5.ぽちの憂鬱  -Crimson Hearts-

 鬱陶しい雨だがそれほど嫌いだと言うワケではない。
 寧ろ。
 このまま延々と振り続けて、良ければこの虚ろな世界すらも押し流して消滅させてくれればと思う。
 けして起こり得ない幻想を胸に抱いたままで、那智は殊更機嫌良く人影も疎らの往来を足早に渡っていた。
 夕暮れ時は逢魔が時とも言って、人の心を狂わせるような何かを秘めているのか、それとも、混沌とした夜の訪れに怯えた人々が恐怖から起こす突発的な衝動のせいなのか、夕暮れ時は特に殺傷事件が多くなる。
 その為、人々はできる限り外に出ようとしないし、こうして暢気に警戒心さえも抱かずに町を歩いているのは精神が崩壊したジャンキーか、或いは物乞いせずにはいられないほど貧しい子供たちか、はたまた夜な夜な男を求めて彷徨う場末の娼婦たちか…また或いは、人殺しを何よりの糧として、面白味の失せた世界を薔薇色に染め上げてくれる殺戮行為に快楽さえ感じている、矢張り心を何処かに置き忘れてきてしまったのだろう、虚ろな器のような泣く子も黙る浅羽那智ぐらいだろう。
 現につい先ほども、暢気に歩いている男に目を付けた凶暴な物盗りが、黒コートに隠れていた2本の鞘に気付いて息を飲むと、すごすごと裏路地に隠れてしまった。
 その気配にすら気付いているのかいないのか、那智は気に留めた様子もなくぶらぶらと、まるで散歩でもしているような気楽さで砂利だらけの、遠い昔には舗装されていたのだろうアスファルトの道を踏み締めるようにして歩いていた。

「ぽちは~、いい子にしてるかにゃぁ?」

 ニヤニヤ笑って、それから意志の強さを秘めているようにキラキラと光る双眸を顰めた眉の下で細める、あの首輪を付けた可愛い犬の顔を思い出してニヤァ~ッとその邪悪そうな笑みを更に深いものにした。
 本来なら犬は、ご主人様に千切れんばかりに尾を振ってついて回るものだ。
 たとえば、キッチンに行けばキッチンに、ランドリー室に向かえばランドリー室に、果てはバスルームに来たっておかしくないと言うのに…あの犬は、全身で警戒したように那智の存在に怯えているようだった。

「まあ?野良だったし?最初は懐かないもんさ。オレ様気長だし~、ぽちがいい子になるまで充分待てるもんねー」

 フフーンッと胸を張る那智の存在に、夜陰に乗じて何かを仕掛けようと企む連中でさえ、一瞬出遅れてそのチャンスを逃してしまう。そんな風に悪運が強いばかりで生き延びてきたわけではない。
 那智の持つ本来の戦闘能力は一度目にした者ならば、余程腕に自信があるか、或いは全くの向こう見ずの若造が、駆り立てられた妄想に突き動かされる行動ででもなければ、襲いかかろうなどとは思いもよらないことだろう。
 だが、最近この町にも、至るところで溢れ返った人口のはみ出し者たちが集まってきていた。
 あれほど人が死んでいると言うのにこの町は、いや、この世界の人口が減ることは全くない。
 死の恐怖に耐えられなくなった者、自分より弱い者しか相手に出来ない小心者、己の一時凌ぎの快楽を味わう為だけに襲う者などなど…そんな連中の捌け口になってしまった女たちは子を孕み、人が死ぬのと同じぐらい哀れな命が日々誕生し続けている。そんな悪夢のような連鎖が日常的に起こっているのだ、ぽちが悲観して死にたくなるのも頷けてしまう。

