ふ…ッ…くぅ」
 松明の明かりが揺れる地下牢で、どこか押し殺したような切なげな溜め息が零れている。
 たとえ闇の中にあってもその艶姿は全てを見通してしまう魔物の目には明らかで、だからこそ声を洩らしている人物は頬を染めながらハラハラと涙を零してしまう。
 どうか見ないで欲しい…声にならない願いを、彼を家族のように大切に思っている魔物たちは心が張り裂けてしまうほど良く判っていたから、耳を押さえて蹲っている。
 そうでもしないと、なぜか力の出ない自分たちでは助けてやることも出来ないし、ましてや騒いでしまえば彼をさらに痛めつける結果になってしまうだろうから。
 唇を噛み締めて瞼を閉じているしかない。
 こんな最大限の屈辱を、未だ嘗て味わったことのない魔物たちは唇を噛み締めている。
 悔しい、腹の底から悔しいと思いながら…

「うぅ~…ッ、…ぁ、…ひぃ」

 微かな悲鳴が上がって、貪欲に貪る男の欲望で内部を掻き回された光太郎はクラクラと眩暈がしていた。もう、何度目になるだろう…
 夜毎訪れる男の人数は最初の時に比べて頻度も回数も多くなっていたが、一度に相手をする人数は少なくなっていた。その理由が、思った以上に具合の好い捕虜を早々に壊してしまいたくないと言う兵士たちの身勝手な願望で、クジ引きで順番を決めている…なんてことを、光太郎や囚われの魔物たちが知るはずもない。
 大きくグラインドする腰の動きにまだまだ追いつけないでいる光太郎は、自分を追い詰めて、奈落の底に叩き落す相手であるはずの兵士の背中に細い腕を回してしがみ付きながら、懸命にその荒いうねりを遣り過ごそうと歯を食い縛っている。
 滾る欲望で柔らかな内壁をごりごりと擦り上げられると、咽び泣くような微かな悲鳴が口許から零れ落ちる。その声が、どれほど兵士の欲望に火を点けて、限界まで煽っているか気付けるほど光太郎に余裕はない。

「ッ!…ぁあ、…も、やだ、…や!…ヒッ」

 鍛えられた身体に包まれるようにして抱きすくめられたまま、片足の膝の裏を掴まれてあられもない姿で抱かれている光太郎は、結合部から時折響く湿った粘着質の音に目元を染めて、生理的な涙が頬を伝っていた。
 松明の明かりで壁に踊る二匹の獣の影は、牢屋の隅で縮こまっている魔物たちと、こうして日毎夜毎性交に耽る人間たちと、一体どちらが魔に属するものなのか判らなくしていた。
 ドロドロに溶け出す脳味噌ではもう、羞恥心すら見失ってしまいそうな光太郎は、影が躍る岩肌を震える瞼を押し広げて見詰めながら、快楽に押し流されまいと懸命に考えていた。

「っあ!…ん…やぁ」

 意識せずに締め付けてはやわやわと蠕動する内部の刺激に、兵士は昂ぶった欲望の先端でぐりぐりと前立腺が隠れている部分を乱暴に擦りあげる。そのダイレクトな刺激に一瞬脳裏がスパークするような錯覚を覚えて、まるで溺れている人が藁にも縋るような思いで光太郎は湿った音を響かせて腰を打ち付けてくる兵士の背中に回した腕に力を込めた。
 甘えたような切ない溜め息に似た声を洩らすと、求められていると勘違いした兵士たちは、いつもそうすることですぐに欲望を吐き出してくれた。
 そうすると、思ったよりも早く終わってくれて、長い夜に終止符を打つことが出来るのだ。
 顔すらも知らない今日の兵士もそうだったのか、一瞬ギュッと華奢な光太郎の背中に回した腕に力を込めて自分の身体に押し付けるようにして抱き締めた後、唐突に石造りの床に乱暴に押し倒してぐぷっ…と粘着質な音を立てて淫らに蠢く内壁の名残りを惜しみながら欲望を引き抜くと、未だ達することもできずにひくんっと震える小さな陰茎に凶悪な鈴口から滾る白濁を叩き付けるのだ。

