4.暁を往く者  -永遠の闇の国の物語-

 この闇に閉ざされた国にも朝は来るし、日もまた沈む。そんな朝も明けやらぬ薄霞にけぶるように魔の森が一瞬の眠りにつこうとする時刻に、地下牢のある場所から派手な音がしていた。まるで爆薬の詰まった何かが破裂でもしたかのような音に、その地下牢の住人たちである人間の捕虜と魔物の見張り兵は飛び起きた。
 居眠りにウトウトしていた魔物の兵は、飛び上がって何事かと槍を両手で掴んで周囲を見渡す、と。

『これは、シュー将軍!』

 驚いた牛面の魔物は鼻息も荒く恭しく畏まったが、突貫工事に付け焼刃で参戦しているなんちゃって大工たちは仏頂面でそんなブランを制するのだった。

『朝っぱらからすまんな』

『めめ、滅相もございません…が、何をしているんですかい?』

 同じように工具を持って走り回っている光太郎がそんな2人に気付いて、ニコッと笑うのだ。

「通風孔を空けるんだよ!そうしたらここもそんなにジメジメしないし、床が滑ることもないよ」

 上機嫌で滑りそうになる床を恐る恐る歩きながら、光太郎は鉄格子の嵌っている牢屋の中を覗き込んで何やら声をかけているようだ。そんな小さな人間の後ろ姿を見遣りながら、シューは諦めたように溜め息を吐いたが、ブランはちょっと驚いたように目を瞠るのだった。

『通風孔ですかい!?こりゃ、俺たちは思いつきもしやせんでした!』

『迷惑この上ねぇよ』

 シューがガックリしたように道具を持って歩き出そうとすると、ブランはとんでもないと言いたそうに慌てて槍を放り出すと、シューの手からツルハシのような道具を恭しく奪い取ると首を左右に振って否定するのだ。

『と、とんでもありやせんよ、シュー将軍。アッシはここに配属されて長いんですが、もう何度も足を滑らせて骨折は数えきれねぇほどでやす!通風孔を作って床が滑らんとなれば、喜んでお手伝いさせて頂きやす!!』

 それだけ言うとピュッと機敏に動いて作業を手伝おうとするブランを見ながら、両手でツルハシを持った形のまま呆気に取られて呆然と固まっているシューの背後で、思わずと言った雰囲気で笑い出す者がいた。

『…ああ、シンナかよ』

『何をしてるのン?こんな朝っぱらからビックリしたわン』

 相変わらずシンプルかつ大胆な衣装を身を纏っているシンナは、腰に手を当ててクスクスと笑っている。恐らくあの派手な破壊音を聞きつけてきたのだろう、そんなシンナの背後の階段には驚いたように寝起きの魔物たちが詰め掛けている。恐らくは扉まで続いているだろう気配のする階上をチラッと見ただけで、シューはウンザリしたような表情を禁じえなかった。
 ああ、また悪態だらけか…

『見ての通り、あの人間の小僧が通風孔を作るとか言い出しておっぱじめやがったのさ』

『あらン?通風孔をつくるのン。そう、それは素敵なことじゃないン』

『素敵だと?』

 また1人、なにやら頓珍漢なことを言い出しそうな仲間を見つめて、シューは哀れっぽい目付きをして肩を落としてしまった。

『ここはジメジメしていて嫌だったのン。きっといつか、こんな環境だと病とかで死人が出ると思っていたぐらいよン』

 良いことだわと、シンナは感心したように道具を持ってブランを交えて人間の捕虜たちと笑いながら話している光太郎を見つめた。それから、腕に嵌めている武器の隠れた腕輪を外しながらシューに言うのだ。

『面白そうねン。あたしも手伝うわン』

『…あー、そりゃ助かるよ…いや、ホントにマジで』

 ガックリしたまま、壁に立てかけていた道具に手を伸ばそうとすると、そんな嬉々としたシンナの背後から顔を覗かせた馬面の魔物と視線がバッチリ合ってムカッとした。どうもその馬面の顔を見ていると、シューはなぜか無条件で腹立たしくなるのだ。

