1  -たとえばそれは。-

 俺はいつも思うことがある。
 たとえば、そう、たとえばだ。
 俺はもう25歳になるし、平凡なサラリーマンでもある。こう言う感じで日々を恙無く暮らしているわけだが、父親と同居していない姿を想像してみよう。
 …できない。
 研究室に篭って自分の妻を実験体に遣い、挙句の果てに死なせてしまったような愚か者の父は以来、惚けた研究にどっぷりとのめり込んでいる。
 実の息子ですらその研究がどんなものか理解できないって言うのに、ましてや赤の他人が理解できようはずもない。
 だからこそ、こんな『たとえば』は俺たち父子には必要ないんだ。
 溜め息を吐きながら今日も俺は、ほかほかのご飯をランチジャーに詰め込みながら、日曜日が休日と言う願ってもない偶の休日を、父さんの勤める研究室までバスに揺られて行くんだから…大概どうかしていると思うよ。
 電話口の瀬口さんの話じゃ、昨日から何も喰っていないと言う。
 俺が渡した弁当が切れてから、丸々1日以上も何も喰っていないと言うことか…確りして欲しいと思っても罰は当たらんと思う。
 まあ、1日ぐらい何も喰わんでも死にはしないだろうけどな…
 ニヤリと笑って玄関でスニーカーを履いていると、居間にある電話がけたたましく鳴り響いた。
 何だってんだよ、いったい。
 やっと弁当の用意を済ませて、後は届けるだけだってのにな。
 面倒くさそうに引っ掛けていたスニーカーを蹴るようにして脱ぐと、ランチジャーを床に置いてそのまま居間へと後戻りした。

「はい、沖田ですけど」

 電話口の向こうから聞こえる声はやけにくぐもっていて、あまり良く聞こえない。

「どちらさんですか?」

 何度か尋ねてみると、電話口の向こうにいる男は咳払いして、少し不機嫌そうに呟くような独特の言い回しで名乗ったんだ。

『沖田さん家の蛍杜さんですが、光太郎さんはいらっしゃいますかな?』

「…なんだ、親父か。どうしたんだよ?今から弁当持って行くところだったんだぜ」

 漸く空腹を思い出して、腹の虫でもぐうと鳴いてるのか、父さんはちょっと息を呑んでるようだった。
 不機嫌そうな独特の言い回しは父さんの癖で、3歳で母さんが死ぬまではそれを受け応えるのは母さんの役目だったんだけども…今は22年間その役目は俺が引き継いでいる。
 下手すれば母さんよりも長いかもしれない…そんなゾッとしないことを青褪めて考えていた俺の耳元に、相変わらず不機嫌そうな呟きが溜め息のように聞こえてくる。

『ああ、有無。実験が粗方片付いたのでね。今日はそっちに戻ろうかと思っているんだよ』

 どうだ嬉しいかと言わんとばかりの父さんの今の面が、見ていなくても浮かんできそうでうんざりした。
 そしてこの父さん、帰宅時には必ずと言っていいほど真っ赤な薔薇の花束を抱えて帰ってくる。まるで最愛の妻を待たせている夫のようなウキウキぶりで…思わずガックリと肩を落としそうになる俺だけど、仕方ない。相手はあの親父なんだ。
 母さんが死んでから、天才博士と謳われていた父さんは、まるで魂が抜けた抜け殻みたいになっていた。何日も飲まず喰わずで、同じく博士であり友人でもある瀬口さんが、感情を死なせてしまった父さんを説得し続けても駄目だった。なのに、まだ3歳になったばかりの俺が魂を母さんのところに忘れてきてしまった抜け殻のようなあの人の白衣の裾を掴んで、「とーたん、泣くだめよ?かーたんぷんぷん」と言って笑ったのが、父さんの中の何かに火をつけたのかそれからすぐに復活したんだそうだ。
 でもそれ以来、今までは癌の権威と謳われるほど新薬の開発に勤しんでいた父さんは、何やら得体の知れない研究へと没頭し出しちまった。
 以上は瀬口さんの話で、にっこりと笑って天使みたいだったよとウットリ夢見心地の気味悪い父さんの台詞が本当かどうかは、既に記憶のない俺としては半信半疑以外の何ものでもない。

「ふーん?んじゃあ、今日はもう行かなくてもいいってことか??」

『それはいけない。せっかくのお前の手料理だ。一緒に食べようじゃないか』

 どこをどう聞けばそんな結論に到達するのか、いまいち天才を理解できていないごく平凡なこの俺さまは、眉を少し寄せてんー?と首を傾げてしまう。

「別に家で喰えばいいんじゃないのか?」

 どーせいつも一緒なんだし、家事もできない父さんが料理なんか作ってくれるはずもないし、いつだって俺の手料理じゃないか。何を言ってるんだ、このあんぽんたんジジィは。
 ちぇッ、父さんは『こう』だと言い出すとけして持論を曲げるようなことはしない…ってことは、このワガママ野郎に本日もまた振り回されると言うワケか。せっかくの休みだってのになぁ。
 なんか、コイツってば、俺の休みを常にチェックしてるんじゃねーだろうなぁ…最近、もうずっと独りで休日を過ごしたことが無いぞ。
 父さんの『息コン(息子コンプレックス)』なんて、今やもう、誰だって知ってるから何も言われないけどさぁ、やっぱこの年だぜ?いい加減にして欲しいとは思うけど…彼女もできねーじゃねぇか。

『おいで』

 ブツブツと悪態を吐いている俺の耳元で、低くて、聞けば誰でも腰萎えになっちまいそうな甘い声音で父さんが囁けば、思わず腰砕けになりそうになった俺がへなへなとフローリングにへたり込んでしまう。
 この人はどうしてこう、いつもどこかに行くって時にはこんな風に俺を誘うんだろう??
 瀬口さんに言わせれば、父さんは俺を亡くなった母さんだと思い込んでいるらしいから、ついつい、愛する人に愛を語るように話してしまうんだろうって言ってたけど、俺としてはいい迷惑だ。
 こんな父さんが始終、幼稚園の時からもうずっと、ベッタベタに付き纏ってるんだ、そういう理由から恋愛の機微とか全く判らないこの俺が、父さんの声に不覚にも腰萎えになっちまったとしていったい誰が笑えるって言うんだ?笑ったヤツは表へ出ろ。
 それなのにこの人は、思わず泣きたくなる俺の気持ちなんかこれっぽっちも考えずに、俺の向こう側で微笑んでるに違いない母さんに向かって囁きかけやがるから…一緒に外出するのが毎回苦痛で仕方ない。
 それでも。
 俺が父さんに付き合うのは…この世でたった一人の肉親、心を壊してしまった父さんを見捨てるのがどうしても忍びなくて、気付けば結婚もせずに寄り添うように一緒にいてしまった。
 それが父さんの心の病に効いてるのかどうかは判らないけど、やっぱ、どうしても『たとえば』父さんと同居していない日常を考えると、靄がかかったみたいに答えが見つからない。
 そんな俺も、重症なのかもしれないけど。

『お弁当を持って、父さんのところまでおいで。一緒に食べよう』

「…はぁ、判ったよ」

 いつも必ず先に白旗を振る息子を、父さんが満足そうに受話器の向こうで笑っている。
 『おいで』と、誘うように呟きながら。

■ □ ■ □ ■

 バスを幾つか乗り継いで行く、郊外に構えられた白亜の研究施設はこの町のシンボルにもなっている。噂では国が援助して何やら胡散臭い研究をしているとかなんだとか、B級ホラー好きの連中が実しやかに話してるのを聞いたことがあるけど、少なくともそこの副所長を父に持つ息子としては、詳細は家族にも知らされいないんだから、その噂は強ち嘘でもないんじゃないかって言ってやりたい。
 ランチジャーと味噌汁の入った水筒を肩に提げた俺を見て、顔馴染みの警備員のおっさんが出入り口で笑いながら挨拶をしてくれた。
 この研究施設では車から厳しくチェックされてるようで、広大な敷地の出入り口は一箇所しかなくて、その門のところに警備員が睨む警備室が設置されていたりする。
 ますます怪しい研究しかしていないんだろうと、自分の実の父親が勤める研究所を疑いまくっている息子に、警備員のおっちゃんは気のいい好々爺のような顔をして言ったんだ。