「ぽちには…牛乳かぁ?そーだな、それと…今夜はタンドリーチキンでも作ろっかなぁ♪」

 そんな世界中の悲観などどこ吹く風で、那智はただ今日一日を思うように生きている。
 悲観して死ぬなどとんでもない、ましてや殺してくれ?自殺?どこのバカの考えることだと鼻先でせせら笑うだろう。彼は、確かに生き続けたいと執着するほどまでは思っていないまでも、死に執着することもない。
 ただ、生きているから生きている。
 死ぬときは、まあ仕方ないか…ぐらいの考えの持ち主なのだ。
 今が楽しければそれでいい、楽しみなどない町だけど…世界中を探しても同じなら、この町で鼓動が止まるその時までは生きているのも悪くないだろう。
 そんな考えを持つ浅羽那智は、見慣れた砂岩色の壁を持つアンティークな我が家を視界に入れて嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。

「チキンばかりだと身体を壊すかもなぁ…ぽちは肉付けねーと。弱すぎ」

 ズバズバと、帰ってくるなり黒コートを脱いで腰の鞘を乱暴に引き抜くとソファーに投げ出した那智は、派手なアクションでドアを開いて入ってきたこの家の主の登場に酷く驚いて動揺している俺になんでもないことのように言い放ったんだ。
 なんだって言うんだ??
 目を白黒させる俺をジッと、その光の加減によっては赤に見える、少し色素の薄い凶暴性を秘めた双眸で、そのくせ気のなさそうな表情で見詰めていた那智は、フッと口許の力を抜いて笑ったようだった。

「犬は通常、ご主人様が戻ってきたら『寂しかった』と言って擦り寄ってくるもんじゃねーのかー?」

「悪かったな。生憎と育ちの悪い雑種なんだよ」

 以前はあれほど恐怖に駆り立てられていた存在だったはずの那智に、最近の俺はそんな風に軽口を叩けるようになっていた。とは言え、それだって本当は緊張から来るものだったんだが…あわよくば、この浅羽那智が煩いハエだぐらいに思ってくれて、あの底冷えのする青白い刃を持つ日本刀でこの首を刎ねてくれたらいいのにと言う、浅ましい考えがないと言えばウソになる。
 わざと乱暴に突き放したら、或いは答えが見えてくるのかも…そんなこと、有り得るはずもないんだが。

「あーん?雑種は好きだなぁ。頑丈で、懐いたら可愛いしー」

 どうでもいいことを呟きながら髪から水滴をポタポタと落とす那智は、相変わらず毎日抱えて帰る紙袋の中から何かを掴んで取り出すと、一瞬警戒する俺にソレを無造作に投げて寄越してきた。
 条件反射で慌てて受け止めた俺の手の中に納まったそれは、紙パックの牛乳だった。
 第三次大戦以降、物資があまりにも不足している現代では、500mlの紙パックの牛乳など拝むのも難しいぐらいだ。今では、牛乳に似た混ざり物が、それでも高額で取引されていたりする。

「んー?牛乳は嫌いだったかぁ??」

「い、いや…嫌いだとかそんなことじゃなく。これ、高いんじゃないのか?」

「はーん?なんだそんなことかよ。嫌いじゃねーならいーじゃねーか。メシ出来るまで大人しくあっち行ってろ。なぁ?」

 雨に濡れすぎたせいで冷えているのか、那智のひんやりした指先が俺の髪の中に潜り込んできた。
 思わず身構えると、那智のヤツは呆れたように肩を竦めてニヤニヤと笑いながら行ってしまった。キッチンに姿を消した奇妙な男は、鼻歌交じりに「まだまだ懐かないねぇ」と楽しそうに呟いている。
 何もかもがアンバランスな気がして、たまにここに居ると頭がおかしくなるような気がするんだが…気のせいなんだろう。
 那智は料理を作るのが大好きなようだった。
 そのくせ、自分は一口も食べないんだが…外で何か食ってきているんだろう。
 こう言うところも、不思議だと言えば不思議だ。
 料理を作るのが好きなくせに自分では一口も食わない、じゃあ、今まではその作った料理はどうしていたんだ?
 那智はやっぱりこんな風に、誰かを拾ってきて『犬』と呼んで世話をしていたんだろうか…
 手の中で冷えている牛乳パックの内容物がちゃぷんっと音を立ててはねたようだ。

