第一話 花嫁に選ばれた男 7  -鬼哭の杜-

 蒼牙が言ったように、大学生の一行は思ったよりも朝早く到着したようだった。
 俺はと言えば、昨夜は早めに就寝できたおかげか、翌朝はスッキリした気分で目が覚めて蒼牙と一緒に朝稽古と言うものを見学していた。いつもは身体がだるくてなかなか目が覚めないんだけど…こうしてみると、夜の営みってのはキツイものがあるんだなぁ。
 正座したままで「はぁ…」と爺さんみたいに溜め息を吐いていたら、帯刀した白装束で姿を現した蒼牙に思わず目を奪われてしまった。
 うわー…それでなくてもこんな重厚な雰囲気の道場が敷地内にあるってだけでも驚きなのに、腰がちゃんと据わっているから姿勢もピシッとしてて、帯刀しているその姿も立派に様になっている。こう言うのは一朝一夕でどうにかなるもんじゃない、たぶん、蒼牙のヤツは幼い頃から鍛えてきたんだろうな。
 祭壇の設けられている前に組太刀する相手である桂が既に剣を構えて立っている、その前に進んだ蒼牙は腰を落として…立膝をした座り姿勢で構えている。
 まるで対のように凛とした、張り詰めた空気が道場内に浸透していって、合図を出す役の師範ですらその気迫に飲み込まれているみたいだ。

「始め!」

 ゴクッと息を飲んだ瞬間、意を決したような師範の声がして、射し込む朝陽にギラギラと刃を光らせた真剣でもって、桂は蒼牙に斬り込んでいったんだ!
 ハッとして目を瞠った瞬間だった。
 ビュッと、凄い速度で鞘から抜き去るとダンッ!と踏み出すようにして本身の刀でビシッと桂の腕の辺りを斬り付けた!…ように見えたのはその気迫のせいだったんだろう。現に蒼牙はすんでのところで止めて、次の型も見事な動作で黙々とこなしていく。その全てが一つの清廉とした静けさの中で行われ、ただただ俺は、その場で行われている行動の全てを型として受け止めることができず、まるで何か…そう、魂の遣り取りを垣間見たような気がしていた。
 なぜ、そんなことを考えてしまったんだろう…んー、やっぱり真剣を遣うからかな?
 よく、判らねーや。
 でも、どうやったらあの重い真剣をあんな風に軽々と扱ってしまえるんだろう。
 まるでそうだ、身体の一部のように極自然な動作は、それが全部型通りだってことは判ってるのに、あまりにも荘厳で綺麗だ。
 幾つかそう言った遣り取りを行った後、師範のおっちゃんの「そこまで!」の掛け声で静かなる攻防が終了すると、蒼牙は腰に巻いた白い帯に挟んだ鞘にまるで時代劇の侍みたいな動作をしてカチンッと真剣を納めた。
 スクッと立ち上がった汗一つ掻いていない蒼牙の双眸は清々しくて、恭しく頭を下げる桂に何かを言うと、大股で道場内を横切って、入り口の辺りで正座してボケーッと見ていた俺のところまで来たんだ。

「スッゲーな!!スゲーよ、俺手に汗握っちゃったよ♪」

 両手でパチパチと拍手喝采してやると、当の蒼牙は面食らったような顔をしていたが、呆れたように笑って俺の腕を掴んだんだ。

「居合道を知っているか?」

「へ?あ、いやその…格闘技は苦手でさ」

 促されるままに立ち上がりながら笑って応える俺に、蒼牙のヤツは「だろうな」とでも言うような目付きをして顎を少し上げると、小馬鹿にしたような目付きで見下ろしてきやがった。
 う、日本男児が全員、武道に長けてるなんて今時ナンセンスだぞ!
 とは言っても、さすがにたったあれだけの時間正座したぐらいで、足を痺れさせるのはどうかと思うけどな…あう。
 痺れは軽い方だったからおかげさんで立ち上がることはできたけど、すぐに歩き出すことは不可能みたいで、それに気付いた蒼牙が困ったように眉を寄せて仕方なさそうにプッと噴き出しやがったんだ。畜生!

「たとえ大罪人に直面するとも、刀を抜くな、抜かすな、斬るな、斬らすな、殺すな、殺されるな、話して懇切に説法し善人に導くべし、万一従わずば是非もなく、袈裟打ちかけて成仏せしめよ…居合道の始祖が受けた神託の言葉だ」

「ふ、ふーん??」

 なんだよ、あからさまにその馬鹿にした目は。
 そんなの聞いて「ほお、そうか」とか、どこかのジェントルマンみたいな振る舞いがこの俺にできるとでも思ってんのか?

