第一話 花嫁に選ばれた男 13  -鬼哭の杜-

「むふふふ…」

 遅寝してしまった蒼牙が遽しく部屋を後にする直前、見送る俺を抱き寄せながら色気も何もない髪に唇を寄せて幸せそうにうっとりと瞼を閉じてキスしてくれてから、まるで夢見心地のまま別れて母屋に戻った俺を、不意に不気味な声が出迎えてくれた。
 な、なんだ!?
 慌てて振り返ったそこには、ジーンズに水色の爽やかなキャミソールを着ただけの繭葵が、ニヤニヤ笑いながら腕を組んで立っていた。

「離れから出てくるところバッチリ見ちゃったもんね♪…大丈夫みたいでよかったよ」

 強気で不気味に笑った繭葵だったけど、少しホッとしたように疲れの滲む暗い陰を睫毛の下に落とすようにして瞼を伏せると、小さく笑ったんだ。その顔を見ていたら、幸せな気分に自分だけ浸ってるのも悪いような気がして、慌てて昨夜のことを説明したんだ。
 だってさ、繭葵は聞く権利があると思うから。

「…そうだったんだ。うん、でもボクもその意見には賛成だよ。昨夜ね、眠れずにずっと考えていたんだけど、ボクも全く同じ気持ちで結論付いちゃったからそのまま眠っちゃったよ♪」

 あっけらかんと笑う繭葵に一瞬呆気に取られた俺だったけど、繭葵の吸い込まれそうなほど大きな瞳が潤んだように濡れているのを見てしまうと、同じような気持ちだと思い込んでくれている繭葵の気持ちが有り難かったし素直に嬉しかった。
 あんなこと、通常なら信じられずに、俺や蒼牙のことを気持ち悪いものでも見るような目付きになるって言うのに…繭葵のヤツは、そうはしなかったんだ。
 俺の弾き出した結論に一瞬の躊躇も見せずに、陽気に賛同してくれた。
 眠れてもいないくせに、眠ったんだと嘘まで吐いて。
 繭葵は強いと思う。
 力が強いとかそう言うことじゃなくて、精神的に、繭葵はきっと俺よりも強いと思う。

「俺、繭葵と出会えてよかったよ」

「ん?なに、当たり前のこと言ってるんだい?そんなの当然じゃないか!ボクを誰だと思ってるんだ、民俗学会期待の新星、大木田繭葵そのひとだぞ♪」

「あー、はいはい。俺が悪かった」

「はぁ?何で謝るワケ??」

 繭葵はキョトンッとしたようにうんざりしている俺を見上げていたけど、アイツらしい強気な笑みを浮かべると、フフンッと笑って嬉しそうにそんな俺の腕を飛びつくようにして抱き締めてきたんだ。

「やっぱ、蒼牙様には光太郎くんだよね!ボクさ、もうずっとそう思ってたんだ♪初めて光太郎くんを見たとき、違うか。光太郎くんを見ている蒼牙様を見たときピンッときたからね。やっぱ、アレでショ。恋する乙女の眼差しだったもん」

「ブッ!…ここ、恋する、お、おお、乙女ってッッ」

「…光太郎くん、動揺しすぎだよ」

 呆れたように笑いながらモチロン冗談だと見上げてくる繭葵を、顔を真っ赤にして見下ろしてしまう俺はどんな顔すりゃいいんだと泡食ってしまった。
 いや、冗談だってのはよく判ってるんだけど、笑えない冗談だって。

「でも、光太郎くん偉い!」

「…はぁ?」

 繭葵はウシシシッと笑いながら、勝気な双眸を細めてニヤニヤと笑っている。
 む、なんだよ?

「ボクね、悪いとは思ってたんだけど…きっとね、光太郎くんは逃げ出すんじゃないかって思ってたんだ」

「え?」

 ハッとして爆弾発言が大好物の妖怪娘を見下ろしたら、繭葵は仕方なさそうに笑ってから、申し訳なさそうにポツリポツリと語りだしたんだ。

「人殺し…には変わりないワケでショ?だから、普通の生活をしてきた光太郎くんにはキツイんじゃないかって思ってしまったワケだよ」

 うんうんと、1人で頷きながら言葉を重ねる繭葵に…って、おい。ちょっと待てよ。
 なんだ、その意味ありげな言い方は。

「まるで、普通じゃない生活でもしてきたような言い方だな」

「ククク…」

 え!?今、なんかヘンな笑い方しなかったか!!?