「バカみたいだな、俺。こんなところに閉じ篭ってるから、バカみたいなことばかり考えて…脳味噌が腐っちまうんだ」

「じゃー、オレの仕事についてくる?」

 暫くぼんやり考え込んでいた俺が唐突にハッとして顔を上げたら、いつの間に近付いて来ていたのか、両手に湯気が上がる美味しそうな料理を乗せた盆を持った那智が立っていた。
 その目付きは冴え冴えとしていて、見下ろす双眸は冷たかった。
 あの日、俺を拾うときに見せていた、あの虫けらでも見るような興味のなさそうな冷めた双眸は、ジッと見詰めていると尻の辺りがもぞもぞするような、どうも居心地の悪い罪悪感のようなものを感じてしまう。
 何故かと問われても答えられないが…たぶん、本能が警鐘を鳴らしているんだろう。
 コイツを怒らせたらヤバイと。
 ん?と、言うことは、那智は怒っているのか?
 俺が逃げ出したいと思っているんじゃないかとでも考えて?
 俺は溜め息を吐いていた。
 この狭い町で、那智の目の届かない場所なんてないじゃないか。
 俺よりも古くからこの町に棲み付いている那智だ、何を考えているんだ。
 いや、こんなことを妄想する俺の方がどうかしてる。

「いや、別に俺はアンタから逃げ出したいとか思ってるわけじゃ…」

「はぁ!?んなの、当たり前でしょーが。なに?ぽちは逃げ出したいわけ??こんなクソみてーな町に?ご冗談でしょ」

 自分で言って自分で否定する、もちろん、俺の感情なんかその時点では丸っきり無視だ。
 ニヤニヤ笑いながら首を左右に振って、両手で掲げるようにして持っていたご自慢の今夜のご馳走をテーブルの上に乱暴に置くと、那智はニタ~ッと笑って上目遣いに見上げてくる。

「退屈なんだろー?だったらさぁ、オレの仕事についてきなよ。犬はさ、自由でないとストレス溜まっちゃうワケよ。だからさ、んな、ワケの判んないこと考えるんだぜ?外の空気吸いにいこーな」

