5.哀しみを抱く者  -永遠の闇の国の物語-

 城の騒ぎに朝早く駆けつけたシューは、箒を掲げて掃除宣言している人間の少年を見つけて蒼褪めた。
 激しく部屋のドアを叩かれて、もしやと思いベッドの傍らを見ると昨夜安らかな寝息を立てていた光太郎の姿がないと見るや、嫌な予感に駆り立てられていたものの、案の定を目の前にしてしまっては蒼褪める他にない。ましてや彼は低血圧だ。

「あ、シュー♪ちょうど良かった、俺、これからこの城を掃除しようと思うんだよね…」

『掃除だと!?』

 人を舐めてるのかと聞きたくなるシューと、そんな光太郎を交互に見遣っていたゼィが、不機嫌そうに眉を寄せている。

『なんともはやシューよ、この数日の騒ぎといい此度の騒ぎといい…どう言う躾をしておるのだ?』

「躾って!…失礼だなー」

 ムゥッと唇を尖らせる光太郎を真上から冷ややかに見下ろしているゼィに、シューはガックリと肩を落としながら項垂れてしまう。そんなシューを見上げていた光太郎は、眉を寄せながらブチブチと悪態を吐き始めた。

「大体シューにしてもゼィにしても、室内の汚れとか無頓着すぎるんだよ。そもそも、それはシューやゼィだけじゃないね、魔族全体が汚れって物に頓着がなさすぎるってことだよ。だから食堂でもあんなに汚してても誰も気付かないでそのまんまにしているし…掃除する人の立場になって考えてみたら、それがどれだけ大変なことなのかってのが良く判ると思うんだよね。だから、ハイ♪シューとゼィも手伝ってよね」

『な、なんだ、コヤツは!?何を言って!?むっ、どうして私は今箒を持っておるのだ!?』

 悪態を吐きながら最終的には自分の都合よく考えた結果を弾き出したのか、光太郎は満足したように無邪気に笑って、呆気に取られているゼィがハッと気付いた時にはニッコリ笑った光太郎から箒を押し付けられている始末だった。そんな遣り取りを耳を伏せるようにして遠くを見る目付きのシューに、青紫の髪を持つ禍々しいほど美しい青年は普段の冷静沈着さからは想像もつかないほど動揺したような目付きで訴えている。

『まあ、流れに身を任せるのが無難ってとこかな…どうせ、もう魔王のお許しも受けているだろうし…ははは』

 あの、泣く子も黙るゼィすらも手玉に取る人間の少年に、半ば既に廃人化しそうになっているシューが力なく渇いた笑いを浮かべると、光太郎が嬉しそうに頷いた。

「ゼインはそれはいいことだって誉めてくれたよ。んで、どうせなら日頃掃除を怠っている魔物どもも手伝わせなさいって言ってた。自分たちが住んでいるお城だもんね。ああ、そうそう。少しはゼインも手伝うけど、玉座の間も宜しくって言ってたよ。結構気さくな人だよね、魔王さまって♪」

『!!』

 ゼィが眉間に皺を寄せたままで驚愕していると、シューがその傍らで旧知の友の肩に腕を回して慰めるようにポンポンッと軽く叩いた。軽く叩いて、ニッコリ笑っている屈託のない人間の少年を指差しながら。

『まあ、光太郎ってのはこう言うヤツだ』

 諦めろと、その口調は物語っている。

「取り敢えず、俺はこの長い回廊を掃いてから拭き掃除するけど、シューとかゼィは強そうだから外に行って花でも摘んできてよ」

『花だと!?』

 ゼィが思い切り呆気に取られたように光太郎を見下ろしたが、信じられないとでも言いたそうにシューを見遣った。どうもこれは、お世話係のシューの責任だけと言うのではなさそうだ。
 朝早く目覚めたゼィがシンナを探して散歩がてらに回廊を歩いていると、数本の箒を抱えた光太郎にバッタリと出くわしたのだ。夜明けだと言うのに暗い城内には松明の明かりが燈り、漆黒の外套を纏っているゼィの存在に、当初光太郎は少し戸惑っているようだった。
 青紫の髪と禍々しいほど美しいその無表情の顔を食い入るように見詰めていた光太郎は、ハッと思い出したのか、箒を抱え直しながらニコッとそんな美しい魔物に笑いかけたのだ。

