3  -愚者は真夜中に笑う-

 今日も相変わらずバイトが時間通りに終わらず、先輩の車に乗っけてもらって、それから1時間の道程をやれやれと疲れた身体を引き摺るようにして歩いていた。

(あ、そうだ。この辺りで黒猫に出逢ったんだっけ?)

 アイツ元気かなぁ~、今日はチータラはないけど、カニカマならあるんだけど。
 あの猫がいないか塀の上を見上げてみたけどいなかった。
 周囲を見渡すんだけど、丑三つ時の午前2時過ぎでは人気もないし、あんなに夜の闇がよく似合う、あの黒い猫もいないみたいだった。
 不意に不安になって…どうして猫ぐらいでそんなに不安になるのかよく判らないんだけど、嫌な予感ってヤツは、嫌だと思えば思うほど実によく当たりやがるから、俺は焦燥感に駆られるようにしてあの風変わりな人懐こい、夜の闇の中でもとても綺麗な黒猫を探していた。
 探して、探して…そして俺はとうとう見つけたんだ。
 電信柱の影で蹲るようにして死んでいる黒い猫を。
 自動車にでも撥ねられたのか、悪いモノでも喰っちまったのか、それとも悪い人間に酷いことをされたのか…頭の中をグルグルと纏まらない考えばかりが渦巻いていたんだけど、俺は無言で屈みこむと鞄からタオルを取り出して、もう冷たくなって魂を何処か遠いところに手離してしまった黒い猫の身体を包んでやって抱え上げた。
 きっと怒られるかもしれないけれど、なんだか傍に置いておいてやりたい気がして、アパートの駐車場の傍にある大きな木の根元に埋めてやった。
 名前なんか知らない木の根元だけど、大学卒業してもここに住む予定だからいいよな?
 ポロッと頬を零れ落ちる涙は、小さな生き物に届けばいいお別れの涙だ。
 掘り起こされたばかりの土の匂いを嗅ぎながら、これから自然に還るあの物静かで優しい黒い猫を思えば、最初は酷いことしたなぁって悪い記憶が甦ってしまう。
 初めから懐いていたのに俺は邪険にして、でもそれでも変わらず俺の傍に居てくれようとした黒い猫、もっと大家さんに相談して飼えるように掛け合えばよかった。
 俺と暮らしていればこんな悲しいことにはならなかったはずなのに…

「はぁ…泣いてても仕方ないか」

 グスッと鼻を啜って、俺は袖で涙を拭いながら立ち上がると、判らないようにコソッと置いたカニカマの所で手を合わせてアパートの部屋に戻った。
 バイト帰りにお出迎えしてくれるあの猫はもういないんだなぁと思うと、柄にもなく感傷なんか沸き起こるけど、それはそれで、俺はあの猫を本当に気に入っていたんだなぁと再認識した。
 洗面台で手を洗ってからそのまま風呂に入って、それから倒れ込むようにして狭い部屋を占める万年床にダイブする。
 今日は嬉しかったりガッカリしたり大変な一日だったよな、せめて夢ぐらいは幸せであればいいなぁ…

 ウトウトとしていてふと目覚めると、自分ちにこんな豪華なベッドとかあったっけ?
 やわらかな羽毛?の枕が幾つも重なっていて、肌触りのいい掛布団とスプリングの効いているベッドは豪華な天蓋付きだ…なんだ、ここは?
 ふと、上半身を起こして見てみれば、ベッド以外は漆黒の闇ばかりがただただ広がっていて…そこで俺はハッと気付いちまったんだ。
 あの夢だ!
 泡食ってバタバタと起き上がろうとしたら、そんな俺の腕を褐色の腕が掴んで引き留めた。

『なんだよ?何処に行くんだよ』

「やっぱりお前か」

 でも。

「エルロイ…生きていたんだな?あの黒い猫ってお前だったんだろ。死んでしまってさ、もう逢えないかと思った」

 上半身だけ起こした形で引き留められている腕はそのままで、俺の隣で大型のネコ科の肉食獣みたいに頭を片手で支えて寝そべっている夢魔のエルロイの頬に伸ばした掌で触れてみた。
 抱かれている時も感じたんだけど、夢の中だと言うのにエルロイの存在はとてもリアルで、その体温すら感じられるんだからスゲーよなぁ。
 よかった、コイツが生きてて…そう思ったら嬉しくて、あんな酷い事されたってのに憎めない俺はもうどうかしてしまっているんだろう。

