Prologue.旅立ち5  -遠くをめざして旅をしよう-

 風が森の奥から吹いてきて、青年は躊躇うように歩調を緩めた。

《どうしたのね?》

 前方をゆるゆると進んでいた深紅の小さな飛竜が、大きなエメラルドの瞳をキョトンッとさせて振り返ると首を傾げて問う。頭の中に直接響くような声は、精神で感じ取る類の思念波のようなものだ。

「いや。別に」

 銀の髪は吹き過ぎた風の名残を惜しむようにハラハラと額に零れ落ち、神秘的な青紫の双眸を持つ青年は複雑な表情をして前方の飛竜に頷いて見せる。と。

《別にって顔じゃないの。どうかしたのね?》

 相棒の異変に逸早く気がついた飛竜がすぐ傍まで飛んできて、訝しそうに眉間に皺を寄せると小首を傾げてみせた。
 エメラルドよりも澄んだ深い緑の瞳は、心の底の、もっと深い暗い部分まで見透かしてしまいそうだ。
 しかし、長年の付き合いからか、もうその瞳にも慣れている様子の青年はそんなことは気に留めた風もなく顎に片手を当てて首を捻るのだ。

「いや、何て言うか…何か嫌な予感がするんだ」

《嫌な予感~?ルーちゃんの嫌な予感はルビアの予感よりもよく当たるから嫌いなの》

 途端に嫌そうな表情をする深紅の飛竜ルビアに、銀髪の青年ルウィンは眉を顰めて苦笑すした。

「予感はあくまで予感だからな。必ずしも当たるとは限らないさ」

 長い旅を物語るような草臥れた漆黒の外套に身を包んだ、先端の尖った耳を有する青年が気休め程度にそう言うと、ルビアは小さな肩を竦めて不満そうに唇を突き出した。

《どんな予感なの~?気持ち悪いの?》

「いや…どんな感じだろう?」

《聞かれてもルビアには判らないのね》

 かなり当然そうに呆れて言う小さな飛竜に、ルウィンはそれもそうかと頷いて、バツが悪そうに顔を顰めた。
 もともと端整な顔立ちの彼は、そんな風に表情を崩してみても嫌悪感を感じさせることはない。取り澄ました表情よりもその態度は却って随分と親しみ易さを醸し出すが、当の本人は気付いてもいないようだ。
 奇妙な予感のようなものは、先日抜け出した城からの追手ではなさそうだと訴えている。

「こんな気分は初めてだな。強いて言えば…不安?いや、まさか!」

 自分で言って信じられないとでも言うように双眸を見開く彼は、すぐに不機嫌そうに眉を寄せてルビアを見る。

《う~ん、ルビアも初めて聞くの。ルーちゃんはあんまり、と言うか、全然弱音を吐かないからビックリしたのね》

「弱音だとかそんなものがないからな。きっとどこかおかしいんだろう」

《弱音だらけの男にもうんざりするの。でも、ルーちゃんはちょっと感情の起伏が少なすぎるのね。良く言えば飄々としてるけど、悪く言ったら丸っきりボケなの》

「何だよ、それは」

 ちょっとムッとしたように目の前を飛ぶ飛竜を捕まえると、嫌がるルビアの唯一柔らかい部分を思い切り擽った。ルビアはこれに弱い。

《やめるの!やめるの!本当のことを言っただけなのね!》

 笑い転げて涙を浮かべるルビアが腹を立ててルウィンに食って掛かると、彼はヌイグルミのようなその顔を胡乱な目付きで覗き込んでからジーッとそのまま眺めている。

《何なのね?》

 ムスッとそんなルウィンを見返すルビアに、彼はそうかと、何かを思い出したように頷いた。

「竜使いか。そうか、奴が現れるんだな」

《竜使いさまが?ホント?》

「オレの身体にも僅かだが竜騎士の血が流れているからな、何となく判るんだよ」

《ふぅん?竜使いさまは神竜のお友達だから、ルビアたち下級の飛竜族には何も感じないのね》

 感心したようにルビアが頷くと、ルウィンは何となく小さく笑って飛竜を解放した。

「おかしな話だ。遠い祖先に竜騎士がいるってだけで、あるかないか判らない血に竜使いは呼び掛け、お前みたいに純粋な竜族は無視するんだからな。変わった奴さ。変わっていると言えばファタルもそうだ。なんせこんな世界を創り出した親玉だからな」

