5  -悪魔の樹-

 灰色フード男は笑顔で立ち去る俺を暫く名残惜しそうに見送っていたけど、結局、声も掛けずにそのままそれっきりになった。
 トボトボ…ッと、それでなくても昨夜の酷い行為に身体は悲鳴を上げていたけど、それでもやっぱり、心は寂しさがいっぱいで、切なく痛んでいた。
 俺は…あの白い悪魔に何をしたんだろう?
 入念な復讐は、俺の心に蕩かすほど甘ったるい匂いと優しさをくれて、そのくせ、最終的には「さようなら」をするよりももっと手酷くお別れをしやがった。
 裏切る…と言う言葉が脳裏を掠めた時、唐突に俺は、切なそうな金色の双眸を思い出した。

【篠沢はお前なんかよりずっと大切なんだ】

 そう言った時に見せた、レヴィのあの裏切られた時に見せるような絶望的な眼差し。
 気付いていたんだけど、観衆の目を気にしたふりをして、本当はどう取り繕ったらいいのか判らなくて見て見ぬふりをしてしまった。
 レヴィはきっと、それにも気付いていたに違いない。
 俺は…酷いヤツだ。
 それでも、擦り寄るようにして甘えてくる白い悪魔が堪らなく愛しくて、俺はその悪魔の優しさにすっかり高を括って、甘えていたのは俺の方だったのに…レヴィと一緒にいる時が一番幸せだったと思う。
 あのぬくもりを…できればもう一度この腕に抱き締めたかった。

「レヴィが大好きなのに…」

「は?誰がなんだって??」

「!!」

 ギョッとして振り返ったら、不思議そうな顔でキョトンとしている篠沢が立っていて、大遅刻覚悟で歩いていた俺はパクパクと驚きに言葉が出ない状況でぶっ魂消ていた。

「なんだよー、面白い顔をしやがってさぁ。あ、何お前ズル遅刻狙ってるワケ?」

「ズル遅刻ってなんだよ」

 思わず脱力しちまいそうな台詞に、溜め息を吐きながらガックリしていたら、学生カバン代わりのスポーツバックを肩に提げた篠沢は、ニヤニヤ笑って肩を竦めたんだ。

「ズル休みまではいかない、遅刻野郎のことだな」

「なんだよそれ。つーか、お前こそズル遅刻なんじゃねーの?」

「あ?バレました??実はズル休み決定のはずが、瀬戸内くんとお約束していたことを思い出しちゃってね。学校に行きましょうと思い立った次第ですよ」

 つーことは、俺のことを完全に忘れていたら学校に来る予定はなかったってことか?

「まあ、それならそれで学校帰りに寄るだけだがなー」

「そうか、その手があったか。俺様としたことがなんたる迂闊…ん?もしかして、瀬戸内ってば泣いてないか??」

 ギクッとした。
 相変わらず洞察力の鋭い篠沢は、目尻に浮かんでいた涙に気付いたのか、俺がギョッとする間もなく、伸ばした指先で目元を拭ったりなんかしてくれたんだ。
 ぐはっ!底抜けに恥ずかしいぞッッ。

「バババ…バッカだな!そんな、泣いてるワケないだろ??」

 思わず顔を真っ赤にしてその手を軽く振り払うと、篠沢は暫く何かを考えているように目線を彷徨わせたんだけども、突然ニッコリ笑って俺の腕なんかを掴みやがったんだ。

「うを!?」

「ふふん♪この際、仲良くズル休みに徹しまして、早速俺んちにレッツゴーしませうよ」

 ヘンな乗り気の篠沢の陽気さに助けられる形になったのか、腕を引っ張られながら強引に連れ去られていた俺は、なんとなく少しだけ笑えたんだ。
 ああ、やっぱり篠沢がいてくれてよかった。
 レヴィはここにはいないけど。
 もう、どこにもいないんだろうけど…

 篠沢の家は…豪華なワンルームマンションだ。
 両親が共働きで家にいないことをいいことに、この悪賢い悪友は、駄々を捏ねて独り暮らしアンドワンルームマンションを手に入れたらしい。
 中学からの長い付き合いだって言うのに俺は、よく考えてみたら篠沢のことをそれほど理解していなかったんだなぁ…と、今更ながら気付いていた。
 なんとなく、席が隣同士になって、お互い共通の話題とかないのに、何故か驚くほど気が合った。
 母さんが死んでからは目まぐるしく生活が一転して、高校生らしいことなんてたぶん、これっぽっちもしていやしないと思うんだけど、それでもどこかで高校生活を満喫しながら腐らずにすんだのは、この篠沢のおかげだったと言っても過言じゃないだろうなぁ、やっぱり。
 だからこそ、レヴィに言われた言葉にカチンときて、取り返しのつかないことをしてしまった。
 篠沢はそれでもただの友達で、レヴィは…俺が育てた悪魔の樹から生まれた、俺だけを見詰めてくれるたった1人の悪魔だから。
 たとえばどうしようもなく切なくて、寂しさをたくさん抱えていたとしよう。
 その時、篠沢ならたくさんの級友が誘えばそっちに行っちまう。それは当り前の事だけど、それでも俺は、その事実に少しでも傷付くんだと思う。
 でもレヴィは…あの白い悪魔なら、きっと寂しがる俺をソッと抱き締めて、綺麗な真っ白の睫毛が縁取る目蓋に金色の双眸を隠しながら、落ち着くまでそうして頬を頭に寄せて黙ったままで傍にいてくれるんだろう。
 その悪魔を手離してしまったのは俺だし、その考え自体も甘ったるい妄想にすぎないんだけど。
 微かに溜め息を吐いていたら、篠沢が缶ジュースを持ってキッチンから姿を現した。

