第二部 12.予感 -永遠の闇の国の物語-

 たゆたう夢の中で幸福な気持ちを噛み締めていた光太郎は、ふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返っていた。しかし、声の主は姿を見せず、目の前で獅子面の魔物が静かに佇んでいる。
 だから、光太郎は声の主を捜すこともせずに、目の前にいるその魔物に破顔して、抑えきれない涙をポロリとひとしずく、頬に零しながらその巨体の魔物に抱き付いていた。
 もう離れないよと呟いても、獅子面の魔物であるシューは何も言わず、光太郎を見ているようで見ていないような、なんとも言えない不思議な表情をして、それでも優しく抱き締めてくれた。
 その腕の温かさに、やっと闇の国に帰れたのだとホッとしたその時、嬉しくて嬉しくて、思わずギュッと抱き締める光太郎の耳元で、誰かが酷く怒鳴る声がする。
 その時になって漸く、光太郎は幸福な夢から目を覚まして、自分が置かれている状況を脳が把握するまでの短い間、寝惚け眼を彷徨わせて、今度こそ本当に声の主を捜すことにしたようだ。

『やっと起きたか』

「もう、殺されちゃったのかってビックリしたよ~」

 彷徨わせていた視線が漸く生気を取り戻した時、ホッとしたような安堵の声音で、光太郎を覗き込んでいる蜥蜴の大親分のような顔と、花も恥らうような天使の美貌を持つ顔を見つけて、それで光太郎はここが何処で、自分が何をしているのか脳が理解したのだった。

(なんだ…夢だったんだ。でも、そりゃそうだよな。あのシューが優しく俺を抱き締めてくれるなんて、そんなこと有り得ないんだから、気付けよ俺ってさ)

 残念そうに眉を寄せるのをどう受け取ったのか、蜥蜴の大親分のバッシュが、その完璧なポーカーフェイスでは判り辛いが、どうも困惑したような顔をして首を傾げているのだ。

『おいおい、大丈夫か?ユリウスに何かされたのか??』

「んもう!バッシュってばデリカシーがないんだからッ」

 綺麗な桜色の唇を尖らせるアリスが眉を寄せて、それから徐にバッシュの脇腹にエルボーを食らわせたのだが、このままでは彼らがヘンな誤解をしてしまうと気付いたのか、光太郎は慌てて起き上がった。

「だ、大丈夫だよ!その、なんか草臥れて眠ったみたいだ」

 エヘヘヘッと笑って頭を掻く光太郎を見ながら、アリスは綺麗な柳眉をソッと顰めると、可愛い顔を曇らせて小首を傾げて見せた。

「そうだよね~、馬で飛ばした挙句に入城早々にあのユリウスを受け入れたんだもん。疲れて眠っちゃうよね~。彼ってストイックっぽく見えるけど、アレで案外タフそうだしぃ。ところで、身体は大丈夫?」

 人差し指で桜色の唇を押さえて眉を寄せるアリスに、その時になって漸く彼が何を言いたいのか判ったのだろう、バッシュは表情を固くして、そうか、光太郎は…と、何かを悟ったように口を噤んでしまった。が、噤まれたままでは大問題なのが光太郎である。

「ああッッ、アリスッッ!何か勘違いしてるみたいだけど、俺、その、ユリウスとしてないから!!身体も大丈夫だし、ピンピンしてるよッ」

 懸念したとおり、思い切り誤解されてしまっている光太郎は、顔を真っ赤にして首を左右に振りながら、開いた両手を左右に振ってジタバタと完全否定を心掛ける。心掛けるのだが、却ってその態度が、更なる疑惑を呼んで、アリスはらしくもなく神妙な顔付きをしてバッシュを見た。

「ほら~、バッシュが余計なこと言うから光太郎が恥ずかしがってるじゃないッ」

『俺か?!』

 ギョッとしたように目をむくバッシュは、あからさまにお前のせいだろうがと言いたそうな胡乱な目付きをしたが、そんな2人に思い切り焦りまくっている光太郎は、取り敢えずベッドから飛び降りて、ピンピンしている証拠を見せようとその場で飛び跳ねた。

