ルウィンが唐突に「町外れのバザーに行こう」と言い出したのが事の切欠で、どんな場所か知らない彼にとって連れられてきたその場所は、今までに見たことがないほど賑わっている大きな都市のような場所だった。
『わーわーッ、凄い!ルビア、見て!踊り子さんだよ!!』
野宿が主だった旅の道すがら、寄った街は街と言ってもそこそこ大きいと言うだけで、これほどの人手ではなかったから、光太郎は目に入る肌も露な踊り子や剣術を披露するために巨大な刀剣を持ち歩く旅人に見とれてはワアワアと騒いでいる。
町外れのバザーは口煩い役所の目の届かない、よく言えば旅のバザーだが、悪く言ったらまるで無法地帯、何でもござれの悪徳バザーだったりするのだ。そのため、法を掻い潜ったあらゆる商品が出回っているから、貴重品や珍品目当ての旅人には有難い市場だった。旅人だけではなく、最近ではこのバザーを追った【おっかけ】なる者もいる始末で、合法的に法を犯していたりする。
その分、値段も目玉が飛び出るほど高いものから、どうしてこれがこの値段なんだ…?と、疑問に思うほど安いものまでが取り扱われていて、得をするのも損をするのも買い手側の目利き次第と言うことになる。
ルウィンがなぜこのバザーを選んだのか、彼にはお目当ての商品があった。
もう、随分と草臥れてしまった光太郎のカタ族の衣装を買い換えてやりたかったのだ。以前立ち寄った時に無理矢理押し付けられてしまったカタ族の衣装だったが、思わぬ所で役に立った。どこででも手に入るという品物ではない、もしかしたら…と思ったルウィンは人でごった返すバザーに渋々来ることにしたのだ。
『はぁ~、凄いねぇ。どこからこんなに人が溢れてくるんだろう?あ、でも。ここだったら彰がいるかも…』
「手を離すなって!」
思わずフラフラと人込みに紛れてしまいそうになった光太郎は手を引っ張られてハッとした。
様々な人種が行き交うバザーの中央で、光太郎ほど目立つ旅人はいないのだが、逸れたら捜すだけでも骨折りなのだからいつも通り服の裾を掴んでいてもらっていた方が行動がしやすい。しかし、こんな時に限ってなぜか光太郎はフラフラとしたがるのだ。困ったもんだとルウィンが眉を寄せていると…
「ご、ごめちゃい!」
申し訳なさそうにカタコトで謝ってくるから怒るに怒れない、全く本当に困ったものである。仕方なくルウィンは苦笑してポンッと頭を軽く叩いた。
「アキラを捜すんだろ?判ってるって。だがまずは服だ!」
怒鳴らないと互いの声が聞こえないほど露店主たちの掛け声は威勢が良い。それに倣うように道行く旅人も、交渉する客も負けじと声を張り上げて果敢に値切っている。活気付いたバザーは、少年の心をワクワクさせても仕方のないことだ。
「服!うん、服!」
頷いて、逸れてしまったら絶対に迷子になることが判っているから、光太郎は必死でルウィンの服の裾を掴んでいた。ルビアは人込みにうんざりしたように光太郎の頭にしがみ付いている。
不意に掴んでいるルウィンの黄色い中国の民族衣装のような服の裾が解れているのに気付いて、光太郎はひっそりと眉を寄せた。よくよく見てみると、他の旅人と同じように…いや、それ以上にルウィンの服は草臥れているように見える。自分と旅をしている間に余計な心配をかけるものだから、必要以上に行動しなければならない彼の、その行動量に比例するようにボロボロになっているのだ。
(服…俺の服よりもルウィンの服を買わないと。でも、この人はきっと自分よりも俺のコトを考えてくれてるんだろうなぁ)
ふと見上げると、風に揺れる銀髪から覗く先端の尖った右耳に下がる、三日月型の銀の耳飾りが揺れていた。それはキラキラと陽光を反射していてとても綺麗で、動きにあわせて揺れている。スイングするのは、耳朶で銀の台座にルビーのような紅玉が収まっているピアスで止めているからだろうか?
