6  -悪魔の樹-

落下に怯える俺の耳に篠崎の声音で『灰色猫、貸し1ね』と聞こえたような気がしたけど、今はそれどころじゃねぇ!!

「うひぇあぁぁぁーッッ!!…って、あれ?」

 思わず風圧を感じてレヴィに抱き付きながら素っ頓狂な悲鳴を上げたんだけども…あれ?落ちていく感じが全くしないぞ。

『大丈夫ですよ、ご主人さま』

 事も無げなレヴィの台詞に、眼を白黒させたままで俺は、軽く笑っているレヴィの肩越しにルシフェルが暢気に片手を振ってから、やれやれと室内に姿を消すのを見上げていた。
 そう、見上げていたんだ。

「ここ、これはど、どう言うことだ!?」

『簡単なことですよ。私は悪魔ですから、不可能などありません』

 ニィーッと笑って混乱している俺の顔を覗き込んできた性悪そうな白い悪魔に、ムッとして唇を突き出せば、啄ばむようにキスをされてしまう。
 う、案外恥ずかしいぞ。

『寒いですね。この季節はまだ、上空は凍えてしまうでしょう』

 いや、この季節じゃなくても上空は寒いと思うんだけど…そんな突っ込みは取り敢えず後回しにして、レヴィが労わるように優しく裏地が赤の、古風な漆黒の外套で包んでくれたりするから、俺はいったいどんな顔をすりゃいいんだよ?

「えっと、その。ありがとう」

 モジモジとレヴィの胸元辺りのジャラジャラアクセサリーを見詰めながら、柄にもなく礼なんか言ってみると、やっぱりレヴィは「はて?」とでも言いたそうに首を傾げやがるから、俺はクスクスと笑うしかない。

『礼を言われるようなことはまだしていませんよ、ご主人さま』

 相変わらずレヴィらしい返答に、俺は吹き上げてくるはずの冷たい風から完全に護られたまま、このぬくもりに礼を言わなければ罰が当たるんだぞとか内心で呟きながら、悪魔のクセに恩を売ることをすっかり忘れている白い悪魔が愛しくて仕方なかった。

『ご主人さま、如何でしょう?私の真実の名もお教えしましたし、これから海まで行ってみませんか』

「へ?海??」

『そうです』

 超絶…なんて言葉があるけど、ゲームのキャラクターから容姿を真似したと言う白い悪魔は、白いだけで、他は全然似てないよ、と突っ込みたいぐらい美形の顔立ちでニッコリと笑う。
 高い鼻梁も、酷薄そうな薄い唇も、髪も眉毛も睫毛もどれも真っ白で、心の奥底まで見抜いてしまうんじゃないかと思わせる金色の綺麗な双眸も…どれもこの世ならざる美しさで、俺は初めて、この世界には泣きたくなるほど綺麗な生き物がいるんだなぁと思っていた。
 長い耳が唯一、人間ではない事を物語っているけれど、それさえも気にならないほど、レヴィの存在は俺の中で大きくなっている。
 そんなこと、コイツは少しも気付いちゃいないんだろうけどな。

『私の真実の姿を見てください。もしそれで…貴方がどうしても嫌だと言われるのなら、私はご主人さまの前から姿を消しましょう』

「嫌だ!どんな姿だってレヴィはレヴィだ!!姿なんか消すなッ」

 即答に、そんな返事が返ってくるなんて予想もしていなかったのか、いや或いは、僅かでも期待していたから期待通りの返事に吃驚しただけなのか…どちらにしてもレヴィは、どちらとも取れる表情をしながら、嬉しそうにギュウッと抱き締めてきた。

『そんな嬉しい事を言われますと…このまま連れ去ってしまいそうになります』

 ほえっと、俺がとても好きなうっとりした笑みを浮かべて、色気もクソもない黒い髪にグリグリと頬を押し付けてくるレヴィに思わず苦笑したんだけど、この白い悪魔が、連れ去ってしまいたいと言うのなら、俺はこのまま何処までだってついて行きたいと思っちまうじゃないか。