《ファタルさまと竜使いさまは尊い方なのね。悪く言ってはダメなの》

 憮然とした面持ちで小さな腕を振り上げるルビアに、その真っ直ぐな意志の強さが、代々飛竜族の王家に伝わるものを確実に受け継いでいることを証明しているようで、ルウィンは小さく苦笑した。

《笑い事ではないのね!神竜は今も創造主ファタルさまがお遣わしになる竜使いさまのお越しをお待ちしているの。ルビアたちは竜使いさまのお姿が見られたら、それで凄く嬉しいのね。神竜の喜びは竜族の喜びなの》

(本当に、オレたちは変な組み合わせだな。オレは皇位を捨てようと必死に足掻いているのに、ルビアは皇位継承を得るために旅を続けている。世の中、うまくいかないもんだ)

 滔々と捲くし立てるルビアがふと、ポカンッと口を開けたままで自分を通り越した上の方を凝視していることに、彼は暫くして気が付いた。

「どうしたんだ?いったい何が…」

 振り返った彼も、それを見つけて目を丸くする。

《ねぇ、ルーちゃん。人間はお空に住んでるの?》

「さあ?オレの記憶が確かなら、人間は普通、空に住んではいないし、ましてや落ちては来ないだろう」

 ふわりふわりと、目に見えない両腕で守られるかのように静かに降ってくる黒い塊は、僅かに発光しながら明らかに重力を完全に無視している。
 そう思えるのは、自分の意志でゆっくりと降下しているように見えるからだ。
 まるでそれは、神が降臨するかのように。

「たまげたな。予言の竜使いさまのご降臨か」

《たまげてないで、助けに行くの!》

「助ける?なに言ってるんだ、あれが見えないのか?自分で落ちてきてるじゃないか」

 焦れったそうに小さな両手で腕を掴んでグイグイと引っ張るルビアに、ルウィンは呆れたようにゆっくりと舞い降りて来る黒い塊を指差した。

《そんなことじゃないの!各国は神竜を操れる竜使いさまを狙っているの!巨万の富とか、絶対的権力だとか、そんなことに竜使いさまを使ってはダメなの!竜使いさまは、千年の長い孤独の中で待たれていた神竜の、掛け替えのない愛しい人なのねッ》

 半ば強制的にグイグイと腕を引っ張られて、軽く走りながらルビアの言葉にルウィンは納得がいかないと言った様子で首を傾げた。

「目覚めた神竜が迎えに行くんだろ?文献で読んだぞ。何もオレたちが…」

《違うの!他種族に伝わる伝承は間違っているのね!》

 切迫したルビアの声音に、只ならぬ気配を感じたルウィンは仕方なく開けている空間まで走ることにした。

「何が何だって言うんだ、ったく…って、うわッ!…とと。いきなり断崖とはね。さて、ここからならちょうど掴まえられるかな?」

 森の開けた場所は絶壁になっていて、遥か下方には樹海が広がっている。魔物が横行する、魔の樹海だ。

「さすがに下に落ちたら最後だろうよ」

 皮肉気に鼻先で笑って軽口を叩きながら両腕を伸ばすと、黒い物体は大きくユラリッと揺れて、まるで意志を持つようにルウィンの腕の中にまっすぐと降りてきた。

「よーしよし、いい子だッ…と!?うわわわッ」

 慌てたのは両腕にかかったG。
 ふわりと、羽毛の軽さで舞い降りた人物はいきなり、それまでの重力を一気に解放したような重さで腕に圧し掛かってきたのだ。
 取り落とすどころか、自分まで落ちそうになったルウィンは慌てて両足と腕に力を込め、踏ん張るようにして小柄な身体を受け止める。そして、後方へ敢え無くダイブ。