「…なーんつってね♪まあ、民俗学なんてものに携わっているとイロイロと起こってしまうワケですよ。そう言うことに慣れちゃってたからさぁ、ちょっとはビビッたけど、それでも一晩経てば冷静になれたんだ。でも、光太郎くんはそうはいかないでショ?」

「ああ、まあ、そうかな」

 だからね、と、繭葵は俺の腕に抱き付いたままで唇を尖らせるようにしてニヤニヤと笑っている。

「心配だったんだけど。でもまさか、光太郎くんが蒼牙様にプロポーズまでするなんて思わなかったから、偉い!って思ったってワケだよ」

「ああ、なるほど…って、おい!俺はプロポーズなんてッッ」

「あははは!しちゃってるクセに今更照れてるなんて大笑い♪」

 ぐはっ!
 思わず真っ赤になってしまう俺を意地悪く覗き込む繭葵だったけど、ちょっとっつーか、かなりホッとしたように勝気な双眸をやわらかく細めて、エヘヘッと笑いながらそんな俺を見上げている。
 ああ、でも本当に。
 俺はこの村で繭葵に出逢えて良かった。
 誰も知らない、何も頼れないこんな辺鄙な村で…唯一、最初から警戒心も無く接してくれたのは蒼牙と桂と繭葵だけだ。
 この3人には、ホントに感謝しないとなぁ…と思ってしまっても仕方ないんだろう。

「これから朝ご飯だよね?やっぱ、今日は玉子焼きとか出てくる…んん?」

「お前って食うことばっかな…ウワッ!?」

 和やかに談笑する俺たちの間に割って入るように、ふと伸ばされた腕はそのまま肩をやんわりと掴んできた。
 声は確かに似てるのに…

「君が蒼牙の婚約者なのかな?」

 少し大人びた声音は俺の頭上から降り注いで、腕に抱き付いていた繭葵のヤツはムッとしたように綺麗に整っている眉を顰めた。

「えーっと…どなた?」

 思わず、なんとも言えずにただただ訊ねることしかできない俺が胡乱な目付きで睨む繭葵を無視して背後を振り返れば、目線はもう少しズズィッと上に向けなければいけなくて、それでも見上げた先には朝陽を背にした美丈夫が静かな微笑を浮かべて佇んでいた。
 無造作に伸ばした髪は肩の辺りでキッチリと纏められているけど、蒼牙に良く似た眼差しを持つ男は、蒼牙にはないやわらかな栗色の髪と瞳だった。

「ああ、これは失礼。私は不二峰龍雅(フジミネ タツマサ)と申します。どうやら、朔の礼には間に合ったようですね」

 ニコッと穏やかに微笑まれてしまうと、ああ、蒼牙が大人になって落ち着きを持ったら…いや、今でも人前じゃあ充分落ち着いてはいるけど、こんな風に笑う大人になるんだろうと思える、本当に蒼牙に良く似た人だ。
 親戚なんだろうか?

「…ねね、光太郎くん。この不二峰さんってさ、蒼牙様に似てると思わない?」

 繭葵のヤツが全く俺と同意見をコソッと耳打ちしてくるもんだから、俺は思わず釣られて頷いてしまった。それを自分の質問の答えだと勘違いしたのか、不二峰と名乗ったこの美丈夫は、穏やかに双眸を細めて俺の顔をゆっくりと観察しているようだった。

「君は、蒼牙の理想にぴったりだね。子供の頃から話していた初恋の君にソックリだ」

「…え?」

 繭葵も獲物を見つけたハンターのように双眸をキュピィーンッと光らせて、「なんのこと?」と鼻息荒く次の言葉を待っているようだった。
 いや、不二峰さん。
 コイツにだけは蒼牙の知られざる過去話はしてやらないでください。蒼牙の為に、いや、繭葵自身の為に!!
 とは言え、俺だって知りたいじゃないか。
 蒼牙の初恋の相手が誰なのか…いや、たぶん。それは十三夜祭りの日に出逢った俺のことを言っているんだろうけど、それでも、人の口から聞いてみたいってのはただの惚気だったりするんだろうか??
 うっわ!俺、今何を考えちまったんだ。
 1人でアワアワしていたら、不二峰さんは婚約者の俺に余計な心配をかけてしまったかと一瞬眉を寄せたが、安心させようとでもしているかのように、困った顔で僅かに眉を寄せて笑ったんだ。
 そこら辺り、まだまだお子様の蒼牙とは全然違うんだけど…いつか、アイツもこんな風に、ジェントルマンな大人ってヤツになっちまうのかなぁ。