『この世界がご主人さまの棲み処でないのなら、どんなにか良かったのですがね…しかし、この世界だからこそ、こうしてご主人さまを偽りなく存在させてくれたのなら、私は感謝しなくてはいけません』

 今なら平気でラブラブビィームだって撃てるんじゃないかってくらい、悪魔に不可能のないレヴィは、どうしてくれようとでも言いたそうに溜め息なんか吐きやがるから、俺は嬉しくてそのジャラジャラとネックレスだとかペンダントだとか、宝飾品が鏤められた胸元に頬を擦り寄せながら照れ隠しするしかない。

『ご主人、こんな空の上でイチャイチャしてたら未確認飛行物体だとか言われて、バッチリ朝刊の一面を飾っちゃいますよ』

 ふと、上空から聞き覚えのある声がして、懐いていたレヴィの甘い匂いのする胸元から顔を上げた俺は、ギョッとしたように目を見開いてしまった。

「灰色フード男!!」

 どうしてアンタがここに…って言うか、どうしてアンタまで同じように空に浮いてるんだ!?
 ギョッとしている俺を余所に、掴み所がないとでも思っていたのか、そんな俺がラブラブと抱き締めてくる感触に有頂天になっているらしかったレヴィは、ムッとしたように眉を寄せて、主よりも高い場所で暢気にフヨフヨ浮いている灰色のローブ姿の男を見上げたようだ。

『灰色猫、今回は手柄だったと誉めてやる。だが、調子に乗るな』

『ひえ!はいはい、判ってますってご主人』

 まあ、誉められたからいいんだけどとでも言うように、大きめな口にニィッと笑みを刻む、それはそれは不気味な占い師に首を傾げる俺に気付いたのか、灰色フード男は肩を竦めてニタニタと笑っているようだ。

『よかったね、お兄さん』

「灰色フード男、アンタは何者だったんだ?」

 胡散臭い占い師はチラッと、どうやら自らの主ででもあるのか、レヴィのご機嫌を窺っているようだったけど、それこそ俺と相思相愛になれたと信じている(いや実際はそうなんだけどなー…う、照れるぜ)、超!ご機嫌の白い悪魔は何も言わずに瞬きをした。
 それを合図のように受け止めた灰色フード男は、やっぱり肩を竦めながらニヤニヤと笑っている。

『レヴィアタン様の使い魔だよ、お兄さん。名前は灰色猫、これからも宜しく♪』

 そう言って、ニヤニヤ笑いの胡散臭い占い師は、上空でクルンッと回転でもするようにして一匹の灰色の猫に姿を変えると、にゃーんっと可愛らしく鳴いたりした。

「使い魔…そうだったんだ」

 あの町角で見掛けた灰色の猫、俺にニヤッと笑って名前を聞くことを最後まで促していたあの猫が…やっぱり胡散臭い灰色フード男だったんだな。
 なんだか、コイツにはイロイロと世話になっちゃったよなぁ…

『では、ご主人さま。海に参りましょう。灰色猫もついて来い』

 感慨深そうに灰色の猫を見上げる俺に焦れたのか、それとも自分でもそう言ったように嫉妬したのか、レヴィが不機嫌そうに顎をしゃくるようにして促すと、灰色の猫は「にゃーん」と鳴いて、嫉妬深いご主人さまに懐くように肩に張り付いてしまった。

「うん、レヴィが行くのなら何処へでも」

 以前、同じことをレヴィに言われた時、予想通りの返事に独占欲が満たされて嬉しかった。
 同じように、俺を独占してくれればなんて、こっぱずかしいことを考えてるってことは内緒だ。
 レヴィの首筋に頬を擦り寄せたら、途端にパッと嬉しそうな顔をした現金な白い悪魔は、ゴロゴロと懐く俺の髪に頬を擦り寄せながら、まるで一陣の風のように俺を遠い海へと連れ去ったんだ。
 このまま…レヴィが行きたいという全ての場所に、ついて行けたらいいのに。

