第一話 花嫁に選ばれた男 14  -鬼哭の杜-

 食事を終えた連中は銘銘、好き勝手に広間を後にしたんだけども、俺と繭葵はその場に残っていた。
 この屋敷の主である蒼牙は、食事を終えるといつも決まって仕事部屋として遣っている離れに行ってしまうし、だからと言って部屋に戻るのも面白くないから、ただなんとなくブラブラと残っていたんだけど、繭葵のヤツも釣られたように残ることにしたようだった。

「ボクね、知っているんだよ」

「へ?何をだよ」

 つーか、突然どうしたって言うんだ?
 首を傾げる俺に、繭葵のヤツは女の子だってのに腕を組んで仁王立ちしたままで、フフンッと笑いながらチラリッと俺を横目で見ると肩を竦めやがったんだ。
 なんだよ、その態度はよー

「光太郎くんがここに残った理由。あの先輩が心配なんでショ?」

「…あー、まあな。やっぱ、高校の頃は世話になったし、あんなの異常じゃないか」

 そりゃあ、この村では尋常なことが異常であって、異常なことが尋常なのかもしれないけどなぁ…
 それでも俺は、このまま先輩を帰してしまうのは、なんだかとてもよくないことのような気がして、正直気が気じゃなかった。
 だから繭葵のヤツに、「んっとに、お人好しなんだから」と言われたとしても、反論するよりも先に足が勝手に動き出していた。

「待ってよ、大丈夫!この繭葵さまも一緒について行くよん♪」

 別についてこなくていいっての。
 お前の場合、そこに居るだけで蓮の花が咲いたような清廉でたおやかなイメージの小雛と違って、そこに居るだけで常に風が吹き荒れ、おっさんの鬘が吹っ飛んでいくようなイメージがあるんだよな。だから、厄介ごと以外の何ものでもないんだけど…でも、それでも俺が繭葵を連れて歩くのは、それなりにこの村にまだまだ馴染めていない証なんだろう。

「光太郎様」

 ふと、名前を呼ばれて振り返ったら、なぜか俺よりも遅くに歩き出したくせに少し先を進んでいた繭葵も、その凛と澄んだ、耳に心地良いバリトンの声音に足を止めて振り返ったようだ。

「光太郎様、どちらに行かれるのですか?」

「あ、桂さん…」

 そこには寡黙な面差しの桂が、淡々とした、感情の窺わせない表情をして立っていた。
 そう言われてみたら、桂とも長いこと会っていないような気になってしまったけど…あんまりイロイロなことが一度に起こるからさぁ、俺の、それでなくても自信がない脳みそがそろそろ悲鳴でも上げそうだ。

「えーっと、先輩たちが今日帰っちゃうからさ。その、挨拶にでも行こうかって」

「…左様でございますか。ですが、光太郎様。差し出がましいことを申し上げますが、高遠様は光太郎様を快く思われてはいないように存じます」

 確かに、桂の言う通りなんだけど、それでも俺は、無表情のままでも心配してくれているんだと判る桂の見掛けによらない饒舌な双眸を見詰めたままでニコッと笑ったんだ。

「ありがとう、桂さん。でも、これは俺の問題だし。何より、先輩には高校の頃にお世話になっているから、せめて最後に挨拶ぐらいはしておきたいんだよ」

 もう、この先いつ会えるか判らない…いや、恐らく俺は、この村から出ることなく、蒼牙と一緒にこの村の土に還るんだろうから、これがきっと最後になるだろう。それなら、あんなおかしな状態になっている先輩をそのままにして別れることなんて到底考えられなかった。
 俺の意志の強さを見て取ったのか、それでも桂は、無表情だったくせに眉根を僅かだがソッと寄せて、何か言いたげに開きかけた口を引き結んでしまった。
 完璧な執事の鑑のような桂は、余計なことなどは一切言わないんだけど、その微かに不機嫌そうな双眸が不平を雄弁に物語っている。
 いつもはこんな感情、絶対に見せない人なのに、どうやらよほど先輩は嫌われてしまったらしい。
 それも仕方ないか、あの人は村人の前でも平気で俺を罵るんだから、この村の絶対的君主である蒼牙の花嫁である俺を、悪し様に言う高遠先輩はこの村では嫌われて当然なのか。
 もちろんそれは、俺のためじゃない。
 蒼牙の心を慮っているのが手に取るようによく判る。
 桂にとって蒼牙は、やはりこの村と同じように、なくてはならない存在なんだろう。
 そんな蒼牙に愛されて俺は、心の辺りが擽ったくて思わず笑っていた。