「…居合とは人に斬られず人斬らず、只受け止めて平らかに勝つ。つまり居合とは「人殺しの術」ではなく、心を鍛えると言うことだな。どーだ、アンタみたいにのほほんとしているヤツには丁度良い鍛錬かも知れんぞ」

「…それは、脳味噌スカスカの俺に居合をしろってことか?」

「別に。それにアンタはそれほど馬鹿じゃないだろ」

 肩を竦めてからニッコリ笑う、明らかに人を見下した態度の蒼牙に、クッソー!今朝はいいもの見せてもらっていい気分になってたって言うのに、一気に興醒めしちまっただろうが!
 ムッスーと腹を立てていたけど、クックックッと笑っている蒼牙を見上げて俺は、ふと先ほど感じた違和感を思い出して首を傾げたんだ。

「居合道ってのは…人を殺さない剣術なんだろ?どうしてだろうな、俺にはさっきの稽古が命の遣り取りみたいに見えたんだ。それって殺し合いに見えたってことだよなぁ」

 うーん…っと悩んでいると、蒼牙はへぇっと驚いたように眉を上げていたが、フッと笑ってその疑問の答えを言ってくれた。

「気迫だよ」

「へ?」

「気迫で殺しあってるのさ」

 それでも納得いかないぞ。
 殺さない居合道で殺し合う?

「一般の居合道では考えられないだろうが、俺はそうしている。叱られはするがな」

「蒼牙でも叱られるのか!?」

 いや、と言うか。
 叱る相手に感情をぶつけない辺り、なんにしても武道ってのは凄いなぁ。
 ふん!と鼻先で笑ってから蒼牙のヤツは、肩を竦めながらそう言えばと、思い出したように頷いたんだ。

「刀を仕舞ってくる。ここにいろ」

「判った」

 大人しく頷いて笑ったら、蒼牙は腰から引き抜いた鞘を掴んだまま、毅然とした態度でスタスタと古武道場を後にした。確かに、繭葵が素敵だと言ったように、そのキリッと伸ばされた背筋と青白髪は少しアンバランスだが、でもそれすらも寛容に受け止められるだけの魅力が蒼牙にはあると思う。
 よし、足もだいぶ良くなったなと思っていたら、桂が俺の脇に控え目に待機しているのに気付いた。
 …この人は本当に、空気みたいな人だな。

「桂さんも居合いをしていたんだね」

「はい」

 ちょっとビビりながら話し掛けたら、やっぱり寡黙な人らしく、言葉数少なに頷いて桂はまた貝のようにムッツリと口を噤んでしまった。

「蒼牙の腕はいい方なのかな?」

「左様ですとも。現在の宗主は直哉様でございます。しかし本来ならば、蒼牙様こそ免許皆伝を受けてもおかしくはないのですが、そうされていないのはご自身に未だ迷いがあるからなのでしょう」

「…迷い」

 あの不遜大魔神の蒼牙のどこに、そんな迷いがあるって言うんだ?
 すぐに人を馬鹿にしたような目付きで上から見下ろしてくるあの傲慢な態度は、どこをどう見ても迷いに悩める武道少年なんてツラじゃないだろう。
 俄かには信じられないような話しだが、それでもなんとなく理解できたのは、きっとさっき蒼牙が言った台詞が引っ掛かったからだ。
 人を殺す為ではない剣術で、気迫とは言え内面に蹲る精神で殺し合いをしているその行為は、心を鍛えるべき居合道にあってはその精神を真っ向から否定しているようなものだと思う。どうして蒼牙がそんなことを思うようになったのか俺は知らないけど、桂さんが言うことが本当なら、たぶんそう思うようになった原因が蒼牙の悩みなんだろう。
 その双肩に呉高木一族とこのささやかな村の未来を担って立つには、あんな見てくれでも蒼牙はまだ、本当は子供なんだ。たまに酷く大人びた顔をして溜め息を吐いている姿なんか見てしまうと、近所のガキを思い出しても通じるところがあまりに少ないのに気付いて吃驚した。
 蒼牙はいったい、産まれてからこれまで、どれぐらい年相応の生活をしていたんだろう。
 ふと、あれほど嫌いだと思っていた蒼牙に対する一種の偏見のようなものが薄らいで、俺はその向こうにひっそりと佇んでいる本当の蒼牙を見てみたいという気持ちに駆られてしまった。
 当主として生きている蒼牙も確かに蒼牙なんだろうけど、年相応に普通に笑って、インターネットにハマッたりスキーしたり話題のゲームの話しに盛り上がったり、お洒落に気を遣うところとかも見てみたいよ。
 そんな仏頂面ばかりで、笑えばやたら大人びていて小生意気で、服だっていつも着流し姿でお前、いったい何が楽しいんだって聞きたくなっちまう。
 さっきみたいに胴着なんか着られてしまうと思わずドキッとしてしまうけどな…ハッ!?俺何言ってるんだろう。
 さっきから赤くなったり青くなったりしている俺の百面相を、桂はやっぱり表情も変えずに無言のままで盗み見ている。
 いかん、これじゃちょっとアレな人になってしまう。
 俺はコホンッと軽く咳払いして、戻ってくる蒼牙を待つことにした。

 真剣を仕舞って戻ってきた蒼牙はやっぱり白装束のままで、俺を促して母家に戻りながらうんざりしたように眉を寄せて言った。

「もうお客人が到着したようだ。アンタや繭葵たちと違って賑やかで疲れるな」

「へー!もう会ったのか?」

「挨拶されたよ…美人だったぞ」

 着物は風呂に入ってから着替えるんだと聞きもしないのにいちいち説明した蒼牙は、小憎たらしい顔でニッと笑って、どうでもよさそうな情報までわざわざ付け加えてくれた。そこまでされたら俺だって、それにニッコリ笑いながら応対してやるしかないだろ?