「ほらほら!元気だろ?!だから、ホントに大丈夫なんだってッッ」

「むー?」

『…大丈夫そうだな』

 アリスは必死の光太郎の顔を同じ目線から覗き込みながら疑い深そうに眉を寄せたけれど、元気そうに飛び跳ねている光太郎を見たバッシュは、少しホッとしたように頷いている。

「もう!ホントに大丈夫なんだよ、アリスってば…って、そう言えば、2人ともどうしたんだい?」

 ホントかなぁ~と、遂に光太郎のシャツをバッとたくし上げてしまった。

『うお?!』

 何故か思わず両手で双眸を押さえるバッシュの前で、素肌を晒す光太郎を繁々と見詰めたアリスは、それで漸くホッとしたようにニッコリ笑った。

「ホントだ。じゃ、大丈夫だねー」

「…最初からそう言ってるよ」

 思わずガックリしそうになった光太郎だが、性別はいたって健全な男の子である。素肌の胸元を見られたからと言って、赤面するような性質ではない。だから、両目を押さえてしまったバッシュの行動こそ、本当は不思議で仕方ないのだが、この際無視したアリスがクスクスと鼻先で笑うのだ。

「判ってるんだけどぉ。身体に負担があるようじゃ、あんまり話したくないと思っちゃったんだよね~。ね?バッシュ」

『…まぁな』

 着衣の乱れを直す光太郎に気付いて、漸く両手を離したバッシュが、ヤレヤレと言いたげな仏頂面で頷いているから、光太郎の眉がソッと顰められてしまう。

「何か…あったんだね」

 そんな態度をアリスとバッシュが取ると言うことは、何か起こっているのだろうと、まだ知り合って間もないと言うのに、光太郎には直感のようにそれが判った。
 だから、胸が高鳴る。
 それは不安でもあるし、微かな期待も…

「この砦に魔軍が来るんだって!」

 アリスが嬉しそうな顔をして光太郎の両手を握ると、光太郎は一瞬、自分が何を聞いたのか良く判らないように双眸を見開いたが、それでも理性の光を取り戻すと、まるで信じられないとでも言うように、いや、信じたいのに信じられない、そんなもどかしい表情をして視線を彷徨わせてしまう。

「え?え?…それ、は、その。どう言うこと?」

 両手を確りとアリスに握られたまま、信じられないと動揺したように呟く光太郎のその態度は、あまりにも多くのことが起こり過ぎて、まだ少年だと言うのにたくさんの経験を一気にしてしまったのだから、それは仕方ないとバッシュは胸が痛んだ。

『さっき、スゲー剣幕で早馬が来てな。もう、すぐそこまで魔軍の一行が迫ってるらしいんだ。その数、凡そ300ってんだから、そりゃ、沈黙の主まで居るんだから大騒動だな』

「この砦の兵士って、結界を頼りきってるから50もいないんだよね。篭城しても、せいぜい1週間ぐらいが限度だと思うし?ラスタランからのここまでの距離って、実際には3週間ぐらいはかかるから…援軍は3週間来ないってワケでしょ?だったら、勝機もあるかもしれないんだよ!」

 ブンブンッと両手を振って嬉々とするアリスと、ワクワクしているようなバッシュを虚ろに見比べていた光太郎は、その話を聞いて、漸く、その内容が脳裏に到達したようだった。

「そ、それって…闇の国から助けが来てるってこと?」

『だから、そう言ってるだろ?』

「帰れるかもしれないんだよ!光太郎♪」

 バッシュとアリスが同時に応えると、光太郎は、何故か今まで必死に踏ん張っていたはずの足許から、地面が消えてなくなるような錯覚を感じて、クラリと眩暈がしてしまった。

『おい、光太郎?!』

 思わず…と言った感じでバッシュが両手を差し出したが、倒れる寸前でハッと我に返った光太郎が、大丈夫だと呟いて、それから、なんだかまるで、夢の中にでもいるような頼りないふわふわした気持ちに、支えてくれる2人に頭を掻きながらエヘヘッと笑ってしまう。

