何を求めて…そんなこと、当の昔に忘れてしまった。
ただ、ただ果てしない感情の流れを誰かに止めて欲しくて…誰かに?
いったい、誰に?
誰も助けてなどくれなかった。
心を救う者もいなかった。
所詮は儚い夢だった。
そんなこと、判りきっているはずなのにオレは何を期待しているんだろう。
期待?…そんなもの、もう、忘れてしまった。
ただ、アイツを守らないと。
アイツだけがこの世界の全てなのだから。
アイツがいなくなってしまえば。
こんな腐敗した世界などもういらない…
比較的、あれから那智はとことん機嫌がいいようだ。
いまいち、何を考えて何を感じているのかとか、そう言うことは全くよく判らないんだけど、ニヤニヤ笑いが多くなったような気がするし、仕事から早く帰るようになった。
料理は毎日作ってくれるし、もし仕事が引いて帰ることが出来ないだろうなと自分が感じたときは、予め作って行ってくれる。後は温めるだけ、と言う親切ぶりだ。
俺、犬なのに…コンロの使い方とか判らない。
とか、冗談でも那智の前で言ったらコンロを投げ捨てて、たぶん、原始的な火の熾し方とかレクチャーし始めるんだろうなぁと思ったら少し笑えるようになった。
しかし、那智のヤツはああ見えて結構物知りだったりするから、驚かされることが多々ある。
それに、この部屋を見ても判るように、那智の好みはかなり古い。
あれだけ資産を持ってるのなら、最新の設備だって整えられるだろうに、那智は旧式のコンロを愛用している。今みたいにどこから手に入れてくるのか判らないけど、食材に紛れてガスボンベが入ってるのを見たときは驚いた。俺は、その使い方が判らなかったから…
そう言って興味津々で仕分けをしている手許を覗き込んだら、那智はニヤァ~っと笑ってボンベを片手に俺を見下ろしてきた。
「ぽち、尻尾あったらいいのになぁ?少しだけど、慣れてきたみたいだからさぁ」
「ああ?それとボンベと何の関係があるんだ」
「大有りさ~。いつもは知らん顔で窓の下に座ってんのに、最近は傍に寄って来るようになったし?もっと懐いてくると尻尾も振り出すんだぜ~」
「…気が向いたら振ってやるよ」
延々と続きそうな頭の痛くなる会話に早々に終止符を打って、肩を竦めながらもニヤニヤと笑っている那智がカセットコンロにボンベを充填するのをマジマジと見ていた。
そんな携帯用のコンロがあるってことにも驚いたけど、まさかボンベで動くなんてな。
吃驚だ。
以前、一度だけ出所を聞いたことがあったけど、その時の那智の反応はほぼ無反応だった。
曖昧な返事で、言葉にもなっていない、なんと言うか「あー」だとか「んー」で終わったと思う。
食材のときも吃驚したからな。
どうせ、今回も曖昧にはぐらかされるんだろうと思いながら、それでも俺は訊ねずにはいられなかった。
「那智、こう言ったモノはどこで手に入れるんだ?俺なんかじゃお目にかかるだけで奇跡みたいなんだけど…」
「ハッ…、ぽちは面白いこと言うなぁ。こんなの見ただけで奇跡だって?ハッハ」
アンタとこうして喋っていることだって、こんな腐敗した世界に神なんか笑わせるなと思っていたけど、いったいどこの誰がどんな気紛れでこんなチャンスを俺に与えたのか判らないけど、奇跡だって思っているんだ。だけど、そんなこと言っても那智のことだから、また瞼を閉じるあの独特な笑い方をして首を左右に振るんだろう。
そんなこと、どうでもいいって感じでさ。
ほんのちょっとだけは認めてやってもいいって思えるようになったから、牛乳の件は忘れてやるとして、俺だって少なからず夢みたいだって思ってるんだぜ。
あの浅羽那智と、こうして一緒に買い物袋から物を取り出すなんて…これは何かの悪い夢か?と思ってしまうけどな。
そう言えば…那智と一緒に暮らしだしてから俺は、誰かに付け狙われることも、冷たい雨を避けて廃ビルで蹲って寝ることも、ビクビクしながら通りを足早に渡ることもなくなった。
ベッドは、スプリングが軋んでマットは硬いし、なんと言ってもシングルに毛の生えたようなダブルに那智と一緒に寝るからきつくて仕方ないんだけど、毎日寒いはずの夜が暖かくてホッとするなんて…これこそ奇跡だって思う。
夜がホッとするだって?