「そっかぁ。じゃあ、会うのが楽しみだ♪」

 その途端、蒼牙のヤツはムッとしたようなツラをして「どの口で言ってるんだ」と、自分からふった話題のくせに俺の腕を掴むと、引き寄せながらジロリと睨みつけてきやがった。その視線は確かに震えあがるほどおっかなかったが、でも、そうやって素直に感情を剥き出しにする辺りはまだまだ子供だなと笑ってしまった。それが余計に蒼牙の気に障ったのか、ヤツはますますムッとしたようでケラケラ笑っている俺の顔を覗き込んでいたが、不意にソッと触れるだけのキスをしてきたんだ。
 あんまり唐突のことだったから吃驚したけど、それでも啄ばむようなキスは気持ちが良くて、俺はうっとりと瞼を閉じてそれを受け入れようとした。
 その時、不意に蒼牙が俺から離れると、驚くほど厳しい無表情をしてツイッと前を睨み付けたんだ。そこにはワイワイと騒がしい一団が近付いてきていて、蒼牙がそうして離れなかったら、バッチリと男同士のキスシーンを見られてしまったなと、危機一髪のニアミスを回避できて俺はホッと胸を撫で下ろした。

「呉高木さん!先ほどは満足な挨拶もできなくて…ん?」

 賑やかで華やかな一団の中の男が1人、蒼牙の存在に気付いたのか、いそいそと一団を離れて近付いてくると内心ではうんざりしている蒼牙の腕を掴んで挨拶しようとした。だが、その目が、傍らで立っている俺を捉えた瞬間、ギョッとしたように見開かれたんだ。

「あれ!?お前、楡崎じゃないか??」

「へ?あ、ああー!!高遠先輩じゃないッスか」

「はっはっはー!お前、元気にしてたかよ?」

 その声に聞き覚えがあった俺は一瞬眉を寄せたけど、すぐに高校の時の先輩だと気付いて声を上げてしまった。

「お知り合いですか?」

 初めて村の外の人間と対面する蒼牙を見た俺の感想としては、ズバリ!猫被ってんじゃねーぞッッ!!だった。

「高校の時の後輩ですよ」

 俺が何か言おうと口を開きかけても先輩が先に言ってしまう、そうそう、この人もまた蒼牙と違った意味で俺様な人だったっけ。
 思わず苦笑しそうになった俺をチラッと上の方から見やがってから、蒼牙は思い切り営業だと判るスマイルを浮かべて丁寧に言ったんだ。

「そうですか。何もない村で心許無いでしょうが、彼もまだこの村に来て間がありませんが知り合いがいれば心強いでしょう。ごゆっくりして行ってください」

「は、はぁ。ありがとうございます♪」

 俺に先に行ってると言い残して、蒼牙はそのままさっさと行ってしまった。でもたぶん、あの後ろ姿は怒っているんじゃないかと思う。いや、なんで怒られなきゃいかんのかは謎だが。
 ハァッと溜め息を吐いていたら急にガシッとヘッドロックをかまされて、俺はアワアワしながら先輩の腕を叩いていた。

「お前、いつから呉高木の家にいるんだよ!?ここってスッゲー金持ちなんだぞ!」

「い、いつって…3日前ですけど。先輩は何をしに来たんです?」

 腕を緩めてくれた先輩はそれでも俺の頭を抱え込んだまま、根が豪快な人だけに、ガッハッハッと大いに笑いながら答えてくれた。頼むから、まずは手を離してください。

「俺たちは大学の民俗学研究部でよ。今度、この村で何年かぶりの祭りがあるって聞いたから夏休みを利用して見に来たってワケだ」

「由美子でーす」

「香織でーす」

「望月です」

 頭を抱えられたままの情けない姿の俺に、美人系の由美子と可愛い系の香織が次々と挨拶して、それから最後に冴えない野郎がヌッと覗き込んできて片手を上げるから、俺は苦笑しながらいちいちそれに応えながら先輩の腕をさらに強く叩いた。

