3.囚われし大地の者  -永遠の闇の国の物語-

 シューと行動を共にし始めた光太郎は、あれほど探検し尽くしていたと思っていた城内が、実は思った以上に広かったことを知ったのだった。
 さて、これからどうするか?の問いに、光太郎は元気よく、この城の中で自分の知らない場所を見せてほしいと懇願した。その答えに、シューは些か困惑したように獅子面を顰めて見せたが、それでも退屈凌ぎにはなるだろうと頷いて、歩き出しながらついでのようにこの世界の事についても大まかに語り始めたのだ。

『この世界には多数の国々が在った。在った、と言うからには既にもうないワケだが、それは大きな戦が起こったからだ』

「戦(いくさ)って戦争だね。それはやっぱり魔族対人間ってこと?」

 光太郎の質問に、シューは彼をチラッと見下ろしてから頷きながら先を続ける。

『魔族はそれまで定住の国を持たなかったんだ。みんな、それぞれバラバラに森の中で暮らしていたんだぜ。今の状況からじゃ考えられねーだろ?』

「そうだったんだ。うん、今はみんな一緒に住んでいるみたいだからね」

 光太郎が頷きながら応えると、シューは肩を竦めながら先を続けた。

『ある日、今の魔王がお出ましになってから、俺たちには秩序と言うものができてな。部族たちで寄り集まって部隊を編成して、そして城を築き、ここに移り住んでみんなで暮らし始めた』

 遠い昔を思い出すように耳を伏せて双眸を細めるシューを、光太郎は無言のままで見上げながら静かに聞いている。

『城が築かれたときには既に人間との戦は始まっていたし、思った以上に簡単に次々と国を落とせた。だがそれは、魔王の強大な力があったからこそなんだ。さもなきゃ、俺たちの様な雑魚が束になっても、簡単に屈するような国々だったワケじゃねぇからな』

 獅子の頭部を持つ屈強な体躯の持ち主であるシューを、光太郎は上から下まで繁々と眺めながら、シュー1人でも100人ぐらいは倒せてしまうんじゃないかと思っていたが、それは口に出しては言わなかった。

『だがな、そんなひ弱な人間どもの中にも、魔王に対抗するべく力を持ったヤツがいたのさ』

「ホントに?」

 そんな強い人がこの世界にもいるのかと、光太郎は驚いたように目を瞠ってシューを見上げた。ライオンヘッドの魔物は、無邪気に驚いてみせる人間の少年を、複雑な表情をして見下ろすのだ。

『沈黙の主と呼ばれる、元はラスタラン国の王太子だった男だ。辣腕の持ち主でな、敵将ながら天晴れだと誉めてやりたいぐらいさ』

「沈黙の主…って言ったら、さっきシンナが怒っていた人のことかな?」

『そうだ。ゼィとシンナは魔王の命を受けて沈黙の主討伐に行くんだが、これがいつも空振りで終わっちまう。まあ、だからこそ沈黙の主の力の凄まじさが判るってもんだがな』

 光太郎はそんな風に話すシューをふと見上げて、そのライオンヘッドの横顔をじっと見つめた。そんな光太郎の仕種に気付いたのか、シューは訝しそうに眉間に皺を寄せてみせると、苛立たしげに牙を剥いた。

『なんだよ?』

「え?あ、ううん。ちょっと、シューってもしかしたら、沈黙の主を気に入ってるのかなって…」

『なんだと?』

 不意に凶悪な顔をして凄むように顔を覗きこまれた光太郎は、途端にビクッとして首を竦めながら両目をギュッと閉じて詫びを入れる。

「わわ!ごめんッ、ごめんなさい!…そんな、真剣に怒らなくってもいいだろ?ちょっとそんな気がしただけなのに~」

 それでもすぐにムゥッと眉を寄せ、目と鼻の先に鼻面を押し付けるようにして覗き込んでくる円らな瞳を見つめ返しながら、光太郎は下唇を突き出して抗議した。そんな光太郎の態度にますますムムム…ッと腹を立てる、本来なら泣く子も黙る魔族が挙って褒め称える獣人族の雄姿を持つシューは、鼻面に皺を寄せて威嚇していたが急に馬鹿らしくなったのか、肩を竦めて上体を起こすのだ。