「如何なさいましたか、光太郎様?」

 ふと、表情こそ変えないが、怪訝そうに訊ねてくる桂に、俺はなんでもないんだと首を左右に振って見せた。

「いんや、なんでもないよ」

「…申し訳ございません」

「へ?」

 突然謝られてしまって、俺は慌てて頭を下げる桂の腕を掴んでいた。
 一瞬だったけど、桂の身体が強張るのを感じて、俺は慌てて腕を離してしまった。
 …どうやら俺も、相当嫌われちまったのかなぁ。
 そ、そうだよな。蒼牙を罵る高遠先輩を気にかけてるんだ、桂に嫌われるのも無理ないのか。
 それはちょっと、いやかなり、嫌なんだけど…

「申し訳ございません」

 今度はもう少しハッキリと俺に謝る桂に、俺はもう、ワケが判らずに首を傾げてしまった。

「何を謝ってるんだよ、桂さん。俺、別に桂さんから謝られるようなことはされていないぜ?それどころか、俺の方がお世話になりっぱなしなのに!」

 桂の言いたいことが判らなくてその両手を掴んで顔を覗き込んだら、あの、いつもの無表情な顔のままで覗き込む俺の双眸を、ほの暗い双眸で見下ろしてきた。情熱だとか、感情だとか、そんな人間らしい気持ちを身体の内側に隠して、桂はどこか痛いような表情をしたままで目線を伏せてしまった。

「申し訳ございません、光太郎様。差し出がましいことを申し上げてしまいました、どうぞお聞き流しくださいませ」

 その台詞は、いつか聞いたことがある。
 あの時も、寡黙に黙り込んでいた桂は、無言のままで優しかった。

「だから、気にしてないって。桂さんはいつもそうだな」

「…はい?」

 俺は思わず笑ってしまった。

「そうやって、いつも陰ながら俺を見守ってくれてるんだよな。俺、きっとこれから先も、桂さんに迷惑掛けっぱなしで、それで、またそうやって謝らせてばかりいるんだろうな」

「とんでもございません、私はとても、とても…」

 無表情のままで慌てた様子さえ見せない桂は、それでも彼なりに精一杯慌てたように口を挟もうとして失敗した。だから余計、俺はそんな桂を好きになってしまう。

「とんでもないこともないんだ。これから、きっとずっとなんだぜ?それでも俺は、たぶんやめられないと思うし、桂さんを冷や冷やさせっぱなしかも知れない。だから、こんな俺だけどさ、見捨てずにこれからも宜しく頼むよ」

 そう言って離していた片手を差し出したら、桂はぼんやりと俺の差し出している手を見下ろして、それから何か、なんとも形容のし難い表情をして俺を見たんだ。

「…光太郎様。そのお言葉はもしや、この屋敷から、いいえ、この村から出て行かれないと仰っておいでだと認識しても宜しいのでしょうか?」

 恐る恐ると言った感じで訊いてくる桂に、ああそうか、俺はまだこの人に蒼牙と結婚する決意をしたんだと教えていなかったんだっけ?きっと、誰よりも喜んでくれるはずなのに、俺ってヤツは…大事な人を忘れるなんてどうかしてる。

「ああ、もちろん!桂さんや蒼牙が嫌だって言っても、ここから出て行くつもりなんてないよ」

「こ、光太郎様、それは、あの、蒼牙様の花嫁様にお成り遊ばすと…」

 こんなに動揺している桂を見るのは初めてだったし、そんな風に動揺されてしまうと、却ってヘンに緊張してしまうんだけども…うは。

「あれ?俺は最初から、蒼牙の花嫁だったんじゃないのか??」

「も…勿論でございますとも!も、申し訳ございませんッ」

 慌てて頭を下げる桂の動揺ぶりに、これ以上からかうのもなんだか気が引けてしまって、俺は深々と頭を下げようとする桂を慌ててとめて、それから、先輩たちの出発の時間が迫っていることを伝えてその場を後にすることにしたんだけど…桂は、それでも満足げに、それから嬉しそうに「お気をつけて」と言って見送ってくれたんだ。
 蒼牙の花嫁は俺しかいないと、熱っぽい眼差しで宣言してくれた桂は、今もそのつもり十分の歓喜に満ち溢れた無表情で頭を下げると、いつまでもその場に佇んでいるようだった。
 そのうち、鼻歌とか歌いだしたりして…う、それはちょっと…見てみたいぞ♪