「お父さんに差し入れかい?」

「ええ。全く、世話の焼ける父で」

「はっはっは!ワシにも息子がいるんだが、光太郎くんぐらい親孝行ならよかったんだがなぁ」

 豪快に笑う、警察を定年退職したおっちゃんが頬杖をついて笑ってくれたけど、たぶん、一般常識ではこの年になって父さんの世話を小まめに焼いていないおっちゃんの息子さんの方が、充分、常識的だと俺は思うけどなぁ。
 それでも、父親にしてみたら、息子がこんな風に甲斐甲斐しく構ってくれるってのは嬉しいんだそうだ。
 家庭の事情が俺に酷似している、奥さんを早くに亡くしている警備員のおっちゃんはニコニコとご機嫌そうに笑いながらそんな風に説明してくれた…けれどもだ、ひとつ誤解がある。
 俺が父さんを構っているんじゃない。
 父さんが異常なほど、俺が構うように仕向けているんだ。
 それでも、社会的地位が俺よりもある父さんの弁の方が信じられる確立は高くて、セダンの高級外車の運転席から顔を覗かせる父さんが、わざわざ回り込んで通行書をチェックする警備員のおっちゃんに「私の息子は寂しがり屋でね。いつでもここに来てしまうけれど、そのまま通してくれて構わないから」と言いやがったのを、この警備員のおっちゃんは忠実に守ってくれているようで、いつだって顔パスで通過することができる。
 いつでも後生大事に持っている俺の写真を何十枚も焼き回しして、主要な人物全員に渡しているから、取り敢えず俺のこの研究所での立場は悪くない。それどころか、どこだってフリーで歩き回ることができるから、まあ楽と言えば楽なんだが…誰が寂しがり屋だ。
 最初、その話を聞いたときは額に血管が浮いちまって、思わずランチジャーと水筒を投げ出して帰るところだったけど、おっちゃんが実に羨ましそうに溜め息なんか吐いて。

「それはそれは幸せそうに、嬉しそうに笑っておられたよ」

 なんてほっこり笑って言ってしまったから、怒り出す切欠ってのを見失っちまって、そのままズルズルと父さんの飯配達係に成り果ててしまっていると言うワケだ。
 おっちゃんにああ言われて、怒ってたら了見の狭いヤツだと俺が悪く言われる。
 それは嫌だ、言われるなら親父が言われりゃいいんだ。
 俺は陽気に話してくれる警備員のおっちゃんに別れを告げて、広すぎる敷地内にででんと聳え立つ3階建ての中央棟の後方部に位置する研究棟に向かって歩き出した。
 本当は『臨床なんちゃら実験棟』とか呼ばれてるらしいんだけど、父さんの仕事に全く興味の無い俺としては、父さんが居座って何やら怪しげな研究をしている施設なんかはどうでもいい。早いところ、飯を届けてさっさと家に帰りたい。
 借りてるDVDが今日までなんだよなぁ…
 季節は初夏と言うこともあってか、Tシャツにジーンズ、パーカーって出で立ちでもそれほど寒くないし、比較的過ごし易いこのいい天気の日曜日に、なんだって親父に付き合ってこんな無機質な施設に来なきゃいけないんだ。

「あれ?光太郎くんじゃないか!」

 思わず溜め息を吐いていたら、背後から声を掛けられて思わず立ち止まってしまう。
 この声は…

「瀬口さん!」

「いやぁ、毎度毎度電話で呼び出して悪いね。今日はお休みだったんじゃないのかい?」 

 瀬口さんは父さんと同期で、それでも役職ってのを嫌って自由気侭に研究に没頭している、やっぱり父さん同様、たいそう変わり者なんだけど…大らかな性格で、あの我が侭を超越した父さんの世話を焼いてくれる唯一の貴重な人でもある。

「いえいえ!俺のほうこそ、いつも瀬口さんにはお世話になってスンマセン」

 慌てて頭を下げると、目尻に優しげな笑いジワのできる瀬口さんはヒョコヒョコと首を左右に振りながら、それでもなんでもないことのように言ってくれるから、変人の多いこの施設の、父さんの知り合いの中でも唯一大好きな人だったりする。

「いやいや、まだ若いんだからそんなこと気にしなさんな。悪いのは沖田なんだから」

 カカカッと笑う瀬口さんも、どうやら一週間も研究室に篭っている父さんのことは言えない生活をしていたのか、ボサボサの髪をして、よれた白衣のままでジーッと俺の肩に下がる荷物を見つめている。

「…沖田はいいよなぁ、いつも愛息弁当で。俺なんか、これからコンビニまでチャリをかっ飛ばすんだぜ」

 案の定、指を咥えた子供っぽい仕草でジーッとランチジャーを見下ろしていた瀬口さんは、眉を寄せて笑いながら首を左右に振っている。
 そう言えば、瀬口さんはバツいちの独身だっけ。

「ここで瀬口さんに会えてよかった。実は日頃の感謝を込めて…」

 父さんが一緒に喰うと言ってきかなかったんで、用意していた自分の分を手にしていたカバンから取り出しながらニッコリ笑ってそれを差し出した。
 そうしたら、瀬口さんは目をぱちくりさせて、次いですぐに嬉しそうに笑うと弁当ごと俺を抱きしめてきたんだ。10年以上も海外にいた人だけあって、なんにしてもジェスチャアの大きな人だ。何日も風呂にも入っていないのか、無精髭が痛い痛い。

「光太郎くん!なんていい子に育ってくれたんだ!父さん、嬉しいよ♪」

 母さんが死んだ日から、父さんが二人いることは内緒だ。

「うははは。残さず喰ってくださいよ。んで、空箱は親父にでも預けておいてください」

「りょーかい♪」

 嬉しそうにホクホクと弁当を抱えて中央棟…メインセンターとでも言うのか、手を振りながらそっちの方に立ち去っていく瀬口さんの後姿を見送ってから、俺はやれやれと笑ったままで溜め息を吐いた。
 瀬口さんには本当に世話になってるからな。
 俺の作るもの以外は一切口にしない父さんが、研究室で倒れそうになっているのを確りと報告してくれる。今回も、瀬口さんが報告してくれなかったら研究室でぶっ倒れてたに違いない。
 父さんは常習犯だからな、瀬口さんがいつも目を光らせてくれてるから一応安心なんだけど…

「飯で釣られてくれる人でよかった。本当によかった」

 なんてヤツだ俺、とか、一人で悪態を吐きながら父さんが待ち構えている研究室のある建物に溜め息を吐きながら歩き出していた。

■ □ ■ □ ■

 SEMとか言う、まあ簡単に言えば電子顕微鏡ってヤツなんだけど、白衣姿の父さんはガラスで仕切られた専用の室内で面倒臭そうに操作しているようだった。
 室内は幾つかの部屋に区切られていて、電子顕微鏡ってのは、俺たちが理科の実験とかで使っていたあの小さなヤツとは違って、大掛かりな機械みたいだ。
 …天才科学者の息子ではあるけど、平凡なデパートの従業員から主婦になった母さんの血を色濃く引いている俺が見たって、まあ、判る代物じゃないんだけどな。
 椅子に座って小難しい顔をしている父さんは俺がいることに気付いていないのか、深い縦じわを眉間に寄せてモニタリングしながら頬杖を着いている。
 その横顔は、とても45には見えない。
 やっぱ、日頃から頭を使ってるから老けないのか、父さんは巷の同年代より5~10歳は若く見えるから、年齢を言えば吃驚されることも屡だと悪態を吐いていたっけ。
 そのくせ、日本が誇る癌の権威なんだからすげーよな。
 いや、その父さんが、教授の娘ってワケでも研究に関係あるってワケでもない母さんに、容姿だって10人並ぐらいだってのに、一目惚れして猛アタックしたってんだからそっちの方がスゲーのかもしれないけど。
 このまま放って置いたらいつまでも研究に没頭して俺に気付くこともないだろうから、俺は溜め息を吐きながらガラスをコンコンと叩いてみた。
 研究の邪魔をすれば地獄のような目付きで睨まれる…と、父さんの助手の人とか瀬口さんとかが言ってたけど、確かに一瞬、『邪魔をするのは誰だ!?』とでも言いたそうに眼鏡のフレームに光を反射させながら振り返りはしたが、それでも俺が来ることをちゃんと認識していたのか、すぐに頬の緊張を緩めて、そのくせ、口だけはムッとしたままで頷いたんだ。
 研究をそのまま放り出して椅子から立ち上がった父さんは、博士と言うよりもスポーツマンと言った雰囲気を持っていて…と言うのも、この研究施設には研究員たちの体調管理を名目に、専用のジムが設立されてるんだよな。どうしても抜けられない会議のときに、ぼんやり父さんを待ってるだけってのもヒマだったんで使用させてもらったことがある。
 どんな研究をしてるのか…聞いたって判るワケはないけど、国が援助してるってのもなんだか本当のことのように思えてきて仕方ないんだがなぁ。
 そろそろ髪を切らないと、長く伸びすぎた前髪を掻き揚げながら、父さんは不機嫌そうに、そのくせ大股で颯爽と室内を横切ると外で待機している俺の所まで歩いてきたんだ。

