全てが、まるで静寂の中にあるような気がして、風さえも音がしないなんて、そんな有り得ない光景はそれでも、ひと時の安らぎのようにも思えた。
こんな平和な世界に生まれて俺は、どうして、幸せじゃないなんて思ってしまったんだろう。
莫大な借金があって、身売り同然でこの綺麗な白銀の龍が護る村に来たワケなんだけど、たとえ些細な切欠だったとしても、俺は今、たぶん初めて、心の底からこの村に来て良かったと思ってる。
「なぁ、蒼牙?」
《なんだ?》
この、心地好い静寂を破りたくはないんだけど、それでもきっと、俺は聞かなければならないんだろう。
どうして、なぁ、蒼牙。
「どうして、そんな風に、もう随分と昔にいなくなってしまった紅河をお前は心配してるんだ?」
《…なんだと?》
白銀の龍は、どこか拍子抜けしたような、怪訝そうな雰囲気で問い返してきた。
いや、これはヘンな言い回しだったのかもしれないけど、それでも、今の俺の率直な疑問だった。
だからなのか、それでも蒼牙は、軽く溜め息を吐きながら何かを考えているようだ。
《ああ、まぁ、そうかもしれんな。特に心配をしているワケではないんだが。ただ、その死を悼んでいるだけだ》
ああ、そうか。
蒼牙にとっては大事なご先祖さまだしなぁ、死を悼んだって不思議じゃないんだけど、でも、今の蒼牙の雰囲気はそうじゃない。
まるで、不安そうに、心配しているように感じるんだけど…
《きっと、それは思い過ごしだ》
「お前はそう言うけど…」
なんだろう、この胸の鼓動は。
まるで、蒼牙の気持ちに呼応するように、心臓の辺りが熱くなる。
あの、やわらかに笑っていた青年は、たとえば彼が、楡崎の人間だったとしたら、もしかしたら、俺が蒼牙を思うように、きっと紅河に恋をしたに違いない。
愛しても報われないのなら、その思いを胸に秘めたまま、他の誰かに愛を囁くその人を見るぐらいなら…いっそ、潔く、散ってしまうのも悪くない。
ああ、そうか…
あの青年は、来世を信じたワケじゃない。
信じてなんか、いなかった。
心から愛していたから、愛するその人が苦しまないように、戸惑わないように、手離してしまうものの大きさは痛いほど良く判るんだけど、それでも、その代償を払ったとしても、護り
たいものがあったんだろう。
愛する人の、泣き出しそうな顔を脳裏に焼き付けたまま、どうか、自分のことは忘れてくれと…思いたくもないのに、そう思って、散ってしまった儚い花は、何処に消えてしまったんだろう。
《…アンタが泣くことではない》
「うん、判ってるんだけど」
それでも、ハラハラと頬を零れる涙を、俺はまだ、拭えない。
どうしていいのか判らなくて瞼を閉じたら、ポロポロと、珠になって滑り落ちていく。
《今夜は紅河の命日なのさ》
「…え?」
《名も無き人間を救えず、楡崎の者を殺そうとした紅河が、次期当主に討たれた日…と言った方が、判り易いのかもな》
ああ、それで。
遠くに思いを馳せる蒼牙の、その気持ちが少しだけど判ったような気がした。
蒼牙はもしかしたら、紅河を大切に思っているのかもしれない。
いや、呉高木の当主だからご先祖を大切にするって言う思いじゃなくて…って、あれ?何が言いたんだっけ。
つまり、蒼牙は…
「紅河を憐れんでるのか?…いや、そうじゃないんだよなぁ。なんだろ?俺、何が言いたいんだろ」
咽喉元まで出掛かっているのに、奥歯にモノが挟まったみたいにもどかしくて、思うように言葉が出てこない。なんだ、やたら苛々するんだけど。
いや、本当は判っているのかもしれない。
もしかしたら蒼牙は…
《それは有り得ない。アンタ以外を嫁にするつもりはない》
キッパリ断言されて、やっぱ、心の声が判ってるんじゃねーかと怒鳴りたいのをグッと堪えて、それどころじゃない俺は不安そうに僅かに発光している青白い龍の背中に視線を落とした。
《俺は…考えてしまうんだ》
何を?…と、口に出して聞くのを躊躇ったのは、蒼牙はちゃんと俺に答えをくれるから。
俺はちゃんとそれを知っているから、安直な言葉を口に出したくなかったんだ。
《よく、あの山に独りで昇っては、月を見上げて考えていた》
その光景は、見なくても頭の中に浮かんできた。
不思議な青白髪の、それこそ鬼っ子みたいな凛々しい顔立ちをした蒼牙が、呉高木家の当主としてではなく、独りの人間としてぽっかり浮かぶ月を見上げているんだ。
《もし、俺の愛する者が、ただの人間だとしたら俺はどうするだろう?…アンタを初めて見たとき、俺には光太郎がただの人間にしか見えなかったんだ》
「え?」
それは初耳だった。