「結局、【悪魔の樹】に色んなことしちゃったんだけどさ。強いしかっこいいレヴィが生まれたんだけど、アレって別に深い意味とかなかったのか?」

 周辺に漁船や客船などの船がないかどうか、また、彼が支配するのは全ての海だから、近隣の長と呼ばれるものたちにご挨拶しているレヴィの不在中に、護衛…ってのもヘンな言い方だけど、俺にお供させられている灰色猫にずっと気になっていたことを聞いてみた。

『へ?大ありだよ、お兄さん。何を言ってるんですか』

「え?」

 俺の首筋に襟巻き宜しく、ダラリと懐いている灰色猫は、欠伸を噛み殺しながら暢気に「にゃーん」と鳴いた。

『だから、レヴィアタン様と主従関係が築けたんでショーが』

「んん?どう言うことだ??」

 訝しそうに首を傾げてしまう俺に、灰色猫はちゃんと説明しないと判らないよなとでも思ったのか、改めてコホンと咳払いなんかした。そのくせ、俺の首筋でダレている姿勢はちっとも変えないのな。

『まあ、簡単に言いますとね。ご主人の性格ってのはもともとかなり凶暴でさ、高圧的だし、まあ…凡そ従順に主に従うような性格じゃないワケね。つーか、主とか持つようなそんな低い身分でもないしね』

 それは、なんとなくルシフェルや灰色猫との遣り取りでも判ったような気がする。

『愛しいひとを見つけても、そんな性格だから、心から愛する前に殺してしまうワケだよ』

「ぬな!?」

 ギョッとする俺の頬に、短毛種らしい滑らかな頭部を擦り寄せながら、灰色猫はニヤッと笑うんだ。
 驚いたって仕方ないだろ、あんなに、愛しそうに抱き締めて、穏やかに傍にいてくれるレヴィがそんなに激情的だなんて思えない。確かに、本人も『嫉妬深い』とは言っていたけど、それにだって限度ってのはあると思うし…

『そこに登場しますのがこの灰色猫でありますよ、お兄さん。魔界にいても退屈で仕方ないから、人間界に遊びに行きたいと仰られたのを利用、もとい、その願いを叶えるためにもどうせなら、心からご主人を愛してくれる人を捜して差し上げよう。んで、その性格から殺してしまわないように【悪魔の樹】を利用したワケだ』

「悪魔の樹…」

 イロイロ世話になったあのグロテスクな樹にも、重要な意味があったんだと思う。

『そう、【悪魔の樹】の契約の効力は絶大で、ご主人や、ましてやルシフェル様だって破ることなんかできないほど強力な戒めでもって、こちら側の世界の者、つまりお兄さんを護ることにしたんだ。でも、それだけだと威圧的なご主人を前に、お兄さんは逃げ出してしまうと思ったから、ちょっとした小細工をしたワケだね』

 ゴロゴロと咽喉を鳴らしながら、うっとりと肩で休んでいる灰色猫は、その金色の双眸をスゥッと細めて、飛び切り上等な秘密を漏らそうとでもしているような表情をしたんだ。

『悪魔の樹には別にしなくてもいいことを、お兄さんにさせたワケ』

「…それってまさか」

 話の流れからみても、きっとアレだ、あの恥ずかしい行為のことを仄めかしているに違いない。
 うう、思い出せば顔が茹でタコよりも真っ赤っかだぜ、こん畜生!