『…お前はヘンなヤツだなぁ?アレだけ邪険にしたくせに死んだら泣くのか??全くよく判らんよ』

 ゆるやかなウェーブの黒髪も捩じれた角も、褐色の肌に鋭い紅蓮色の瞳…どうやら俺の産物ではないらしい夢魔のエルロイは本当に不思議そうに目を瞠って俺を見上げている。

「そうかなぁ…誰だって、心を許したヤツが死ぬのは哀しいと思うんだけど」

 そんなに不思議がるほどのことなんだろうか?

「そもそも、蹴った時の方がどうかしてたんだしさ」

 唇を尖らせて眉根を寄せたら、エルロイはふと、伸び上がるようにして、それから俺の腕を引き寄せながらキスなんかするから、そのままやわらかなベッドに倒れ込んでしまった。

「??」

『まあいいさ。今夜でお前と遊ぶのも最後だし、いつも女たちに使っている場所を用意してやったんだからじっくり楽しもうぜ』

 頬に蟀谷に口付けていたエルロイがニッと鋭い犬歯を覗かせて陽気に笑うから、俺は呆然としたようにそんな悪気のなさそうな夢魔を見上げていた。

「…え、今夜で最後なのか?」

 どうして、そんな言葉が口を滑り落ちたのか。
 別にこんな不毛な行為は…と言うか、こんな夢なんか見る必要ないじゃないか。俺はゲイじゃないんだから。
 でも、たった3日間だったけどエルロイの存在は強烈で、その存在がふと消えてしまうと思うと、心にポカッと穴が開いたような気持ちになっていたんだ。

『ああ、オレにも仕事があるからな。随分、女のところに行ってないんで仲間にどやされてるのさ。それに、男の身体についてもよく判ったし、何より楽しかったからもういいんだ』

 ズキリッと胸が痛んだ。
 ああ、そうだよな。悪魔なんか気紛れで人間を誘惑して、楽しんだらポイだもんな。  命を取られないだけまだマシなのかなぁ…
 そんなことを考えている間にもエルロイは俺の身体に触れてきて、その時はもう彼がその気にならなくても俺の身体は充分反応するようになっていた。現金なもので、昨日の甘ったるいセックスに俺の身体は何かを許してしまったのか、ヤツの指先も舌も喜んで受け入れているみたいだ。
 でも何故だろう、心が追いついてくれない。
 エルロイは悪魔で、みんなが言うように甘い仕草で俺を唆し、何もかも攫って行ってしまうんだろう。
 鎖骨や胸元にキスをして、それから既にはち切れんばかりに勃起しているその部分をサラッと無視したエルロイは、まるで悪戯みたいにその周りばかりきつく吸うから、俺は思わずその綺麗な黒髪に指を絡めて喘いでいた。
 こんな風に心の中は恐慌状態だって言うのに、愛撫を施されれば身体は素直に反応するんだから、男ってのは本当に悲しいぐらい即物的だ。
 含んでくれない意地悪な悪魔の捩じれた角に触れたら、ヤツは仕方なさそうにペロリと舐めてくれる。
 堪え性のない俺がビクンッと身体を震わせたら、エルロイはまたしても吃驚した顔をして俺を見上げてきた。
 そんな顔で俺を見んなよ。

「…だって、気持ちよかったんだ。仕方ないだろ」

 真っ赤になって目線を逸らしたら、ヤツは何を思ったのか、ニヤニヤと笑いながらキスしてきたんだ。

『早いな~?連日ヤッてて溜まってないはずだろ。何故なんだ?』

「だから…気持ちよかったんだよ」

 こんなこと言わせるなよ、恥ずかしいなぁ。

『ふーん…じゃあ、オレも早く気持ちよくなろうかな』

 前戯だとか愛撫だとかそんなモノしなくても、夢魔の力だとすぐに挿入できるそうなんだけど…エルロイの場合は、挿れた後に愛撫するのが好みらしい、と言うのも昨夜身を持って知ったことなんだけど。