「…プププ」

 不意に、思わずと言った感じで噴出した気配に、俺はそう言えば、繭葵のことを忘れていたとハッと我に返って傍観者に徹していた根性悪の妖怪奇天烈娘を見下ろして…思わず腰が退けそうになった。
 だって繭葵のヤツ、ニヤニヤ笑ってやがるんだ。
 コイツがこういう顔をする時ってのは、大概、何か良からぬことを考えているか、どうでもいいことに思いを廻らせているときだって決まってる。

「な、なんだよ?」

 だから、わざと不機嫌そうに唇を尖らせて促せば、繭葵は馬鹿にしたような目付きをしてフンッと鼻なんか鳴らしやがるんだ。
 うう…根本的な部分はきっと、嫌なヤツなんだろうなと眉を寄せれば、繭葵は肩を竦めて笑うんだ。

「あーあ、桂さんもお気の毒だね」

「は?何がだよ」

「気付かない?ふーん、それもいいけどさ。あんまり桂さんを苛めたらダメだよ」

 あ、ははーん。

「桂さんをからかったのは確かに悪いと思うけど、さっきは見て見ぬ振りしてたくせに注意するだけなんて性格悪いぞ」

「へ?からかう…って、なんだ」

 不意に繭葵のヤツがジトッとした目付きで胡乱に下から覗き込んできたもんだから、俺は思わずギョッとして仰け反ってしまった。
 な、なんだよ、その目付きは。

「性格悪いのは光太郎くんだよ。純情なオトコゴコロを弄ぶと、後でひっどい目に遭っても知らないからね」

 フンッと鼻を鳴らして冷やかに顎を上げるようにしながら俺を見上げた繭葵は、それはそれは冷たく言い放ってくれたんだけど、なんで俺が桂さんの男心を弄ぶんだよ。
 あの人の場合は、常に顔の筋肉なんざ動かしたことなどございません、ってな感じの完璧なポーカーフェイスだからな。それを引っぺがして、人間らしい素顔を見てみたいと思うのは煩悩抱えた人間なんだから仕方ないじゃないか。
 …って、ん?
 やっぱ、俺って性格悪いのか?そうか、そうだよな。
 トホホホ…

「なんだよぉ、別にただ単に、蒼牙との結婚を前向きに考え始めましたって伝えただけじゃないか」

 俺なりの凄い進歩なんだぞ。
 ブツブツと悪態を吐いていたら、少し前を歩いていた繭葵が呆れたように肩越しに振り返ったんだ。

「あっきれたなー、驚くべき鈍感!野郎だねぇ、君も。これじゃあ、蒼牙様は眉間に一本刻んだ縦皺を消すことなんて一生不可能だね」

「…どーして、俺はお前にそこまで言われなきゃならないんだ?」

 思わず胡乱な目付きでジトッと睨むと、繭葵のヤツは苦笑しながら肩を竦めて首を左右に振りやがる。まるで、俺はしょうがないヤツだなぁとでも言いたげに。
 くそー、ますますムカつくんですが。

「光太郎くんは早く蒼牙様のお嫁様になるべきだね。それで、蒼牙様にたくさん愛されて、それから、誰かを愛するってことを学ぶべきだよ」

「…はぁ?」

 こう見えても俺は、今はその、ちゃんと蒼牙をあ…あい、して…愛してるんだぞ!
 よし、言えた。でかした、俺。
 まあ、面と向かって本人とか繭葵とかには言えないけど…それでもちゃんと、誰かを愛することぐらいできるって!蒼牙以前に想っていた人たちはみんな、片思いだったってことはこの際内緒だけどな。

「光太郎くんは確かに優しいんだけど、その優しさが仇になることだってあるんだ。愛することを覚えればさぁ、優しさに思わず縋り付きたくなる人たちの気持ちとか、邪な想いを秘めて近付いてくる妖しげな連中の思惑にも少しぐらいは気付けるようになると思うけど?」