「そっか、ゼィだったね。おはよう!」

 気さくに、ゼィすらも一瞬呆気に取られるほどあっさりと、恐れ気もなく人間の少年は挨拶してきた。それも、こんな暗黒の支配する鬱陶しいほど重苦しく閉ざされた闇の国で、あっけらかんとするほど陽気な朝の挨拶を…
 ちょっと驚いて目を微かに瞠ったゼィに気付かない光太郎は、早速、魔王から借りた掃除道具を見せながら掃除宣言を始めたのだ。

「今日からこのお城の掃除を始めるから、ゼヒ!手伝ってもらいます♪」

『…断わる』

 何を言っているんだと怪訝そうに眉を寄せたゼィが、あからさまに嫌そうに即答で断わると、やはりあからさまにムッとした光太郎が唇を尖らせて言った。

「自分たちが住んでいるお城なんだよ?そりゃあ、誰かに任せてれば楽なんだろうけど…でも、その任された人が辛くなって止めちゃったらどうするんだよ?そしたらそれはその人のせいにするのかい?そんなのおかしいと思うよ。いや、絶対におかしい。自分たちが暮らしている場所で、自分たちが汚してるんだったら自分たちで掃除しないと!それに、たとえその汚れとかゴミが自分のじゃなくても、一緒に暮らしてるんだったら誰かのゴミも自分のゴミだって思って掃除しないとドンドン汚れていっちゃうんだよ。我関せずなんてかっこ悪いよ!だから、ハイ♪」

 機関銃のような喋りに圧倒されたゼィが目を白黒させていると、勝手に納得した光太郎がニッコリ笑ってそんな普段は冷静沈着を絵に描いたような魔将軍に箒を押し付けたのだ。
 さすがに感情なんかないんじゃないかとシューが心配するゼィも、最大限の怒りを露にした表情、つまりムッとして眉を寄せながら手渡された箒をつき返したのだ。

『悪いが、私は掃除になど興味はない。人間を一掃することに忙しいのでね。そう言う下らぬ行為は、中級の魔物どもにでもさせておけば良かろうよ』

「だーかーらー!!」

 押し付けられた箒を押し返しながら更に食いつこうとする光太郎に、周囲の空気をビリッと感電させるような、静かな怒りを滾らせるゼィに見張りにうろついていた衛兵がビクッとして大慌てでシューを叩き起こしに行ったのだ。そしてその現場に来たシューの第一声が冒頭のようなものである。
 結局、言い包められたゼィは渡された箒を見下ろしていたが、胡乱な目付きで立派な鬣を靡かせる獅子面の知己を睨みながら言った。

『説明してやるが良い。この国のどこを探せば花があるのか』

『うーむ…なあ、光太郎。花がどうして必要なんだ?』

 脛でも蹴飛ばしてやりたい心境なのだろうが、普段からあまり感情を窺わせることのないゼィは、それでもシューに対してだけはそれなりの表情は作って見せている。そんなゼィの声に出さない苛立たしさを全身で感じながらも、シューはふと、でもどうして光太郎がいきなり花が欲しいなどと言い出したのか不思議に思って、ゼィの嫌味を受ける形でキョトンとしている少年に聞いたのだ。

「え?だってほら、このお城の色んな所に花瓶が置いてあるじゃないか。あそこに花とか飾ったら、こんな風に暗い城内でも少しは明るくなるんじゃないかなって思ったんだけど…」

 その瞬間、ゼィが思わずと言った感じで噴出してしまった。
 とは言っても、本当にプッと鼻先で笑っただけで爆笑と言うほどのことではないのだが、シューにしてみたらそれでも充分、この旧くからの親友が腹の底から面白がっているのだと理解して、いっそ気持ち悪そうに呆気に取られている。