『たぶん、推察通りだと思うよ。召喚者の精液や唾液を与えることで、呼び出される悪魔はその性格が逆転してしまう。つまり、気の弱い淫魔だったら気が強くなるワケだし、絶大な力を誇るレヴィアタン様のような魔神だったら、子猫のように従順になる。案の定、お兄さんは言いつけ通り根元を擦って、悪魔の樹が分泌する誘惑の樹液の誘いに負けてしまった。それを知った時はヒャッホウ!って叫びたかったよ』

 満足そうに双眸を細める灰色猫の咽喉を擽ってやりながら、俺は感心しているのか、それとも脱力しているのか、なんとも言えない表情をして呆然としていたに違いない。

「…はぁ、そうだったのか。でも、よくそんな条件の悪い【悪魔の樹】の契約にレヴィが納得したな」

『ご主人は…』

 そこで一旦言葉を切ったレヴィの使い魔は、今頃は海の底で悠々と泳いでいるに違いない、この辺りの海を支配している長と挨拶をしているのだろう白い悪魔、自らのご主人を思い浮かべでもしたのか、ゴロゴロ咽喉を鳴らしたままでニヤッと笑ったんだ。

『最初は胡散臭そうだったけど、それでも、自らの力に自信を持ってる方だからね。気に食わなければ契約の破棄などいつでもできる…なんて、思い込んでいたようだよ。まあ、そう仕向けたんだけどさ』

 恐るべし、灰色猫!

「…もしかして、最強なのはお前なんじゃないか?灰色猫」

『にゃははは♪そんなワケないよ、お兄さん。最強なのは、お兄さんさ』

「そりゃあ、まぁ、レヴィのご主人さまだからそうかもしれないけど」

 プッと唇を尖らせたら、灰色猫はツンっと尖がっている両耳を僅かに伏せながら、判ってないなぁとでも言いたそうにチッチッチッと舌を鳴らした。

『違うね。お兄さんはご主人のハートを射止めたから最強なんだよ。その辺は、賭けだったワケだし、すんなりご主人がお兄さんを気に入るなんて思ってはいなかったんだけど、まぁ良かった』

「グハッ!無責任だなッ」

『悪魔の使い魔に責任なんてないよ』

 気持ち良さそうにゴロゴロ咽喉を鳴らす灰色猫は、欠伸なんかしながらニヤニヤ笑っている。

『ああ、でも…一時はどうなることかと思ったけど、ホントに良かったよ。まさか、ルシフェル様まで協力してくれるとは思わなかったんだけどね』

「…へ?」

 今、なんて言ったんだ?
 ルシフェルが協力…って、この話はいったい何時から実行されてるんだ?!

『まあ、お兄さんが驚くのも無理はないんだけど…実は、お兄さんに目を付けたのは10年前なんだよ』

「なな、何ぃ!!?」

『初めて人間界に降りた時、知識とかないワケじゃない?だから、気軽に車に撥ね飛ばされたんだけど』

 グハッ!なんて壮絶だったんだ、灰色猫…やっぱ、お前は最強だよ。
 呆れたようにそんなことを考えていたら、のんびりと伸びをして肩から降りてきて、ヘンな話、上空でレヴィの漆黒の外套に身体を包みながら胡坐を掻いている俺の膝の上にちょこんと座った灰色猫は、「にゃーん」と鳴きながら小首を傾げた。

『こんな薄汚れた灰色の猫なんか、人間には興味ないでショ。つーか、誰も見向きもしないから、こりゃあ骨が折れるなぁとか、ホントに背骨が折れてるのに暢気に考えていたら…』

 そこでちょっと区切って、それから、遠い昔を思い出すように金色の双眸を細めて俺を見詰めてくる灰色猫は、思うほどお茶らけたヤツでもないんだろう。
 この猫は、そんな昔から俺を見ていたのか。

『お兄さんが現れたんだよね。車道の脇に撥ね飛ばされて、それこそ虫の息だったんだけど。ま、使い魔なんだから死にはしないってのに、それでもその、お人好しの人間は大きな目に涙をいっぱい浮かべて、優しい手を伸ばして労わるように抱き上げてくれた。その人間はさ、優しげな家族と一緒にわざわざ動物病院まで運ぶなんてバカなことまでしてくれちゃったワケよ』