『気に入ってるワケじゃねぇが…まあ、確かに認めてるって言やぁ認めてるのかもしれんがなぁ…』

 ブツブツと悪態を吐く獅子面の魔物を見上げて、光太郎は納得したように頷くのだ。

「きっとシューは、力のある人は敵味方の区別なくきちんと認められる人なんだね」

 ニコッと笑って、感心したように何気なく口にしたその言葉に、シューは唐突にムッとした顔をして鼻息も荒く何も言わずにズカズカと歩き出してしまった。それに困ったのは光太郎で、突然機嫌が悪くなったシューの後を追い駆けながら、慌てたようにその顔を覗き込もうとして必死だ。

「もう!何でシューってばいつもそうカッカしてるんだよ?そんなんじゃ何にも話せないよッ」

『お前はイチイチうるせーんだ。黙ってついて来ればいいじゃねぇか』

「黙ってるなんて嫌だよ。せっかくシューがいるのに…黙ってるなんてのは話す人がいない時だけでいいんだよ。って言うか、そもそも話せる相手がいるのに話さないなんて言うのは根暗じゃないかな?俺、そう言うの苦手だからたぶんきっと、凄く話すと思うよ。そう言うの嫌だって言ったらシューと一緒にいられないじゃないか。そう言う場合はシューが我慢しなくっちゃダメなんだよ」
 全く、自分勝手な屁理屈を捏ねて獅子の頭部を持つ魔物の腕を確りと掴んで一緒に歩きながらブチブチと話し続ける光太郎を、シューは呆気に取られたような顔で見下ろすと、次いでうんざりしたように肩を落としてしまう。

「そもそも、シューはちょっと怒りっぽすぎるんだよ。些細なことなんだから『アハハハ』って笑って聞き流してくれればいいのにさ。そりゃ、俺だってちょっと言いすぎる時だってあるかもしれないよ?そう言うときにこそ、シューのそのご自慢の怒りっぽさを披露して怒ってくれればいいんじゃないか。そしたら俺だってこんなに悩んだりとか、シューだって血管切れそうな顔しなくってもいいのにさ~」

 饒舌な光太郎の話に肩を落としていたシューは、半ばウンザリしたようにその頭を小突いた。

『判った判った!うるせーヤツだ。そら、ここにお前の仲間がいるぞ』

「アイタタタ…仲間?」

 小突かれた頭を擦りながら涙目で指し示された扉を見て、光太郎は怪訝そうに眉を寄せてシューを見上げた。自分と同じように、この異世界に引っ張り込まれてしまった人がいるんだろうか…
 その期待と不安が入り混じる感情を、シューは殊の外あっさりと否定した。

『人間の捕虜だ。ちょっと前、俺が戦に出たときに捕まえたんだが…人間同士、仲間じゃねぇのか?』

「え?あ、うん。そりゃ仲間だけど…」

 仲間と言われればどうしても元いた世界の住人たちを思い出してしまう。それは致し方のないことなのだが、シューには通じなかったのか、それこそライオン面が怪訝そうに顔を顰めて首を傾げている。
 それでもシューは肩を竦めるだけでそれ以上は追求せずに、いや、追及してまたもや延々と喋り続けられては敵わないと思ったのだろう、扉を開けて階下に続く階段に促した。

『足許が滑る時があるからな、ひ弱な人間は気をつけろよ』

 ニヤニヤと笑って先を行くシューの腕を掴んだままで、ひ弱と言われてしまった人間である光太郎はムッとしたままで、それでも思った以上に滑り易い石段を踏み締めるようにして黙々と降りることにした。口を開けるほど余裕がないのだ。