『なるほど、花瓶か。歴代の人間の王どもが死守しようとした宝器を、野草を生ける花瓶とは…シューよ、どうもこの人間は面白いな』

 ああ、なんだそっちの方かと一安心したシューはしかし、肩を竦めながらムッとしたように鼻先で笑うゼィを睨んでいる光太郎に、金色の双眸で見下ろしながら説明した。

『アレを花瓶だと思っても仕方ねぇが、この国には花は咲いてねぇ…つーか、咲かねーんだ』

「え?どうして?」

 首を傾げる光太郎に、シューはどう説明しようかと逡巡しているようだったが、手の中の箒の柄を弄んでいたゼィがなんでもないことのようにあっさりと言った。

『魔の森の瘴気は花を殺す。そのような場所に花は咲かぬと言うことだ』

 歯に絹を着せぬ物言いに、いつものことながら肩を竦めたシューは、それでもその言葉でこの見掛けよりも随分と繊細な心の持ち主である光太郎が、多少なりとでも傷付いてしまっただろうと思ってチラッと見下ろした。神妙な顔付きで眉を寄せていた光太郎は、小さな溜め息を吐いて首を左右に振ったのだ。

「それじゃ、この城は凄く殺風景な場所にあるんだね。じゃあ、尚更城内ぐらいは綺麗にしておかないと!んじゃ、シューもゼィも頼んだよ!」

 高等と呼ばれ、魔王すらも一目置く何者にも屈しない力を持った実力者2人を捕まえて、箒を押し付けた光太郎は片手を振って頼むとそのまま脱兎の如く駆け出して行ってしまった。

『…挫けない奴だな』

 ゼィがいっそ呆れたように呟いたが、シューは言葉もなく肩を竦めるだけだった。だが2人とも、律儀に掴んでいる箒を見下ろしてから不意に顔を見合わせると、取り敢えず、と言った感じでどちらからともなく掃除を始めるのだった。
 その一方で、遠くの方でバッグスブルグズの悲鳴のような声が響き渡っていた。

『掃除なんかしたかねーよー!!イテッ!イテッ!!判った!判りました!!喜んで掃除すりゃいいんだろッ!ひーッッ』

 どうやら仲間に殴られたらしいバッグスブルグズの悲鳴に被さるようにして、遠くの方でも誰かが何か悪態を吐いて殴られているようだった。

『…全く、挫けない奴だ』

 ボソッとゼィが蒼褪めて呟くと、シューが可笑しそうに噴出して頷いた。

『魔物が味方してるんだ、仕方ねーよ。まあ、お前もシンナに殴られなくて良かったな』

『なんだと?シンナまでもがあの人間に心酔しておると言うのか?むむ、侮れぬな』

『ま、そう言うこった』

 肩を竦めるライオンヘッドの魔物に、この世ならざる美しい、魔物と呼ぶには先端の尖った耳しか見受けられない青年は、両手で箒の柄を掴んだままやれやれと首を左右に振って回廊の隅に積もる埃を掃き出した。
 そんな様子を回廊を行き交う魔導師や闇の神官どもがビクビクして窺っていることなど、将軍職に就きながらヘンなところで抜けているシューもゼィも気付かなかった。

Ψ

『今度は掃除なのン?光太郎って次から次へとクルクル働くのねン』

「いつも手伝ってくれてありがとう。シンナには迷惑かけちゃうね…」

『あらン!』

 埃の被った宝器を回廊の床に直接腰を下ろして拭きながら、少し遠くの方で掃き掃除をしている光太郎にシンナは心外そうにわざとらしく頬を膨らませて見せた。

『いっつも退屈なのよねン。だから、あたし光太郎がこんな風にイロイロとすることを見つけてくれると嬉しくって仕方がないのン♪』

 だから感謝してるわ、と勝気な相貌で微笑むシンナに、光太郎はエヘヘヘと笑って見せた。
 同じぐらいの年齢だからなのか、それともただ単に興味があるだけなのか、それでもシンナはよく光太郎の相手をしてくれる。今朝も暇を持て余してゼィの寝所から抜け出してきたシンナは、稀に雲間から微かに姿を現す太陽の、窓から微かに射し込む光を受けながら掃き掃除をしている光太郎に気付いて声をかけたのだ。