彼が唯一身に付けている装飾品だ。
他の旅人をコッソリと盗み見ると、指輪をしたりピアスをしたりと…結構装飾品を身につけている人が少なくない、と言うか、殆どの人々が何らかの装飾品を身に付けている。ルウィンの場合は極端に少ない方だ。
『それはやっぱり、俺がいるせいかなぁ…』
《何がなのね?》
思わず呟いた独り言に頭上から声をかけられて、ハッとした光太郎は何でもないよ…と言いかけて思い直した。
『ねえ、ルビア。ほら、他の人って結構指輪とかしてるよね?ルウィンの装飾品って言ったら、右耳のあの赤い宝石から下がってる銀の月のピアスぐらいでしょ。買えないのはやっぱり俺のせいかなぁ…』
《何かと思ったら…そんなことなのね。ルウィンは女の子じゃないのだから宝石なんて興味がないの》
『そうじゃなくて…』
装飾品を身につけることがこの世界のお洒落なら、ルウィンはハッキリ言ってダサダサだと言えるだろう。何も知らない自分がくっついて回るせいで、ルウィンが不自由をしているのだとしたら…それは凄く嫌なことだし、とても悲しいことである。何とか改善できる方法は…そこまで考えて、たった1つしかない解決方法にぶち当たった光太郎は溜め息をついた。
(俺が離れる…ってことしかないもんなぁ。あう、泣きそう)
鼻の奥がツンとして、グスッと鼻を鳴らすと、唐突にルビアが頭上から語りかけてくる。
《あの耳飾りをすることもホントは嫌がってるのに、それ以上何かつけろって言ったらブチ切れるのね。ルーちゃんは短気で怒りんぼーだから》
「…何の話をしてるんだよ」
ルウィンは呆れたように肩を竦めながら装飾品や衣類を売っている区画に漸く辿り着いて周囲を見渡したが、ここでもやはり旅人が所狭しと行き来をしていてなかなか先に進むことができない。
暫く思案していたが、一向に人が減る気配もない。
もちろん、3日間はぶっ通しでバザーが開かれるのだ、夜になれば幾らか人手も減るのだろうが、夜半は何かと物騒だし、昼でヘトヘトになっている光太郎たちを連れて歩くのもどうかと思う。何より、早めに出立したいと言う思いもあった。
「よし!オレが買ってくるから、お前たちは目立つ所にいろ…そうだなぁ、あの大きな木の下がいい。あそこで待ってろよ?」
頷いた光太郎とルビアを見下ろして、一抹の不安を感じたルウィンは小さな飛竜を抱き締める少年を食い入るように見下ろして頷いた。
「オレが戻ってくるまで【アキラ】を捜すのは絶対にダメだからな。もし約束を破ったら…そうだな、ぶった斬る」
《ほら、短気で怒りんぼーなのね》
「約束守る。うん、ホント」
胡乱な目付きで睨むルビアをギュッと抱き締めてコクコクと頷く光太郎に、本気だからなとやはり物騒な一言を付け加えてからルウィンは人込みに消えてしまった。それでも背が高いから暫くは銀髪を目で追うことができたが、店の付近でヒョイッといなくなってしまった。
すると、途端に光太郎はポツンと独りぼっちになってしまったような気がして、心細くなってギュッと両手に力を入れてしまう。
《く、苦しいのね》
『あ!ご、ごめん!!』
そうか、ルビアがいるんだと気付いてホッとした。
ルウィンが見えなくなったり、傍からいなくなるともうダメで、なぜか酷く不安になる。
この世界に落ちてきた時から、もうずっとルウィンと一緒にいるせいか、彼がいなくなると捨てられた小犬のように不安で心細くてすぐにでも追いかけたくなってしまう。今だってそうだ。
ここにルビアがいてくれなかったら、今頃自分は、待ってろと言われても追いかけていただろう。
そんな自分がとても恥ずかしいけれど、この広い世界で、オマケに何も知らないこんな異世界でどこかにいるかもしれない彰を捜したくても、迷子になって悪ければ死んでしまうのが関の山だろう。自分は父のような天才的な冒険家というわけではないし、それほどの勇気もない。
ルウィンと不思議な運命で出会って、光太郎は、なぜか自然と彼を受け入れていた。
綺麗だからとか、強いからだとか…少しは打算的な考えもなかったわけじゃないけれど、右も左も判らない自分を連れて歩くことがどれほど迷惑になっているか良く判るし、それを甘受して面倒を見てくれる彼を信用しないでいられるはずもなかった。
