死人返り 15  -死人遊戯-

「翠祈!」

 僕は半ば泣いていたんだと思う、でも、そんなことにも気付けないぐらい、禍々しく笑う沙夜ちゃんの顔から目が離せなかった。翠祈の腹から伸びた血塗れの腕は恐ろしい力で紫魂の槍の柄を握り締めてるのに、もう片方の腕は、見たくはなかったのに、ああ…死霊鬼の爪で抉られた脇腹に指を突っ込んで握り締めてるんだ。
 誰の名前よりも、目の前で苦悶に歪んだ顔で僕を見下ろす翠祈の名前を呼ぶ以外に、こんな情けない僕ができることは何一つなかった。
 僕がもう少し強ければ、こんなことで腰を抜かさないほどに強ければ、沙夜ちゃんを振り払うことだってできるはずなのに、翠祈を救ってあげることだってできるはずなのに…顔を歪めて、どれほどの苦痛を耐え忍んでいるのか、その想像を絶する痛みに成す術もなく見詰めるしかない僕に、翠祈はふと、頬の緊張を緩めて笑ったりするんだ。

「なんだ、あんたでもちゃんと、誰かを心配できるんじゃないか」

「なに、言ってるんだよ…翠祈、痛いだろ?どうしようッ」

 ふと、見慣れた優しい表情に泣きたくなった次の瞬間、翠祈の顔は苦悶に歪んで、ガクッとその場に片膝をつくようにして倒れ込んでしまったんだ。それじゃ、語弊がある。翠祈は倒れこんだんじゃない、座り込んだって言う方が正しいような姿勢を取っている。
 そうすると、小柄な沙夜ちゃんのちょうど顔の辺りに翠祈の頭が来るんだけど、その時の沙夜ちゃんの顔は般若よりも恐ろしい、壮絶な化け物のような顔をして嗤っていたんだ。

『やっぱり、お兄さんはやってくれたね』

 沙夜ちゃんの声はとても冷静で、今このとき、大の大人の男に苦悶の表情をさせながら、僕の腕から紫魂の槍を奪い取ろうとしている様には到底思えないほど、落ち着いているように見えた。

「さ、沙夜ちゃん…」

『そんな顔をしないで、お兄さん。だって、私じゃこの場所の封印を解くことはできなかったもの。この島にいる死霊鬼を殺す為に、何度も何度も生まれ変わったのに、その度にソイツに殺されちゃってたのよ。でもね、封印さえ解ければ私の勝ちなの。あとはその紫魂の槍で突きさえすれば、死霊鬼は消滅するわ。だって仕方ないじゃない。死霊鬼は私のお兄ちゃんの…ううん、お壱の魂を欲しがってるんだもん。下賎の流人如きの分際で。だから、ちゃんと葬ってあげるのよ』

 ニコッとやわらかく微笑む沙夜ちゃんの台詞に、僕は声もなく震えることしかできなかった。その言っている意味を理解しようとするんだけど、何がなんだか判らなくて、僕は大学でなんの勉強をしてきたんだよ!

「…ッ、なる…ほど。ここにも…巫女の妄執に囚われた…ッ、憐れな魂がいたッ…て、ワケか」

 途切れ途切れに喘ぐように、額に脂汗をビッシリと浮かべている翠祈が、口許から一筋の鮮血を零しながらニヤリと嗤った。まだ、その余裕があるのなら…と、弱虫の僕はホッとして翠祈を見たんだけど、それは沙夜ちゃんの気に障ったようだった。

『うふふ。荒神の山犬のくせに大した口をきくのね。知ってる?山犬は山神のペットで、そして、その力の源となる大切な食べ物なのよ』

「ッッ!」

 優しげに笑って翠祈の顔を覗き込むようにした沙夜ちゃんは、そう言うとペロリと真っ赤な舌で唇を舐めて、それから徐に爪が残す傷痕を抉っていた血塗れの指を引き抜くと、痛みに顔を歪める翠祈の…嫌だ、僕はこれ以上見たくない。
 思わず瞑りそうになる双眸を叱咤して、それでも僕は、この惨劇を見なくてはならないんだ。匡太郎を見殺しにして、今またこの場所でも、翠祈にだけ痛みを与えたままで僕は逃げるのか?
 嫌だ、そんなことは嫌だ。
 …血に塗れた指先で翠祈の右の目蓋を無理に捲ると、その隙間に指を挿し込み、沙夜ちゃんは彼の綺麗な紅蓮色の瞳を持つ目玉を…容赦なくグッと掴んで引きずり出したんだ!