「ここに住んでいる魔物はみんな、いい人たちばかりだね。俺、魔物ってもっと、凄く悪いヤツで怖くて…んー、条件反射で殺してもいいんだとばかり思ってた」

『あはははン♪条件反射で殺せるほど魔物は弱くはないわよン』

「違うんだ、えーっと…俺のいた世界にRPGって言うゲームがあるんだよ」

『ふぅん?げーむン?』

 宝器の埃を落として磨き上げながら、耳にしたことのない言葉をワクワクして聞いているシンナに、光太郎は塵取りで掃いたゴミを取りながら頷いた。

「そこには、こんな闇の国みたいな世界があって、俺たちは”勇者”になって魔王と戦うんだよ。それでね、自分たちの技力とか上げるために経験値ってのがあって、魔物を倒して手に入れていくんだけど…だから、出会った魔物とは条件反射に戦っちゃうんだよ。もちろん、仮想空間の中でなんだけど」

『んーン?なんだか難しい話ねン。ゼィだったら判るかもしれないけど、あたしはお馬鹿だからン。でも凄いじゃないン!魔王様と戦うんでしょン?』

「いや、実際には戦わないよ。だから俺は弱いよ」

 あはははと情けなく笑って見せる光太郎に、シンナは雑巾を手にしたままで訝しそうに腕を組んで首を傾げた。胡坐をかいたままの姿勢では、革紐で留めただけのシンプルな腰布の再度にあるスリットから突き出した素足を包むオーバーニソックスが、前掛けのようになっている腰布で隠れていて、素肌の股から膝しか覗いていない。

『実際に戦うんじゃないのン?んー、なんだかますます難しい話になってきたわねン』

「いや、凄く簡単だよ。俺、喧嘩に弱いから、バーチャルリアリティの世界だけで踏ん反り返ってるってこと」

『つまり、魔導師の使う幻術の世界でだけってことなのかしらン?』

「あ、そうそう!そんな感じ!!シンナってば、凄いッ」

『あらン』

 テレテレと頭を掻きながら笑うシンナは、照れ隠しに雑巾で有り得ないほど綺麗に宝器を磨き上げてしまった。塵取りで掃き取ったゴミを麻袋に入れながら、光太郎はやれやれと溜め息を吐いてシンナの傍らに腰を下ろして窓から覗く曇天の空を見上げた。

『光太郎はいっつも元気ねン。でも、たまに悲しそうな顔をするけど…どうしてン?聞いちゃってもいいのならだけどン』

 そんな光太郎を傍らから見詰めていたシンナは、股に挟んだ宝器に肘を付いて頬杖しながら悪戯っぽい目付きで覗き込むと小首を傾げて尋ねてみる。もちろん、返答など期待していなかった。
 それほど彼と親しいと言うわけではないのだから、ましてや自分は人間を惨殺してきた仇とも言える立場なのだ。信頼を得ることなど不可能に近いのだから…

「俺ん家…両親が離婚したんだよね。もともと一人っ子だったし、両親はどちらも俺を引き取りたくなかったからマンションを買ってくれて、一人で自活しなさいって言われたんだ。別にそれは嫌じゃなかったんだけど、仕方ないことだし…だから俺ね、料理が得意なんだ」

『りこん…って言うのは心が離れてしまうことねン?』

「うん」

 まさか、こんな自分にスラスラと心に抱えた哀しみを話してくれるなんて…通常ならけして有り得ないだろう突然の告白に、シンナは吃驚して目を白黒させたが、それでも、抱えていた宝器を床の上に置いて、それからソッと光太郎の傍らに尻でにじり寄って肩を並べて座った。
 一緒に見上げた空は、暗雲が垂れ込めて時折遠くの方で雷鳴が響き渡っている。
 けして見飽きることはないが、それでも、いつか青い空が見たいと思う。

『それは辛いわねン。あたし、うまいこと言える性格じゃないんだけど…ねえン?あたしもね、両親に捨てられた口なのよン』

「シンナ?」

 振り返ると、シンナはちょっと眉を寄せて、それでも意志の強い双眸は笑みに揺れて大きな壁を乗り越えてきた者が持つ力強さがあった。
 ほんの少し心が寄り添ったような気がして、シンナは光太郎の肩に頬を寄せて見上げるとウィンクした。