『…なんだよ、バッグスブルグズ。文句なら後で聞いてやらぁ。俺は今、猛烈に機嫌が悪いんだ。殴られたくなかったら大人しく…』

『わわ!な、殴ったりすんじゃねーぞッ!!俺は手伝いに来たんだからなッッ』

 慌てたようにシンナの背後に隠れようとして、その大きな馬面では到底隠れきれていないと言うのに、それでもバッグスブルグズは必死で殴られないようにしながら言い募るのだ。そんな態度に怪訝そうに顔を顰めたシューは、訝しそうに片目を眇めて馬面の魔物を睨み付けた。

『なんで、オメーが手伝うんだよ』

 それでなくてもムカツクってのにこのヤロー、と、その目は大いに物語っているし、もちろんそれに気付いているバッグスブルグズは歯を剥いて耳を伏せた。

『俺もここに配属されちまってんだよ!5回も自慢の俊足を折られたんだ、通風孔ッつーのはありがてーんだよ!!』

 それを聞いて今度はシューが呆気に取られる方だった。
 よくよく見渡せば、ここに何らかの事情、つまりその時の見張りの当番になっている魔物とカードゲームで時間を潰したり、他愛ないお喋りに来たりして被害を被った魔物たちも話を聞いてボチボチと手を貸そうと集まってきているようだ。
 知らない間にこの地下牢は一種の魔物たちの社交場となり、その一員にいつの間にか人間の捕虜たちも加わっていると言う事実に気付いたのだ。

『ふふふン。シューは知らなかったのねン。ここにはあたしもコッソリ来てるのよン』

『なんだと?』

 シンナがクスクスと笑いながらそんなことを言うから、ますますシューは呆気に取られてしまうのだ。

『お前たちはここに何をしに来てんだよ?』

 ここは何を目的とした場所ですか?…と、思わず聞きたくなってしまったシューだったが、よくよく見渡せば、悪態を吐いているのは自分だけで、他の魔物たちは陽気に光太郎と会話を楽しみながら手際良く指定された場所に穴を開けている。

『あらン、もちろん見張りに決まってるじゃないン!』

 ふふんと笑ってシンナはバッグスブルグズをその場に残したままで、楽しそうに作業をしている光太郎たちの輪の中に入って行った。
 取り残されたバッグスブルグズはそんなシンナとツルハシを持って眉間を寄せているシューを交互に見遣りながら、バチッとライオンヘッドの魔物と視線が合ってしまい居心地が悪くてニヤッと歯を剥いて笑って見せた。

『クソッ!手伝うんならサッサと光太郎のところに行きやがれッ』

『ヒデーッ!!』

 尻を蹴られて飛び上がったバッグスブルグズは、目尻に涙を浮かべながら脱兎の如く光太郎のいる場所まで行きかけて派手に転んだ。
 そんな後姿を憤然と睨み付けていたシューはしかし、案外、それほど腹立たしく思っていたわけではなかった。
 なぜならそれは、あんな風にボーッと見えて、意外とあの人間の少年は魔物たちの動向を観察していたのだ。それも悪い方向ではなく、恐らく些細な疑問からだったのだろう。

〔どうして、魔物たちは足を引き摺っているんだろう?〕

 長いこと城の中を探検していた少年は、ある一定の魔物たちが片足を引き摺りながら行動しているのを見て、もうずっと疑問に思っていたのだろう。その原因を突き止めようと探検に更に拍車をかけていたのに違いない。だが、人間の、しかも曰くある【魔王の贄】ともなれば、忍び込める範囲は決まっていただろう。

(そうかアイツ、それで俺に城の中を案内させたんだな)

 もちろん、捕虜になっている人間たちの体調も気にしているんだろうが、せっかくここに来ている魔物たちがいるのなら、せめて安全に行動できるようにとイロイロと考えての行動だったのだろう。

『ったく、仕方ねぇヤツだぜ』

 やれやれと溜め息を吐いたシューは、仕方なさそうに首を左右に振って輪になっている中心にいる光太郎の場所まで歩いていった。
 驚くことに、その足取りはそれほど重くはなかった。

Ψ

 不機嫌そうなシューに、それでも内心では申し訳なく思いながら光太郎はブランと話しているライオンヘッドの魔物をその場に残して、驚いたように鉄格子に両手を出してブラブラさせているウォルサムの所まで行った。途中滑りそうになってヒヤッとしたが、それも今だけだと自分に言い聞かせて恐る恐るの足取りで近付いていった。