「…っだぁ!…てて、生きてるか?」

 上半身を起こして打った後頭部を擦りながら涙目のルウィンが聞くと、心配したように覗き込んでいたルビアはホッとしたように頷いた。

《大丈夫なのね。気を失っているだけみたいなの》

 ルウィンの上に乗っている黒い塊は、まだ幼い子供のような少年だった。
 彼の母のように、魔族の血を引く者が受け継ぐとされる黒髪は全く同じような柔らかさで、驚くほどサラサラだ。
 ダークで重いイメージしかない黒髪の、意外な一面を立て続けに見てしまったルウィンは、もう黒に対するイメージが180度は変わってしまったに違いないと確信する。
 魔族の血を受け継ぐ者の少ないこの世界では、他に少数民族のカタ族しか黒髪を持っている者はいない。ルウィンのように黒髪に触れる機会が多い者も珍しいが、だからこそ、ルウィンの経験は貴重だと言えるのだが当の本人はそんなことは微塵も感じていないようだ。

「変わった衣装だな。捕まえて下さいって言ってるようなもんだ」

 やれやれと一息ついた彼が前髪を掻きあげながら呟くと、ルビアも困ったように地面に舞い降りた。

《どうしたらいいの、ルーちゃん…》

 困惑したように見上げてくるルビアの、いつもなら勝気な瞳に宿る自信の光が、今日は心配そうな不安に揺れている。
 竜族にとって、何がそれほど竜使いを大切に思わせているのだろうか。

「決まってる。ひとまずここから離れて、人目のつかない所にとんずらするしかないだろ?後は…まぁ、その時にでも考えよう」

《うん!》

 いつもは反発的なくせにやたら素直に頷くルビアに苦笑して、ルウィンは気を失っている少年に視線を落とすと、諦めたように天を仰いで溜め息を吐く。

「また当分、野宿だなぁ…」

 ボソッと、ルビアに聞こえない程度に独り呟いた。

 パチパチと火の爆ぜる音がして、風が暖かな温もりを伝えてくる。
 どれほどそうしていたのか、光太郎は長い眠りから覚めた人のようにぼんやりと覚醒した。
 彷徨う視線は満天の星空に吸い込まれる煙に気付き、続いてその星空を取り囲む、炎に照らされた木々の枝に移った時、虚ろだった双眸に理性の光が戻ってきた。
 完全に覚醒した光太郎は上半身を起こすと、まずは自分が置かれている状況を把握しようとキョロキョロと周囲を見渡す。
 と。

「おはよう…ってのは変だな。ご覧の通り、夜だ」

 炎を絶やさないように薪をくべていた青年が光太郎の気配に気付いてその手を止めると、面白くもなさそうにそう言って肩を竦めて見せた。

「…」

 炎の明りに浮かび上がる顔は、光太郎が今まで見てきたどんな美人にもハンサムにも当て嵌まらない、凡そこの世の者ではないとさえ思えるほど気品があった。目の前の青年はとても端整な顔立ちをしている。
 彼を一言で形容するなら、そう〝美しい人〟ではないだろうか。
 ただ、彼が本当にこの世の者ではないと思えるのは、その先端の尖った耳だ。
 炎の明りを照り返した銀髪と、意志の強さがキツイ印象を与える切れ長の青紫の双眸は彼を間違えることなく男だと物語っていた。その気になれば絶世の美女にでも化けられるのだろうが、今はそんな気など微塵もないのだろう。

(毛布だ。この人が掛けてくれたのかな…?)

