第一章.特訓!16  -遠くをめざして旅をしよう-

 巨木の根元に溜め息をついて腰をおろすルウィンに、光太郎とルビアは顔を見合わせて首を傾げていた。酷く疲れたような相貌には疲労が張り付いていて、心配になった光太郎はその傍らにルビアを抱き締めたままでしゃがみ込むと、綺麗な横顔を覗き込んだ。

「ルウィン?どしたの」

 ひょいと顔を覗き込まれて、心配そうな漆黒の瞳を見つけたルウィンは、小さな溜め息を零して首を左右に振ると苦笑する。その見慣れた苦笑にも覇気がなく、何事かを考えているようで上の空の返事だった。

「いや、別に」

 ルビアと顔を見合わせた光太郎は、ちょっとだけ困ったような顔をしたが小さく苦笑すると、銀の前髪を鬱陶しそうに掻き揚げるルウィンに言うのだ。

「あのね。ルウィンの【いや、別に】は何かあるんだって、ルビア言ってた。だから、何かあった。僕にも、何かあったよ」

 自分を指差してニコッと笑う光太郎に、ルウィンは驚いたような、ギョッとした表情をして反対に顔を覗き込んで訝しげに問い質した。

「何かあったって…何があったんだ?」

 自分のいなかった間に何かあったのだろうか…砂漠のバザーは得てして素行の悪い連中が多いときている。ルビアがいるとは言え、残して行ったのは失敗だっただろうかと、ルウィンが一抹の後悔を覚えていると…

「いや、別に♪」

 ニコッと笑う光太郎に、なんだ冗談か…と彼が小さく溜め息をつくと、それまで黙って2人のほのぼのちっくな会話に耳を傾けていたルビアが、光太郎の腕の中で呆れたようにぼやいたのだ。

《ルーちゃんって光ちゃんには優しいのね!…ま、そんなことはどうでもいいの。何かはあったのね》

「…ハイハイ、オレはルビアには冷たいですよ。で?何があったんだ」

 うざったそうに軽くあしらって、ルウィンは胡乱な声音であからさまに不機嫌そうに呟いた。
 するとルビアは、軽い溜め息をついて首を左右に振るのだ。

《ルーちゃんってば、最近すっごく小慣れてきてしまったのね。おっもしろくないの~》

「いや、お前とは一度、ジックリと話し合う余地があると、オレは常々考えてるんだけどな。ルビア?」

《おーいに結構なのね、ルーちゃん》

 額に血管を浮かべてニコッと笑うルウィンに、ルビアも負けじとニコッと微笑み返した。沈黙の攻防戦を理解できない光太郎は、この2人ってホントに仲良しだよな~と全く違う方向の解釈をしながらニコニコ笑って口を開いた。

「銃を持ったえっれーハクイねーちゃんと話したよ」

「…」

《…》

 途端にルウィンとルビアの攻防戦は鎮火して、そんなことよりも、光太郎の口にした言葉に2人は二の句が告げられないでいるようだ。

「?」

 そんな2人の突然の豹変振りに、光太郎は唐突にハッとした。

(やっばい!俺、なんかマズイことでも言っちゃったのかな?でもでも!確かに隣りにいたおっちゃんはそんなこと言ってたんだ!あう、失敗だったかな~)

「ええっと!その、あの…」

 慌てて弁解をしようと試みる光太郎はしかし、やはり語彙の少なさに言葉が詰まってしまう。

「いや、だいたい判った。で?なんだったんだ、ルビア?」

 全く判ってくれなかったのかとガックリする光太郎の腕の中で、ルビアがツンと外方向きながら投げ槍に返事を寄越した。

《銃魔使いなの》

「ああ」

 なんだ、そんなことかとルウィンが気のない返事をして巨木の根元に凭れるのを、光太郎は小首を傾げて見つめていた。
 銃魔使いと言えば、こんなバザーに一人や二人いてもおかしくはないし、見るからに風変わりな旅人を見つければ商売っ気を出すのも仕方がない。彼らは懸賞金目当てのシビアな賞金稼ぎと違って、実に好奇心の旺盛な連中が集まっているのだ。

「その銃魔使いがどうしたって?」

 チラッと、光太郎なのかルビアなのか、どちらともつかない調子で尋ねるルウィンに、小さな紅い飛竜は答えてやるつもりなどないらしく外方向いたままで知らん顔だ。

「ええっと、紙くれたよ。白い、真ん中に“薔薇姫”書いてる。横に印…えっと」

 光太郎が説明しようとするのをルウィンは止めなかったし、それよりも先を聞こうと促しすらしたのだ。もともと、彼は光太郎が言葉を覚えようとする努力を買っていたし、それに付き合うことにも覚悟はしていたのだから、当たり前といえば当たり前の反応なのだが。
 気のない素振りのルウィンにどう説明しようかと思案していた光太郎は、それでも、何某かの興味を持った彼に事の顛末をうまく説明しようとして失敗していた。

