後編  -あなたのとりこ-

「うは~、ここが北条さんの家なんだ」

 嬉しそうに俺の後をついて来ていた虎丸は、ごっちゃごっちゃに散らかっている俺の部屋を見渡しながら、その人一人ぐらい平気で射殺せるんじゃないかと思う鋭い双眸をキラキラさせて室内を見渡してやがる。

「散らかってるからな。座れるようにそこらヘン片付けとけよ」

「あ、うん。判った」

 壁に掛けてあるエプロンを引っ手繰りながら指示すると、虎丸はハッとしたようにして急いでしゃがみ込むとテキパキと片付けを始めたんだ。
 コイツはなんか、こう言うところが敏捷なんだよなぁ。
 ヤレヤレと溜め息をついて、俺は狭いキッチンに入ると適当に夕食の準備を始めたんだ。
 今夜は何を食うかなぁ…そーだ、昨日の残りがあったな。
 ブツブツと献立を考えながら冷蔵庫から卵やら何やら、材料を取り出して下準備に入る頃、ふと、視線を感じてキッチンの入り口を振り返って思わずへたり込みそうになっちまった。

「…虎丸。何してんだ?」

「お!俺の名前を呼んでくれた♪えっへっへー、片付け済んだから手伝おうと思ってさぁ」

 ニコッと笑って見上げてくる虎丸は、どこをどう見たら手伝う体勢なんだと聞き返したいぐらい、しゃがみ込んだ姿勢で壁の向こうからジーッと見てやがったんだ。
 何を考えているんだか…
 溜め息を吐くと、虎丸はヨッと立ち上がって腰を叩きながら俺の傍までいそいそと寄って来た。

「なになに?今夜は何を作るんだ??」

「そーだなー、麻婆豆腐と昨日の残りとサラダでどうだ?」

「うっそ!マジ、うまそー♪」

 嬉しそうに虎丸が笑うと、それに応えるように腹もグーと返事をする。
 見た感じ、24、5歳といったところだが、言動や仕種は子供っぽさが抜け切れていないのか、どこか憎めないところがある。その並のヤンゾーなら裸足で逃げ出すような、凶悪な双眸さえなければどこかで立派なサラリーマンでもやれそうなのに…ニートっつーのもなぁ。
 そうの上、オマケにホモってのもあるから、コイツがこの先、明るい未来を歩めるのかどうか不安で仕方ない。

「…手伝うんじゃないのか?」

 俺がフライパンを片手にやれやれと笑ったら、虎丸はちょっと頬を赤くして、それからはにかむように笑ったんだ。

「うん、手伝うよ」

 鼻歌交じりで豆腐に包丁を入れる虎丸は、楽しそうに料理をしながらまるで大型犬が嬉しくって仕方がないと言いたげに転げまわるようなイメージすら浮いてくるほど、ご機嫌な様子だった。
 包丁で豆腐を切りながら嬉しそうに俺に擦り寄ってくる虎丸の、そのでかい図体を片手で押し遣りながら邪険にあしらう俺のことなんか、今の虎丸にはなんのダメージにもなっていないようだ。

「危ねーな、近寄るな」

「北条さん、冷たいなぁ。こうしてると俺たち、まるで新婚の夫婦みたいだね♪ぜってー、北条さんには裸エプロンしてもらうんだ」

「ブホッ!」

 思わず咳き込んでしまってシンクに片手を付いた俺を、慌てたように虎丸が覗き込んできやがるから、俺は思わずフライパンでその頭を勝ち割ってやろうかと思った。

「なな、何を突然お前は…」

「ええー?だってさっきもさ、こっち見ろこっち見ろ~!ってテレパシー送ったら、北条さん、ちゃんと見てくれたじゃないか。俺たちはもう、相思相愛なんだよ。これはもう、結婚するしかないね♪」

 咳き込む俺の背中を擦りながら、虎丸のヤツは事も無げに平然とそんなことを言いやがるから、開いた口が塞がらない。コイツはいったい、どんな教育を受けてきたんだ。

「…はいはい、もう判ったからこれ持ってあっちに行ってろ」

 レタスを手で千切って、プチトマトを乗っけただけのいたってシンプルなサラダらしきものを手渡しながら追い払うと、素直に受け取った虎丸はそれをジーッと見た後に笑って首を傾げた。