 薄いが保温性に優れているのか、柔らかで暖かい布を持ち上げて銀髪の青年ルウィンを見た。

「どうしたんだ…ああ、腹が減ったのか?」

 ルウィンの言葉に、光太郎は反応を見せない。それどころか、まるで戸惑っているように首を傾げている。困惑した表情は、ルビアに似ていて彼は溜め息を吐いた。

(あ、溜め息をついた!どうしよう、怒ったのかな…)

 光太郎は躊躇うようにモジモジとしていたが、ギュッと毛布を握り締めると勇気を振り絞るようにして、美しき異形の人を見つめて口を開いた。

『あの、えーっと、言葉が判らないんです!失礼なことしてると思うんですが、できれば怒らないで欲しいんですけど…』

 ちょっと図々しいかな、とも思ったが、どうせ通じていないのなら少々のことは許されるだろうと自分で自分に言い聞かせてみる。

「…なるほど。言葉が判らないってワケか。でもまぁ、その方が案外やり易いかもな。余計なことを喋られても厄介だし…」

 そこまで呟いたルウィンは、言葉が判らなくて不安そうに首を傾げている心許無さそうな瞳をした少年と目が合い、何となく笑って見せた。別にそれで、安心させようと思っていたわけではないのだが。

(あ、怒ってないみたいだ。良かった)

 自然と意思の疎通をしたような光太郎が明らかにホッとしたような仕種でニコッと笑い返すと、ルウィンはそんなに仏頂面だっただろうかとガラにもなく少し反省した。

《あ!目が覚めたのね、良かったの♪》

 不意に頭の中に言葉が響いて、光太郎はビックリしたように飛び上がりかけたが、目の前に座っている銀髪の青年の傍らに舞い降りた不思議な生き物を見て、違った意味で今度は驚きに眼を瞠って立ち上がることもできない。
 言葉すらも出てこない、そんな驚きだ。
 小さいとは言え小型犬ほどはある身体を空中で支える為の蝙蝠のような翼と、深紅の強靭そうな鱗に覆われた身体、顔は、何に似ているかと言えば多分イグアナだろうか。ただ、エメラルド色の瞳が異常にデカいことを除いて、の話しだが。

「たった今目が覚めたんだ。どうやら言葉は判らないみたいだぞ」

 銀髪の青年が何かを呟くと、イグアナもどきは大きな目をもっと大きくして彼を見上げ、それから光太郎へと視線を移してきた。

《ルビアの言葉も判らないの?》

 不意に、現実に戻ったようにハッと我に返った光太郎は、直接頭の中に響いてくる声のようなものに驚いて思わず耳を塞いでしまう。

《聞こえてるみたいなのね。耳を塞いでも、ルビアの声は聞こえるの。だって、精神でお話をしているから》

 事も無げにさらっと言われ、光太郎は恐る恐る耳から両手を離すと、戸惑いながら口を開いた。

『えっと、その。よく判らないんだけど…』

 どうやらこのイグアナもどきとは会話が出来るようだとホッとした光太郎は、不意に奇妙なことに気付いた。

(…あれ?会話が出来て、空を飛べるイグアナ顔って言ったら…まさか!)

『り、竜…!?』

 驚きを隠せない表情をして目を丸くする光太郎に、ふわりっと浮かび上がったイグアナ…もとい、飛竜ルビアはニコッと嬉しそうに笑って徐に抱きついてきた。

《大当たり~♪飛竜族の皇太子なのね、竜使いさま!》

『え?』

 ビックリして受け止める光太郎と嬉しそうなルビアを見て、ルウィンが憂鬱そうに眉を寄せながら、素早くヤンチャな飛竜を窘めた。

「ルビア!余計なことは言うな。世界中が注目している”レゼル・リアナ”が自分だと知って、お前なら喜んで通りを歩けるか?」

《あう。それはそうだけど、ルビアは少し、舞い上がっていたみたいなの。ごめんね、ルーちゃん》

 思い出したようにハッとして、ルビアは恐る恐る受け止めている光太郎の腕の中から、申し訳なさそうに項垂れて謝った。
 やれやれと先行きの不安に眉を顰めるルウィンは、それでも暗闇ばかりではなさそうだと微かに安堵して吐息した。

「まあいいさ。どうやらルビアとは話せるみたいだし、少しは不便だが、なんとかやっていけるだろう」

 ちゃっかり腕の中に納まっているルビアは嬉しそうに笑うと、どんな会話が交わされているのか断片的にしか判らない光太郎が不安そうに覗き込んでくるその顔を見上げ、彼の不安に気付いているのかいないのか、屈託なくニコッと笑って頷いて見せた。