「大丈夫、大丈夫なんだけど…俺、俺たち、ちゃんと闇の国に帰れるのかな?」

 それは切なる願い。
 夢にまで見たシューとの再会…があるのなら、いや、それがたとえシンナでもゼィでも、誰だったとしても、あの懐かしい闇の国の住人たちの許に帰ることができるのなら、それは信じられないほどの幸せだった。

「帰れるよ!大丈夫。でも、僕たちも何か作戦を考えないとね」

『ああ、それを言う為にここに来たんだ。さっき、凄い剣幕でユリウスが出て行ったからな』

「歩いてた神官を捕まえて、この部屋に入れて♪ってお願いしたら、入れてくれたんだよね~」

 バッシュとアリスが交互に喋るのを、まるで夢の中にいるように遠く聞いていた光太郎は、完全にその話を信じることができたのか、表情を引き締めて頷いたのだ。

「そっか。バッシュたちが言うのなら間違いないね。だったら、俺たちも速やかに脱出する為に作戦を練ろう…って、ところでケルトはどうしたの?」

 キュッと唇を噛み締めて呟いた光太郎は、だが、この場に小さな少年の姿がないことに今更ながら気付いて、それから困惑したように眉を寄せてしまった。

「ケルトは具合が悪いから部屋で寝かせてるよ。ほら、その時が来たら体力が勝負でしょ~?」

「あ、そっか。ケルト、大丈夫かな?」

 たとえば、2週間も時間がかかるとすれば、その間は心理戦に突入もし兼ねない。その場合、アリスが言うように体力と精神力が問われることになるだろう。何より、ここは戦場に変わるのだから、小さな身体で具合が悪いケルトでは、負担は計り知れないかもしれない。

『一応、神官が薬湯を飲ませたからな。暫く安静にしてりゃ、大丈夫だそうだ』

 バッシュが安心させるように光太郎の肩を叩くと、仲間の安否を何より気遣う、彼らが忠誠を誓っている主は(本人はそう呼ばれることを嫌がってはいるのだが)、ホッとしたように頷いた。

「それじゃ、俺たちだけで考えよう」

『ああ』

 漸く生気を取り戻したように生き生きとした表情で、良く晴れた夜空のような双眸をキラキラさせて、バッシュが嘗て魔城で目にしたあの明るさを取り戻した光太郎の、最近は翳りを見せていた瞳に勇気付けられたようにバッシュが大きく頷く傍らでアリスも楽しげに頷いて口を開くのだ。

「もっちろん♪まずは、ここじゃなくて、僕たちに宛がわれてる部屋に行こうよ。ここは落ち着かないしぃ~」

 どうせ、ラスタラン最強とも謳われる、魔軍ですら一目置く暗黒騎士は今は光太郎どころではないだろう。いつ、この部屋に戻って来るかは判らないが、恐らく当分は戻って来ないと踏んで、アリスは居心地の悪い部屋から今すぐにでも出たそうな雰囲気だ。
 憂鬱そうなアリスに、バッシュと顔を見合わせた光太郎は、それもそうだと頷くと、ユリウスの部屋から脱出することにした。

Ψ

「魔軍がこの砦に押し寄せているだと?どう言うことだ!」

 少年神官が立ち去った後、まるで入れ替わるようにして兵士が進言に来た事の次第を耳にして、烈火の如き乱暴な足取りで荒々しく両手で扉を開いて室内に足を踏み入れた暗黒騎士は、常に黙して主の傍らに在るはずだったのに、その時は砦すらも揺るがすのではないかと耳を疑うほどの大音声で激昂している。

「だ、団長殿!」

 驚いた早馬の兵士は、それでも、彼の直属の上官であるユリウスの激しい憤りを目にし、慌てて平伏しながらも事の重要さに身体の芯が引き締まるような思いに駆られてしまった。