 漸く安定した石畳に降り立った光太郎は、松明の明かりにぼんやりと浮かぶ狭い室内を見渡した。室内とは言っても、石造りの廊下を挟んで左手に見張りの兵士の詰め所のような部屋があり、右手に鉄格子の嵌った大きな牢屋が陣取っているのだ。左右にその部屋があり、降り立った場所は廊下に続く石畳である。

『えーい、喧しい!!黙って寝てろや、人間がッ!!』

 唐突に響く怒号に被さるようにして何かで鉄格子を激しく叩く音がしたかと思うと、今度は人間らしき声が哀れっぽく響いてきた。

「いーじゃねーかよぉ、カードぐらい!ここじゃヒマでヒマで仕方ねーんだよ」

『カードだと!?この間はボードゲームを寄越せと言ったじゃねーか!あれはどうしたんだ、ええ?』

「ボードゲームは飽いたに決まってんだろ?いったい何時の話をしてんだよ!なぁ、頼むよ~」

 光太郎は目を白黒させながらシューを見上げるが、シューは肩を竦めているだけで、口許に薄ら笑いを浮かべて一部始終を観察する気でいるようだ。
 その場所からは実によく、状況が見渡せてしまうのだ。
 牛面の青い皮膚を持つ魔物が長い槍でガツンガツンと格子を叩けば、格子にだらりと腕を出した茶髪の人間が怯える様子も見せずに懇願している。その背後で、負傷もしているのか、包帯を額に巻いている兵士や、腕を釣っている兵士が思い思いの姿で自由に寛いでいた。ただ、カードをする仲間はその茶髪を後押しするように囃し立てて援護しているようだが。

『カードか…ムムゥ、ちょっと待ってろや』

「いえーい!話が判るじゃねーか♪」

『うるせー!!』

 どうやら話がついたのか、囚われの身である茶髪の兵士は背後で援護していた仲間たちと手を叩きながら勝利を喜んでいるし、牛面の魔物はノソノソと見張り兵の詰め所らしき部屋に戻ろうとしていた。が、不意にシューたちの存在に気付いて驚いたように敬礼したのだ。

『これは、シュー将軍!』

「シューだと!?」

 魔物の語尾に被さるようにして叫んだ牢屋に囚われている人間の兵士、特にあの茶髪の兵士がガシャンッと格子を掴んで顔をへばり付かせるようにしてこちらを見ている。

『黙らんか!この無礼者どもめが!!』

『まあ、そう気色ばむな、ブラン。人間どもの調子はどうだ?』

 畏まりながらもギャアギャアと喚き散らす人間の兵士を黙らせようと、持っていた槍で格子をガシャンガシャンと叩いて威嚇する青い牛面の魔物を、シューは宥めるように片手を挙げて制した。

『はは!心身ともに健康体でありまっす』

 見事に畏まる魔物に、光太郎がついつい噴き出してしまう。

「なんだ!?また人間を捕まえてきたのか??今度は子供か!卑怯だぞ、シュー!」

 茶髪の兵士が憎々しげにシューを見据えて怒鳴るが、そんな怒声などどこ吹く風なのか、ライオンヘッドの魔物はそんな兵士を無視して光太郎に声をかけた。

『ご覧の通り、ここが捕虜を入れてある牢だ。棲み難いが、仕方ねぇな』

「うん、ジメジメしてるね。でも、中を見たらそんなに酷い状況じゃないし…あれは、もしかしたらベノムの作ったパンじゃないかな?」

『そうだ』

 頷く獅子面の魔物とやたら親しそうに話す光太郎を、茶髪の兵士は両手で格子を掴んだまま動転した表情で、見比べるようにして瞠目している。

「ベノムの美味しいご飯が食べられるし、これで白いシーツがあれば、もう少し過ごし易いんじゃないかな?」

『シーツですかい?はは!調べてみまっすぜ』

 牛面の魔物が敬礼して畏まると、愈々茶髪の兵士は信じられないものでも見るような目付きをして格子に額を押し当てて睨み付けてきた。

「ど、どう言うことだ!?」

『どうってこたないさ』

 肩を竦めてニヤリと笑うシューと、キョトンとそんなシューを見上げている黒髪の少年を見比べて、茶髪の兵士は混乱した頭を落ち着かせようとでもするかのように光太郎に凄んだ。