「あれ?でも高遠先輩。大学って…」

「ん?俺は大学院に進んだんだよ」

 あ、なるほどと、やっと開放してもらって頷いていると、由美子が真っ赤に塗りたくった唇をニッと笑みに象って俺に擦り寄ってきた。

「ねね!あの綺麗な呉高木のご当主様?もちろん、独身なんでしょ?」

 興味津々なのはもちろん、不思議な髪の色さえ気にしなければいたってハンサムの代名詞になりうる蒼牙のことなんだろう。先輩は始まったよとでも言いたそうに片手で顔を覆っているし、香織と望月は顔を見合わせて肩を竦めながら苦笑している。

「えーっと…なんか、今度結婚するみたいだけど」

「ええ!?」

 オマケにヤツはああ見えても、若干17歳だぞ…っと、これは今の世の中じゃ別に年齢差なんかはどうでもいいことか。
 ちょっと何よそれぇとムーッと綺麗な顔を歪める由美子に、お前は何をしにここに来たんだと言いたそうな顔つきをする高遠先輩が溜め息を吐いていると、都会派美人の大学生は肩に下げていた荷物を投げ出して、豊満なバディを惜しげもなく晒すピチピチのタンクトップにホットパンツ姿で抱き付いてきたんだ。

「わわ!?」

「ちょっとさー、結構キミご当主様と仲良さそうじゃない?あたしを紹介しちゃってよぉ」

「おーい、やめろよ由美子。こう見えても楡崎は奥手なんだからな」

「あらん?じゃあ、胸を押し付けちゃおっかなぁ♪」

「ひええぇぇ~」

 柔らかい乳房を押し付けられると、それでなくても暫く女っけのなかった俺としては、免疫がなくて顔が真っ赤になってしまった。それがまた面白いのか、由美子は甲高い声で笑いながらギュウギュウと抱き付いてくるから堪らん!勘弁してくれよ~

「ムム!光太郎くんの危機発見!ちょっと君たち、蒼牙様の光太郎くんに手を出すとボクが承知しないよ!!」

 グハッ!

 お前は何を堂々と晒してんだッ。

「あ、蒼牙の花嫁候補」

 それでも話しを逸らそうと由美子に抱き付かれたままであっさり言ったら、豊満バディの都会派美人は真っ赤な口紅を塗りたくった唇を尖らせて、物事の諸悪の権現である繭葵を振り返った。
 可愛いフリルのついた緑のキャミソールを重ね着したジーパン姿の繭葵は、胸を張るようにして仁王立ちしながら腰に手を当てて、不躾にビシィッと指差している。決まってる自分のポーズに満足しているのか、フフーン!と満足そうだ。
 お前も何をしにこの村に来てるんだ。
 思わずガックリ肩を落としそうになる俺をサッサと放り出して、由美子は豊満な胸を押し上げるようにして腕を組むと、ジロジロと品定めでもするかのような嫌な目付きで繭葵を見ている。

「うっそぉ!?こんなお子様がご当主様のお好みなのぉ??」

「ムー?何を言ってるんだい。どーしてボクが蒼牙様の好みになるワケ?蒼牙様の好みは光…ングググッ」

 これ以上何か危険発言をされて窮地に立たされるのはご免被りたいからな、大人しくなってもらう為に繭葵の口を手で覆って愛想笑いした。

「違うよ、違う。コイツは花嫁候補の1人で、もう1人、蒼牙に打ってつけのご令嬢が候補でいるんだ」

「ご令嬢ぉ~?あーん、それじゃ無理かぁ」

 最初からお前は無理だろと、高遠先輩もそこにいた全員がそう思っていたけど、当の本人である由美子だけは本当にイケルと思っていたようだ。勘弁してくれ。
 いやそりゃあ、俺に比べればお前のほうが全然イケてると思うけど、小雛や繭葵に比べたら…都会に毒され過ぎて俺でさえ食傷気味になりそうだぞ。

「さーて、冗談はそれぐらいにして!今夜から明日の祭りまでお世話になる呉高木家にきちんと挨拶に行くぞ」

「ええぇ~、冗談って何よそれぇ」

 本気だったの!?
 思わずポカーンッと呆れてしまう俺と繭葵に、香織と望月は苦虫でも噛み潰したような苦りきった表情で顔を見合わせてから、仕方なさそうに笑って肩を竦めたんだ。

「だってね、由美子は本気で過疎地のお金持ちをGETして玉の輿に乗るんだーって言ってたもん」

「バカ!…としか言いようがないね」

「…ちょっと、望月ぃ!バカって誰のことよ?まさか、あたしなんて言わないわよねぇ??このミスキャンパスにして秀才の由美子さまに一度も勝てないあんたがね!」

 フンッと鼻で笑う取り澄ました由美子がナイスバディををくねらすようにして歩いて行くと、望月は肩を竦めながらやれやれと溜め息を吐いた。
 同じように高遠先輩と顔を見合わせた香織も肩を竦めて諦めたように溜め息を吐くと、仕方ないと言いたそうに投げ出している荷物を掴んで彼女の後を追い始める。その後ろ姿を見ながら軽く溜め息を吐いた高遠先輩が、やっぱりポカーンッとしている俺たちに気付いて困ったように笑ったんだ。

