ここは…どこだ?
ともすればその激痛に億劫になってしまいそうになる瞼の重みに逃げ出しそうになる思考を、ふと、胸元に乗せられた何かの感触で身じろいだ途端にハッと目が覚めた。
鬱陶しくなるほど見慣れた曇天から降りしきっていたあの雨はどこへ行った?
今にも飛び出しそうになる心臓の音に額にビッシリと嫌な汗を張り付かせた俺は、そんな風に、異常な事態に思考が追いつかず息をするのも忘れていた。
こんなメチャクチャな世界では、気を許せば最後、骨の髄までしゃぶりつくされてしまう。
死ぬことよりも残酷で、生きていることよりも過酷な仕打ちが待ち構えているんだ。
逃げ出さなければ…冗談みたいに笑い出す全身には力が入らなくて、気付けば脇腹には激しいくせにジワジワと追い詰めるような鈍痛が舐めるように張り付いてやがる。
何が、起こったんだ。
何が、起こってるんだ。
力の入らない腕を持ち上げて…いや、そんな気分になっているだけで、本当は1ミリだって動かせていない腕は指先をピクリと動かしただけで、俺の意図する脇腹を押さえるって行為を端から無視しているようだった。
息苦しく胸を喘がせた俺はふと、遠く近くに鳴り響く耳鳴りの向こう側に、どこか懐かしい雨音を聞いて漸く動かせる首を捻って音のする方に、できるだけ現実感を取り戻そうとするかのように視線を動かした。
アンティークな室内にある唯一の明り取りの窓の向こうには、幾つも玉を結んで零れ落ちていく水滴がまるで混沌とした外界からこの部屋を切り離したように孤立させているように思える。
…ん?部屋だと。
ああ、そうか。
この見慣れない場所は部屋なのか。
そして自分が寝かされていたのが重厚感を持つ部屋にしてはやけに安っぽい、スプリングもヘタれているような軋みの耳障りなベッドであることに驚いた。
どんなミラクルが起きて、俺はベッドに寝てるんだ?
いつもは殺人鬼紛いの泥棒に怯えながら廃ビルを点々とする生活をしているから、こんな風にマットレスの硬い安っぽいベッドとは言っても人間らしい寝具で寝るのは久し振りだったんだ。
もう、最後にベッドで休んでからどれぐらい経つのか…考えるだけでウンザリした俺は、できるならこのまま死ねたらいいのにと瞼を閉じた。
こんなヤケクソな世界で、何が楽しくて生きていけると思う?
毎日怯えながら暮らす生活に、もうほとほとウンザリしているんだ。
できるなら、あのまま死なせてくれればよかったのに…
ん?そうか、そうだった。
俺を拾って帰ると言ったあの男…アイツはどこにいるんだ?
重くなりすぎていた瞼を億劫そうに押し上げた俺は、恐らくは、あの言葉が事実なら、俺を犬か猫のように拾って帰った男がいるはずだ。
脱色して痛んだ黄褐色の髪と、身内に宿した抑え難い兇悪な殺気を溢れかえらせているあの鋭い双眸を持った、明らかに人を小馬鹿にしているに違いないと思える軽めの口調の、あのチグハグな男…
そこまで考えてギョッとした。
ボンヤリと窓に向けていた視線を傍らに移したその時、不意にジッと俺を見詰めている双眸に気付いたからだ。
あの、深々と身体の奥深い部分まで侵食していくような、恐ろしいほど冷静な醒めた視線。
「やっと起きたかぁー。もうね、死んじまったのかと思ったけど。息してるじゃん。死に損なったなぁ、あぁ?」
男は独特の尻上がりな間延びしたあの軽い口調でそう言うと、ハッ…と笑って瞼を閉じて首を左右に振っている。
それも、俺の胸の上に腕を投げ出すようにして横になったままでだ。
あの息苦しさはコイツの腕の重さだったのか。
「またダンマリだろぉ?もう慣れたもんね。はーん、気にしてないさ」
「どう…ッ」
どうして俺を?