「ああ、これは余計なことを言ってしまったかな?どうか、気にしないでくれ。初恋の君とは言っても蒼牙がまだ5歳ぐらいのときに…」

「龍雅!…アンタ、呼んでもいないのに来ていたのか?」

 まるで余計なことは言うなとでも言うように、唐突に俺の背後から声がして、繭葵を腕にぶら下げたままで肩越しに振り返った先に青白髪の神秘的な髪を持つ、山から降りて来た鬼だってこんなに綺麗じゃなかっただろうって思えるほど、キリリとした男らしい面立ちの蒼牙が朝陽を浴びて立っていた。

「蒼牙…」

「やあ、久し振りだね。暫く見ないうちに大きくなった。だが、私を朔の礼に呼ばないとは悲しいじゃないか」

「アンタだから呼びたくなかっただけだ」

 あからさまに敵意を剥き出しにしている蒼牙のそんな態度は初めてだったし、仕方なさそうに微笑んでいる、蒼牙に良く似た面差しの不二峰さんがそれほど悪い人には見えないから、余計に蒼牙の態度が不思議で仕方なかったんだ。
 だから俺は、驚きを隠しきれずにチラッと繭葵と目線を交えてしまった。
 妖怪爆弾娘も吃驚していたらしく、俺の方をコソッと盗み見た後、何か面白い玩具でも見つけた猫科の猛獣のような獰猛さでニヤッと笑いながら事の成り行きを見守っているようだ。
 ううッ、悪趣味なヤツめ。

「蒼牙、君の愛しい婚約者に私を紹介してくれないのかい?」

「…光太郎に触るな」

 ムスッとしたような顔のままで、有無も言わさずに腕に繭葵をぶら下げた俺をそのままグイッと抱き寄せて、ただやんわりと肩を掴んでいる不二峰から引き離したんだ。
 嫉妬…と言うよりも、蒼牙にしては珍しい嫌悪感のような感じだと思うのは、間違いかな。

「おやおや…私も嫌われてしまったものだな。だが、これでも一族の端くれなのでね、君が好むと好まざるとにかかわらず朔の礼には列席するよ」

 両手を降参するようなポーズで持ち上げていた不二峰は、仕方なさそうに片頬を軽く上げるようにしてシニカルに笑っていたけど、不意にあからさまに不機嫌のオーラを立ち昇らせたままでムスッとしている蒼牙から目線を逸らすと、アワアワと、こんな状況ではどんな顔をすればいいんだと慌てふためく俺に向かって軽くウィンクなんかしやがったんだ。
 それはやっぱり、蒼牙を煽る…って魂胆見え見えの微笑だったんだろうけど。
 あまりの人懐こさに思わず俺も繭葵もヘラッと笑っちまったんだ。
 もちろん、それで蒼牙が更に不機嫌になるなんてこた、きっと不二峰には判りきっていたことで、最初から計算ずくだったんだろう。

「是非とも、蒼牙が惚れぬいている呉高木家の花嫁様の白無垢は拝まないとね。ここに来た意味がない」

 さらりとそんなことを抜かしたものだから、地獄の底から甦った亡者だってこんな顔はしていないだろうって思えるほど、眉間に深い縦皺を刻んだ蒼牙が殺意を込めてそんな不二峰を睨み据えたんだ。
 やばい、繭葵。
 不二峰が殺される!
 俺と繭葵はほぼ同時にそんな考えが脳裏に閃いたのか、お互い、慌てて顔を見合わせてしまったってのは内緒だ。