一種の刷り込みのような現象だったかもしれないし、違うかもしれない。
それでも、光太郎はどちらでもいいんだと思っている。
ルウィンのお供になろうと決めたのは、他の誰でもない、自分だったのだから。
迷惑のかけついでなんだし、こうなったらとことんまでルウィンにお世話になろうと決めていたのだ。
こんな中途半端な自分の面倒を見てくれるルウィンは、もしかしたら、案外どこか彰に似ているのかもしれない。クールな双眸も綺麗な顔立ちも全く違うのだが、雰囲気が、とても良く彰に似ていた。
(あ、そっか。ルウィンって彰に似てるんだ。あ、なんだ、そっかー。彰って何かあると決まって俺を連れ回してくれるんだよなぁ。で、父さんがいつもいないから、泊りがけでキャンプしたり…俺、だから父さんがいなくてもちっとも寂しくなんかなかった。彰がいれば寂しくなんかなかったんだ。だからきっと、こうしてルウィンと一緒にいられるから、俺は寂しくないし怖くもないんだろう。この見知らぬ異世界でも生きていけるんだって思う。彰…どうしてるかな?ちゃんとご飯とか食べてるかな?悪いヤツに捕まっていないかな…)
様々なことを考えていた光太郎は不意に彰の顔を思い出して、唐突に居ても立ってもいられなくなった。
《光ちゃん。いつもは仏のルビアさまだけれど、今回はダメなのね。ここから離れてしまったら危険なの》
不意に見透かすような大きなエメラルド色の澄んだ瞳で見上げられて、光太郎はドキッとした。大木の下は暑さを避けた旅人達の溜まり場になっていたが、光太郎とルビアが座るにはちょうど良い場所を見つけて確保していた。
『ご、ごめん』
素直に謝る光太郎にニコッとルビアが笑ったちょうどその時、傍らで休息を取っていた際立つ美人が立ち上がった。
長いストレートの黒髪は腰までもあって、豊かな胸にむっちりとした形の良い尻、褐色の肌は異国の匂いを漂わせていて、釣り上がり気味の細いサファイアの双眸と高い鼻梁、濡れたような薔薇色の唇がなんとも妖艶で艶かしい彼女は彼らを見下ろしてクスッと笑った。
《なんなのね?》
ルビアが不信げに彼女を見上げると、すらりとした長身の美女はクスクスと笑いながら光太郎を見下ろしてジックリと眺めている。
「どこから来たなりか?」
奇妙な調子で尋ねられて、光太郎はキョトンとした。でもすぐにハッと気付いて、ルウィンとの約束を思い出していた。
【魔の森のことは忘れちまえ。そして、誰にも言うんじゃない】
脳裏を過ぎる彼の言葉に知らず頷いて、光太郎は誤魔化すように笑って首を左右に振った。
「聞くしない。言葉、ちょっと」
「言葉が判らないなりか?異国から来たなりね。誰かと逸れたなりか?」
「えーっと…」
カタコトで答えながら矢継ぎ早の質問にあたふたしている光太郎の胸元から、ナイスバディの美女を見上げたルビアが鼻先にシワを寄せて威嚇するように口をパカッと開いた。
《ヒトにモノを尋ねる時はまず自分から名乗るべきなの。でも、ルビアたちには余計なお世話なのね!》
『る、ルビア…』
ツンと外方向くルビアにムッとしたような美女は腰に片手を当てると、奇妙な二人連れの旅人を興味深く観察しているようだった。だがその僅かな時間で、光太郎もその風変わりな美女を繁々と観察した。
美貌もさるものながら、彼女のむっちりとした太腿のベルトに下がったホルスターから覗く二丁の拳銃も大層な代物のようである。
奇妙な文様が浮かぶグリップのところだけが覗いていたが、銃身はやや短いようだ。
「なんなりか、あちきの銃魔(ガンマ)が興味深いなりか?」
ニコッと笑った美女はそう言って太腿のホルスターから拳銃を引き抜くと、やはり短い銃身の引き金の部分に指先を引っ掛けてクルクルと回した。
「あちきはバラキ。銃魔使い(ガンマツカイ)なりね。お前を気に入ったなり。何か困ったことがあったら賞金稼ぎよりも格安で依頼を引き受けてやるなり。いつでも声をかけるがいいなりね」
そう言って構えた銃を光太郎に向けると発砲したのだ!