どうして横にいるんだ?
どうして拾った?
口から溢れ出しそうになる言葉は後から後から咽喉を迫り上げてくると言うのに、肝心の声が出ない。
いや、正確に言うなら腹部の激痛と、高熱でも出ているのか、渇き切った咽喉に何かが引っ掛かったようになっていて咳き込みそうになってしまったんだ。
そんな俺のことなど意に介さない男は何が物珍しいのか、マジマジと顔を覗き込んできて、それから楽しげにハッ…と笑って瞼を閉じてしまった。
そう言えば、コイツは最初からこんな笑い方をする。
人間が目の前にいるのに、コイツは瞼を閉じて笑いやがるんだ。
どうせ、俺なんかは取るに足らない虫けら同然なんだろうけどな、この世界でそんな笑い方をしていたらそのうち確実に命を落とすだろうよ。
まあ、俺には関係のないことなんだが…
「へえ、喋れそうなのか。だけど喋れないんだよなぁ?だってお前、犬だからー」
は?
無謀なほど殺気を纏って、そのくせ威嚇すらもしない獰猛な目の前の人間は、張り詰めた緊張がブチ切れようが緊張し続けていようが、そんなことはお構いなしで気が向いたら襲い掛かるんだろう気紛れそうな口調で、上半身を軽く起こして頬杖をついたままニヤニヤと笑っている。
何を言ってるんだ?
俺が、…犬?
「ふざけるな」
発音は完璧のはずだった。
当たり前だ。
だが、自分が思っているのとは随分とかけ離れた、嗄れた声が引っ掛かりながら途切れ途切れに耳に届いた。
無様な姿に泣きたくもなるが、この一言で、この気紛れな男が笑って殺してくれるならそれはそれでもいいかと思う。
気が向いた程度で俺から大事なものを奪いやがって。
いっそ、その手で殺すといい。
「ハッハァ!なーんだ、喋れるんじゃん。いいもの拾ったなぁ…喋る犬か。名前をつけないとな」
自分勝手にポンポンッと話し倒す男は、やはり当初感じたようなあの凄まじい冷酷さは微塵もない。
と言うよりも寧ろ、その話題の中心が俺でさえなければ、何故か憎めない取っ付き易い男だとすら思えてくるから不思議だ。こんな世界で、こんな風に生きていながら、このチグハグな男はどこまでもアンバランスな存在感だと思う。
「犬、イヌ、いぬー…《ぽち》、うん、ぽちがいいなぁ」
俺は嫌だ。
そう言いたいのに、そんな時に限って俺の咽喉は言葉を発することを拒否でもするかのように、まるで馬鹿にしたようにヒューヒューと気管支を鳴らしていた。
「ぽち?腹減らないかぁ?熱があるみたいだからさー…オジヤでも作ってやる」
ニヤ~ッと何やら悪巧みでもしていそうな顔で笑った男をマジマジと見詰めていた俺の茹って腐りそうな脳味噌は、それでも、このお気楽なバカがどうやら俺を殺してはくれないんだと言う事実を認めたようだった。
生きることも、死ぬことすらも凌駕する最大限の辱めを、この男は俺に無条件で投げつけようとしているんだろう。
この世界に生きながら、今更俺は泣きたくなった。
あの恐ろしいほどスッポリと全身を覆っていた殺気の在り処が、この男の計り知れない部分から吐き出されているのだとすれば、俺のようなチンケなコソ泥が到底太刀打ちなどできるはずもない。
足掻けば足掻くほど、底なし沼に捕まって、ジワジワと息の根が止まるまで沈んでいく犠牲者のように、這い上がれもせずに溺れていくに違いないんだ。
弱者は常に強者に喰われてしまう世界。
理不尽が正当化される異常な世界。
そのくせ、その全てが驚くほど当たり前のことであり平凡であって、そしてあまりに日常的な日々で…
だからこそ、願わずにはいられない。
殺してくれればいいのに。
こんな世界にはもう、ウンザリだ。