「…ッ」

「ひぁ!…やだぁ!…んくッ…ん…ふ」

 強かに熱い、青臭い白濁に下半身を汚されて、その熱に怯えたように震える光太郎の下腹部も熱の衝動で反射的にびしゃっと白濁を吐き出してしまった。震える先端に、それでもまだ軽く扱いて最後の残滓までも搾り出そうとしているような兵士の、その陰茎からは粘る精液がボタボタと零れて穢していく。もう、どちらのものか判らない白濁に腹を濡らしたまま、光太郎は弛緩した足を抱え上げられたままの格好で荒く息を吐いている。

(嫌だ嫌だ嫌だ!…いつか、きっといつか殴るんだ!)

 頬を朱に染めて涙を零す光太郎の表情に、また激しい劣情に襲われた兵士は堪らないとばかりに乱暴に光太郎の顎を引っ掴むと、強制的に施された快楽の余韻に震えるその唇に噛み付くような口付けをする。
 嫌だと厭う光太郎の必死の抵抗も、戦場を駆け抜けて鍛えられている男には蚊が止まったほどでもないのか、肉厚の舌でむりやり歯列を割り開くと、奥で怯えている舌に乱暴に絡めるようにして深い口付けを施されて、光太郎は目尻から生理的なものではない涙を零して眉を寄せた。

(嫌なのに…せめてキスはして欲しくないのに)

 そんなこと、どんなに願っても叶わないことは知っているけれど…
 酒臭さとタバコの匂いがして吐き出したい衝動に駆られるのに、熱を放ってもまだ衰えない劣情を持て余す欲望が腿に触れてしまうと、身体をブルッと震わせて瞼を閉じるしかない。
 毎夜、乱暴に抉じ開けられる小さな器官は悲鳴を上げて、口付けられながら怯える光太郎の蕾は掻き回されて腹の中で温まって泡立つ残滓をこぷっ…とだらしなく零していた。が、よく見るとその残滓には赤いものが混じっている。
 無骨な男たちは光太郎を同じ人間だとは思ってもいないのか、満足な前戯すらもせずに、きつい双眸で睨みつけてくる、そのくせ怯えているに違いない彼を組み敷いて潤いの少ない蕾に捻じ込むのだ。
 悲鳴が咽喉で引っかかって苦しそうに喘ぐ姿にすら興奮を覚えるのか、下卑た笑みを浮かべて腰を振る兵士を、対面する牢屋の鉄格子を掴んで唯一目を背けない魔物が1人、食い入るように眼に焼き付けていた。
 ギリギリと奥歯が軋む音がして、鋭い爪がブツリと自らの皮膚を突き破ろうとも、魔物は目を逸らさずに惨劇を見守っている。

「くッ…っとに、好い顔をするよなぁ、お前。最初に見たときから、お前はイケると思ってたんだ」

 声音がニヤニヤと笑っていて、ぐちゅぐちゅと口腔内を犯していた舌を引き抜くとペロリと唇を舐めて囁くように言う兵士を、唇を唾液で濡らしたままの光太郎が眉を寄せて軽く睨むと、その艶っぽい表情に兵士はまた悦んだ。
 自分の何が男たちを悦ばせているのか判らない光太郎は、悔しくて奥歯を噛み締めてしまう。

「ここも随分と開発されたよなぁ…最初の頃はひぃひぃ言うばかりで、少しも好くなかったけどよ。今じゃこう、しっとりと絡み付いてきて…う、思い出しただけでイキそうだぜ」