「お前は人間でありながらどうして、魔物に加担しているんだ!?」

 そう取られても不思議ではないように、光太郎のシューに対する懐きようは傍から見ても明らかなものであった。だが、それが全く悪いことなどとは思ってもいない光太郎にしてみたら、どうしてそんな風に凄まじい目付きで睨まれているのか判らなくて怯えてしまった。

「ど、どうしてって…俺は魔物しか知らないから」

 それは全く素直な感想だったが、茶髪の兵士は呆気に取られるだけで、何か言おうとして失敗しているようだった。そんな2人の遣り取りを、腕を組んでニヤニヤと眺めていたシューが、とうとう堪り兼ねて噴き出してしまう。

『まあ、それぐらいにしておけよ、ウォルサム。コイツは実際、この世界の人間と触れ合ったことがねーんだから、お前たちよりも俺たちに親近感を持ったとしても仕方ねぇのさ』

「この世界の人間?…ってことはなんだ?あの、異世界から人間を召喚していると言う噂は本当だったのか!?」

 まさに青天の霹靂といった様子で格子を握り締めて動揺しているウォルサムと呼ばれた茶髪の兵士に、シューは肩を竦めるだけで否定も肯定もしなかった。その態度が、ますますウォルサムの猜疑心に翳りを植え付ける。

『どうした、ウォルサム。今すぐにでも沈黙の主の許に飛んで帰りてぇってツラだな、おい?』

 シューが意地悪く唇の端をニヤッと捲り上げて笑うと、格子を掴んだ格好で唇を噛み締めているウォルサムは食い入るように獅子の頭部を持つ魔物の傍らで怯える黒髪の少年を見据えていた。
 何も言えずにいるウォルサムをそのままに、シューはもう一度肩を竦めると、どうしたら良いのか判らないといった表情で立ち竦んでいる光太郎を促した。

『さて、そろそろ次に案内してやる』

 そんなシューを見上げた光太郎は、それから静かに鉄格子越しにウォルサムの前まで歩いていった。だが、それに対してシューは何か言おうとはしなかった。

「あの…俺、この世界に来て初めて人間を見たんだけど…えっと、よく判らないんだけど、今の俺にはシューしかいないから、魔物に加担するとか人間を裏切ってるとか、そう言うこと考えられないんだ。ごめんなさい」

 ペコリと頭を下げる律儀な少年に、ウォルサムはまたもや面食らったような顔をして見下ろしていたが、溜め息を吐いて首を左右に振った。

「悪いことは言わん。魔物に加担しても泣きを見るのはお前だ」

「…」

 シューは違う、そんな魔物じゃない…などと言い募ったとしても、目の前にいる人間の兵士には少しも通じないだろうと、光太郎には判っていた。
 長い間の確執は、そう容易く解れて柔和になるものではない。

(そんなこと、よく判ってる)

 唇を噛み締めた光太郎はでも、いつか、この頑なな心を持っている兵士に、少しでもシューやベノムのように、優しい心を持っている魔物が少なくとも2人はいるんだと言うことを教えてあげたかった。

「…人間も」

 ポツリと呟いた光太郎に、シューとウォルサム、そして先ほどから不思議そうに畏まりながらも状況を見守っているブランが注目した。ほんの少し眉を寄せた光太郎が、ウォルサムの碧い双眸を覗き込みながら口を開いた。