「待たせたかね?」

「いや、今来たとこ。さっきさぁ、瀬口さんに会ったよ」

「ほう?」

 父さんは双眸を細めるようにして俺を繁々と見ているが、どうやら話している内容にはさほど興味を示してはいないようだ。

「親父にしろ瀬口さんにしろ、少しは風呂とか入って、喰うものはキチンと喰えよ」

「なに、私はお前の手料理があるから充分だ。だが、お前が瀬口の世話をしてやる必要はないよ。アレも充分年を取っているからな」

「俺より賢いって?そんなこた知ってますよ」

 俺からランチジャーと水筒を受け取ると、興味深そうな、嬉しそうな顔をして見下ろしながら「そんなことは言っていないよ」と言って肩を竦める父さんに、俺は「どうだかな」と意地悪く言って笑ってやった。

「こっちにおいで。私の部屋で一緒に食べよう…ん?お前の分がないようだが」

「あー…作ってくるの忘れた」

「お前が?そんなはずはないだろう。さては、そうか。瀬口か」

 ぐはっ!ホント、何だってこの人はそう言うことには鋭いんだろう。
 だが、ここで素直に「はい、そうです」とか言ってやるのも癪だしな、都合のいい嘘を吐いてやろう。

「んなワケないっての。あの人、今日もコンビにだ!とか言ってチャリに乗って行っちまったんだぜ?」

「…ほう」

 父さんは威圧的な目付きで、上から見下ろすようにして俺を冷ややかに見詰めてきた。
 思わずグッ…と息を呑んでしまうのは、身長差がムカツクからだ。
 何もかも10人並の母さんから遺伝子を受け継いでいる俺には、父さんの持つ優秀さは微塵もない。オマケに、親父のヤツはいつだってそんな俺の事なんか一切お構いなしなもんだから、仕事を辞めてずっと一緒に研究室にいて欲しいなんて言いやがるから、思い切りその向こう脛を蹴ってやったことがある。
 そりゃあ、親父の収入を考えれば俺一人なんか余裕で養っていけるだろうがな、ふん。
 でも、俺はもう25なんだ。
 親父の脛を齧って生きるには年を取りすぎてる。
 そう言うこと、この心を母さんの棺に置き忘れてきた父さんには判らないんだろうけどさ。

「疑ってるだろ?」

 ムッとして唇を尖らせれば、それまであれほど冷ややかだった双眸がフッと和らいで、何が楽しいのかクスクスと笑いながら父さんが俺の眉尻を親指で擦ってきやがった。

「お前はね、嘘を吐くとすぐに顔に出るんだよ。特に眉尻が僅かに動くからすぐに判る」

 げ、そうだったのか。
 流石は生まれたときから俺を知る唯一の人だ、なんでもお見通しってところはムカツクけどなぁ。

「瀬口さんには世話になってるだろ?お礼になんてならないけど、それぐらいはお返ししておかないと」

「…アレは自身の興味で行動を起こす男だ。何もお前が気遣う必要などないのだよ」

「とは言うけど、常識的にはお礼をするのが当たり前だろ。こんな閉鎖的な施設じゃ非常識なんだろうけどな!」

 眉から頬、頬から首筋を確かめるように辿る父さんの、いつものその仕草を疎んで手を振り払えば、おやおやと眉を微かに上げて外国の俳優みたいな仕草をする父さんは肩を竦めて笑った。
 白い歯を覗かせるほど爽やかではないけど、静かな微笑は、とても変態気質に目覚めたマッドサイエンティストには見えないから不思議だ。
 たぶん、今父さんに殺されたとしても、誰もこの人が犯人だなんて疑いもしないだろう。 物静かな微笑は、どこか壊れてしまった父さんの心のように穏やかに見えるからな。

「非常識…などと言ってはいないだろう?さあ、こんな所で立ち話をしていても仕方がない。私の部屋に行こう」

「…へいへい」

 もうそんな話はどうでもいいとでも言いたそうにまるで幼稚園児の手を引くように、父さんは俺の腕を掴むと颯爽と歩き始めた。その後姿を追いながら、俺は無機質な白色電灯が照らす冷たい通路を、やっぱりいつものように少し怯えながら足早に歩いていた。

■ □ ■ □ ■

「玉子焼きは光太郎が好きだったね。お食べ」

 ニッコリ笑って器用な指先で操る箸に挟んだ黄色い物体を、思い切り俺の口に押し付けてくる父さんに半分以上苛立ちながら、俺はその手を丁重に押し戻してやった。

「俺は抓み食いでたらふく喰ってるんだ。全部親父が喰ってくれ」

 押し戻す俺の顔をマジマジと見詰めながら、少しだけしょんぼりしたような、いや、実際には顔色一つ変わっちゃいないんだが、長年の勘で判るその反応に俺は少しだけ呆れて溜め息を吐いた。
 まるでデカイ子供と一緒にいるようだ。

「アンタ、丸一日以上何も喰ってないんだろ?この間みたいに倒れたらどうするんだよ」

 あの時は確か、3日間飲まず喰わずだったんだけどな。

「そうすればまた、お前が看病してくれるじゃないか」

「…あのなぁ、どこをどうしたらそんな結論で納得できるんだよ」

「薬は飲んでいるのか?」

 ふと、何の脈絡もなく話題を変えられて、俺の口元にしつこいぐらい押し付けていた黄色い物体を口に放り込んでゆっくりと租借している父さんを見たら、ヤツは別に何も考えていなかったのか、どうして俺がそんなに驚いているのか判らないと言いたそうに僅かに眉を寄せて飯を喰っている。
 …そりゃあ、驚くに決まってるだろ。
 あの得体の知れない試験薬を俺に試せとか、そのせいで最愛の妻を失った男が息子に差し出したんだぜ。それを飲んでるって信じてるところに驚きを通り過ぎて、呆れ果てたとしても誰も文句なんか言わないと思う。

「確か今日で終わりだろ?一週間、ちゃんと飲んだけど、あのビタミン剤全く効かなかったよ」

「…そうかね?軽い眩暈と、微熱、だるさと筋肉痛は?」

「それそれ!飲みだした方が調子が悪いってどう言うことだよ??」

 悪態を吐きながらもちゃんと飲んでやってる俺も俺だけどな。
 今まで、父さんから渡されたビタミン剤は確かに調子も良くなったし、朝起きるのも苦痛じゃなかったんだけど…今回は少し違う、父さんが言うようにまるで初期の風邪のような症状に悩まされてるんだよな。

「そうかね。では、順調だと言うことだ」

「はぁ?」

 水筒から注いだ味噌汁が湯気を上げるその向こうから、キラリと光を反射させる眼鏡に阻まれて、父さんがどんな表情をしているのか判らなかったけど…あれ?
 不意にぐにゃり…と、視界が歪んだような気がした。
 胸の動悸が少し早い。
 …なんだろう?
 ふと、父さんを見たけど、別に何も変わった様子なんかこれっぽっちもなかった。

「あ、あれ…?」

 平衡感覚が狂ったように、椅子に座っているのもままならなくなった俺は、何かに救いでも求めるかのように椅子の背を掴みながら、立ち上がろうとして失敗した。

「どうしたのかね?」

 やけに、冷静な父さんの声。

「…なんか、眩暈が…」

 くらりと揺れる視界の中で、その時になって漸く、父さんが会心の笑みを浮かべていることに気付いたんだ。
 しまった。
 なぜか俺は不意にそう思ってしまった。
 ガキの頃、父さんが仕掛けた悪戯にまんまとはまっちまった時に見せたあの笑顔に…なぜだろう、薄ら寒さのようなものを感じたのは。

