4  -愚者は真夜中に笑う-

『ご主人、どうかオレを殺してください』

 ゆるやかな肩より少し長いウェーブの黒髪から突き出した2本の捩じれた角と、紅蓮に燃える真摯な双眸、上半身裸の肌は褐色で、女が見ればすぐに参ってしまう美丈夫は完璧な傑作であるはずだった。
 その可愛い使い魔の言葉に、手にした書物を取り落しそうになってルシフェルは訝しそうに美しい柳眉を顰めた。

『なんだって?』

『オレは、ご主人の戒めを破って人間と交わりました。死ぬべきです』

『…』

 ルシフェルが使役する使い魔であるインキュバスもサキュバスも、どこかユルい考え方をするせいか、時々彼らの主は酷く動揺することがある。
 長い美しい漆黒の髪を有する頭をバリバリと掻きながら、大悪魔たるルシフェルは呆れたように言い放つのだ。

『何を言ってんだ。お前たちの役目は人間と寝ることだろ?そんなことでいちいち殺してたら、オレは幾つ使い魔を作らなきゃならんのだ。馬鹿馬鹿しいッ』

『違うんです!ご主人、オレは人間の男と寝ました』

『はぁ?!』

 そこで漸く、どうして夢魔の中でも特に可愛がっているエルロイが、日頃にはない真摯な双眸で妙に恐縮して凹んでいるのか理解した。
 仲間の夢魔たちがハラハラしたように見守る中で、嘘を吐けば済むものを、エルロイは何らかの理由でそうはせず、ご主人に断罪してもらう道を選んでいるようなのだ。

『まあ、別にいいんじゃない?誰と寝ようと構わんよ。それよりもオレは今忙しいんだ。用件がそれだけなら失せてくれ』

 可愛いとは言え大悪魔にとってみればただの使い魔に過ぎないのだから、やれやれと溜め息を吐きながら片手を振るが、エルロイは容易に引き下がるつもりはないらしい。

『そうじゃないんです!オレは…ッ』

『失せろ!そうじゃなければ、お前が望むように使い魔の資格を剥奪して殺すぞッ』

 エルロイの背後では怯えて竦んでいる仲間の夢魔たちがいると言うのに、件の紅蓮の双眸を持つインキュバスは、その言葉を待っていたように、わざと不興を買って、どうやら死にたがっているようだ。
 そうであるのなら…大悪魔であるルシフェルには特段の執着心などありはしない。その専売特許は海を統べる王のモノである。だからこそ彼は無情の面持ちで哀れな使い魔を見詰め、そして片手を挙げてエルロイの望む死の断罪を施そうとしたその時、不意に頭上に真っ白な大海蛇が巨体をくねらせて姿を現した。

『うっわ!ルゥってば使い魔を殺そうとしてんのか?!なんだ、その悪魔みたいな態度ッ!!超コエーッッ』

 ガタガタと震える巨体が青褪めたように見下ろすと、驚愕の眼差しで見上げたルシフェルは、次いで、呆れたように溜め息を吐いたみたいだった。

『レヴィか。なんだよ他人んちのことにまで首を突っ込むんじゃねーよ』

 首を左右に振ると、違った意味で苛々するルシフェルは手にした書物を束にして紐で括りながら肩を竦めて、どうでも良さそうに吐き捨てた。

『これが見過ごせるかよってなぁ?ところでエルロイ、なんだって人間の男と寝たりしたんだ?お前はさぁ、曲がりなりにもインキュバスだろ。何も男と寝るこたねーんじゃねーのか?』

 美人なんて引く手数多だろーにと牙の生えた獰猛そうな面構えの大海蛇が見下ろしてくる興味深そうな金色の双眸を見上げて、突然の闖入者はいつものことなのか、ユルい思考の持ち主である夢魔は驚いた素振りもなく一生懸命に訴える。

『里舘光太郎って言うんです。1年前に橋の上で自殺しようとしていたんですけど思い留まって…それからずっと見守っていました』

『ふーん。それで?』

 それでそれで?とまるで犬が尻尾を振って待ち兼ねているかのように興味深そうな黄金色の双眸で先を促すレヴィアタンの趣味の悪さに、ルシフェルはうんざりしているようだが、こうなれば面倒臭いこともこの海の支配者に押し付けてしまおうと企むことにしたようだ。

『切っ掛けが欲しくて猫に化けてチャンスを作り、それから彼を抱きました…でも、オレはインキュバスだから、このまま抱き続けたら光太郎を殺してしまいます』

『ああ、なるほど。そう言うことね』

 中空で巨体をうねらす海の覇者はフムフムと頷いて、小さな使い魔が心の中に抱えているあたたかな想いに爬虫類を思わせる面構えのポーカーフェイスでは窺い知ることはできないが、どうやらニヤニヤしているようだ。

『でも、オレはずっと抱き続けたいんです。しかし、そうすれば光太郎は死んでしまう。そんなのは堪えられない…だったら、オレが死ぬ方がいいんです』

 インキュバスやサキュバスの特殊な能力は人間の持つ生気を媒介に成立するもので、ルシフェルからの使命で対象者の夢に潜り込んでは、その生気を少し吸い取って行為に及びインキュバスは相手を受胎させ、サキュバスは必要な精液を採取する。
 受胎させるためではない行為は全てインキュバスであるエルロイの精液を相手の胎内に留めるため、悪くすれば悪魔の気に中てられてその寿命は遥かに短くなるのではないか…エルロイにはそれが心配で仕方ないのだろう。

『バーカ』

 それを聞いて思わずと言った感じでレヴィアタンは言い放った。

『え?』

 キョトンとするエルロイに、高位の大悪魔であり海を統べる覇者は巨体をうねらせながら不機嫌そうにブツブツと言う。

『あのさぁ、エルロイ。どうしてお前が死ぬんだよ?人間なんか僅かな時間を生きるだけなんだ、遅かれ早かれお前を遺して逝っちまうんだぞ』

『…でも、その僅かな時間でも傍に居たいんです。たくさん泣かせてしまって、泣かせたくなかった。でも、オレの存在はアイツを泣かせてしまうから』

 レヴィアタンのその言葉に、その尤もな言葉に、それでもエルロイは途方に暮れたように俯いて、ずっと泣かせっ放しの寂しそうな人間の顔を思い浮かべて呟いた。

『お前、その人間を愛しているのか?』

 不意に書物の整理に勤しんでいたルシフェルが彼らの会話に割入って、そして少し不思議そうに聞いたのだ。

『判りません。オレはバカで悪魔だから…アイツから好きって言われた時は凄く嬉しくて、胸の奥に衝撃が走ったのに、今となってはそれが何だったのかもよく判らないんです』

 裸の胸の、人間であれば心臓がある部分に片手を添えて、エルロイは自我の想いであるはずなのに、よく判らないと言う不気味な感覚に眉を顰めた。
 或いはもしこの感覚が何であるのか判っていれば、きっとあの時、あの人間をあんなに泣かせることもなかっただろうに…

『…そうか。その部分はルゥの不手際だな。よし、よく判った。そんな不手際をするルゥだと失敗する可能性が大だからさ。オレが禁呪を使ってやるよ』

『レヴィアタン!』

 凶暴だなんだと人間は勿論、悪魔からすら恐れられている海の覇者にして偉大な大悪魔がやたら乗り気で頷くと、そのくせ人間にも使い魔にも優しいことを知る魔界の支配者は勝手なことをするんじゃないと制するように厳しく不機嫌そうにその名を呼んだ。

『うるせー、黙れルゥ。ただし、オレは禁呪が苦手だ。ヘンな具合になっても大目に見ろよ』

 だが、元来から何ものにも縛られることなく自由に生きる海の王者は、魔界の支配者の言葉など馬耳東風、どこ吹く風と相手もせずに小さな使い魔を見下ろしてウィンクなどして見せる。

『レヴィアタン様、有難うございます!』

 ホッとしたようにパッと笑うインキュバスの姿に、ルシフェルは頭を抱え、そしてレヴィアタンは長い詠唱を口にする。

『あ、しまった。失敗したわ』

 詠唱が終わり、あちゃーと言いたそうにレヴィアタンが舌を出す。
 何言ってんだとギョッとするルシフェルの眼前で、だが、エルロイの姿に変化は何も見受けられない。
 ああ、失敗してしまったのかと落胆するエルロイに、魔界の支配者であり、彼の主人はやれやれと溜め息を吐いたみたいだった。