夢なら、でも、夢なら…覚めて欲しくはない。
「あ、そーだ。今夜仕事あるんだー…来るでしょ?」
もちろん来ると決め付けての発言に、脳裏で彷徨っていた思考が呼び戻された俺は慌てて頷いた。
そうだった、那智がどんな仕事をしているのか見てやろうって思ってたんだ。
いや、正直に言えば好奇心からだったんだけど…
思わずバツが悪くてエヘヘヘと笑ってしまう俺を、那智のヤツはニヤニヤ笑いながら首を傾げていた。
ネゴシエーター…交渉人である那智の仕事ってのがどんなものなのか、そうして那智は、どんな風に人を殺すのか…噂ばかりで一度も見たことはないし、ケチな喧嘩での殺傷事件は日常茶飯事だったから、人殺しには慣れている。俺自身、殺されかけたんだ。
もう、怖いものなんか何もない。
「足手纏いにならないように隠れてる方がいいかな?」
「隠れる~?ハッハ…バカだなぁ、ぽちは。隠れてたらヘンなヤツに殺されるだろー?だったら、オレの傍にいるのが一番に決まってる」
「…その自信を信じてついて行くけど。何かあったら脱兎の如く逃げ出すからな」
至極真面目に言ったつもりだったのに、那智は一瞬無表情になってから、それからニヤァ~っと笑い出したんだ。
なんだ?俺は何か笑うようなことを言ったか??
それともその何か企んでいるような笑いの裏には、何か別の意味でもあるのか…?
「なに、笑ってんだよ。俺は真面目なんだぞ?何がおかしいんだよ、言えよー」
「…別に笑ってないぜ~?」
「いーや、笑ってる!ニヤニヤ笑ってる!!」
俺がムゥッとしてその顔を覗き込みながら食って掛かると、那智はそんな俺を無言でジーッと見下ろしてくるんだ。あれほどにやーっと笑っていたのに、その笑みを不意に引っ込めて、だからと言って奇妙な顔付きをするでもなく、ただ柔らかいと表現すればシックリくるような、そんな不思議な表情をして見下ろしてくるから、いったいどんな顔をすればいいんだよ。
「な、なんだよ?」
「ん~?いや、ちょっとねー。昔飼ってた犬を思い出したんだー」
「…犬を飼ってたのか?」
「うん。もうずっと、昔の話なんだけどね」
ニヤニヤ笑いながらも、そんなことはもうどうでもいいことなんだと思い込んででもいるのか、那智はそれ以上は何かを話そうとはしなかった。俺も、それ以上何かを聞こうとは思わなかったから、結局この話はこれで終わってしまった。
だけど、ヘンなもんだな。
あの、浅羽那智が犬を飼っていた…どこか人を馬鹿にしたような顔付きで平気で人殺しだってするくせに、どこに犬を飼うなんて言う殊勝な感情があるって言うんだ?
