1.出会う  -Crimson Hearts-

 死は誰にでも平等に降りそそぐもので、俺はそれを当たり前のように受け止めていた。
 世界は常に波乱の匂いを漂わせていて、戦争に飽きた連中は無闇に秩序を築きながら無法地帯を放置していた。
 そんな世界に生を受けたのだから、もう何があっても不思議ではないとさえ思える。
 こうして鬱陶しい、もう見慣れてしまった曇天から降りしきる雨に双眸を眇めて、もう時期お別れするクソッタレな世界を網膜に焼き付けながら呼吸が止まろうとしているこの時でさえ、俺は何が起こっても不思議じゃないと思っていた。
 些細な喧嘩が命取りになるこのダウンタウンで、買い物袋を抱えた俺の肩が触れた、そんな些細なことでさえも誰かの癇に障って、歯車が急速に狂っていく。世界はそんな風に、秩序と言う無秩序の中で回転しているようだった。

(あー、もう死ぬのか。短かったな、俺の人生)

 ドクドクと流れ出る止め処ない血潮の行きつく先は、雨に濡れた泥だらけの砂利道で…ははは、最初はあんなに焼け付くみたいな激痛が襲ったって言うのに、こうして身体から血液が流れ出ていくと急速に体温が冷えてきて、無性に眠くなるもんなんだなぁ。
 雨が濡らしていく泥と砂利に覆われた、嘗ては舗装されていたアスファルトの上に大の字になったまま、俺は体温と一緒に流れ出ていく血液の存在に苦笑していた。
 死ぬのか、ああそうか。
 やっと、死ねるのか…
 このムチャクチャな世界に生れ落ちて、両親の顔さえ知らない俺が、一体どんな気持ちで今まで生きてきたと思うんだ?
 誰にともなく呟いて、いや、もう声なんか出せる状態じゃなかったんだけど、俺はやっと差し伸べられる慈悲の腕に縋りつきたい気分で死の訪れを待っていた。
 ジャリ…
 不意に、頭上の方で砂利を踏み締めるような足音が聞こえて…ああ、きっと、もう珍しくもないだろうに名もなき死体に哀れを感じて、いや違うな。死に逝く者の最後の顔を見てやろうって言うイカレたヤツでも近付いてきたのかな。
 こんな狂った世界で誰かを哀れむだと?
 自分で思っておきながら、そんな反吐の出る台詞に早く俺を殺してくれと溜め息が出た。
 死に逝く者を見ることを嗜好にしているイカレた連中は、この世界でまだ生き残れていることに安堵する為に、弱者を見つけては日々の恐怖に怯えている自分の心を安堵させていやがるんだ。そう言う連中を喜ばせるのも癪なんだけどな、そんなことはもうどうだっていいんだ。
 やっと死ねるから、この何もかもがいつからかゆっくりと狂いだしたこの世界から、漸く解放されるんだ。
 見たければ見るが良い。
 何れお前たちの姿だと思い知れ。
 ジャ、ジャリ…
 重い長靴でも履いているのか、やたらゆっくりとした足取りでソイツは近付いてきたようだった。
 俺が本当に死んでいるのか、急に起き上がってきてナイフで腹でも刺されるんじゃないかとか、今の世の中では当たり前のようなことを考えて怯えている…ってワケでもなさそうだ。
 もともと暢気な性格なのか、その足取りには怯みがない。
 もう、半分以上は霞んでいる双眸に、涙みたいに雨が入り込んでくる。
 曇天の空から降りしきる汚染された雨だ、目に入れば激痛だって感じていたのに…ああ、俺は本当に死ぬんだな。
 もう、あんまり重くなってきた目蓋をゆっくりと閉じようとした時だった。
 不意に顔に影が差して、俺は閉じようとする重い目蓋を押し開きながら瞬きをしてどんなヤツか見てやろうと思った。
 逝き掛けの駄賃だ、この世で最後に見る顔を覚えていたって死ねば忘れるんだ、いいだろ?
 誰にともなく呟いて、俺は見下ろしてくるソイツの顔を見上げていた。
 切れかけた裸電球が雨にショートでもしそうな街頭の明かりを背にしていると言うのに、真上から虫けらでも見るように目線だけで見下ろしてきたソイツは、何度脱色を繰り返したのか判らないほど色を抜ききった痛んだ黄褐色の髪をしていて、そのくせ、前髪に隠れそうな切れ長の双眸はゾッとするほど切れ味の良さそうなナイフみたいな殺気を漂わせていた。
 この世界で生き残ってきた男が匂わせる、ほの暗い狂気のような殺気は…何度見ても気持ちのいいもんじゃない。
 俺はこう言うヤツを良く知っている、だが、けして係わり合いになろうなんて思っちゃいなかったけど、このダウンタウンにはこんな連中がゴロゴロいるから嫌でも目に付くのは仕方がなかった。
 でもコイツは、無言で淡々と死に逝こうとする俺を見下ろしている、ずぶ濡れの黒コートのポケットに素っ気無く両手を突っ込んで立っているこの男は、俺がよく目にするあんな連中とは違うような気がする。
 もっとこう、底知れない何かをそのコートの内側に隠し持っているような…あんな風に、狂気に怯えて粋がってるだけの連中が持つ殺気じゃなくて、腹の底から震え上がるような正真正銘の兇気のような殺気は、死を眼前にしている俺でさえ竦んでしまいそうになる。
 誰なんだ…?
 なぜこんなヤツが、確かにコイツが蔑むように、ケチなコソ泥でしかないこのダウンタウンだと虫けら程度の俺の死なんかに興味を持ったんだろう。
 どうせ死ぬんだ、さっさと行っちまえばいいのに。

