死人返り 16  -死人遊戯-

 沙夜ちゃんは口許から大量の血液を零しながら咳き込んでいたけど、ふと、悲しそうな、寂しそうな表情をして、死霊鬼に抱き留められている国安を見ているみたいだった。
 国安は、死霊鬼の着物の袖の辺りを握り締めて、止め処もなく泣きながら、そんな幼い少女の無残な姿を食い入るように見詰めている。止めることのできない自分の不甲斐なさ、幼い妹に、どうしてそんなことまでさせてしまったのか…まるで、その顔は自分自身を呪ってでもいるかのようで、僕は兄弟想いで優しい国安が痛ましくて仕方なかった。

「す、翠祈…」

 既に狼人間のような姿になっている荒神の一族だと言う翠祈を見上げたら、長い鼻先で向こう側は見えないんだけど、見える方の真っ赤な瞳で僕をギロリと見下ろしてきた。

《本当に人間はおめでたいな。そらみろ、言ったとーりだっただろ?人間はそうと言われればなんでも信じてしまうんだ。コイツは国安の妹の魂だと言えば、そう思うのさ。だが、実際は違う》

 翠祈の言葉を聞いて、沙夜ちゃんの目がチカリと光った…と思ったのは僕の思い込みだったのか。
 いや、違う。
 キッと肩越しに翠祈を睨み付けた沙夜ちゃんは、肋骨を圧し折って突き出ている狼人間の剛毛の腕をグッと掴むと、禍々しいほど鋭利に伸びている爪が食い込んで、その腕からボタボタと鮮血が零れるに任せながら捩じ切ろうとし始めたんだ。

《コイツは死霊鬼に成り損なった男の魂を喰らった悪霊にすぎん。その悪霊には、嘗て喰らった男が愛していた女の記憶だけが残っちまったから、代々壱太の一族にとり憑いていたってワケさ》

『ちがッ!この想いが嘘だなんてッ!そんなのは違うッ!!お前なんかに何が判るのよッ、離せッッッ、離せぇぇぇぇッッッ!!!』

 暴れてもがく度に胸元から血飛沫が飛び散って、鋭い爪で翠祈の腕を掻き毟るようにして捻りながら、それでも沙夜ちゃんは必死の顔で泣き叫んでいた。
 数百年も抱えていた恋心が…偽りだったなんて、思い込みだったなんて。

『お壱を愛したのは私だもん!ねぇ?そうだよね、お壱。お壱も私を愛してるよね??ねぇ、そう言ってよ、そう言ってよぉぉぉぉッ!』

 差し伸べるか細い腕を、国安はただ見詰めることしかできなかった。
 確かにそれは、沙夜ちゃんなんだけど、それでもその想いは、沙夜ちゃんの内で蹲る悪霊の想いではないから、だから、国安は駆け出したいのを必死に耐えて涙を零していた。

『そんな、こんなに胸が苦しいのに…こんなに長い間、想い続けたのに…これが全て嘘だなんてッ、嘘だったなんてッッッ!!』

 血涙を溢れさせて嘆く小さな身体を、翠祈は心臓を掴んでいない方の腕でその腰をそっと抱き締めてやった。その行為に、僕は驚いて目を見開き、それは死霊鬼も国安も同じだったようで、小さく息を呑むような気配がしただけで何もできなかった。

《お前は人間と同じぐらいバカだ。そんな、過去の妄執に囚われた男を喰ったばかりに、輪廻の戒めに囚われちまって。ただのちっぽけな悪霊だったのに》

『私は…ああ、どうして…』

 沙夜ちゃんは、ううん、沙夜ちゃんだったはずの悪霊は、抱き締める腕を今はもう凶悪な爪はなくなってしまった手で縋るように掴みながら、剛毛の咽喉許に後頭部を押し付けるようにして閉じた目蓋からポロポロと真っ赤な涙を零して泣いている。
 全ては巫女の恋心から発した呪いのようなものだったのかもしれない。
 そんな、翠祈の言った遠い昔の色恋沙汰に巻き込まれた悪霊こそ、本当はこの島での一番の被害者だったんじゃないかな。
 紫魂の槍を掴んでへたり込んでいる僕を片目で見下ろした翠祈は、それから、幾筋もの血管が伸びる、まだ完全に身体から引き離されていない脈打つ心臓を翳しながら、低い声で呟いていた。