「10年以上も前に村を捨てたアンタに見せる義理はない」

「…ふふふ、そのことをまだ怒っているのか」

「いや、もう関係のないことだ。俺は光太郎とこの村で生きる。今更アンタの出る幕じゃないだろう?」

 まるで宣言でもするように、それまであれほどムスッとして不機嫌そうに威嚇していたはずの蒼牙が、不意に冷やかな眼差しになって、いっそキッパリと言い放ったんだ。
 蒼牙の声はそれでなくても深くてよく通る声だったから、朝の陽射しの中に、それでも未だまどろむ清廉な大気を震わせるようにして響き渡った。
 不二峰は一瞬、ともすれば見逃してしまいそうなほど微かではあったけれど、僅かに双眸を細めて、そんな蒼牙を食い入るように見詰めたんだ。
 …その瞬間を見てしまった俺は、ドクンッと胸の辺りが爆ぜるような、なんとも言えない奇妙な胸騒ぎのようなものを感じてしまっていた。胸元を押さえて、どんな顔をしているのか、それすらも気に留める余裕もない俺の目の前で、見たこともない蒼牙に良く似た呉高木の一族である男は静かに笑みを湛えている。
 蒼牙の声を聞けて、満足だとでも言うように。
 俺は急速に耳元でがなり立て始めた何かの音が鬱陶しくて、眉間に皺を寄せたままで俯いてしまった。

「…光太郎、どうしたんだ。具合でも悪いのか?大事な身体だ、用心してくれ」

 ふと、青褪めてしまった俺に誰よりも早く気付いたのか、蒼牙が眉間に皺を寄せて覗き込んできた。
 その双眸はどこまでも真摯で、何よりも心配そうだった。
 そんな蒼牙の顔を見ていたら、それまで胸の辺りで蟠っていた不安のようなものがまるでいきなり晴れた霧のようにパッとなくなるんだから不思議だよな。
 …あれ?俺、何を不安に思ってたんだ??

「いや、大丈夫だよ。ちょっと、腹減ったかなぁって」

 エヘヘヘッと笑って見せたら、心配そうに覗き込んできていた蒼牙がホッとしたように男らしい口許を軽く歪めて笑ったんだ。心配させるなよなーと、その双眸が安堵したように細められている。
 そうして、今までの蒼牙なら絶対にしなかったようなことを…えっと、つまり。額と額をコツンッと軽くぶつけてから、上目遣いに覗き込んできたんだ。
 ああ、心配させちまったなぁ…って思ったら、なんか擽ったくってさ。
 俺も思わず笑ってしまったんだ。
 そしたら…

「あーあ!朝っぱらから見せ付けられちゃったよ。えーっと、不二峰さんだっけ?ラッブラブの二人に水差すなんて、馬に蹴られてどうにかなる前に砂でも吐くんだからさ、さっさと退散した方がいいと思うよ」

 俺の腕にしがみ付いてコソコソと様子を窺っていた繭葵のヤツが俺から離れると、突然そんなことを大声で喚くなり盛大な溜め息を吐いて、呆気に取られている不二峰の腕をガバッと掴んで歩き出したんだ。

「んっじゃーね!朝食には遅れないようにね、お二人さん!」

 肩越しに振り返ってニッと笑った繭葵は、ボケッとしている俺に軽いウィンクを寄越してきた。そのウィンクに気を取られていた、だから気付かなかったんだと思う。
 腕を引かれる不二峰も肩越しに振り返って、何か物言いた気な双眸でソッと蒼牙を見詰めたことに。その眼差しを受け止めた蒼牙の双眸もまた、何か言いたそうに細められていたと言うのにな…

「…ったく!」

 不意に頭上で声がして、呆気に取られていた俺はハッとして蒼牙を見上げたんだ。
 そうするとヤツは、思い切り不機嫌そうに眉根を寄せて苛々しているように俺をギュウッと抱き締めてきたから…あの、俺ちょっと苦しんですが。

「蒼牙、苦しいよ」

「フンッ!誰にでも愛想を振り撒くから苦しい思いをするんだ。アンタは俺だけに笑いかけていればいいんだ」

「…なんだよ、それ。蒼牙は思い切り我が侭だなぁ」

 俺が呆れたように笑って、その胸元に頬を寄せれば、蒼牙は当り前だとでも言いたそうに色気もクソもない黒髪に頬を寄せてプリプリと腹を立てている。
 その態度が、最初はあんなに嫌だったのに、現金なもので俺は、それがたまらなく愛しいなんて思ってるんだからどうかしてるよな。