「やっぱり人間も魔物を捕虜にするとこんな風にしてるのかな?」

 大概、光太郎が見てきた戦争などでは、捕虜にされた人たちは過酷な拷問を受けたり、些末で汚らしい場所に打ち込まれたりしているものだが…咄嗟に、この環境はどちらも一緒なんだろうかと言う疑問が浮かび上がってきたのだ。
 怪訝そうな顔をしたウォルサムは、ちょっと考えてから、首を傾げながら後方を振り返って、事の成り行きを息を呑むようにして見守っていた仲間たちに問いかける。

「おい、捕虜にした魔物を知ってるヤツっているか?」

 顔を見合わせた仲間たちは1人ずつ首を左右に振った。
 それも仕方のないことで、肩を竦めたウォルサムは見上げている優しそうな漆黒の双眸を見下ろして下唇を突き出した。

「悪いな、俺達は一介の兵士に過ぎないんだ。一度の戦で重傷を負わなければ、すぐに次の戦に駆り出されちまう。そうすると、戦ごとに捕らえた魔物をどうしているのかなんてのは見ることも知ることも出来ないんだ」

『そう、そして俺は役に立たない捕虜を掴まえて来たって大目玉だ』

 シューが肩を竦めると、ウォルサムはムッとしたように眉を寄せて舌を出した。

「悪かったな」

『ふんっ』

 大概の兵士たちは戦場で死ぬのだが、この30人近くいる捕虜たちは部隊でシューを集中攻撃して生き残った連中だった。要は目を暗ますための捨て駒だったのだが、無駄な殺生を好まない、魔物としては珍しい性格のシューのおかげでこうして捕虜として監禁されていると言うわけだ。

「まあ、どうせ今の俺たちには何を言っても説得力はないからな。アンタ、なんて名前だ?」

 鉄格子の向こうから、それでも腹立たしいのだろう、眉を寄せたウォルサムが見下ろしてきて光太郎は何も言えずに息を呑んでいた。そんな様子を見ていたシューが、やれやれとでも言いたそうに首を左右に振って代わりに応えてやった。

『そんな風に凄むなよ。光太郎は魔物じゃねぇんだ。そんな目付きにゃ免疫がねぇ』

「…光太郎って言うのか。ん?なんだ、どこかで聞いたことある名前だな?」

 首を傾げるウォルサムに、光太郎はふとシンナの台詞を思い出していた。
 シンナもやはり、自分の名前に聞き覚えがあるとシューに言っていた。
 この世界で、いったいどこに光太郎と似たような名前の人物がいるのだろう、その人物はいったいどんな人なのだろうかと、そこまで考えて光太郎はそっと俯いた。どうせ、この城から出ることなど出来ない自分が、そんなことを考えても仕方がないと判断したのか、その考えを頭から追い出すことにしたようだ。

「まあ、いい。光太郎、アンタの行末が平安であることを祈ってるよ」

「…ありがとう」

 一種の儀礼的な別れの挨拶に過ぎない言葉なのだが、光太郎はなぜか、その言葉をとても気に入った。
 はにかむようにして笑いながら礼を言う光太郎を、何か不思議なものでも見るような目付きをして困惑したウォルサムは、腕を組んで立っているシューに疲れたような視線を移して肩を竦めて見せるのだ。

「もしかしたらシューの旦那、アンタ、えれぇ厄介者を押し付けられたのかもしれないな」

 振り返ってニコッと笑う光太郎を、シューは無言のままで見下ろしていたが、溜め息を吐いてジロッとウォルサムを睨み付けた。牙を剥いた威嚇はどこか愛嬌があって、それがシューなりの照れ隠しなのだと言うことを知っているものは案外少なかったりする。

『余計なお世話だ』

 思っていたのとは違う、裏腹の反応を見せる珍しいシューの態度に、ウォルサムはちょっと呆気に取られてしまった。いつもは鼻先で笑うか、魔物らしく些細なことで激情するかのどちらかだったのだが、今回の反応はそのどちらでもない。
 ニコッと笑いかけた少年の笑顔に絆されたような、そんな自分を見られてしまったという思いに駆られた照れ隠しの表情…照れ隠し?