「なんだ、コップにも入れてくれないんだなー」

 女子に人気の篠沢でも、こんなズボラちゃんなワケか。

「お前ほど機転が利かなくて悪かったな!飲めるだけ有り難いと思え」

「なんだよ、そりゃあ」

 やれやれと首を左右に振って、俺は遠慮もせずにコーラの缶を手に取ると、カシュッと小気味よい音を立ててプルを引いて開けると、憂さ晴らしのようにゴクゴクと凶悪に弾ける炭酸を咽喉の奥に流し込んだ。
 たとえ咽たとしても、それで少しは気が晴れるだろうとか、バカみたいな事を考えながら。

「お!豪快な飲みっぷりじゃん。完全な男飲みってヤツだな♪…つーかさぁ、やっぱ瀬戸内、なんかあったんじゃないの?」

「え!?」

 案の定と言うか、思い切り咽て涙目になっていた俺がギクッとして顔を上げたら、ファンタの缶を気だるそうに弄んでいる篠沢が意味ありげな流し目で見詰めてきやがったから…うう、なんて答えよう。
 それでなくても洞察力の鋭い篠沢の事だ、俺がとやかく言い募ったところできっと、アッサリと見抜いちまうに決まってる。
 でも、それでも俺は、誰にもレヴィの事は言いたくない。
 あれがもし幻だったのだとしても、レヴィを知っているのは俺だけなんだから、このささやかな幸福を、誰かに分け与えられるほど俺は出来たヤツじゃないんだ。

「目尻が腫れてる…思いっ切り泣いたとか?」

「えーっと、つまりだな…」

 あからさまに動揺してオタオタと言い募ろうとする俺よ!
 いったいどれだけ隠し事が出来ないんだよー

「…あのペンパルが帰ったとか?」

「へ?…あ、そう、そうなんだ!いきなり帰りやがったからさぁ、ちょっと寂しくて…」

 それだけのことで泣けるほどセンチメンタルじゃない俺なんだけど、まさかそれを篠沢が信じてくれるなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったってのに、悪友は冷えたファンタの缶をフローリングの床に置きながら溜め息を吐いたんだ。

「じゃないかって思ったんだよな」

「へ?」

 いや、確かに人間に化けていたレヴィは綺麗でハンサムだったけど、外見上は男だし…悪魔って確か両性具有って聞いたことがあったけど、でもレヴィは立派に男だった。それはこの身体でもって実証済みだからな、間違いないって…って、何を言ってるんだ俺!
 アワアワしている俺に、篠沢はその女子どもが黄色い声を上げるほど整った顔に冷やかな表情を浮かべて、脇に置いていた雑誌を差し出してきた。
 怪訝に思いながらも、ずっと読みたかった約束の雑誌だったし、何より条件反射で受け取ろうと差し出した腕を掴まれて、俺は。

「??」

 一瞬のことだったから思考回路はまともに動かないし、掴まれた腕を強引に引き寄せられて、前のめりに倒れそうになった俺を空いている方の腕で支えながら篠沢は、思いつめた表情のままでキスしてきた。
 そう、キスしてきたんだ。
 パニックするにも真っ白になっちまっている俺は、呆然と口付ける篠沢を凝視してしまう。

「中学からずっと目を付けてたってのにさぁ…あんな虫が付くなんて思いも寄らなかったよ。まさか、もう犯っちまったってんじゃないだろうな?」

 苛立たしそうに歯噛みする篠沢に、その時になって漸くこの間抜けな俺は、ハッと我に返ったんだ。

「な、何するんだよ!?は、離せよッ」

「離せ?」

 そう言って、整った顔立ちの篠沢は、ほの暗い笑みを口許に張り付かせたままで、腰に回した腕にグッと力を入れやがったから、俺は手にしていたコーラの缶を投げ出しながら悪友に抱き締められてしまった。
 不意に、あれほどレヴィに抱き締められてもキスされても、そんな気持ちはこれっぽっちも湧かなかったって言うのに、篠沢の腕が腰に回っている、そんな些細なことでゾワッと背筋を這い上がるような悪寒に身震いしてしまうし、吐き気だってする。