「俺に…何をしたんだ?」

 アンタってヤツはテメーの息子に…いったい、何をしてくれちゃったんだよ。
 歪む視界に映る親父の笑みは、それこそマッドサイエンティストの称号がふさわしいと思ってしまうのは、きっと、俺だけじゃないはずだ。
 三半規管が完全に狂ったのか、もう座っていることも覚束なくなった俺を、弁当箱をテーブルに置いてゆったりと立ち上がった父さんは、冷たい眼鏡の奥にその感情も表情も隠してしまって、そのくせ、喋らない唇が雄弁な動きで笑みを形作っている。
 やめろ…と言った筈の声は言葉にならなくて、あんなに頼り甲斐があると思った父さんの腕が、なぜか今は怖かった。

「どう…」

 して、と続かない言葉に苛立ちを覚える俺を抱き上げた父さんは、眼鏡に隠しきれない喜びを滲ませて呟いたんだ。

「おやおや、貧血でも起こしたのかな?さあ、私の仮眠室に連れて行ってあげよう…愛しい、光太郎」

 ゾクッとした。
 自分の父親なのに、そんな言葉、いつだって聴いてるはずなのに…どうしてだろう、今の俺は随分と弱気になっている。それは、驚くほど身体が言うことを利かないからなんだろうか。
 こんな風に、俺は父さんに抱き上げられて大人しくなんかしていない。
 なのに、眩暈が…
 頭が、グラグラするんだ。

「お、やじ…やめ…」

 掠れた呟きと同じように、俺の意識も掠れて、深い闇の中に落ち込もうとしている。
 何をやめてくれと言っているのか、判らないんだけど、せっかく父さんは俺を休ませようとしてくれてるってのに…どうしたってんだ?
 きっと、昨夜遅くまでDVDを観てて、そのまま朝早く起きたから睡眠不足で父さんが言うように、ああそうだな、きっと貧血でも起こしちまったんだろう。
 この不安は身体が熱いせいだ。
 風邪でも、引いちまったのかな…
 ふと、意識がなくなる寸前、俺の唇に少しかさついた、それでも柔らかな感触がそっと触れてきた。
 その感触は、もう随分長いこと眠る前に感じていた感触だった。
 不安を和らげるように、宥めるように触れる感触にホッとして、俺はとうとう本格的に意識を失ってしまった。

■ □ ■ □ ■

 ふと、意識が覚醒したような気がする。
 と、言うのも、まだ頭がグラグラしていて、思うように意識がハッキリしないからだ。
 熱を帯びた溜め息を吐いて、うっすらと開いた瞼の向こうの景色は…薄暗い仮眠室だった。
 一度だけ、父さんの仕事に興味を持って、学生時代に泊まったままの雑然とした、一見すれば潔癖症にも見えるホントはズボラな父さんらしい室内の荒れように、俺は思わずクスッと笑ってしまった。
 一心不乱で研究に没頭して、倒れるようにして眠っている…と、確か瀬口さんが言ってた。
 実際、そうなんだろう。
 仮眠用の、それでも通常のモノよりは寝心地のいいベッドから、嗅ぎ慣れた父さんの匂いがした。
 ガキの頃はよく抱き締められていたから、懐かしいタバコの匂いだ。
 ギシ…ッと、ベッドが軋む気配がして、その時になって漸く俺の意識は完全に覚醒した。

「…あんた、何してんだ?」

 彷徨っていた視線が覚醒してハッキリすれば、自分に覆い被さるようにして覗き込んできている父さんの姿を見つけたってちっとも不自然じゃない。いや、不自然と言えば、意識を失った息子の上に覆い被さるようにして顔を覗き込んでいるこの『息コン』親父の方がよほど不自然を通り越して怪し過ぎるだろう。

「大切な息子とのスキンシップだよ?いつもそう言っていなかったかね」

「…あのな、親父。俺は今、猛烈に具合が悪いんだよ。スキンシップもクソもあるか」

「ああ、それは大丈夫だ。今の症状は薬が齎せているものであって、何かの病気と言うわけではない。つまり、私の大切な愛息は至って健康体と言うことだよ」

 いつの間にか眼鏡を外していて、見慣れたとは言えいつだってムカツクそのハンサムな顔立ちに、俺はムッと眉を寄せながら、それでも父さんを払い除けようと思って起き上がろうとした…のに、それができなかった。
 何かに阻まれて。

「…ホント、あんた何してんだ」

「何をしていると思う?」

 いつもは滅多に見せないくせに…いや、俺に見せないってことは他人には一切見せていない、微かな、その嬉しそうな微笑に、不意に俺は思い切り不安になっていた。
 ああ、そうだ。
 親父はなんて言った??
 俺のこの症状は薬のせいだって言ってなかったか?
 毎度の態度にうっかり見過ごしていたけど、今の俺は非常にヤバイ状況だ。
 父さんがこんな笑みを浮かべるときってのは…大概、俺にとってはあらゆる危機に晒されている。いや、あらゆる危機に既に陥っている状況ってことだ。
 あらゆる危機…には、貞操だって含まれている。
 俺の精通を促したのは父さんだった。

「身体が、火照るだろう?」

 肛門に何かを咥えてイくことを教え込んだのも…この人だ。
 それはプラスティックの玩具だったり、ゴム製の何か…父さんは、ここで、この研究所の誰が来てもおかしくない父さん専用の仮眠室で、俺を抱こうとしているのか?

「や!嫌だぞ!親父、それだけは嫌だっていつも言ってるだろ!!」

「ほらね。暴れるだろうから手首を縛っただけだよ」

「…ま、マジかよ」

 愕然として目を見開いても、父さんはあの、鬱陶しいほど嬉しそうな微笑を浮かべて俺の頬に唇を寄せてくるだけで。擽るような掠める口付けに、そのキスが何よりも好きな俺は、結局、すぐにその腕に陥落しちまうってのに…今更、縛る必要なんかないのにさ。
 それとも、これも親父特有の変態プレイの一種なのか??
 縛られたことはないけど…なんか、酷く嫌な予感がする。

「私はいつでも、お前には本気だよ」

 呟いて、それからソッとキスしてくる。
 普通、父親にキスされて喜ぶ野郎なんかいない。
 ただ無償の愛で祝福のキスをされるのなら、俺だってこれほど後ろめたい、罪悪感なんか感じずに笑いながらその口付けを受けるんだろうけど…実際は違う。
 このキスは、性欲を煽る情愛のキス。
 舌で、指先で、俺を煽ってその気にさせて、奈落の底に叩き落すような快楽に翻弄させる為に施す、泣きたくなるぐらい素っ気無いキスだ。
 母さん、ああ、母さん。
 俺、きっと死んだら地獄に堕ちるんだろうな。
 いつだって、思い出すのは母さんのあの優しかった笑顔。
 写真の中で微笑んでいるあのひとは、俺と親父のこんな排他的な行為を、いったいどんな思いで見ているんだろう。
 或いはもう、死んでしまえば思いなど消えてしまうんだろうか。
 母さんを想う、この人のキスは、いつだって情熱的で甘くてエロティックだけど…でも、どうしてこんなに悲しくなってしまうんだろう。

「…ッ…ハッ」

 思わず息が上がって、口付けの合間に溜め息を吐けば、父さんの指先がたくし上げたシャツの裾から忍び込んで、まだ素直に反応できない胸元の敏感な部分を弾きやがるから…クソッ。

「ん!」

 キュッと鮮烈な刺激に瞼を閉じれば、唇を離れた柔らかな感触が、そのままやわやわと耳朶を噛んでクスッと笑った。
 …悔しいなぁ。
 ふと、瞼を開けばすぐそこに、昔と変わらない切れ長の双眸が見詰めてきていた。
 文句なく、同じ男でも見惚れて嫉妬して自己嫌悪に陥りたくなっちまうほど、男前の顔を見上げていたら…どうしてだろう、本気で泣きたくなっていた。
 それはいつものことで、全く勘違いしている俺様至上主義の親父のヤツは、それが毎度毎度のセックスに対する恐怖心だとでも思っているのか、まるで処女でも扱うような仕草で俺を抱き締めてくる。
 それが遠い昔、処女だった母さんを抱いた時と同じなんだよ、と笑って教えられたときはハンマーで後頭部をガツンと一発、強烈に殴られたような気がして吐いちまったけど、今はもう大丈夫だ。
 どんな扱いでもいいんだけどな…俺は、こんな親父だけど。
 やっぱり、この心を壊してしまった、今でも母さんしか愛していないこのひとを、放ってはおけないんだ。