「何をおっぱじめたんだ!?」

 目を白黒させたウォルサムとその仲間たちに、光太郎はニコッと笑って事の成り行きを簡単に説明した。

「通風孔を空けるんだよ。そうしたら、風通しが良くなって身体に悪くないと思うし、ここに来ている魔物たちが足を折ることもなくなるんじゃないかって思ったんだ」

 遣っ付けの作業着に身を包んだ光太郎を上から下までマジマジと見ていたウォルサムは、何か信じられないものでも見ているような目付きをして肩を竦めて見せた。

「通風孔だって?よくそんな、突拍子もないこと思いついたな」

「まーね。でも、シューも手伝ってくれるから、そんなに時間はかからないと思うけど…煩くても気にしないでよ」

「いや、大いに気になるが…」

 呆れたように言ったウォルサムにアハハハッと笑う光太郎を訝しそうに眺めていた彼はしかし、周囲を見渡しながら驚いたように眉を跳ね上げて鉄格子を叩いて見せた。

「驚いたな!魔物が総出で手伝ってんのか?こんな地下牢如きに??」

「あれ?本当だ。でも、ウォルサムたちには判らないかもしれないけど、魔物たちの中にも意外にいいヤツもいるんだよ」

 柔らかく笑って言う光太郎を一瞬だけ怖い目付きで睨んだウォルサムだったが、ちょっと怯んでいる光太郎の双眸に気づいて大きく溜め息を吐いて項垂れてしまった。

「いや、判っちゃいるんだよ。でも、それを認めてしまうと俺たちは、いったい何のために…」

「だってほら、ここを綺麗にしたらスッキリした気分でカードゲームもできるだろ?それで、ウォルサムたちにも手伝って貰いたいんだ」

 ウォルサムの言葉を遮るようにして口を挟んだ光太郎に、茶髪の人間の兵士はちょっと瞬きをしてそんな少年の漆黒の双眸を見つめた。
 光太郎は今度は怯まずにニッコリ笑うと、手に持っていた数本のデッキブラシを鉄格子の隙間から無理やり押し込みながら頷いて見せたのだ。

「これで中を綺麗に掃除してよ。その間に俺たちは通風孔を作る」

「…一日の突貫工事でどうにかなる代物じゃないだろ?」

「まあ、気を長く持って頑張るよ」

 ニッコリと笑った少年を、呆れたように見下ろしていたウォルサムは、足許の隙間から押し込まれたデッキブラシを取り上げると、肩を竦めながら背後で興味津々の表情で見守っている仲間の捕虜たちにも手渡した。

「よっしゃ、城の床磨きだと思って俺たちも頑張ろーぜ!」

 ウォルサムの合図で頷いた捕虜たちは、各々で受け取ったデッキブラシを肩に担いで、床に散らばるゴミやシーツ、散乱するカードを片付けながら少しずつ牢屋内を掃除し始めたのだ。そんな彼らの行動を満足そうに見つめている光太郎に、背後からブランが慌てたように声をかけてきた。

『光太郎さん!アッシも良ければ手伝わせてくだせぃ』

「ありがとう。それじゃあ、一緒に通風孔作りを手伝ってくれるかな?」

『お安い御用でさ』

 嬉しそうに頷くブランに、光太郎は魔王から借り受けたこの城の見取り図を広げて、通風孔作りに参加する魔物たちを集めてから説明を始めた。それでも、専門的な知識がない光太郎を支援するように、この城造りに参加した経験のある魔物が一緒になって説明したおかげで、案外スムーズに手筈が整って作業が始まった。

『ねえねえン。あたしもお仲間に入れてよン♪』

 シンナがウキウキしたように軽い足取りで輪の中に入ってくると、光太郎は驚いたようにポカンッと口を開けて小柄な少女を見つめた。

「シンナ!君も手伝ってくれるのかい?」

『もちろんよン♪あたしは何をしたらいいのかしらン?』

「ええっと、それじゃあ…」

 小柄な少女とは言え魔軍の副将であることをシューから聞いていた光太郎は、そんな願ってもない申し出を快く受け入れて、城造りに参加したバッシュと言う蜥蜴面の魔物と相談して彼女にも作業に参加してもらうことにした。