「んッ」

 それでもやっぱり最初は痛い。
 狭い器官を抉じ開けるようにして先端が入ってくる時は、何かに縋らないと痛みで泣きそうになるけど…最後の夜は、ちゃんと両手でエルロイの背中に腕を回せるようになっているから、俺は初めてこの綺麗で不思議な夢魔に抱き付いてその衝撃を遣り過ごしていた。
 痛みに滲む目許の涙を唇で掬って、それからエルロイはうっとりと気持ち良さそうな、とても蠱惑的な顔をして俺を見下ろしてきた。

『お前の胎内は最高だよ。胎内に入る度にそう思う。なあ、ちゃんとオレを感じてるか?』

 奥まで貫かれて喘ぐ俺はコクコクと頷いたけど、何が気に喰わないのか、夢魔は突然不機嫌そうに激しく腰を入れてくるから、俺は痛みと、昨日覚えた快感の在り処を激しく責め立てられて身も世もなく泣きたくなった。

「うぁ!あッ…あ!…ひッ」

 堪らずに抱き着くと引き剥がされて、それから激しく濃厚なキスをされてクラクラしてしまう。

『最後なんだしさ。オレの名前を呼べよ』

 ああ、またそれだ。
 昨夜も最中に散々呼ばされたってのに、どうしてそんなに名前を呼んで欲しいんだろう。俺の…俺の名前は読んでもくれないのに。

「え、エルロイ…」

 好きだとかそんな言葉、絶対に言えない。
 俺の胎内にいる男はこれが最後だと言って、【別れ】について少しの感慨もないみたいだ。それなのに、俺だけが馬鹿みたいに薄情な夢魔に未練を残して、心までも持って行かれそうになっているなんて。
 知らずにポロッと涙が零れて、そうして、熱に浮かされた人みたいに虚ろだったかもしれないけど、哀しい眼差しのまま、どこか焦っているような奇妙な表情をする男らしい端整な顔を見詰めていた。

『どうしてそんな顔をするんだ?気持ちよくないのか??』

「気持ち…ッ、いいよ…ゥッ」

 熱に浮かされて笑ってはいるけど、揺すられる度に涙が頬に零れているみたいだから、ああ、俺は本当にエルロイから離れたくないんだなぁ。そんなこと、この薄情な夢魔には判りっこないんだろうけどさと確信めいた感じで思っていた。
 お互いの腹には俺が何度も放った白濁としたモノが飛び散って、それが一層、ねちゃねちゃと淫猥な音を立てながら、より深く交わっていることを物語るんだけど、だからこそ余計に俺に喪失感を植え付けるみたいだ。
 掻き抱くように後ろ頭に腕を添えてキスしながら、片足をこれ以上はないぐらい抱え上げられて、激しい動きで腰を打ち付けられると快感に嘆くように翻弄される俺の胎内にエルロイは灼熱のように熱い奔流を注ぎ込んだ。
 荒い息を吐き出して泣く俺の胸元に頬を寄せて抱き付いていたエルロイは、ふと不機嫌そうに上体を起こして、ムッツリとした顔付きで俺を覗き込んでくるんだよ。

『なぜ泣くんだ?』

 純粋なのか姑息なのか、よく判らない夢魔と言うこの男は、本気で何故俺が泣いているのかよく判らないと言う表情で、男前の双眸を細めて顔を曇らせている。

「…悲しいからだよ」

 俺はそんな風に薄情にはなれないし、こんな形でも身体を繋げてしまった相手に、快楽の虜になったから…とかそんな感情だったらもう少し楽だったんだろうけど、心の奥深いところがほっこりとあたたかくなる気持ちを知ってしまって、唐突に一方的な別れを切り出されれば泣きたくもなるさ。

『え?なぜ悲しいんだ?』

 お前のように俺は遊びで男と寝れるほど図太くないし、抱き締めた身体から仄かに香るあの柑橘類のような爽やかな体臭も、イく寸前に見せるあの男らしい双眸も、口付けてくれる少しかさついた唇も、何もかも忘れることなんかできるワケがない。

「それは…俺が」

 興味本位の遊びだったって告白されているのに、俺はいったい何を言おうとしているんだろう。
 こんな、妄想の産物であるはずの、夢魔とか言うふざけた男に。

「お前のこと、好きだからだよ」

 ポロポロと気付けば泣いてばかりだけど、別れなんてこんなモンなんだ。
 いつも好きになると必ず離れなければいけなくなるのは、俺に運があるとかないとかじゃなくて、相手も好きになってくれてるんじゃないかって期待して、俺が勘違いばかりするからなんだろう。

