宵も幾分か過ぎ、しっとりと肌に馴染む潮風を受けて、どうしたことか、その夜の晩餐は甲板でしようと、海賊船の美しい名とは裏腹の豪胆な彼らの主が突発的に言い出して、急場の食卓が手下たちの手引きで恙無く用意されることになった。
そんな甲板で、海賊どもの主であるレッシュ=ノート=バートンは傍らに美しい異国の姫を侍らせてデッキチェアに長々と寝そべっていた。ウェストに回された逞しい腕を意識することもなく、鳥人族という稀有な種族が治めるバイオルガン国の第5皇女シュメラは退屈そうに玻璃の杯を弄びながら、レッシュに気だるげに身体を預けて唇を突き出している。
そして、そんな風に怠惰な時間を過ごす彼らの前に、肩で息をしながら両手に持っていた食器を仮設のテーブルに投げ出すようにドンッと置いた下っ端海賊、そう、御崎彰がムッとした顔で立ちはだかった…からと言ってそれがどうしたと言われそうだが、現にそんな目付きでシュメラは見ていたが、レッシュは呑気に欠伸を噛み殺しながら肩を竦めた。
「どうした?」
海賊の一員としてまずは下っ端の仕事、給仕に勤しむよう言いつけられた彰は「別に」と不貞腐れてそう言ったが、傍らにお目付けとしてついて回っているヒースがそんなチビ海賊の頭をグーで殴った。
『イテッ!』
涙目で睨みながら頭を両手で抱える彰に、レッシュはプッと笑ってテーブルの上にある肉を抓んで口に放った。
「レッシュ、あんたに頼みがある!」
数日前、不意に真摯な双眸をした彰が言った台詞を思い出して、レッシュはまた愉快になった。
真剣な目付きをして何を言い出すのかと思ったら、この何処か遠くから来た異世界の旅人は、自分を海賊にしてくれと言い出したのだ。モチロン、デッキチェアに長く寝そべっていたレッシュは飲みかけていた酒を噴き出し、傍らを通りかけていたヒースはスッ転び、炎豪と恐れられる海賊のお頭の傍らに座っていたシュメラは目を丸くした。遠くの方で仲間の海賊たちはハラハラと結構気に入っている彰に天誅が下らないことを祈っていた。
海賊…と言うのはあくまでも仮のことで、本当は剣の扱い方を教えてくれと言い出した彰の表情は、どう見ても真剣そのもので、俄かに笑いがこみ上げてきたレッシュたちは、すぐに腹を抱えて大笑いしたのだ。
「な、なんで笑う!?俺、ヘンなこと言ったか!?」
ムッとした彰に、レッシュは「いやいや…」と頭を左右に振って何か言おうとしたが、それよりも早くシュメラが口を開いていた。
「あんた、馬鹿じゃないの?そんな生っちろい腕で何ができるって言うのよ。そこらの女よりもひ弱そうじゃない」
そう言って鼻先で笑う。
辛辣な台詞もシュメラならではで、これで反撃した海賊の連中の何人かは鼻っ柱を事実上へし折られた。
スレイブに並ぶ戦闘部族のパイムルレイールの第5皇女である、並み居る海賊などよりもはるかに腕は立つ。それをヒースに聞いていた彰は、綺麗な顔に小生意気そうな表情を浮かべているシュメラをムッとしたように見たが、今はそれどころではないのだ。
「俺に剣の使い方を教えてくれ」
もう一度同じことを言った彰に、まだ判らないの?とでも言いたそうに鼻先で笑って肩を竦めるシュメラの頭を軽く押しやって、レッシュはクックッと笑いながら不貞腐れたように唇を尖らせている少年を真っ向から凝視した。
「いいだろう。しかし、この船で剣技を学ぶと言うことは即ち海賊になる、と言うことだ。その辺はもちろん、心得ているんだよな?」
「え?…わ、かった」
少しギョッとしたように一瞬怯んだ彰はしかし、それでも決意したようにクッと唇を噛み締めてレッシュの灰色の隻眼を睨みつけた。大した度胸だと感心しながらも、笑い出したいのを必死で堪えている根性の悪い海賊のボスは、どこまで持つのか、その度胸を買ってみるのも悪くないと考えた。