「…父さん」

 ポツリと呟けば、父さんは嬉しそうに双眸を細めて首筋にキスをする。
 指先の悪戯は忘れずに、思うよりも繊細なその仕草で、器用にバックルとジーンズのジッパーを下ろした父さんに促されるまま、俺は腰を浮かして下半身を惜しげもなく晒してやる。

「父さん…」

 いつもならそうして、大胆な姿のままで腕を伸ばして、噛み付くようなキスをお見舞いしてやるってのになぁ…今日は腕を縛られているからそれも侭ならない。
 父さんに施される甘ったるい快楽に、頬を染めながら感じるしかない。
 こんなのはヘンなんだけど、閉ざしてしまった心が少しでも取り戻せるのなら…俺は、俺を母さんだと勘違いしている父さんに身を委ねるしかない。

「…ん…」

 研究所にはうんざりするほどイロイロと便利な品が転がっているのか、父さんはいつの間に濡らしたのか、滴るローションが絡まる指先で硬く窄んだ肛門にゆっくりと指を挿し込んできた。
 羞恥に目元が染まるけど、それだってこの人には計算され尽くした結果なんだろうけど。

「…くぅ…ん、は…アァ」

 口付けを交わしながら、ヌチッと音を鳴らして直腸内を掻き回す父さんの、研究に没頭しすぎて節くれだった、それでも繊細な仕草を見せる中指を知らずに締め付けていた。
 欲しい刺激はそんなもんじゃない。
 泣きたくなるけど、俺は我武者羅に世間体だとか倫理だとか、あらゆるものから逃げ出したいみたいに目を閉じて追い詰められる侭に身を任せていた。
 父さん…その言葉は、俺の最後の抵抗。
 そんなの、日毎夜毎実の息子を抱いている親父にしてみたら、鼻先で笑っちまうようなちっぽけな免罪符でしかないんだろうけど。
 それでも、父さん。
 俺は、息子なんだよ。
 俺は、母さんじゃないんだ。
 ねえ。
 父さんが愛してるのは、ホントはどっちなんだ?

「弥生…愛してるよ」

 呟く親父に微笑んで、俺はその頬にキスをした。

「私もよ、あなた」

 泣き笑いでこんな擬似の夫婦を演じて…イッちまってんな、お互いにさぁ。
 微笑んでキスをすると、まるでそれが合図のように、父さんはさほど潤ってもいない俺の肛門に熱く滾る灼熱の杭を挿入してくる。
 滾る血脈は、確かに一緒の遺伝子なのに。
 滑る舌を突き出すようにして舌を絡めながら、挿入の衝撃で僅かに強張る両の腿を抱えあげる父さんの動きに追いつけずに眉を寄せても、許してなんてくれない嫌なヤツだ。
 ギシギシッと、嫌な音を立ててベッドが軋んでも、気に留める余裕なんか俺にはなくて、ただ必死に父さんが翻弄する荒々しい波に乗ろうと我武者羅になってしまう。
 追われて、追って、追い詰められて…こんな関係、早く終われと願う俺と、このままでも仕方ないかと諦めている俺がいる。そのどちらもホントの俺なんだけど、そのどちらも、まるで他人事みたいだ。

「あ、あ、あ…ぅあ!…ん…~…ひぃ」

 突き上げられる度にギチギチと父さんを咥え込んだ部位が悲鳴を上げて、それでもお構いなしに踏み込んでくる傍若無人な蹂躙者に、背中に腕を回すこともできずに俺は、ギシギシッと手首に食い込む縄に縋り付くようにして身体を支えながら、あられもないほど両足を大きく開いて迎え入れている。
 父さんの熱い掌が、労わることもせずにエロティックに支えている筈の腿に愛撫を加えて…それだけで俺はイッちまいそうになる。

「…ココがきゅうきゅうと締め付けてくるよ、弥生。どうしたの?いつからそんなに厭らしい身体になってしまったんだ」

 アンタが仕込んだんじゃねーか。
 そう言ってやりたいけど、唇を噛み締めようにもグイグイと一番感じる急所を突かれちまえば、悲鳴のような嬌声を上げることしかできない。
 こんなとこ、誰かに見られでもしたら憤死モンだけどなぁ。

「だが、私には具合は好い。貞淑な淑女の君も好きだけれど、淫乱な娼婦のように誘う君は…溺れるには充分だ」

「ひぁ!?」

 そう言って、父さんを咥え込んでいる肛門に指を無理やり押し入れてグイグイと掻き回そうなんてしやがるから、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「あ、あぅ!や、やめて…」

 涙目で懇願しても許してくれない親父に、俺はヤケクソで腰を摺り寄せながら、こうなったらもうさっさとイッて欲しいと本気で思っていた。父さんの変態セックスに、もう何度も泣かされてきたんだ。
 明日にはもう、擦り切れて痛々しい鬱血になるんだろう、手首を戒める縄を両手でギュッと掴んで、押し上げられる身体を引き戻されては悲鳴を上げる俺に、父さんはクスクスと嬉しそうに笑っている。
 室内にクチュクチュと厭らしい音が響いて、相乗効果のようにギシギシとベッドの軋む音。
 あの白い扉の向こうでは、もしかしたら、休日返上で研究に借り出された研究員たちがいるかもしれないってのに…この人には地位や名誉の大切さとか判ってるんだろうか。
 まあ、倫理に反した研究とやらをやらかしている親父にしてみたら、まだお日様も眩しい昼間っから、実の息子と擬似夫婦ごっこをしながらドロドロの性行為に耽っていたとしてもおかしなことじゃないのかもしれないけどな。
 もう、尻だけでイくことを覚え込まされた身体は、触れてもいないのにいきり立った俺の陰茎の先端から、先走りがたらたらと糸を引くようにして後から後から零れている。
 触って欲しい、できれば思い切り扱いて欲しいのに…
 してくれるわけないよな、この世で誰よりも愛しい女である母さんに、こんなにおっ勃った野郎のナニなんかついてるワケないっての。
 せめて腕を放してくれたら…いつもみたいにコッソリと、父さんに尻を犯されながら思い切り扱けるのに。

「…んふ…ぅ…アア……ッ」

 強弱を付けて腰を揺する父さんに翻弄されながら、イかせて欲しいと甘く強請れば、見る者を魅了せずにはいられない完璧な笑みを浮かべた父さんは、まるで意地悪く快楽の熱に浮かされて朦朧としている俺に覆い被さって来ながら、その耳元で囁くんだ。

「愛してると言いなさい」

「あい…ッ」

 呟きそうになった言葉は、どうしてだろう、いつも咽喉の奥に引っ掛かって言葉として出てこない。
 『愛してる』と言われて『私もよ』と応えることはできるのに…自分から愛してると言うことができないんだ。
 だって。
 父さんが愛してるのは母さんで、俺じゃないだろ。
 俺が愛してるって言って、なぁ父さん、ホントに嬉しいのか?