「…ああ、でも俺も飼われてるのか。全く何を考えてるんだか、ヘンなヤツだ」
「だって、ぽち死にそうだっただろ~?死ぬのは怖くないとか意地張って、そのくせ、縋るような目をしてさ。拾って帰んなきゃーって思ったワケ」
俺の独り言を聞いていた那智はふふーんっとでも言いたそうにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、古惚けたソファにドッカリと腰を下ろして投げ出していた日本刀の柄を無造作に掴むと乱暴に鞘から引き抜いたんだ。
人の生き血を随分と吸っているはずの刀身は、それでも刃毀れすることもなく不思議と青白く光っている。ともすれば安っぽい蛍光灯の明かりすらも弾き返して、その輝きはまるで衰えることもなく人殺しの道具だと言うのに綺麗だった。
ぼんやりと眺めていたら、ふと那智と目が合ってしまって、俺は一瞬どんな顔をすればいいのかと悩んでしまう。
なぜなら、日本刀を眼前に翳してニヤァ~ッと笑っている那智は確かにいつもの那智だとは思うんだが、そのくせ、時折フッと笑っている姿はいつもよりなんと言うか…
たぶん、イイ男に見えるんだろう。
何を考えてるんだかと呟いて溜め息を吐いたら、那智は相変わらず調子でもいいのか、ご自慢の日本刀にニヤァ~ッと笑いながらも俺の独り言に首を傾げている。
「ぽちはさぁ~、オレと話してて楽しいワケ?」
不意に日本刀の調子を眺めるようにして確かめながら、那智はどうでも良さそうにそんなことを聞いてきた。別に、どうでも良さそうなんだから答えなくても良いはずなんだけど、それでも俺は、その奇妙な質問に答えてみようって気になったんだ。
「楽しい…と言うか、興味はある。アンタはヘンなヤツだから」
「ヘンなヤツか、ハッハ!…そいつはいいな」
「どうしてそんなこと聞くんだよ。じゃあ、アンタは?アンタは俺と話してて楽しいのか?」
何が言いたいのか良く判らない表情をして日本刀を見詰めている那智に、なんとなく俺はその理不尽な質問の意図が読めなくてムッとしちまった。
我ながら子供染みてるとは思ったが、ついつい唇を尖らせて聞いてしまう。
「さあ~?楽しい…と言うか、興味はある。ぽちはヘンな犬だから」
「…なんだよ、それ」
にやぁ~っと笑って日本刀を鞘に戻しながらチラリと視線を上げて俺を見た那智は、ニヤニヤしながら肩を竦めてご満悦だ。
殆ど呆れて眉を顰めれば、そんな俺を瞼を閉じて口許だけで笑うんだ。
那智は恐ろしいヤツだと仲間の誰かが言っていたけど…こうして傍にいてみると、どのヘンが恐ろしいんだか判らない。たとえば、気が短いんじゃないかと眉を顰めたくなるほど些細なことで手当たり次第にモノを捨ててしまうことを恐ろしいとでも言うのか?それとも、雨にずぶ濡れになっても平気そうに通りを歩いているところ?
或いは、どんなに離れていても正確に俺がどこに立っているのか確認できるその人間離れした観察眼?いや、それは正直、恐ろしいヤツだとは思ったけど…でも、今の時代だと、それぐらいの観察力がないと荒くれどもに命を狙われている那智が生き残ることなんか難しいんだろう。
那智は確かに平気で食べ物を粗末にするし、嫌味だってサラッと言っちまえるような大変いやーな野郎ではあるけれど、それでも、この間みたいに会話の噛み合わない喧嘩…らしい喧嘩でもなかったけど、結局俺が1人でワーワー騒いだだけだったんだけど、そんな風に話している間に、俺は那智を憎めなくなっていた。
どう言えばいいのか判らないけれど、那智は本当は、寂しい人間なんじゃないかと思うようになっていたからかもしれない。
俺の中で渦巻く罪悪感が、那智と言う救いを見つけ過去の後悔を摩り替えようとしているだけなのかもしれなかったが、それでも那智と言う男に興味を持ったのは確かだった。
「ネゴシエーターってどんなことをするんだ?今の時代でまともな仕事なんか期待しちゃいないけど、それでも、ケチなコソ泥よりはいくらかマシなんだろ?」
俺はいつも座っているお気に入りの窓の下に腰を下ろしながら、今夜着いて行くことになった仕事について聞いてみようと好奇心丸出しで訊ねていた。壁に凭れて、ソファにだらしなく座っている猫科の猛獣のような獰猛さを隠し持った那智を眺めながら訊ねれば、背もたれに頬杖をついて退屈そうにニヤニヤ笑っているネゴシエーターはそんな俺を横目でチラリと見て口を開いたんだ。
「似たようなもん…なワケないかー。どちらかって言うとー、ケチなコソ泥よりはクソみてーな仕事かなぁ」
本気でそう思っているのか、それともただの謙遜なのか…どちらにしても那智は、どうでも良さそうに欠伸をしている。
自分の仕事に…と言うか、自らが持っている絶対的な強さを、那智はどんな風に受け止めているんだろう。それすらもやはり、どうでもいいことだとでも思っているんだろうか。
それとも、厄介だなーとでも思ってるのかな…?