「由美子は気位の高いヤツでさ。でも話してみると案外面白いんだ。まあその、適当に付き合ってやってくれ」

「…先輩も、お疲れ様ッスね」

 苦笑して大柄な山男のような高遠先輩を見上げると、彼は「まあな」と決まり悪そうに呟いて笑った。

「でもお前とこんなところで会うなんてなぁ」

「うち、呉高木家の分家なんですよ。んで、今回お祭りがあるから先輩たちと一緒で、見学に来たんです」

 ニッコリ笑いながらも、横で俺たちの会話を黙って聞いている爆弾娘が何か言い出しはしないかと内心バクバクしていると、先輩は、いやもちろん、この人はそんなに悪い人じゃないから全く他意はないんだろうけど言ってくれたんだ。

「そうかそうか。アレから一度も会ってないだろ?金の無心に来たお前を無碍に追い返しちまってさぁ…かなり後悔したんだぜ。んで、親父さんの借金は返せそうなのか?」

 ははは…そうか、そう言えばそんなこともあったっけ。とか、忘れられもしないくせに忘れたようなふりを演じていた俺は、軽く笑いながら頷いた。

「おかげさまで。あの時は無礼をスミマセンでした」

 でもまさか言えない。
 呉高木家当主の花嫁になることを条件に、借金全額チャラになったなんてな…

「お前こそ大学に行くべきだったのにな、残念だなぁ」

 心底残念そうに項垂れる先輩には悪いけど、もうその話題には触れて欲しくないんだが…でも仕方ないか、恥を偲んで頭を下げに行ったのは俺なんだ。そうか、6歳も年下の男に抱かれることを条件に借金の返済をしたこの俺だ、もう今更恥の1つも2つもないよなぁ。
 溜め息を吐いていたら、不意に傍らで俺たちを見上げて話しを聞いていた繭葵がズバッと言ったんだ。

「心にもないこと言っちゃダメだよ。どーせ男気出して『金の貸し借りはお互いの為にならん』とか言ったんでショ?だったら、そんな泣き言を蒸し返しちゃダメだ」

 爆弾娘の明け透けな発言に、高遠先輩はまるで面食らったようだった。それは俺も同じことで、でもどうしたんだろう?俺は、なんか胸の辺りがスカッとした気になっていた。

「本気で光太郎くんを思っているのなら、自分の進む道を見つけている今の光太郎くんを応援するべきだよ。昔のことなんて蒸し返しちゃダメだ」

 フンッと胸を張る繭葵を見下ろして、それでも先輩は気に障ったのか「お前には関係ない、失礼なヤツだな」と言って腹立たしそうに行ってしまった。もともと、繭葵が言うように男気が強い性格で、俺様な部分があるもんだから自分より年下の、ましてや女の子から諌められたとあっては面子が立たなかったんだろう。

「うっわー…ごめん。光太郎くんの先輩なのにボク、余計なこと言っちゃったねぇ。謝ってくるよ」

 思わず噴き出しそうになっていたら繭葵のヤツがそんなことを言うもんだから、俺は大らかに笑いながらその腕を掴んで止めたんだ。失敗しちゃったなーと言いたそうな、強気の繭葵にしては珍しく困惑した顔で俺を見上げてくるから、その眉を八の字にした顔を見下ろして肩を竦めて見せた。

「いいよ、別に。あの人は昔からああだし。それに…ホントはスカッとしたからな」

 バチンッとウィンクなんてしたことないくせに片目を閉じて見せると、そんな不恰好な俺の姿が面白かったのか、繭葵はすぐに元気を取り戻して頷いたんだ。

「よかった。ボクもああ言うヤツは大嫌いだ。したり顔で先輩面しやがって、そのくせいざと言う時にはちっとも役に立たないんだから!いっそのこと目の前から消えて欲しいよね」