「なぜ、言わない?」

 初めて父さんを受け入れてから13年間、一度も言えないでいるその言葉に、父さんは相変わらず不機嫌そうにソッと眉間に皺を寄せて静かに激怒しているようだ。
 この場合、ホントは父さんの病気の為には最後まで母さんを演じる方がいいんだろうけど、この段階でいつも俺は誤魔化してしまう。
 母さんのふりをして、愛してると言わないまま、愛してるふりをする。
 そんな俺だったのに、今日はどうかしていた。
 いやきっと、あの薬のせいだったんだと思うけど…今日の俺は、そして父さんも、どうかしていたんだと思う。

「…な…ぜ?…ん、…ッは……だって、父さんが愛してるのは母さんなんだろ?俺じゃないのに、どうして俺にその言葉を言わせたいんだよ…ッ」

 親父の陰茎を尻に咥え込んだ、こんな浅ましい姿で言ったって迫力も説得力もないってのに、どうしてそんなことを言ってしまったんだろう。
 そらみろ、父さんが困惑してるじゃねーか。
 僅かに寄った眉、心配そうな不安そうな、なんとも言えない複雑なその表情に、子供ながらにドキッとした俺は、それ以来、外泊なんかできなくなってしまった。
 たった一度、親父に反抗して飛び出した一泊二日の家出だったけど。
 アレを家出…なんて言うのはこの人ぐらいだ。
 ただ単に、夏休みに友達の家に遊びに行っただけだってのに…はぁ。
 そんな顔付きをしたって駄目だ、もう、俺の中で唯一頑張っていた感情の為の防波堤が、ポロポロとひび割れた隙間から零し始めてしまったんだから。

「お、…俺は…ッ、母さんじゃないんだ。と、…ん!……父さん、俺、光太郎だよ。光太郎としての俺なら、父さんに『好き』だって言えるけど…母さんの身代わりとしての俺なら…ぅあ!……父さんに『愛してる』なんて言えるワケがない」

 心を崩壊してしまった父さんに何を言っても無駄かもしれなかった。
 それでも俺は、どうか、ほんの少しでもいいから、その心の中に『息子』も入れて欲しかったんだ。
 俺は…父さんが好きなのに。
 こんな形じゃなくて、普通の親子でも充分、俺は満足だったのに。
 悔しいけど、もうずっと、父さんしか見ていないのに…父さんは、もうずっと、幻の中の母さんを見詰め続けている。
 寂しいのに、泣けもしない俺もどうかしてる。

「…」

 ふと、父さんが動きを止めて、マジマジと組み敷いている俺を見下ろしてきた。顔を近付けて、覗き込んできながら、その表情はなんとも言えない、何か不思議なものでも見つけたときのような、実に不可思議な顔をしている。
 何を言っているのかね、弥生?君は弥生じゃないか。
 そんな台詞が脳裏を巡って、泣きたいのに泣けない俺は、まるで睨めっこでもしているように覗き込んでくる父さんの双眸を睨み返していた。
 額に薄っすらと汗が浮かんでいて、少し伸びすぎた前髪の隙間から、年のワリには若く見える男らしい、野生の雄の匂いを漂わせる切れ長の双眸が…綺麗だった。
 事の最中はいつだって、俺は『弥生』と言う名の冴えない女になる。
 もう、20年以上も前に死んだ、この野性的な双眸を眼鏡の奥に隠した完璧な男が惚れた、たったひとりの女になるんだ。

 瀬口さんに相談したとき、その時はもう既に父さんに抱かれていたけど、さすがにそこまでは相談できずに『親父が付き纏ってウザい』と言ったら、人の好い瀬口さんは『沖田は、君のお父さんはね、心を病んでしまったんだよ。お母さんのことが大好きだったから、お母さんがいないことが信じられずに死んでしまった事実を認めていないんだ』なんてことを教えてくれた。
 それでなくても10人並の冴えない母さんの遺伝子を色濃く受け継いだ俺だ、そんな素っ頓狂な話には目をパチクリするしかない。と言うよりも、その言葉の意味すら理解してはいなかった。
 母さんが俺に遺してくれた能天気と言う名の特殊技のおかげで、それでも笑いながら『じゃあ、俺が母さんになればいいんですね』とか言えたぐらいだからな。
 そう決めたのは自分だったのに、それでも、俺を見ようとしない父さんに心は張り裂けそうだった。
 こんなに身体はぴったりと密着しているのに、溶けて融合しても構わないとさえ思っているってのに、汗まみれでキスしながらも、その情熱を湛えているはずの双眸を覗き込めば、驚くほど空虚な闇が俺を通り越した、どこか遠くを見詰めていた。
 俺ではない、誰か別の人をひっそりと見詰める、身体だけのひと。

「ッ…から、言えるはずない」

 突っ込まれたままで身動きもできない、そのジワジワと這い上がるような、むず痒い快楽に知らずに腰が揺れていて、俺は濡れそぼった陰茎の先端で父さんの逞しさを物語るような腹筋を突付いていた。
 沈黙が嫌で口を開いたら、何事かを考えていた父さんの虚ろな双眸にふと、生気が戻ってきたような気がした。
 …事の最中にそんな器用なことができるってのは、まあ、俺ほど父さんはこのセックスに夢中にはなってないってことなんだろうな。
 やっと我に返った父さんは、グイッと身体を倒すようにして強かに俺を喘がせてから、その顔を愉しむように覗き込みながら呟いたんだ。
 あのゾクゾクするような低い、セクシーな声で。

「何を言っているのかね、光太郎?そうだよ、お前は光太郎であり母さんじゃないよ」

「…え?」

 思わず両目を思い切り見開いて、ぼんやりと覗き込んできてクスクスと笑っている父さんの顔を見詰め返してしまった。そんなビックリしている俺なんかお構いなしで、父さんは繋がったままの奇妙な体勢で笑いながら、俺の頬に口付けて両手で柔らかく頭を抱き締めようとするんだ。

「何を驚いているんだ?最初からそうだったじゃないか。お前は沖田光太郎。私の可愛い独り息子だ」

「だって!親父はいつだって俺のこと…ッ!うぁ!!」

 グイッと腿を掴まれて、父さんの抽送が思ったよりも激しさを増して再開されたから、俺はそれ以上何も言えずに、ただただ、この押し寄せてくる快楽のうねりをなんとかしたくて腰を振るしかなかった。

「あ、あ、あ…もう、ひ…ィ~ッッ」

 もう、言葉にすらならなくて、まるで壊れた人形みたいに繰り返し「あ」と言うことしかできない様は、見ていてどれほど滑稽だろうかと、事が終わった後にはいつだって罪悪感と羞恥に苛まれてしまう。
 そんなことも知らないくせに…判っていたのか?
 俺が息子だって、ちゃんと理解していたのか?

「お、オヤジ…」

 溜め息のように呟けば、父さんは応えるようにキスをくれる。

「お、父さん…」

 泣きたくて泣けなくて…でも、気付いたらポロポロと涙が零れていた。
 ああ、父さん。
 やっと、やっと俺を見てくれるのか?
 俺は、ここにいるよ。
 許しを請うように挿し込まれた肉厚の舌に舌を絡めれば、魂さえも吸い取られちまいそうな熱いキスに頭はクラクラする。
 ギシッギシッ…と、耳障りなベッドの軋みと、縛られた手首が擦れてぬるりとした感触に、皮膚が破けたんだなと脳裏にチラッと過ぎっても、そんなことは気にならなかった。

「可愛い息子。なんだい、光太郎は母さんになりたいの?」

「ちが…!俺は、俺として父さんを…」

「うん、知っているよ。お前はお前。大切な息子」

 一瞬、脳裏がスパークして、まるで甘い睦言のように繰り返される父さんの声が耳元を擽って、それでなくても一番感じる前立腺の部分をグリグリと先端で押擦られてるんだ、もうどうすることもできずに早々にイッてしまっていた。
 ビシャッと、父さんの逞しい腹筋に吐き出した白濁が滴ってポタポタッと俺の腹に零れると、その感触にも感じて暫くヒクヒクと肛門が戦慄くのが判って真っ赤になってしまう。
 何度犯っても、慣れるもんじゃない。

「…あ」

「ッ…」

 絶頂の余韻に収斂を繰り返す括約筋の動きに、父さんは激しく腰を打ち付けて、結果、俺の胎内に余すところなくビシャビシャとマグマのように熱い精液を吐き出したようだった。
 俺の胎内で死滅しようとしている兄弟に、どんな顔をしたらいいんだろう。
 そんな馬鹿なことを考えていたら、キュウキュウッと締め上げる余韻を充分に愉しんで残滓まで吐き出そうとしていた父さんは腰骨を押し上げるようにして肛門から糸を引く陰茎をズルッと引き抜くと、身体を屈めるようにして俺の腹に散った白濁をペロペロと舐め出したんだ。

「お、親父…俺も」

 いつものように、身体を反転させて俺の胎内で汚れてしまった陰茎が目の前にきて、俺はそれに唇を寄せて舌を這わせた。
 父さんも同じようにして俺の白濁に滑る陰茎の鈴口から根元の部分まで舐め清めてくれるけど、でも、絶対に尻までは舐めない。俺が始末することも許さないときもあるから、何度腹を壊して最悪な目に遭ったか判らない。
 だから、一度聞いてみたら父さんは…

『お尻がヒクヒクしててね、そこからトロッと私の精液が零れる姿はとても美しいよ。何より、ここに。私の子供を孕まないといけないからね』

 と、そんなふざけたことを言って本来なら子宮のある辺りをゆっくりと擦られたことがある。突っ込んでるのは肛門なのに、そんなところに子供を宿すワケないだろ、バカ親父。
 そう思って呆れたんだけど、俺を母さんだと思い込んでいる親父は結局、その信念を曲げることなく、俺はいつだって腹を壊したままだった。
 なのに…俺が母さんじゃないって、気付いてたって?