「やめろ!嫌だッ、離せよッッ!!」

 思わず渾身の力で突き放したら、俺がそんなに暴れると思っていなかったのか、隙を突かれて僅かに腕の力が緩んだ隙に後退りはしたものの、身体が訴える不調は俺が思う以上に深刻だったのか、そのままダッシュで逃げ出せるほど回復はしていなかった。
 だから、尻餅をついたような形でフローリングに両腕を付いて、ジリジリと後退りながら篠沢を睨み付けた。
 自分の両腕を暫くぼんやりと見詰めていた篠沢は、それから不意に、ククク…ッと、鳩尾の辺りがゾワゾワするほど嫌な笑みを浮かべたままで上目遣いに俺を見据えてきたんだ。
 うう、やっぱ美人の凄味は超こえぇぇ!!
 それでも怯むわけにもいかないし、俺はゴクッと息を飲みながら思わず縋るように言ってしまう。

「な、何だよ。そんな真剣な顔してさ。これって悪いジョークなんだろ?俺、男だし…その、見て判るよな?な?」

 頼むから、お願いだから悪いジョークだって鼻先で笑ってくれよ。
 ああ、でも。
 願い事なんて叶わない、そんなこと、もうとっくの昔に知っていた筈なのに。

「冗談?それこそ悪い冗談だよ、光太郎。俺さぁ、言っただろ?ずっとお前を狙ってたんだって。お袋さんが死んでから、雰囲気とかガラッと変わって、お前エロくなったんだよ。自分じゃ気付かなかったか?」

「は、はぁ??」

 思わず眉間に皺が寄るようなことをサラリと言ってのける篠沢に、ムッとして首を傾げれば、今まで見たこともないほど凶悪な面構えをした悪友は目蓋を閉じると首を左右に振って鼻先で笑うんだ。

「組み敷いてさぁ、ヒィヒィ言わせてみたいんだよな。つーか、もうヒィヒィ言ったって風情だけどさ」

 ギクッとした。
 そりゃあ、長い付き合いなんだ。
 いつもの腹を立てた俺なら、サッサと篠沢を殴ってからこんなクソッタレな部屋からはとっととおさらばしてるってのに、へたり込んで身動きが取れない俺を見れば、何が起こったのか、たぶん百戦錬磨だと噂されている篠沢になら今の身体的状況はモロバレなのかもしれない。
 ゆらりと立ち上がる、その雰囲気に気圧されて、俺は息を飲むようにして思い切り後退るけど、背中はすぐに壁についちまって、絶望的な目付きのままで篠沢を見上げていた。

「…んな、誘うような目付きをするなよ」

 いちいち癪に障る物言いだったけど、そんなことよりも俺は、まさか篠沢が本気で俺を犯そうとしているのかと思ったら、立ち眩みのような眩暈を感じてしまう。

「相手はアイツか?ふん、たかが人間如きに獲物を掻っ攫われるなんてさぁ、俺もどうかしちまったよ」

 自嘲的に笑った篠沢は、追い詰められて青褪める俺を事も無げにヒョイッと抱え上げると、ギョッとして暴れようとする俺の行動をいとも容易く封じ込めながら、ニヤニヤと笑って大股で寝室まで行くと大きなベッドに放り出しやがったんだ。

「うッ!」

 たぶん、上等なベッドなんだろうけど、それでも傷付いている俺の身体にその衝撃はきつかった。
 息も絶え絶えになりながら逃げようとしてシーツを掴んだところで、鼻歌混じりの篠沢に両腕を思い切り後ろで縛られてしまった。縛られて、学ランを思い切り剥ぎ取られて縛られた腕に蟠るその感触に恐れをなした俺は愈々恐怖心を駆り立てられながら、信じられないものでもみるような目付きをして、きっと背後の篠沢を見ていたに違いない。
 その視線に気付いた悪友は、背後から俺を抱き締めながらクスクスと綺麗に笑いやがるんだ。

「酷くされたんだろ?大丈夫だ、俺は気持ちよくしてやるからな」

「い、嫌だ!篠沢…まッ!んぐぅ…ッ」

 最後まで言えなかったのは、趣味の悪い笑みを口許に張り付かせて、手に入れた玩具をどうやって壊してやろうとかと企む子供のような嫌な目付きをした篠沢に、何かで猿轡を噛まされたからだ。