「よかろう。じゃあ、まずは下っ端から頑張るんだな。剣技は俺が見て、いいだろうと合格点が出た時に教えてやる。下働きにせいぜい励むといい」
クックッと笑うレッシュを呆れたように見上げていたシュメラはしかし、肩を竦めると大きなパッチリとした蒼い双眸を挑発的に細めてクスッと笑った。
「その時は私が教えてあげるわ。いいわよね、レッシュ?」
厄介なことになりそうだな…とは思うものの、なぜシュメラがそこまで彰を目の敵にするのかいまいちよく判らなかったが、パイムルレイールの誉れ高いシュメラに扱かれるなら腕も上達するだろうと曖昧に返事を濁した。そんなことよりも、なぜ彰が突然、剣技を学びたいなどと言い出したのか、そのことの方が気になっていた。
ブツブツと悪態をつきながらヒースに促されて立ち去る彰の後姿を見送りながら、レッシュは今更ながら【ファタルの竜使い】と呼ばれる異世界人の不可思議さに惹かれていた。
なぜこんなにも惹かれるのか…炎豪の海賊には理解し難い感情が渦巻いている。
闇夜に吹く海よりの風は、なぜか焦燥感を駆り立てて、心許無い不安感を募らせる。そんな意味不明の感情を紛らわせるように、不思議そうな顔をするシュメラを無視して玻璃の杯を満たす酒を豪快に呷った。
【疾風】と呼ばれる海賊ゲイルの船には医者やコックも乗っていた。
その事実に驚きながらも、彰は必死で仰せ付かった皿洗いに奮闘している。
バイトで皿洗いをしたことはあるものの、こんな風に豪快な汚れ物を洗ったのは初めてだ。どんな食べ方をしているんだと首を傾げたくなった。
「おい、シア。そっちが済んだら飯を食え」
「う、うぃッス!」
ゴシゴシと皿を磨き上げていた彰は、ボロの椅子に腰掛けて奇妙な巻き物を読みながら葉巻を咥えたオヤジが、自分の向かいにある椅子を顎で示しながら睨み据えてくると元気よく頷いて、さらに気合いを入れて皿洗いに精を出した。
シア…と言うのは、彼の故郷の古い言葉で【辿り着いたもの】と言う意味があるらしい。彰と言う発音を呼べないでいた老齢のコックは、咳き込むようにして彼のことをシアと呼んだのだ。
以来、彰もそう呼ばれることをそれほど嫌だとは思ってはいなかった。
甲板掃除も洗濯も見張りもどれも骨が折れるし、皿洗いほどきつい重労働もないのだが、彰はここにいる間がどんな時よりも好きだった。
老齢なコックは寡黙で口数は少ないし、極めて厳つい顔をしている。取っ付き難いことこの上ないと言った感じに船員たちも結構恐れているようで、飯時以外は顔を覗かせる者は皆無に等しかった。それも、恐らくは独特な地方の暮らしをしてきたコックが言葉をうまく操れないことに端を発しているのだろうが、唯一例外である彰はお構いなしに食堂によく顔を覗かせている。
そして決まって皿洗いの任を仰せ付かるのだ。
「よっし、終わり!…さて、ご飯♪」
喜び勇んでコックの前の席を陣取ると、口当たりのさっぱりした飲み物を飲んだ。
老コックの作る料理はどれも逸品で、ことさら肉じゃがと言ったらおふくろの味そのものだ。【お袋の味】は万国共通のように、異世界でも共通のようだと彰は酷く感心していた。
無愛想で朴訥としたコックはニコリともしないが、レッシュが一人で平らげる逸品料理を、わざわざ彰のために分けて取って置いてくれたりする。それを彼が気付いたのは、下っ端海賊になって2日目のことだった。
その場所がなんであるのか、まだゲイルに落ちてきたばかりの頃、彰は船内を隈なく探検…もとい、散策していた時に突然「皿洗いをしろッ」と怒鳴られたのが彼と年老いたコックとの出会いだった。
すぐにヒースに見つかってレッシュの足元に戻されてしまったが、それ以来、いつか厨房に忍び込んでやろうと思っていた。美味しい匂いが鼻腔を擽り、ほんの束の間、料理上手だった光太郎を思い出せるからだ。
「飯を食ったら戻っていいぞ」
