第二部 21  -悪魔の樹-

 恋をしよう…と望んでから、最初の間は、レヴィアタンは俺を片時も離そうとしなかったんだけど、何処にも行かないと判ると、漸く、独りになる時間をくれるようになった。
 俺はあの日から、毎晩、レヴィアタンと白の部屋で遅くまで語り明かして、戯れにキスをしては、クスクスと笑いあって、穏やかで優しい時間を過ごしていたんだ。もしかしたらこのまま、本当にレヴィアタンと恋をして、幸せに暮らせるんじゃないか…とか、身勝手なことを考え始めていた矢先、やっぱり運命ってのは何処までも残酷で、そして、当たり前のことなんだけど、現実と言うものを叩きつけてくれた。
 それは、リリスの存在。
 彼女はそれほど俺たちのことを構っているようではなかったけれど、ふとしたときに、俺と一緒にいるレヴィアタンを呼び、彼は至極当然と言った感じで、俺を置き去りにして彼女の許に行ってしまう。そうすると、一晩でも二晩でも、長い時には一週間も逢わないこともあって、俺は独りの時間をハラハラと零れ落ちる花びらを見上げたまま、何時間もそうしてぼんやりとレヴィアタンの帰りを待つんだ。
 そんなある日、やっぱりリリスに呼ばれたまま、何日も部屋に戻って来ないレヴィアタンを待ちながら、手持ち無沙汰に天井を見上げていたら、木製の扉が申し訳なさそうに開いて、まさかあの傲慢不遜の白い悪魔がそんな登場の仕方をするはずもないから、誰だろうと訝しんで視線を天井から戻したら、そこには薄汚れた灰色の猫が、やたら荒んだツラをして俺をのっそりと見詰めていた。

「灰色猫…」

 少しやつれたように見えるのは目の錯覚なんかじゃないと思う。

『お兄さん…まだ、灰色猫はそこに行ってはダメなのかい?』

 木製の扉を猫手で掴んだまま、まるで途方に暮れたように二本足で立ち尽くしている灰色の猫は、そうは言ったものの、どうしたらいいのか判らないと言った複雑な表情をして、透明感のある澄んだ黄金色の双眸で俺を見たんだけど、すぐに視線を落としてまうんだ。
 その姿が儚いし、何よりも痛ましくて、俺はどれほどこの優しい使い魔を傷付けてしまったんだろうと、ズキリと胸が痛むのを感じていた。

「…とんでもないよ、灰色猫。俺が悪かったんだ。灰色猫は何時だって俺の為に猫力を尽くして頑張ってくれていたのに。俺の身勝手な我が儘で、どれほど灰色猫を傷付けてしまったんだろう。ごめんな」

 そう言いながらベッドから降り立って、慌てて灰色猫のところに行こうとしたんだけど、それよりも早く薄汚れた印象しかない灰色の猫は二本足でダッシュで走ってくると、嬉しそうに『にゃあ』と鳴いて飛びついて来たんだ。

『お兄さん!やっと許してくれるんだね』

「許すも許さないもないよ。どうでもいいことだったのに、俺は灰色猫を疑ってしまったんだ」

 飛びついてきた小さな身体を抱き締めたら、心に染み入るようなぬくもりが両腕に広がって、やっぱり、どんなに酷い仕打ちを受けたとしても、きっと俺は、灰色猫だけは嫌いにはなれないんだろうなぁと確信した。

「それなのに、灰色猫はそんな俺を見捨てずにいてくれたんだ。有難う」

 ギュッと抱き締めたら、灰色の小さな猫はわざと苦しそうなふりをしたけれど、それはこの、レヴィアタンの風変わりな使い魔が見せる照れ隠しなんだ。

『…お兄さん。ここは魔界にも匹敵するとても危険な場所だよ。礼なんて口にしてはダメだ。灰色猫はご主人からお兄さんをくれぐれもと頼まれているからね。これはただの命令に従っているだけのことだよ』