「んほふぁぁ、まへー!まへっはらー!!」

「何言ってんだか判んねーよ、大人しくしろよ。ほら」

 そう言って冷たく笑った篠沢にドンッと突き飛ばされて、俺は腕を縛られているから肩からベッドに倒れこんでしまった。
 いててて…それでなくても身体が痛いってのに、篠沢の野郎ぉ~
 ムキィッと、恐怖よりも腹立たしくなって上半身を起そうとしたその矢先、鼻歌なんか歌いやがる篠沢は、嬉々として俺の学生ズボンを下着ごと剥ぎ取りにかかったんだ。
 ウワッ!?それは、マジでヤバイ!!
 それでなくても尻だけを高く掲げたような中途半端な体勢だって言うのに…それに、下着を剥ぎ取られたらバレてしまう。
 俺の下半身に起こっている状態に、気付かれちまう。
 羞恥と恐怖に思い切り暴れようとしても、少し汗ばんだ篠沢の腕でベッドに縫い付けられてしまった俺は、冷やりとした外気を、本来なら人前ではけして触れるはずのない場所に感じてギュッと目蓋を閉じてしまった。
 尻を両手で鷲掴んでグイッと押し開きながら、篠沢はマジマジと俺のその部分を凝視しているようだ。
 果てしない羞恥に、ともすれば泣き出しそうになりながらも俺は、必死で、有り得るワケもないと言うのに、必死で…レヴィに助けを求めていた。
 もしかしたら…そんな儚い願望を打ち砕くようにして、ヒクヒクと熱を持って脈打つその部分に、篠沢の熱い息を感じて背中がビクンッと跳ねてしまう。

「へー、これは酷いな。ちょっと切れてるし…強姦でもされたのか?って、そうか。話せないんだよな」

 クスクス…ッと笑って、篠沢はこれ以上はないぐらい押し開いている尻の中央、腫れぼったく熱を持った肛門をぬるい熱を持つ軟体動物のような錯覚を思わせる舌先でベロリッと舐めやがったんだ!

「!!」

 ビクッとして、それから嫌だと頭を振っても、篠沢の執拗な舌戯は止まらないし、その度に引き攣れるような痛みが全身を犯していくようで、心がバラバラになるような錯覚がした。
 信頼していたはずの親友。
 レヴィの、切なそうな眼差し。
 【悪友】と【親友】を履き違えていた俺を、心配そうに見詰めていた、悪魔のクセに穏やかなあの眼差し…

「…ヴィ」

 猿轡を噛まされている状況では言葉らしい言葉にもならないけど、俺は、もう見捨てられてしまっていると言うのに、愛しい悪魔の名を呼んでいた。
 逃げ出せない絶望の中に降り注ぐ、やわらかな免罪符のようなその名を。
 ぴちゃぴちゃ…と、厭らしく響く湿った音に、ガンガン痛む頭には快楽はなくて、淫らに這い回る陰茎への愛撫さえも吐き気しか催さない。
 舌先に促されるようにしてズルッと押し込まれる篠沢の長い人差し指の無情な動きには、高く掲げている尻がゆらゆらと拒絶するように揺らめいていた。

「…ッ、吸い付いてくるようだ。光太郎の中、熱くて真っ赤で、誘うように厭らしいよ」

 粘りつくような声音には鳥肌しか立たないと言うのに、何処か切羽詰ったような篠沢はその時になって漸く、戒めていた猿轡を外してくれたんだ。
 胸を喘がせるように大きく息を吸い込んだ俺が、思い切り悪態をつくよりも先に、篠沢は俺の首を信じられないほど曲げて噛み付くようにしてキスしてきた。
 舌と舌をぶつけ合うようにして絡めて、肛門に差し込んだ指を淫猥に蠢かしながら、陶酔しているような篠沢の濃厚なキスに俺は吐き気さえ感じている。
 入れられるんだろうか…それは嫌だな。
 諦めたように目尻から涙を零しながら、俺は一秒だって感じることもなく、篠沢の口付けを放心したように受け入れていたんだけど…ふと、思い切り捲り上げたシャツが隠してくれない乳首を厭らしく捏ね繰りながら、口内を思う様蹂躙するように吸い付いて蠢くように這い回る舌の動きがピタリと止んだんだ。

「…?」

 訝しげに眉を寄せる俺の目の前で、篠沢の双眸が有り得ないほど見開いている。
 な、何が起こったんだ!?

「…う、ぐ…グゥアッ!…うわぁぁぁッッ!!」

 ドンッと突き飛ばされて前のめりに倒れながら俺は、信じられないものを目撃してしまった。
 それは…双眸を見開いて額に血管を浮かべた篠沢の、両手で覆っている口許からシュウシュウ…ッと白っぽい煙が出ていた。まるで、硫酸か何かで焼いたように、室内にはムッとする悪臭が立ち込めて、俺は吐き気を催すよりも先にいったい何が起こったんだと、身体の向きを変えながら瞠目していた。
 な、なんなんだ、いったい!?