単発の言葉でしかコミュニケーションが取れないコックに頷きながら、彰は木製のボウルにたっぷりと入っている肉じゃがもどきに同じく木製のスプーンを突っ込んで首を傾げた。
「いつも読んでる、本?なに、それ?」
「あん?これか?これはな、ワシの故郷の伝承が書いてある物語だ」
「物語ってことは…小説?」
あむあむとほんのり甘いジャガイモもどきに舌鼓を打って、最高に至福のときを味わいながら首を傾げる彰に、コックは白髪の混じるモジャモジャの眉をヒョイッと上げて手にした巻き物に視線を落とした。
「小説か…それは違うぞ。これは偉大なるスー=イー=アが書いたブルーオーブ伝説だ」
なぜか彰とは良く喋るコックは、いつものことながら故郷の偉大なる賢者を称えながら、彰が気になって仕方がない単語を口にする。
「ブルーオーブ?」
「うむ。今は亡きブルーランド国の秘宝だ」
木のスプーンを弄びながら、彰は恐る恐る、しかしそうとは気取られないように素知らぬ顔でさらに尋ねてみたが、老コックはそれ以上詳しいことは教えてくれない。
チェッと舌打ちして木のボウルを両手で掴むと、最後のスープを勢いよく咽喉に流し込んだ。味わって食べるためにある逸品料理は、海賊どもにかかると散々なモノになる…と、老コックが嘆いているかどうかは謎だが、少なからず頭を抱える理由にはなるだろう。
彰が剣術を習おうと思ったのにはわけがあった。
この船はいずれ陸地に停泊するのだということを、下っ端海賊の連中が実しやかに噂していたのだ。それも緑豊かな商業の町らしい。中立国ということもあって内乱が勃発している厄介な国だが、寄航するには物資の供給にちょうどいいのだと老コックも言っていた。
その港で…脱走する。
その為にも、剣術は必ず必要だろうと思ったのだ。
人目の多い港でまさか、剣を揮って捕まえるようなことはないだろうが…チャンスは僅かに一回きり。それを逃してしまえばどこに連れて行かれるのか判ったもんじゃない。
美味しい飲料水に唇を湿らせながら、彰はこの静かな場所で考えていた。
港に着いて脱走に成功したら、まずはこの世界の地図を手に入れよう。そうして、いなくなってしまった最愛の幼馴染みを救出して、神秘の秘宝だと呼ばれるブルーオーブを見つけ出すのだ。
自分のように、ワケが判らないまでもなんとかまともそうな船に拾われたのならまだしも、もしヘンな連中に捕まっていたらどうしよう…
彰を悩ませている最大の原因はそれだった。
一見、酷く頼りなさそうに見えるが性格はバリバリ世界一の冒険野郎だった父親の血を見事に受け継いでいるせいか、言い出したらきかないところもある。そのくせ、寂しがり屋で涙脆いところがあって、泣いていなければいいのだが。
必ず助け出してやる。
そして、元の世界に戻るためのキーになっているだろう、神秘の秘宝を一緒に見つけ出そう。
それは気が遠くなりそうな冒険かもしれないし、光太郎を見つけ出すことだって酷く困難な旅になるかもしれない。だが、何も考えずに行動するよりも、希望がある方がずいぶんと気楽になれる。
きっと光太郎はこの世界の何処かにいる。
長い付き合いの幼馴染みの勘だ、そんなに容易く間違うはずがない。
自分と同じように、唯一、この世界で元の世界を知るただ独りの仲間…彰は光太郎がいれば強くなれる。
そんな風に考えていた。
光太郎と一緒に元の世界に戻ろう、そのためにはきっといつか、ブルーオーブと呼ばれる神秘の秘宝が必要となってくるはずだ。
彰がここを訪れる理由は、美味しい料理と老コックの零れ話。
そして…
賢い彰がここを訪れる本当の理由は、どこかにあると言われる神秘の秘宝の僅かな情報。
どこかにあったと言われる大国ブルーランドの国宝で、どんな姿をしているのか、それがなんであるのか、実は全くと言っていいほど謎に満ちた神秘の秘宝ブルーオーブ。
もしかしたら…その秘宝を手に入れれば元の世界に戻れるのでは?
彰が期待したとしても、無理のない話だった。