「えっと、その…印…」

 チラッとルビアに助けを求めても、この紅いルビーのような飛竜は相手にもしてくれないのだ。いつもなら助け舟を出してくれるのだが、言葉覚えのゲームを始めた時から、ルビアはルビアなりに、教えてやりたくなる衝動をグッと堪えながら知らん顔を決め込むようになってしまった。
 とうとう光太郎は、助け舟が出ないと知って、紙片を掌に乗せるような仕種をすると、その揃えた指の付け根の辺りに唇を押し付ける、そんなジェスチュアをして見せたのだ。
 ナイス、光ちゃん!…と、ルビアが内心でグッと拳を握り締めて前後に振ったことなど、当たり前だが気付きもせずに、ジッと見下ろしてくる青紫の神秘的な双眸を見上げながら光太郎は首を傾げてみせた。

「印?…ってのは、キスマークのことか?」

「うん」

 身体を起こして、唇を窄めるとチュッと音を鳴らすルウィンの仕種にパッと表情を綻ばせた光太郎は頷いて、俺はやったよと言いたそうにルビアを抱き締める腕に僅かだが力を加えたのだった。

「なるほど。レスポンスカードをもらったんだな」

「レスポンスカード?」

 光太郎が首を傾げると、後頭部で腕を組んで巨木の幹に凭れかかりながらルウィンは頷いて見せた。

「ああ、銃魔使いが良く使う連絡手段だ。オレたちのように妖精を使えるほどには発展していないギルドだからな。高額を稼ぐ銃魔使いたちは魔法効果の高いレスポンスカードを使っているのさ。銃魔使い特有のそのカードは息を吹きかけた人物が主となり、その命じた主の許に名前が書かれた人物はどこにいても引き戻されてしまうと言う結構便利な代物なんだが、いかんせん、仕事中は引き戻せない、無効効力が発動してしまからな。持っていても、ここぞという時には役に立たないかもしれないだろう。まあ、レスポンスカードは高額の品だ。それを使用できるってことは、レベルの高い銃魔使いだったんだろうよ。で?そのカードはどこにあるんだ」

 聞き返されて、光太郎は思わず言葉を詰まらせてしまった。
 素直な性格はなんにしても裏目に出てしまうから、全くもって嘘はつけない。
 素知らぬ振りをしながらもほんの僅かにルビアを見てしまったその瞬間を、もちろん、目聡いルウィンが見逃すはずがない。

『あ!』

 ニッコリ笑って光太郎の腕から小さな飛竜を奪い取ってしまった。

「で、そのレスポンスカードはどこですか?教えてくださいなvルビアちゃん」

 あからさまに不気味な丁寧語で尋ねるルウィンにビクビクする光太郎の前で、ルビアは人を食ったような仏頂面でヘンッと鼻を鳴らして下顎を突き出した。

《破っちゃったの!ルーちゃんがいるのに、銃魔使いのレスポンスカードなんて必要あっりまっせんのね!!》

「お前ってヤツは!それをもらったのはコータローなんだろーがよ?」

《光ちゃんにはもーっとひっつようないの!》

 あくまで言い張るルビアをムゥッと睨み据えているルウィンに、光太郎はクイクイと服の裾を引っ張って慌てて割り込んだのだ。

「ルウィン、これ。ルビア悪くないよ?必要ない、ホント」

 俺はルウィンがいれば別に他の誰かに何かをお願いする必要なんかないんだと、やはりルビアと同じような強い意思を含んだ双眸で覗き込んでくる黒い瞳を見返しながら、ルウィンは仕方なさそうに溜め息をついて不貞腐れている紅い小さな飛竜を解放すると、光太郎の手にある小さな紙片の切れ端を引っ手繰った。

「ふん。どうやら特殊な術法を仕掛けてあるようだな。コータロー以外のヤツが使用したとしても、単なる紙切れだろうよ」

 ルウィンはその紙切れを、さして興味もなさそうに光太郎のポケットに押し込んだ。

「?」

「せっかくもらったんだ。持っておけよ」

 やれやれと疲れた表情を浮かべながら胡座に頬杖をついて顎をしゃくるルウィンに、光太郎は護り粉と一緒にクチャクチャで押し込まれた紙を見下ろしていたが、うんと頷いてポンポンとポケットを叩いた。