《引導を渡してやれ、光太郎。二度と、こんな馬鹿げたことに巻き込まれねぇよーにな》

『うぅ…私は、私は?お、壱?誰…なんだった…の?』

 虚ろな瞳で、まるで壊れた人形のように繰り返す意味のない言葉に、僕は何故か、泣いてしまっていた。それはとても物悲しくて、こんな方法でしか、この悪霊なんだけど、小さな魂を救う方法がないことが切なくて仕方なかった。

「…光太郎、俺からも頼むよ。沙夜を…救ってやってくれ」

 優しい国安の涙声に僕は肩越しに振り返って、友人が流す涙の重さに目蓋を閉じて、それから僕は決意して目蓋を開くと、紫魂の槍を握り締めた。

《心臓を狙え》

 翠祈が指し示すように掌にある小さな小さな臓器に、僕は泣きながら槍の先端部分を突き刺した。
 抵抗もせずにぼんやりと僕を見詰めていた沙夜ちゃんは、その瞬間カッと双眸を見開いて、壮絶な断末魔の声を上げると同時に、その口から一気に黒い靄のようなものが凄まじい速度で吐き出されて空に吸い込まれて逝った。
 沙夜ちゃんの亡骸は、ふと、驚愕に見開かれていた双眸にひと時生気が戻って、口許から血を零しながら揺らいだ双眸で、懐かしい兄の顔を見つけたようだった。

「…おにいちゃん?」

「さ、沙夜…」

 国安が小さな妹の許に駆け寄ろうとするのを、今度は死霊鬼も留めなかった。
 よろよろと白装束で近付く兄に、既に翠祈は腕を引き抜いていたから、その胸元は無残に穴が開き、折れて砕けた肋骨が覗いてはいたけど、同じような白装束なのに血液で真っ赤に染まった着物はそのままで、か細い華奢な腕を伸ばして抱き付こうとしたみたいだった。

「おにいちゃん、帰ってきたん?」

「ああ、沙夜に逢いに帰ってきたんだよ」

 そっか…と呟いて頼りなくニコッと笑う少女に、国安はボロボロと大粒の涙を零していた。

「じゃあ、またうんと、遊べるねぇ」

「ああ、たくさん遊べるよ」

 悪霊にとり憑かれていた記憶はすっかり消えてしまったんだろう、沙夜ちゃんは嬉しそうに笑ってから、それからちょっと苦しそうに大きな深呼吸をひとつすると、そのまま目蓋を閉じて、二度と開くことはなかった。
 ボロボロと涙を零して目蓋を閉じた国安が抱き締める腕の中で、沙夜ちゃんの身体はさらさらと崩れ始めていた。本来なら、もうその原型を留めることは不可能だったんだけど、翠祈の目玉を悪霊が食べていたおかげで、最後の一瞬だけ、沙夜ちゃんはもとの可愛い国安の妹に戻れたんだと思う。
 あんまり悲しくて、僕は声もなく泣いてしまっていた。
 盂蘭盆会の日に、国安は逢いたがっていた最愛の妹との邂逅を終えたんだ。
 でもそれは、一生涯で、ただ一度の奇跡のような邂逅だった。
 だからもう二度と、国安が沙夜ちゃんに逢うことはない…ううん、もう逢ってはダメなんだよ。
 安らかに眠るような沙夜ちゃんの顔を魂に刻みつけるように、目蓋を開いた国安は、そうして消えていく姿を最後まで見詰め続けていた。

◇ ◆ ◇

《見逃してくれ?冗談も大概にしろよ、光太郎》

「だって…」

 腕を組む、2メートルは超えてるんじゃないかって言う巨体を見上げながら、僕は紫魂の槍を杖代わりにして立ち上がると唇を尖らせていた。

《だってもクソもねぇ。アレを見ろ、ヤツは死霊鬼なんだぞ》

「うん、判ってるよ」

 沙夜ちゃんの消えてしまった腕を開いて、ぼんやりと真っ白な月を見上げる国安を、背後から悲しそうに愛しそうに抱き締める死霊鬼をチラッと見て、うん、やっぱり今の国安には彼がいないとダメなような気がする。だから僕は、ムッとしているような狼面の翠祈を見上げたんだ…って、身体こそ人間っぽいけど、全部剛毛が覆ってるんだから、ホント、今の翠祈は完全に狼人間だよ。