いや、そんなはずはないな。こんなメチャクチャな、退廃して荒んじまった町だと、力こそが全てなんだから、余りある実力は持っていて邪魔になるもんじゃないだろう。
ある意味それは、巨万の富さえも生み出すんだから…厄介なワケないか、ったく俺こそ何を考えてるんだ。
「でもさー、オレあんまり仕事しないんだよ。いつも鉄虎かベントレーが始末してくれてるし。仕事っつってもつまんねーのな」
「それは那智が強すぎてスムーズに仕事が早く終わるから…ってことか?」
「あー?んー、どーかな。話してるとさー、ムカツクんだよなぁ?たいした品でもねーくせに、値段を釣り上げてくるしよー。そうすると、怒られるのはオレたちなんだぜー?ふざけるなって思わない?そうしたらムカムカしてきてさぁ、気付いたら死体がゴロゴロ…別に頭に血が昇ったってワケでもないのにね、記憶がなーんにもない。も、ぜーんぜん判んねって感じでさー。まあ、オレは話し合うなんてガラじゃないし?殺す方が楽しいけど?」
なるほど、仕事が速く終わるからあんまり仕事をしてない…ってワケじゃなく、ついつい交渉相手を殺してしまうから仕事にならなくなる、ってことだな。
俺は思わず溜め息を吐いてしまった。
そりゃあ、鉄虎とベントレーは苦労してるんだろう。
「…ネゴシエーターって売買の交渉とかもしてるのか?」
「するよ?殆どそう。人質を解放するように説得するとか言うのは昔の話。今じゃヤクの売買の交渉だとか、物資の売買、人身売買…って、売買ばっかだなー」
ハッハ…ッと瞼を閉じて笑う那智を見ながら、俺はそれでかと納得した。
どうして那智が、仕事中に必ず相手を殺すのか、よく判らなかったんだ。
命辛々で逃げ出してきた仲間の1人が、那智の仕事現場を怖いモノ見たさで覗いていたらしいんだけど、そのあまりの凄惨さに声すらも出せなくなっていた。震えながら途切れ途切れに話してくれていたけど、色んな場所で目撃される那智は常に対の日本刀の柄を握り締めて、ニヤニヤ笑いながら血の海の中で立っているそうだ。
血臭が一番良く似合う男だと、この町の住人は誰もが口にしていた。
俺はてっきり那智は殺し屋なんだとばかり思っていたからそれも当たり前だと思っていたけど、そうか、那智はこの町の裏社会を取り仕切っているファミリーの一員で、そいつらがお抱えにしているネゴシエーターの1人だったのか。
そうと知ってから、もうずっと不思議で仕方なかったんだ。
ネゴシエーターなのに問答無用で殺すのか?
交渉人だろ?