「…ッッ!」

 唇を噛み締めた翠祈はそれでも声を上げずに、視神経を引き千切られて目玉を失くした眼窩がへこむ場所を目蓋の裏に隠して、忌々しそうに右の閉じた目から血の涙を零しながら低く呻いた。

『ありがとう、お兄さん。こうして、私の為に山犬まで連れて来てくれて感謝してるわ。数百年も復讐を遂げたかったのに…死霊鬼ったら強いんだもの。漸く、純粋なお壱の魂を持ってお兄ちゃんが生まれてきたのに、また死霊鬼にくれてやるなんて冗談じゃないでしょ?山犬の目玉は珍味なのよ。舌にとっても甘露で力が漲るわ』

 言っていることは酷く凄惨だし、引きずり出した目玉を、思う以上に長い舌の上に落としてピュルッと口腔に隠してしまう行為だって、とても残酷で仕方ないのに、それでも沙夜ちゃんはまるで年頃の少女のようにおかしそうに笑って目玉を租借するんだ。
 そのアンバランスな雰囲気が、だから余計に僕の恐怖心を煽って、でも、紫魂の槍だけは絶対に離さないと唇を噛み締める僕を、彼女はケタケタと笑っているみたいだった。

「さ、沙夜…お前」

 その時、まるで絶句したように口を開けないでいた国安が、懸命に彼を護ろうと禍々しい沙夜ちゃんを睨み据える死霊鬼の腕の中で、信じられないものを見るような、信じたくないような、なんとも言えない痛ましい表情をしてポツリと呟いた。

『お兄ちゃんまでそんな顔をしないで。だって、沙夜はお兄ちゃんのお嫁さんになるのよ?なのに、お兄ちゃんは私を残して東京の学校に行ってしまった。まるであの頃と一緒。私のお嫁さんになるはずだったのに、お壱は私じゃなくて、死霊鬼を選ぼうとしたのよ』

 指先に滴る翠祈の鮮血を長い舌で舐め取ると、口を血で真っ赤に汚しながら、沙夜ちゃんは慈悲深い優しげな眼差しで国安を見詰めながら囁くようにして言うんだ。

『でも私、絶対に許さなかったの。だって、相手は下賎な流人で、お壱は大切な紫魂の槍の護り手である高潔な神官の一族だったのに…不釣合いもいいところよ。あなたは一族の私と結婚するべきだったの』

 小さな歪みが、何かを狂わせ、こんな風に悲しい輪廻に雁字搦めに縛り付けた切欠は、そんな単純なことだったの?

「…沙夜、でも巫女は。きっと、誰も愛せなかったんだよ」

『…』

 そうだ、国安が何を言いたいのか、僕には判るような気がした。
 村の掟に雁字搦めに縛られてしまった巫女であるお壱は、その凶悪な定めに押し潰されそうで、自分のことだけで精一杯だったに違いない。それはきっと、匡太郎と同じ境遇だったんだと思う。
 なんでもできて、できて当たり前だと両親や親族に期待されて…でも、匡太郎は真夜中を過ぎても机に向かって、何時も少し寝不足の顔で笑っていた。
 僕が頼りないから、せめて、僕のぶんも両親が喜ぶように。
 そうして、僕が両親から疎まれないように、過剰な期待が向かわないように…まだ、ほんの子供だったのに、そんな風にして、匡太郎は僕を守ってくれていた。
 巫女も、人一倍の努力をして、そんな辛い思いを兄弟にさせないように、その地位を保つのに必死過ぎて何も見えなくなっていたんじゃないかな。恋愛感情なんて持つこともできなくて…でも、国安、それは違うと思うんだ。

「…そうじゃないよ、国安。巫女は、お壱さんは愛してしまったんだよ。ほんの少し、自分に厳しくしていたはずの心が緩んで、楠鬼を愛してしまったんだ」

 僕は、右の目から血の涙を零して、額にビッシリと汗を浮かべている翠祈の、浅い息を吐く痛々しい蒼白の顔を、ポロポロ泣きながら見詰めて呟いていた。
 翠祈は残っている紅蓮のひとつの目だけで、あの時の大きな黒い犬がそうしたように、そんな僕をじっと見詰めていた。

「僕の大事な弟が…そうしたように。お壱さんにとってあんまり楠鬼が大切だったから、誰かの、たとえば悪い人の手から護ろうと、他のどの島でもなく、この島に彼を封印してしまったんじゃないのかな」

 それはもしかしたら、命懸けだったのかもしれない。
 そんな遠い昔の話を、僕が判るはずもないんだけど…でも、何故か今はそう思えるんだ。
 この波埜神寄島に死霊鬼である楠鬼を封印したことこそが、お壱さんの愛の証だったんだと思う。
 他のどの島でもない、いつも自分が見詰めることのできる島…そんな近くに、彼を封印してしまったのは、離れたくないと思った素直な女心だったんじゃないのかなぁ。