「ユリウスか。この砦を魔軍は挙って回避したがるものを…敢えて挑むと言うことは、お前の見立てどおり、あの者はどうも魔軍にとって貴重な存在のようだな」

 砦内にある広い謁見の間は、ズラリと壁に並んだ蝋燭の灯りで真昼のような明るさだった。
 その長い緋毛氈の敷かれた上を真っ直ぐに行ったところに設置されている玉座に座した沈黙の主が、肘掛に頬杖をついて溜め息を吐きながら、猛然とした勢いで、漆黒の外套を跳ね除けるようにして大股で風を蹴るように歩いてくる暗黒騎士をチラリと見た。
 その眼前に騎士の礼に則った片膝をつく早馬の兵士は、慌てたように腰を低くしたままで傍らに退き、ユリウスにその場を明け渡した。

「…」

 忌々しそうに舌打ちするユリウスの有り得ない姿に、第二の砦に従軍していたユリウスの手の者である兵士は、頭を垂れたままで驚愕に目を見開いた。
 影のように、空気のように、物言わぬ存在として主の背後を護る暗黒騎士の、その態度は、恐らく誰の目にも明らかなように、感情も顕わに苛々しているようだ。冷静沈着を絵に描いたような、存在感こそあるものの、気配など空気のように感じさせることもなかったユリウスは、いったいどうしてしまったのかと、兵士は恐る恐る頭をを上げて、自らの直属の主である暗黒騎士を盗み見た。

 フードの奥深くにかんばせを隠してしまっている沈黙の主は、それでもクスッと笑って、そんなユリウスの気持ちを手に取るように理解しているようである。

「だが、手離す気などさらさらないんだろう?ユリウス」

「…無論。そして、この砦で主を危険に晒す気もありません」

 私情に揺れる心を抱えながらも、やはり暗黒騎士の第一は沈黙の主でラスタランの復興なのだろう、件の王はフードに隠れる目蓋を閉じて、そんな片腕にやれやれと軽い溜め息を吐いた。

「兵は神速を貴ぶ…と申します。何よりもまずは戦略を練るべきです」

 尤もな進言にも頷いて、沈黙の主は瞑目した。
 何か勝機を見ての行動か、はたまた、愚考の果ての行動か…何れにせよ、魔族がここに、彼らが大切にしている人間とは別の獲物がいることを、四方や知っての行動ではないだろうと沈黙の主は考えていた。
 しかし…ふと、フードの奥、隠れてしまいそうな双眸を開くと、茶色い髪の隙間から透けて見える漆黒の鉄仮面の奥、激昂に燃える紅蓮の双眸がひたと自分を見据えていることに気付いた。
 ご決断を…と迫るのか。
 いや、或いは…
 沈黙の主は苦笑して、そして、目線を落としてしまう。
 この砦には色褪せることもなく古の術法が張り巡らされている。その力は、魔王とて手出しできないほどではあるが、しかし、あくまでも結界は結界であって、ともすれば綻びとてあるやもしれない。
 ラスタランの城にも同じように張り巡らされた古の術法は、長らく、魔族の侵略を食い止めてくれている。しかし、兵力の差から、魔城に攻め込むにも今一歩で後退しなくてはいけなくなる。
 一進一退の攻防戦は、こうして続いている。
 今回の魔軍の侵攻は、もし、その作戦が成功することがあれば、それは即ちラスタランの命運を決めることになる。
 沈黙の主は額に嫌な汗が浮かぶのを感じていた。
 目線を戻せば、未だ変わらぬ双眸で暗黒騎士は見詰めてくる。その眦は僅かに上がり、責めるような双眸は、物言わぬ威圧感すら漂わせているのだ。