《ところで、ルーちゃん。服は見つかったの?》

 深紅の飛竜はまるで何事もなかったかのように翼を羽ばたかせながら目の前まで舞い降りると、不機嫌そうな相棒の顔を覗き込んだ。

「いや、残念ながら。まあ、代用品は手に入れたからな。暫くはそれで対応しておくさ」

 ふーんと気のない返事をするルビアを見つめていたルウィンは、唐突にその小さな身体を引っ掴んで、光太郎とルビアを驚かせた。

〔ルビア、話がある〕

 耳慣れない言葉に首を傾げる光太郎を横目に、ルビアが表情を険しくして訝しそうに口を開いた。
 声は出ないが、あくまでも仕種に拘る飛竜なのだ。

《ガルハ語なのね、何かあったの?》

(ガルハ語?…って、それは聞かれてはいけない話なのかな)

 今、光太郎が必死に習得しようとしている共通語とは別に、この広いアークには幾つかの言語があって、ルウィンの故郷の言葉は遠くエルフの流れを汲むせいか、かなり難しいガルハ語だと、以前ルビアが教えてくれたことがある。その言語を使用して話すとなると、自分に聞かれたくない話なのか、それとも他人に聞かれたくない話かのどちらかだろう。

(きっと、仕事の話なんだな)

 恐らく後者だろうと推測した光太郎は、大人しくルウィンの傍らに座り込んで、ルビアが洩らす思念の声に耳を傾けることにした。賞金稼ぎと言う、耳慣れない職業にはあらゆる秘密がある。だからルウィンも、何かしら大切な話の時にはこうして光太郎に理解のできない言葉で話すこともあるだろうと、ルビアはそうも言っていた。

〔どうやら、国に帰らなければならなくなったんだ〕

《ええ!?だ、だってウルフラインに行くって言ったのね…》

〔そうだったんだが、予定はあくまで未定だ。父上がどうも一芝居打ってるらしくてな、放って置いても厄介なことにならんとも限らんし…オレの進退に関わることなんでね、しかたない〕

 ルウィンの腕の中で思案するように深いエメラルドの双眸を細めていたルビアは、銀の前髪が風に揺れる綺麗な顔立ちをしたガルハ国の皇子を見つめていた。
 困ったもんだと皮肉げに笑うルウィンの表情と、困惑しているルビアの表情は光太郎を不安にさせるには充分だった。オマケに事の成り行きがわからないのだから、その不安は余計に大きなものになっているに違いない。ソッと眉を寄せる光太郎に気付かないまま、ルウィンは話を続けた。

〔取り敢えず、コータローのことなんだ〕

 自分の名前が出てきたことにドキッとして、光太郎は唇を噛んだ。
 自分のことがまた、この綺麗な賞金稼ぎを困らせているんだろうかと、申し訳なく思いながらその横顔を見上げていた。

〔オレは…ガルハには連れて行こうと思っているが…王城にいれるつもりはない〕

《身分を明かすつもりもないのね》

 間髪入れずに口を挟むルビアに肩を竦めると、その時になって漸く、不安そうに眉を寄せて自分を見上げている光太郎に気付いた。思ったよりも柔らかい黒髪は、暑い地方には恵みの風を受けてさらさらと揺れている。心配そうな、不安そうな…複雑な感情を秘めた双眸がキラキラと太陽の光に輝いていた。意志の強そうな双眸は、それでも案外脆くもあるのだと言うことを、知らないルウィンではない。
 困ったように苦笑して、彼は光太郎の黒髪に手を伸ばした。

「そんな心配そうな顔をするなよ。別に置いて行ったりはしないさ」

 え?と、不思議そうな顔をした光太郎は堪り兼ねて口を開いた。

「どこ行く?」

(確か、ウルフラインって国に行くって言ってたはずだけど…)

 心中で呟きながら首を傾げる光太郎の髪をクシャッと掻き混ぜて、ルウィンは困惑の表情を浮かべている小さな飛竜を見た。

〔仕方ないさ。オレがガルハの皇子だとしても、コータローには何の関係もないからな。いや寧ろ…〕

 呟きかけて、ルウィンは口を噤んだ。
 【竜使い】を初めて拾った晩も、焚き火の前でルウィンはこんな表情をした。
 そうしてあの村で光太郎を怒鳴ったときも、そんな表情をしていた。
 何も言うなと、厳しい表情をしながら、どこか辛そうな…
 ルビアは何か言いかけていた仕種をしていたが、不意に黙り込んでしまった。
 だからこそ、光太郎はその雰囲気を読み取れなくてハラハラしてしまうのだ。