『何も失敗などしていないさ。ただ、お前がもうオレの使い魔ではなく、レヴィアタンの使い魔になったってだけのことだ』

『え?』

『そうそう、インキュバスの能力は抑えたからさ。お前はただの猫にも人型にもなれるオレ様専用の戦闘使い魔になっちまったんだ』

 うはははっと笑う海の覇者をポカンッと見上げる夢魔であったはずのエルロイに、ルシフェルは仕方なさそうに吐息して、それから手にした書類を机に投げ出しながら肩を竦めた。

『とは言え、そこはさすがレヴィと言ってやるさ。今は禁呪で抑えているがインキュバスの能力もちゃんと残してある。いつでもオレの元に戻ることができるんだ。安心して今の主人の命を受けるがいい。だがもう、お前は軽々しく死を口にするんじゃないぞ』

『ルシフェル様…』

 泣き出しそうな顔で見つめてくる可愛い使い魔に、仕方なさそうに苦笑するルシフェルも、やはり魔物に慕われるだけのことはあり、その面倒見の良さにレヴィは嬉しそうに頷いたようだった。

『さあ、エルロイ。最初のお前のお遣いだ。里舘光太郎の命が尽きるその瞬間まで、お前はその人間の傍に在り、その生涯を【愛して】見守ってやるがいい』

 大悪魔レヴィアタンの威厳ある声音が終わると同時に、エルロイの姿は硫黄の匂いのする煙の中に消えてしまった。
 有難うございます…と聞こえたような気がしなくもないが、『よかったよー』と抱き合って喜ぶエルロイの仲間のインキュバスとサキュバスに苦笑しながら、レヴィアタンは仏頂面のルシフェルを見下ろした。

『お前さぁ、損な性格だよな』

『…うるせー』

 恐らくこの魔界の支配者、サタンの別称も持つ、同じ悪魔とは思えないほど美しい何もかも完璧なルシフェルのことだ、古くからの友人がここに来ることも何もかも計算のうちで、そうして当の自分は憎まれ役を買いながら飄々としたツラで物事を丸く収めてしまったのだろう。
 大事にしている使い魔を邪険にあしらうことで、思う以上に気の優しい海の王者はその強力な力を貸すだろう。そうすれば、人間になど憐憫の感情も持ち合わせていない大悪魔のルシフェルが持たない、愛する心をあの小さな夢魔は手に入れることができるんだろう。

『まあ、だからこそお前がこの魔界を治める王様なんだよ』

『ふん』

 旧友がケラケラと笑い、照れ隠しのように不貞腐れた魔界の王は外方向いた。
 穏やかな午後の、魔界での一幕である。

 大学にもバイトにも行く気になれない平日の午後、結局俺は万年床の上でゴロゴロしながら時間を無駄に食い潰していた。
 こんな風に心が痛いのは一年前のあの時以来かなぁ…でも、今回はもっと性質が悪い。
 あの時のことは忘れることができたけど…今回はどうも無理みたいだ。
 身体を重ねたせいなのかな?口付けたせいなのかな?
 最初からちゃんとただ興味があるだけって言っていた、あの紅蓮の双眸に揺らめく切なくなるほど激しい感情の光を見てしまったからなのかな…とか考えても全く解決なんかしない。
 ひとつ判ることがあるとすれば、俺なんかちっぽけな人間はあっさり捨てられて、そして忘れることもできずに喪失感に呆然としてるってだけだ。
 3日間で鮮烈な印象を残したまま、俺の心を掻っ攫った憎い夢魔への悪態をブツブツ言ったってはじまらない…そう、もう何もかも終わっていて始まりなんかあるワケがないんだ。
 こんな想いも、いつか忘れるんだろうか。
 人間は移ろい易い心を持っているから、時間はかかるかもしれないけど、忘れることができるんだろうか。
 ポロッと頬に涙が零れて、今日はもう駄目だなぁ、バイトも休もうかなぁと考えて片手で両目を覆ったところで…

『なんだ、だらしないヤツだな。一日中寝てるつもりなのか?』

 不意に声が聞こえて、この幻聴はなんだろう?俺は白昼夢でも見ているんだろうか。
 【彼】と逢えるのは夜の闇の中、眠りに落ちた時から。
 今はまだ陽も高い午後の昼下がり、そんなはずはないって頭じゃ判っているんだけど、震える腕を退かすのに随分と勇気がいったし、声の主がそれ以上何も言わないからやっぱり幻聴だったんじゃないかって諦めもしたけど、それでも俺は腕を退かして目を見開いた。
 肩より少し長いゆるやかなウェーブの黒髪から突き出している捩じれた角、男らしい端整な異国の顔立ちに意志の強さを物語る紅蓮の双眸、上半身は褐色の素肌で異国風のズボンを穿いて…って、まるでアラビアンナイトのような出で立ちで、繁々と物珍しそうに室内を見渡している【彼】は腰に手を添えて何でもないことのように立っている。
 思わずガバッと起き上がって、狭い部屋の中だと言うのに、俺はポカンッとしてそんな信じられない、夜の闇の中で別れてしまった薄情な悪魔を見上げていた。

『人間て言うのはこんな狭いところが好きなんだな。それに、あんまりいいモン喰ってなさそうだし。これじゃいつか身体を壊しちまう…って!なな、なんだよッ?!』

 エルロイは吃驚したように声を跳ね上げたけど、俺はそんなことお構いなしで、どんな奇跡が起こったのかよく判らないんだけど、それでも消えてしまわないうちに掴まえないと…そんな気持ちが先立ってしまって、慌てて立ち上がるとそのまま薄情な悪魔の身体をめいいっぱい抱き締めたんだ。
 どうして此処に居るの?飽きたんじゃないの?俺は捨てられたんだろ…って、いろいろと言いたことはたくさんあるのに、言葉にできなかった。それよりもこのぬくもりが本物であればあるほど、不安で不安で仕方なくて、両手に触れる肌の感触を確かめるみたいに抱き締めて、俺は泣いていた。

『なんだかなー…初めはあんなに嫌がってたくせに、どんな心境の変化なんだ?』

 ブッスーと膨れツラでもしてんのか、この夢みたいに不思議な存在である夢魔は俺を抱き返すこともしてくれず、自分の両手を腰に添えてブツブツと悪態を吐いているみたいだ。
 でも、それでもいいよ。

「…俺には興味がなくなったんじゃなかったのか?それともまた退屈になったのかよ」

 グスッと鼻を啜って、エルロイの肩に頬を寄せながら質問には答えずに呟いたら、ヤツはちょっと考えているような仕種をしたみたいだった。
 だって、俺はちゃんと「好き」だって告白してるのに、心境の変化なんて酷いことを言うお前になんか答えてやるもんか。
 そんなことよりも…どんな気紛れなんだろう、今度は。

『お前の身体に興味があるって言ったらさ、ご主人が許可をくれたんだ。これからは夢の中じゃなくてこうして実体を持つこともできるようになったんだぜ』

 ああ、なんだ…俺の身体だけが目当てってワケなんだ。
 でも、まあいいや。
 エルロイを使役している何処かの偉い悪魔の粋な計らいなんだって思うことにしよう。
 失ってしまうよりも、随分と辛くないって思えるから。
 キスなんて甘ったるいことはしてもらえないけど、俺は嬉しくて、どうしてこんなに涙腺が弱いんだってジタバタしたくなるぐらい、ポロポロ頬に涙を零しながら仏頂面のエルロイを抱き締めていた。
 その間、不思議で仕方ない存在の悪魔であるエルロイは、やっぱり抱き締めてもくれずに…でも、俺の気がすむまでずっとこの両腕で抱き締めることを許してくれたみたいだった。
 きっとこの恋は報われないと思うけど、俺はそれでもやっぱりエルロイのことを好きなんだと思うよ。
 真夜中の住人だって言うのに、まるで真夏の太陽みたいに衝撃的で情熱的なエルロイが好きなんだ。

「うわッ、本当に甦ったんだな」

 駐車場の大きな木の根元のあの黒猫を埋めていたはずの場所、こんもりと土が盛り上がっているはずの部分が内側から掘り起こされているみたいに穴が開いていた。
 残っているのは土だらけのタオルぐらい。

『うわってのはひでぇ』

 しゃがみ込んで穴の周りの土を戻している俺の傍らで、黒猫は俺の腿の辺りに片方の前足を乗せて『にゃあ』と不服を言いやがる。

「そりゃ、うわッぐらいは言うだろ。昨日埋めたと思ったら復活とかするんだからなぁ…」

 でも、ふと俺を見上げるガラス玉みたいに綺麗な金色の双眸を見下ろして、俺は嬉しくて思わずニコッと笑ってしまった。そうすると黒猫のエルロイは途端に不機嫌そうに双眸を細めると、『うにゃーん』と悪態を吐く。