「グゥアアアア…ッ」

 指先にまで引っ付いた溶ける皮膚を信じられないように見詰める篠沢の皮膚は、口許から頬、頬から顔全体をドロドロと溶かしながら、皮膚の張り付いた指先までも溶け始めていた。

「し、篠沢…ッ」

 壁にこれ以上はないぐらい背中を押し付けながら、目の前で繰り広げられている惨劇に、為す術もなく俺は、ああ、俺は…息を飲んで名前を呼ぶ事ぐらいしかできないでいる。
 ああ、どうしよう!!?

「…ぐぅ…うう…んの、野郎…貴様、悪魔と契約してやがるな!?』

 ドロドロに溶けていく皮膚の下から、ずるり…と、何か見たくないものが滑り落ちたような気がして目を逸らしたかったんだけど、愕然と見据える篠沢の足元に、滑り落ちたそれは艶めくほど綺麗な漆黒の髪だった。そして、溶け切った皮膚がボタボタとフローリングの床を汚していくその最中に憤然と立ち尽くしたその姿は…俺が見たこともない鋭い眼光を忌々しそうに放っている、夢のように綺麗な男だった。

「し、篠沢?」

『可愛い面しやがって!そのくせ、悪魔と契るなんて強かなヤツだな?』

 フンッと鼻先で笑う篠沢は、それまで見てきた見慣れた篠沢の姿はどこにもなくて、腹立たしそうに憤然と怒っている傲慢そうに腕を組んだ、艶めくビロードのような漆黒のローブに身を包んだ、チャラチャラとレヴィと同じように宝石を鏤めている男は、忌々しそうに俺の元に音もない素早さで近付くと、痛む身体を庇う隙さえも与えずにグイッと顎を掴んできやがったんだ。
 クソッ!腕さえ自由ならこんなヤツ…ッ!!
 悔しくてギッと睨み据えたつもりなのに、いまいち効いていないようだ。

『貴様、【悪魔の樹】の契約を交わしているんだろ?相手はどんな悪魔だ。大方、淫魔にでも魅入られたか??そんな雑魚、このオレが消してやる。だから、契約を破棄するんだ。そして…』

 艶やかな黒髪に、青褪めたように白い額には華奢な意匠を施した額飾りをしていて、嫌味ったらしくうっとりと笑う表情は、ゾッとするほど綺麗だ。
 【悪魔の樹】の契約を知っているなんて…コイツは、この篠沢の皮を被っていたコイツは、いったい何者なんだ!?

『お前はオレのものになれ』

「…い、嫌だ!離せッ、離せよこん畜生!!」

 喚くようにして拒絶する俺に、額に血管を浮かべた見たこともない、この世のものとも思えないほど綺麗な顔をした男は頬を引き攣らせて笑うと、煩く喚く俺の口を封じようとでもするように口付けようとしやがるから…

「や、嫌だ!レヴィ!レヴィ、助けてくれ!!」

 こんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、どうか、今すぐレヴィ、お願いだから俺を殺してくれ!

『…レヴィだと?』

 そんな名の悪魔がいたかと、口付けようとしていた得体の知れない男はソッと眉を寄せたが、ふと、背後から伸びてきた何かによって俺から引き剥がされたんだ。

「…ッ」

『何者だ!?』

 音もなく、気配もなく忍び寄ったのか、何者かに対して思い切り敵意を剥き出しにしていた男をサラッと無視したソイツは…その、見覚えがあり過ぎて、もうずっと忘れられなかった古風な衣装を身に纏ったその…あまりにも冷やかな金色の眼差しに無表情に見下ろされて俺は、今にも泣き出しそうに眉を寄せてしまった。
 ああ、こんな見っとも無い姿を見て、お前、また俺を嫌いになるんだろうな。
 でも、でも俺、それでもやっぱりお前には見詰めていて欲しいよ。

『…』

 何か言おうかどうしようか迷っているのか、傲慢不遜に立ち尽くしていた古風な衣装の白い悪魔は片膝を付いて身を屈めるから、俺は何か言われる前に渾身の力を込めて体当たりしていたんだ。

『!』

「レヴィ!俺、お前の忠告を無視してこんな風になってしまったけど、あんなヤツに犯されるぐらいなら死んだ方がマシだ!だから、今ここで俺を殺してくれ。償えるとは思わないけど、俺の命でいいならあげるからッ!だから、だから…それ以上俺を嫌いにならないでくれ」