〔コータローは知り合いに預けるよ。暫くは国を空けられないかもしれないし…まあ、こんな時のことも考えて、端からそのつもりではいたんだが〕

《言い訳にしては長ったらしいの。ルーちゃんは意地っ張りだから…でも、仕方ないのね》

 フンッと鼻を鳴らしたルビアはしかし、仕方なさそうに溜め息をついた。

《で、それをどう、光ちゃんに説明するの?》

「そりゃあ、お前の役目だ。ルビア」

《ええ!?ズルイのね!!》

 思わず目をむくルビアを尻目に、ルウィンは喚く小さな飛竜を放り出すと、困惑した表情で見守っている光太郎を促して小さく笑いながら立ち上がった。

「取り敢えず、座っていてもしかたない。必要なものがあるから、行くぞ」

 顎をしゃくって促すルウィンに、とうとうワケが判らないままで頷いた光太郎は、腹を立てて飛んでいるルビアを捕まえて抱き締めると、その後を追って歩き出した。
 何が起こるのかなんて判らなかったが、ルウィンを信じるのだと決めた自分の言葉に責任を持って、不安に駆られながらトボトボと足を進めていた。

 ルウィンが目指そうとしていた場所は、市場の中央を離れた、ガラクタ市が立ち並ぶそれこそ闇市のような野蛮な雰囲気のある区域だった。
 実はまさにこの区域こそが、この町外れのバザーの醍醐味のような場所で、他では滅多にお目にかかれないようなレアなアイテムをゲットすることだって不可能ではない。ただ、あまりに粗野な連中が屯しているため、普通ではけして立ち入ることのできない危険区域でもあるのだが…賞金稼ぎがそんなことで泣き言を言っていてはお話にならないこともまた、確かなのだ。

『る、ルビア~。ここってなんか、ヤバそうじゃない?』

《ヤバイのね。だって、人身売買もしているような連中もいるの。光ちゃん、ルーちゃんから離れたら売られてしまうのね!》

 先ほどまでの不安もどこへやら、違った意味でビクビクしている光太郎はルビアに脅されて慌てたようにルウィンの腕に抱きついた。

「歩き難い」

 一言、素っ気無く言って腕を無下に振り払うルウィンに、もう慣れている光太郎はしつこくその腕に抱きつこうとしていたが、不意に何かに目を留めて思わず立ち止まってしまった。

《光ちゃん?》

 片手で抱き締められているルビアが怪訝そうに声を掛けると、光太郎はゴソゴソと道具の入っていない反対のポケットを探って何かを取り出していた。
 それは、ルウィンが何かの時の為だと言って渡していた金貨だった。合わせて5ギールあるが、果たして光太郎が目にしたものが手に入る金額だろうか。
 この世界は有り難いことに十進法が用いられているおかげで、光太郎でもそれほど苦もなく買い物が出来るようになっていた。その事実を知ったルウィンが、仕事でいない間の留守番時に腹が減ったり咽喉が渇けば、何か買うといいと言って渡していた金貨なのだ。

《何か買うのね?》

『うん。ほら、ルビア。アレってルウィンが耳にしてるピアスの色違いだよ』

 光太郎が指差した先にあったのは、ボロの布が広げられた粗末な露店で、日除けさえ侭ならないような砂地に腰を降ろした老婆が、どうやらその店の店主のようだった。
 その店とも言えないただの布っ切れの上に、雑然と並べられている装飾品はどれもどこか禍々しい雰囲気があるものの細工は見事で、足を留めている者も数人はいるようだ。その禍々しい装飾品の中で、なぜか1つだけ清楚な煌きを宿したピアスが片方だけ並べられていた。
 光太郎が指差したのは丁度その品で、青い石がキラリと太陽の光を反射している。
 まるで対のようなピアスは、離れてしまった片方を待ち続けているかのようにひっそりと佇んでいた。

《5ギールじゃとてもムリなのね。諦めて早く行くの》

 もちろん、ルビアにもこの市場の決まりはよく判っている。
 目利きも自分なら値切るのも自分なのだ。だが、光太郎の侭ならない言語では、安いものでも高く吹っ掛けられるのがオチだと言うこともまた、抗えない事実なのだと判っていたから敢えて止めるしかない。我が侭で利かん気のルビアでも、光太郎には甘々だったりする。
 自分が交渉しても構わなかったが、それでは光太郎の特訓にはならないだろうと思い直したルビアは、心を鬼にして断腸の思いで引き止めたのだ。

『うーん、残念だな~』

 あーあ、と残念そうに溜め息をつく光太郎の腕の中でルビアが下顎を突き出すような仕種で急かしていると、人込みの中にあっても目立つ黒髪の少年は、小さな溜め息を零して少し先で待っている、自分の不在に気付いた銀髪の賞金稼ぎの許に足を踏み出した。
 と。