 なんてグダグダと言いながらも、灰色猫は嬉しそうにゴロゴロと咽喉を鳴らしている。
 尤もらしいことなんだけど、そんな態度で言われてもお前、可愛いだけで耳になんか入らないよ。
 リリスの許に行ってしまった浮気な恋人の帰りを、今か今かと待ち続けるような真似もどうかしてるなぁと思っていた矢先に灰色猫が来てくれたんだ。俺は嬉しくて仕方なかったし、この機会に謝れたこと、感謝できたことでちょっと気分が晴れやかになった。

「灰色猫が居れば安心だよな」

 うん、と頷くと、何やら良くない気配でも感じ取ったのか、灰色猫は俺の腕の中から顔を上げて『にゃあ』と鳴いた。

『何やら良くない予感がするよ。お兄さんは何を企んでるんだい?』

「企むってほどのことでもないよ。その、一緒にその辺をぶらつかないか?」

 俺の申し出に、灰色猫は大きな目をくるりとさせて、それから仕方なさそうに小さく笑ったみたいだ。
 レヴィアタンの剛健な使い魔どもの中でも極めて珍しい灰色猫は、そんな風に仕方なさそうに笑っては、たかが人間でしかない俺の願いをなんとしてでも聞いてくれようとする。そんな灰色猫に絶望して、信じられなくなっていた俺はどうかしているよ。
 それもこれもあの、薄情な白い悪魔のせいなんだ。

「こんな部屋に閉じ篭ってるのもどうかしてるしさ、この城の主はまだ当分は戻って来ないみたいだし。灰色猫が居れば安心だから、ちょっと探検でもしないか?」

 俺のお誘いを、灰色猫は勿論だとでも言うように双眸を細めて『にゃあ』と鳴いてくれた。
 そうして、俺たちは白の部屋を抜け出して…って別に閉じ込められているワケでもないんだけど、レヴィアタンが支配する心の領域を探検にすることにした。

 俺が知っているレヴィはのほほんっとしていて、どこら辺が大悪魔なんだと、本当に疑っちまうぐらいお人好しそうな気の優しいヤツだって思っていた。その思いは今でも変わることはないんだけど、灰色猫と旅をするレヴィアタンの心の領域は、ルシフェルが言っていたように薄汚れた雰囲気だし、陰惨としていて殺伐とした、凡そレヴィからでは窺い知ることもできないほどの不気味さが漂っていた。
 大悪魔だと言わしめる所以のような、レヴィアタンが使役する屈強そうな使い魔たちが行き交う城の中では、それこそ、俺や灰色猫は浮きに浮きまくっているものの、それなりに地位を与えられているのか、そんな凶悪で凶暴そうで、頑強な体躯を有している悪魔のような使い魔たちは、俺のことはジロリと見るくせに、灰色猫には慌てたように視線を逸らすんだ。
 この小さな猫の何処にそんな迫力が隠れているんだろう。
 思わず呆気に取られたように、傍らを二足歩行でテクテクと歩いている、御伽噺から抜け出してきたような人語を操る不思議な猫を見下ろしてしまった。
 俺の服の裾を猫手で掴んで、嬉しそうに口許に笑みを浮かべている灰色猫は、ふと、そんな俺の視線に気付いて、ピンッと張っている髭を微かに震わせた。

『どうかしたのかい、お兄さん。もう、疲れたかい?』

 小首を傾げる灰色猫に、こんな陰気で、殺伐とした殺気が渦巻く薄暗い城内の中にいるってのに、俺はなんだか楽しくなって、「なんでもない」と首を左右に振って見せた。
 レヴィアタンのいない白の部屋はとても寂しくて、何処か寒いような気がするから、あの部屋に戻っても嫌なことばかり考えているか、眠るぐらいしかすることがないんだ。もう、戻るなんて冗談じゃない。