「…アンタって、よく判らないヤツだな」

「あー?そうかぁ?鉄虎に言わせれば、オレほど判りやすいヤツはいないらしーぜ」

 テツトラ…そう言えば、確か那智には仲間がいて、ソイツの名前が鉄虎とベントレーと言っていたな。
 俺自身が直接拝んだわけじゃないが、吹き溜まりで屯していた連中が口々に罵っているときに良く出てきた名前だったから覚えている。
 俺が所属していたコソ泥集団でも、やっぱり浅羽那智は畏怖の対象であり、変な意味、尊敬の対象でもあった。
 もちろん俺も、少なからず那智を恐れながらも憧れていたさ。俺だって男だ、絶対的な、圧倒的な強さを前にすればこんな風に一度でいいからなってみたいと思っちまう。そうすれば、もしかしたら、あんなことにはならなかったかもしれないのにと…弱気な心が訴えてくる。
 強さが欲しかった。
 もう、今更なんだけど。
 だがまあ、当のご本人がこんなヤツだとは知らなかったけどな!
 あの頃の俺たちには、浅羽那智と言えばこの町で神にも等しいぐらい高みに居る存在で、手を伸ばしても届かない、漆黒のコートに身を包んだ死を司る最強の神だった。
 その脇を固めるのが鉄虎と言う巨体の男と、ベントレーと言う小狡賢そうなヒョロリとした男だと聞いていた。
 俺だって、その存在に一度は会ってみたいと思っていたさ。
 だが、実際にお目にかかるには、自分自身の首が狙われるしかなかったんだ。
 それ以外の方法と言えば、偶然誰かが襲われている場所に出くわして偶々拝んじまうって言う、この世界ではなかなか有り得ないチャンスが訪れるってことぐらいだが…もちろん、それ以外の危険から身を守らなければならない俺なんかだと、夜中にうろつくなんて命知らずなことはできなかったから丸っきり無理な方法なんだけどな。
 この町で一番危険だと言われる夕暮れ時か、或いは真夜中にしか出没しないと言われる浅羽那智との遭遇だ、その殺人現場から偶然出くわして命辛々逃げ出した連中の噂でしかその存在を耳にしたことはなかったのに…まさか、こんな形で出会う羽目になるとはなぁ。
 いったいどんな、アンビリーバボーだよ。
 ニヤニヤと笑いながら椅子に腰掛けていた那智は、長い足を組んでテーブルに頬杖をつくと、顎をしゃくるようにして呆然と突っ立っている俺にも座れと促した。
 一瞬戸惑った俺は、それでもいつも通り椅子に腰掛けると「どうぞ、召し上がれ」と片掌を上に向けて上げる那智の動作を見詰めながら、ナイフとフォークを取ろうとして掌の中にある牛乳パックに気付いて眉を顰めた。
 そうだこれ、どうしよう。
 こんな高価なものを…いや、目の前の食事だって本当はどこで手に入れて来るんだと首を傾げたくなるほど高価で、俺みたいにケチなコソ泥じゃあ一生かかってもお目に掛かれないような代物なんだ。
 冷蔵庫に仕舞っておいたら駄目かな。
 一瞬、チラッと上目遣いで那智を見ると、薄ら寒い笑みをいつも口許に浮かべている奇妙な男は、軽く眉を上げて首を傾げて見せた。

「どーしたぽち。牛乳はいらないか?」

「いや、えっと…ッ!」

 言い訳を試みようとしたその時、伸びてきた腕があっさりと大事に持っていた牛乳パックを奪い取って、表情の変化も見せないまま那智のヤツはそれをダストシュートに投げ込んじまったんだ!

「な、何をするんだ!」

 転がるようにして椅子から飛び降りた俺は、たった今ダストシュートに投げ込まれてしまった牛乳パックを慌てて拾い上げると、強い力で投げられたわりには破れてなくて、角がへこんだぐらいのパックにホッと息を吐いた。

「ハッハ!犬はやっぱり牛乳好きなんだな」

 ニヤニヤ笑う那智に振り返って、俺はそのニヤ~ッと邪悪そうに笑っている顔を睨みつけて牙を剥いた。犬だと呼ぶならそれもいい、だが、粗末にするのは許せない。
 お前には、食事がなくてひもじくて、たった僅かな食い物を必死で分け合って食いながら生き延びることの惨めさや悔しさなんてのは判らないんだろうな。
 だから俺は、どんなに気安くされていても、心のどこかでアンタを好きになれなかった。

「…へぇー、ぽちでもそんな目付きをするんだなぁ」

「アンタに!…ッ、何が判るんだよ。人のこと犬だといって馬鹿にしてるアンタには、ケチなコソ泥なんざクソみてーなモンだろうな!」

「コソ泥?あー…ぽちは野良だもんなぁ。残飯でも漁ってたか?」

「…ッ!人のこと馬鹿にしやがってッ!だいたい、なんでアンタみたいなヤツが俺に興味を示したのか判らなかったんだ。おおかた、そうして馬鹿にするためだったんだよな!こんなクソッタレな場所で…!クソ…畜生!」

 自分でも、何を言ってるのか判らなかった。
 ただただ目の前が真っ赤になっていた。
 貧しさで家族を亡くしてしまった気持ちなんて、コイツには判らないんだ。最強と謳われて、欲しいものは何でも手に入れてきただろうこの男に、何を言ったって無駄に決まっているのに、それでも何か言っていないとメチャクチャになりそうな俺がいたんだ。