「でも、なんとかできないのかな?また、ここに封印するとか」

《それは無理だ》

 にべも無く言い捨てる翠祈に、僕がムッとして睨み付けると、大きな耳を伏せるようにして翠祈は外方向いてしまう。

《あんたなぁ…オレをちゃんと見てるか?これは紫魂の槍の力で封印が解けている証なんだよ。一度解いてしまった封印は二度と元に戻せねぇ。つまり、同じ封印はできないってことだ。判ったか、この間抜けッ》

 それでも根負けしたのか、渋々と説明する翠祈に、僕は腕を組んでちょっと考えたんだけど…そうだ、同じ封印がダメなら違う封印をすればいいんじゃないか!

《ダメだ。その場合は別の三種の神器が必要になる。この島はもう、紫魂の槍では封印できねんだって》

 僕の考えなんかお見通しの翠祈が長い鼻先を左右に振って否定するから、僕はますます眉を寄せるしかなかった。

《…オレとしては、封印が解けてくれたおかげで復活できたからいいんだけどな》

 ボソッと呟いた狼人間を怪訝な顔で見上げた僕は、翠祈の顔を見上げて、それから唐突にハッとしたんだ。
 そうだ!翠祈は酷い怪我を負っていたんだ。
 腹に穴が開いて、死霊鬼の爪でも傷付けられて…何より、あの真っ赤な瞳が綺麗な目が、目玉が…あの沙夜ちゃんに憑いていた悪霊に食べられてしまったんだ!!

「翠祈!け、怪我は!?痛いんじゃないかッ?!出血多量とかで死んだりしたらダメなんだからなッッ」

 僕は泣きそうになりながら、翠祈の剛毛が覆う身体のあちこちを丹念に調べながら、口喧しく喋っていた…だって、そうでもしていないと、あの惨劇を目の当たりにしたんだから、翠祈がいなくなったらと思うだけで気が遠くなりそうなんだ。

《うるせーな!別にあんなモン大したことじゃねーよッ》

 フンッと鼻で息を吐き出す翠祈は、僕があちこち触るのを嫌がるように身体を捩ったんだ。
 そう…だよな。
 こんなことに生き返ったばかりの弟を巻き込んで、ましてや、憑依している翠祈まで利用して…何がしたかったのかよく判らないこんな僕に、翠祈が触って欲しいワケはないんだ。
 唐突に、僕は気付いてしまった。
 僕は何時も自分勝手に生きていたんだと思う。なんでもできるからって、僕だって両親と同じように、煩いことは全部弟に押し付けて、彼が死んでしまったらその弟を恨んで、今度は両親の期待が自分に向くんじゃないかと怯えて勝手に大学に逃げてしまったんだ。
 こんな、ずるくて身勝手な僕を、誰が受け入れてくれるって言うんだ…
 伸ばしていた掌を拳に握って、僕は泣きそうになる心を叱咤するみたいに唇を噛み締めた。

《…ったく、また下降的思考に突入しやがった!違う、オレはこんな化け物みたいな姿を、あんたには見られたくないんだよッ》 

 ギリギリと悔しそうに歯噛みする翠祈は、兇器のような爪があるって言うのに、バリバリと後ろ頭を掻きながら腰に手を当てて、忌々しそうに吐き捨てたんだ。

《見ろ!オレの身体の何処に穴が開いてる?目玉だって元通りだッ!どーだ、判ったか、この間抜けッ》

 乱暴なくせに、爪で傷付けないように慎重に僕の腕を引っ掴んで腹の部分に触れさせると、僕の顔を大きな狼面で覗き込んできた翠祈は、爪の先で目の下を引っ張って、既に再生している目玉を見せつけたんだ。

《まだ収まりはわりぃけどな!オレの再生速度は並じゃない。気持ちわりぃだろーが、クソッタレ!》

 目玉をぐるんと動かしながら、それでも吐き捨てるように言って、翠祈は僕の腕を突っ撥ねるようにして投げ出したんだ。僕は、その事実に…なんて言うのかな、信じられなくて、思わずそんな翠祈の身体に飛びついてしまっていた。

《うお?!》

 驚いた翠祈を無視して、僕は、彼の身体から確かに伸びていた沙夜ちゃんの腕があった部分を、念入りに調べていたんだけど、その部分は、確かに傷痕を残しながらも、もう随分前に受けた傷のように既に完治していて、ただ傷痕が残っているに過ぎなかったんだ。
 きっと、この傷痕も消えてしまうんだろう。
 そうか、消えてしまうんだ。