「いや、なんつーか。やっぱ灰色猫は最強だなぁって」

『猫が最強なのかい?面白いことを言うねぇ』

 やっと傍にいることができると、全身で喜びを物語っている灰色猫は、今後は一瞬たりとも傍から離れるものかと思っているみたいで、俺の服の裾を放す気は全然ないみたいだ。別にそれが嫌かと言うと、実はそうでもない。
 たまに歩き難いかな…とは思うものの、絶妙のタイミングでヒョイッと避けてくれるから、邪魔になることもないし、何より、灰色猫の存在はどんな場所にいてもホッとできるんだ。だから、俺のほうこそ、離れたいなんて思わない。

「レヴィアタンの居城ってのは広いんだなぁ。天井も凄く高いし…つーか、悪魔の城なのにステンドグラスとかあるんだな」

 城だってのに、まるで教会のような巨大で見事なステンドグラスがあって、年代モノの価値のある代物なんだろうけど、俺にはそれが判らないから綺麗だなぁと見上げることぐらいしかできない。ステンドグラスは確かに綺麗なんだけど、こうも寂れたような、所々が壊れかけてるような、荒涼とした城ではせっかくのステンドグラスも台無しみたいだ。

『何を言ってるんだい、お兄さん。ステンドグラスは天使よりも悪魔により良く似合うんだよ』

 本気なのか嘘なのか、よく判らない表情をして見上げた灰色猫は鼻先でクスッと笑った。

「そうなのか?」

 美術系に全く疎い俺は首を傾げると、一見、荒れ果てたようにしか見えない石造りの城の中、荘厳とした雰囲気で彩るステンドグラスをもう一度見上げて、そう言われてみれば、城内はこんなに荒んでいるのに、ステンドグラスは一欠けらも壊れていないんだから、これはこれで綺麗なのかと、全く自己主張の欠片もなく納得してしまう俺がいる。

『ご主人はね、心をどこかに置き忘れてきたんだろうねぇ。だから、悪魔が大切にするべき心の領域ですら荒んで、こんな風に荒れ果てて…これは即ちご主人の心を忠実に表しているんだよ』

「そうなんだ…あの薄情な白い悪魔は、いったい何処に心を置き忘れてきたんだろうな?俺がただの人間じゃなきゃ、見つけ出してやるのにな」

 あはははっと笑って灰色猫を見下ろしたら、薄汚れた灰色の猫は、心の奥底まで見透かしてしまいそうなほど透明度の高い、水晶玉みたいな黄金色の双眸をやわらかく細めて笑っているから、ちょっとキョトンッとしてしまった。

「な、なんだよ?」

『…お兄さんはただの人間でいいんだよ。特別なモノになってしまったら、今度はお兄さんが、その綺麗な心を忘れてしまうからね』

「は?」

 呆気に取られて首を傾げる俺に、灰色猫は『うにゃ』っと笑って、なんでもねってのとでも言いたげに首を左右に振りやがるから、思わず抱き上げて身体をぶらんぶらんさせてしまいそうになった。
 ヤバイヤバイ、薄汚れた猫のように見えても、コイツはれっきとした大悪魔の使い魔なんだから、そんな、沽券に関わることをしちゃいかんだろ。

「ま、いっか。それにしたって、海王レヴィアタン様の居城はとんでもないことになってるんだな…あ、そーだ。確か、何処かに海があるんだよな?領域を繋げてるとか言ってたから、灰色猫!海を見に行こうよ」

 ポンッと拳で掌を叩いて名案を思いついたってのに、灰色猫は不意にゆったりとしていた歩調を止めて、その反動で思わず後ろにすっ転びそうになった俺は、怪訝そうな目付きをして小さな猫を見下ろしたんだ。

『ダメだよ、お兄さん。今はご主人が不在だから。海が見たいのなら、ご主人に見せて貰うべきだ』

 その領域には立ち入り禁止だと、言外に灰色猫が言っているような気がしたら、俺は反論せずに残念そうに眉を八の字みたいに寄せるしかない。

「仕方ないか。灰色猫に無理を言っても悪いしな。今度、レヴィアタンが戻ったらお強請りしてみるよ」

 ニカッと笑ってウィンクしたら、灰色猫は聞き分けの良い俺を見上げて、それはそれは胡散臭そうなツラをしやがったんだ。
 おい、こら。なんだ、その目付きは。

『聞き分けの良いお兄さんて言うのは…不気味だ』

 思い切り動揺したようにピンッと尖っている耳を伏せる灰色猫に、できれば蹴りでもくれてやろうかと口をへの字にした時、背後でクスクスと笑う声がして、俺たちはハッと振り返っていた。