『何を言ってるんだ?好きなら抱かれれば嬉しいだろ。どうして泣くんだよ?』

 お前がいなくなるから…溜め息のように呟いたら、どうやらエルロイのヤツは呆気に取られたみたいだった。

『オレはさ、悪魔だから愛するってことがよく判らないんだ。だから、お前に好かれてもオレは応えられない』

「俺のこと嫌い?嫌いならそう言ってくれたら忘れられると思うんだけど」

 覗き込む紅蓮の双眸を見上げながら、俺はポロポロと泣きながら苦笑して呟いた。
 嘘でも本気でもどっちでもいいから、嫌いって言って欲しい。
 そうしたら、また諦めることができるから。

『嫌いでも好きでもないさ。オレには判らないって言っているだろう?お前の胎内に挿れるのは楽しかったし、良い退屈凌ぎにはなったと思っている』

 殴れたら少しはスッキリしたんだろうか。
 でも、俺はそうすることができなかった。だってさ、きっと悪魔のエルロイには人間の持つ気持ちとか本当に判らないんだと思うから。

「そっか…」

 何とも言えない複雑な表情で見下ろす不機嫌そうなエルロイの頬に手を添えて、それじゃあと言って、俺は最後のキスを強請ってみた。
 そう言うとエルロイは少しホッとしたようで、長い睫毛が縁取る瞼に紅蓮の双眸を隠して、最後の深い口付けをくれた。
 でも俺は、やっぱりポロポロ零れる涙を引っ込めることができなかった。
 さようなら、俺の恋心。

 チチチ…ッと、鳥の声がするおんぼろアパートの一室、万年床の上で起き上がって涙を零しながらぼんやりと布団を掴んでいた。
 ああ、こんな時こそ忘れさせてくれればいいのに…悪魔はなんて悪戯で薄情なんだろう。
 たった3日間の邂逅だったって言うのに、俺はなんだか一生分の涙を流したみたいだったし、心をもぎ取られたような痛みをこれから長いこと抱えて行くんだろうなぁと覚悟もしたみたいだった。
 気紛れな夢魔が戯れに遊んだだけだよって言ってくれたのにさ、心までガッツリ持って行かれちまうなんて、俺って馬鹿だよなぁ…

「はぁ…」

 万年床の上で体育座りみたいにして膝を抱えた俺は、その上に頬を乗せて溜め息を吐くと、忘れたくても忘れられない、あの熱い情熱を物語るような紅蓮の双眸を思い出していた。
 すごく悪魔らしくってさ、思わず笑っちゃうぐらいカッコよかったなぁ。
 3日間で身体に叩き込まれたのは淫靡な快楽だけじゃなかった…エルロイって言うとても不思議な悪魔のたくさんの仕種と切ない表情、それと彼に対する俺の恋心…とか。
 恋ってヤツはすごいなぁ…あんな風に妙な感じで因縁を吹っ掛けられただけだったってのにさ、ましてやその、れ、レイプ紛いに抱かれたって言うのに惚れてしまうなんて、昔の俺だったら絶対に考えられなかった。
 なのに、あのエルロイや黒猫に触れて、俺の心はすっかり柔軟になっていて、抱かれている間じゅう、もしかして愛されてるんじゃないかとか勘違いして恋をしてしまうなんて…

「…あ、そうか。エルロイはこのことを言っていたんだ」

 泣きながらキスされた時、俺の胎内に入った時、愛されてるって感じたって言ってた。
 でも、悪魔は人間と違うから、俺みたいに勘違いして好きになることはないんだな…エルロイが人間だったら、俺はもう少し頑張れたのに。
 もう、捜しても見つけることなんかできないんだから、頑張ることもできやしない。
 悪魔なんて何処を捜せばいいんだよ、ヘンな魔術本で召喚とかするのか?そんなの、違うヘンな悪魔が出てきたらどうするんだよ。

「あーあ。本当に完全にフられたんだなぁ…とか言って、相手もされていなかったのに、馬鹿だなぁ、俺」

 天井を見上げて頬を伝う涙はそのままで、消えてしまった悪魔に恨み言すら言えずに、俺は暫くそうして、部屋の中で蹲って泣いていた。