だけど、腕に三日月の刺青がないから判らなかったけど、ネゴシエーターはつまり交渉人だから、交渉中にあのワケが判らない気の短さのようなもので、捨てる代わりに殺してしまうんだろう。
それも、見るも無残にバラバラにして。
一説では銃弾でさえその日本刀で弾き返すなんて噂が出てるぐらい強い那智のことだからなぁ、多少腕に自信のあるネゴシエーターぐらいどうってことないだろう。
まあ、銃弾の件は尾ひれはひれってヤツだろうけど。
そう考えれば合点がいった。
この世界に点在している町には『機動警備隊』とは別に、裏社会、つまり俺たちのような半端なワルじゃなくて、気合の入った連中を取り締まっている組織が1つの街に必ず1つ存在しているんだ。そいつらはあらゆるあくどい方法で色んなものを貯め込んでいて、そう言う貴重なものを町ごとの組織で遣り取りをしている。その遣り取りを行うのがネゴシエーター、つまり那智たちってワケだ。
噂では貴重なもの、つまり物資だとか薬だとかの取引だけじゃなくて、機動の連中が目を付けているグループの有益な情報を握っている証人なんかを説得して連行する仕事とかもあるらしいけど…仲間内で流れている噂に過ぎないからなんとも言えないんだけどな。
俺たちの町は『道<タオ>』と言うファミリーが取り仕切っていて、組織の一員は必ず腕に三日月の刺青をしている。俺たちのようなケチなコソ泥のグループにとってそれは、憧れの対象でもあった。仲間の誰かがファミリーの一員になって、グループを抜けるときなんか、皆で祝福しながら心の中じゃ早く死ねって罵っていた。誰もがそうだったし、それが当たり前だからな。
だってさ、『タオ』のファミリーに入れば食いっぱぐれることもないし、まあ狙われないと言えば嘘になるけど、ともかく特典が凄すぎる。誰もが入りたくて、でも入れない敷居の高い場所なんだ。
平然と罵るヤツもいる。
まあ、俺はおべんちゃらとか言えないから、そっちの部類に入ってしまうけど。
ただ、腕に三日月の刺青を入れてしまうのもそれなりに覚悟がいる。
なぜなら、こんな情勢だ。
力こそが全ての世界で、なぜ腕に刺青を入れるのか…それは非情な『タオ』のボスである『下弦』が考えた掟のせいだ。
《腕に三日月の刺青を持つ者を殺せ。その腕を持参した者は報奨金と『タオ』のファミリーの一員となるべく権利を得るだろう》
それが現在の『タオ』のボスが布告した掟だった。
下っ端なんかだと寄って集って嬲り殺しにされるから、よほど腕に自信のあるヤツしか入らないし、入れない。長い歴史のある『タオ』の中でも、長く生き残っているのは鉄虎だと聞いていたけど…そうか、那智が『タオ』の一員なら那智もそうだろうな。
だが…
「那智は腕に刺青がないんだな。タオの一員なんだろ?」
「あーん?まぁ、一応ね。でもオレ、お客さんだし?刺青入れる必要ないワケ」
「はー?そんなもんなのか??」
あっけらかんと答える那智に、理解できないでいる俺が首を傾げていると、背凭れの部分に頬杖をついていたヤツは身体を起こすと、ダルそうに凭れながらニヤァ~ッと笑った。
「それに、刺青ってアレ、目印みたいなもんでしょ?コイツはタオの一員ですよ、殺しなさいって言うさぁ」
ああ、まあ確かにそのとおりだ。
下弦が宣言した事実上の殺人予告だ。
機動すら手が出せないから、下弦の言葉こそこの町では絶対であり、覆せない残酷な命令でもある。
参加するしないは自分次第だけど。
俺が神妙に頷くと、那智のヤツは可笑しそうにニヤニヤと笑いながら先を続けた。
「オレの場合だと、刺青なんて必要ないし?日本刀が目印ね。これを持って行ったら、ぽちは犬だけど、ぽちでもタオのファミリーに入れるぜ~。いるかい?」
ポンッと気軽に放って寄越されて、その突然の行動に思わず呆気に取られるよりも先に、慌てて放り投げられた日本刀を落ちないように受け取っていた…けど、なんだこの重さは!?