「…よく、意味が判らんのだけどな?」

「あーもう!ボクだって判らないってッ。どうしてこう、いつもボクは光太郎くんにレクチャーしなきゃいけないんだろうねぇ?花嫁候補と花婿よりも、一番年長さんなのにさッ」

「う!」

 思わずクリティカルヒット級のボディーブローを食らったような気分になって蹲りそうになった俺を、今度は本気で蹴りを入れてきながら「何してんだよ!?」と悪態なんか吐いてくれる。

「蹴るな!」

「うっさいなー!君は身体に教えないと判らないタイプだもんねッ」

「なんだとコンチクショー!!」

 クワッと、思い切り向こう脛を蹴られた痛みで本気の涙目になった俺が両目をむいて掴みかかろうとしたその瞬間、俺の背後で忍び笑いが響いたから驚いた。
 もちろん、繭葵とのこんなじゃれ合いは日常茶飯事で、繭葵自身はいつだって本気で蹴っては来るんだけど、その言動はどこか惚けてて、その表情は思い切り笑ってやがるからな。いや、そんなこた今はどうでも良かったんだ、それどころじゃない、いったい誰が盗み聞きしてたんだ?
 ハッとして振り返ったら、不意に繭葵のヤツがズイッと俺を庇うようにして前に出たから、更に吃驚してしまった。
 おいおい、俺ってばどれだけ弱いと思ってるんだ??
 一応、いくら妖怪爆裂娘とは言え、繭葵は女の子だから優しくしてるんであって、たとえもし先輩だったとしても容赦はしないってのになぁ!

「いや、失礼。話し声が聞こえたものでね」

 俺がムッとしながら繭葵に何か言おうと口を開きかけた時、ちょうど、廊下の曲がり角になっていて、死角だった場所から姿を現したのは、蒼牙の面立ちに良く似た不二峰だったから驚いた。

「ふぅーん?それでわざわざ隠れてずっと聞いてたの?」

「へ?」

 俺がキョトンッとして繭葵を見下ろすと、彼女は「そらみろ、やっぱり鈍感だ」とでも言いたそうな顔をして横目だけでチラッと見上げてきただけだった。

「おやおや…そこまで気付いていたのか」

「あっはっは。隠れてるつもりだったんだろうけど残念でした!ボクは勘だけはぴか一なんだ。光太郎くん、これってやっぱ、霊感・ヤマ勘・第六感?」

「はぁ?何言ってんだよ」

「…ククク、おっと、これはまた失礼。君たちはお似合いのカップルだね」

 何気なく不二峰に言われて、俺と繭葵は思わずと言った感じで顔を見合わせてしまった。
 蒼牙の顔に良く似た不二峰にそんなことを言われてしまうと、俺としてはなんだか、ちょっと納得できないモノがムクリと胸の奥に沸き起こるんだけどな。
 繭葵は繭葵で、蒼牙に似ているその顔から、蒼牙がけして言わないだろう言葉を、それこそ良く似た声で言われてしまって、どうも居心地が悪いような、嫌な気分に襲われたようだ。
 綺麗に整えている眉が露骨にキュッと、寄ってしまったからな。

「どうでもいいけど、ボクたち急いでるんだよね。用がないのならもう行ってもいいかな?」

「え?ああ、それは勿論だよ。引き止めてしまって悪かったね」

「どーいたしまして。さ、光太郎くん。行こう」

 そう言って強引に腕を引っ張って歩き出す繭葵に促されるままに、不二峰に、どうも一応はこの家に縁のある人物らしいから、仕方なく軽く頭を下げて行こうとした俺の背中に、ヤツは、蒼牙に良く似た声で言ったんだ。

「蒼牙は本当に君を愛しているのかな?」

 ブリブリと腹立たしげに歩いていた繭葵には聞こえなかったのか…でも、その声はちゃんと俺の鼓膜には届いていたし、慌てて首だけを回して肩越しに振り返れば、蒼牙に良く似た男らしい双眸を細めながら、意味有りげに口許を歪めて笑いやがったから…絶対に空耳なんかじゃねぇ!
 ムッとして遣り返そうとしたものの、繭葵の圧倒的な引きの強さに引っ張られちまって、結局俺は、仕方なく先輩の部屋まで引き摺られて行く破目になった。
 それでも俺の体内では、僅かに散った有毒な塵が、確かに少し降り積もっていた。
 それはほんの少しだけど痛みを伴って、それから、静かに鳴りを潜めてしまったんだけど…
 どうして不二峰が言ったぐらいの言葉を、あんなにここにいる間、一度だって会ってこともないヤツに言われたからって動揺してるんだろう。
 俺は…よく、判らない。
 こんな気持ちは初めてだ。