「当然だ。アンタの前では我が侭でもいいと言ったのは光太郎だ。言動には責任を持て」

「…」

 相変わらず、いつもの調子でフフンッと言い張る蒼牙のちょっとした子供っぽさに、その時になって俺は、やっとホッとしていた。
 あんな風に蒼牙に良く似た大人を見てしまうと、なぜだろう、蒼牙がどこか遠くに行ってしまうような予感がして不安になっていた。
 蒼牙はここにいるのに。
 俺の腕の中で、安心したように俺を抱き締めてくれてるって言うのにな…何を不安に思ってしまったんだろう。

「仕方ないよなぁ。蒼牙の子供っぽさは今に始まったってワケじゃないしさ」

「なぬ?この俺のどこが子供っぽいって言うんだ!?」

 ムムッとしたように俺の顎を引っ掴んだ蒼牙が顔を上向かせると、驚くほど胡乱な目付きで睨み据えてくるから思わずビビりそうになって引き攣り笑いをする俺に、ヤツは急に睨む双眸を甘ったるく細めてからチュッとキスしてきたんだ。

「…へへへ、蒼牙だ」

 俺はなんだか嬉しくなって、蒼牙の背中に腕を回したままでその悪戯みたいなキスにじゃれ付きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
 蒼牙は躊躇いもせずに歯列を割ると、ゆっくりと肉厚の舌を挿し込んできて奥でノロノロしている俺の舌を絡め取ると、やわらかく吸ってきた。
 蒼牙とキスするのは大好きだ。
 一度自覚してしまえば恋なんて呆気ないもので、それはすぐに愛に摩り替わってしまうと思う。
 愛しいなんて俺、絶対に思ったりなんかするかよって高を括っていたのに、気付けばすっかり恋に落ちていた。
 カード破産するOLみたいなモンかなぁ…あの、雪ダルマ方式とか言う一気に膨らんでいくとかなんとか…いや、たとえが悪かったな、まあ、こんな時にそんな下らないことを考えていたら蒼牙のヤツが、息が上がっちまうほどの激しいキスの合間で苛立たしそうに言ったんだ。

「龍雅には近付くな、アイツと話をするな、アイツに笑いかけるな」

「…ぅ…ん、ふ…はぁ…って、そ…が?」

 唾液に唇を濡らしたままでトロンッと蒼牙の顔を見上げようとしたけど、すぐにキスの嵐に巻き込まれちまってそれどころじゃない。

「アンタは俺だけの花嫁だ。綺麗な、少しでも力を入れればきっと壊れてしまうんだろうよ。だから、龍雅には近付くな…いや、この俺が触れさせやしない」

「…ッ…?」

 思わずカクンッと膝が笑いそうになって腰砕けになり掛けの俺を抱き寄せたままで、蒼牙は貪るように久し振りの濃厚な口付けに俺を溺れさせてしまった。
 もう、何がなんだか…
 誰に見られたって、どうせ男で白無垢を着るんだ、いまさら捨てる恥なんかないっての。
 溺れるように蒼牙にしがみ付けば、応えるように力強い腕が抱き締めてくる。
 この腕に溺れて俺は、どこまで蒼牙に染まれるんだろう…

 クラクラするような強烈で濃厚なキスに半ば溺れていた俺を抱えるようにして、蒼牙は相変わらずの強引さで朝食の準備された広間まで連れて行ってくれたんだけど…
 正直言って、それだけは勘弁して欲しかった。
 こんな熱に浮かされたような面をしたまま、みんながいる大広間には行きたくなかった。
 捨てる恥なんかない…とか強がりを言ってしまったけど、さすがに小雛のいる場所にこんな顔を晒したくはないよなぁ。
 俺の決断が小雛を悲しませることは判っている、でも、小雛が子供を産むこともまた間違いようのない確信だと信じているから…却って、ホントは今の俺の方が滑稽なんだろうと思っちまう。
 小柄な、まだ少女のような小雛は、あんなにフワフワしている可愛い女の子だって言うのに、あれほど強い意志を秘めて俺を見据えてきた気丈なひとは、きっとそれでも幸せだと笑うんだろう。
 それはホントは喜ばしいことだと言うのに、俺は…嫉妬してる。
 そんな風に、ごく普通に当り前のように子供を産める小雛に、きっと醜い嫉妬をしているんだと思う。
 だから、ヘンなプライドがまたムクムク頭を擡げやがったから、広間と廊下を仕切る障子のところで俺は、蒼牙の腕を疎んで軽く振り払ってしまったんだ。