『ただ今戻りましたのよ、灰色猫。今頃、レヴィアタン様は光太郎様を捜していらっしゃることでしょうね。お前が連れ出したと知れば、激怒なさりますわよ』

 見事なアルカイックスマイルを浮かべている高級なビスクドールのように品のある、古風なゴスロリ調のドレスに身を包んだリリスが冷やかな口調で言うと、灰色猫は不機嫌そうにムッとして大きな黄金色の双眸を細めてしまった。
 クスクスと笑いながら、その双眸は全く笑わずに俺を見上げてくるリリス…そりゃ、そんな目付きをされても仕方ないよな。きっと、リリスだってレヴィアタンを愛しているに違いないんだから、最愛の伴侶が人間の、それも見てくれも平凡な男のガキに現を抜かしてるんじゃ、奥さんとしては腹立たしくて仕方ないと思う。俺がリリスの立場だってそうなんだから、彼女を責めることはできないよ。

「いいんだよ。俺が誘って散歩してるんだ。灰色猫は何も悪くないよ」

 年の頃は10歳ぐらいの美少女は、灰色猫を庇おうとする俺を、桜桃のような唇に薄笑いを浮かべて双眸をすぅっと細めながら見詰めてきた。

『あら、そうでしたの?それでは、レヴィアタン様は灰色猫をお叱りにはなりませんわね。ところで…先ほど、何を強請ると仰っていらしたの?』

 思わずそれは…と答えそうになる俺の前に、スッと身体を割り込ませた灰色猫は、自分よりも背の高い、気品のあるリリスの顔を確りと見上げたままでハッキリと言い切ったんだ。

『リリス様には関係のないことでございますよ。これはお兄さんとご主人の問題です。口を挟まれては、それこそご主人の気に障るのではないですか』

 綺麗な面立ちは時に禍々しいほど醜くなると言うけど、この時のリリスの表情はまさにそれだった。
 思わず絶句する俺の前で、リリスは冷徹な双眸をグッと細めて、見事な柳眉も歪んで、まるで残忍そうな顔付きをしてキッと灰色猫を睨み据えたんだ。
 それにも怯まずに、灰色猫はフンッと鼻を鳴らしている。
 なんだ、この一触即発は。

「ち、ちょっと待ってくれよ。喧嘩とかするなよ…」

 弱虫毛虫の小心者の人間としては、かたや海王であり大悪魔レヴィアタンの妻である少女と、かたや屈強そうな悪魔も逃げ出す大悪魔レヴィアタンの使い魔が殺気を漲らせて睨み合いなんかしているんだ、怯えながら止めるしかないだろ。
 冷や汗を噴出している俺を双方とも胡乱な目付きで振り返って、やっぱり同時に口を開いてくれた。

『あら、喧嘩などしていませんわよ』

『喧嘩なんかするワケないよ、お兄さん』

 これは立派な果し合いだ…とか言うんじゃないだろうなと、ヒヤヒヤしていたら、先に切り上げたのはリリスのほうだった。

『あら?レヴィアタン様が呼んでいらっしゃるわ。わたくしはもう行きます…今度、お暇でしたらお話をなさいませんか?無論、灰色猫は呼びませんが』

 チラリと冷酷そうな双眸で灰色猫を見たリリスは、それでも確りと俺の顔を見上げてそんな誘いを口にするんだけど…俺としては、灰色猫がいないこんな陰気で物悲しい場所にはいたくないから、それを丁重に断った。
 すると、灰色猫は何故か、フンッと鼻で息を吐き出して…って、お前、どれほどリリスを嫌ってるんだよと、そのあからさまな態度に呆れてしまうと言うか、またしてもハラハラとしてしまった。
 頼むから、人間の心臓なんてひ弱なんだから、これ以上ヒヤヒヤさせないでくれよ。
 ガックリとへたり込みそうになる俺の前で、ひっそりと微笑んだリリスは、漆黒の闇に溶け込みながらポツリと言ったんだ。