《まずは自己紹介が先なのね。飛竜族のルビアなの。彼は…》

 チラッと、不機嫌そうに眉を寄せているルウィンを見ると、彼は何か言いたそうな表情をして首を微かに左右に振った。

《あっちの怒りっぽい相棒はハイレーン族のルウィン。賞金稼ぎをしているのね》

『賞金稼ぎ?』

《そうなの。渾名はルーちゃん!…あなたは何てお名前?》

 誰が怒りやすいんだと悪態を吐くルウィンをまるで無視して、無邪気に問い掛けてくる小さな飛竜に、どうやら襲われる心配はなさそうだとホッとした光太郎は小さく笑って頷いた。

『俺は光太郎。秋胤光太郎。コータロー=アキツグって言った方が判りやすいのかなぁ?』

《コータローなのね?変わったお名前。でも、ルビアは大好きなの。ルーちゃん、彼はコータローと言うのね》

「お前が言ったから判ってるよ」

 ルビアの言葉なら理解できるルウィンは呆れたようにそう言うと、肩を竦めて見せた。

『あ、その。ルビア?ここはどこなんだろう。俺、学校から帰る途中で雷が落ちて、たぶんそれに当たったんだと思うんだけど。友達と一緒だったんだ。俺、一人だった?ほかには誰もいなかった?教えてほしいんだ、ねえ、ルビア』

《ち、ちょっと待つのね。順を追って話さないとチンプンカンプンになってしまうの》

『あ、ごめん』

 焦って思わず捲くし立てた光太郎は、ハッと我に返ると赤くなってしまう。

『つい、言葉が判るからって調子に乗っちゃって。いや、でもいつもはこんなことないんだよ。どちらかと言うと彰の方がお喋りなんだ。あ、彰って言うのは俺の親友で…』

 焦って言い訳する光太郎にルビアはキョトンッと首を傾げ、言葉の判らないルウィンは眉を寄せる。

「何を言ってるんだ、ソイツは?変な奴だな」

 怪訝そうにそう言って、首を左右に振ったルウィンは小さくなる炎に勢いを与えようと、枯れ木を数本投げ込んだ。

『あ、あのさ、ルビア。彼、怒ったのかな?なんだか怒らせてばかりで、俺、申し訳なくって』

 シュンッとなってしまった光太郎がルビアに、ルウィンには理解されていないというのに小声でそう言うと、飛竜は不思議そうに相棒を見ながら首を振った。

《ルーちゃんはあんまり感情が豊かじゃないのね。でも、変なの。今日はよく怒るのね。ああ、そうなの。照れてるのね!》

『え?』

「何の話をしてるんだ、お前たちは。ルビア、余計なことはいいからソイツに着替えるように言うんだ」

 色々と入っているのか、膨らんだ荷袋から淡いクリーム色の服を取り出して、憮然とした表情でルウィンはそれを差し出した。

(なんだろう、これ)

 クリーム色の布の塊を受け取って、光太郎は不思議そうに両腕の中のそれを見下ろして首を傾げる。
 と。

《それに着替えるのね。その真っ黒けの服じゃ目立ってしまうの》

 ルビアがすかさずその疑問の答えを口にした。

(ああ、そうか。これ服なんだ。ただの布の塊かと思っちゃったよ)

 ヒョイッと膝から飛び降りたチビ竜が木陰を指差すと、少年は素直に頷いてそれに従うように立ち上がった。

「件の竜使いは自分の価値を知らないようだな」

 後ろ姿を見送るルビアに、木の爆ぜる炎を見つめながらルウィンが呟いた。

《そうみたいなの。なぜ、ここに自分がいるのかも判っていないみたいなのね》

 振り返ったルビアは訝しそうにそう言い、不安そうに炎の向こうのルウィンを見上げると、心許無さそうに顔を顰めた。

《ルビアは間違ってしまったの?本当は、コータローは竜使いさまではないのかもしれないのね…》

 珍しく気弱に項垂れるルビアを冷やかすように見下ろしていたルウィンはしかし、小さく吐息すると首を左右に振って見事に形のよい天然色の唇を開く。

「この際、どうだっていいさ。足手纏いが一人増えるも二人増えるも一緒だからな。食い扶持が増えることに変わりないんだ。アイツの面倒を見ながら、また竜使いを捜せばいいだろう」