 口調こそ憎らしいけど、でもその目は、本当なら禍々しいと表現するべきその双眸は、穏やかに澄んでいて、まるでビー玉のように綺麗だった。

『コイツにしようって思ったね。それから、ずっと他の人間も捜すには捜したけど、いないんだよ。まあ、最初が強烈な出会いだったから、もうお兄さんを忘れるなんて事はできなかったんだって思うけどさ』

 その言葉に偽りなんかないんだろう…どうして、悪魔のレヴィにしろ、使い魔の灰色猫にしろ、こんなに魔物らしくない目付きをするんだろうか。
 悪魔って言うのは…まるで人間をバカにしたように唆して、意地悪く殺したりするんじゃなかったのか?
 俺の中の悪魔の概念を根底から覆すようなことを、灰色猫はあっさりと白状してくれた。

『できれば、母親を助けてあげたかったけど、所詮使い魔の力なんて高が知れてるからさ。泣いているお兄さんを慰めることもできなかったなぁ』

 ああ、思い出したよ。
 あの日、どんなに祈り願っても戻ってこなかった母さんに絶望した夜明けに、俺の傍らでニャァと鳴いた猫。
 病院なのに、何処から紛れ込んできたのか…薄汚れた灰色の猫は、物悲しそうに「にゃぁ」と鳴いていた。

「あれも、お前だったんだな…」

『うん、そう。それで、母親が死んでも健気に生きているお兄さんのために、どうやって悪魔の樹を渡し、どうやってご主人と相思相愛にさせるか…悩んでいたら、たまたまお兄さんと同じ学校にルシフェル様がいらっしゃってね。ヒマだから学生気分を満喫中♪とか仰ってたんで、満喫ついでにお力を貸してくださいと頼んでみたんだよ。そしたらビンゴ!超乗り気で手伝って下さったんだ』

 ぐはっ!…あの、篠沢なら遣りかねないな。
 そう言われてみたら、母さんが死んだぐらいの時から篠沢が話し掛けてきたんだっけ?
 俺たちの間には共通の話題とかないし、それこそ、学年でも目立つ篠沢の何が俺を気に入らせたのか、あの時はよく判らなくて考え込んだりもしていたけど…そっか、最初から仕組まれていたと思えば納得できるな。

『あ、今ちょっと落ち込んだでショ?でも、そのおかげでレヴィアタン様と知り合えたんだから、何かを得るには失う事も知らなければいけないんだよ』

「わ、判ってるよ。ちょっと、やっぱりかー…ってショックを受けただけだ。でも、今回はすぐに復活できたけど」

 フンッと唇を尖らせると、灰色猫はちょっとホッとしたような顔をして、それから嬉しそうに

「にゃぁ」と鳴きながらふにふにの猫きゅうが可愛い小さな掌で俺の腕に触れてきた。

『成長したね、それはいいことだ。でも、まさかルシフェル様があそこまでするとは思っていなかったから、ちょっと焦ったけどね…って、お兄さん?』

「ありがとう、灰色猫。やっぱり俺、お前には随分と世話になってたんだなぁ」

 心を込めて…できれば、少しでもこの気持ちが伝わるならいいんだけど。

『や、やめなよ。そんなこと言うのは!ただ使い魔として、ご主人の命令に従っただけさ』

 急にギョッとしたような顔をした灰色の猫は、どうしたワケか俯きながらピンッと立っている耳を腕で撫でるようにして身繕いを始めると、やっぱりピンピンの髭を微かに震わせている。