「コラコラ、それは言い過ぎだろ」

「あ、やっぱそう?ウシシシ」

 身に覚えでもあるんだろう、繭葵のヤツは本当に憎たらしそうに言ったけど、すぐにいつもの顔でニシシシッと笑うから、本気なのか嘘なのかよく判らんな。

「でもさー、あの関係図?ボクの見解としては由美子=女王様で、香織=お付きの侍女、んで望月が傍観者。あのムカツク先輩が由美子崇拝者ってとこかな」

「はぁ?どこをどう見たらそんな風に思えるんだ??…つーか、なんでお前がアイツらの名前を知ってるんだよ」

 怪訝そうに眉を寄せて見下ろす俺から、繭葵はあまりにも不自然に目線を逸らして口笛なんか吹きやがるから…おい、まさか。

「最初っからいましたもの♪蒼牙様とのキスシーン見ちゃったぁ」

 エヘへへッと笑う繭葵に、俺が真っ赤になって口をパクパクさせていると、さすが爆弾爆裂娘!ニャハッと笑いながら自分の頭を小突きながら言ったのだ。

「うはっ!マンガなんて描きません♪」

 …誰か有害なコイツの息の根を止めてやってください。

「…と言うわけで、弦月の儀にご招待するわけにはいきません」

 俄かに賑やかになった夕食の席で、限られた一部の一族しか参列できない弦月の神事について蒼牙は簡単に説明していた。できるだけ蒼牙に近付きたい由美子だったけど、そこは格式ある呉高木家のこと、一線というものはちゃんと引いている。
 繭葵は呆れたようにそんな由美子たちを見ていたけど、たぶん内心は穏やかじゃないに決まってる。
 民俗学こそ生涯の伴侶だ!と言いやがる繭葵にとって、呉高木家の蔵の中には垂涎のお宝が眠りまくっているんだそうだ。それを見るためだけに、こんな茶番劇に乗って来てやったようなものなのに、それをワケも判らない連中から横取りされるとなると学者魂に火でもついてるんじゃないかな。

「残念だな~、今回の見物は『弦月の儀』だったのに」

 高遠先輩が残念そうに眉を寄せると由美子を除いた一行も、少しだけ沈んでしまったようだ。
 いやだけど、あの山男みたいな先輩が…民俗学ねぇ。信じられん!
 俺は味噌汁の入った椀を持って軽く口を付けながら、高遠先輩と蒼牙の遣り取りをコソリと見ていた。いつもは不遜が服を着て歩いているような呉高木家の生ける神が、驚くことに、客人相手では吃驚するぐらい態度を豹変させてるんだからこれも信じられないよなー…

「神事は見世物ではありませんことよ」

 不意にそれまで黙って事の成り行きを見つめていた眞琴さんが、薄ら寒くなるような微笑を口許に張り付けて物静かに窘めると、男どもはその美貌に声をなくし、由美子は明らかな敵意をむき出しにして睨み付け、香織はその威圧感に言葉を出せなくなったようだった。

「…奉納祭をご覧になられるといい。神事と変わりなく、奉納の舞いが楽しめましょう」

 蒼牙が明らかに猫を被った営業スマイルでニコリと笑うと、ワタワタと気を取り直した先輩たちはそれでも仕方なさそうに愛想笑いを浮かべている。

「…ふん!奉納祭だって拝めるだけ有り難いと思って欲しいよね。ボクなんか花嫁候補になって初めて、奉納祭にお呼ばれしたんだよ」

 プリプリと腹立たしそうにガツガツと飯を掻き込む繭葵は、おいおい、そんな腹を立てて食ってると消化に悪くて太っちまうぞ。そんな俺の心配なんか余所に、繭葵はバリバリッとタクアンの漬物に噛り付いている。
 町のファミレスなんかに比べると純和風の食卓は口に合わないのか、由美子と香織はあまり箸も付けずに話しを聞くだけで、結局最後まで残したままだった。
 まあ、俺も魚は苦手だから人のことは言えないんだけどな…
 腹を満たした一行は、次は旅館並みに広い温泉に目を付けたのか、礼もそこそこにガヤガヤと賑やかに立ち去ってしまった。漸くいつもの静けさを取り戻した広間で、肩にカーディガンを羽織った伊織さんが綺麗な柳眉をグッと寄せて、煙管で煙草を吹かしながら立ちあがった。

「ああ言う、煩い連中は好みじゃないわね。蒼牙さんも変わられた方だこと」

 フーッと煙を吐き出してから、伊織さんは見下したように蒼牙を見るとフンッと鼻を鳴らして立ち去ってしまった。そんな畏れ多い態度にも、とうの蒼牙はそ知らぬ顔だ。

「でも、そうだね。どうして蒼牙様はお客人なんて招いたんだろ?」

 繭葵も不思議そうに眉を寄せたが、面倒臭そうな顔をして席を立つ蒼牙に直接聞けるわけもなく、仕方なさそうに肩を竦めている。
 蒼牙が立ち去ろうとしたその時、不意に広間の障子が開いて高遠先輩がヒョイッと顔を覗かせた。人数が少なくなった部屋には蒼牙と繭葵と眞琴さんと小雛と俺しかいない、だから人捜しなんか簡単だったんだろう、キョロキョロと見渡してすぐにお目当ての相手を見つけると、先輩らしい大きな声で言ったんだ。

「おお!いたいた、楡崎。せっかく会えたんだ、昔話も積もるだろうから今夜は俺たちと過ごさないか?」

 そう言うことは普通、当主である蒼牙が言うもんじゃないのか?