『いつかあたしにも、その美味しい料理を食べさせてねン』

「…うん。でも、俺ね。そんなに悲しそうな顔をしていたのかなって吃驚するぐらい、ホントにそんなに辛くないんだ。昔はずっと辛かったんだけど、なんて言うか、プラス思考なのかもしれない」

『光太郎の性格、あたしは好きよン』

 両膝を抱え込んでニコッと笑うシンナに、そうかなーと光太郎はエヘヘヘッと笑って頭を掻くと照れ隠しをした。

『どうして、辛くなくなったのン?』

 小首を傾げるようにして可愛らしく聞いてくるシンナに、光太郎は「うん」と頷いてそれからちょっと照れたように頬を赤くして俯いた。でも、何かを感じたように窓から覗く魔天を見上げて口を開いた。魔天に希望などはない、だが、闇を貫く雷の光は、心に何かを訴えてくるようだった。

「俺ね、考えたんだ。最初は父さんの会社が倒産して家を引っ越したとき。すっごく寂しくて不安で、幼馴染みたちとも離れ離れになるから悲しかった。でも、次に行った学校で、俺、初めて生徒会長になったんだ。みんなが推薦してくれて、みんな凄い喜んでくれた。本当は転校したばかりで不安だったけど、みんなが笑ってくれるんだよね。途端に何かが弾けたような気がしたんだ。俺、この学校に必要とされていたんだって。だから、父さんの会社が潰れたときは凄い怖かったけど、その後は順調だったし、だからきっと、俺はここにくるために転校することになったんだって考えたんだ。だから、両親が離婚したのも、俺が一人で自活を始めたのも、きっと何か意味があるんだろうって思った。だから、辛くはないんだって…きっと、思い込みなんだろうけど」

 エヘヘッと笑ったら、シンナが少しだけ吃驚したような表情をしてそれからソッと悲しげに眉を寄せた。でもそれは、強い意志を持っている光太郎に失礼ではないのだろうかと考えたのか、シンナは笑みを浮かべようとして失敗した。そんな複雑な表情をするシンナを見て、光太郎はキョトンとする。

「ホントだよ、シンナ?そう思ってたらほら、こうしてシューやシンナと出逢えた!俺、よく判らないけど。この闇の国で俺は今、【魔王の贄】として必要とされているんだって思う。絶対に何か意味があるから俺はここに呼ばれたんだって信じてるよ。だから本当に辛くないんだ。それどころか、こんなにシューやシンナや、あとね、怖い怖いと思っていたんだけど意外と優しかったゼィに出逢えて、心の底から嬉しいんだ。俺、独りだったから…この闇の国に来れてよかった。まるで大きな家族の中にいるみたいで凄く幸せだよ」

 光太郎がニコッと笑うと、シンナは途端に顔をクシャクシャにしてしまった。吃驚した光太郎が慌ててその顔を覗き込もうとした瞬間だった、それよりも早くシンナが光太郎に抱きついたのだ。

「ど、どうしたの…?」

 あわあわと慌てふためく光太郎に、シンナは激しく首を左右に振って何も言おうとはしない。だから、光太郎にはその真意が読み取れなくて、ただ単純に、自分がこんな暗い話をしてしまったからシンナが同情してくれたんだろうと思うことにした。
 捕虜たちが言うほどには、シンナは怖い女の子じゃない。
 大変な作業だって快く引き受けてくれるし、掃除だって自分から買って出るような優しい人だ。
 こんな風に華奢な肩を震わせながら、涙を流してくれる、そんな人なのだ。
 抱きついているシンナからはふわりと石鹸の甘く清潔そうな優しい香りがした。抱き締められることに慣れていない光太郎は、ドキドキドキドキしながら、大人しくジッとしてその香りに包まれる心地好さを感じていた。