「うん、でもありがとう」

 使い魔なんて大層な肩書きだけど、こうして見ると、ただの小さな灰色の猫でしかないのに、そのなだらかな肩には余りあるほど重い指名を受けて降り立ったこの世界が、どんなに酷くて大変だったか…考えれば知らずに涙が出そうになる。
 よく覚えていないんだけど、あの頃はまだ元気だった母さんと父さんがいて、2歳下の弟は動物アレルギーがあるから動物も飼えないと言ってはしょぼくれていた俺を、2人は2人なりに努力して毎週末に動物園に行ったり、デパートの生物店に連れて行ってくれたりしていたんだよな。
 ああ、そんな温かな気持ちも忘れていた。
 母さんの代わりばかりしてうんざりだとか思っていた近頃は、ドロドロの醜い気持ちばかりが先走っていて俺、きっと嫌なヤツに成り下がっていたんだと思う。
 あんなにキラキラ輝いていた日々は、確かにあったのに。
 その何時かの日に、出会っていた事実を覚えていなくても、そんな俺を慕ってくれている灰色猫に、この申し訳ない気持ちと、あの優しさに満ち溢れていた幸福だった頃を思い出させてくれたことを感謝する心がどうか、この小さな灰色の猫に伝わりますように。

『どうか、幸せにおなり。でも、照れ臭いなぁ…』

『何が照れ臭いんだ、灰色猫』

 ずごごごご…っと、まるで地獄の底から甦った亡者か何かのように凶悪な顔付きをしたレヴィが、照れ臭そうにニヤッと笑っている灰色猫と、咽喉の辺りをワシャワシャしている俺の間に割り込むようにして、額に血管を浮かべながらニタリ…っと笑ってやがる。

『げ、ご主人』

 ギクッとしたように首を竦める灰色猫をヨシヨシと撫でながら、俺はそんなレヴィに飛び切り上等な笑顔をニコッと浮かべて、小首を傾げて見せた。

「あ、レヴィ。もう、用事は済んだのか?」

『ご主人さま…はい、この近辺も恙無いようでした。船影も見られませんので、私の真実の姿をお見せするには絶好の場所だと思われます』

 思いっきり脱力したように間抜けな顔でヘラッと笑ったレヴィは、ハッと我に却って、それから徐に姿勢を正すとコホンッと咳払いしながら神妙な顔で頷いた。

『ご主人、顔がにやけてますよ』

『煩い』

「!?…ぎゃぁぁぁぁ!!」

 俺の腕の中に落ち着いている灰色の猫をヒョイッと掻っ攫って、ガクンッとそれまで保っていた重力が一気に襲い掛かってきたようにスッコーンッと落ちていく俺が絶叫を上げていると、すぐ真下に待機していた肩に灰色猫を乗せたレヴィがストンッとすぐに両腕で受け止めてくれる。
 な、なんだったんだ、今のは…

『嫉妬だよ』

 レヴィの肩から頭にかけて懐いている灰色の猫が、至極当然そうに「にゃあ」と鳴くと、レヴィは腹立たしそうに頷いた。
 こうして見るとどっちが主人なのか判らなくなるんだけど…これもやっぱり、【悪魔の樹】の契約ってのが影響してるのかな。

『ご主人さま、人間が勝手に決めたことではありますが、7つの大罪と言うのをご存知ですか?』

「えーっと、確かブラッド・ピットが主演していた映画であったな。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲…えーっと、後は食欲と色欲だっけ?」

『大正解です、さすがはご主人さま』

 嬉しそうにニコッと笑うレヴィがチュッと頬にキスしてくれて、くすぐったくて笑っていたら、灰色猫に呆れたように肩を竦めながらもニヤッと笑われてしまった。

『レヴィアタンは【嫉妬】を司るそうですよ。人間にしては小賢しいですが、当たっていると言わざるを得ませんね。それほど、私は嫉妬深いのです』

「使い魔にも妬いちゃうのか?」

 俺の質問にも、レヴィは生真面目に頷いた。
 それは何より、これから共に生きる為には重大な事ででもあるかのように、白い悪魔は神妙な目付きで俺の出方をみているようだ。