『そうですか。しかし、何れ貴方は…きっとわたくしとお話をしますわよ』

 謎めいた微笑を残して、夢のように綺麗な美少女は闇の中に溶けてしまった。
 さ、流石は大悪魔レヴィアタンの妻だと豪語するだけはある。
 思わずガックリと肩を落としそうになったんだけど、初めて目の当たりにしたリリスの存在に、バクバクする胸の辺りを掴んで溜め息を吐いた。
 凄みも一流なら、あの残忍そうな酷薄そうな表情は殺気すら漲らせて、灰色猫じゃなかったら裸足で逃げ出していたと思う。猫一匹殺すことなんか造作もないんだぞ、と威嚇してるみたいで、俺は思わず灰色猫を抱き上げて、そのままダッシュで逃げ出したかったってのが本音だ。
 でも、そんなリリスの、あの意味深な台詞と謎めいた微笑。
 一抹の不安が胸に残ったけれど、俺は、灰色猫を見下ろして首を傾げるぐらいしかできなかった。
 俺を見上げた灰色猫の、何処か不安そうな表情が、暫く目に焼きついていた。

 城の散策にもそろそろ飽いて、そうだ、城の前に広がっていた白い花が咲き乱れる花畑に行こうと、乗り気じゃない灰色猫の腕を引っ張って歩き出したところで、俺は何かに思い切り鼻面をぶつけてしまった。
 そりゃ、確かに前をよく見ていなかった俺も悪い、悪いとは思うけど廊下の真ん中で突っ立てるヤツはもっと悪い!
 誰だ、こん畜生?!

『何処に行っていたんだ?!』

 思い切り睨んでやろうと、忘れかけていた鼻っ柱の強さ全開で見上げようとした矢先、鼻腔を擽る甘い桃のような、嗅ぎ慣れた匂いにハッとして顔を上げたら、髪も眉も睫毛ですら真っ白な、綺麗な面立ちの悪魔が不機嫌そうに眉を寄せて立っていた。
 腕とか組んで、本気で怒ってるのか?
 だって、お前…

「あれ?リリスを呼んだんじゃなかったのか??」

 赤くなった鼻先を擦りながら首を傾げたら、レヴィアタンはムッとしたままでそんな俺の腕を掴んで、それから、赤くなっている鼻先をペロッと舐めてきたんだ!

「おわわわッ?!」

 思わず素っ頓狂な声を出したら、それで漸く気が済んだのか、白い大悪魔様は満足そうにニヤリと笑ってくださった。なんなんだよ。

『リリスはどうでもいい。何をしてたんだ?』

 俺の顔を覗き込んで、嬉しそうに笑うレヴィアタンを見てしまえば、なんだよお前はと思っていた気持ちも萎えちまって、灰色猫に呆れられるんだけど、長い時間捨てられていたワリには呆気なく許せる気持ちになるってのは、やっぱさ、惚れた弱みってヤツだ。
 結局、惚れた方が負けなのか。
 そんなこと考えたら、早くレヴィをメロメロにしてみたいなぁ。
 まぁ、今の俺じゃリリスには到底敵わないだろーけどさ、ふん。

「城の中を散歩してたんだよ、灰色猫を誘ってさ。怖い使い魔ばっかの人外魔境だと独りじゃおっかないし」

『散歩だと?城を歩きたいんだったら、どうしてオレに言わないんだ。何処へだって連れて行ってやるぞ。何処に行きたいんだ??』

 そりゃぁ、城の外に出て、俺が暮らしていた人間の世界に行きたいけど、そんなことを言ってしまったら、漸く恋をする気になっているレヴィアタンの逆鱗に触れちまうだろうから、俺は冗談でもそんなことは言わない。