「…ッ!も、終わったんだから戻れよッ」

 抵抗できるほど体力の残っていない光太郎は、せめても反撃するつもりで睨みながら言い放った。
 片足を抱え上げられたままの無様な姿で、悪戯でもするように指先で残滓を零す蕾をくちゅっと弄ばれている現状ではその凄味も凄味にはならないのだが…それでも必死の光太郎を、たった今まで散々嬲っていた兵士は可愛いヤツだと思っているようだった。
「何を言ってやがる。お前は俺たちの可愛い男娼ちゃんなんだからな、俺たちがいいって言うまでは大人しくしてないと…なぁ?」
 何らかの意思を込めてぐちゅ…と蕾に指先を減り込ませて笑う兵士の唇が耳元に寄せられると、頬を朱に染めた光太郎は嫌そうに瞼を閉じながら唇を噛み締めた。

「わ…かってるよ!だから、反抗なんかしないじゃないか」

 投げ捨てるように呟く少年の顔を盗み見ながら、北叟笑む兵士はベロリとその耳を舐め上げた。

「…ッ」

「判ってねーなぁ。お前がそんな風に反抗的な態度を取るんだったら、手始めにあそこで睨んでる魔物でも殺っちまうか?」

「やめろよ!」

 ハハハッと声を上げて笑う兵士を、組み敷かれたままでも慌てて留めようとする光太郎の顎を掴んで、男はその翳りを秘めない真っ直ぐな双眸を覗き込んでいた。
 散々慰み者にしたはずの少年の双眸から、生気が消えることはない。
 もう、何人もセスに犯された男娼たちを見てきたが、光太郎ほど我を忘れていないのはいっそ賞賛すらしたいほど天晴れだと思っていたのだ。
 ここに送り込まれてくる者然り、戦場に従軍する者も然り、男娼と呼ばれる少年たちは、何も最初からその職に就いていたわけではない。沈黙の主が見立てた少年たちが、何の訓練も受けぬまま【男娼】として送り込まれてくるのだから…逃亡しようとした者や、自ら命を絶った者も少なくはない。
 どの少年を見ても、一様に瞳に生気がなく、ただ生きた人形のようだと兵士は密かに思っていた。
 今、セスが寵愛する男娼は別として、の話だが。

「その目付き、忘れるんじゃねーぞ」

「?」

 覆い被さるようにして覗き込んでくる兵士の顔を、光太郎は訝しそうに眉を寄せたまま怪訝そうに見上げている。
 確かに、初めはただの人間の少年としてしか見ていなかった。
 だが、皆で輪姦したあの日、どうせセスからは死なない程度なら何をしてもいいと捕虜にはお許しが出ていたのだから、きっともう廃人になるだろうと高を括っていた。
 なのに、数日寝込んでいただけで、体力を取り戻した少年は少しも怯むことなく自分を睨みつけてきた。
 抱かれている間も嫌そうにしてはいるが、【仲間を殺すぞ】のキーワードが彼を雁字搦めにしているせいか、少年はあからさまに嫌そうな顔をしてはいるが逃げ出すようなことも、精神を手放すようなこともしていない。
 それが、兵士には不思議で仕方なかった。

「お前は…」

「??」

 顎を掴んでいた手を頬に滑らせて、兵士が何かを言いかけるのを光太郎が不思議そうに小首を傾げるのと、対面の鉄格子を握り締めて怒りに震えていた魔物、バッシュがハッとするのはほぼ同時だった。
 そう、湿って陰気な地下牢に重い軍靴の音を響かせながら姿を現した大男が、鉄格子に軽く凭れながら気のない様子で全裸で抱き合っている2人を見下ろしたのだ。

「せ、セス隊長!このようなところにお出ましとは…」

 光太郎を抱き締めていた男がギクッとして慌てたように身体を起こすと、さっと跪くようにして控えた。
 その展開に追いつけない光太郎も、何やら只ならぬ雰囲気に、とばっちりを食らうのも面白くないと思いながらノロノロと身体を起こして大男を見上げた。

「あ!」

 松明が浮かび上がらせている男の顔を見た瞬間、光太郎は声を上げて、それからハッとしたように慌てて口を噤んだ。
 そう、その顔は忘れもしない、光太郎とティターニアを捕縛した張本人だったのだ。