 自分でも侭ならない鬱陶しい気持ちを抱えたままで、俺と繭葵は帰り支度をぼんやりしている高遠先輩の部屋に声を掛けて入っていた。
 声を掛けた時点で、普段の高遠先輩ならけして俺たちを部屋に招き入れようとは思わないだろうに、そのときの先輩は抑揚のない声で「ああ」と言ったきりだった。
 やっぱり、おかしい。
 こんな先輩は絶対におかしい。

「先輩!いったいどうしたって言うんですか?俺です、楡崎光太郎です。ちゃんと、理解していますか??」

 そんな話、素面で聞けば馬鹿にするなと言って怒鳴られるに決まってるってのに、俺は覚悟してそう言ったんだけど、先輩は何処を見ているのか、少し虚ろな視線でサラッと俺たちを見てから、それから何事もなかったかのように機械的に荷物を片付け始めたんだ。

「せ、先輩。ど、どうしたって…先輩、俺ですよ!?楡崎です!」

 思わず先輩の肩を掴んで、あれほど、山男みたいだと言って俺が笑えば、満更でもなさそうな顔をして喜んでくれていたあの力強い高遠先輩は、まるで腑抜けた老人のような虚ろさで、俺が揺さぶれば素直にそれに従うような有様だった。

「先輩、嫌だ。どうしたって言うんですか!?いつもの、あの威勢を取り戻してください!俺のこと、ホモでもオカマでも構わないから、何か言って怒鳴ってくれよッ!!」

 その肩を掴んで、俺を見ようともしない俯き加減でぼんやりしている高遠先輩を見ていたら、いきなり急激に不安になって、俺は堪らずにその力すらも失くしてしまったかのような高遠先輩の身体を抱き締めたんだ。
 良ければ殴ってくれと、気持ち悪いと言って振り払ってくれと…この異常事態に、俺自身、不安に押し潰されそうで叫びだしたかった。

「…光太郎くん」

 言葉もない繭葵が、痛ましそうにそんな俺を見詰めてくる。
 ああ、繭葵。
 どうしよう、先輩が壊れてる。
 俺が抱き締めたら、先輩の肩が一瞬だけビクリと震えたから、突き飛ばしてくれるもんだとホッとしたってのに…先輩は、それ以上はなにもせずに、ぼんやりと背中を丸めて、胡坐を掻いたままで俺の成すがままになっちまってるんだ。
 こんなの、信じられない!

「ま、ゆき。どうしよう、先輩が壊れてしまった。こんな状態の先輩を、俺は帰せないよ」

「…こ、光太郎くん。でも、でも先輩は帰る用意だって1人でできてるし、反応こそおかしいけど『普通』に見えるんだ。どうしたらいいんだろう!?」

 繭葵も、俺の悲痛な気持ちを痛いほど判ってくれているから、目の前で起こっている異常な事態を理解して、なんとか解決策を練ろうとしてくれているようだったけど、やっぱりそれは無理だった。
 そりゃ、そうだよな。
 繭葵は俺より年下なんだ、なのに、年上の俺が泣いてるなんてのはおかしい。
 この村に来て俺、いったいどれほどこんな経験をしたんだろう…もう、俺の方がおかしくなりそうだ。

「せ、先輩を病院に連れ行く。蒼牙だって、少しぐらい村から出るのを許してくれるに決まってるさ」

 無理に笑いながら言ったら、繭葵は痛々しそうに眉根を寄せて何か言おうとしたんだけど、うまく言葉にならなかったようで、俺の名前を呼ぶぐらいでコクンと息を飲むようにして言葉を飲み込んでしまった。
 重苦しい沈黙に押し潰されそうで、俺は先輩を腕の中に抱き締めたままで、なんとか蒼牙を説得してみようと思い始めていた。
 その矢先に…