 腕を縛られたままじゃ抱き締める事もできないけど、それでも俺は、縋るようにその胸元に額を押し付けながらボロボロと泣いていた。
 泣きじゃくる俺を見下ろして、白い悪魔は何を考えているのか、見上げる勇気すらなくて俺は、嫌われている事実に気付く前に早く、早く…もう、これ以上は耐えられないんだ。
 ふと、頭上で溜め息が零れたようで、やっと、この悪魔が願いを叶えてくれるんだと目蓋を閉じた。
 僅か17年だったけど、色んな経験ができてよかった。
 向こうに逝けば母さんは、きっと怒るんだろうけど、それを笑顔で受けながら俺は、きっとこの長い責め苦から解き放たれるならそれでもいいと考えるんだろう…そんなこと、思ってたってのに、白い悪魔のレヴィは予想もしない行動に出たんだ。
 それは…

『全く、貴方と言う人は。私がどんな気持ちで見守っていたと思うんですか』

「れ、レヴィ?」

 やれやれと、呆れたように溜め息を吐いて抱き締めるようにして背中に回した腕で戒める腕の縄を解いたレヴィは、それからホッとしたように本格的にギュウッと俺を抱き締めてくれた。
 な、何がなんだか…

『何を勘違いされたのか知りませんが、私は最初から貴方を嫌ってなどいません。あの時言った言葉に偽りなどないのです。貴方を初めて見た時から、私はご主人さまを愛していますよ。ただ、悪友などと言う存在に夢中になるご主人さまには腹立たしくて仕方ありませんでしたがねッ』

「だって、レヴィ…だって」

 言葉にならなくてポロポロ涙を零してしまう俺は、縛られたままで無理な体勢ばかり強いられていたせいか、痺れるように震える腕を伸ばしてレヴィの、白い悪魔の背中に腕を回していた。振り払われないか凄く心配だったけど、それでも俺は、縋りつきたくて、もうレヴィを離したくなくて力いっぱい抱き締めていた。

『ご主人さまには実践で【悪友】と呼ばれる者の実態を把握してもらわないことには、どうやら一生、その【悪友】とやらに振り回されるような気がしましてね。荒療治ではありましたが突き放したんです。オレは…ご主人さまを嫌った事など一度もありません。それどころか、嫉妬にこの身を焼き焦がしたいほどでした。貴方はオレを呼んでくれた、それだけで充分なはずなのですが、オレは悪魔です。貪欲なほど貴方を求めている。だから、オレはご主人さまにオレ以外の何者をも想ってなど欲しくはない』

 キッパリと宣言するレヴィに、俺は抱き付いたままでその顔を見上げていた。

「じゃあ、ずっと俺のことを見ていてくれたのか?俺のこと、嫌いになったからじゃなくて
…?」

『当り前ですッ。まんまとルゥの手に陥落して…そりゃあ、確かにルゥは美しいです。オレなんかよりも遥かに綺麗だ。到底、太刀打ちなんかできやしない事は判っているんです。でも、オレだって実力では負けませんッ』

 レヴィが、正直何を言っているのか判らなかった。
 訝しくて眉を寄せる俺をギュッと抱き締めたレヴィは、背後で事の成り行きを緩慢そうに眺めながら腕を組んで呆れたように溜め息を吐いている男を振り返ったんだ。

『そう言う事だ、ルゥ。悪いがアンタにこの人をくれてやるつもりはない』

『…と言うか、お前は誰だ?どうしてオレの名を知っている??気配だけはオレと互角のようだが…見知らぬ貌だ』

 フンッと、忌々しそうに鼻に皺を寄せる綺麗な男は、確かにその言葉通りレヴィの実力を認めているのか、何か手を出してこようとはせずに、ただただ、まるでドライアイスが水に濡れて噴出す煙のような殺気を滾らせながら憎々しげにレヴィを睨み据えている。
 馴れ馴れしく俺の名を呼ぶなと、その声音は物語っているようだ。

『オレが判らないだと?長い付き合いなのに酷いな、ルシフェル』

『…?ああ、なるほど!そうか、そう言うことね。気配まで綺麗に消してレヴィか、考えたな。これからオレもそう呼ぼう。とは言え…その様はなんだ?』

 ムッとしたように唇を尖らせるレヴィを見れば、どうやら知り合いのようでホッとした…って、ん?待てよ。今、ルシフェルとか言わなかったか?

『【悪魔の樹】の契約の際に、たまたま見た姿を真似ただけだ。真実の姿でここに来れば、忽ちこんなちっぽけな国は沈んじまう。そんなことも判らないとは呆れたな』

『言ってくれるじゃないか』

 ニヤニヤと笑う長い黒髪を優雅に揺らして腕を組んだルシフェルは(つーか、まさかホントに大魔王ルシフェルなのか!?)、綺麗な漆黒の双眸を薄らと細めて、肩を竦めながら笑うんだ。

『で?誰の物真似だ』

『さあ?確か、デビルメイクライとか言うゲームのダンテとか言ったかな??』

 ぐは!…思わず噴出してしまったのは、じゃあ、ああやって悪魔の樹を育てていた俺の知らないところで、気体にでもなっていたレヴィのヤツは俺の部屋の中を悠々自適に詮索でもしていたって言うのか?
 そのタイトルのゲームは、俺の部屋にしかないんだ。

『なるほどなるほど。大方、瀬戸内の趣味だろうからなそれは…レヴィ、お前なら仕方ないなぁ』

 それで、レヴィは何もかもが真っ白なんだ。
 顔立ちこそはちょっと違うけど…って、そうだよな、ダンテが実写に磨きをかけたって感じなら、こんな風に綺麗になるんだろうか?