「この調子だと1日で終わるかもね」

 嬉しそうに額に汗して笑う光太郎を、バッシュは肩を竦めながら首を左右に振って殊の外あっさりと否定した。

『城の仕事もある連中だからな。中休憩を取って、それから仕事に戻って、夜に作業を再開したとしても2日はかかる工程だと俺は思うぞ』

「あう、やっぱそうかな?」

 ガックリと大袈裟に項垂れる光太郎に、作業をこなしている見たことのない魔物が背中をバシンと派手に叩いてくれながら大いに笑ってそんな光太郎を慰めた。

『心配すんなって!とっかかれば最後まで遣り通すのが俺たちだ、まあ大船に乗ったつもりで見てろって!』

「アイタタタ…ありがとう」

 ニコッと笑う光太郎のお礼に被さるようにして、大量に出てくる石の塊や砂利などを詰めた袋を肩に下げて外に運び出している魔物の1人が、呆れたように溜め息を吐きながらそんな魔物に言い放つのだ。

『毎日昼飯時に限って見張りをサボッてるお前が言うなよ、お前が』

『うわ、ヒデー言われようだな、おい』

 そんな2人の会話にドッと笑いが起きて、光太郎もケタケタと一緒に笑った。
 気付けば捕虜の連中も肩を揺らしながら吹き出している。
 城の仕事をサボるのは人間も魔物も同じなのだろう。

『中休みにはサボるけどよ、それ以外はハッスルするぜ俺ぁよう!』

 そんな言い訳がまた笑いに火をつけて、作業は案外楽しくスムーズに進んでいた。
 身体の小さい光太郎がツルハシを振り回したところで、ガタイも大きく力もある魔物に敵うわけもなく、足手纏いにならないように床磨きに専念するようにしたらしい。言い出しっぺだが、自分の分相応は弁えているようだ。
 同じように身体の小さいシンナはそれでも光太郎よりは遥かに力強いのか、石だの砂利だのが詰まった麻袋を難なく両肩に担ぎ上げて滑り易いはずの床を駆けて階段を登って外に運び出している。

『全く、お前の行動は突拍子もねーけどよ、連中が喜んでるところを見れば強ち的外れってワケじゃねーんだろうな』

 絶対に認めたくはないだろうに、それでもシューは感心したようにデッキブラシで床を磨いている光太郎の傍らまで行くと、腕を組んで周囲を見渡しながら呟いたのだ。

「あ、シュー!うんうん、みんな凄く手伝ってくれるんだ!俺も凄い嬉しい」

 傍らに来た仏頂面のライオンヘッドに気付いた光太郎が、ニッコリと笑ってデッキブラシを両手で掴んだまま、談笑している作業中の魔物を見渡しながら頷いた。

「さっき、シンナも来てくれたよ」

『人間どもにも手伝わせてるのか』

 シューは驚いたように目を瞠ったが、肩を竦めて呆れたように光太郎を見下ろした。

『なかなかやるじゃねぇか』

 鼻先で笑うように鼻に皺を寄せてみるが、光太郎はそんな嫌味を素直に受け止めて照れたようにエヘヘと笑っている。

「ちゃんと、納得してくれたんだよ」

『…そうか、そりゃスゲーな』

 嫌味も通じない天下の光太郎だと思い知ったのか、シューは呆れたように天を仰いで、それから何も言わずに俯きながら溜め息を吐いた。

「?」

 そんなシューを光太郎は不思議そうに見上げていた。

Ψ

 作業は思ったよりも捗らず、それから数日経って漸くどうやら通風孔らしきものが完成した。
 外からの作業がまるで出来ないと言う難点を何とかクリアして、出来上がった通風孔はそれなりの形はしているものの、なんとも不恰好ではあるが及第点の代物だった。
 通風孔のおかげで風通しが良くなったのか、それまであまりにもジメジメして黴臭く、滑り易かった床は今では磨き上げられて光沢を放つほどだし、清潔な白いシーツを与えられた地下牢は、それまでの陰惨なイメージを払拭できるほど部屋になっている。

『これじゃあ、却って城内の方が汚らしく見えるな』

 カード遊びに興じている捕虜と見張りの兵、交代番であるブランと暢気に話をしているシンナたちを腕を組んで憤懣やるかたなそうに鼻息も荒く見渡している獅子面の将軍がぼやいていると、そんな魔物を見上げていた人間の少年が神妙な顔付きをして頷くのだ。