「…?」

 僅かに眉を寄せた蒼牙に、無理して浮かべた作り笑いには反吐が出そうだったけど、それでもそれが俺なりのプライドだとでも言わんばかりにニコッと笑って言ったんだ。

「今日の朝飯は魚じゃないことを祈ってるんだぜ、俺」

「…へえ?ならば、見てからのお楽しみってヤツだな」

「そそ!そう言うこと」

 蒼牙ってば冴えてるじゃん、とかわざとらしくおどけて見せて、サッサと障子を開けて広間に入ったところで、俺はそれまで忘れていたことにハタッと気付いたんだ。
 いや、その顔を見つけて思い出したと言った方が正しいのかもしれないけども。

「高遠先輩!」

 思わず驚いて立ち竦む俺の背後から入ってきた蒼牙は、別になんでもないことのように肩を竦めて、呉高木家の当主らしく堂々と一段高い、上座に用意されたお膳を前にどっかりと胡坐を掻いて座ったんだけど…高遠先輩がいる。
 悲鳴を上げて逃げ出したのに…そうか、あの後蒼牙は、きっと先輩たちに酷いことはしなかったんだ。
 禁域を侵した咎とか何だとかで、きっと何かされているに違いないってすげー心配していたんだけど、そうか、杞憂に過ぎなかったのか
 ああ、心配して損したぜ。
 蒼牙のヤツが殺すなんて威しやがるから本気で心配していたってのに…蒼牙も人が悪いよなぁ。
 やれやれと、それでも蒼牙の優しさに感謝しながら俺は先輩に声を掛けた。
 たとえ先輩から『ホモ』とか『オカマ』だと罵られたって、元気ないつもの先輩の姿を見たらホッとしてしまったってのは否めない。
 だから、声を掛けたんだけど…

「高遠先輩、無事だったんですね」

「…ああ」

 やけに張りもなく、と言うか、感情そのものがすっぽりと抜け落ちてしまったような、抑揚のない返事に俺は驚いてしまった。
 あまりの素っ気無さに呆気に取られている俺の腕を引っ掴んで、気付いたら傍らにいた繭葵がそのままいつもの席に促してくれたから、惚けたように呆然と突っ立っていた俺を怪訝そうな顔で見ていた他の連中もフイッと視線を外してしまった。

「あ、ありがと、繭葵。な、なぁ…」

「うん、言わなくても判ってるよ。先輩さぁ、なんかヘンだよね。ボクとぶつかっても反応がないんだ。まるでロボトミー手術でもしたみたいに不気味だよね」

 時折、この妖怪娘は難解な発言をかましやがるから、俺は眉間に軽く皺を寄せて首を傾げてしまう。

「ああ、ロボトミーってのはね、前頭葉白質の一部に切開を加えて神経繊維を切断する外科療法のことだよ。人格が変化したり、知能が低下したりするから日本じゃもう、行われていないんじゃないかな?今の先輩ってそんな感じじゃない?」

 そう言われてみれば、抑揚もないし覇気もない、まるであの山男みたいな先輩には似つかわしくない変貌振りだ。

「お、おかしいよな?」

「うん…でも下手なことは言えないよ。外見はちっとも変わっちゃいないんだ」

 思わず同感だと頷きかかった時だった。
 ガチャーンッと何かが割れる音がして、ハッと顔を上げたら、それまでは由美子の陰に隠れるような存在だった可愛い系の香織が般若のような相貌で突っ立っていたんだ。その足元には、散乱した、それはそれは伝統のある古めかしい食器がその上に乗っていた食い物たちを飛び散らして転がっている。

「ち、ちょっとぉ!香織ったらどうしちゃったのぉ!?」

「うっるさいわねぇ!何よ、由美子ったら馬鹿みたいに品作っちゃってさぁ。ここの飯なんかゲロまずだっつってたじゃん!何よ、今日もこんなモンなの??食べれないっての!あたし、今日でおさらばだし、後でファミレスに行くからこんなのいらないッ」

 言い切るなり、香織のヤツは憤然と腹を立てて広間から出て行ってしまった。
 その後姿を呆気に取られたようにポカンッと、朝っぱらからでもキッチリとメイクを決めている由美子が見上げていたけど、ハッと我に返って注目されていることに気付いたのか、彼女は泣き出しそうな心境だっただろうに、毅然とした態度で高遠先輩に肘鉄を食らわしたんだ。