「今日も素敵だったよ」

 呟いて、満足した父さんはそのまま俺に覆い被さるようにして眠ろうとした。
 そうだ、眠ろうとしやがったんだ。
 こんな状況で眠れるか、普通!!

「つーか、こら!このクソ親父!!腕の縄を解けッッ」

「んー…ふふ、それは駄目だよ。縄を解いたら帰ってしまうじゃないか」

「…はぁ?」

 アンタ、今日は帰るって電話で言ってたじゃないか。

「…研究が長引いてるのか?」

「まあね、そんなところだ」

 あー…それでムシャクシャして俺を抱いたのか。
 明日は月曜日だから、俺はこのまま帰ってしまう。子供のように我が侭な父さんはそれが嫌で、こんな形で引き止めてるんだろう。大方、そんなとこだ。

「俺、明日仕事なんだけど。普通の親父だったらさズル休みするなって怒るのが当り前で、ズル休みを推奨するアンタはどうかしてると思うけどな」

「…ならば、私は普通の父親にならなくて結構だ。もう、一分でもお前と離れるのは嫌なのだよ」

 父さんは頭の上で両手首を縛られている俺に覆い被さるようにして、感極まったように頬に、顎に、こめかみに、そして額にキスの雨でも降らそうとしているようだった。

「弥生が死んでしまったとき、私はもう二度と、この腕の中から大切なものを失いはしないと誓ったのだ。弥生が残した遺伝子。光太郎、お前だけが私たちの全てを知っている唯一の人間だ」

 キスしながらゆっくりと俺の顔を覗き込んできたその双眸は、鳩尾の辺りがゾワゾワするような、1分だってこの場所にいたくない、逃げ出してしまいたいと思わせる底冷えする冷ややかさを持っていて、ほんの少し光が見えたような気がしたのはただの錯覚で、やっぱり父さんは狂っているんだと寂しくなってしまった。
 そうだよな、狂ってでもいないと実の息子を抱こうなんて、普通は思ったりしないよな。

「だからね、光太郎。今夜はもう、ここに父さんと一緒に泊まりなさい。食事は大丈夫だ、自炊できるように店舗が入っているからね」

 そうだ、ここは小都市のようになっている。
 恐らく、何ヶ月閉じ篭っていてもいいように、あらゆる店舗が地下1階に軒を連ねていて、地下2階は駐車場が完備されている。下手をすれば地下3階とかあって、家族の為のテーマパークがあるとかなんとか…ジュラシックパークみたいなヤツだったら面白いかもなぁ。

「地下1階?」

「ああ、そうだよ」

「地下3階にはジュラシックパークとかあるのか?」

「それはないけれど…映画館ならあるよ」

 俺の面白みもない黒い髪を弄びながら、2人で寝るには少し狭いベッドに横になると、クスクスと笑っている。何が嬉しいのか、今日の父さんは上機嫌だ。

「それじゃ駄目だ。俺は恐竜が見たいからなー」

「…甘えてるのかね?では、父さんが面白いものを見せてやろう。それで納得しなさい」

 ムッとして、指先で弄んでいた俺の頬をグイッと掴むと、無理矢理顔を自分の方に向けて、父さんは不機嫌そうに眉を寄せながら、素知らぬ顔で唇を突き出して目線だけ外方向いてる俺の唇にキスしてきた。
 触れるだけの戯れのキスは、どんな濃厚なセックスよりも大好きだった。
 子供の頃、誉めてくれる時に父さんが俺にくれた優しい、愛が溢れていたキス。

「何を見せてくれるんだ?」

「見てからのお楽しみだよ…身体の具合はよくなっただろう?」

 鼻先が触れ合うほど間近で見詰め合っていた俺は、父さんの台詞でハッと我に返ってしまった。
 そう言えば、あの風邪のような症状がなくなっている。
 …ってことはもしや。

「あの薬ってまさか…欲求不満増強剤じゃねーだろうなぁ?」

「はは!…何を言い出すのかと思ったらそんなことかね?いや、そんな生易しいものではないよ」

 ギクッとした。
 この人が薄ら笑いながら何か言うときは、決まって何か、大変なことがその裏側に隠れているんだ。
 唐突に不安になった俺は、鼻先にある父さんの頬に自分の額を擦り付けるようにして上目遣いで覗き込んだんだ。
 俺の身体に何をしたんだ?

「あの薬、なんだったんだよ!?」

 態度と裏腹の言葉遣いの悪さにも、別に怒るでもない親父失格の父さんは、そんな俺の頬を擽りながら不安に怯える俺を組み敷くようにして言った。

「どうも、私の可愛い独り息子は母さんになりたがっているようだったからね。その願いを叶えてあげようと思ったのさ」

「…は?なんで俺が母さんになりたがってるんだよ!?アンタがずっと俺のことを!母さんだと思い込んでたんじゃないか!!」

「…何を言っているのかね?私は一度だって、お前を弥生だと思ったことなどないよ」

 事の最中はいつだって母さんの名前を呼んでるじゃねーか…何がなんだか…頭が混乱し始めたそのときだった。
 ああ、そうか。
 父さんは狂ってるんだ。
 なに、まともに受け答えしてるんだよ、俺。
 この人はいつだって、おかしなことばかり言ってる。家の中に母さんなんかいるワケがないのに、帰って来るときはいつだって薔薇の花束を抱えて、俺のことを『弥生』と呼んでキスをする。それから一瞬息子に戻って近況を報告しあったら、『最愛の妻』として一緒に風呂に入って夜明けまで抱き合って眠る。そんなことの繰り返しだったじゃないか。

「…あー、ハイハイ。それで?それと薬にどんな関係があるんだよ」

 不貞腐れてぶっきら棒に言ったら、父さんは嬉しそうにクスクスと笑ってから、思い切り大胆に舌を絡める濃厚なキスをしながら、今まで父さんを咥え込んでいたせいでとろとろに蕩けている肛門につぷんっと中指を挿し込んでぐるりと円を描くように回しやがったんだ!

「んぁ!…って、な、に…すんだ!!も、や…嫌だってばッッ」

「光太郎とのセックスは甘い果実よりも魅惑的で、私はこのままでも構わないんだがね…お前が望むのなら、何だって叶えてあげたいと思ってしまうのだ」

「俺が?…ん…何を望んでるって??」

 ぐちゅぐちゅと厭らしい音を響かせて中指を腸内を抉るように蠢かす父さんは、そんな俺の耳朶を甘噛みして耳の穴に舌先を挿し込んでくる。その行為だけでも、敏感になっている身体は素直に反応してしまう。

「弥生になることはできないけれどね、お前を女にすることはできる」

「…はぁ?つーことは、アレを切って人工で女の部分でも作るってか??」

 悪戯されながらも呆れたように言ったら、親父のヤツは片方の眉を器用に上げて、シニカルな笑みを浮かべながらとんでもないと鼻先で笑ったんだ。

「この私がそんな単純なことをすると思うのかね?」

 いや、アンタのは複雑過ぎてどうかしてくれってぐらい問題がデカいんだ。できれば単調且つ単純であってくれれば問題もさほど気にならないんだけどなぁ…ははは、無理な話か。 この人だもんな。

「じゃ、どうするんだよ?」

「遺伝子レベルで女になれば済むこと。勿論、私は息子であるお前を愛しているからね、外見上の変化は何もない。ただ、身体のある部位が変化し、なかったものが造り出され、あったものが形を残したままなくなるだけのことだよ」

 思わず目が点になる。

「何を言ってるのか判りません」

「…実に簡単なことではないか。人工的な両性具有者になると言うことだよ。だが、その言葉にも語弊があるね。私は他所の女にお前の子を産ませる気など毛頭ない。お前が産める身体になるのに産ませる必要などないだろう?故に、男である証明は要らないということだ」