(照れているとでも言うのか?この魔物が?)

 冗談じゃない。
 戦場で鬼神の如く次々と人間狩りをするこの凶悪な魔物が、人間の、しかも少年の笑顔に絆されて照れるだと?
 そこまで考えて、自分の恐ろしい妄想にウォルサムは眩暈がした。

「シュー、さっき言ってたカードはあげるの?」

 ふと光太郎が首を傾げながら尋ねると、シューは肩を竦めてブランを顎で指し示した。

『ブラン次第だな』

『はっ!シーツも用意してみまっすぜ』

 牛面の魔物が陽気そうに笑って敬礼すると、光太郎はホッとしたような表情をした。
 そして思うのだ、この城の魔物たちは少なからず魔物と言うには疑わしいほど、優しさを持っているものが少なくないと。そして彼らはそれに、実のところ少しも気付いていないのだろう。
 だからきっと、誰も言わないだろうと思う言葉を、光太郎はブランにプレゼントした。

「ありがとう、ブラン」

『へ?アッシは命令に従ってるだけですぜ?』

 驚いたように槍を両手で握り締めてヲタヲタする牛面の魔物に、光太郎はそれでもいいんだと笑ってみせた。その自然な会話を聞いていたウォルサムは、奇妙な違和感を覚えたのだ。
 人間である自分と会話したときの少年の、あの困惑したような怯えた眼差し…本来ならあれは、あの目付きは、人間にではなく魔物に向けられるべきものではないのか?
 促されて、驚きながらも嬉しそうに笑うブランと困惑して眉を寄せる囚われの兵士たちに「さようなら」と手を振る光太郎と、そんな人間の少年を仕方なさそうに見つめている獅子面の魔物を心ならずも見送ったウォルサムが、この牢獄に囚われて初めて感じた違和感だった。

Ψ

「地下牢ってのはポピュラーだけど、そこに入れられた人たちはきっといつか、病気になると思うんだけどな…」

 ジーッと前を行くシューの大きな背中を見つめながら、光太郎は地下牢を後にしてからもうずっと、ブツブツとそんなことを呟いていた。もちろん、シューに聞こえよがしに、だ。

「怪我もしてるみたいだったし、衛生的には良くないと思うよ?ほら、だってもし感染症とか伝染病とか流行ったりしたら、この城に住む魔物たちにもうつったりして大変なことになるんじゃないかな!…とかね、考えてみたりして…エヘヘヘ」

 ギロッと睨まれてビクッとした光太郎は、流石にそれ以上は強気に言えず、語尾は誤魔化すように笑って見せた。が、それでもやはり、あんなに湿ってジメジメした場所では治りかけた傷でも悪化してしまうのではないかと、囚われた兵士達の身体が気懸かりで大股で歩くシューの腕を掴みながら小走りでその顔を覗きこんだ。

「なあ、シュー!牢屋を移してくれ…とかそんな大きなことは言わないけど、せめて過ごし易く通風孔とか掘ってあげるとかできないのかな?あの湿気はやっぱり、風通しが悪いからだと思うんだけど…」

『病になっても構わん』

 いっそキッパリ言われてしまって、光太郎は言葉もなく立ち竦んでしまった。
 その台詞は、『人間など』病になっても構わない、とシューはハッキリ宣言したのだろう。
 確かにシューは人間嫌いだ。
 忘れていたが、つい数時間前までシューは嫌なものでも見るような目付きで光太郎を見ていた。どう言った心境の変化でなのか、今でこそシューはちゃんと光太郎の話を聞いて応えているが、彼は人間を毛嫌う魔の心を持った魔物なのだ。