ズシッと両手にかなり重い鉛でも乗せられたような重量感に驚いて、俺はこんな重いものを軽々と2本も操ってしまう那智のその腕力に、今さらながら閉口してしまっていた。
「い、いらねー。鄭重にお断りするよ」
「ハッハ!タオのファミリーに入りたがるヤツは多いのにさぁ、やっぱぽちもヘンなヤツだ」
「…俺の口癖を盗るんじゃねー」
「大丈夫。ちゃんと、もって言ってるだろー?」
「そう言う問題じゃねぇ」
ムッと眉を寄せて唇を尖らせる俺を見て、さらに那智のヤツはニヤニヤと笑いやがる。
つまり満面の笑みってヤツなんだろーけど、だからこそ、殊更腹が立って仕方がねぇ。
アンタの日本刀なんか持って行ってみろ、その日から俺はこの町にいるありとあらゆる荒くれ者たちの標的になるに決まってら。この町の掟は強い者こそが全てなんだ、その頂点に君臨している浅羽那智を殺ったヤツが現れたとなれば、今度はソイツを殺そうと躍起になるってのが火を見るより明らかじゃねーか。
まあ、俺にコイツの半分でも迫力があれば信じてもらえるだろうけど、大方、那智の悪ふざけぐらいにしか思われず、日本刀を取り上げられていい子でお家に帰りなさいと言われるのがオチなんだろーけどな。帰してくれるなら運がいい方で、那智の悪ふざけに付き合った咎とかなんかで、恐らく俺がこの町を見ることは二度とないだろう。
それならそれでもいいけど。
俺がそう言うと、那智のヤツは「そう言うもんかぁ~?」と言って、どうも本気で違うだろ?と思っているようだったが、そうなんだよ!
アンタほど自分の実力を知っていて、そのくせ無頓着なヤツも珍しいよ。
夜の帳が下りた街角で、漆黒のコートを着た両手に対の日本刀を握り締めて、血塗れのアスファルトに転がる人間の頭を片足で踏み締めながら嫣然と笑うその姿が、どれほど俺たちの心臓の奥深いところまで恐怖を植え込んでいるか、脳裏の隅々まで畏怖を沁み込ませているか…本気で判らないなんて言うんだったら、頼むから一発殴らせてくれ。
「まあ、タオの一員なんてウゼーだけでつまんねーんだけどな。殺しができるからまあ、いいかなって思ってるぐらいでさぁ」
「人殺しが楽しいのか?」
素朴な疑問だった。
俺は、こんなご時勢だけど、人殺しは嫌だ。
できれば、殺すぐらいなら死んだ方がマシだった。
もう、何人も死人を見てきた。
見るだけでもうんざりなのに、殺すなんてどうかしてる。
できれば俺のほうが死にたいぐらいだ…そうしたら、もう一度逢えるのかな。
「面白いぜ~?最初は偉そーにしてるけどよ、腕が跳ね飛ばされるときのソイツの顔は見ていてゲラゲラ笑いたくなる。許しを請うっつーのかな?憐れっぽい目付きしてさぁ、そうしたらオレは、慈悲深くなっちまうのな。鄭重に止めを刺してやるというワケ」
「そういうのを慈悲深いって言うのか?」
「え?違うのか??鉄虎はそうだと言ってたぜー」
「ははぁ~…なんか、今夜の仕事に着いて行きたくなくなってきたよ」
「…なんで?」
普通に判らないとでも言いたそうな無表情の顔で見詰められて、俺は眩暈を覚えていた。
そうか、那智は何も知らない子供みたいに純粋なヤツなんだ。だから、教えられたことを素直に聞くんだろう。
俺は、この素直な那智に湾曲したモノの考え方を植え込んでいる鉄虎と言う男に、できれば会いたくないと思っていた。
那智だって手が一杯なのに、鉄虎なんて言う化け物と対等に遣り合えるのか、今から不安になってきたんだ。
そう言えば、那智には鉄虎とは別にベントレーとか言う曲者もいたんだっけ?
ますます頭を抱え込みたくなってきた俺に、那智は無表情の顔のままで問い質してくる。
なんで、着いてこないなんて言い出すんだ?と、大方聞きたいんだろう。
俺はもしかしたら、無謀なことを切り出してしまったのかもしれない。
那智の仕事について行く、なんて言うんじゃなかったなぁと今さら思ってみても、それはやはり、後の祭りと言うことになる。
寄せては返す時の波に、たゆたうように運命が翻弄されている。
たとえそれが真実だったとしても、俺は何も感じないんだろう。