 この人は~っと思いながらも、先輩の押しの強さには昔から敵わない俺としては、まさかいつも蒼牙と寝てるから一緒はちょっと…とか言って断れないし、困ったなぁと思いながらチラッと蒼牙を見るとヤツは感情を窺わせない無表情の顔で「自分で決めろ」とでも言っているようだ。
 ああ、そっか。
 なんか知らないけど、俺、蒼牙を怒らせてるんだっけ。
 あーあと溜め息を吐いていたら、残していた俺の魚を突付いていた繭葵がムッとした顔をして、そんな無神経の塊のような先輩に言い放ったんだ。

「また昔話?ほんっと懲りない人だね、君もッ。今の光太郎くんのこともよく知らないくせに、無礼にも程がある!光太郎くんは君たちとは過ごさないよッ」

 ビシッと指を突き付けて言い放った繭葵を、高遠先輩はムカッとしたように睨み付けていたけど、この人もそんなことぐらいで負ける柔な人じゃない。
 案の定、華奢で小柄な繭葵を見下ろして、小馬鹿にしたように鼻先で笑っている。

「お前こそ無礼にも程があるんじゃないのか?悪いが、楡崎とは長い付き合いなんでね。昨日今日知り合った程度のお前さんにとやかく言われる筋合いはないね」

「…!」

 繭葵のヤツのへこむ所なんか初めて見た俺としては、先輩が言うように長い付き合いであるはずの高遠先輩よりも、へこんで唇を噛んでいる繭葵を援護してやりたくなっていた。
 どうしてだろう、先輩には借金の件は別としても、長いこと世話になっていたって言うのに…
 そこまで考えてハッとしたときには、俺の腕は先輩の大きくてゴツい手に乱暴に引っ掴まれていた。

「…ッ」

 そうだ、忘れてた。
 この人は柔道もしてたんだっけ。

「さーて、積もる話もあるしなぁ?余計な邪魔が入ったけど今夜は夜通し昔ばなし!に花を咲かせような」

 アイタタタと掴まれた腕に眉を顰めていると、高遠先輩は俺の事情なんかまるで無視して勝手なことを言っている。ホント、この人も子供みたいな人だからなぁ…
 わざと昔ばなしの件で強調するように語気を強めてから、ムムムゥ…と唇を尖らせて睨む繭葵を鼻先で笑って強引に引き摺られそうになって俺は焦っちまった。

「ちょ、先輩。スミマセンが俺は…」

 アンタといるより蒼牙といた方がいいんだ…とか、もちろん口が裂けても言えないんだけど、気分的はそんな方向に向いているから、何とかこの我が道を行く先輩の頑丈な腕から抜け出そうとするけど、やっぱ有段者の先輩の力に敵うはずもない。
 畜生、どうしてこう、腕に自信のあるヤツってのは我が侭で尊大なんだ!
 ったく、人をなんだと思ってるんだ。

「あ」

 広間から連れ出されそうになっている俺の背後で繭葵の小さな声がして、どうしたんだと、こんな状況でも振り返ろうとした俺の真後ろから、唐突にヌッと伸びた腕が先輩の腕を掴んで引き止めたんだ。
 俺でさえなす術もなく引き摺られてるだけだってのに、ただ掴んでいるようにしか見えないってのに、先輩はその腕に引き止められてしまった。

「蒼牙…」

 思わず少し上にあるこの館の、いや、この村の絶対権力者の顔を見上げて呟いていた。
 飄々としているようにしか見えないのだが、明らかに、その少し青味がかった双眸が怒りに揺れている。

「失礼、高遠さん。彼は私の客人で、大事な私の家庭教師なんですよ。これから少し勉強がありますので宜しいかな?」

「…あ、いやそうでしたか!いやぁ、すみません。なんだ、楡崎。そうならそうって言えよな!はははッ、いやこれは失礼しました。じゃあ、俺はこれで」

「ええ、ごゆっくり寛がれてください」

 先輩が大慌てで両手を放すと、蒼牙がニッコリと笑って掴んでいた腕を放した。
 さすがはご当主!当に鶴の一声で高遠先輩はサッサと引き揚げて行ってしまった。
 思った以上に強い力で掴まれていたのか、まだ掴まれていたところがヒリヒリする。
 くそー、ホントにあの先輩は馬鹿力なんだからなー
 先輩の後ろ姿を見送った後、俺は蒼牙を見上げて笑いながら礼を言った。

「ありがとうな、蒼牙。助かったよ」

「…」

 礼を言って、凍り付いてしまった。
 目線だけで見下ろしてきた蒼牙の双眸が、これ以上はないぐらい冷たく冴え冴えとしていたんだ。
 うお!?怒ってる、メチャクチャ怒ってるぞ!!
 いや、だからって俺に怒られても困るんだが…何か言い訳をしようと考えあぐねていると蒼牙のヤツは、荒々しく息を吐いてから、俺の胸倉を引っ掴んで顔を覗きこんできたんだ。

「アンタはどうして俺に助けを求めないんだ。アンタのこの口は飾りなのか?こんな調子だと、俺はアンタを一人にはしておけない。これがどう言う意味だかもちろん、判るだろうな?」