『わ!?』
思わずルビアを庇うようにして身を縮めた光太郎に、バラキと名乗った妖艶な美女は声を立てて笑いながら立ち去ってしまった。
『な、なんだったんだろ…ん?』
《きー!ムカツクなりね!って、言葉がうつちゃったのねッ》
光太郎の腕の中でジタバタしていたルビアはしかし、ひらひらと舞い降りてきた何かを拾っている少年の手許を覗き込んだ。
それは一枚の紙片で、【薔薇姫】と綺麗な文字で書かれた横にキスマークがついていた。
《銃魔使いと言って、魔法の詰め込まれた銃弾を撃ち出す道具が使える魔法使いなの。賞金稼ぎよりもレベルは低いけれど、同じようにギルドがあって、ちゃんとした職業なのね》
『ふーん…って、ああ!?』
光太郎の手から紙片を奪ったルビアは、興味がなさそうにそれをチラッと見下ろしただけで、怒りをぶつけるようにバリバリに破り捨ててしまったのだ。
『い、いいのかなぁ…?』
《いいのね!ルーちゃんがいるのに、銃魔使いなんて必要ないの!》
その紙片に息を吹きかけると、どこにいても紙片に書かれた名前の持ち主が駆けつけてくる効果のある貴重な代物であることを、光太郎は知らなかった。バラバラになった紙片を舞い上げて、暑い地方に吹く恵みの風が吹きすぎて行った。
「なかなかないもんだなぁ…」
ルウィンはカタ族特有の民族衣装を探して数件目の露店に立ち寄っていた。
「お兄さん!そこの綺麗なお兄さんっ!ご覧よ、綺麗な服が揃っているよ」
威勢良く声をかけられたものの、あるものと言えば確かに珍しい物ばかりだったが、肝心のカタ族の衣装は見当たらなかった。
「何かお探しかの?」
立派な顎鬚を蓄えた老人に声をかけられて、ルウィンは頷いてその露店の前に立つと無造作に並べられている衣装に視線を向けて溜め息をついた。
「カタ族の衣装が必要なんだが、こちらでは扱っているかな?」
「カタ族とな!これはまた珍しい物を…似たような服でよければこれなんかどうじゃね?」
地面に直接敷いたカーペットの上に広げた商品の中から取り出した水色の衣装は、確かにカタ族の着るものによく似てはいたが、明らかに何か胡散臭かった。
このバザーでもう一つ、目利きを問われるものがある。
それは何かと言うと、ずばり、曰く物かどうかということだ。
「それは水の精霊が纏っていた水衣と言ってな、妖精がカタに卸していたものらしいぞ」
らしい…と言う辺りがかなり胡散臭かったが、実しやかに説明する老人が差し出した衣装は確かに軽く、特殊な織り方で仕上げられていたし、手触りに独特の違和感が感じられた。こういった場合の多くは、やはり何かしらの秘術が織り込まれていると相場は決まっている。
問題は…
「幾らだ?」
「おお、気に入ったかね。大負けに負けて、5000ギールでどうじゃ?」
「冗談!高すぎる」
興味がなさそうに即答してから衣装を返そうとするルウィンの腕を掴んで、老人はさらに指を3本立てて見せた。
「3000ギールでどうじゃね?ん?1500ギールでもいいぞ」
どうしてそんなに値引くんだ…と、いつもなら値引き交渉に喜んで臨むはずのルウィンは、明らかに胡散臭そうな老人を冷やかに見据えて、水衣をひらひらと振ってみせた。
「…こう言う市場でバイヤーが値引く条件その1は、何か曰くがあるからだろ」
うっ、と言葉を詰まらせた老人はしかし、訝しげに眉を寄せる銀髪の青年に仕方なさそうに渋々と頷いてみせた。