『ごめんねン』

 不意に顔を上げたシンナが泣き腫らした瞳をして光太郎を見詰めた。その可憐な表情に、光太郎はドキリとしたけれど、その瞳の奥にある哀しみを見つけてハッとした。
 光太郎から身体を離したシンナは照れ臭そうに笑ったが、不意にその嘘っぽい笑みを消して、磨かれた床に視線を落としてしまった。

「シンナ…」

 もしかしたらシンナの心の奥にも、こんな風に哀しみを抱えている傷が眠っているのかもしれない。その傷の痛みが共鳴して、シンナは泣いてしまったのではないか…
 光太郎はそんなことを考えて、どうしてあんなことを話してしまったのだろうかと自分を責めた。

『違うのン。そうじゃない、だから視線を逸らさないでン』

 不意に華奢な両掌で頬を包まれて、いつの間にか俯いてしまっていた光太郎は悲しそうに眉を寄せるシンナに内心を読み取られてしまったと反省した。

「シンナ、あの…ごめん。俺、無神経な話しをしちゃって…」

『ううん、違うのよン…あのね、光太郎ン』

 肩を並べるようにして石造りの回廊の床に直接ぺたりと座り込んでいる2人は、お互いの存在がどこか遠くで繋がっているような、奇妙な親近感を覚えたかのようにポツポツと言葉を交わしていた。

『この城には、誰もが何かしらの哀しみを抱えて集まって来ているのン。あたしもそうだし、シューもゼィも、みんなそうなのン。でもね、あたしはずっと思っていたのン。哀しみは独りで抱えるにはとても重くて、押し潰されそうになってしまうけれど、寄り添い合えばきっと大丈夫なんだってン…でも、哀しみはやっぱり独りで抱えなくちゃいけないって思ってたン』

 呟くようにして語るシンナを見詰めていた光太郎は、何を言ったらいいのか判らなかったが、それでも、精一杯の気持ちを込めて言うのだ。

「シンナ。たぶんきっと、俺は君の悲しみの半分だって抱えてあげる事なんかできないと思うけど…でも、俺はここにいるから。だから、独りぼっちだなんて思わないで」

 ハッとしたように顔を上げたシンナは、柄にもなく真剣な表情をしている光太郎を見詰めていた。見詰めたままで、嬉しそうに微笑んだ。その、刺青の這う頬に涙を零しながら。

『…でも、あたし判ったのよン。やっと今、判ったのン。この城に来て良かったってン。そして、光太郎ン。貴方に逢えて本当に良かったって心の底から思うわン。いつかきっと、シューも気付くわねン…ありがとう、光太郎ン』

 シンナがニッコリと笑った。
 その笑顔には、もうどこにも迷いなどないと言うような、自信に溢れた眩い笑顔だった。
 光太郎も、なぜかその笑顔を見ていたら、これでいいのかもしれないと思えるようになっていた。

『さってとン!いつまでもサボってちゃみんなに悪いわねン。掃除しましょン!』

 軽くウィンクされて、光太郎は笑った。
 まるで、もうずっと見ることがないと思っていた太陽が、一瞬だけ花開いたような、鮮烈な印象を残す笑顔だった。シンナはその笑顔を見て、この人間の少年がこの闇の城に居てくれて本当に良かったと心の底から感謝していた。
 そうして元気に笑うシンナの心に、光太郎が読み取ることの出来ない心の奥深い場所に、新たな棘が深々と突き刺さり疵を作ってしまった。
 シンナは笑った。
 透き通るほど、透明な笑顔で…

Ψ

 長い回廊をトボトボと歩いてくる人影に気付いたシューは、どこの魔物が掃除を押し付けられて嫌々歩いているのかと、その泣きっ面でも拝んでやろうと箒の柄に顎を乗せて顔を上げたが、その人物に気付いて金色の双眸をパチクリと見開いた。

『なんだ、シンナじゃねぇか。どうした?時化たツラしやがって』

 唇の端を捲るようにして嗤うシューを見上げたシンナは、その空色の瞳を曇らせて無言のままで呆然としている。今までそんな仕種など皆無に等しいほど見たことのないシューにしてみたら、すわ何事かと、突然舞い込みそうな珍事にやや腰が退きかけた。
 とは言っても旧い知り合いの只ならぬ様子に、シューは箒の柄の先端部分に顎を乗っけたままで、身体をブラブラと揺らしながら泣き出しそうな表情をしている少女のように小柄なシンナを見詰めた。

『どーした?黙ってちゃ判らんだろう。ゼィとの痴話喧嘩か?』

 それなら犬も喰わんが俺も喰わんと言ってカッカッカッと嗤うシューを、いつもなら『そんなんじゃない』と言って単純に激怒して回し蹴りを仕掛けてくるはずのシンナが、溜め息を吐て力なく首を左右に振ったのだ。

(こりゃ、いよいよ何かあったか?)