「わわ、判る。もちろんだとも!これからは気をつけるから、だから…」

「ふん、どうだかな」

 あからさまに疑わしそうな目付きで見下ろした蒼牙は、不意に、なんとも言えない複雑な表情をして動揺して慌てふためく俺をジッと見詰めてきた。
 あう、モチロンだとか言ったけど、結局どう言う意味だか脳味噌があんまり詰まっていないせいでサッパリ判らんかったってこと、やっぱバレてるんだろうか。
 ドギマギして固唾を呑んでそんな蒼牙を見詰め返すと、ヤツは遣る瀬無さそうな、じれったそうな表情をしてから吐き捨てるように言いやがったんだ。

「アンタは…俺を信用していないからな」

「…へ?」

 思っていたのとは見当外れな蒼牙の言葉に一瞬キョトンとしてしまった俺を見下ろして、それから掴んでいた胸倉を離して、この館の当主である青白髪の男はフイッと目線を外してそのまま部屋から出て行ってしまったんだ。

「おい、ちょ、待てよ蒼牙ッ!」

「光太郎くん」

 慌てて追いかけようとする俺の腕を掴んで、それまで黙って見守っていた繭葵のヤツが、ヤツにしては珍しく静かな声で呼び止めたんだ。
 なんだよ、俺は今忙しいんだ。

「蒼牙様、ほんっとーに!光太郎くんのこと好きなんだねぇ。歯痒いんだねぇ。うーん、でもその気持ちちょっと判っちゃうなぁ」

「はぁ?お前、何を言ってるんだよ」

 それでなくても妖怪なのに、ますます磨きが掛かるぞ。

「はぁ…なんか蒼牙様に同情したくなっちゃったよ」

「何を言ってんだか判んねーぞ、繭葵。俺は行かないと…」

「行ってどうするんだい?」

 唐突に突き放すように険を含んだ声音で言われて、一瞬、呆気に取られてしまった俺はポカンと整った眉を顰めている繭葵を見下ろしていた。

「行って、ちゃんとキスできるのかい?そう言うこと、何も考えてないでショ」

「なな、なんでキ、キスなんてしなきゃならないんだ!?」

 お前、ホントに頭、どうかしたんじゃねーだろうな?
 真っ赤になって慌てふためく俺をジットリと睨んでいた繭葵は、ヤレヤレと首を左右に振って、思い切り長い溜め息なんか吐いてくれた。

「鈍感なんだよね。でも、そこが可愛いから何も言えないんだけど。言えないから辛いんだし、あーあ!蒼牙様の恋は前途多難だねぇ。でも、蒼牙様ならきっと「だからこそ落とし甲斐もある。愛とはそう言うものさ」とか言ってくれちゃうんだろうけどねぇ。光太郎くんがもう少し敏感だったら、もうちょっと蒼牙様も気楽になれるんだろうけど」

「…??何を言ってるんだ」

 首を傾げる俺を胡乱な目付きで睨んでから、繭葵はムキィッと鼻に皺を寄せながら「とぉ!」と言って俺の脹脛を蹴りやがったんだ!

「なにするんだよ!!」

「今のは蒼牙様の痛みってヤツだい!もう少し頭冷やしてよぉーッく考えてから、蒼牙様の部屋に行くんだよ!いい!?ボクは光太郎くんの味方なんだからね!蒼牙様なんてもっと、キミの味方なんだよ。忘れちゃダメなんだからねッ」

 いまいち、繭葵の言っていることが判らなかった。そのくせ、頭のどこかではその言葉の意味も、蒼牙が言いたかったことも、全部何となく判っているような気がした。
 ただそれを理解するにはどうしても、俺の中の何かが引き留めているような気がしたんだ。
 一様には信じられない思い…ああ、だから蒼牙は「俺を信用していない」なんてことを言ったのか。
 アイツは馬鹿だ。
 いや、アイツよりも大人の癖に、いや、大人だからこそ妙な常識だとかが邪魔をして、その先に佇んでいるはずの蒼牙を見つけ出せないでいるんだろう。
 不機嫌そうなくせに、どこか心配そうな顔をする繭葵と別れて、蒼牙の部屋に続く庭に面した長い廊下をボンヤリと歩きながら俺は、まるで無頓着に全てを照らす優しい月明かりを見上げていた。
 護るような優しい眼差しを信じてしまえるほど俺は、お目出度いヤツじゃない。
 そう考えてしまうのが意固地なのかもしれないが、俺の脳裏にベットリと張り付いてしまっている固定概念がそれを許してくれないんだ。
 忘れたくても忘れられない、俺の中に渦巻くものを、そんなに簡単に捨てられるわけがないじゃないか。
 だってなあ、そうだろ蒼牙。
 俺は、借金の形だもんな…
 大事な場所を踏み躙った、これは俺に与えた最高の罰なんだろう?
 見上げた満天の星の中に蹲るようにして、どこかで見たことがある、もうずっと昔に思い出せもしないんだが、優しい月が寂しそうに輝いていた。
 俺は溜め息を吐いて、輝く月を見上げていた。