「ちょっと、高遠くん!香織がヘンよッ!この場合、この場を収めるのは部長である高遠くんでしょッ」

「…ああ」

 抑揚もなく頷くだけで、尤もなことを言っているはずの由美子の方が、まるで肩透かしでも食らったようにポカンッとして、同じく信じられないものでも見ている望月と顔を見合わせたんだ。

「ち、ちょっと、望月。悪いけど、ここお願いできる?あたし、香織のところ行って来る!」

「あ、ああ!」

 蒼牙に頭だけ下げると、慌てて広間を飛び出す由美子の後ろ姿を見送ってから、望月は慌てて後片付けにかかるお手伝いさん達を手伝いながら、上座で胡坐を掻いて頬杖をついている蒼牙にしどろもどろで謝辞を述べたけど、呉高木の当主は緩慢な態度で寛容に許しているようだった。
 畳はヒッチャカベッチャカだけども、きっと、その余りある資産でもって畳なんてすぐにでも張り替えちまうんだろうなぁ…う、ちょっと貧乏根性が出てしまった。

「あら!龍雅さんじゃありませんこと。いつからいらしてたの?」

 不意に、まるでそんな一連の出来事など何処吹く風とでも言うように、薄黄緑色のカーディガンを羽織って烟管を燻らせている伊織さんがふらふらと広間に入ってくるなり、朝食の席に何時の間にか家族の一員としてすっかり馴染んでいる不二峰龍雅に声を掛けたんだ。

「昨夜晩くに着きましてね。皆さんを起しても申し訳ないと思い声を掛けなかったのですが…ご挨拶が遅くなりました」

「あら、龍雅さんなら何時でもこの屋敷にお戻りになっても宜しくてよ。ねえ、蒼牙さん?」

「…ふん」

 あからさまに無視を決め込む蒼牙を更に無視した伊織さんは、珍しく機嫌が良さそうに笑っている。
 いつもは何事にも無頓着そうな顔をしている伊織さんのその珍しい表情に、同じように吃驚したんだろう、繭葵と俺の頭からは先輩たちの不可思議な行動はシコリとなって残っていたけど、それでもその場では気にならなくなっていた。

「不二峰の伯母様たちはお元気かしら?」

「ええ、この度の朔の礼にも参列したがっていましたが、何分、高齢なものでして…私が不二峰の代表として参った次第ですよ」

「あらそう?お養父様も宜しかったわね、龍雅さんがお越しになって」

 伊織に話を振られた直哉は勿論だとでも言うように、大袈裟に頷いて意味深な目付きで俺を、そして花嫁候補たちを見渡した。その視線に気付いたのはどうやら俺と繭葵だけだったらしく、俺はムカムカしながら繭葵の腕を肘で突付いてコソッと耳打ちしたんだ。

「先代当主のヤツ、なんか言いたそうな顔してるよな?」

「ホンット!自分からボクたちを花嫁候補だとか迷惑な名目で招いておいて、あの不二峰龍雅だっけ?アイツが現れてから途端に目障りそうな顔しやがってさぁ。迷惑なのはこっちだっての!そうでショ、光太郎くん」

「どーかん」

 2人でコソコソ話していたら、直哉の突発的な馬鹿笑いが聞こえて、俺と繭葵が吃驚したように顔を見合わせて顔を上げたところに、年代物の陶器の水差しを抱えた眞琴さんが相変わらず朝っぱらからキチンと着物を着付けて楚々とした足取りで入ってきたんだ。

「お食事前に、花嫁候補の皆様方には御神酒を召し上がって頂きます」

 凛とした声音の眞琴さんがそう厳かに蒼牙に言うと、上座に座している当主は肩を竦めるようにして面倒臭そうに頷き、それから思わずと言った感じで口許がニヤけたようだった。
 それは見落としてしまいそうな変化だったけど、確かに、面倒臭そうな顔をしていたくせに一瞬、ニヤッと笑ったんだ。でも、それを発見したのはどうやら俺だけだったらしい。
 なんか、ラッキーなんだか何なんだか。