「ツナ缶ない?俺、シーチキン大好きなんだ」

「シーチキン?そう言えば買い置きがあったな…」

 屈み込んでシンク下の扉を開くと、ストックしておいたはずのツナ缶を探してみた。
 確か、この辺に置いていたはずなんだが…

「…北条さんて優しいよね」

「んー?」

 ふと、ポツリと呟いた虎丸の、それまでとは違った雰囲気の声色に俺は気付けなくて、バカみたいに無邪気に喜んでいる犬のようなヤツの為にツナ缶探しに没頭していた。
 それが、いけなかったのか。

「素性も知らない俺をさ、家の中に平気で上げるもんな」

「何言ってんだ。毎日毎日、コンビニに押しかけてきちゃ好きだ好きだ言いやがって!常連さんの間でお前を知らないヤツなんていやしねーよ」

「そっか…へへ、嬉しいな」

 ワントーン落ちている声が少し震えていることに、その時になって漸く気付いた俺が振り返ろうとした時だった。不意に、覆い被さるようにして虎丸が背後から抱き付いてきたんだ。

「北条さんさ、絶対信じてないよね?俺がこんなに、毎晩眠れないほどあなたを愛してるってこと」

「お前なー…ッ」

 ツナ缶探してやってるのに何を言い出すんだと言い掛けたその言葉は、虎丸が首筋に口付けたことで途切れてしまった。
 首筋に口付けながら器用に背後から回した手でシャツのボタンを外そうとする虎丸に、顔を茹でタコよりも真っ赤にした俺は慌てて振り解こうとしたが…なぜか、腕に力が入らない。
 これじゃあ、自慢の柔道の腕前もみせられないじゃないか…
 そんなどうでもいいことを考えているうちに、虎丸の指先はどんどん有り得ない場所まで潜り込んでこようとして、とうとう俺は顔を真っ赤にしたままで言葉で抵抗する他に手段がなくなってしまった。

「や、やめんか!このバカが、俺は男だって何度も言ってるだろうがッ」

「知ってるよ、ずっと見てたし。北条さんは全く気付いてないみたいだったけど、俺、ちゃんとずっと見てたんだ」

「…ッ」

 背後から被さるようにして俺を抱き締めてくる虎丸の体温は、シャツを通していてもダイレクトにその熱さを伝えてくるから、その時になって漸く俺は、虎丸が強ち嘘は言っていないんじゃないかと思うようになっていた。
 恋や愛だなんて、厄介だとかなんだとか、まるで硬派でも気取るように嘯いて過ごしてきたこの28年間、本当は恋だ愛だに怯えていたのかもしれない。
 こんな風に必死にしがみ付くようにして、縋るように愛を囁く虎丸は、その子供染みた仕種とは裏腹に、素直な分だけ大人なのかもしれないなぁ。

「俺、初めて北条さんが叱ってくれた時、頭の上で鐘が鳴ったみたいな、ハンマーで頭を打ん殴られたようなショックを受けてさ。最初はうるせー、このジジーとか思ったんだけど、北条さん凄い必死でさ。こんな猛毒を吸って何が楽しいんだって、自分の身体をもっと大事にしろって…母ちゃんが死んでから、もうずっと誰も言ってくれなかった言葉を、北条さんはすらすら言っちゃったんだよね。その時から俺、もうずっと北条さんしか見ていないんだ」

 一気に捲くし立てた虎丸は、それから震えるような溜め息を一つ零して、真っ赤になって口をパクパクさせていることしかできない俺をそのままギュッと抱き締めてきた。まるで、長いこと欲しくて、やっと手に入れた何か、凄く愛しいものでも抱き締めているような、そんな優しい仕種だった。

「ねえ、北条さん。どうしたら、信じてくれるのかなぁ?俺、どうしたら北条さんと結婚できるのかな」

 震えるように呟いて、この図体のでかいきかん気の強そうなガキは、抑え難い衝動に突き動かされたようにしてそのまま俺の首筋に顔を埋めるようにして口付けてきたんだ!