『お前、何やら笑って誤魔化そうとしているだろ?』

「何を言ってるんだか…ただ、でも、生き返ってくれてよかったって思ってるんだよ」

 それは俺の素直な気持ちだった。
 でも、俺のことなんかこれっぽっちも好きでもなきゃ嫌いでもないエルロイにしたら、『ふーん』ぐらいなんだろうけどね。

「大家さんにも了解もらったし、エルロイは今日から俺んちの猫だからな。大家さんってさ、意外と話の判る人だったんだ。もっと早く話しておけばよかったなぁ」

 あはははっと笑っていたら、黒猫が俺のジーンズの腿部分に片方の前足を掛けて、それからもう一方の前足で肩辺りに触れてきた。
 ん?と思って見下ろしたら、そんな俺の唇に黒猫は『うにゃ』っと一声啼いてキスしてきたんだ。
 吃驚して顔を真っ赤にしていたら、夜の闇のように黒い猫は太陽よりも強烈な金色の双眸を細めて、それからふふんっと笑うんだ。

『まあ、これからヨロシクってな』

 ああ、なんだ挨拶なのか。

 それじゃあ、俺も飛び切りのキスをお返ししなくちゃな。

「これから宜しく」

 ヒョイッと両脇に手を差し込んで抱き上げると『うにゃ?!』と慌てる黒猫の口許に、うちゅっと口付けたら、なんだか耳を伏せてしまって、尻尾も身体もだらーんとなったから、どうやら俺の方が一本取ったみたいだ。
 こうして、黒猫(悪魔)のエルロイと人間(平凡)の俺の物語は始まるワケなんだけど、俺の一方通行の恋の行方は、どうやら波乱に満ちていて、叶うことはないんだろう…でもいつか、いつかこの恋心がお前に届くのなら、その時俺は、きっと太陽のような悪魔を愛しているんだと思うよ。

■□■□■
このお話はレヴィが瀬戸内くんと出逢うずっと前のお話ッス。
なので、件の海の王様はまだ本体の姿で暢気にルシフェルんとこの城荒らしをしている最中ってことになるッスよw
でも今回の禁呪を使用したことで灰色猫の作り方を学んでたりしまッス(*´▽`*)ウヘヘヘ
光太郎って名前も意識の何処かに残ったんでしょうね。それはどうでもいいんスけど(←!!!)

3  -愚者は真夜中に笑う-

 今日も相変わらずバイトが時間通りに終わらず、先輩の車に乗っけてもらって、それから1時間の道程をやれやれと疲れた身体を引き摺るようにして歩いていた。

(あ、そうだ。この辺りで黒猫に出逢ったんだっけ?)

 アイツ元気かなぁ~、今日はチータラはないけど、カニカマならあるんだけど。
 あの猫がいないか塀の上を見上げてみたけどいなかった。
 周囲を見渡すんだけど、丑三つ時の午前2時過ぎでは人気もないし、あんなに夜の闇がよく似合う、あの黒い猫もいないみたいだった。
 不意に不安になって…どうして猫ぐらいでそんなに不安になるのかよく判らないんだけど、嫌な予感ってヤツは、嫌だと思えば思うほど実によく当たりやがるから、俺は焦燥感に駆られるようにしてあの風変わりな人懐こい、夜の闇の中でもとても綺麗な黒猫を探していた。
 探して、探して…そして俺はとうとう見つけたんだ。
 電信柱の影で蹲るようにして死んでいる黒い猫を。
 自動車にでも撥ねられたのか、悪いモノでも喰っちまったのか、それとも悪い人間に酷いことをされたのか…頭の中をグルグルと纏まらない考えばかりが渦巻いていたんだけど、俺は無言で屈みこむと鞄からタオルを取り出して、もう冷たくなって魂を何処か遠いところに手離してしまった黒い猫の身体を包んでやって抱え上げた。
 きっと怒られるかもしれないけれど、なんだか傍に置いておいてやりたい気がして、アパートの駐車場の傍にある大きな木の根元に埋めてやった。
 名前なんか知らない木の根元だけど、大学卒業してもここに住む予定だからいいよな?
 ポロッと頬を零れ落ちる涙は、小さな生き物に届けばいいお別れの涙だ。
 掘り起こされたばかりの土の匂いを嗅ぎながら、これから自然に還るあの物静かで優しい黒い猫を思えば、最初は酷いことしたなぁって悪い記憶が甦ってしまう。
 初めから懐いていたのに俺は邪険にして、でもそれでも変わらず俺の傍に居てくれようとした黒い猫、もっと大家さんに相談して飼えるように掛け合えばよかった。
 俺と暮らしていればこんな悲しいことにはならなかったはずなのに…

「はぁ…泣いてても仕方ないか」

 グスッと鼻を啜って、俺は袖で涙を拭いながら立ち上がると、判らないようにコソッと置いたカニカマの所で手を合わせてアパートの部屋に戻った。
 バイト帰りにお出迎えしてくれるあの猫はもういないんだなぁと思うと、柄にもなく感傷なんか沸き起こるけど、それはそれで、俺はあの猫を本当に気に入っていたんだなぁと再認識した。
 洗面台で手を洗ってからそのまま風呂に入って、それから倒れ込むようにして狭い部屋を占める万年床にダイブする。
 今日は嬉しかったりガッカリしたり大変な一日だったよな、せめて夢ぐらいは幸せであればいいなぁ…

 ウトウトとしていてふと目覚めると、自分ちにこんな豪華なベッドとかあったっけ?
 やわらかな羽毛?の枕が幾つも重なっていて、肌触りのいい掛布団とスプリングの効いているベッドは豪華な天蓋付きだ…なんだ、ここは?
 ふと、上半身を起こして見てみれば、ベッド以外は漆黒の闇ばかりがただただ広がっていて…そこで俺はハッと気付いちまったんだ。
 あの夢だ!
 泡食ってバタバタと起き上がろうとしたら、そんな俺の腕を褐色の腕が掴んで引き留めた。

『なんだよ?何処に行くんだよ』

「やっぱりお前か」

 でも。

「エルロイ…生きていたんだな?あの黒い猫ってお前だったんだろ。死んでしまってさ、もう逢えないかと思った」

 上半身だけ起こした形で引き留められている腕はそのままで、俺の隣で大型のネコ科の肉食獣みたいに頭を片手で支えて寝そべっている夢魔のエルロイの頬に伸ばした掌で触れてみた。
 抱かれている時も感じたんだけど、夢の中だと言うのにエルロイの存在はとてもリアルで、その体温すら感じられるんだからスゲーよなぁ。
 よかった、コイツが生きてて…そう思ったら嬉しくて、あんな酷い事されたってのに憎めない俺はもうどうかしてしまっているんだろう。

『…お前はヘンなヤツだなぁ?アレだけ邪険にしたくせに死んだら泣くのか??全くよく判らんよ』

 ゆるやかなウェーブの黒髪も捩じれた角も、褐色の肌に鋭い紅蓮色の瞳…どうやら俺の産物ではないらしい夢魔のエルロイは本当に不思議そうに目を瞠って俺を見上げている。

「そうかなぁ…誰だって、心を許したヤツが死ぬのは哀しいと思うんだけど」

 そんなに不思議がるほどのことなんだろうか?