「よう」

 控えた兵士に言ったのでは勿論ないのだろう、セスは冷めた双眸をして全裸で蹲るようにして身体を起こしている光太郎を見下ろして肩を上げて見せた。

「コイツを男娼にしたんだってなぁ…砦中の噂が、四方や俺の耳に届かない、などとまさか思ってたんじゃねーだろうな?」

 ああ?とでも言うように胡乱な目付きでニヤッと笑うセスに睨まれて、光太郎の前であれほど不遜な態度を取っていた兵士は見る影もないほど怯え、恐縮したように縮こまっている。
 その態度で、セスの実力が外見と相応しているのだろうと、対面の牢屋の中から様子を窺っているバッシュはひっそりと観察していた。

「は、ハハッ!申し訳ありません、これは…」

「別に男娼にするのはいいんだぜ。だが、お前たちも相当行き詰ってたんだなぁ。こんな魔族と仲良しこよしのゲテモノを抱くんだ。なんだ、抱き心地でもいいのか?」

「いえ、セス隊長には物足りないかもしれませんが…」

 ふと、腕を組んで鉄格子に凭れている隊長を見上げた兵士の僅かに反発するような意味を含んだ言葉に、セスの片眉がピクリと震えた。それを見逃さなかった兵士はしまった!と思ったが、既に後の祭りだ。今夜は処罰があるんだろうと震え上がる気持ちを叱咤しながら項垂れてしまった。
 と。

「ゲテモノとか言うなよな!俺や魔物たちを捕虜にしたくせに、こんな扱いしかできないお前の方がゲテモノじゃないか!」

 もちろん、抱かれた名残りを漂わせている光太郎が腹立たしそうに言ったのだが、思わず兵士と対面の牢屋にいるバッシュは吐きそうになっていた。
 兵士がこれほど怯えているのだ、ましてや目の前の人物こそ、最初の日に散々拷問した相手ではないか。

(光太郎!どうかしてるぞッ)

 心の中の悲鳴のような呟きを、まさかセスへ届いたと言うわけでもないだろうが、人間の隊長は組んでいた腕をゆっくりと解いて格子を掴むと、へたり込んだまま見上げてくる少年をマジマジと睨みつけた。その目付きに微かに怯みはしたものの、それでも光太郎は殴られてもいいからと、溜まっている鬱憤にムカムカしたようにセスを見上げている。

「…へぇ、お前面白いな。男娼扱いされてるっつーのに、凹んでねーな?」

「はぁ?そりゃあ、男としてはムカツクけど。仲間の命を考えたら、こんなの屁!でもないねッ」

 つーんと外方向く光太郎の言葉に兵士は驚き、そして鉄格子の向こうにいる魔物たちは感動したように双眸をウルウルさせている。

「く、くっくっく…そーか、屁でもねーのか。捕まえたときはムシャクシャしてたが、落ち着いてみればお前、なかなか見られるじゃねーか。魔物どもと馴れ合うのなんざ冗談なんだろ?まあ、笑えねージョークだがな」

「うっさいなー!男を相手にヘンなこと考えてるような連中に比べたら魔物たちの方がいいに決まってる」

 少なからずは凹んでいるのだが、それでも表に出さずにフンッと意地を張る光太郎をマジマジと眺めていたセスは何事かを考えているようだったが、その鋭い双眸がチカッと瞬いて、それに逸早く気付いた兵士が拙いと顔色を曇らせた。
 セスの双眸がチカリと瞬くとき、大概、対峙した者にとって非常に良くないことが起こる。

「お前たちなんかより100万倍マシだよ!悔しかったら捕虜たちにちゃんとしたご飯や綺麗なシーツぐらいくれたらどうだッ」

 ゆっくりとした足取りで牢獄の中に入ってきた威圧感のある男を睨み上げながら、光太郎は口をへの字に曲げて言い募った。

(シューに比べたらこんなヤツ、どうってことないや)