「…ッ、め、ろ…そんなことして…ッぉまえ!」

 半分以上脱がしたシャツの開いた部分から指先を滑らせて、何もない平らなだけの胸元を辿るようにして触っていたが、ふと、胸にある突起物に気付いたのか、その部分をキュッと抓んできたんだ。

「ッ」

 舐めるように首筋に口付けられるその感触は、長いこと交渉のなかった身体には、ダイレクトな刺激を与えるには充分だった。
 ゾクゾクする背筋を持て余して、声すらも出せずに唇を噛み締めて俯くと、少し息を弾ませた虎丸が耳朶を噛むようにしてポツリと囁いてきた。

「北条さん。今、すげー…エロい顔してるよ」

「!」

 顔を真っ赤にした俺が、いったいどんな顔をしてるかなんてそんなこたどうでもいいんだ。この絶体絶命的なピンチをどう乗り切るかが今後の課題だと思う。
 空いている方の手を滑らせて、ジーンズのベルトを器用に外した虎丸は、そのままチャックまで下げて手を突っ込んでこようとするから、こればっかりは抵抗しないと本当に貞操の危機だぞ。

「や、めろ。やめないと…お前を嫌いになるからな!」

「!」

 不意にビクッとして、虎丸は唐突に悪戯を仕掛けていた手をバッと離したんだ。
 一瞬、こっちがポカンッとなるほどの素早さで、慌てたように身体を離した虎丸は、そのくせ、今にも泣き出しそうな、捨てられた犬のような目付きをして俺をジッと見詰めてきた。

「イヤだ、俺を嫌いにならないでよ」

 震える声で呟く虎丸に、狭いキッチンだってのに、なんで男二人でゴチャゴチャしてなきゃいけないんだと内心で吐き捨てながら俺は、体勢を整えながら振り返ったんだ。

「…お前ってヤツは」

「嫌いにならないでよ!俺、北条さんに嫌われたらどうしていいか判らなくなる…ッ」

 俺の言葉を遮るようにして、虎丸は片手で顔を覆いながら壮絶な目付きをしてキッチンの床を睨みつけたんだ。爆発しそうな感情の波を、いったいどうやって押し殺したらいいのか判らない、まるで駄々を捏ねる子供のような態度が、俺の内に凝り固まっている世間だとか常識だとか言った厄介なものを解きほぐしたのかもしれない。
 こんなさらな感情を剥き出しにするようなヤツが、冗談や遊びなんかで男を、それも年上のおっさんを口説こうなんか思ったりしないんだろう。恋愛ごとの駆け引きもよく判らない、ただただ、真摯で一途な思いだけを判ってくれとぶつけてくる。
 俺が女だったら…そんな馬鹿げた思いが一瞬脳裏に閃いたが、俺はそれを溜め息と一緒に吐き出していた。

「俺なんかを、北条さんは家まで上げてくれて…コンビニでも、ちゃんと婚約者だって言ってくれた。俺のこと、突き放そうとしたら絶対できるのに、でも、北条さんは優しいから付き合ってくれてるんだよね?俺、そう言うことちゃんと判ってたから、このささやかな幸せだけでいいって思ってた。でも、やっぱりダメなんだ!俺、俺は…やっぱりちゃんと、北条さんに好きになってもらいたい」

 努力するから…と、今にも人を食い殺しそうな強烈な双眸を持つ虎丸は、まるで怯えた猫のように身体を丸めて、そのくせ、縋るように俺を見上げてくる。
 そんな目付き、するもんじゃねぇ。
 お前はもっと、自信に溢れたように堂々と笑ってろ。
 それが一番、お前らしい姿じゃないか。
 俺が好きになった虎丸は、そんな死にそうな目付きをしたひ弱な猛獣じゃないだろう?
 気付いていなかっただと?
 毎日、コンビニの前で煙草をふかしながら、何をするでもなくボーッと突っ立てたお前に、この俺が気付かなかったとでも思ってるのか?
 そしてお前の、あの眼差し…