「ぽち?」

 急に喚き出した俺に驚いているのか、それとも全く何も感じていないのか、妙に冷めた双眸をして那智は立ち上がると、全身で身構えている俺の傍まで暢気に歩いてきて首を傾げて見せた。
 そんないちいち癪に障る行動に苛々しながら、俺はすぐ傍まで来た那智が、気軽に伸ばしてきた腕を条件反射で振り払っていた。
 もう、こんなところには一秒だっていたくない。
 恐怖だとか怯えだとか、そんなものに支配されていたはずの俺の肝っ玉もやっぱり男だったんだな、殆ど我武者羅だったから恐怖心なんかスッカリ忘れて那智に言い放っていた。

「気安く触るなよッ!…アンタには助けてもらって感謝してる。だが、俺は犬じゃない。この恩はきっといつか返すけど、だからと言ってアンタに『犬』呼ばわりされてここにいるつもりはない!」

 振り払われた掌を、何を考えているのか、那智のヤツはただ呆然としたようにジーッと見下ろしている。犬の反抗に、どう対応したらいいのか判らない、そんな態度がますます俺を苛立たせた。
 もちろん、那智が本当にそんなことを考えているのかどうかなんてことは判らなかったが、一連の態度が俺に先入観を植え付けていたからもうダメなんだ。

「ちゃんと礼ができるようになったらここを訪ねるつもりだ。感謝はしてるんだ。だが、馬鹿にされるのはどうしても嫌だ!世話になったなッ」

 吐き捨てるようにそう言って、俺は首に下がっている首輪を掻き毟ってでも剥ぎ取りたい気持ちをグッと堪えて、なんとも言えない奇妙な顔付きをして掌を見下ろしたまま立ち尽くしている那智の傍を通り過ぎようとした。もう、俺のことすら眼中になさそうな那智のその態度は、俺が立ち去ることにも無頓着なようだった。
 なんだ、案外あっさりしていたんだな。
 クソ、そう考えてしまうと、なんだ、俺の方が居心地がよくてここに居座っていたみたいで胸糞が悪くなる。まあ、実際はそうだったのかもしれないけど…
 さて、これからどうするかな…そんなことを考えながら通り過ぎようとする俺の腕を、唐突にガシッと掴んできた思いのほか強い力に、俺は思わず飛び上がりそうになってしまった。
 掌を見下ろしたまま、俺の腕を掴んでいる那智に、何が起こったのか判らない突発的な動作には心臓がギュッと縮こまるような恐怖心が甦ってきた。
 殺されるんだろうか…ふと、そんな思いが脳裏を巡ったときだった。
 面白くもなんともない、いや、感情すら持ち合わせてはいないんじゃないかと言うほど無表情に掌を見下ろしていた那智は、目線だけを動かして俺を見たんだ。
 そう、何の感情も浮かべない、まるで人形のような無機質な眼差しで。
 それがどれほど恐ろしいものであるか、俺はこのとき初めて知った。
 全身から嫌な汗が噴出して、あまりの緊張感に軽い眩暈すらしている。

「ぽち?はぁ??何を言ってるんだ?世話になった??どこか行くのか?」

「…え?」

 なんとも言えない口調でキョトンと呟く那智は、その無機質な感情のない双眸とは裏腹の、やけに拍子抜けするほど不思議そうに頓珍漢なことを言ったんだ。

「どこかに行くなら…オレも一緒に行くぜ?夜になるとさぁ、この町は結構危ないワケよ。ぽちなんか可愛いだけで、他はまるで無防備だからさぁ。すぐに殺されちゃうんだぜー」

「…ッ」

 お前から離れてこの家を出ると言っているのに、何でお前がついて来るんだよ。
 いや、その前に、いったい何を聞いていたんだ?!