『わぁ!』

 人込みの中で目立つのは何も光太郎に限ってではない。彼を拾って面倒を見ている銀髪の青年、先端の尖った耳を有する異形の種族である美麗な賞金稼ぎも頗る目立つ存在だ。だからなのか、光太郎は真っ直ぐに彼を見詰めていたに違いない。
 さもなければどうして、物見遊山で野蛮な区域に立ち入っている、金持ちの道楽息子とぶつかってしまうのだろう。

「痛い!いたーい!!何するんだッ、下賎の者が!ボクはロシディーヌ家の子息だぞ!?」

「ご、ごめんひゃい」

 ジャラジャラと、これでもかと言うほど飾り立てている男の胸板に思い切り鼻をぶつけてしまった光太郎は、うっすらと涙を浮かべながら鼻先を押さえて頭を下げた。

《光ちゃんが謝る必要がどこにあると言うの!?悪いのはそっちなのね!》

 光太郎の腕の中からいきり立つルビアが抗議に口を開くと、初めはビックリしていた男も、元来こんなバザーに来ているだけあって珍しいものに目がないのか、ルビアと、その稀有なる飛竜を抱き締めている光太郎を物珍しそうに交互に見遣っていたが、何を思ったのかパチンッと指先を鳴らして嬉しそうに高らかに言い放ったのだ。

「うん、ボクはこれを気に入った!屋敷に連れて帰るぞ」

《は!?何を言ってるの、バカなのね》

 ルビアが呆れたように、馬鹿にしたような溜め息をついていると、いきなりの事の展開に追いつけないでいる光太郎の腕が道楽息子を護衛するようにぴったりとついて来ていた男が捩じ上げたのだ。

『う、いたたたた…ッ!』

《光ちゃん!!》

「へーえ!言葉が違うのか、ん?これの飼い主はどこにいるんだ?」

 目尻に涙を浮かべる光太郎の顎を掴んで楽しげにキョロキョロと周囲を見渡す道楽息子の腕が、唐突に脇からぬっと伸びてきた掌に攫われてしまう。

「な、何者だ!?」

「失礼。ソイツらはオレの連れでね。生憎と奴隷じゃないんで飼い主はいないんだ…と言うことで、離してくれないか?」

 やれやれと溜め息をつくルウィンが掴んでいた腕を離しながらそう言うと、目の前に立っている夢のように綺麗な存在に目を白黒させていた男はなぜか顔を赤らめながらいきなり喚きだしたのだ。

「ぼぼ、このボクに!?め、命令するのか!?ボクはロシディーヌ家の独り息子なんだぞ!」

 賞金稼ぎを生業としながらも行く末は一国を担う皇子としては、近所の村の領主の息子に威厳を振り翳されても困るだけで有り難くはない。
 はいはいと簡単にあしらって引き下がる手合いじゃないのは十も承知だが、だからと言って光太郎とルビアを飼われても大変困ってしまう。いや、別に飼ってくれるのなら生活費の困難な現段階では非常に有り難いのだが…もちろん、そんなことを言うワケにはいかない。

「ロシディーヌ家が素晴らしい家系だと言うことはよく判った。だが、残念ながらそうだと言ってオレたちに何か関係があるワケではない。ってことで、離してくれ」

 腕を組んで面倒臭そうに言うルウィンの態度に、蝶よ花よと可愛がられて育った温室育ちの放蕩息子が黙って引き下がるわけがない。自分も全く同じような生い立ちであるから、ルウィンにはだいたい次の行動も予測できていた。

「ば、馬鹿にしたな!?くそうッ!!おい、お前たち!!何をボサッとしているんだッ、用心棒らしくこんなヤツはこてんぱんにしてしまえ!」

 光太郎の腕を捻じ上げていた男はさっさと掴んでいた手を離すと、大柄の体躯から滲み出すように殺気をちらつかせて指を鳴らしながら近付いてきた。
 次の瞬間だった。
 思わず目を見張って口許を覆った光太郎の前で、ルウィンの美しい銀髪がパッと虚空に舞い上がると、鈍い、骨を砕くような重い音を響かせた男の拳が力任せに彼の頬を殴りつけていた。

(ルウィンが死ぬ!)