 大きなエメラルドの瞳に炎を映しながら、小さな竜は相棒の言いたい真意を見極めようとするように真摯の眼差しで凝視する。

「…アイツが竜使いかどうかなんてことは、もちろんオレにも判らんさ。だが、どちらにせよアイツが気になるんだろ?竜使いとか関係なく」

 本来なら、ルウィン自身もその存在を求めて止まないはずだと言うのに、やけに淡々と、この若きハイレーン族の青年は、モジモジとしながら照れたように短い前足で頭を掻く小さな飛竜に言うのだ。

《すっごく気になるのね。どうしてなの?コータローが優しい目をしてるから…?》

 相変わらずの態度に苛立ちもせずに、ルビアは落ち着いているルウィンに心許無く首を傾げて見せる。

「オレが知るかよ。もしかしたら、アイツは本当に竜使いなのかもしれないし…お前の中に受け継がれている神竜の血は教えてくれないのか?」

《うーん…どうなのね?竜使いさまとかそう言うのとも、ちょっと違うような気がするの。ルビアには判らないのね》

「じゃあ、それが判るまで面倒を見てやればいいさ」

 困惑して項垂れるルビアに仕方なさそうにそう言うと、ルウィンは手持ち無沙汰に枯れ木を一本投げ込んだ。

「ところで、そろそろ教える気になったか?ルビア」

 珍しく優しい打開策を提案するルウィンに驚きながらも満足したように頷いていた小さな飛竜は、キョトンッと首を傾げ、その神秘的な青紫の双眸を見つめ返すと無害な小動物の仕草で首を傾げるのだった。

「やっぱり忘れてたのか。まあいいさ。オレたちの知らないって言う、お前たち竜族にのみ伝わる伝承とやらのことを教える気はあるか?ってことだ」

《ああ、竜使いさまと神竜の?簡単なことなの。神竜がお迎えするはずなのだけれど、神竜にはそれができないのね。遠い、千年もの昔、竜使いさまを亡くした神竜は泣いて泣いて、ずーっと泣いて、涙が枯れてしまうほど長い間泣いて、とうとう石になってしまったのね。その石になってしまった神竜を解放できるのは、竜使いさまの尊い涙だけなの。だから、竜族の長になる為には、竜使いさまを必ずお連れして、神竜を目覚めさせないといけないのね》

「ふーん。良く判らんが、神竜も随分と女々しいんだな。連れ合いの死はそれほど悲しいものなのか?」

 恋人のいないルウィンが納得できないと言いたそうに不平を言うと、故郷であるウルフライン国に愛しい皇太子妃の待っているルビアは仕方なさそうに小さく笑う。

《そのうちルーちゃんにもきっと判る時が来るの。自分が死んでもいいとさえ思える相手に、いつかきっと廻り逢えるのね》

「そんなものなのか?まぁ、どうだっていいんだけどな。でも、オレはソイツの為に死にたいとは思わないだろうな…絶対に」

 読み取ることのできない表情を浮かべ、燃え盛る炎を見つめながら呟く美しいルウィンに、ルビアは呆れたように溜め息を吐いてぶぅっと頬を膨らませた。

《ルーちゃんなら殺したって死なないの。ロマンスの欠片もない面白くない奴なのね!》

 他人事を自分のことのように腹を立てる小さなお人好しに、ルウィンは何も言わずに口許に小さな笑みを浮かべるだけだった。

「…それにしても遅いな。オレの服はそんなに梃子摺るような服だったか?」

 光太郎の遅さに漸く気付いたルウィンは立ち上がると、不思議な少年の消えた木陰に近付こうとした。
 と。

『わ!なんだこれ!?来るな!来るなってばッ!わわわ…あっち行け!うぎゃあぁ~ッ!!』

 いつからそうしていたのか、光太郎は真っ青な顔をして奇妙なものと格闘していたようだ。それはヘドロのような気持ち悪い緑色をした、粘々と纏わりつくような粘液の塊だった。 通常ならアメーバと呼ばれるようなその類の生き物は、RPGで言うところのスライムだろうか。