 驚いたように目を瞠ったシューは、麻袋にいっぱいになったゴミを持って捨てに行ったまままだ戻ってこないゼィに助けを求めたい心境でいっぱいいっぱいになりながらも、か細い肩を落としてシュンッと俯いてしまっているシンナの表情を見て顎を上げるとその顔を覗きこんだ。

『どうしたっつーんだよ?お前らしくもねーなぁ』

『あたしらしいン?ねえ、あたしってどんななのン?』

『はぁ!?』

 突然突拍子もないことを言われて、それこそ素っ頓狂な声を上げたシューに、シンナはちょっと笑って、そして笑ったまままるで表情が強張ってしまったように固まってしまった。

『あたしは、ねえン?どんな顔してるのン??光太郎を【魔王の贄】にしようとしている今のあたしはン!?』

『ち、ちょっと待てよ、おい?どうしたってんだ、ええ?』

 胸倉を掴むようにして迫ってくる可愛らしい顔は泣き腫らしたように目の縁が赤くなっているし、今もジワッと盛り上がった涙が大きな空色の瞳から零れようとしている。
 一体何があったと言うのだ?

『シュー!ねえ、どうしようン。あたし…あたしは…光太郎を【魔王の贄】にしたくないのンッ!』

 そう言って顔をクシャクシャにしたシンナは、縋るようにシューの広い胸元に額を押し当てて声を殺して泣いた。噛み締めるようにして漏れる嗚咽に、たった今耳にしてしまった衝撃の告白に、脳味噌まで筋肉じゃないのかとゼィにからかわれる脳内は混乱して容易く答えなど出てこようはずもない。
 ただハッキリしているのは、ここにゼィが居なくて本当に良かったということだ。
 もしここにゼィが居ようものなら、それこそ目にも耳にもしたくない壮絶な痴話喧嘩が勃発してしまうだろう。
 これほど正反対の性格の2人が、ベッドを共にする仲だと言うことが、今もってしてもシューには信じられないでいる。だが、今はそんなことに知恵を絞っている場合ではない。

『な、なんだって?シンナ、お前正気か?それはつまり…』

『そうよン!あたしは絶対的な力を漸く手に入れようとされてる魔王の、その悲願を断たせるようなことを言っているのよン!!』

 シンナが歪めた顔を上げて言い放った。
 その瞬間、シューの大きな掌が軽く…とは言ってもしたたかな強さで頬を叩いた。

『確りしろよ、シンナ。そんな畏れ多いことは二度と口にするんじゃねぇ』

 曲がりなりにもゼィの副将である立場なのだ、どこで、誰が聞いているとも限らぬこんな公の場で、滅多に口にしてはならないと諌めるシューを、シンナは悔しそうに見上げている。

『いいえン!きっとあたしはまた、同じことを口にしてしまうのよン。そうして、いつかそれは、シュー。きっと貴方も感じてしまうと思うわン』

『シンナ?』

 その強い意志を秘めた空色の双眸を見据えて、シューは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。
 何を馬鹿なことを…と、呟きかけて、シューは不意にシンナが離れる気配を感じた。
 いつも、遠い昔にこの周辺の野にいたウサギのように跳ね回ってきゃんきゃんっと騒いでいる元気だけが取り得のようなシンナが、暗い回廊の、壁に掛けられた松明の炎にその影を躍らせながら暗い表情で見詰めてくる。