「判った。まずは斥候を出すべきだな」

「御意…主よ、この砦の兵士の掌握も必要かと」

「指揮はユリウスに一任する」

「は!」

 漸く求めていた言葉を聞いて、暗黒の騎士は一礼すると、外套を翻して来た時と同じ荒々しさで謁見の間を後にしようとして足を止めた。
 ふと、沈黙の主の眉が寄る。

「この場にディリアス殿の姿が見えませぬが…」

 兵を掌握するとなると、この砦を支配している事実上の主の不在は、抜け目ない沈黙の主の片腕の不興を買ったようだ。

「ああ、有無。ヤツは砦の結界を強固にする為、上にいるようだ」

「…なるほど。では、失礼します」

 そう言って、今度こそ本当に、荒々しい足取りで謁見の間を後にするユリウスを、沈黙の主は見送っていた。
 だが、ふと。
 沈黙の主はその背中を見送りながら、嘗てないほどの不安を感じていた。
 何がそうさせるのか、それは定かではなかったが、沈黙の主は溜め息を吐いて背凭れに背中を預けた。
 そんな沈黙の主の鎮座ます謁見の間を後にするユリウスの後を追って、早馬で報せを持参した兵士が追い縋ると、既に寡黙に戻ってしまった暗黒騎士はチラリとも目線をくれることもなく歩調も緩めない。
 あれは錯覚だったのではないか…と、兵士が自身を疑ったとしてもおかしくないほど、今のユリウスは冷静そのものである。
 無類の戦好き…と言うワケではないのだろうが、戦場を愛馬で駆け抜ける漆黒の風のようなユリウスは、戦場にあっても冷静で、無言のまま血溝をクッキリと刻む剣を片手に魔物を斬り殺す様は見ていて寒気がするほどだ。
 対峙する魔物の殆どが、その威圧感に気圧され、闘争心さえ凍りつかせて戦場の露となってしまう。
 あの、魔軍の副将であり、戦場の鬼女と恐れられるシンナでさえ、一瞬竦んだように怯え、その隙を突いたユリウスの剣にあわや腹を刺されるところだったのだから…どれほど、この物言わぬ影のような男は深い闇を身内に抱え持っているのだろうか。
 そのただならぬ威圧感とちりちりと空気を焼くような殺気に息を呑みながらも、彼の忠実な部下である兵士は暗黒騎士の指示を待っているようだ。

「…ご苦労だった。お前には悪いが、その足で斥候の任に当たってくれ。あと数名与える」

 砦内の兵士の掌握に向かうユリウスは、重く閉ざしていた口を開いて、畏まるように後をついてくる兵士に指示を出した。

「ハッ!」

 緊張していた兵士は飛び上がらんばかりに驚いたが、すぐに与えられた任務を受け、来た道を引き返すようにして戻って行った。
 誰もいなくなったひっそりとした砦内は、これから凄まじく遽しくなるだろう。
 ユリウスは戦に向ける想いとは裏腹の部分で、僅かに舌打ちし、漆黒の鉄仮面の奥で滾るように燃える紅蓮の双眸を細めていた。
 恐らく、その混乱に乗じて、彼の愛する宝は仲間の魔物どもの悪知恵を借りて、この砦から脱出を試みるに違いない。
 無垢な優しい心を持つ宝だけれど、その、魔物どもを想う心が発動すれば、姑息で、誰もが恐れる暗黒騎士である自分さえ易々と騙そうとするあざとさがあるのだから。
 この腕をすり抜けて行ってしまうのか…
 ふと、ユリウスは掌を見下ろした。
 この手は、幾人もの人間や魔物どもの血で染まっている。もしかすると、未だに滴り落ちているかもしれない…そんな幻視を見せるほど、彼は数え切れない生きものの生命を奪っていた。そんなもの、気にも留めたことのないユリウスだったが、今は寒気すら覚えて眉根を寄せる。
 この血塗られた手で、あの優しい笑みに揺れる頬に触れたとしても、あの少年はひっそりと掌を重ねてくるに違いない…だがそれは。

(憐れみなのか…)

 そこまで考えて、ちぐはぐな想いに心臓が掻き毟られるような痛みを覚えたユリウスは、見下ろしていた掌を拳に握り締めた。
 光太郎を手放してしまったら…今度こそ自分は、這い上がれない奈落の底に堕ちてしまうのか。
 まるで不可視の掌がそっと心臓を掴んだような、得も言えぬ不愉快さに色の抜けてしまった眉を顰めると、どうすることもできないもどかしさに歯噛みする思いで、ギリッと唇を噛み締めるのだった。