「…ふんだ」

 いつの間にか立ち止まっていた光太郎に気付いて、肩越しに振り返るシューを軽く睨んだ黒い双眸を持つ少年が唇をへの字にしている。怖くないぞと自分に言い聞かせて、睨んでくるシューの金色の双眸に気圧されそうになる心を叱咤しながら、光太郎は堂々と宣言した。

「いいよ、どーせシューに言っても無駄だって思ってたんだ!こうなったらゼインに直接頼んでみる。城の外に出なければ、どこを歩き回ったっていいんだろ?」

『お前、それとこれとは…』

 違うと言い掛けた語尾が終わらぬうちに、フフンッと胸を張って笑っていた光太郎は脱兎の如く走り出していた。

『…って、おい、ちょ!待ちやがれッ!』

 慌てたのはシューで、城内に響き渡るような堂々たる宣言に、驚いたように振り返る魔物や魔導師、思わず裾を踏みつけて転ぶ闇の神官たちがドカドカッと走って追い駆ける獅子面の魔物を驚いたように見送っていた。

Ψ

『ほう…通風孔と?』

 魔王が大半を過ごす玉座の間には、憤然とした憤りを持つ光太郎と、呆れ果てて言葉もなくムッツリと黙り込んでいるシューがいた。片膝をついて頭を垂れるシューに頭を押さえつけるようにして平伏させられていた光太郎は、魔王の静かな、しかし意思ある深い声音に大きく頷くと、大きな腕を振り払うようにして顔を上げたのだ。

「そう!城内なら勝手に出歩いてもいいんでしょ?だったら、少しぐらい城内を工作してもいいんじゃないかな…と思いました!」

 シューにジロリッと睨まれて、その視線を気にせずにはいられない光太郎は、ムッとしてそんな魔物をチラチラと見ながらも一応言葉を正して発言する。
 そんな2人の遣り取りをどこか楽しそうに小さく笑って、魔王は腹の上で両手を組むとゆったりと背もたれに凭れて頷いた。

『なるほど、地下牢に通風孔か。だが、独りでは年月もかかろう』

「俺、工作とか結構得意なんだッ…なんです。えっと、道具とか貸してくれたら頑張れると思います!」

 いちいちシューの視線を気にしながらそれでも確り意思を伝えてくる光太郎を、魔王ゼインは暫し紫紺の双眸でジッと見つめていたが、ドキドキしたように視線を逸らさずに強い双眸で見つめると言うよりも睨み返すと言った方が良いような目付きで光太郎は見つめ返した。

『シューも承知しているのか?』

 その目付きに意思の固さを見たのか、この世ならざる美しき相貌に柔和な笑みを浮かべてライオンヘッドの魔物を促した。

『俺は…はあ、まあ。一応は』

 懇願するような、取って喰うぞとでも言いたそうにジーッと見つめてくる直向きな漆黒の双眸に、刃向かえない意志の強さを見て取ったシューも、仕方なさそうに歯切れも悪く頷いてしまう。

『よかろう。だが、この件で何かあるとすれば、その全責任はシューが負うものとする』

『はっ』

「ええ!?」

 別に気にした風もなく頭を垂れるシューと、柔和な笑みを浮かべている魔王ゼインを見比べながら、光太郎は驚いたように思わず立ち上がってシューに腕を引っ張られてしまった。

「どうしてシューが責任を取るんだ!?話を持ち出しのは俺なのにッ!」

『こら、光太郎。魔王に対する口が過ぎるぞッ。まあ、手柄を取りたい気持ちも判らんでもないが、何かあってもお前じゃあなぁ…』

「はぁ!?手柄ってなんのこと?何かあっても言いだしっぺの俺が責任を取ればいいじゃないか!シューは勝手に俺が巻き込んだだけなんだ、このことが失敗してもし、たとえば捕虜を逃がしたとしてもシューに罪はないよ!」