「それでは、まずは小雛さまからお召し上がりください」

「…はい」

 か細くコクリと頷いて、膳の上に用意されていた朱塗りの杯を両手でソッと持った小雛が杯を差し出すと、眞琴さんは無言でトクトクトク…ッと神酒を注いだ。小雛はそれを見詰めてから、息を整えて、それから一気に呑み干した。
 繭葵がその間に説明してくれた話だと、『晦の儀』に向けて『禊の儀』ってのがあるらしく、それはこの御神酒で身体に溜まっている悪しきモノを取り除き、綺麗な身体で当主に身を捧げないといけないらしく、その御神酒ってのは一気呑みしなきゃいけないんだと。
 …とは言っても、酔ってぶっ倒れるほどの量ではなく、お猪口に軽く一杯ってところかな。 小雛の次は繭葵で、「お酒だー」とニヤニヤ笑ってサッサと飲み干した酒豪娘の次が、俺だった。
 小雛ですら薄ら頬を染めて吐息なんか吐いてるってのに、全然呑み足りないとでも言いたそうな顔をした繭葵は、面白くもないだろうに杯に注がれた酒を見下ろす俺をのほほんと見詰めている。

「あれ?この酒…ちょっと赤っぽいな??」

「あら、気付かれましたの?この御神酒はご神木の幹より摘出した樹液を混合していますの。なので、樹液由来の赤みが差すのですわ」

「へー…あ、でもこれ、いい匂いだな」

「そうでございましょう」

 うふふふっと、眞琴さんがアルカイックスマイルなのに嬉しそうに見える笑みを浮かべて頷いたんだけど、ふと、何気なく上座に目をやったら、蒼牙のヤツが今か今かと、食い入るようにこちらを見ていたから思わずビビッてしまいそうになった。
 なんだってんだよ?!と眉を顰めれば、早く呑めと不機嫌そうな蒼牙の双眸が物語る。
 ああ、そうか。
 コイツを呑まないと朝食が始まらないってワケなのか。
 そっか。
 はたとその事実に気付いて、俺は慌てて一気に御神酒を呑み干した。
 咽喉を一瞬カッと焼いたけど、その後味はまるで桜餅とでも言うか、桜の味がしたんだ。

「この酒、美味いな?」

「うんうん、もう一杯!…って言いたくなっちゃうよ。ウッシッシッ」

 浮かれぽんちで笑う繭葵に釣られたように笑ったら、あれ?もしかしたら、この御神酒って結構、度が強いんじゃないのか?
 酔ってないって思っていた繭葵と俺の方が、すげー酔っ払ってんじゃないだろうな?
 お互いに浮かれて笑っていた俺は、何故か知らないんだけど、いつだって上座の蒼牙が気になって、気付いたら目線が呉高木の当主を追っていた。
 ふと、バッチリ目線がかち合ってしまった俺は、その時ほどハッとすることはなかった。
 蒼牙の顔が、あれほどうんざりするほど不機嫌そうだった蒼牙の顔が、まるで染み入るような、物静かな笑みを湛えていたんだ。その顔は、今まで見たこともないほど、幸せそうだった。
 御神酒に酔っ払った俺が見た、これは幻か夢なんだろうか?

「さて、皆さま。お食事を召し上がってくださいな」

 眞琴さんが晴れ晴れとした顔をしてそう言ったから、物静かな朝食タイムは始まったワケだけど、漸く大役を果たした眞琴さんが珍しく機嫌が良さそうに笑っていたんだけど…ふと、不二峰龍雅の前に差し掛かったところで一瞬だが立ち止まった。
 その瞬間、まるで大気中に稲妻でもスパークしたような錯覚さえ覚える、目に見えない攻防戦が繰り広げられたような気がしたのは、たぶんきっと、俺の気のせいじゃないはずだ。

(すっげ、こえぇぇぇぇッ)

 思わずガクガクブルブルしそうになった俺の傍らで、同じく絶句している繭葵が青褪めていた。
 いったい、眞琴さんと不二峰の間に何があったのか知らないが、お陰さまで普段通り、いやそれ以上の沈黙が圧し掛かる、なんとも気まずい朝食タイムは恙無く続行されるのだった。
 俺が嫁になったら絶対に、なんちゃら党をぶっ壊せってワケでもないけど、この風習だけはぶっ潰そうと固く誓ってしまった。
 …やれやれ。