『手を引くか?ルゥ』

 突き刺すように金色の双眸で射抜くレヴィに、その眼差しを真っ向から受け止めたルシフェルは…いや、たぶん。やっぱり篠沢の皮を被っていたこの、ルシフェルなんて言う有り得ない名前の胡散臭い男も、やっぱり悪魔なんだろう。
 レヴィの氷点下よりも更に凍りつきそうな冷やかな眼差しを真っ向から受けても、怯むどころか、傲慢に顎を上げて見下ろしている。そんな余裕さえ窺わせるルシフェルは、苛立たしそうに見事な柳眉をクッと顰めてニヤッと笑うんだ。

『それはどうかな?【悪魔の樹】の契約を交わしてはいても、瀬戸内はお前の真実の名を知らない。いつでも破棄できる状態だよなぁ?』

 ギョッとしてレヴィの男らしい横顔を見上げたら、唐突に不安になって、俺はますますこの白い悪魔の背中に回した腕にギュウッと力を込めたんだ。
 嫌だ、レヴィと契約を破棄するなんて。
 そんなのは絶対に嫌だ。
 何時の間にか巻き込まれていた【悪魔の樹】の契約かもしれないけど、それでも俺は、今はそのことに感謝している。なのに、この時になってどうして、破棄できるなんて知ってしまったんだろう。
 ああ、それで。
 ふと、俺は灰色フード男が言っていた3つ目の大事な約束を思い出していた。

【それから、3番目は尤も重要な『悪魔の名前を知ること』】

 そう、言っていたのに…俺は灰色フード男に「真実の名前を知らなくてよかった」とか、大層なことを言っちまったんだけど、うう、今は後悔しているよ。

「レヴィ、俺はお前の名前を知りたいよ。こんな思いはもう二度としたくない。俺は、我が侭だから、きっと死んだ後でもお前には俺だけを想っていて欲しい…なんて思ってるんだぜ」

『…誰よりも、私のことを一番に考えてくださいますか?』

「当り前だ!俺、俺はレヴィが好きだよ」

 人間なんか嘘吐きかもしれないけど、なぁレヴィ、地獄の業火に焼かれてもいいから、悪魔のお前とずっと一緒にいたいって心底から思ってるんだ。
 この心を、見せてあげられたらいいのに…

『永遠に?私はとても嫉妬深いんです、ご主人さま。これから先も、きっと些細な事で貴方を縛り付けるに違いありません。だからこそ、私はご主人さまに真実の名を言わなかった。本当は、真っ先に教えて差し上げたかったのに』

 少し冷やりとする掌で、涙腺でもぶっ壊れたのかと不安になるほどポロポロ泣いている俺の頬を掴んだレヴィは、真っ白の睫毛が縁取る目蓋に綺麗な金色の瞳を隠して、それから震えるようにソッと濡れた目尻に口付けてくれた。
 ああ、永遠だ。
 俺の意識がなくなるその瞬間でも、きっと俺は、お前を想い続けるんだろう。
 目蓋を閉じて、そのやわらかなキスを誓いのように受け止めながら、俺は小さく笑って頷いていた。

「レヴィが好きだよ。永遠だ」

『ご主人さま…!』

 震える目蓋を開いたレヴィが、嬉しそうに頬の緊張を緩めると、そのまま唇に掠めるだけのキスをくれた。
 痺れるように誰かを好きになるなんて、思いもしなかった。
 たとえ相手が悪魔だったとしても、きっと俺は後悔なんかしないだろう。

『…それにしても、レヴィの言葉遣いはなんだ。キモイ』

 ブツブツ蚊帳の外で悪態を吐いているルシフェルなんか、たぶんこの時の俺たちは気にもしていなかった。自分たちの甘ったるい、確かにレヴィは桃のような芳香がして甘ったるくはあるんだけど、2人だけの世界にどっぷりと浸っていたから仕方ないんだけどさ。

『私の真実の名は…レヴィアタンと申します』

「…レヴィア、たん?」

『ぶっ』

 思わずと言った感じで噴出してしまったルシフェルは、額に血管を浮かべたレヴィに壮絶に睨まれてしまって、『悪かった、スマン。続けてくれ』と、傲慢が服を着て歩いてるんじゃないかってな尊大な態度にしては、片手を挙げて素直に謝ってるのは不気味だったりする。
 でも、そうは感じなかったのか、レヴィのヤツは不機嫌そうに俺を抱き締めながら唇を尖らせるんだ。

『ヘンな発音で言わないでください、ご主人さま。レヴィアタンです。そうですね、ご主人さまたち人間に馴染み深い名前で言えば、リヴァイアサンです』

「り、リヴァイアサン!?」

 素直にギョッとしてしまった。
 だ、だって、海の魔物だって恐れられている、それもサタンと互角とも言われるFFでも梃子摺ったあのリヴァイアサンだって言うのか??