「そうだなぁ…ここと繋がってるって言う、海を見たいな」

『なんだ、そんなことか』

 そう言った途端、レヴィアタンはヒョイッと俺を横抱きに抱きあげて、ギョッとする俺が掴んでいた灰色猫の腕を離させると、ヤツはさっさと宙に!空中に浮きやがったんだっ。

『灰色猫、お前もついて来い』

『承知しているよ、ご主人』

 にゃあっと可愛く鳴いて同じく浮かぶ灰色猫にヒョイッと眉を上げたレヴィアタンは、フンッと鼻先で笑って、それから、呆気に取られている腕の中の俺を見下ろすと、雪白の頬を染めて嬉しそうにニカッと笑いながら俺の頬にキスしてきたんだ。

『オレの領土が気になるんだろ?そうかそうか。それは良い傾向だ』

「…は?」

 海を見たいって言っただけで、別に俺、レヴィアタンが支配している領土とか全然興味ないんだけど…とは、流石に喜んでいる大悪魔様を前にしては言えない。言えたとしても、言えないだろ、この場合。

『お前はオレと恋をするって言ったよな?』

 嬉しそうにニヤニヤと笑っているレヴィアタンに、何か、ちょっと不気味なものを感じながら、俺は訝しそうに眉を顰めて「うん」と頷いていた。

「ああ、恋をしてるよ」

『だったら、早く愛に変えてくれよ。待ち遠しいんだ』

「はぁ??」

 今日のレヴィアタンはどうしたんだろう?
 俺の頬に口付けながら、レヴィアタンはそんなことを言うんだ。
 リリスを愛してるくせに、愛を知らないくせに、物珍しさだけで俺を傍に置こうとか簡単に考えたくせに、この大悪魔様は何を言ってるんだ。

「俺が愛に変えても、レヴィアタンが愛を知らなかったら、何も変わらないじゃないか」

『それなんだよなー』

 俺を抱き締めたまま宙に浮いていたレヴィアタンは、それからゆっくりと上昇して、ステンドグラスが囲む高い天井付近まで来ると、今度はそのままスィーッと前進して、階段も廊下も何もないのに、中央に外に向かってバルコニーがあるみたいなんだけど、その前が僅かに広くなっている場所に着地したんだ。

『光太郎に愛して欲しいのに、オレがそれを知らなければ、愛されてるのかどうかも判らないんだよな。じっくり恋をするしかないのか』

 不満そうにブツブツと悪態を吐きながら、呆れる俺を抱き上げたままで、レヴィアタンは自然とガラスの扉が開くと同時に外に出たんだ。
 広がる海を予想したのに、そこには長い空中回廊があって、レヴィアタンはスタスタとお供に灰色猫を従えて、下を見ればゾッとするほど高い場所にある石造りの橋を渡るんだ…けど、確かに宙に浮くこともできるレヴィアタンは平気かもしれないけど、ただの人間としては、手すりも左右を囲む柵もない場所をスタスタ歩かれてしまうと、腹の底の辺りがズンズンして、生きた心地がしない。
 時折突風が含んだけど、確かにレヴィアタンはビクともしない。ビクともしないけど、マントのようなコートのような漆黒の外套が大きな音を立てて翻ったりするから、俺は慌てて胸元をギュッと掴んでいた。

『この胸の奥があたたかいのは恋ってヤツじゃないかと思うんだ。何処にいても、何をしていても、お前はちゃんと眠っているのかとか、食事は摂っているかとか…気になって気になって、刃向かう悪魔どもを殺してる最中でも気になって仕方ないんだ。これはやっぱり、恋だと思うぞ』

