俺が胃痛になったワケ 1  -デブと俺の恋愛事情-

 突然だった。
 目の前が一瞬ぶれて、気づいたときには力任せに頬を叩かれたんだと知った。
 いまいち効いてないんスけど…殴った手を握り締めてるコイツの方が痛かったんじゃねぇのか?でも、歪んだ顔は痛みのためだけ…ってワケでもなさそうだ。
 クラスの連中は怖い者知らずの闖入者に悲鳴をあげた奴もいて、俺は叩かれた頬を自然と押さえながら小柄な男を見下ろした。
 下級生、なのか?
 やけに可愛らしい顔をしてるくせに、睨み付ける大きな目は憎たらしい。唇を噛み締めて…俺はこんな奴知らないんだけどなぁ。
 こんな生ッちろい、女みてぇな顔をした奴に喧嘩を売られる覚えが全くなくて、それでなくても幸福な日々を送っているから幸せボケしている俺は怒るというよりはむしろ、ポカンッとしたままで何も言えなかった。

「や、やめろよ。佐渡!2-Bの里野光太郎って言ったらお前…」

 仲間らしき男が、たぶん心配してついて来たんだろう、オロオロしたようにチビを宥めながら俺の顔色を窺うようにチラチラと盗み見ている。

「うるっさいなッ!どっか行っちゃってよ、小林!僕はコイツに話があるんだからッ」

 邪険に腕を振り払われて、小林とか言うヤツはオロオロしたままで項垂れた。

「さ、佐渡ぃ…」

 …話?このチビすけにとっての話し合いは叩き合いなのか?

「佐渡とか言ったっけ?俺は別に売られた喧嘩は喜んで買うけどよ、意味もなく人の顔を叩いたってワケじゃねぇんだろ?話しがあるんなら早く言え」

 呼び出された教室の後ろにある扉に片手をかけて、俺はうんざりしたように頭を掻いて先を促した。このまま聞いていたら本題に入る前に、コイツらの叩き合いが始まっちまいそうだ。洋太は担任に呼び出されて職員室に行ってるし、どうせヒマだからな。話しぐらいは聞いてやる。おお、寛大だな俺さま。幸福は人を丸くする。クラスの連中も驚いてるみてーだ。

「キーッ!なんて口が悪いんだ!!こんなヤツが僕の洋ちゃんの恋人だって言うの!?冗談じゃないよッ」

 癇癪を起こしたように両拳を握り締めて地団太を踏むような仕草をする佐渡に、ん?ちょっと待てよ。今、なんて言ったんだ…?
 俺の目付きが途端に胡乱になった。
 底冷えする目付きに言葉を詰まらせた小林とかいうヤツの傍らで、佐渡は一瞬怯んだようだったけど、すぐに大きな瞳に強い意思を込めて睨みつけてきやがった。負けるもんか、と言ってるみたいだ。

「…僕の洋ちゃん、だと?」

「そうだよ!長崎洋太は僕の婚約者なんだからなッ!!」

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 目の前が真っ暗になった気がした。
 いや、それは一瞬のことで、限りなくただの錯覚に過ぎないんだけど。
 クラスの連中は突然始まった修羅場に、巷で地獄の狂犬、番犬じゃないところがなんだかなと思う曖昧な渾名で恐れられてる俺が、一瞬にしてこのチビの首をへし折るんじゃないかと怯えてるようだった。女子は突然泣き出すし、誰かが担任を呼びに行けと言って、誰かが教室を飛び出していく。
 でも俺には、そんな周囲のことがまるで嘘のように気にならなかった。

「こ、婚約者って何だよ?バッカじゃねぇのか。それともお前、女なのかよ?」

 そのことばっかりが頭の中をグルグルして…声が震える。クソッ!なんだって言うんだッ。

「馬鹿じゃないの?」

 佐渡とか言う女みたいな可愛い顔をしたチビは、馬鹿にしたような目をして呆れたように鼻で笑いやがった。

「僕が女に見えるなんて異常だね。やっぱりこんなヤツに洋ちゃんはあげられない!」

「ちょっと待てよ!婚約者ってなんだよ!?」

 踵を返して立ち去ろうとする佐渡の腕を掴んで向き直らせようとした。

「…痛ッ」

 ハッとした。
 細い腕は力を入れれば折れちまいそうだし、守りたくなるような華奢な身体は俺なんかとは大違いだ。喧嘩で鍛えた体にはそれなりに筋肉もついた、タッパもウェイトもそれなりにあるんだ。お世辞にもこんな華奢で可愛くもなんともない。
 顔だって、それなりに整ってるぐらいだけど…普通だ。
 こんなに、こんなに可愛くなんかない。
 洋太は…そう言えばアイツ、可愛い子が好きだったな。昔ッから。
 保育園のときはさくら組で一番可愛かった沙織ちゃんに猛アタックしてたし、幼稚園じゃ女みたいだった俺を虐めてたし…忘れてた。ヤツは面食いだったんだ。
 キリッ…と胃が痛んだ。

「あれ、翔?どうしたの?あれ?光ちゃんも」

 話しが終ったのか、俺の愛するデブの洋太は手にプリントを持って戻ってきた。
 佐渡と俺の姿に驚いたような、不思議そうな顔をして首を傾げている。
 俺の額には冷や汗が張り付いていて、ヘンな眩暈に倒れそうだって言うのに、このデブ野郎…

「来い!洋太、話がある!」

「え?え?どうしたの!?」

 掴んでいた佐渡の腕を離して、驚く洋太の大きな腕を掴んで歩き出す俺に佐渡はヒステリックに叫んだんだ。

「暴力に訴えるなんてホントに野蛮人!僕の洋ちゃんを返せッ!!」

 それでも小林に腕を掴まれて小柄な身体を引き摺られて行く佐渡は悔しそうに唇を噛み締めて、なおも何かを叫んでるみたいだったけど、俺の耳にはもう何も入らなかった。少しでも早く誰もいないところに行って、ことの真相を確かめたいんだ。
 幸福ボケしていた俺の胸に湧き上がった暗雲は、不安の形を作りながら、驚くほど急速に膨れ上がって行く。
 畜生ッ!不安で不安で…どうにかなっちまいそうだ!