『光太郎を【魔王の贄】にしてしまってホントにいいのかしらン?そう思ったことは、本当にただの一度もないのン?』

『有り得ん』

 不意に背後で声がして、答える前にシューは声の主を振り返った。
 そこにはゴミを廃棄して空っぽになった麻袋を手にした、禍々しいほど美しい青年が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。

『ゼィ…貴方も掃除に参加していたのン?恐るべき光太郎の力ねン』

 それまで暗い表情をしていたシンナが、不意に浮かべた微笑は驚くほど温かかった。
 大股で歩み寄ってきたゼィは微笑んでいるシンナの、武器を隠した腕輪の嵌った華奢な腕を掴んで引き寄せた。その力があまりに強かったせいか、シンナは一瞬顔を顰めて、よろけるようにして不機嫌そうな魔物の胸元に凭れかかってしまう。

『何を戯けたことを言っておるのだ、シンナ。あの人間に毒されでもしたか?』

『毒されるン?ふふふ…そうかもしれないわねン』

『む?』

 ゼィの胸元に頬を寄せたシンナは一瞬だけ目蓋を閉じて、それから思い直したようにガバッと顔を上げて不機嫌そうなゼィを見上げた。

『冗談よン、ジョーダンン!だって、ゼィまで仲間に加えることができるなんて、魔軍に迎え入れたいって思うじゃないン』

 あたしは副将なのよと言ってカッカッカッと笑うシンナを、ゼィとシューは呆気に取られたように顔を見合わせて、それから呆れたように見下ろした。
 この小さな仲間は一体どうしたと言うのだ?

『冗談よン、ふふふ。ごめんなさいン。忘れてン』

 そう言って、シンナは片手を振って立ち去ろうとした。
 だが、その小さな後ろ姿を見た途端、不意にシューの中に只ならぬ焦燥感が襲い掛かってきた。

『シンナ!』

 突然、咆哮のような声を上げて華奢な腕を掴んだシューを、ゼィはもとより、驚いたようにシンナが見上げた。思った以上の力強さに眉を寄せながら、シンナはシューの獅子面にある金色の双眸をジッと見据えている。
 言い知れぬ雰囲気が2人を包んで、まるで蚊帳の外に弾き出されたかのようなゼィが訝しそうに眉を寄せて腕を組んだ。シンナもシューもゼィも旧知の友だ、それぞれが互いを思い合ってもおかしくはないのだから、たとえベッドを共にする間柄とは言え、命を分かち合っているわけではないから口を出せずにゼィは黙しているのだ。

『いや、スマン。俺は…ったく、俺もどうかしてるようだぜ。気にしないでくれ』

 手の離して、自分が何をしようとしていたのか理解できないでいるシューに、シンナは小さく笑って見せた。
 『いいのよ』と言っているのか、小さな切欠を生み出したことに満足した微笑なのか…

『そうだ、シンナ。お前、光太郎を見なかったか?アイツ、ちょろちょろしやがって!世話役としてはこんなに離れているワケにはいかねーんでな』

『あらン、そう言えばン。確か、玉座の間をヤッツケに行って来るって言ってたわねン』

『玉座の間だと?クソッ、また厄介なことになってなきゃいいが』

 クスクスとシンナが笑って、シューはゼィに断わってその場を後にすることにした。
 なんにせよ、ゼィはいつものことながら朝からシンナを捜していたのだ。
 恐らくあのシンナの台詞は、昨夜また、ゼィと何かで揉めあって情緒が不安定になっていたからなのだろうと勝手に思い込むことにしたようだ。
 遠い昔からの友は、気付けばいつの間にか、身体を求め合って寂しさを共有するようになっているようだった。そのくせシンナは、どこか釈然としないものを抱え込んでいるのか、たまにこうしてシューに会ってはおかしなことを口走ったりするのだ。

(アイツらのことだ、どうせその内またシックリいくようになるんだろう)

 いつものように、いつもの会話で。
 それが当たり前だと思っているシューの、だがその心の内に舞い込んだ一滴の雫が、思いもよらぬところで波紋を作り小さな漣を起こしていた。シューの与り知らぬところで回り出した運命の歯車の、そのか細い音はだが、とうとう彼の鋭敏な聴覚に響くことはなかった。