 叫びそうになった声は声にならなくて、咽喉の奥で引っかかったまま出てこようともしない。そんなもどかしさを味わいながら、光太郎は倒れてしまうだろうルウィンの許に駆け寄ろうとして、何時の間にか腕から抜け出していたルビアの小さな手で引き止められてしまう。襟首を掴んでパタパタと飛んでいるルビアの、どこにそんな力が潜んでいるのかと言えば、それはやはり曲がりなりにも飛竜なのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが。

「ルビア!離してッ。ルウィン、死んでしまう!!」

《ルーちゃんは死なないのね》

「…え?」

 ルビアを見ながらジタバタと暴れていた光太郎は、突然、物騒な出で立ちの男が息を飲む気配を感じてルウィンを振り返った。

「…ったく」

 呟きは微かだったが光太郎の耳には届いていた。投げ遣りな、面倒臭そうな舌打ち。
 通常の人間なら、あれほど鈍くて重い音を出す拳を頬に喰らえば、脳震盪ぐらいは余裕で起こしてぶっ倒れてしまうだろう。だが、ルウィンは倒れるどころか、揺らぐこともなく両足の力で踏みとどまっていたのだ。
 光太郎がホッとしているのも束の間、驚愕に目を見開いた金持ちの坊ちゃんの目の前でヒュッと、風を切る音がしたかと思うと、あっという間に荒くれ者の胸倉が掴み上げられた。

「用心棒ってこた、お前、賞金稼ぎだな?あんな蚊の止まったような拳で殴りやがって!賞金稼ぎ、舐めてんじゃねぇぞ!!」

 そう言った途端、銀髪の賞金稼ぎの拳がストレートで顔面に減り込んだ!ルウィンよりもタッパもウェイトも2倍はあろうかと言う巨漢の男が、まるで木の葉のように傾ぐのを、だが、ルウィンは許そうとしなかった。
 後方に倒れようとする男の胸倉を力任せに引き寄せるなり、2発目が顔面を強打する。

「ひ、ひぃぃぃ…も、もう勘弁、カンベンしてくれぇええ!!」

 懇願するように哀れな悲鳴を上げる男を覗き込みながら、ルウィンはチッと舌打ちをして、口に溜まった血液混じりの唾液を吐き捨てた。

「いまいち効いてねぇようだな。賞金稼ぎと言うからには覚悟してんだろーがよ?まさか、2、3発殴られてはい、終了。とか思ってんじゃねーだろうな!?用心棒の仕事を受けたんなら命懸けで雇い主を護るんじゃねーのかよ!ああ!?」

 言っている間にも既に拳が風を切り、男の顔から鈍い音がする。徹底的に叩きのめさなければ賞金稼ぎ同士のタイマン勝負にケリはつかない。そうしている間に、彼の雇い主がもう止めてくれと懇願すれば、話はそれで終了となるのだ。だが、大概の場合、雇い主もおいそれとは『止めてくれ』とは言わないのが、この世界のルールである。
 止めろと言って止められてしまったら、次は自分なのだ。
 既に泡を噴いて白目をむく男の胸倉をなおも引き戻そうとした時、ルウィンの腕に縋りつく何かがあった。

「る、ルウィン…もう、やめる。このひと、もう戦うしない」

 おどおどしながら、それでも懸命に腕に縋り付いて自分を見上げてくる光太郎の瞳を見下ろして、ルウィンは胸倉を掴んでいた腕を殊の外あっさりと離してしまった。まるで殴ることにとり憑かれているかのように執着していた獲物は、既に失神して起き上がってくる気配もない。

「で?ロシディーヌ家のお坊ちゃま。オレはまあ、中途半端にだがアンタの雇った用心棒に勝ったワケだ。オレの連れは返してもらっていいんだな?」

 ゆらり…と、暑い地方特有の陽炎のような殺気を滲ませて見下ろす銀髪の賞金稼ぎに、道楽息子は声にならない悲鳴を上げている。

「ひ、ひぃぃぃ…」

 既にへたり込んで腰を抜かしていた道楽息子は、乾いた砂利が敷き詰められている道路に水溜りを作りながらブンブンと首を縦に振っていた。声も出せない情けない姿は、笑うよりも、いっそ悲愴ささえ感じてしまう。
 自分がもし同じ立場だったら、間違いなく彼のように腰を抜かしていただろうとそこまで考えていたが、不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らして歩き出すルウィンにハッと気付いて、光太郎は慌ててその後を追いかけた。
 正直、何が起こったのか未だにとろい脳細胞は理解においついていない。

「…なんだよ。オレが怖くなったかよ?」

 ニッと、意地悪そうな笑みを浮かべたルウィンに見下ろされて光太郎は、その腕を抱き締めながら眉をそっと寄せていた。
 これで嫌われるなら、それもいいのかもしれないとルウィンはひっそり思っていた。
 懐かれたままで預けてしまうのは、縋るような目をされたら置いて行けなくなってしまうとも思っていたからだ。
 嫌われるなら、しかたない。これも何かの運命なのだろうと溜め息をついたとき、光太郎が困惑の面持ちのままでギュゥッと腕を抱き締めてきた。