「あっれぇ?なぁーんだ、もう死んでんのかと思ったら。まだ生きてんじゃん。おっもしれー」

 不意に、誰が言ったんだろうと最初は判らなかった拍子抜けするぐらい明るい、どこか人を小馬鹿にしたような軽めの口調が降り注いできて、唐突に俺は、ニヤ~ッと口許を歪めて笑っている真上の男が洩らした言葉なんだと知ってギョッとした。
 あまりにも、漂わせている雰囲気と口調が違っていたからだ。
 何か口を開こうとしたけど、その時になって突然引き裂かれるような痛みを感じて、突き刺さったままのナイフの根元から止め処なく流れる鮮血にぬるつく腹を押さえたままで俺が喘ぐと、男は何が面白いのかハッ…と笑ってそのままヒョイッと屈み込んで苦悶に歪む俺の顔を覗き込んできた。

「なー、なにそれ?腹にナイフ刺してさぁ…寝転ぶッつーのは新しい遊び?最近戻ってきたからさぁ、こっちの事情は飲み込めてないワケよ」

 どこからか戻ってきたのか、そのわりにはしょぼくれた格好をしている男だと思う。
 兇悪な殺気を纏っているくせに、打ち捨てられた野良犬みたいにずぶ濡れの黒コートに破れそうなジーパン姿で、よく見れば何もかもチグハグな、アンバランスな男だと思った。

「なー、答えろよ?…ん、喋れないのか。なんだ、つまんねーな」

 俺の顔を覗き込みながら、俺なんかよりももっと冷たい指先を伸ばしてきて雨に濡れて張り付いてしまっている俺の前髪を乱暴に払いながら、男はしばらく俺を見下ろして何かを考えているようだったけど、俺は、もう、眠いんだ。
 頼むから、もう放っておいてくれ。
 このまま、あれほど夢に見た何もない、無の世界に逝かせてくれ…

「ふふーん、オレ様いいこと思いついちゃったよ。どーせ、家に帰っても独りだしさぁ…アンタを拾って帰ろうっと」

 は…?
 何を言ってんのか全く判らん状態で、それでなくてもズクズクと疼く腹の痛みに眉を寄せている俺が、砂利と泥を雨が濡らしているアスファルトに寝転がったままで呆然と見上げていたら、男はゆっくりと目蓋を閉じて小首を傾げるようにして口許だけで笑うと、ギョッとする間もない素早さで俺をまるで荷物でも扱うように肩に担ぎ上げたんだ。
 ナイフを引き抜きもしないから、人間の肉を貫いたナイフは切れ味が鈍っているのか、またゆっくりと腹の奥を突こうとして悲鳴が漏れた。だが、男はそんなことに構いもせずに、クスクスと笑いながら降りしきる雨の中を厭いもせずに歩き出したんだ。
 驚くほど確りとした足取りで、俺は。
 買い物は全部盗まれてしまっていて、紙袋だけが情けなく濡れて転がっている血塗れのアスファルトを遠退く意識の中でぼんやりと見つめていた。

 俺は、このまま死ねるんだろうか…