「病院だと?笑わせるな。鬼哭の杜の亡者に魂を喰らわれた人間が、病院なんかに行って治ってしまうなどと、まさか本気で思ってるワケじゃないだろう」

 スッと、音もなく障子を開けた青白髪の美丈夫が、高遠先輩の頭を胸に抱き締めたままで途方に暮れてへたり込んでいる俺を見下ろして、一瞬だがピクリと眉尻を震わせた。
 どうも、その眦の上がりようからは、かなり怒っているようだ。
 でも、今の俺にはそんなこと気にする余裕すらなかった。

「え?え、なんて?今、なんて言ったんだ??き、鬼哭の杜の亡者?に、魂を喰われた…?」

「そうだ」

 入り口付近にいた繭葵を押し退けるようにしてズカズカと入ってきた蒼牙は、眦を釣り上げたままで俺の腕を無造作に掴むと、そのままグイッと引き上げて先輩から引き離されてしまった。

「アンタはいつからそんなに誰彼無しに抱きつくようになったんだ?」

「なに、言ってんだよ!先輩が、高遠先輩が壊れてしまったんだッ。俺は彼を病院に連れて行くから、だから、お願いだから行かせてくれッ」

「ダメだ」

 俺は、俺なりにこれ以上はないってぐらい渾身の力を両目に込めて、蒼牙に縋るようにして見上げたままで懇願したって言うのに、青白髪のやたら男らしい浅黒い肌を持つ山から降りて来た鬼のような男は、そんな俺を冷めた双眸で見下ろしながら即答で却下しやがった。

「何度も同じことを言わせるな。その男はあの日、あの場所で鬼哭の杜の亡者どもに魂を喰らわれた懺骸者(ザンガイシャ)だ。医者や祈祷師などが束になって何かしようとも、最早、その男をこの世に連れ戻すことなどできやしないだろうよ」

「そ、蒼牙…俺にはよく、判らない」

「俺は、アンタにも、そしてそこにいる先輩とやらにも言わなかったか?この村の禁域には立ち入るなと。ましてや、鬼哭の杜を舞う日に、あの場所に来るなど狂気の沙汰じゃない。忠告したはずだ、なぁ?繭葵」

 キロッと、双眸だけを動かすような器用な真似をして、蒼牙は部屋の隅で、今までで一度だってそんな姿を見せたことがないって言うのに、蒼牙の圧倒的な威圧感に気圧されてしまった繭葵は、青褪めたままで怯えたように竦んでいたんだ。

「違う!あの場所に行こうと言ったのは俺だ!罰するなら、俺を罰すればいいだろ!?いつだって受けて立ってやるから、今は、そんなことよりも先輩を…ッ」

「ククク…相変わらずアンタはお人好しで優しいな。アンタのそう言うところが、俺は愛しくて堪らない。その優しさを、村人たちにも隔てなく分けてやるんだぞ」

 アンタは、俺の花嫁だから…まるで呟くようにそう言ってから、怖い顔をしたままの蒼牙は問答無用で容赦なく、都会育ちの俺の抵抗なんかものともせずに抑え付けるようにしてキスしてきたんだ。

「ん!…ぅ、うう…ぃ、嫌だ、蒼牙!こんな所で、こんな場所で!何を考えてやがるんだッ」

「特に何も?考える必要などなかろうよ。先輩はもう、お帰りの時間だ」

 キスの合間に馬鹿にしたように蒼牙がそう言うと、まるでその言葉にだけ反応したように、高遠先輩はふらりと立ち上がると、そのくせ、確りした足取りで虚ろなまま部屋から出て行こうとしたんだ。

「せ、先輩!んぅッッ!…ちょ、やめ、…ほ、本気でやめねーと婚約破棄するぞ!!」

 殴っても蹴っても俺を離そうとしない蒼牙に、業を煮やしてしまった結果として喚いた言葉だったんだけど、それが思う以上の効果を奏したようで、青白髪の鬼っ子野郎はムッとしたままでキスだけはやめてくれた。
 うん、キスだけは…って!この腕も離さねーか!!