「なんだと?」

「聞こえなかったのか?シーツとかちゃんとしたご飯を寄越せって言ったんだよ」

「魔物にか?笑わせるな」

 冷酷な声音で言い放ったセスは、まるで無造作に腰に下げていた剣の柄を握って抜刀すると、松明の明かりを受けて凶悪なほどギラつく刃に一瞬怯む光太郎を見下ろして、まるで楽しそうに残酷そうに笑ったのだ。

(ヤバイ)

 光太郎を除いた誰もがそう思った時だった。
 セスが問答無用で斬り捨てようとしたその時、不意に対面の鉄格子をガシャンガシャン揺らしてバッシュが叫んでいた。

『おい!セス隊長とやら!!その剣を納めろッ』

 その声音に、不意に兇悪な思いに囚われていたセスの双眸に生気が戻り、ふと対面の牢屋に放り込まれている魔物を目にして呆気に取られたような顔をした。次いで、何が可笑しいのか咽喉の奥で笑いながら松明を引っ掴むと、激しく炎を揺らして対面する牢屋内を照らしたのだ。

「どこのどいつかと思いきや、これはこれは…まさか魔軍の大隊長さまだとはね。お噂はかねがね聞いてるぜ」 

『そいつはどーも。あんたの噂も聞いてるよ。まあ、そんなこたどうでもいい。光太郎には手を出すな』

 光太郎はキョトンッとしてニヤッと笑う蜥蜴の親玉のようなバッシュと、ガッシリした体躯の持ち主であるセスを交互に見比べて首を傾げていた。
 知り合いなんだろうかと、未だ自らの危機を何とか脱せたと言うことにまるで気付いていない光太郎が首を傾げる横で、セスは片方の眉を器用に上げて肩を竦めて見せるのだ。

「大隊長さまともあろう者がこうも簡単に捕虜になるとはな…で、そのお前が人間を庇っているのか?いつから人間に尾を振るようになったんだ??」

 クックックッと馬鹿にしたように笑うセスに、後方で事の成り行きを見守っていた魔物たちが腹立たしそうに吼えるのを、大隊長と言う地位にあるバッシュが軽く制すると、彼は人間の隊長を睨みつけながらニヤッと笑ったのだ。

『…その人は特別な人だ。種族なんざ関係ない』

「特別だと?」

 俄かに興味を示したのか、キョトンッとして座り込んでいる光太郎を無視したところで、セスとバッシュの目に見えない攻防戦が繰り広げられている。ともすれば火花だって見えたかもしれないが。

『そうだ、とても特別な人だ。殺せば必ず後悔するぞ』

 なんとでも言えというように飄々としているバッシュはしかし、縛られた両手で鉄格子を掴みながらセスに向かってニヤッと笑ったのだ。

「後悔だと?ふん、魔物らしい小賢しい台詞じゃねーか。じゃあ、殺してみるか」

 剣の腹で肩を叩いていたセスは、小馬鹿にしたようにそんなことを言って、それから牢獄の方を振り返った。情事の名残りが色濃い少年は、確かにともすればハッとするほど色香を漂わせてはいるが、それも一瞬のことで、どこにでもいる少年でしかない。
 ただ、窮地に陥って尚、その双眸の色を失わない豪胆さは確かに何かありそうで…

「…いや、待てよ」

「?」

 誰にともなく呟いた台詞に光太郎が小首を傾げるが、そんな小動物のような仕種に冷酷で残虐を好むセスの中の何かが引っ掛かった。殺すのも面白いかもしれない…いやだが。

「魔軍の誇る大隊長が捕虜になるだと?全く信じられんな」

 その台詞に、どうやら自らの思惑がセスの中で芽吹いたことを知って、バッシュはニヤリと嗤った。その心情は吹き荒れるブリザードがやっと経過していった後のような安堵感で、心底ホッとしているのだったが勿論表には出さない。
 ポーカーフェイスの得意な蜥蜴顔は便利でいい。