 慌ててシューを庇うようにして前に身を乗り出しながら、光太郎は非情な魔王ゼインの言い付けに真っ向から刃向かおうとして睨み付けた。その態度に一番ビックリしたのはシューで、目を白黒させながら困ったように光太郎の腕を掴んで座らせようとしたが、強情な人間の少年は思うように言うことを聞いてくれない。
 せっかく意見を聞き入れてくれた魔王が気分を害しでもしたら、嫌々参加した自分の面子も丸つぶれなら、何よりもこれまで頑張った光太郎の苦労も水の泡ではないか。
 ハラハラするシューの前で、魔王ゼインは殊の外上機嫌でニコリと笑った。

『なるほど、其方。シューに責任を負わせたくはないのだな。だが、行動を起こすという事は何かしらの犠牲を覚悟して行わねばならぬもの。其方が失敗すればシューが問われることになる。せいぜい、2人で身命を賭して臨むのだな』

 その言葉で、シューと光太郎はそれぞれの疑問の答えが出た。
 シューは光太郎が頑なに拒んだのは手柄を独り占めしたいと思ったからではなく、ただ単に巻き込んでしまったシューに責任を負わせたくないと言う責任感の表れだったと知り、光太郎は魔王の意図するところがシューに責任を負わせることで中途半端な気持ちで臨んではいけないことなのだと教えられたのだと知った。
 そして何より、同時に2人が顔を見合わせたのは、シューに責任が移ることで嫌でも獅子面の魔物が手伝わざるを得ないと言うことになったのだ。
 シューが『俺も手伝わないといけないのか…』とガックリしている傍らで、腹を決めた光太郎が頷きながら魔王を見据えて言い放ったのだ。

「…判りました。絶対に成功させて、シューは俺が守ってみせる」

『グハッ!』

 思わず咽て咳き込みそうになったシューだったが、魔王ゼインが思うよりも穏やかな表情で『そう願うとしよう』と呟いた以上は何も言えなくなった、が、それでも納得できずに鬣に隠れそうな耳を伏せて人間の小さな少年を見下ろした。

「早速、今日からでも取り掛かりたいから、道具を借ります」

『うむ、好きにするが良い』

 活き活きと目標を持った光太郎が立ち上がると、ゼインは肘掛に頬杖をついてゆったりと頷いた。
 こうして、この闇の国の住人となった光太郎の最初の仕事が、一部の魔物、シューの憤懣やるかたない憤りを無視して決まったのだった。
 異世界から導いてきたまだ幼い少年は、その見掛けとは裏腹に、一人前の強い意思を持っているのだろう。
 魔王は、目の前で自分よりも遥かに身体の大きな魔物を、必死で守ろうとしている人間の少年の心を見透かすことができずに、内心で僅かに瞠目していた。
 もしやこの少年は、【魔王の贄】としてだけではなく、何か秘められた力を持っているのではないか…ふと、微かな風のような予感が魔王の心を掠め、頬杖をついたままで、ゼインは眼前でガッツポーズをしてライオンヘッドの魔物を困らせている少年を食い入るようにして見つめていた。

『暁を往く者…か』

 囁くように呟いた魔王の独り言は、不思議と周囲の者には聞こえない。

『なるほど、面白い』

 深紅の口唇を凶悪な笑みに歪めて嗤う魔王に気付かない光太郎とシューは、深々と敬礼して玉座の間を後にするのだった。
 立ち上がった魔王はゆったりとした足取りでバルコニーに出ると、時折遠くの方で暗雲を貫くようにして閃く雷光に、その紫紺の双眸を細めて己が領地を見下ろした。
 遥かに広がる魔の森には、未だに餌食を求めて彷徨う獰猛な低級魔物どもの、耳を劈くような悲鳴が響き渡っている。安らぎなど一片も与えられることのない永遠の闇の国の、終わらない物語の歯車がゆっくりと動き出す。
 魔王は微笑んだ。
 終わらないものなどありはしないと。
 魔天を貫くように雷鳴が響き渡った。