「そもそも、蹴った時の方がどうかしてたんだしさ」

 唇を尖らせて眉根を寄せたら、エルロイはふと、伸び上がるようにして、それから俺の腕を引き寄せながらキスなんかするから、そのままやわらかなベッドに倒れ込んでしまった。

「??」

『まあいいさ。今夜でお前と遊ぶのも最後だし、いつも女たちに使っている場所を用意してやったんだからじっくり楽しもうぜ』

 頬に蟀谷に口付けていたエルロイがニッと鋭い犬歯を覗かせて陽気に笑うから、俺は呆然としたようにそんな悪気のなさそうな夢魔を見上げていた。

「…え、今夜で最後なのか?」

 どうして、そんな言葉が口を滑り落ちたのか。
 別にこんな不毛な行為は…と言うか、こんな夢なんか見る必要ないじゃないか。俺はゲイじゃないんだから。
 でも、たった3日間だったけどエルロイの存在は強烈で、その存在がふと消えてしまうと思うと、心にポカッと穴が開いたような気持ちになっていたんだ。

『ああ、オレにも仕事があるからな。随分、女のところに行ってないんで仲間にどやされてるのさ。それに、男の身体についてもよく判ったし、何より楽しかったからもういいんだ』

 ズキリッと胸が痛んだ。
 ああ、そうだよな。悪魔なんか気紛れで人間を誘惑して、楽しんだらポイだもんな。  命を取られないだけまだマシなのかなぁ…
 そんなことを考えている間にもエルロイは俺の身体に触れてきて、その時はもう彼がその気にならなくても俺の身体は充分反応するようになっていた。現金なもので、昨日の甘ったるいセックスに俺の身体は何かを許してしまったのか、ヤツの指先も舌も喜んで受け入れているみたいだ。
 でも何故だろう、心が追いついてくれない。
 エルロイは悪魔で、みんなが言うように甘い仕草で俺を唆し、何もかも攫って行ってしまうんだろう。
 鎖骨や胸元にキスをして、それから既にはち切れんばかりに勃起しているその部分をサラッと無視したエルロイは、まるで悪戯みたいにその周りばかりきつく吸うから、俺は思わずその綺麗な黒髪に指を絡めて喘いでいた。
 こんな風に心の中は恐慌状態だって言うのに、愛撫を施されれば身体は素直に反応するんだから、男ってのは本当に悲しいぐらい即物的だ。
 含んでくれない意地悪な悪魔の捩じれた角に触れたら、ヤツは仕方なさそうにペロリと舐めてくれる。
 堪え性のない俺がビクンッと身体を震わせたら、エルロイはまたしても吃驚した顔をして俺を見上げてきた。
 そんな顔で俺を見んなよ。

「…だって、気持ちよかったんだ。仕方ないだろ」

 真っ赤になって目線を逸らしたら、ヤツは何を思ったのか、ニヤニヤと笑いながらキスしてきたんだ。

『早いな~?連日ヤッてて溜まってないはずだろ。何故なんだ?』

「だから…気持ちよかったんだよ」

 こんなこと言わせるなよ、恥ずかしいなぁ。

『ふーん…じゃあ、オレも早く気持ちよくなろうかな』

 前戯だとか愛撫だとかそんなモノしなくても、夢魔の力だとすぐに挿入できるそうなんだけど…エルロイの場合は、挿れた後に愛撫するのが好みらしい、と言うのも昨夜身を持って知ったことなんだけど。

「んッ」

 それでもやっぱり最初は痛い。
 狭い器官を抉じ開けるようにして先端が入ってくる時は、何かに縋らないと痛みで泣きそうになるけど…最後の夜は、ちゃんと両手でエルロイの背中に腕を回せるようになっているから、俺は初めてこの綺麗で不思議な夢魔に抱き付いてその衝撃を遣り過ごしていた。
 痛みに滲む目許の涙を唇で掬って、それからエルロイはうっとりと気持ち良さそうな、とても蠱惑的な顔をして俺を見下ろしてきた。

『お前の胎内は最高だよ。胎内に入る度にそう思う。なあ、ちゃんとオレを感じてるか?』

 奥まで貫かれて喘ぐ俺はコクコクと頷いたけど、何が気に喰わないのか、夢魔は突然不機嫌そうに激しく腰を入れてくるから、俺は痛みと、昨日覚えた快感の在り処を激しく責め立てられて身も世もなく泣きたくなった。

「うぁ!あッ…あ!…ひッ」

 堪らずに抱き着くと引き剥がされて、それから激しく濃厚なキスをされてクラクラしてしまう。

『最後なんだしさ。オレの名前を呼べよ』

 ああ、またそれだ。
 昨夜も最中に散々呼ばされたってのに、どうしてそんなに名前を呼んで欲しいんだろう。俺の…俺の名前は読んでもくれないのに。

「え、エルロイ…」

 好きだとかそんな言葉、絶対に言えない。
 俺の胎内にいる男はこれが最後だと言って、【別れ】について少しの感慨もないみたいだ。それなのに、俺だけが馬鹿みたいに薄情な夢魔に未練を残して、心までも持って行かれそうになっているなんて。
 知らずにポロッと涙が零れて、そうして、熱に浮かされた人みたいに虚ろだったかもしれないけど、哀しい眼差しのまま、どこか焦っているような奇妙な表情をする男らしい端整な顔を見詰めていた。

『どうしてそんな顔をするんだ?気持ちよくないのか??』

「気持ち…ッ、いいよ…ゥッ」

 熱に浮かされて笑ってはいるけど、揺すられる度に涙が頬に零れているみたいだから、ああ、俺は本当にエルロイから離れたくないんだなぁ。そんなこと、この薄情な夢魔には判りっこないんだろうけどさと確信めいた感じで思っていた。
 お互いの腹には俺が何度も放った白濁としたモノが飛び散って、それが一層、ねちゃねちゃと淫猥な音を立てながら、より深く交わっていることを物語るんだけど、だからこそ余計に俺に喪失感を植え付けるみたいだ。
 掻き抱くように後ろ頭に腕を添えてキスしながら、片足をこれ以上はないぐらい抱え上げられて、激しい動きで腰を打ち付けられると快感に嘆くように翻弄される俺の胎内にエルロイは灼熱のように熱い奔流を注ぎ込んだ。
 荒い息を吐き出して泣く俺の胸元に頬を寄せて抱き付いていたエルロイは、ふと不機嫌そうに上体を起こして、ムッツリとした顔付きで俺を覗き込んでくるんだよ。

『なぜ泣くんだ?』

 純粋なのか姑息なのか、よく判らない夢魔と言うこの男は、本気で何故俺が泣いているのかよく判らないと言う表情で、男前の双眸を細めて顔を曇らせている。

「…悲しいからだよ」

 俺はそんな風に薄情にはなれないし、こんな形でも身体を繋げてしまった相手に、快楽の虜になったから…とかそんな感情だったらもう少し楽だったんだろうけど、心の奥深いところがほっこりとあたたかくなる気持ちを知ってしまって、唐突に一方的な別れを切り出されれば泣きたくもなるさ。

『え?なぜ悲しいんだ?』

 お前のように俺は遊びで男と寝れるほど図太くないし、抱き締めた身体から仄かに香るあの柑橘類のような爽やかな体臭も、イく寸前に見せるあの男らしい双眸も、口付けてくれる少しかさついた唇も、何もかも忘れることなんかできるワケがない。

「それは…俺が」

 興味本位の遊びだったって告白されているのに、俺はいったい何を言おうとしているんだろう。
 こんな、妄想の産物であるはずの、夢魔とか言うふざけた男に。

「お前のこと、好きだからだよ」

 ポロポロと気付けば泣いてばかりだけど、別れなんてこんなモンなんだ。
 いつも好きになると必ず離れなければいけなくなるのは、俺に運があるとかないとかじゃなくて、相手も好きになってくれてるんじゃないかって期待して、俺が勘違いばかりするからなんだろう。

『何を言ってるんだ?好きなら抱かれれば嬉しいだろ。どうして泣くんだよ?』

 お前がいなくなるから…溜め息のように呟いたら、どうやらエルロイのヤツは呆気に取られたみたいだった。

『オレはさ、悪魔だから愛するってことがよく判らないんだ。だから、お前に好かれてもオレは応えられない』

「俺のこと嫌い?嫌いならそう言ってくれたら忘れられると思うんだけど」

 覗き込む紅蓮の双眸を見上げながら、俺はポロポロと泣きながら苦笑して呟いた。
 嘘でも本気でもどっちでもいいから、嫌いって言って欲しい。
 そうしたら、また諦めることができるから。

『嫌いでも好きでもないさ。オレには判らないって言っているだろう?お前の胎内に挿れるのは楽しかったし、良い退屈凌ぎにはなったと思っている』

 殴れたら少しはスッキリしたんだろうか。
 でも、俺はそうすることができなかった。だってさ、きっと悪魔のエルロイには人間の持つ気持ちとか本当に判らないんだと思うから。

「そっか…」

 何とも言えない複雑な表情で見下ろす不機嫌そうなエルロイの頬に手を添えて、それじゃあと言って、俺は最後のキスを強請ってみた。
 そう言うとエルロイは少しホッとしたようで、長い睫毛が縁取る瞼に紅蓮の双眸を隠して、最後の深い口付けをくれた。
 でも俺は、やっぱりポロポロ零れる涙を引っ込めることができなかった。
 さようなら、俺の恋心。