「カタの衣装に似ていると言う理由だけで、誰も欲しがらんのじゃよ。竜使いが現れると言う予言が噂されてから、誰もカタ族に触れる物を欲しがらんのじゃ。ワシは妖精やエルフから卸した商品を扱っておるからのう、どうしても関連付けられて商売上がったりじゃよ。これなんかほれ、本当に良い品なんじゃがなぁ…」
確かに、今のルウィンならば咽喉から手が出るほど欲しい品ばかりだ…
「よし、じゃあこれを纏めて5000ギールでどうだ?どうせ余っちまうんなら、売っておいた方が得だと思うけどな」
「ごご、5000っぽっちじゃと!?それこそ冗談ではないぞ、お若いの。これなんぞは10000ギールでも安い品なんじゃぞ、それを5000などと、いや、4着を纏めて5000…」
「売れなくて残れば40000ギールの損失だな。で、どんどん古くなって仕舞いに150かそこらでエルフから叩かれるんじゃないのか?だったら今のうちに売っておくってのも手だと思うぜ?」
ニコッと笑う美形の青年に、ブツブツと悪態をついていた老人は暫く苦渋に満ちた表情をしていたが、渋々と言った感じで頷いた。思わぬ所で思わぬ買い物をしたと、ルウィンがホクホクしていると、傍らで買い物をしていた男が不意にそんなルウィンに気付いて声をかけてきた。
「お前さん、ハイレーン族かい?」
「…ああ」
それが何か?とでも言うように訝しむルウィンに、彼は料金を支払って品物を受け取りながら驚いたような表情をした。
「こいつは驚いたな。故郷に帰らなくていいのかい?いや、余計なお世話なんだがなー」
「…は?」
ギルドに貯めていた貯金を殆どおろしてきていたルウィンは、それでも安く買えた衣装代を引いてもまだ余りある巾着の口を縛って懐に仕舞うと、今夜は宿屋だと考えながら男の顔を見返した。
「は?って…知らないのか?とうとう、ハイレーン族の若き皇子が立太子の式典を催すそうじゃないか。放蕩だ何だと言われていても、やはり一国の皇子様だ。国を一番に考えておられるんだよ」
「…」
話し好きの旅人は衣装を受け取ったルウィンにニコッと笑ったが、彼の代わりにそれまで渋い顔をしていた老人がパッと表情を変えて頷いてみせた。
「おお、そうじゃ!ここで3日を過ごした後、バザーはガルハ国に移るんじゃよ。大国ガルハの皇子が立太子とご婚儀を同時に挙げると言うことで、あの国は大層賑わってるそうじゃからなぁ」
「…ち、ちょっと待ってくれ。立太子?婚儀?どう言うことだ?」
下手に動揺しても不信がられるとは判っているが、聞き慣れているようで全く免疫のない言葉をこうも矢継ぎ早に聞かされたのでは、さすがに心臓に毛の生えているルウィンだとて平然と聞いていられるはずがない。
「なんだ、ハイレーン族のくせに巷を賑わせている噂を本当に知らないのかよ?」
「長らく人のいる街に行ってなかったんでね。噂も聞かなかったよ」
雪白の頬を引き攣らせて笑うルウィンに、そうか、旅人だからなぁと軽く言った男は頷くと事のあらましを説明してくれた。