「バッカだなー…灰色猫だってレヴィを好きなのに、そんな灰色猫なんだから、俺が気に入ったって仕方ないだろ?」

『なぬ!?そんなこと言ってないよッ』

 焦ったような灰色猫を無視してニコッと笑ったら、それでも…と、レヴィは切なそうに真っ白の眉を寄せてシュンッとしてしまう。

『貴方が他の誰かを想う時、私の心は嫉妬で燃え上がってしまうのです』

「それじゃあ、心が幾つあっても足らなくなっちゃうな。つーか、お前。それじゃあ、俺が誰彼なく好意を寄せてるって疑ってるってことじゃないか!」

 頬や首筋にキスしてくるレヴィの甘ったるい愛撫に流されそうになっていた俺は、ハタと気付いて、お姫様抱っことやらをやらかされながらもレヴィの青褪めた頬を両手でバシンッと掴むと、その金色の双眸を覗き込んで威嚇するように歯を剥いてやったんだ。
 そうだ、どう考えても疑ってるとしか言いようがない!

『そ、それは…でも、気に入るという事は好きだってことじゃないですか。ひいてはそれは、愛へと繋がる感情で…!』

 バカなヤツには胸倉を引っ掴んで、それから、キスしてやるしかない。
 気に入ったぐらいで、こんなこと、お前以外の誰にできるって言うんだよ。

「キスしたいとか、エッチしたいとか…そう思うのはレヴィだけだ。灰色猫や篠沢にそんな感情を持ったことはない。茜にだって、そんなこと思ったこたねーよ!ホントは悪魔なんだから、俺の心とか見抜いちまってんだろーが!性格悪いぞ!!」

 ムキッと癇癪みたいに怒ってやると、レヴィは俺の真実の声に満足したように青褪めた頬を染めて、嬉しそうにうっとりと微笑みながら抱き締めると、頭に頬を擦り寄せてくる。
 どんな単純な感情でも、レヴィには千の言葉よりもきっと、大事なんだろうな。

『私の真実の姿を見られても同じことを仰って戴ければ、きっと、私は天にも昇るほど幸福な気持ちを感じる事ができるのでしょうね』

「おう!すぐに感じさせてやるから、とっとと真実の姿を見せてみろよ」

 胸元を掴んで、額にキスしてくるレヴィの甘い匂いに翻弄されながらも俺は、こうなりゃ槍でも鉄砲でも持ってきやがれ!なメタメタな気分で怒鳴っていた。
 でも勿論、大船に乗ったつもりになっててもいいんだぜ、レヴィ。
 どんなお前でもきっと、俺は嫌いになんてなれないんだから…

『ご主人さま、愛しています』

「!…お、俺も…ッ」

 ささやかな秘密のように囁いて、そんな初めての告白に俺は動揺したように自分だってと頷こうとしたら、そんな綺麗な微笑を浮かべるレヴィから突き放されてしまったんだ! 

「!!」

 ハッとした時には風の抵抗を全身で感じながらも、あの日、悪魔の樹から誕生した時のように眩い閃光を放ちながらレヴィの身体は、上空でみるみる巨大化していったんだ。それは、姿はもう人間のものじゃなくて、巨大な蛇のような…或いは海竜そのもののようで、凶悪に大きく開けた口には禍々しい牙が幾つもあって、口許には消えない炎が渦を巻いている。きっと、伝説にある通りに胃液が外気に触れて炎になっているんだろう。頭部には大きな角が2本配し、その周辺に一回り小さな夥しい突起物がある。
 禍々しい金色の双眸をニタリと細めて、凶悪な海の王者は長い真っ白な体躯をくねらせるようにしてけたたましい水飛沫を上げて海中に巨体を没したんだけど…これじゃあ、津波か地震でも起こるんじゃないのか!?