「…よ、かった。翠祈、死なないんだな?良かった…」

 僕は随分と頭上にある翠祈の狼の頬に両手を添えて、ギョッとする彼の顔を引き寄せたんだ。
 思い切り屈み込むような体勢になってしまったからか、しゃがみ込んだ翠祈のその顔を、僕はどうしても確認しておかないと。さっきは突発的なことだったから、良く見なかったけど…ああ、本当だ。

「目玉もちゃんとある。よかった、ちゃんと見えるんだよね?」

《…泣きっ面の間抜けの顔なら良く見える》

 なんだよ、それは…って、あはははって笑う僕は、それからポロポロと涙を零していることに気付いたんだ。
 ああ、よかった。
 一時はどうなることかと思って心配で死にそうだったけど、翠祈が元に戻ってくれてよかった。
 僕は翠祈の長い鼻面に、ホッと安心して頬を摺り寄せていた。
 翠祈は、今度は振り払うようなことはしなかったし、あの時の真っ黒い大きな犬みたいに、やっぱり大人しくじっと僕を見詰めながら、様子を窺っているみたいだった。
 でも僕は、そんなこと気にならなかった。
 翠祈が無事でいてくれたのなら、もうそれでいいんだ。

「取り込み中悪いんだけどさ」

《なんだよ》

 僕の腰に鋭い爪が邪魔そうに指先を当てるようにして支えている翠祈が、迷惑そうな顔をしてギロッと睨み付ける先には、漸く惚けていた魂が戻ってきたように、いつもの性格に戻っている国安が立っていた。

「国安!」

 僕が喜んで振り返ると、なんとなくなんだけど、翠祈はチッと舌打ちしたみたいだった。

「…俺さぁ、考えたんだよな。楠鬼をその紫魂の槍で浄化するのも、ここに封印するのも、やっぱり嫌だと思う」

『…』

 立ち上がった国安の影のように寄り添う死霊鬼は、嬉しいのか、でもそれは自然の摂理が許してくれないからと、諦めてしまっているのか…複雑な表情をして見下ろしていた。

《あのなぁ、嫌だっつっても、もう決まってることなんだよ。それは誰にも覆せねーんだ》

 のっそりと立ち上がって腕を組む狼人間をひたと睨み据えて、国安はそれでも下唇を尖らせるような子供っぽい仕種をして言い募ったんだ。

「楠鬼は、沙夜に憑いていたあの悪霊がお壱の魂が手に入らないからって殺すのを、ずっと助けようとして、死霊鬼になってくれたんだ。今度は俺が助ける番なんだよ。だからさ、お前が匡太郎くんを生き返らせたんだろ?だったら、コイツだって人間っぽくできないのかよ??」

《…~ッッ》

 両手を広げて頭を掻き毟りたいみたいな衝動に駆られた翠祈は、身体を左右に揺すってから、なんとか落ち着きを取り戻して、広げていた両手を拳に握って笑ったみたいだった。

《無理だね。いや、無理じゃないにしても嫌だね》

「なんでだよ?!」

「どうしてだい?!」

 思わず同時に口が開いてしまった僕が見上げると、《ブルータス、お前もか》みたいなことをブツブツと呟いた翠祈は、うんざりしたように死霊鬼を長い爪先で指し示した。

《黙ってねぇで、お前が説明しろよ。何百年も生きてる死霊鬼さんよ》

 思わず唸りそうになる翠祈に話を振られた死霊鬼は、物言いたげな真っ黒の双眸を細めて、それから俯いてしまった。

『無理なのだよ、壱太』

 呟きは溜め息みたいで、国安は不安そうにそんな楠鬼を見上げてしまう。

『私は長く存在し過ぎた。今の私を人間と同等の姿に変えるだけでも、その山犬は山神に因る罰を受けるだろう。それでなくても、人間の子を甦らせただけでも、いや、山を降りた時点で山犬は多大な罰を背負ってしまっているのだから』