「ハイレーンの若き皇子様はなんか知らんが、15歳の元服式で皇位継承権を拒否して以来、未だに継承されていないらしい。だから正当なる皇太子殿下でありながら、未だに皇太子じゃないんだよ。もちろん、それは知ってるよな?で、その皇子様がいよいよ皇位継承権を受けて正式な皇太子殿下になられるってワケさ。それもご正妃を決めるご婚儀を控えてって噂なんだ。皇帝陛下が触れを出して、我こそは!と思っている美姫や美女をそれこそ世界中から集めているらしいし…強ち嘘っぱちの噂でもないらしいんだ。後宮じゃもう、新たな皇太子殿下のために各国の王族の姫君や貴族の姫君が我先にってお輿入れしているそうだからなぁ。いいよなぁ、一国の皇子ともなると世界中の美女の中から飛び切り綺麗な女を選べるんだから!…って、おい、どこ行くんだ?」
信じられない噂を耳にしたルウィンは、軽く礼を言ってその場から立ち去ろうとした。
「なんでも、皇帝陛下が病床に倒れたらしくて、皇子も仕方なかったんだろう。一国の皇子ともなれば自由の利かない身の上だからなぁ」
目の前にいる、件のガルハ国第一皇子の性格を全くよく理解していない人間の青年は、尤もらしくそう言うと、気の毒そうに自由奔放なはずの放蕩皇子の身の上を慮って頷いている。聞き捨てならないのは最初の台詞だ。
「…陛下が倒れただって?」
ピタリと足を止めたルウィンが振り返ると、男は肩を竦めて頷いた。双眸を細めて見ても怯むだけで、嘘だと言うわけではなさそうだ。
(そんなバカな…父上の御世はまだ続くはず)
母譲りの先見で見た未来は未だ父の健在を物語っていたはずなのに…出来すぎた話の裏にはきっと何かあるはずだ。こんな旅先のバザーにまで聞こえるように、国家の大事を吹聴する国はない。皇帝陛下の病状は、常に一部の者に留めおかれて密やかに行動を起こすものだ。なるほど、いよいよ業を煮やした父王が最終手段に訴えたのだろう。
(なんにせよ、帰るなりいきなり見知らぬ女に引き合わせられて、「お前の妃だ」なんて言われるのもたまらんし。これは…一度城に戻らないといけないようだな)
踵を返したルウィンはさて、光太郎をどうしたものかと考えながら大木の根元を目指した。
指先で何かを地面に書いてはルビアと笑いあう少年、ウルフラインに連れて行ってやると約束したのだが…どんな顔をするんだろうか?
置いていくわけにはいかないが、連れて行くわけにもいかないだろう。
なぜかルウィンは、光太郎に自分がガルハ帝国の次代後継者だと言うことを言い出せないでいた。
それは恐らく…彼が【竜使い】で、自分が【竜騎士】の末裔だからだろう。
【竜騎士】の末裔のみに伝わる伝承。
それはルビアさえも知らない秘伝で…ガルハ国ではバーバレーン家、コウエリフェル国ではジュレイン家、レセフト国ではコウ家のみに受け継がれてきた伝承である。
この巡り合わせも皮肉なもので…竜使いである光太郎を【殺すため】に存在する竜騎士の末裔であるルウィン、いや、ガルハ国のアスティア=シェア=バーバレーン。
殺すために連れまわしているのか…考えあぐねても出てこない答えに翻弄しながら、旅を続ける自分たち。
どこを目指しているのか…なんのために?
たとえ国に連れ帰ったとしても彼が【竜使い】だとばれても困る。そちらの方が大問題になるだろう。
王家の問題ともなれば【眠れぬ森】からあの方が御出座しする…とすればやはり、連れ帰るわけにはいかない。
占者の目を騙せたとしても、恐らく母であり兄である、あの方の目だけは騙せない。
木陰から自分の姿を認めたのだろう、ニコッと笑ってルビアを抱き締めて立ち上がる光太郎を眩しそうに見つめ返したルウィンは、これからどうしようかと頭を痛めていた。
暑い地方を潤す吹きすぎる風が、一枚の紙片を舞わせてルウィンの足許に落としていった。