「れ、レヴィ!」

 両手を差し出して、水面から凶悪そうな禍々しい顔を覗かせる、海を支配する壮大な幻想から抜け出してきたような誇り高い海の王者リヴァイアサンの上に、まっ逆さまに落下する俺を、レヴィはどんな思いで見つめているんだろう。

《ご主人さま、オレを恐れますか?》

「んなワケない!すっげーカッコイイよ♪レヴィ、ずっとそのまんまでもいいぐらいなのにーッッ」

 凄まじい風圧と重力に大声を出しても聞こえないんじゃないかと焦ったけど、俺の思いはきちんとレヴィに届いていたようで、俺はそのまま嬉しそうに笑ってリヴァイアサンの顔の上に落下したんだ。
 炎は鳴りを潜めていて、硬い鱗に覆われているはずのレヴィの輝く純白の顔には薄青と薄緑の溶け合ったような透明なヒレがついていて、それがやわらかな絨毯のように俺を受け止めてくれた。
 きっと、レヴィがそうなるように顔を動かしたんだろうけど、白い海の王者は嬉しそうに、本来なら凶悪そのものの面構えなんだけど、その時ばかりは俺でも判るほど嬉しそうに笑っているようだった。

《ご、ご主人さま!こんなにも愛しいです》

「俺も、レヴィのこと、心の奥底から愛しいよ」

 柔らかなレヴィの繊毛らしきものを必死で掴みながら、青と緑のグラデーションが月明かりにとても綺麗なヒレに頬を擦り寄せて、俺は海王と謳われるリヴァイアサンに永遠の誓いのような愛の告白をした。

「お前にきっと、ついて行くから。レヴィの望むところに連れて行ってくれ」

 たとえそれが地獄でも、きっと俺は喜んでついて行くと思う。
 レヴィがいるのなら怖くない。
 レヴィのいなくなった世界で生きるよりも、たとえ地獄の業火に焼かれるような苦痛を味わわなければいけないとしても、俺はきっとレヴィについて行く。
 この、伝説の海の王者である、リヴァイアサンについて行くんだ。

『ご主人さま…では、どうぞ。私たちの家に帰りましょう』

 嬉しそうに顔を擦り寄せていた巨大な海の支配者であるリヴァイアサンは、まるでポンッと音が聞こえそうなほどアッサリと、もとの綺麗な白い悪魔に戻って俺を抱き締めてくれた。
 ゆっくりと浮上しながら擦り寄せ合った額と額を離して、頬を寄せ合うとキスして、お互い何故こんなにも必死なんだろうと思うほど、情熱的で蠱惑的な口付けを求め合っていた。
 それは確かな感触で俺たちを包み込んで、そして、昇る朝陽の中で呟いていた。

『愛しています、ご主人さま。これからもどうぞ、私と共に在り続けて下さい』

「愛しているよ、レヴィ。俺をずっと、離さないでくれ」

 喜んで…呟いてレヴィは、純白の朝陽の中で、誓うようにキスしてくれた。
 これからもきっと俺は、この白い悪魔に魅了され続けて、そして。
 ずっと愛していくんだと思う。
 相思相愛を夢見るように、うっとりと目蓋を閉じて、レヴィのキスに心を委ねた。

 悪魔の樹から誕生してしまった不幸な悪魔は、創生の時代から求め続けていた心の欠片を、もう随分と永いこと見失っていた最後の欠片を、こうして見つけ出す事ができた。
 多少の不便はあったとしても、彼は生涯、人間界の移ろいゆく光の中で、愛しい者と時間を共有し続ける事になる。
 【悪魔の樹】の呪縛は…そう、永遠なのだ。

* * * * *

「ところで、地震とか津波は大丈夫だったのか?」

『勿論です、ご主人さま。悪魔に不可能はありません』

「なるほど、悪魔って便利だな♪」

『はい♪ずっとお傍においてくださいねv』

「当り前だ」

『♪』

 数千メートル上空での他愛ない会話。
 聞いていた灰色猫は『ご馳走様』と言って、ラブラブのご主人ズを前に、それはそれは幸せそうに「にゃあ」と鳴くと、柔らかい猫手で両目を覆うのだった。