「うん、俺もそう思う。玉座の間にも蜘蛛の巣が張ってるんだ。埃っぽくて息苦しいよね…」

 不意にハッとしたシューは自分よりも遥かに身体の小さな少年を見下ろして、慌てふためくようにその顔を覗き込む。

『おい、お前また何か余計なこと考えてんじゃねぇだろうな!?』

 もう、勘弁してくれよぉ~と、思わず泣きを入れそうになる自分よりは数倍身体の大きな獅子面の魔物の鼻先を見据えて、光太郎はムゥッとしたように唇を尖らせた。

「余計なことってなんだよ。俺は一般論を言ってるだけだよ」

 ツンッと外方向く光太郎を、シューは胡乱な目付きでジロリと睨み付けながら上体を屈めてその額に大きな獅子面を突きつけて悪態を吐いた。

『その余計なことで3日間も拘束された俺に一般論ですか??』

「あ、えへへ。ごめん」

 その迫力に気圧された、と言うわけではない光太郎は、思い当たることがあまりにも多すぎてバツが悪そうに笑って誤魔化すのだ。

『お前なぁ~』

 思わずジトッと睨んでしまったシューに相変わらず光太郎がエヘヘと笑っていると、俄かに牢屋の方が賑やかになって、ただ単に様子を見に来ていた光太郎とシューは顔を見合わせてから、不毛な言い合いに区切りをつけて捕虜が収監されている牢屋の鉄格子まで歩み寄った。

『どうしたんだ?』

『あ、シュー将軍!どうにも捕虜の1人が具合が悪いようでして…』

 それまで一緒にカードゲームをしていた見張り兵が、カードを投げ出して仲間の具合を確認しているウォルサムを指し示しながら動揺したように説明した。

『具合?』

「あ、そう言えば!捕虜の人で怪我している人がいたね」

 シューの大きな身体の背後から様子を窺っていた光太郎が、思い出したようにハッとして仏頂面の魔物を見上げて鎧の裾から覗く服の切れ端を引っ張った。
 だが、よくよく考えたら『人間など病になっても構わん』と言い切るような魔物である、手当てしてあげようと提案したところで容易く却下されるのは目に見えているだろう。光太郎は仏頂面のままで見下ろしてくるシューの獅子面をムゥッとしたままで見上げていたが、すぐに手を離して見張り兵に掴みかかったのだ。
 見張り兵でも光太郎よりは体格が遥かに良い。良いのだが、やはり【魔王の贄】である光太郎を無碍にすることなど到底出来ない見張り兵は、恐縮しまくって敬礼するのだ。

「ラウル!牢屋の鍵を貸してくれよ」

『は!…はは!?か、鍵ですかい?』

 光太郎の要求に困惑したような顔をした見張り兵であるラウルは、怯えたような動揺したような表情をして魔将軍であるシューを振り返った。その意思を仰ごうとしているのだ。
 そんな2人の行動を見守っていたシューは、やれやれと溜め息を吐きながら首を左右に振って光太郎の首根っこを引っ掴むと、言い聞かせるように投げ槍に言った。

『いい加減にしておけ、光太郎。たとえお前でも、牢屋番の大役である鍵を奪ってどうするつもりだよ、ああ?』

「そんな言い方しなくてもいいだろ?奪う気なんかないよ、ちょっと貸して欲しいだけ」

『ダメだね』

 フンッと鼻で息を吐き出して聞く耳を持とうとしないシューに、光太郎はムゥッと頬を膨らませて、首根っこを掴まれた格好のままバタバタと暴れてみる。

「判ったよ!どーせまたゼインのお許しを貰わないといけないんだろ?シューにはそんな凄い権限なんてないもんねッ」

 ベーッと舌を出して悪態を吐く光太郎を、シューは無表情のままで怒りながら頬を引き攣らせて見下ろした。

『…なんだと、この野郎』

「どーせ、シューなんてゼインからいちいちお許しを貰わないとなぁーんにも出来ないんだろ?いいよ、別に。俺は何度だってお許しを貰いに行くもんね」

 フンッと外方向く光太郎に、思ったよりも随分と単純なシューは、自慢のタテガミを逆立てて怒りを露にする。と、奇を衒ったかのように光太郎が間髪入れずに振り返って、猛然と鼻息を荒くする獅子面に鼻先がくっ付くぐらい顔を寄せてニコッと笑うのだ。

「あ、それともシューは将軍様だから、シューの権限で俺に鍵を与えてくれるの?」

『…畜生ッ、ラウル!鍵を貸してやれッ』

 可愛く小首を傾げて信頼を寄せるようにキラキラした漆黒の双眸で見つめられてしまっては、なぜかシューはそれ以上悪態を吐く気にもなれなくて、苛々と歯噛みをしながらラウルに命じたのだ。