「お、にいちゃんもッ…言うじゃ、ねーかッ」

 翠祈が、片目しかないのに、やんわりと細めて笑ってくれた。
 うん、気付いたんだ。
 僕の弟も、目の前にいる、この荒神も…自分には厳しいくせに、大切だって想ってくれている僕には、ほんの少しでも心を緩めてしまうから…お前たちを見ていて、鈍感で鈍い僕でも気付いてしまったんだよ。

『そんなの有り得ない!』

 不意に、金切り声のような、悲鳴みたいな声を上げて沙夜ちゃんが叫んだ。
 両目からは血のような真っ赤な涙を零しながら、充血して淀んだ双眸を見開いて、信じられないと唾液を飛ばして叫ぶ沙夜ちゃんを、国安はよろりと立ち上がって、憐れな妹の魂に近付こうとした。でも、その行く手を死霊鬼が阻み、恨めしげな真っ黒の双眸で泣き叫ぶ沙夜ちゃんに言い放ったんだ。

『そう思って、貴様は何度でもお壱を殺し、それを私のせいにして恨んできたッ』

 そんな身勝手な魂こそ、死霊鬼のような鬼に成り果ててしまったのかな。
 僕はほんの一瞬、沙夜ちゃんの腕の力が緩んだ隙を突いて、掴んでいた紫魂の槍を思い切り引っ張ると、そのまま後ろに後退って身体を離した。
 そんな僕にハッと気付いた小夜ちゃんは、忌々しそうに顔を歪めて、もう虫の息になりつつある獲物に興味を失くしたように打ち捨てて、力が漲ると言ったように、奇妙なオーラのようなものを揺らめかせて、壮絶な無表情で僕を睨み据えながら言ったんだ。

『だって、お壱の魂は何度も言うんだもん。私を愛してないって。死霊鬼だけを心から愛してるって。そんなのデタラメなの。死霊鬼に騙されて、お壱は頭がおかしくなってるの。だから、私が助けないとダメだもん。そうじゃないと、ダメなんだもん』

 まるで子供のように…実際、沙夜ちゃんの身体は子供なんだけど、あれほど冷静に笑っていた沙夜ちゃんは、駄々を捏ねる子供のようにブツブツと呟いて、両目からは真っ赤な涙を幾筋も零して無表情に近付いてきた。
 尻で後退りながら、それでも、翠祈が「離すな」と言ったんだから、僕のこの命がたとえ亡くなったとしても、僕はこの槍を手放すつもりなんかなかった。
 その壮絶な恨みの波動には国安は勿論、あの死霊鬼ですら立ち竦んで、翠祈の血で力を得た沙夜ちゃんに立ち向かうことなんかできないでいるんだから…僕がどんなに頑張っても、この槍は奪われてしまうんだ。そんなのは嫌なのに…僕に、ああ、僕にもっと力があったら。
 血塗れの指先を伸ばして、僕から紫魂の槍を奪い返そうとする沙夜ちゃんに、ギュッと目蓋を閉じて槍を抱き締めるようにして身体を縮こまらせた僕に、いつまでたっても考えていたような衝撃はこなかった。
 ハッと息を呑むような気配がして、何かがポタリッと僕の頭に落ちるから、僕は恐る恐る目蓋を開いて真上を見上げていた。
 唯一、開けた場所に立つ建物の篝火は何時の間にか炎が消え、闇夜に真っ白に浮かび上がる月明かりが全てを照らし出していた。
 大きく見開いた沙夜ちゃんの血走った赤涙を流す双眸、その胸から、魂なんだから実体なんか無いはずなのに、突き出した剛毛に覆われた腕と鋭い爪を有する手が掴み取っているのは、まだ鼓動にあわせて鮮血を拭き零す心臓だった。

《だから、言っただろ?オレは荒神だ。確かに山神の餌だが、そのぶん、生命力は計り知れねーんだよ。オマケにだ、山神以外でオレの血肉を喰らったヤツは人間に近い姿になっちまうのさ》

 真っ黒い剛毛から突き出す先端の尖った耳は、人間のあるべき位置より随分と上で、長い鼻先も犬のように髭が生えていて、犬歯をむく刃のような歯が並ぶ口許からペロリと舐め上げる真っ赤な長い舌、ふさふさの襟巻きみたいに胸元を覆う飾り毛、そして…2メートルはあろうかと言う巨体、その全てが狼のような人間のような…たぶん、心臓を引き抜いて沙夜ちゃんの身体を持ち上げているのは、狼人間そのものだと思った。