「そうやって、俺を鼻先で笑うんだろうな。アンタたち、力のある連中はいつもそうだ。そうやって、這い蹲って生きている連中を嘲笑うんだよ」

 何も感じもしないで。
 クソみたいな常識が全てだとでも言うように。
 弱いヤツが悪い、そんな馬鹿みたいな屁理屈を本気で信じやがって!

「もういい。アンタ、殺し屋なんだろ?俺を殺してくれよ。依頼なら何でも受けるって聞いた。じゃあ、俺を殺してくれ。西地区の36番地に壊れかけた古いビルがある。その3階の奥の部屋にベッドがあって、その下に金庫があるんだ。そこに俺の全財産が入ってるからそれを代金にしてくれ。130万ある」

 もう、何も聞きたくなくて、俺は捲くし立てるようにして一気に言った。
 那智がどんな顔をしているのかだとか、あの無機質な冷たい目なんか見たくもないしで、俺は床を睨みつけながら死を司る、この最強の神が下す決断をジッと待っていた。
 那智の腕なら、俺の首を圧し折ることぐらい朝飯前だろう。
 わざわざ、その鞘に収まった愛用の日本刀を、こんなケチなコソ泥の血で汚すことなんてないんだ。
 唇を噛み締めたら、なぜかじんわりと目の前が滲んで、俺は自分が泣き出しそうになっていることに気付いて舌打ちしてしまった。
 こんなことぐらいで泣くなよ、あれほど酷い目にあったって、こうして生きてきたじゃねーか!
 ああ、クソッ!
 力が、力があればよかったんだ。
 そうすれば、みんなあんな風に酷い死に方をしなくても良かったのに…俺だけがおめおめと生き残って、きっと彼の世に逝ったら謝らないとな。
 もう、こんな世界で地獄のような夢に魘されて生きていくのなんか真っ平だ。

「130万で殺しねぇ。ふーん、別に構わねーけど?で、誰を殺すんだぁ?あーでもオレ、殺し屋じゃねーよ?」

 不意に、的外れなことを言って面倒臭そうに頭を掻いている那智を、俺は呆然としたようにして見上げてしまった。いや、殆どたぶん、呆れていたんだと思う。
 コイツは一体、何を言っているんだ?
 誰をって…俺だって言ったじゃねーか!
 殺し屋だとかそんなこと、問題じゃないだろ?!
 コイツは、いったい何を言ってるんだ。

「オレー、ネゴシエーターなんだよね。まあ、必要に迫られれば殺しもするけどさー。んー、殺しは殆ど趣味だし?殺れっつーんなら殺ってもいーけどよ、別に」

「ネゴシエーターでも何でも構わないんだ!俺だ、俺を殺してくれ」

「なんで?」

 殆どキョトンとしたように、那智は俺の腕を掴んだままで見下ろしてきた。
 いったいこのワンコは、突然何を言い出したんだろうと、妙に冷めた双眸が見下ろしていた。 今までの話が一体なんだったのか…俺は眩暈を起こしそうになる弱気な脳味噌に確りしろと刺激を与えて、本当に良く判らなさそうに首を傾げている那智を見上げた。

「なんでって…もう、こんな世界は嫌だからだ。生きていくのが嫌なんだよ!嫌だから、死にたいんだ!」

 それの何が悪い?
 それなのにアンタには、こんなに言っても無駄なのか?
 そんなに俺を、蔑みたいのか?

「生きるのが嫌なのか?ふーん、じゃあ死ねばいい。そら、バーン!だ。これでたった今、お前は死にました。ハッハ!それで、生まれ変わってオレのぽちになったってワケ。知ってるかぁ?人間てヤツはなぁ、死ねば生まれ変わるんだぜ?それが同じ世界だったとしても、もうオレはお前を殺してやらない。だから次に死ぬときまで、大人しく『ぽち』でいればいいーんだよ。なぁ?」