「わーい♪ありがとう、シュー」

 大喜びの光太郎の首根っこから手を離したシューだったが、ドッと来た疲れにウンザリしたような顔をしていると、背後の見張り兵用の小部屋の中から押し殺した笑い声を聞き付けてムッとしたように振り返った。

『チッ!またお前かよ、シンナ』

『あらン。偶然よン、偶然ン』

 足を組んで安っぽい木のテーブルに頬杖をついているシンナが、クスクスと笑いながらウィンクしてくる。そんなシンナとシューの間で、ブランが半分怯えたように額に汗を浮かべて2人の顔を見比べている。背後では、呆気に取られたような、いいのかな?と不安そうな表情をするラウルが腰に下げた鍵束から牢屋の鍵を光太郎に渡しながらシューを見上げている。

『最近は沈黙の主の部隊と遣り合うこともないじゃないン?もう、退屈で退屈でン』

 肩を竦めて大袈裟に溜め息を吐くシンナに、シューは暇そうでいいなとでも言いたそうな胡乱な表情をして睨んでいたが、背後で礼を言って受け取った鍵で鉄格子の扉を開ける光太郎に気付いて振り返った。
 どうせ人間の捕虜がたかだか30人ぐらいで束になってかかって来たとしても、シンナはもとより、シュー独りいれば叛逆して脱獄しようものなら一瞬で累々たる死体の山をこの地下牢に築くのも朝飯前だろう。だから脱獄などは気にも留めていないのだが、問題は大切な【魔王の贄】の存在である。
 どれほど自分の身がこの闇の国で重宝されているのか、そんなことには少しも気付いていない光太郎に、その重要性に気付きまくっている捕虜どもが危害を加えないと言う保障はない。
 ただその気懸かりだけで、シューは光太郎と捕虜たちの動向を見守っているのだ。

「大丈夫?ずっと気になっていたんだ」

 光太郎が屈み込むようにして横たわっている捕虜の傍らに座り込むと、ウォルサムが困惑したようにそんな光太郎に呟いている。

「包帯がここに来た当時のままなんだ。たぶん、菌にでもやられたんじゃないかと…」

 額に手を当てて熱を測る光太郎の傍らで、捕虜たちは光太郎を捕らえてどうかにかしようなどと言う気配などこれっぽっちも見せず、ただ不安そうに仲間の顔を覗きこんでいる。こんな異国の地で、顔見知りはたったの30人しかいないのだ、その中の1人でもいなくなってしまうなど…彼らには考えられないでいた。

「うん、包帯が血液で汚れてる。ちょっと化膿してるみたいだね」

 光太郎が腕に巻き付けられている汚れた包帯を解きながら呟くと、ウォルサムが意を決したように立ち上がって、一瞬シューたちの間に緊張が走った。

「シューの旦那。頼むから新しい包帯をくれないか?」

 それが人に物を頼む態度か?とでも言ってやりたいぐらいだったが、そんなことをして土下座でもすればいいのかと話がそっちの方向に向かって、現実に土下座でもさせようものなら光太郎からなんと言われるか…そっちを考えただけでもシューの背筋には冷たいものが走って、ウンザリしたように肩を竦めるのだ。

『ブラン、包帯を…ん?』

「何をするんだ!?」

 背後が俄かに騒がしくなっても、光太郎は発熱して苦しそうにしている捕虜に、飲み水に浸したタオルを絞って額に押し当ててやった。こんな場合はどうしたらいいんだろうと悩んでいると、周囲で一瞬ハッとした気配がして光太郎は振り返った、振り返って驚いた。