「僕、何か起こった。わからない。考える、疲れた」

 はぁーっと長く息を吐いて緊張していた身体から力を抜いた光太郎は、呆気に取られたように見下ろしてくるルウィンに向かってニコッと微笑みかけたのだ。

「でも、よかた。悪者退治した。ルウィンえらい!えーっと…怖くないよ?」

 そう言えば、唐突にルウィンの言った台詞に気付いて光太郎は首を傾げてしまった。
 それでなくても初めて見る実践の喧嘩に度肝を抜かれて緊張していたのに、どうしてそれが怖いに繋がるのだろうかと考えながら、光太郎はまたしても徐にハッとするのだ。

「ルウィン!頬、痛い!?」

「はあ?あ、いや別に。構わなくていい」

 触れてこようとする指先を払い除けながら、ルウィンは切れた口中に溜まる血液混じりの唾液をペッと吐き出した。
 喧嘩に無敵はない。
 殴れば殴り返される、殴られた場所は痛いのだ。
 だが賞金稼ぎと言う職業に就いた以上、それは日常茶飯事のことで、これぐらいの傷で大騒ぎしていたら命が幾つあっても足らないだろう。だが、そのことを異世界から迷い込んできた光太郎がもちろん知っているはずもなく、不安そうに、心配そうにハラハラしている姿はどこか胸の奥がくすぐったくなってしまい、ルウィンは奇妙な感覚に眉を寄せてしまう。

(…なんだ、この感じは?)

『ルビア~、ルウィン痛いだろうね?あいつ、物凄く殴ってきたから!!』

《ルーちゃんはその2倍、ううん、5倍は返してると思うからいいのね》

 あの状況を見れば、ルウィンの頬ぐらいの傷は可愛いものだろう。
 あの用心棒、再起不能になってなければいいのね…と、ルビアが相手の心配をしたとしても仕方のないことだった。

「ここだ」

 ルウィンの服の裾を掴んで頭に深紅の飛竜を張り付かせた光太郎は、立ち止まった彼が指し示す店を見てアッと声を上げてしまった。
 その店先に無造作に置かれていたその物体は…ハンドルこそ奇妙な形だったが、明らかに元いた世界で極簡単に見慣れているものだったのだ。

「こ、これ…」

 光太郎があんぐりしたままでルウィンを見上げると、その反応を訝しく思いながら眉を寄せた銀髪の青年は、転がったドラム缶に腰掛けてナイフでハムのような物を切って直に食べている仏頂面の髭面に声をかけた。

「店は開けてるのか?」

「ご覧の通りさ…って、おー!すげぇな、その顔!」

「まあね」

 見ても判らない返事とともに、ルウィンの頬の傷をビックリしている男に光太郎がポカンとしていると、自分の都合の良いほうに受け止めたルウィンは肩を竦めながら店先に無造作に放置されている1台のバイクの前に行った。
 そう、光太郎が唖然として凝視していた物体は、銀の車体が美しい1台のバイクだったのだ。

「…コイツは、カスタムリペア(改造修理)はしてあるのか?」

「んー?ああ、それね」

 ボサボサの長髪を鬱陶しいそうに掻き揚げながら、男はナイフと食べかけのハムを投げ捨てて立ち上がると、ポケットに両手を突っ込んでぶらぶらと近付いてきた。
 喋るのも億劫だと言いたげにいちいち溜め息をついて、彼は銀と黒のコントラストが美しい、流線型のフォルムを持つ風変わりなバイクの座席部分をポンポンと叩いてチラリとルウィンを見た。
 身形で値段を決めようと企んでいるようにも見える。

「とんだ旧時代の遺物だよ。今頃こんなモンを欲しがるヤツなんざいねーだろうと踏んでたんだがなぁ…」

「ほら!あたしの勝ちじゃない」

 少し大きなテントの入り口から飛び出してきた小さな少女が腰に手を当てて、胸を張ってフフンッと鼻先で笑うと男を見上げた。

「チッ!はいはい、ほらよ」

 忌々しく舌打ちした男はポケットから数枚の金貨を取り出して少女に手渡した。ウェストに工具の入ったポーチを装着して、顔はオイルで汚れている少女はニッと勝ち誇ったように笑っていたが、黙って事の成り行きを見守っているルウィンの一行に気付くと慌てたように愛想笑いを浮かべて居住まいを正した。

「いらっしゃい。その子を気に入ってくれたの?ありがとう!旧時代の産物だから、無駄に魔力を食うのよね。今の時代、そんなに強い魔力を持った魔導師もいないし…ま、いてもこんな古臭い乗り物は使わないでしょ?だから、弟に必要ないって言われちゃったんだけど。あたしがね、どうしても生き返らせてみたくって…」

 ペラペラとよく喋る少女の口から飛び出した色んな言葉よりも、店先で遣る瀬無いほど適当に店番をしている青年が、この少女の弟だと言う事実の方に驚いている光太郎を無視して、ルウィンは同じ質問を繰り返した。