『驚きましたか?それともその…嫌いになりましたか?』

 しょんぼりとしたように、あの見慣れた表情で不安そうに覗き込んでくる金色の双眸を見詰めて、俺は思わずニコッと笑っていた。

「なんだ、それで白蜥蜴だったんだな。驚いただけだ。レヴィ、凄いな!リヴァイアサンなんてカッコイイよ♪」

 心から賞賛する俺に、ルシフェルは肩を竦めたんだけど、レヴィのヤツは、その、けして揺るがないはずの金色の双眸をウルウルと潤ませて、いきなりグワシッと抱き締めてきやがったんだ!

「く、苦し…って、どうしたんだよ、レヴィ??」

『ご主人さま!嘘でも嬉しいです!!もう、ずっと不安で仕方ありませんでした。オレは醜い海の魔物で、確かにルシフェルのように美しくもなければ気品もありません、ましてやオレは凶暴で冷酷無情ときているから、ご主人さまはきっと呆れ果ててしまうに決まっています』

 どう捻じくれたらそんな答えになるのか判らないんだけど、別に、確かに俺はルシフェルは地球上でも最高に綺麗で男にしておくには勿体無いぐらい妖艶だと思う。でも、だからって好きかと言われれば、それほどでもない。だって、傲慢そうで…それこそ、レヴィの百万倍は凶暴そうだもんな。

「嘘でも嬉しい…なんて失礼だなー。つーか、そんな得体の知れないヤツのモノになるぐらいなら、死んだ方がマシだって俺は言ったはずだけど?」

『くそー、マジで酷いよな!瀬戸内は』

 相変わらず篠沢っぽい口調でブーたれるルシフェルにも呆れるけど、エグエグと思わず泣いてしまっている男前にはもっと呆れ果てるぞ、マジで。

「それに嘘じゃないよ。せっかく男前なリヴァイアサンのクセして、メソメソ泣くな!これからはご主人さまの言葉は絶対なんだからな!!」

『ぅあ、は、ハイ!』

 吃驚したように目をパチクリさせるレヴィの綺麗な顔を覗き込みながら、漸く、自分らしさを取り戻した俺はニヤッと笑ったんだ。

「よし、それでよし。レヴィ、大好きだ」

 そう言ってギュッと抱き締めれば、目を白黒させていたレヴィは少しホッとしたように小さく微笑んで、それからあんなに望んでいた優しい両腕でやんわりと抱き締めてくれたんだ。

『ご主人さま…オレもです♪』

 上機嫌でラブラブになっちまった俺たち2人を、最初から最後まで蚊帳の外を決め込んでたくせにチャチャを入れていたルシフェルが、盛大な溜め息を吐きながら苛々したように腰に手を当てて睨み付けてくる。

『…どーでもいーんだけどよ。ハッピーエンドはご馳走様だから、そろそろ出て行ってくれねーかなぁ?』

 真冬の吹雪よりも凍りつきそうなほどおっかない気配を漂わせるルシフェル、たぶん、レヴィにとっては後者の意味になる【悪友】にハッと我に返ったようなレヴィは、バツの悪そうな顔をして肩と一緒に首まで竦めてしまう。

『あ、ヤベ。ここルシフェルの家だったな』

 そんな間抜けな事まで言って、やっぱり大悪魔と恐れられているルシフェルは怖いのか。

「じゃあ、帰ろうか。俺たちの家に」

 思い切り着乱れてしまっていた学生服をせっせと整えてくれる健気なレヴィに笑いかけると、白い悪魔は一瞬、それはそれは嬉しそうに花が咲き誇るように破顔してくれた。

『はい、ご主人さま』

 そんなくすぐったい返事にテレテレしていたら、呆れたような溜め息を吐いていたルシフェルが、肩を竦めながら仕方なさそうに腕を組んだ。

『…よかったな、瀬戸内』

「え?」

 レヴィの力強い腕に護られたままで顔を上げると、壮絶なほど綺麗なくせに、何処か懐かしい篠沢の相貌をチラチラと垣間見せているルシフェルは、クスッと笑って軽く顎を上げたりする。

『さあ、もう行けよ。目障りだ♪』

 そう言って、ルシフェルはレヴィと俺を、高層マンションの最上階だと言うのに、窓から軽く
放り出しやがったんだ!!