 チチチ…ッと、鳥の声がするおんぼろアパートの一室、万年床の上で起き上がって涙を零しながらぼんやりと布団を掴んでいた。
 ああ、こんな時こそ忘れさせてくれればいいのに…悪魔はなんて悪戯で薄情なんだろう。
 たった3日間の邂逅だったって言うのに、俺はなんだか一生分の涙を流したみたいだったし、心をもぎ取られたような痛みをこれから長いこと抱えて行くんだろうなぁと覚悟もしたみたいだった。
 気紛れな夢魔が戯れに遊んだだけだよって言ってくれたのにさ、心までガッツリ持って行かれちまうなんて、俺って馬鹿だよなぁ…

「はぁ…」

 万年床の上で体育座りみたいにして膝を抱えた俺は、その上に頬を乗せて溜め息を吐くと、忘れたくても忘れられない、あの熱い情熱を物語るような紅蓮の双眸を思い出していた。
 すごく悪魔らしくってさ、思わず笑っちゃうぐらいカッコよかったなぁ。
 3日間で身体に叩き込まれたのは淫靡な快楽だけじゃなかった…エルロイって言うとても不思議な悪魔のたくさんの仕種と切ない表情、それと彼に対する俺の恋心…とか。
 恋ってヤツはすごいなぁ…あんな風に妙な感じで因縁を吹っ掛けられただけだったってのにさ、ましてやその、れ、レイプ紛いに抱かれたって言うのに惚れてしまうなんて、昔の俺だったら絶対に考えられなかった。
 なのに、あのエルロイや黒猫に触れて、俺の心はすっかり柔軟になっていて、抱かれている間じゅう、もしかして愛されてるんじゃないかとか勘違いして恋をしてしまうなんて…

「…あ、そうか。エルロイはこのことを言っていたんだ」

 泣きながらキスされた時、俺の胎内に入った時、愛されてるって感じたって言ってた。
 でも、悪魔は人間と違うから、俺みたいに勘違いして好きになることはないんだな…エルロイが人間だったら、俺はもう少し頑張れたのに。
 もう、捜しても見つけることなんかできないんだから、頑張ることもできやしない。
 悪魔なんて何処を捜せばいいんだよ、ヘンな魔術本で召喚とかするのか?そんなの、違うヘンな悪魔が出てきたらどうするんだよ。

「あーあ。本当に完全にフられたんだなぁ…とか言って、相手もされていなかったのに、馬鹿だなぁ、俺」

 天井を見上げて頬を伝う涙はそのままで、消えてしまった悪魔に恨み言すら言えずに、俺は暫くそうして、部屋の中で蹲って泣いていた。

2  -愚者は真夜中に笑う-

 目覚めの悪い朝に違和感を感じながらも、大学生の身としては勉学に勤しむ必要もあるワケだから、身体の不調をやり過ごしてアパートを出た。
 初夏の涼しい風と眩しい太陽、突き抜けるような空…と、どれをとってみてもウキウキするような季節だと言うのに、どうして俺の気持ちは冴えないんだろう。
 そんなこた充分判ってるさ、俺は道すがら、蹴ってしまった猫の安否を気にしていたんだ。
 講義の間でさえ気になったし、いつもなら馬鹿笑いをする仲間内での猥談にもうわの空で、いったい俺はどうしちまったんだろう?ただの猫なのに…
 昨日は遅くまで有難うってことで、バイトも定時で上がらせてもらえたし、俺は夕飯をコンビニで調達してからあの夜の闇みたいに綺麗な黒猫がいないかと歩きながら捜していた。

『にゃあ』

 ふと、暗い気持ちで電柱の影なんかを捜索している俺の耳に甘えたような声が聞こえて、ハッと顔を上げたら塀の上で寝そべっていたのか、んーっと伸びをした黒猫が欠伸をしながら塀の上から降ってきた…んだけど、昨日蹴られたせいか、距離を取って少し警戒しているみたいだ。

「お前ッ!…よかった大丈夫だったんだな??朝いなかったから、どうかなっちまったんじゃないかってスゲー心配してたんだよ。良かったよー」

 元来猫好きな俺としては、警戒されているにも拘らず、それでも黒猫が高い塀の上から身軽にヒョイッと降りて来たところを見て盛大に安堵してしまっていた。

「あ、そうだ!ほらほら、コンビニで買ったチータラだけどお前喰うだろ?昨日のお詫びな」

 俺は屈みながら手に持っていたビニール袋からさっき買ったばかりのチータラの袋を取り出して、本当は野良猫に餌をやるのも拙ければ、チータラなんて塩分の強い食い物をやるのも拙いんだけどさ、それでも無事な姿を見せてくれた黒猫になんかあげたくて仕方がなかったんだよ。
 猫は『うにゃぁ?』と不審そうな声を出したものの、でっかい金色の瞳で俺を見上げたまま、恐る恐る近寄ってきて、それから俺の手許にあるチータラの匂いを嗅ぐと、ゴロゴロと咽喉を鳴らしながらパクンと咥えてアグアグと喰い始めた。
 そのピンッと尖っている両耳の間の部分や、柔らかな被毛に覆われたなだらかな背中を撫でながら、あの時はどうしてあんなことをしてしまったんだろうと俺がしんみりと反省していたら、チータラを喰い終わって満足そうにペロペロと口許を舐める猫が顔を上げて、それから懐いたみたいに屈んでいる俺の足許に擦り寄ってきた。
 そう言えば、この闇に溶けてしまいそうな綺麗な黒猫は、最初から俺にその身体を摺り寄せて懐いているみたいだった。
 首輪がないからきっと何処かの飼い猫が捨てられてしまったんだろうな。そうじゃないと、こんな綺麗な野良猫はいないだろ。

「ごめんな、飼ってやりたいんだけどさ。俺んちアパートで飼えないんだよ」

 見上げてくる黒猫に申し訳なさそうに笑って、俺はその小さな頭にぴょこんっと立っている耳を押し潰すようにしながら、やわらかく艶やかなその頭を撫でながら言った。その言葉を、猫はどう感じたのか、『にゃあ』と一声啼いてからふいっと踵を返して闇に消えるみたいにして何処かに行ってしまった。
 その後ろ姿を見送っていて、俺はふと焦燥感を感じたが、それ以上に奇妙な既視感を感じていた。
 あれ?いつかこんなことがあったんじゃなかったっけ??
 何処かの橋の上で俺…確か今みたいに黒猫に…後ろ姿が。
 そこまで考えて、俺は首を傾げたものの、首を左右に振って余計なことを考えるのはやめることにしたんだ。だってさ、結局何にも思い出せないんだし仕方ないよ。

 昭和の時代にでも建てられたんじゃないかと思えるほどおんぼろのアパート(これなら猫の一匹ぐらい飼ってもいいんじゃないかって思えるけど)に戻った俺は、それでもバストイレ付の好条件は捨て難いから、溜め息を吐きながらも鉄製の階段を上がって自室に辿り着いた。
 今日は講義もバイトもスムーズで、何しろあの黒猫がどこも痛めていないようでホッとした。
 ちょっと浮かれた気持ちでシャワーを浴びてから、レポートを書く気にもなれずに、そのまま上機嫌で万年床にダイブして枕を抱えて瞼を閉じた。
 今日はいい夢を見られるんじゃないのか?とかニヤニヤ思いながらウトウトしていたら、不意に腕に違和感を感じてぼんやりと目を覚ました。
 腕を上に引っ張られる形で吊るされて、オマケに全裸。見渡す限りの漆黒の闇…ってこれ?!
 そこで俺は漸く完全に覚醒して…とは言っても夢の中なんだが、昨夜の夢の内容を思い出して真っ青になってしまった。
 そうだ、どうしてあんな強烈な夢を忘れていたって言うんだ!!?俺は、想像とは言え自分で作り出したなんかよく判らん、悪魔のコスプレをしたヘンなヤツに、その、思い切り、その、お、犯されちまったんだった!
 夢とは言え、どんだけリアルなんだと信じられなかったけど、なんだ、またあの夢を見ているのか?!
 それなら、早く目覚めないと、早く…

『なんだ、今日はやけに可愛らしいことをしてくれたじゃないか。少しは反省したのか?』

 ぎゃあ!やっぱりこの声だッ。

「なな、なんでまたお前が夢に出てくるんだよ?!俺、そんな変態趣味は持っていなかったと思うんだけど…今度は罪悪感とかないから!消えてくれていいからッ!!」

 背後から聞こえるニヤニヤ笑っているみたいな声に総毛だって、慌てて背後を振り返ろうとしたんだけど、今回はガッチリ固定されているみたいで振り返ることはできないようだ。だから余計怖くて、俺は暴れながら言い募ったって言うのに。