「…やれやれ」

「北条さん!俺は…」

 ビクッとして、俺の口を開かせないようにでもしようとしているのか、虎丸は必死にタイミングを計って口を開いているようだ。
 バカなヤツだ、それじゃあ何も聞けないじゃないか。

「俺を、薔薇色の世界に連れてってくれるんじゃなかったのか?」

「!…北条さん?」

 吃驚したように目を見開いた虎丸は、それでも不安そうに首を傾げてきた。

 何を言い出したんだろう?これは自分に都合のいい、ただの幻聴なのだろうか…とでも思ってるのか、虎丸は不安と微かな期待の入り混じる不思議な目付きをしてジッと見詰めてきた。
 この強い眼差しを、俺が忘れられるわけがない。
 気付いていたからこそ俺は、どんな時でもお前の視線だけは判っていたんだ。

「ったく、物好きもいいところだ。こんなおっさんなんか好きにならなくても、可愛い女の子はたくさんいるのに」

「女なんていらないよ。俺は、北条さんが傍にいてくれたらそれでいいんだ…それだけで良かったはずなのに、俺は」

 愛されたいと願ってしまった。
 言葉にならない思いを溜め息と一緒に呟いた虎丸は、キュッと唇を噛み締めて俺を見詰め続けている。そんな強い激情を、俺はいったい、何時頃から忘れてしまったんだろう。
 こんな風に震えるほど誰かを、俺は愛したことがあっただろうか…

「いいか、虎丸。結婚て言うのはな、お互いの心が寄り添いあって初めて成立するもんなんだぞ」

「…わ、判ってるよ」

 俺の言葉を否定だと受け止めたのか、虎丸は切なそうに俯いた。
 お前は、見かけ以上にバカなヤツなんだな。

「だから、初めはお付き合いするんだろ?」

「え?」

「それからだ!まあ、婚約して結婚するんだろ?まずは付き合ってみないとな」

「北条さん…」

 虎丸は、その時になって漸く、俺が何を言いたいのか気付いたようだった。
 渾身の力を込めて言ったんだぞ?
 さあ、あの自信に満ちたお前らしい顔をして笑うんだ。

「俺と付き合ってくれるの?」

「…そう言わなかったか?」

 俺は…虎丸は何かを呟きそうになって、それから、不意にこれ以上はない極上の笑顔をみせた。
 俺の好きな、あの自信に満ち溢れた男らしい笑顔だ。

「じゃあさぁ、北条さん!キスしていい?」

「グッ!…直球だな、おい」

「ずっと、我慢してたんだぜ。俺、北条さんとキスしたい」

「…ダメだ、っつってもするんだろ?」

 ポリポリと、キッチンの狭苦しい床に腰を下ろしたままで照れ隠しに頭を掻く俺に、虎丸はワクワクしたような顔をして同じように跪いままで頷いた。

「うん、だって俺」

 そうして身を乗り出してきた虎丸の、思った以上に柔らかい唇が少しかさついた俺の口許に押し付けられてくる。

「北条さんの恋人だから」

 嬉しそうに笑って虎丸は、それから深い深い口付けをしてきたんだ。

 煙草を取り上げたあの時から、恋に落ちたのはお前だけじゃないんだぜ。
 とっくの昔に俺はお前の、その眼差しのとりこだったのさ。
 そんなこと、お前には教えてやらないけどな。

おまけ。

  

 後日。

「北条さん!俺、やっぱり正規でバイトするよ。募集してる?」

「へ?ああ、いいけど。ニートはやめたのか?」

 少し伸びてきた前髪を、100円均一で売ってるようなファンシーなゴムで留めた虎丸は、はぁ?とでも言いたそうな顔付きをして首を傾げた。

「俺、高校生だよ。バリバリの17歳!宜しくね♪はい、履歴書」

「!!」

 手渡された履歴書の生年月日を見て俺は、11歳も年下の恋人からニコニコ笑いながら頬にキスされるのだった。
 ああ、それで。
 動作も敏捷なら、仕種も子供っぽかったわけだ。
 目の前がグルグルする。

「あれ?北条さん??大丈夫か!?」

 くらりと眩暈がしたことは言うまでもない。

─END─