「なるほど…あのごった返した戦場にあって、俺がコイツを捕らえたのを見ていたんだな。そしてわざと捕虜になったと言うわけか」

「ええ!?」

 鉄格子を掴むようにして立っている蜥蜴の大将のようなバッシュを振り返るセスの台詞に、へたり込むようにして蹲っていた光太郎が驚いたような声を上げた。
 バッシュが将軍職の下にあたる地位の持ち主だと言うことも初めて知ったのだが、光太郎が捕まったのを見てわざと捕虜になったと言う事実の方が何よりも衝撃を与えたのだ。

「そんな、バッシュ。どうして…?」

 逃げられていたのに、どうしてバッシュ?
 下半身に力の入らない光太郎が腕の力だけで、松明が照らす魔物たちの牢屋の方を向くと、そこで心配そうに立ち尽くしている蜥蜴面のバッシュを見上げた。
 見慣れた蜥蜴の親分は、ともすれば冷酷そうにも見える縦割れの瞳を持つ双眸を優しく細めるだけで何も言おうとはしない。

「バッシュ…」

『俺が守ってやるって言っただろ?光太郎は特別な人だから』

 最後は相乗効果を狙って付け加えた台詞だった。
 ただバッシュは、不安そうな困惑したような、哀しい目をした光太郎を励ましてやりたいだけだったのだが、セスはどうやらそうは取っていなかったらしい。

「なるほどなるほど。大隊長が守り、副将シンナの愛馬に乗っていた…と言うことは、どうやらお前の話は嘘ではないようだな」

「あ!」

『!』

 華奢な首に重く下がった首輪を外して、あっと言う間に光太郎は大男の肩に担ぎ上げられてしまった。不意の出来事に事態を飲み込めていない光太郎はだが、ジタバタしながらセスの髪を引っ張った。

「大人しくしやがれ!叩き落すぞッ」

「俺だけここから出すつもりなんだろ!?そんなの嫌だ!そんなことしたら…舌を噛んで死んでやる!!」

 満更嘘ではないと言いたげな光太郎の鬼気迫る言動に、セスは不機嫌そうに眉を寄せて首を左右に振った。この調子では、叩き落すと脅せばそうすればいいとでも言い返してくるんだろう。やれやれと溜め息を吐きながら、少年の無防備な尻を片手でワシッと掴んだ。

「ッ!」

 とろり…と、先ほどまで欲望を咥え込んでいた蕾が残滓を零して、光太郎の腿に伝い落ちた。
 それはとても扇情的ではあったが、そんな行為で怯むほど、今の光太郎は平静ではいられない。

「クッソー!何するんだよッ、みんなも一緒じゃないと絶対に出ないからな!叩き落すなり殺すなり、どうとでもすればいいんだ!!」

 言い出したら聞かない子供のような仕種で暴れる光太郎は、セスの髪を引っ張ったり背中を叩いたりして精一杯抵抗している。性的な意味で黙らせるには、まだ光太郎は幼すぎるようだと知ったセスは、仕方なく髪を引っ張られながら魔物たちが叩き込まれている牢屋を振り返った。

「魔物が一緒じゃないと夜も眠れんのか!…ったく、魔族の中ではそれなりに地位でもあるんだろう。高貴な方のために侍従を1匹つけてやる。好きなのを選べ」

「セス隊長!」

 それまで項垂れるようにして俯いていた兵士が、慌てたようにハッと顔を上げて隊長の顔を見上げた。多くは語らないが、その目付きは魔物を砦内に放すのは危険ではないかと訴えているようだ。

「ふん、この砦から逃れられると思っているのか?」

 そんな兵士を気のない素振りでチラッと見下ろしたセスの言動に、兵士はそれはそうかもしれないが…と、それでも不安は隠し切れない表情で何か言いたそうだ。

(…やはり、この砦には何かあるようだな)