「カスタムリペア済みってことか?」

「そーね、砂漠地帯を46週間走り続けても大丈夫だと思うわ。よかったら、試してみて?」

 クスッと笑った少女が肩を竦めると、ルウィンはしゃがみ込んで車体を丁寧に調べているようだった。元いた世界でもそれほど…と言うか、全く興味のなかった乗り物の詳しいことなど理解できない光太郎は、それよりも、この世界にそんな乗り物があったのかと純粋に驚いて観察している。

「あの」

 光太郎が声を掛けると、ルビアと少女がほぼ同時に光太郎を見た。

「えっと。食べる、なに?」

「食べる?ああ、燃料のこと?」

「うん」

 頷く光太郎に、少女は腕を組んで物珍しそうに彼を見ていたが、クスッと笑って口を開いた。

「魔力よ。それも膨大な。一昔前には科学と術学の見事な融合だ!…とかって持て囃されたんだけどねぇ。今じゃ、無駄に魔力を食うガラクタだって言われてるのよ。失礼こいちゃうわよね!」

 ケラケラと豪快に笑う少女を呆気に取られたように見ている光太郎たちの前で、ボサボサの髪をした男がルウィンに肩を竦めていた。

「ま、姉貴がリペアしてっから、ポンコツよりはマシだと思うぜ。5000ギールでどうだ?」

「5000か…悪くないな。それでいい」

 珍しく値切ることをしなかったのは、その値段が妥当よりも幾分か下回っていたからだ。
 ガラクタ屋の姉弟としては余程の物好きでない限りはけして売れることのないだろう商品を置いておくよりも、カスタムリペア代を差し引いてもお釣りがくるぐらいの値段で売りつけられれば御の字だし、ルウィンにしてみたら歩きやカークーよりも早い乗り物が予想していた値段よりも遥かに低い価格で手に入れば助かる…そう言った相互利益が合致したことで、交渉はスムーズに成立した。

「あら!アンタの連れが買ってくれたみたいね。ありがとう」

 少女が嬉しそうに頬を上気させてウキウキと礼を言うと、なんだか嬉しくなってしまった光太郎もニコニコ笑ってそれに応えていた。

「あ、ねね。あたしたち姉弟は旅の商人なのよね。どこかでまた会ったら、声を掛けてよ。お安くしとくから!」

 少女にどーんっと背中を叩かれて、光太郎はよろけながら判ったと頷いた。コロコロとよく笑う少女は、見ていて楽しくなってしまう。この商売がよほど好きなんだろうと、光太郎は感じていた。

《パワフルなのね》

 ルビアが呆れたように呟くのを聞いて少女は高らかに笑っていたが、テントの奥で何かがピーッと機械音を響かせたのにギクッと飛び上がって慌てたようにテントに戻ろうとした。しかし、不意に思い止まったようにルビアと光太郎を振り返ると、オイルで汚れた頬を拭いながらウィンクしてみせたのだ。

「あたしはファンデリカ・ルシーナで、弟はトランディサール・ルシーナよ。ファニーとリックって言えばこの世界じゃけっこう有名なんだから、覚えておいてね!」

 そう言い残してピュッとテントの内に戻ってしまったファニーを呆気に取られたように見守っていたルビアと光太郎の背後で、交渉が成立して支払いと改造された部分や取り扱いの説明を済ませたルウィンが不思議そうに首を傾げてそんな2人に声をかけた。

「何してるんだ?行くぞ」

「あ、はい!」

 異世界に落ちてきて色んなものを見てきた光太郎だったが、今回ほど驚いたものは初めてだった。
 なぜならそれは、幻想から抜け出してきたエルフのように美しいルウィンが、無機質な銀と黒のコントラストが美しい流線型のフォルムをしているバイクを押していると言う姿は…やはり、光太郎でなくても驚くし違和感を覚えても仕方がない。

「なんだ?何を笑ってるんだよ。ヘンなヤツだな」

 本日の収穫品を肩に下げ、大収穫品を押しながら呆れたように肩を竦めて苦笑するルウィンに、光太郎はニコニコと笑って服の裾を掴んでいた。
 色々なことがあったが、光太郎にしてみたらルウィンが頬を腫らしていること以外には、命に関わるような重大事件が起きなかっただけよかったと思っていた。
 何か重要なことを忘れて幸せそうに笑っている光太郎だったが、その傍らでルウィンとルビアは複雑な思いを抱えていた。
 素直に喜ぶこの少年を。
 彼らは手離さなければいけないのだ。
 暑い地方に吹く風が銀の髪を舞い上げて、それを不安そうにルビアは見上げていた。