「シンナ…」

『診せてご覧なさいなン』

 シンプル且つ大胆な衣装を身に纏ったシンナが、華奢な腰に片手を当てて立っていたのだ。光太郎がホッとしたその時、不意に捕虜たちが殺気立って身構えたのだ。

「え?え?どうしたんだい…?」

 ワケが判らなくて困惑する光太郎の前で、シンナはそんな捕虜たちを冷ややかな目で見詰めるだけで何も言おうとはしなかった。先に口を開いたのは捕虜の方だった。

「し、シンナ副将!この悪魔めッ、俺たちの仲間を今度はどうしようって言うんだ!?」

 呆れたように肩を竦めるシンナの前で、光太郎が慌てたようにそんな連中を見渡して口を開いた。

「何を言ってるんだよ?シンナがこんなところで何をするって言うんだよ?」

「光太郎!ソイツは悪魔みたいに俺たちを殺そうとしたんだぞ!シューがいなかったら、悔しいが俺たちは皆殺しだったッ」

 それじゃあ…と、光太郎がこの傷を負わせたのはシンナだったのかと目を瞠って振り返ると、シンナはちょっと不機嫌そうに眉を寄せて、可愛い顔を曇らせながら唇を尖らせたのだ。

「なんだ!それじゃあ、話は早いじゃないか。シンナが傷付けたのならシンナが面倒見ないと」

「はぁ!?」

 何を言い出したんだとウォルサムを始め、捕虜一同が眉を跳ね上げて驚く前で、光太郎は立ち上がると自分と同じぐらいの背丈の少女の腕を掴んで傍らに一緒に座り込んだのだ。

「どうかな、シンナ?俺じゃ、傷とか判らないんだ」

 呆気に取られていたシンナはしかし、真剣に化膿して膿んでしまっている傷口を痛々しそうに、心配そうに覗き込みながら尋ねてくる光太郎に、ちょっと嬉しそうに笑って頷いた。

『どれどれン?ん、これだと、あの薬が効きそうねン』

 腰に巻いたベルトに下がる小さなポーチから練薬の詰まった小さな鉄製の缶を取り出すと、刺青が隈なく肌に這う指先でもってその傷口に触れようとしたその時だった。

「…ッ、…うぅ…お、れに触るな!」

 発熱と痛みで意識も朦朧としているに違いないのに、人間の捕虜はシンナの手を振り払うようにして身体を曲げて拒絶したのだ。光太郎が「そんなこと言ってる場合じゃない」と捕虜の肩に手をかけようとしたまさにその時だった。

『いい加減にしなさいン!だから人間は愚かでディハール族は見捨てたのよン!たとえ手当てする相手が敵将だったとしても、どうして早く善くなるようにそれを甘受しないのン?どうしてアンタたちには早く善くなって、全快した身体でここを抜け出して、家族の為に仇を討とうとする気迫ってものがないかしらねン!そんな安っぽいプライドなんて捨てなさいン!!』

 思い切り背中を叩かれて、痛みと熱に朦朧としている捕虜はそれでも、呆気に取られたようにシンナを振り返っていた。もちろん、その場にいた見張り兵もウォルサムも捕虜たちもシューも光太郎もみんなが、呆気に取られたようにそんなシンナと傷付いて倒れている捕虜を見ていた。

『早く腕を出しなさいン!それともあたしに力尽くで腕を引っ張って欲しいのン!?』

 シンナの剣幕に捕虜は慌てたように腕を差し出して、それからとうとう眩暈を起こしたのか、クラクラしたように気を失ってしまった。

『ほら、見なさいン。余計に自分を苦しめて何が楽しいのかしらン?人間てヘンな生き物ねン!』

 元はディハール族も人間だったのだが、魔物になってしまって長い年月が過ぎたせいか、それとも生まれた時から既に身体中に刺青を彫られて魔力を注ぎ込まれているせいなのか、シンナには自分が人間だったと言う概念がないようだ。

「シンナの言うとおりだよ。敵でもこうして手当てしてくれようとしてるんだから、それを受け入れて早く元気にならないと!シンナの場合は、手当てしてあげないといけないんだけどね」

『いやン!痛いところを突かないでン♪』

 逸早く我に返った光太郎が納得しながら頷くと、薬を塗り終わって包帯を巻いているシンナの傍らから覗き込みながら呟いて語尾をおどけたように言えば、シンナがケラケラと笑いながらそれに応えた。
 呆気に取られていたウォルサムはしかし、ちょっと俯きながら信じられないように呟くのだ。