 バッシュは事の成り行きを固唾を飲んで見守っていたが、それでも、セスと兵士の会話の中で、幽閉されてから自分たちの力が半分も出ない不可思議の謎が、どうやらこの砦にあるらしいと薄々感じてはいたが思ったとおりだったのかと、蜥蜴らしい尻尾を軽く振っている。

「嫌だ!誰か1人なんてどうかしてる!みんなと出たいッ」

「…いい加減にしろよ、小僧。このまま皆殺しにしてもいいんだぞ」

「…!」

 思うよりもずっと低い声音で我慢の限界を報せるセスの、自分を抱えている腕の力がやんわりと加わったのに気付いて、光太郎は口を噤んだ。殺されてしまったら、元も子もないのだ。
 漸く大人しくなった光太郎に、セスはウンザリしたような溜め息をついて首を左右に振っている。
 底知れぬ怒りが沸々と浸透してくるが、それでも、手に入れたどうやら魔族のアキレスともなり得そうな少年を殺すわけにもいかず、侭ならない思いに随分と優しくなったもんだと自らの行動に、兵士に言われずともどうかしていると思っていた。

『光太郎!バッシュを連れて行けッ』

 不意に魔物の中から声が上がって、固唾を飲んでいた魔物たちがハッとして頷いている。名指しされた当のバッシュは、鉄格子を掴んだままで、肩に担がれて身じろいでいる光太郎を凝視している。
 どうするだろうと、少し不安そうだ。

「でも…!」

『俺たちは大丈夫だから』

『ああ、約束しただろ?』

 必ず生き残って、みんなでここから出る。
 暗に示された【約束】に、振り返ることも出来ない光太郎は唇を噛んだ。
 できれば、みんなで一緒にここを出たいのに…それは無謀な願いなのだろうか。
 背を向けたままで逡巡している光太郎の軽い身体を担いだままで、セスは不意に、クククッと咽喉の奥で笑った。その態度に、光太郎は更にムカムカしていたが、もしかしたらここから出た方が何か酷いことになるかもしれないと一抹の不安も覚えた。
 セスの、その態度が光太郎を不安にするのだ。

「涙ぐましくなる仲間愛だな。そんなもんが、お前たちにあればの話だが」

「煩いよ!…バッシュ、俺と来てくれる?」

 セスの腹を膝蹴りしてもいまいち効いていない事実にムカッとして、でも、酷いことになるかも知れないが…と、不安そうに唇を噛んだ光太郎のその返事に、バッシュは漸くホッとしたように張り詰めていた息を吐き出した。
 光太郎が「嫌だ」と言い出すのではないかとハラハラしていたのだ。
 彼に「嫌だ」と言って欲しくなかった。

『もちろんだ』

 その返事に、光太郎もやっとホッとして微かに緊張を解いた。
 独りぼっちで行くのは、やはり怖かったのだろう。

「ありがとう」

 小さく呟いた声音のか細さに、セスは新たな発見をして一瞬だが目を丸くした。
 自分には真っ向から刃向かってくるくせに、たとえそこに誰がいようとも、仲間に見せるその素直な怯えは、絶対的な信頼の証でもあるのだろう。
 魔物に寄せる信頼…それがセスにはどうしても理解できるものではなかった。
 そして、自分たちが魔物を憎んでいるように、同じように最大限に人間を憎んでいるはずの魔物どもが、その人間であるはずの少年を受け入れて、その人間のために命を投げ出してもいいとさえ言っているのだ。
 その関係を理解する気など毛頭ないし、理解してやる気も勿論ない。
 ただ、魔物どもがこれほどまでに守ろうとしている少年の存在が、一体なんであるのか、あまりにも軽い少年の腰に回した腕に微かに力を込めてセスは思う。
 間もなく、放った伝令は沈黙の主の許に辿り着くだろう。
 その間、どうやら退屈しないですみそうだと第二の砦を支配している男は嗤った。