『別にオレはお前の罪悪感が見せている幻なんかじゃないぜ?オレは夢魔のインキュバスでエルロイって言うんだ。お前は里舘光太郎だろ?』

「え…?どうして俺の名前を、って!そうかこれは夢なんだ。名前ぐらい知ってて当たり前か。つーか夢魔ってなんだ??インキュバスって???」

 俺そう言う中二病ちっくなことに疎いのに、よくこんな夢を見てるな。
 背後から淡々と話しかけられるのは正直全く気分は良くないが、見なくても、きっと昨夜の真っ赤な目をしたゆるやかなウェーブの黒髪の頭に捩じれた角の生えている、褐色の肌の悪魔もどきが上半身裸で立ってるんだろうってことは容易に想像がつく。

「!」

 ふと、ほんの気紛れみたいにエルロイって名乗ったどうやら夢魔?ってヤツらしいソイツは、鋭い爪を持つ指先で俺の首筋を撫で、それから後ろ髪に触れたみたいだった。
 その瞬間、昨夜も感じた怖気みたいなものが背筋を舐めるように這い上がって、それから、やっぱり俺は勃起していた。

「ええぇぇぇ…??!」

 もう何がなんだか判らなくって素っ頓狂な声を上げると、背後でプッと吹き出す気配がして、それからやんわりと俺を抱きすくめたりしたんだけど…さっきの怖気みたいなものも快感も少しも感じなかったから、それで俺はちょっとホッとして首と腹に巻きついているエルロイの褐色の腕を見下ろしていた。

『これで判っただろ?オレがその気になればお前を天国にでも地獄にでも落としてやれるんだぜ。昨夜は酷くしたから、今夜は思い切り可愛がってやるよ』

「…いいッ、いらんッ!いりません。俺のことなんか放っておいてくださいッ」

『そんなつれないこと言うなよ。オレは男は初めてだったからもっと男の身体を知りたいんだ…それに』

 その腕から逃れようと暴れる俺なんか平気で抱き締めて、こめかみや頬、首筋にキスをしながらにんまり笑ったんだろうエルロイは言ったんだ。

『お前の胎内はすごく良かった。すごく狭くてぬるぬるしてて…女もいいけど、絡みつく感じがまた全然違うんだ。なんて言うか即物的でそれでいて愛されてるんだなって感じた』

 全部お前の妄想です。
 青褪めて引き攣っていたからか、喉の奥に引っ掛かった声が出てこなくて、俺はぶんぶんと首を左右に振っていた。

『オレは悪魔だから愛するとかよく判らないんだよ。でも、お前がオレに突っ込まれて泣きながらキスした時は、なんて言うかやわらかくて、これが愛されてるってことなのかって思ったよ』

 いやいやいやッ、犯されているのに愛してるっておかしいでしょ?!おかしい表現でしょ、それはッ!

「うぁ!」

 必死で否定しようとしている俺の腹を、胸元を、エルロイの掌が探るように蠢いて、忘れていた快感がずんっと身体の芯を貫いたみたいで、俺はバカみたいな声を出してしまっていた。

「や!嫌だ…あッ、あ!…いや、ぅあ…ッッ」

 背後から俺の膨らみもない胸や肉付きの悪い腰を探りながら首筋を舐めて、褐色の腕はゆるゆると俺の下腹部まで到達すると、勃起しているそれを確かめるように掌に包み込むから、俺は耳まで真っ赤になって気弱に首を左右に振ってしまった。

『嫌なんて言うなよ。ほら、よくしてやるから』

 ねっとりと執拗に弄られて、俺の先端からは早く早くと強請るように先走りが滲んでいるんだけど、鈴口にぐにっと指を押し当てられただけで―――…

「ぅんッ、ひ…ッ」

 悲鳴のような声が上がったと同時に、俺は吐精していた。
 その快感たるや相当なもので、自分でヤるよりもはるかに気持ちよかった。
 ぶるぶる震える敏感な身体を撫で回されて…ああ、これ以上触られたらおかしくなりそうだ。

『いっぱい出たな?なんだ、溜まっていたのか。でも、な?気持ちいいだろ。オレ、こう言うのが得意なんだ。女だったらご主人の命令以外ではヤれないんだが、お前は男だから、そしてオレはサキュバスじゃないから自由にできるのさ』

 暢気な口調で陽気にそう言ってべっとりと俺の精液を掌に受け止めているエルロイは、胸が苦しくて死にそうな俺なんかまるで無視して、『これじゃあ傷付くもんな』とかなんとか言った後、荒い息を繰り返す俺の背中にしっとりと裸の胸をよせて、そして白濁したモノに汚した指先を…あんなに鋭い爪があったその指先を、俺の唯一男を受け入れるあの狭い器官に潜り込ませたんだ。

「!」

 そうなるんだろうなって判ってはいたけど、あれだけの激痛にノックダウンさせられそうになったってのに、今日のその部分はまるで女みたいにしっとりとヤツの指先を含んで、それから強請るように絡みついているみたいだ。
 ああ…なんだろう、この腹の底がむず痒いような感覚は。

「ぅ…ふ……ァ…あ」

 淫靡な湿った音を、無限にも思える暗黒の空間に響かせて、抑えきれない声が、誰の声だよって喚き散らしたくなるぐらい淫らな声を上げて、俺は手許を拘束する鎖を縋るように掴んでいた。
 そうじゃなかったら膝から力が抜けて、そのまま倒れそうになる。

『…うん。指に感じてるみたいだな。はぁ、胎内を触ってるだけでオレも感じてるよ。なんだろう?この感覚は』

 エルロイは不思議そうに呟いて、それから俺を拘束している鎖がジャラジャラと音を響かせて落ちてくるのと同時に、俺は引力に逆らえずにそのまま前のめりに倒れてしまった。
 指を突っ込まれて掻き回される腰だけを高く掲げて、両腕を拘束されている上半身はさほど硬くない床に倒れ込んでしまった。

「ア!…ぁぁ…ッ」

 いつの間にか増やしていた指を乱暴に引き抜いて俺を喘がせると、エルロイは不意に俺に伸し掛かりながら耳元で荒い息を吐ついて囁いた。
 その声はとても淫靡で、それだけで俺はイッちまいそうになった。

『女とヤッてもあんまり感じなかったのに。お前が男だからかな?まあいい、お前の胎内を楽しませてくれ』

 ず…ッと、音を伴うような感覚で、不意に血管の浮かんだ灼熱の棍棒みたいなソレが、俺の胎内を切り開くようにして入り込んできた。昨日はあんなに痛かったのに、そのむず痒いような速度に焦れて生理的に浮かんでいる涙がポロッと頬を零れ落ちた。
 こんなはずじゃないのに、こんな行為は嫌なのに…
 拘束された両腕を延ばして、何かに縋ろうと、いや何に縋りつけるんだこんな状態で。

「あ、あ、ぅ…んッ、……ぅあッ」

 涙を零す俺に伸し掛かったままで強弱をつけて腰を揺らめかすエルロイは、背後から首筋や涙に濡れる頬に口付けながら荒い息を吐いて嬉しそうだ。

『ああ、やっぱりだ。お前の胎内は熱くて…すごく感じるよ』

 勃起して痛々しいほど涙を零す俺の股間に指を這わせて、首を激しく左右に振っているのにエルロイは許してくれなくて、俺はすぐに吐精してビクビクと蹂躙されているはずの狭い器官に力が入ってしまう。
 そうするとエルロイは気持ち良さそうに吐息して、その息が首筋にかかるだけでまた勃起する…なんか酷く発情しているみたいで本当は恥ずかしいのに、それだってすごい感じてるんだから俺って馬鹿だよな。

「あ…ぁあ…ル、ロイ……どうして、こんな…ぅあッ、……ッ」

『え?オレの名前を呼んだのか??え、こんな時に?どうしてだ…?』

 開けっ放しの口許から唾液が零れる俺の口の中に指を突っ込んで、口腔まで蹂躙したいようなエルロイの指が離れたほんの一瞬、自分が何を言いたいのかも判らない熱に浮かされて呟くように言っただけなのに、俺の胎内を充分堪能していたヤツはそれこそこんな時だってのに吃驚したように声を上げたんだ。
 なんか、感じまくって発情しまくってんのは俺一人じゃないかって思えるよ、トホホホ。