「どこの世界に、敵将が捕虜の手当てをするって言うんだよ…」

『シンナだってそんなヤツじゃないぜ。人間は死ねってのがアイツの信条だからな』

 呆れたように双眸を細めた、腕を組んだシューがそう言うと、ウォルサムが弾かれたように顔を上げてそんなライオンヘッドの魔将軍を見上げたのだ。

「なぜだ?」

『なぜだと?』

 シューはそんな茶髪の人間をジロリと視線だけで見下ろすと、ニヤッと嗤って唇の端を釣り上げるのだ。

『大方、光太郎のおかげだろうよ。お前たち捕虜は、どんな理由であれ光太郎を粗末にしないほうがいいんじゃねぇか?俺たち魔物が食い殺したいと思っても、あのチビがそれを止めればヤル気なんか一気に萎えちまう。それは特別な存在だからってワケじゃねぇ。光太郎にはそんな力があるからな』

「…」

 フンッと鼻で息を吐いて笑い合う光太郎とシンナに視線を移すシューを見上げていたウォルサムは、思わずと言った感じで呟いていた。

「そうか…まるでグラーシュカ様だ」

「おお…そうだ、グラーシュカ様だ」

 その呟きを耳聡く聞きつけていた捕虜の1人が頷くと、そこにいた人間たちはずっと気になっていた何かの答えを見つけて口々にそれを口にした。

「光太郎はグラーシュカ様に似ているんだ」

 誰かが言えば。

「異世界から導かれて来たんだろ?光太郎こそ、俺たちのグラーシュカ様だ」

 誰かが言う。
 そうして、そんな背後の気配など我関せずでシンナと薬草について講義している光太郎を、シューは見詰めながらやれやれとタテガミに埋もれてしまいそうな耳を伏せるのだった。

『なるほどねぇ、愛と美と戦女神のグラーシュカね。光太郎はどう見ても男なんだがな』

「そんな性別なんか関係あるかよ。アンタが言ったんだろ?光太郎を大事にしろってな」

 ウォルサムが敬うような敬愛の双眸で光太郎を見詰めている姿を見下ろしながら、シューは違った意味で背筋を流れる冷たいものを感じた。
 人間の考える情愛は、時として魔族では考えられないほど深い場合もある。
 光太郎を神格化して、そんなつもりではなかったシューは不安になって荒々しく息を吐いた。

『フンッ!その戦女神グラーシュカの化身は俺たち魔族に微笑んでいるんだ。残念だったな』

 吐き捨てるようにそう言って、シューはズカズカと歩いて行くと、シンナの薬草に対する豊富な知識に瞠目している光太郎を背後からむんずと腰に手を回してヒョイッと小脇に抱え上げると、無言のまま牢屋を後にした。

「あれ?シュー、どうしたんだい?」

 何も知らない光太郎が目を丸くしながらもニコッと無邪気に笑って見上げてくると、シューは凶悪な表情をしてそんな人間の少年を見下ろした。

『誰でも彼でも愛想を振りまいてるんじゃねぇ!』

「ええ!?」

 一方的な言い草にワケが判らない光太郎がビックリしていると、クスクス笑いながら牢屋から出てきたシンナがポーチに薬を仕舞いながら掴まれている光太郎の顔を覗きこんだ。

『シューは光太郎を誰かに取られそうでヤキモキしてるのよン』

「ええ~♪」

 嬉しそうに笑う光太郎とそれに応えて微笑むシンナを見下ろしながら、シューはガックリと項垂れて首を力なく左右に振ったのだ。

『頼む、そんなつもりじゃねぇんだ…』

 もう勘弁して、と言いたそうに力なく尾を振るシューを、今度こそ本当に何事かと驚いた光太郎が見上げている。その後ろ姿を、ウォルサムは閉ざされた鉄格子を両手で掴みながら閉鎖された空間から熱心に見詰め続けていた。

(グラーシュカ様は暁を往く戦女神…柔和な笑みが愛と美を象徴し、掲げた剣が諍いを象徴する)

 ウォルサムは溜め息を吐いた。

(我らが崇める女神がなぜ、魔族の許に…?)

 乱暴に小脇に抱えられている光太郎が、優しそうな笑みを浮かべて強面のライオンヘッドの魔物を見上げている。その表情は、嘗てウォルサムに「シューしかいないから」と言って悲しそうな表情をして見せた光太郎の、絶対的な信頼を寄せた顔だった。
 シンナが何か言ってシューが項垂れると、弾かれたように陽気な声を上げて笑う光太郎が、ライオンヘッドの魔物から軽く小突かれて頭を抱えている。
 その光景は、恐らくウォルサムがこの魔城に囚われてから初めて見た、いや、この世に生を受けてから初めて見た、魔物と心を通わせている人間の姿だった。