 それは少なからず…違う、僕の胸に大きな衝撃を与えたんだ。
 翠祈は罰を背負っている?そうまでして…弟を、匡太郎を甦らせたと言うのか?
 そう言えば、死霊鬼は裏切った人間の子…とも言っていた。あれは、いったいどう言う意味なんだろう。
 あの、あたたかい手を覚えている…と、翠祈が言った言葉は、僕に向けてなんだと、本当は自惚れている僕は思い込んでいた。でも、もしかしたら、翠祈を山から降りる決意をさせたのは、本当は匡太郎だったんじゃないのかな。
 匡太郎は僕なんかよりも遥かに優しいから、いつか翠祈は、匡太郎に助けられたとかで、ずっと恩義に感じていたのかもしれない。
 僕は翠祈に助けられてばかりだったから…もしかしたら、僕は翠祈を裏切った人間側かもしれない…こんな性格だし…そうだよね、僕のワケないよね。
 山神の罰を背負ってまで、翠祈は匡太郎を甦らせてくれたのに…こんなことで悲しむのは筋違いだと思う。

「翠祈、罰を背負ったって…」

 キュッと唇を噛み締めたけど、でも、それはどうしても聞きたかった。
 だけど、翠祈はそんな僕の言葉を頭から無視したんだ。

《この野郎、死霊鬼め。そんな話じゃねーだろ?あんたを野放しにして、誰がその始末をするんだ?オレはご免だね。ソイツは死霊鬼なんだから魂、死体、もしくは生きた人間の生気を吸わなきゃ存在を維持できねーんだぞ》

 そうか、死霊鬼が言いたがらないのは、自分が忌まわしい鬼だから、そんな本性を国安には知られたくないんだ。
 死霊鬼にとって本当に、国安は大切な人なんだろうなぁ。
 男同士とか、鬼と人間だとか、本当は不気味なことなのかもしれないけど、今の僕はいっそ、それが羨ましいとさえ思っていた。そんな感情が僕にもあるなんて驚きだったけど、でも、僕はできればこの2人の応援をしたかった。

「生きた人間の生気って…それは俺のじゃダメなのか?」

『壱太、お前は何を…』

 国安が言うと、死霊鬼はハッとしたような顔をして、それはダメだと食い下がるように国安の顔を覗き込んでいた。
 でも、優しくて家族想いの国安はちょっと頑固なところがあるから、そんな死霊鬼を完全に無視して荒神である、狼人間の姿を見詰めていた。

《…そう言うと思ったぜ。クソ、厄介だよな》

 ブツブツと呟いて、翠祈は、唐突に治ったばかりの右目に爪を突き立てて、僕が悲鳴を上げるのも厭わずに目玉を引き摺りだしたんだ。

《そら、死霊鬼。くれてやる。コイツを喰えば、見掛けだけは人間になれるだろうよ。だが、コントロールを失えばもとの死霊鬼の姿に戻っちまう。しかし、コントロールすれば人間の見掛けに戻れる。要は精神の問題だ、判ったか?》

 死霊鬼は信じられないものでも見るように双眸を見開いて、国安を腕に抱き締めながら、首を左右に振っていた。
 何故と、どうしてが渦巻いているってそんな感じだった。

『山犬よ…貴様、何故』

 ピンッと指先を弾くようにして目玉を放り投げた翠祈は、慌てたように片手で掴む死霊鬼に、右目から血の涙を零しながら吐き捨てるように言ったんだ。

《オレは荒神だ!…仕方ねぇ。オレにも傍にいたいと想う気持ちは判る》

 そんなロマンチストじゃないのにな、とうんざりしたように吐き捨てる翠祈は、それから徐にくるりと背中を向けてしまったんだ。

《それを喰ったら人間の見掛けにはなるだろうよ。そうしたら、お前たちは先に島に戻ってろ。オレは暫く、この姿から戻れねぇからな》

 沙夜ちゃんを永遠に亡くしてしまった国安は、幸せそうに今夜手に入れた大切な人を見上げていた。その国安を、片手に翠祈の目玉を握り締めている死霊鬼が、幸福そうに、でも、一抹の不安を抱えたように見下ろしている。
 これからきっと、前途多難な人生かもしれないけど、それでも僕は、2人を心から羨ましいと思っていた。
 僕は、弟と翠祈を同時に失ってしまったら…どうなってしまうんだろう。
 寂しくて…背中を向けている翠祈の物言わぬ拒絶に成す術も無く、僕は波埜神寄島に吹き渡る清廉な風に前髪を躍らせていた。