「ッ!」

 不意に胎内に入ったままだって言うのにぐるっと向きを変えられて喘がされたけど…って、俺そんな細身じゃないはずなのに、この悪魔みたいな…いや、夢魔なんだから悪魔なのかな…コイツはどれだけ力強いって言うんだ。
 拘束された両腕を一掴みにして、馬鹿みたいに惚けた顔で頬を上気させている俺の双眸を、エルロイは目尻を欲情の色に染めているものの、やたら闇の似合わないキョトンとした紅蓮の双眸で覗き込みながら不思議そうに呟いた。

『オレの名前を呼ぶなんて信じられない。大概の女はオレのご主人に許しを請うのに。やっぱり、それはお前が男だからなのか??』

 ああ、なんて顔をしてるんだろう。
 どうしてコイツはこんなに綺麗なのに、こんなすっ呆けたことを言っているんだ。

「?…に、言って??だって…ッ、お前が俺を抱いているのに、知らないヤツの名前なんか呼べないよ…ッッ」

 尻に深々と穿たれているモノはお前自身じゃないか、何を言ってるんだろう。
 ゆるやかな波打つ綺麗な漆黒の髪に捩じれた角、褐色の肌に端正に整った顔の中で情熱的に揺らぐ紅蓮の瞳を持つ、たいそう不思議な存在のエルロイは、それはそれは不思議そうな顔をしていた。

「んぁ!…あ、あ…も、ダメッ」

 そんな顔をしたままで俺を揺するから、俺は両手を拘束された不自由な体のままで、もう数えきれないほどの高まりに導かれてしまう。

『オレの名前を呼んでみろよ。オレの名前を呼びながらイけよ』

 何か憑かれたように何度もそう言うエルロイの声を聴いて、俺は仰け反るようにして身体を硬直させながら、ハラハラと涙を零して彼の名前を呼んでいた。

「あ!…える、ろい……アァッ…ぅあッ…え、エルロイ!」

 もう何度目か判らない吐精の瞬間、エルロイは驚いたみたいに吃驚した顔をしたけど、それでも俺の胎内に彼の奔流が叩きつけられて、なんだか俺は、どうしてそう思ったのかよく判らないんだけど、とてもとても嬉しかったんだ。

 チチチ…ッと鳥の声がする。
 俺はぼんやりと万年床の上に起き上がって布団を掴んでいた。

「…んー…」

 ボリボリと頭を掻きながら朝の陽射しの挿し込む狭い部屋の中で、俺はなんだか夢を見ていたようなのに、その内容が思い出せずに綺麗さっぱり忘れているみたいだ。
 なんか、前もこんなことがあったような気がするんだけど…

「ん?な…まえ??えーと…何だっけ?」

 なんだか思い出しそうで思い出せない焦れったさに、苛々していたものの、でも心は妙にスッキリして気分は爽快だし、きっといい夢を見たに違いない。

「まあいいか、なんか今日は気分もいいし♪」

 胸の奥があったかいこの感覚は…なんだか馬鹿みたいだけど、まるで恋でもしているみたいだ。そんなこっぱずかしい夢でも見てしまったのかな。
 でも、それならそれでいいや。
 もう、あんな悲しい恋はしたくない。せめて夢の中だけでも幸福で幸せな恋ができるのなら、きっとそれは幸せなことなんだと思う。
 俺は起き上がると伸びをして、それから欠伸なんかしながらバスルームに向かった。

1  -愚者は真夜中に笑う-

 その日の俺はかなりムシャクシャしていた。
 バイトがなかなか終わらなくて焦っていたってのに、結局終電を逃しちまって、たまたま近くまで行くって言う先輩の車に乗っけてもらったまでは良かったけど、降りた場所はアパートから1時間も歩かなきゃならないわで、ホントに踏んだり蹴ったりだった。
 その上、提出しないといけないレポートは明後日までなんて悪夢に、できれば誰か引っ叩いて起してくれねーかなとか思ってしまった。
 急ぎ足で誰もが眠る丑三つ時、2時を少し回った人通りの全くない寂しい道を歩いている、そんな凶暴な思いを抱えた俺の足許に、突然塀の上から降って来た真っ黒い猫が『にゃあ』と啼いて擦り寄って着たりするから…

「うるせーんだよッ」

『ぎゃんッ』

 俺は思わず蹴飛ばしてしまっていた。
 日頃はこんな凶悪な気持ちなんて持つこともないし、ましてや擦り寄ってくる野良猫を蹴飛ばすなんてことは絶対しなかったって言うのに、その日の俺は本当にどうかしていたんだと思う。
 闇夜に紛れてしまうほど黒い猫は蹴飛ばされて、道路の上をスライディングしたものの、ゆっくりと起き上がるとよたよたと俺の傍まで近寄ってきて、黄金色の大きな瞳で見上げると、やっぱり『にゃあ』と啼いたんだ。

「~~ッ」

 その怒ってもいないし、ましてや恨んでもいないような綺麗な瞳を見て、その時になって漸く自分が仕出かしちまった事の重大さに気付いたんだけれども、強情で素直じゃない俺は謝ってやることも怪我を心配してやることも忘れて、そのままそんな黒猫を無視して足早にアパートまで歩いて行った。
 にゃーんにゃーんと啼いて呼ぶ猫のことなんか無視して、とうとう振り返ってもやらなかった。
 きっと、痛かったに違いないだろうに…

 おんぼろアパートに着いて古い鉄製の階段を駆け上がって、嫌な気分だったってのに、自分のせいでますます嫌気がさしていた俺は、乱暴に鍵を開けて部屋に転がり込むと、こんなアパートでも風呂付を選んでいて良かったんだが、シャワーもそこそこに万年床に潜り込んで眠ることにした。
 バイトの疲れに加えて1時間近くも歩いたせいか、その時の俺は草臥れていたんだと思う。あんな嫌なことをしたんだから緊張して感情が昂っていてもちっともおかしくないし、それで眠れなくなるんだろうと思い込んでいたってのに、よほど疲れちまっていたんだろうなぁ、俺は程なくして深い眠りについたみたいだった。
 ウトウトしていて、ふと腕に違和感を感じで目が覚めたはずなのに、辺りは見渡す限りの漆黒で、気付けば俺はどうやら全裸で吊るされているようだ。

「???!」

 細い鎖のようなのに力いっぱい引っ張ってもビクともしないし、何より、この完全な闇はどう言うことなんだ?!
 …ああ、そうか。俺は夢を見ているんだ。
 どんな悪夢に魘されるんだとうんざりしていたら、不意に背後に人の気配がして、俺は咄嗟に自分が全裸であることに気付いて赤面したものの、これは俺の夢んだからきっと綺麗なお姉ちゃんが魅力全開で登場していつもみたいに派手にエッチなことをするんだろうと思った。
 いつものエッチな夢にしては珍しいシチュエーションだな。

『よくも蹴ってくれたな』

 不意に野郎の声がして、俺は思わず「え?」と声を出して振り返ってしまった。
 そこに立っていたのは鼻の頭に皺を寄せて下唇を突き出した、真っ赤に滴るような紅い虹彩を持つ褐色の肌の、ゆるやかなウェーブが肩を覆う漆黒の髪と、それを突き出して覗く捩じれた角を持つ、どうやら外見は悪魔みたいな野郎が、豪く不機嫌そうに腕を組んでいたんだ。
 呆気に取られて目を瞠る俺に、ヤツは黒髪を掻き揚げながら不機嫌そうに言いやがった。

『夜道に独りじゃ不用心だからってほんの気紛れで懐いてやろうと思ったのに、なんだお前は。ひ弱な猫を蹴るなんて上等な根性をしてるじゃないか』

 苛々としている感じはビンビン伝わってくるのに、この俺の夢の産物であるはずの悪魔みたいな男は、態度のワリには冷静な口調でブツブツと悪態を吐いている。

「…猫には、悪かったと思ってるんだ」

 それでも痛いところを突かれた為か、罪悪感に苛まれていたせいか、俺はモゴモゴと口籠るように言い訳を試みてしまったんだ。

『悪かっただって?そんな綺麗事で許されるとでも思っているのか?』

 禍々しいほど真っ赤な紅蓮の双眸で俺を睨み据えるソイツは、いや、この際悪魔と呼んでも間違いじゃない出で立ちの…と言うのも、上半身は裸なんだけど、下半身はジーンズみたいなズボンを穿いているから角だけで一概に悪魔と呼ぶのもどうなんだろう?そんなコスプレでもしてるキャラを登場させるぐらい、俺の脳内は何かに汚染でもされてるんだろうか。