 ククク…ッと、邪悪な顔をして笑いながらも、レヴィアタンは切なそうに溜め息を吐いた。
 …そうか、今までふらりと何処かに行っていたのは、何か悪巧みを企てていた悪魔を殺しに行っていたのか。
 浮気だとか、リリスと愛し合ってるのかとか…そんなこと考えて凹んでいた俺としては、勘違いで良かったんだろうけど、どれほどレヴィアタンが血に餓えた悪魔かってのが判ってちょっと青褪めた。
 確かに、レヴィではないんだなぁ。
 レヴィじゃなくて、邪悪を絵に描いたように恐ろしい大悪魔であるはずのレヴィアタンなんだけど、胸の中に湧き起こる奇妙な衝動だとか、ドキドキだとか、相手の行動に一喜一憂することだとか…それから、切なさの意味が判らずに、邪悪なツラして笑っているくせに途方に暮れたような、そんな可愛い顔もするから、それでも俺は、やっぱりレヴィアタンのことも好きなんだなと思う。
 これは、レヴィにもレヴィアタンにも内緒の俺の心だ。

『任せとけよ、恋はもうすぐ、ちゃんと理解してやるからな』

 大悪魔として生れ落ちた時から、きっと負けず嫌いだったんだろうなぁ。
 真っ白な髪を突風に遊ばせて、肩に垂らした飾り髪もパタパタと風に遊ばれてるのに、レヴィアタンは大自然にも逆らうような叛逆心を胸の内に秘めたまま、他愛のない恋を勝ち取ることに心を傾けて、そうして満ち足りたような、満足そうな顔をして笑っている。
 俺の恋心はとっくに手に入れてるのに、それに気付かずに…必死に、自分の中に眠っている恋心を探してるんだなぁ。
 その姿が、俺には眩しくて、それからスゲー…可愛かったんだ。
 だから思わず、プッと笑ったとしても仕方ないと思うぞ。

『む!笑ったな…ふん、そうやって余裕をこいてるとな、今にオレに愛されて大変なことになるんだぞ』

 レヴィアタンは子供みたいにムッとしたみたいだったけど、それでもすぐに偉そうなツラをして俺を抱き上げている腕に力を込めたんだ。

「大変な…って、何か起こるのか?!」

 それは拙い。
 そう言えば、ルシフェルが言ってたな。レヴィアタンの心は世界に繋がっているから、白い悪魔の気持ち次第で、俺たちが住む世界はどうにでもなるんだ!
 そ、それはいかんぞ、マジで。
 と言うことはだ、レヴィアタンは恋とか愛を知ってしまったらダメなんじゃないか?だから、エライ人がミカエルとか言う天使を遣ってレヴィアタンの中にある俺の記憶を消させたのか?!そうなのか!!?
 頭をグルグルさせる俺が半泣きで見上げると、それこそ大変なことが起こってしまったみたいな顔をしたレヴィアタンはでも、すぐに先端の尖っている耳をへにょっと垂れて、呆れたように下唇を突き出して顎を上げたんだ。

『天変地異…とかじゃないぞ。一応、言っておくけどな。そんなことじゃない、大変なことだ』

「だから、大変なことってなんだよ?!」

『…内緒だ』

 ニヤリと犬歯をむいて嗤う大悪魔のツラを見上げたまま、俺が青褪めないはずはない。
 あわわわと、泡食っている俺とニヤニヤ嗤っているレヴィアタンの背後で、はぁ…っと溜め息を吐いた灰色猫が『にゃあ』と鳴いた。

『取り敢えず、お兄さんが想像しているようなことではないよ。ご主人の大変なことって言うのは…』

『言ったらお前でも殺すからな』

 即座にジロッと睨むレヴィアタンに、灰色猫はビクッとして首を竦めたけど、あんまり心配している俺のことを慮って、控え目な口調で言ってくれた。

『ご主人の大変なことって言うのは、非常に簡単なことだよ』

「簡単…?」

 なんだ、そりゃ?
 思わず眉を顰めて首を傾げる俺に、主に忠実な使い魔に満足したのか、レヴィアタンはニカッと笑って頷くと、足取りも軽く、奈落のように深い場所に架かっている石橋をスタスタと渡るんだから、頭の片隅には引っ掛かるものの、考えることもできずに俺は慌ててレヴィアタンに抱き付いていた。