 そう言って、那智のヤツは呆然と立ち竦んでいる俺の顔を覗きこみながら、ニヤ~ッと笑いやがったんだ。さも満足そうに、自分の言うことこそが全てだと、ヘンな自信にふふんと胸を張りながら…
 コイツはなんなんだ?
 なんと言う生き物なんだ??
 何も考えられずにグルグルする頭を持て余して倒れそうになる俺を、那智はニヤニヤと笑いながら抱き締めてきたんだ。

「可哀相になぁ、ぽち。でも安心しろよー?お前はオレがちゃんと面倒見てやるからな」

 頭に頬を寄せながら、グリグリと掌で後頭部を撫でてくる那智のその態度は、あくまでも俺を『犬』としてしか扱っていない。
 どうやら俺が、大好きな牛乳を勝手に奪われて、「何すんだよ、このバカ飼い主!」とワンワン吼えて怒っているのだと本気で思い込んでいるようだ。
 ああ、そうか判った。
 コイツを普通の人間だと思っちゃいけないんだ。
 たぶん、こんな世界に生れ落ちたコイツは、心を母親の腹に置き忘れてきた身体ばっか大きな子供なんだろう。
 玩具のようにして人間を殺すことで楽しさを感じてきた大きな子供は、どこが捻じ曲がったのか、俺を『犬』に見立てて育てることに楽しみを見出したのかもしれない。
 理解しろと言われても、理解なんか到底できないけど…俺は。
 死に損なっちまったな、とそんなどうでもいいことをぼんやり考えていた。
 これでコイツに命を助けられたのは2回目だ。
 皮肉なもんだな、死を司る神だと言って怖れられている、死を玩具にしてその掌の上で転がして遊んでいるようなヤツに、二度も命を救われるなんて…本当に、この世界はどうかしている。

「やっぱり、アンタはよく判らないヤツだ」

 殆どヤケクソでそう言ったら、那智のヤツはキョトンとして、それから何が面白かったのかニヤニヤと笑ったんだ。

「それはぽちがオレのことを良く知らないからさー。まあ、任せろって。仕事についてくればオレのことがよく判るようになって、きっとお前はオレに懐くんだから」

 またしても頭がどうかなってるんじゃないかと思うような台詞を平気で言って、那智は結構楽しそうに笑っている。その思惑や真相だとかが、もしかしたら俺の取り越し苦労なんじゃないかと思えてしまえるほど。
 那智のヤツは、本当はそんなつもりはなくて、思ったことをそのまま口にしているから皮肉になってしまうんじゃないだろうか。
 装飾されて飾り立てられた言葉に慣れすぎている俺なんかだと、那智の言葉にいちいちカッカして、卑屈になって途方もなく落ち込むんだけど…コイツはもしかしたら、そのあまりの強さのせいで刃向かうヤツとかいなくて、上辺のおべんちゃらを言うってことを知らないのかもしれない。
 それは人付き合いの上で最重要部分だって言うのに、那智はいったい、どんな風に育ってきたんだろう?
 人間はいつも、何かしら嘘をついて生きている。
 たとえばそれは、思ったことを装飾して話すことだって嘘の一種なんだし、それをしない那智と言うこの男は素直すぎるほど、ただ単に素直なだけなのかもしれない。
 だが、そのどうも腹に一物も二物も隠し持っていそうな、何か悪巧みしているようなニヤニヤ笑いの顔を見ていると、いまいち自分の考えに自信が持てないんだが…
 ますます頭がこんがらがってしまって、俺はなんだかバカらしくなって、もうどうでもいいような気になりかけてもいた。この際だ、那智が言うように仕事について行って、コイツのことを見極めて見るのもいいのかもしれない。
 俺は溜め息を吐いて、そんな恐ろしいことをどうでもいいことのようにして考えていた。
 本当にどうかしてる。
 いや。
 どうかしているのは俺の方なのかもしれない。

 俺の中の均衡が、この世界のように、ゆっくり軋んで狂いだしている。
 俺はそんな幻を見ていた…