「何をしてるんだ?」

 呆れたように腕を組んだルウィンは、着替えを済ませた光太郎が必死に自分の学生服を溶かしているスライムと格闘している様を、面白そうに眺めながら声を掛けた。

『ルーちゃん!』

 思わず気の抜けそうな呼ばれ方をしたものの、ルビアで免疫のあるルウィンはしかし、顔を顰めて仏頂面をしながらのんびり歩いてくる彼の姿に気付いて今にも泣き出しそうな顔をしていた光太郎がパッと嬉しそうに笑うのを見返した。

『突然、頭の上からコイツが降ってきたんだ!学生服を放してくれなくて…』

 懸命に引っ張って取り返そうと試みてはいるものの、学生服は端からジワジワと溶かされていく。完全に消滅するのも時間の問題だろう。

『何だよこれ。もう、気持ち悪いな~』

「手を放せ、コータロー。お前は知らないだろうけど、服の次はお前を狙ってるんだぞ。判るか?」

 学生服を引っ張る腕に手を掛けたルウィンがそれを引き剥がそうとすると、光太郎は困ったような怪訝そうな表情をして見上げてくる。

『え?』

 どうしてルウィンが自分を留めようとしているのか理解できない光太郎は、不安そうな表情をして首を傾げた。

「悪食だからな、何でも喰うんだ…と言っても、言葉が判らなきゃここで死ぬんだろうけど」

 皮肉っぽく笑うルウィンに、光太郎は戸惑うように困惑した表情を見せる。

「ま、こんな所に”グレイド・ボウ”がいる方が、本来ならどうかしてるんだけどね」

(ぐれいど…ぼう?)

 語尾は誰に言うともなく呟いて、首を傾げる光太郎の目の前で腰に下げた華奢な意匠の施されている、鎖の巻きついた鞘から鈍い光を放つ剣を引き抜いた。
 賞金稼ぎである証のそれは、奇妙な殺気のようなものに包まれていて、光太郎は一瞬ゾクッとして学生服から手を放してしまう。

(もしかして!これって実は凶悪な魔物だったとか!?それを知らないで俺って…また彼を怒らせちゃうよう!)

 自分の情けなさにポクポクと両手で頭を叩いて反省する光太郎を、ルウィンは目の前のスライムよりも興味深そうな視線で呆れたように見る。

(変な奴)

 呆れて心中で呟くルウィンに気付きもしない光太郎は、何よりも現実的に目の前にいる不気味な魔物の奇妙な呻き声のようなものにギクッとして、思い切り身震いするとルウィンの背後に隠れてしまう。

「…」

 敢えて無言で何も言わないルウィンだったが、極めて正しい判断で行動した光太郎のその行為に免じて、今回は【男なんだから─】だとか【はじめから諦めるな─】と言った言葉は飲み込んで何も言わずに抑えておこうと思った。
 魔剣、或いは妖剣とも形容し得る威圧感でチリチリと空気を焼き付けるような、奇妙な剣の柄を握り締めたルウィンは、然して面白くもなさそうに今しも制服を溶かし切ろうとしているスライムと対峙した。
 本来なら斬っても斬っても分裂してなかなか倒すことのできないスライムでも、ルウィンのような賞金稼ぎにはただの雑魚に過ぎないのか、あまり興味がなさそうだ。