「朝にでも様子を見に行こうと思って…」

『遅いんだよ。何もかも遅い。蹴り所が悪くて死んでいるとは思わないのかよ?』

 腕を組んで下唇を突き出すようにして責め立ててくるこの悪魔みたいなヤツは、きっと俺が作り出した罪悪感が具現化した姿なんだろう。
 甘ちゃんな俺のことだから、きっと天使のように綺麗なお姉ちゃんが現れて、俺の罪を判り易く説いてくれて、そして苛まれている俺を優しく抱きしめて慰めてくれて、それからエッチに突入!…な夢かと思ったら、どうやら俺は、責め立てる相手を悪魔に見立てるほど、今回のことを後悔しているんだな。
 よかった、まだ真面な心ってヤツが残ってたんだ。

「それは…」

『ふん!大方、考えてもいなかったんだろうよ。オレはインキュバスだから本来なら人間の女しか相手をしないんだが、今夜は特別だ。蹴られたお礼をしてやるよッ』

「え?…ッ」

 両手を吊り上げられたままの不安定な状態の俺に、悪魔みたいな野郎が鋭く尖った爪を有した指先を持つ腕を伸ばしてきて、無防備な裸の胸元を触れた瞬間だった。
 ゾクリッと背筋に奇妙な怖気が這い上がって、次いで、信じられないことに興奮して勃起してしまっていたんだ。
 な、なんなんだ、これ?!
 ただ、ゆるやかに触れられているだけだって言うのに、脳天がスパークしてそれだけでイッてしまいそうなほどガチガチに俺の逸物は勃起して、先走りの雫が震えるみたいに盛り上がっている。
 頭ではこんなのはおかしいと判っているのに、身体はゾクゾクして、もっとソイツに触って欲しいと望んでいるみたいだ。自分では意識していないってのに俺は頬を染めながら欲情に濡れた双眸で縋るように、ムスッとしている俺とは対照的な不機嫌そうな表情の悪魔みたいな男に救いを求めるように見詰めてしまっていた。

『どうだ、誘惑を拒否できないだろう?女なら優しく大切に抱いてやるところだが、お前には愛撫だってしてやるかよ』

 言うが早いか、ヤツは吊るされている俺の身体を反転させて、背中から覆い被さるようにして抱き締めてきたんだ。それだけでもう、イきそうになったのに、すぐに俺の口からは悲鳴のような叫び声が漏れていた。

「ッ…い、いてッ!いた…やめ…いーーーッッ」

 ぎちっ…と、視覚を伴うような音が聞こえた気がした。
 血管の浮かび上がった灼熱の鉄の棒を、何かやわらかいオブラートで包んだような、ぬらりとしたその先端が、本来なら排泄行為にしか使うことなんてないだろうって場所にグイグイと押し付けられて、そしてあろうことか潜り込もうとしやがってるんだ!
 我慢ならない痛みに全身で拒絶してるって言うのに、鋭く尖った爪を持つ指先で、じっとりと汗が滲む額に張り付く鬱陶しいぐらい真っ黒の髪を掻き揚げられたら、ほんの少し欲情に意識が逸らされてホッとした…のもつかの間、その瞬間を狙い定めたみたいにグイッと窄まりを突き破るようにして灼熱の杭をねじ込んできやがった。

「あ!ッッ…い、ひぃッッ!!」

 もう、悲鳴しか口から出てこない。
 こんな悪夢があるんだろうか…俺はそのまま意識を手離して目覚めたいのに、俺をこんな極限の激痛と恐怖に叩き落としてくれている男は、そうすることを拒むようにするすると脇腹から腹を指先で辿り、苦痛と快楽に俺を喘がせる。
 いっそ、殺してくれたいいのに…
 ブツ…ッと、何かが切れたような破れたような音が、いや実際は音なんかしていなかったかもしれないけど、俺には感覚的に胎内で音が響いたように感じたんだけど、ポタポタッと足許に鮮血が零れて、長大でガチガチに硬くてゴツゴツしたモノがスムーズに潜り込んだから、ああ、きっと切れてしまったんだ。
 口に出すのも悍ましい、その器官が。
 同時に襲ってくる激痛にのたうつこともできなくて、俺の全身から力が抜けたみたいだった。
 その俺の身体を片手とアレで支えながら悪魔みたいなヤツが鼻で息を吐き出す気配がした。

『ふん、自分が痛めつけられれば弱音を吐くのか?だがまあ、男もなかなか悪くないって新境地を発見させてくれたんだ。今回はこれで許してやるよ』

 耳元で甘ったるく囁かれて、あれ?コイツってこんな声だったっけ?
 もっと不機嫌そうで苛々していたみたいな…ああ、もう怒っていないのか。
 ズッ、ズル…ッと引き抜かれては内臓を全部持っていかれるような違和感に吐き気がして、挿し込まれる瞬間には痛みに唇を噛み切りたくなって目尻から涙を零していると、よく判らないインキュ…バス?と名乗ったソイツは、俺の耳元で気持ち良さそうに溜め息を吐いている。
 俺の狭くて小さい器官は切れているとは言えまだぎゅうぎゅうみたいで、喰い千切らんばかりになっているんじゃないかって思うのに、インキュバスはちっとも辛そうじゃないから…なんだよ、この不公平さは。

「ヒッ…あ、い、いぁ…ッ、……ぅ」

 涙をぽろぽろ頬に零して声にならない悲鳴を上げる俺を見ているのかいないのか、何故か紅蓮色の視線を感じたような気がしたけど、今の俺はそれどころじゃない。
 この世で感じたこともない痛みを感じさせられているって言うのに、気絶することもできなくて、その痛みで目覚めることもできず、じっとりと全身に脂汗を滲ませて、ひたすら胎内の男が出て行ってくれるのを待っているって言うこの状況で、ヤツは俺の肩口に咬みついて気持ち良さそうにしてるんだから泣きたくなる。

『ああ、なんだ凄くイイな。まさかこのオレが感じるとはね。よし、もうお前もイけ』

 俺の血液とヤツの先走りで卑猥な音と腰を打ち付ける音が混ざり合って、聴覚でも犯されながら涙を流していると、そんなことを呟きながらインキュバスは背後から俺の頭を押さえるようにして振り向かせて、牙のある唇で口付けてきた。
 痛みに引き攣れる舌に舌を絡めてきて、噎せ返るような男の色気が媚薬みたいに俺の脳内を麻痺させながら、深く深く口付けてくるから、俺は泣きながらその舌を受け入れていた。
 次の瞬間には鋭い爪を持つ指先で萎えて縮こまっている俺自身を掴み、根元からねっとりと扱かれて、それだけだと言うのに、そんな単純な行為だと言うのに痛みも苦痛も何もかも一瞬で忘れて、得も言えぬ激しい快感には目がチカチカすると頭の天辺で何かがスパークしたようで、俺は一瞬でイッてしまっていた。
 その衝動とほぼ同時に俺の胎内にインキュバスが吐精して、噴き上がったマグマのような熱を持つ体液が最奥に注がれたようだった。
 何か言われたような気がしたけど、それで漸く、俺は悪夢の中で意識を手離すことができたんだ。
 やっと、悪夢が終焉を迎えたみたいだった。

 チチチ…ッと鳥の鳴き声が聞こえて、俺は上半身を起こした万年床の上でぼんやりと布団を掴んでいた。
 なんだかガチガチに緊張したみたいな身体は強張っているのか、若干息も荒いような気がするし、何やらぐっしょりと汗ばんでいる気もしていたから、昨日はバイトも忙しかったし1時間も歩きまくって心身ともに疲れたんだなぁと実感したよ。
 何か夢を見ていたみたいなんだけど思い出せない。
 うーん…俺は夢の内容を忘れることはあっても、大概その断片は記憶しているんだけどさ、今回は何故かサッパリと忘れてしまっているみたいなんだ。
 とは言え、本能の部分が思い出さない方がいいと言っている感じがするから、たぶんいい夢じゃなかったんだろうな。
 俺は溜め息を吐いて起き上がると伸びをしたんだけど、その瞬間、何故かズキリッとあらぬ部分が痛んで飛び上がってしまった…けど、それは何かの名残りみたいなものだったのか、恐る恐る歩いてバスルームに向かったけど、その時はもう痛くなかった。
 なんだったんだ。
 俺は大学に行くための準備をしながら、予測不能の事態に不安を感じていた。