だってさ、蒼牙は俺を一目見て、恋に落ちたと言っていた…言っていたんだけど、そう言えば、俺を一目で楡崎の者だと気付いた…とは、言っていなかったな。
《あんまり綺麗で、精霊妃じゃないかと思ったぐらいで、それでも人間だと思ってしまった。だから俺は、子供の頃から好きな場所だったからな。そこで、一晩中考えていた。その時
に、ふと、紅河を思い出すんだ。やはり俺も、楡崎の者を殺すのかと》
そのとき、俺は桂の言っていた言葉を思い出していた。
あの清々しい清廉な朝日の中で、キリリと白装束に身を包んだ潔白の蒼牙を見送った後、執事の鑑のような無表情のはずの桂が、珍しく表情を曇らせていたことを。
『蒼牙様こそ免許皆伝を受けてもおかしくはないのですが、そうされていないのはご自身に未だ迷いがあるからなのでしょう』
朝稽古を見学に行ったあの日、桂はそんなことを言っていた。
蒼牙の中に矛盾なく存在する迷いは、きっと、『俺』なのかもしれない。
俺を愛してくれた時から、蒼牙の中で生まれてしまったに違いない迷い。
その迷いが、蒼牙に一歩を踏み出させずにいるのだろうか…そんなことを考えていたら、うッ、果てしなく落ち込みそうになるぞ。
《だが、それは違うと思った。紅河が生きていた時代は、今とはあまりにも違いすぎるからな》
それはそうなんだけど…俺はやっぱり、蒼牙の青白い、綺麗な背ビレが風に揺れる背中を見詰めていた。
《それに俺には、龍雅と言うスケープゴートもいるワケだしな…だがもし、先代から強要されてしまったら、俺はどうするんだろう?》
それが一番、蒼牙を苦しめたに違いない。
先代が、蒼牙を当主にずっと推し続けていたんだから、蒼牙がその件を悩まないはずがない。
男の俺を花嫁にすると言って驚いたと言っていた先代は、もしかしたら、男と言う部分に驚いたのではなく、楡崎の者を嫁にしたいから当主になると決意した蒼牙に驚いたんじゃないのかな。
そこまで考えて、俺の頭の中の靄がパッと晴れたような気がした。
そうか、そうだったんだ。
どうして、こんな簡単なことに気付かなかったんだろう。
「蒼牙、お前もしかして…」
つい、口から言葉がポロリと落ちてしまった。
《ああ、恐らくアンタが考えている通りだ。俺は、当主になる気などさらさらなかった》
ああ、やっぱり。
蒼牙は、呉高木家の当主になんか、これっぽっちも興味がなかったんだろう。
恐らく、先代から推されてものらりくらりと逃げていたに違いない。
それほど、俺の知らない間の蒼牙は奔放で、自由だったんだろう。
蒼牙にとっての迷いは『全て』だったんだ。
ああ、だから、蒼牙は紅河に影響を受けてしまうのか。
お互い、当主になど興味のない存在だから…
「…蒼牙、俺のために当主になったのか?」
《初めからそう言わなかったか?俺はアンタを花嫁にする為だけに、当主になることにしたと》
うん、聞いた。
でもそれは、成り行きなんだとばかり、都合よく思っていたんだ。
それぐらい、俺は蒼牙の10年を簡単に考えてしまっていたんだろうな。
俺は酷いヤツだ。
《内心ではホッとしたよ。光太郎が楡崎の者で、俺は親族の望みどおり当主に落ち着いた。これで、全てが良かったんだろう》
だが、と蒼牙の言外の気配がした。
《それでも時々、酷く不安になる。たとえばアンタが離れることがあれば、と考える度にな》
「…傲岸不遜のお前が不安になるとか言うな。こっちの方が不安になるだろ」
《なんだ、それは》
俺は思わずプッと噴出してしまった。
蒼牙は不満そうに鼻息を荒々しく吐き出したけど、それでも、架空の生き物であるはずの龍の背に乗ったままで、俺はとても嬉しくて嬉しくて、ポロポロ泣きながら笑ってしまった。
大丈夫だ、蒼牙。
俺だって、来世なんか信じちゃいない。そんなものを信じるぐらいなら、俺はいつだってお
前の傍にいたい。
それが、俺の願いの全てなんだ。
だから、どうか蒼牙も、その迷いを消してしまってくれ。
俺がこんなこと言っても、お前はただ、笑うんだろうけど。
たとえば、蒼牙は昔から、俺のことを知っていた。
そうして、俺が人間であるかもしれないと思い込んだんだ。
だから、こんなに回りくどい方法で、俺を手に入れようとした。
なのに、運命は悉く都合よく全てをよい方向に導いた。
…ってことはさ。
なぁ、蒼牙。
きっと、この出逢いは運命とかそんなものじゃなかったんだ。
鬼は。
小さな花が咲く場所で見つけた巫女と。
やっと本当の幸せを掴むことができたんだよ。
十三夜の物語は、紅河でも誰でもない。
きっと、俺とお前の物語だったんだ。
そして、その物語はハッピーエンドだ。
お前と約束するよ。
だって、俺は。
お前が選んだ花嫁だから。