「ったく、一銭の得にもならん」

 要は金銭の問題であって、この魔物に賞金でも懸かっていれば話しは別だったのだろう。悪態を吐いて振り下ろしたボウッと発光している白刃は魔物の断末魔を伴いながら確実に地面へと吸い込まれていく。
 つまり一刀両断したわけだが軽く片手を振ったようにしか見えない。しかしスライムの身体は不気味などす黒い煙を噴出してジクジクと溶けていった。

『すごい、すごい!ルーちゃんって強いんだね!』

 面白くもなさそうに刀剣に付着した魔物の体液を一振りで払い落とし、鞘に収めようとするルウィンの服をくいくいっと引っ張りながら、ヒョコッと背後から顔を覗かせた光太郎が興奮したように尊敬の眼差しで見上げてきた。

『俺の住んでる世界だと、身近な戦いって言ったらスポーツぐらいしかないんだ。こんな戦いだとゲームしかないし、こうして実践してみると泣きたくなるぐらい弱いんだなーって実感しちゃったよ!』

 別に自分が戦ったわけではないのだが、安心したようにホッとしてしっかりと両手で腕を掴んでくる光太郎がニコッと笑うと、ルウィンは少し気圧されたようだったが、その良く言えば順応性のある、悪く言ったら自己中的な性格は今後に役立つだろうと自分に言い聞かせて諦めることにした。

「…どうも調子が狂うな。オレのことはルウィンと呼べ。ルビア、コイツにそう伝えるんだ」

 振り返った先、立ち竦んだように二人の足元を見据える小さな竜に気付いた光太郎が不思議そうに声をかけた。

『あれ?どうしたんだい、ルビア』

 さり気なく腕を引き抜いたルウィンはだが、その姿を見ても別に気にした風もなく何も言わずに炎の傍に戻って行ってしまう。

『あ』

 知らん顔で立ち去るルウィンの背中と小さな飛竜を困惑したように見比べていた光太郎は、困ったように眉を寄せて悩んでいたが、決心したように小さな真紅の飛竜の前にしゃがみ込んで首を傾げた。

『どうしたの?』

 ルビアはハッとして、それから驚いたように首を左右に振った。

《ううん、なんでもないのね。ちょっと、ビックリしただけなの…えっとね、これからルーちゃんのことはルウィンって呼べって言ったのね》

 慌てて首を左右に振りながらパカッと爬虫類特有の口を開いて笑ったルビアは、ふわりと舞い上がると驚く光太郎の腕の中に収まった。そしてまるで、誤魔化すようにルウィンの言葉だけを光太郎に伝えたのだ。だが、それは案外功を奏して、光太郎はその言葉を額面どおり素直に受け止めているようだった。

『そっか、渾名で呼んだから怒っちゃったのか。また俺、迷惑かけちゃった。ごめんね、ルビア』

 謝る光太郎に、ルビアは心ここにあらずの上の空で答えていた。
 本来ならけして出ないであろう場所にいたグレイド・ボウと呼ばれるスライムは、不吉なことの前兆のようでもある。生態系に何か異変が生じているのか、魔物の異常発生も気になるところだ。この世にいなかったはずの人間の出現か、或いは神と呼ばれる者の降臨に世界の均衡が耐え切れなくなっているのだろうか…
 ルビアは、小さな飛竜の態度を不思議そうに首を傾げて見守る光太郎を見上げ、そして素知らぬ顔で荷物の整理をしているルウィンを見た。
 何が起きても、どんな災いを拾いこんだとしても、彼は常にああして飄々と生きるのだろう。辛いだとか、苦しいだとか、皇位継承の問題でない限りは眉一つ動かすこともなく…
 いや、その皇位ですら今の彼にとっては道端に落ちている石よりも意味のないことだと思っているのだ。
 光太郎の介入が、いったいこの世界をどう変貌させていくのだろうか。そして、何を遺すのだろう…
 今まで絶対的に信頼していた竜使いの存在に、不意にルビアは針の穴ほどの不安を覚えていた。
 それはまだ小さくて、一握りしかないのだけれども。
 小さな飛竜は優しくて温かな腕に守られながら、なぜか必死に光太郎の幸せを祈っていた。

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