「俺と先輩とやらを天秤にかけるつもりか?存外に強かだな」

 ムスッとしたままのクセに、口許だけはニヤリと笑って、怒ってるんだぞと蒼牙のヤツが底冷えするようなほの暗い、陰を潜めた双眸で睨み据えてくるから…思わず腰が抜けそうになったってことはこの際無視して、それでもその目を睨み据えたままで抗議できた俺も天晴れだ。
 6歳も年下相手にビビッてる段階で終了だとは思うけど…ガックリ。

「天秤とかそんなんじゃねーだろ!蒼牙は蒼牙で、先輩は先輩だ!それに、先輩は今はああでも、高校の時にはお世話になった人なんだ。こんなことで、先輩がどうかなるなんて…」

「だが、アンタのせいじゃない」

「で、でも…」

 蒼牙は強情に言い張ろうとする俺を呆れたように溜め息を吐いて見ていたけど、仕方なさそうにギリッと釣り上げていた眦と眉尻を下げてしまって、やれやれと俺を抱き締めたままで繭葵に振り返ったんだ。

「悪いが繭葵、高遠さんたちを見送ってくれ。香織とか言ったか、あの娘も懺骸者になっているからな。大方、由美子たちが手を焼いているだろう。眞琴に言えば大人しくなる」

「う、うん、判ったよ…でもあの、あんまり光太郎くんを責めないであげて欲しいんだ」

「…責める?この俺が??ハッ、おかしなことを言うな、繭葵。却って俺の心配こそして欲しいもんだな。さあ、行け」

 ほぼ、命令するように語尾を強めた蒼牙に恐れ戦いたのか、ビクッとして、まるで小動物みたいに踵を返した繭葵だったけど、チラッと、心配そうに振り返ってから、仕方なく行ってしまった。

「さて、これで2人きりだ。弦月の儀も終わり、禊の儀も終わった…残すところはあとひとつ、晦の儀だけだが…知っているか?晦の儀までの間は、花婿は花嫁の純潔を奪っても、最早咎められはしないんだぞ」

「そ、そんなこた知らねーよ!そんなことよりも、先輩を…ッ」

 思わずムッとして睨んだら、蒼牙のヤツから顎を思い切り掴まれてしまった。
 これで明日はまた、顎に痣ができちまうんだろうなぁ…

「そんなことだと?俺にしてみたら先輩こそ、そんなことよりも、だがな。彼は帰った。神聖なる神事を面白半分で覗き見したことに因る、大きな代償を抱えたままでな」

「だ、代償なら…俺だって抱えないといけないんじゃないか?俺も、あの場所にいたんだ…ッ」

 グイッと更に強く掴まれて、蒼牙は男らしい唇を歪めて笑うと苦しげに呻く俺を覗き込んできた。その目付きは、憎々しげ…というよりは寧ろ、苛立たしげだった。
 どうして自分の言っていることが判らないんだろう、きっと、蒼牙はそう思ったに違いない。

「あの場所にいて、アンタと繭葵は魂を喰らわれなかった。それがどう言う意味かまだ判らないのか?それは、鬼哭の杜の亡者どもが、アンタを呉高木家の花嫁として迎え入れたからだ」

「…鬼哭の杜は、呉高木家が代々護っている山だから?」

「そうだ。そして、繭葵はアンタの侍女だとでも勘違いしたんだろう。なんせ、千年も前の亡霊どもだ。いまさら常識を説いたところで理解などしやしない」

 壮大なのか、これはとんでもない茶番劇なのか…どちらにしても、俺には到底、そのどれもが納得のできる説明だとは受け止められなかった。

「判らない、蒼牙。もっと、もっと判り易く説明してくれ」

 思わず泣いてしまいそうになって、俺は蒼牙の着流しの胸元を掴むと、そんな情けない面のままで見上げていた。
 判らない、自分が何を考えているのかも、蒼牙が何を話そうとしているのかも。
 もっと、誰か、お願いだからこんな異常な状況を判り易く説明してくれ。

「…判った、この鬼哭の杜について、話してやろう」

 蒼牙は仕方なく呟いて、それから溜め息のようなキスをしてきた。
 掠めるだけのキスだったけど、どうしてだろう、俺は…その口付けに愈々泣きたくなっていた。
 もっとって、強請りたかった。
 それでも聞かないと。
 繭葵が言ったように、自分が嫁ぐ村のことぐらいはリサーチしないとな。
 せっかく蒼牙が話してくれるんだから、俺はこの村の一員として、この村で今何が起こっているのか、そして、先輩の身体に何が起こったのか…聞かなければいけない。
 その話を聞いたとしても、きっと俺は。
 蒼牙を愛して、この村に留まるんだろう…