「…精嚢がなくなるのか?」

「それは違う。精管を切除して縛る方法もある。所謂パイプカットのことだが、お前の場合は遺伝子レベルから身体が造りを変えてしまうんだよ。つまり無精子になると言うことだ。陰茎、陰嚢、睾丸…つまり、男である部分はそのままだが、会陰の部分、そう、ちょうどこの辺りに女性器が造られる。胎内で子宮ができれば、出入り口を造ってやる必要があるだろう?それには手術を要するだろうから、執刀は私が責任を持って行う予定にしている。身体は…あの薬で随分と整っているからね」

 まるで悪魔のように笑って、父さんはずるりっと肛門から指を引き抜くと、俺の後頭部に枕を押し込んで見え易いように上体を起こさせ、説明するようにグイッと俺の両脚を持ち上げてグイッと押し開くと、呆然としている俺の陰茎と陰嚢を軽く持ち上げて医者か学者のように説明を始めたんだ。
 あ、そっか。
 親父は博士だった。
 陰嚢の付け根辺りから蟻の門渡りにかけてツゥーッと父さんの指先が辿る、その感触に身体がフルッと震えて反応してしまう。
 嫌なのに、今はそれどころじゃないってのに。

「男性の身体は女性とは違う。だから、出産の際は帝王切開になるのは確実だ。安心しなさい、その時は私が取り上げる」

 ポンポンッと聞いたことはあるけど、直接俺には関係のない名称が飛び出してきて、頭上で腕を縛られたままどんな顔をしたらいいのか判らなくなってきた。

「なんで親父が産婦人科医の真似事なんかできるんだよ?そもそも、俺…誰の子を産むんだ??」

 半泣き状態で中途半端に質問すれば、父さんはなぜ俺がそんなに悲しんでいるのか判らないと言うように首を傾げて覗き込んできた。それでもすぐに、俺が喜んでいるんだと勘違いしたのか、いや思い込んだのか、どちらにしろどこかがぶっ壊れてしまった父さんが自分勝手に受け止めることは判りきっていたのに…どうして俺はこんなに泣けてくるんだ。
 それは…きっと、父さんが本気だからだ。
 俺がどんなに嫌だと泣いて喚いても、この人はきっとやり遂げちまうんだろう。
 父さんは俺に、誰の子を産ませようとしてるんだ…瀬口さん?いや、まさか。
 俺は結局、アンタにとってただのモルモットだったんだな。
 それが、胸が張り裂けるように辛い。

「真似事ではないよ。知らないのかね、光太郎。医学に従事する者は全ての科を習得しているんだよ。私はどの分野にも秀でてはいたがね」

 クスッと笑って、絶望してしまっている俺の目尻に浮かぶ涙を唇で拭ってくれた。

「誰の子を産むかだと?決まっているではないか。無論、この私の子だ」

「…!!!」

 あまりのことに絶句して言葉が出てこない。
 いや、確かに。
 実の息子である俺を抱くことすらできる人だ、研究の為なら息子に子供を産ませる事だってへっちゃらなんだろうとは思った。でも、よりによって…実父の子を身篭れと言うのか?

「…ゃ、嫌だ!なんで俺が父さんの子を産まないといけないんだよ!?俺は…俺は、アンタの息子なのにッ」

 思わず、あれほど泣けないでいたのにボロボロと涙が零れて止めることができない。
 止まれ止まれと、思えば思うほど涙は後から後から溢れてきて、まるで涙腺がぶっ壊れたんじゃないかって思っちまったぐらいだ。
 父さんはギョッとしたように、あられもない姿をさせていた両足から手を離すと、あのマッドサイエンティストにしては珍しく、オロオロしたように泣きじゃくる俺の顔を覗き込んでくるんだ。

「わ、私の子だから泣くほど嫌なのか?」

 なに、こんな時に的外れな質問をしてくれてるんだよ!
 そんなんじゃない、俺の胸が張り裂けそうなほど痛いのは…

「ちがッ……うぅ…、じゃ、じゃあ、親父は?親父は俺の気持ちをちゃんと考えてくれてるのか?」

「え…?」

 今までは何をされても黙ってきたし、大人しくだってしてやっていたんだ、それでも、もうこれ以上の非常識には堪えられない。
 研究の為なら最愛だなんだと言いやがるくせに、妻を犠牲にして、今また息子である俺さえも犠牲にしようとしてるんだぞ?
 俺のことは?

「アンタはいつだってそうだ!母さんの時だって、得体の知れない研究の実験体にして、それで最愛の妻なんて笑わせるな!心が壊れただって!?最愛の人を亡くしたって懸命に生きてる人はいっぱいいるんだ。甘ったれるな、親父!アンタには息子である俺がいるのに、それなのに、心を壊したなんか言うなよ…うぅ…アンタにとって家族ってなんだよ?俺って、なんなんだよ…」

 手首を縛られてるせいで思うように身体を動かすこともできないけど、それでも呆気に取られたように見下ろしてくる親父に喰い付くような勢いで喚いた後、俺は強烈な眩暈と吐き気で涙はボロボロボロボロ…それでなくてもセックスのあとで見られたもんじゃないってのに、更に輪をかけて恥ずかしい格好になっていた。
 それでも、言いたかった。
 狂ってるって知ってるけど、判って欲しかったんだ。
 俺はここにいるのに、もうずっと、ここにいたのに。

「研究に遣うだけのモルモットだったのか…」

 自分で言って情けなくなってるって言うのに、それでも言わないでいられない台詞は、俺の涙腺をとうとう完全に壊してしまっていた。
 鼻の奥がツキンツキン痛んでいたけど、それすらも気にならないほど、俺の胸は痛かった。
 実の父に、使い捨てのティッシュみたいに捨てられる息子の気持ちを、ほんのちょっとでいいから、他の誰に知って貰わなくてもいいから、父さん、アンタにだけは知って欲しかった。

「違う!…何を言っているのかね?母さんを研究の実験体にした??何を勘違いしているのか知らないが、お前のお母さんは、弥生は交通事故で亡くなったのだよ」

「…へ?」

「確かに私は癌の権威ではあるけれど、人体に癌細胞を植え付けてまで研究しようなどとは思っていないし、やるのなら自らの身体に植えるに決まっているじゃないか。どうして弥生や、光太郎の身体に植え付けたりするんだ!弥生はもとより、お前を、光太郎を研究のモルモット?冗談じゃない、二度とそんなことは口にするんじゃないッ」

 父さんは、俺の涙と同じぐらい、見たこともないほど怒っているようだった。
 苛々と頭を掻き毟って、腹立たしそうに乱れた前髪を掻き揚げてから、まだボロボロ泣いている俺の脇に乱暴に寝転がるとそのままソッと抱き締めてきた。
 痛々しく腫れてるに違いない手首の縄を解くと、父さんはバツが悪そうな顔をして頬を摺り寄せてきたんだ。

「弥生が死んだとき、確かに私は落ち込んだ。もう、希望すらもない世界が明日から訪れるのかと思ったら、生きているのさえ鬱陶しかった。いや、呼吸をしているかどうかすら判らないでいた。その時、お前が、私の膝に乗ってきたお前が、泣いていることにさえ気付かないでいた私の涙を小さな掌で拭ってくれてね。今のように叱ってくれたんだよ」

 そんなガキの頃のことなんか、覚えてるはずないだろ。
 止まらない涙を気にもせずに、俺は懐かしい匂いのする父さんに甘えるように抱き付いていた。

「愛しくて、愛しくて…この子の為に生きよう。この子の為なら命すらいらないと思ったよ。お前を抱いたことを瀬口に言ったとき」

「い、言ったのか!?」

「…?ああ、殴られたがね。だが、私には判らない。こんなに愛しい人間が、他にどこにいると言うんだ?私は我が子を平気で手離せる普通と呼ばれる父親たちの方が信じられないよ」

 ああ、それで。
 ふと、これまでのこんがらがって霞に隠れていた全てのことが、鮮やかに一直線に繋がったような気がしていた。
 瀬口さんは、知っていたんだ。
 だから、俺を傷付けないように、父さんはちょっと心を病んでいると嘘を吐いたんだ。だから、許してやって欲しいと、他人事なのにあの人は、恐らく強姦されたと思っているに違いないから、免罪符のように嘘を吐いた。父さんにも、そして勿論、俺の為にも。
 あまりに幼すぎて、母さんが死んだ理由さえ覚えていなかった俺に、事故死→研究の失敗と言ったのか…あれ?でも確か、瀬口さんも父さんも、他の人たちも確かに『事故死』と言っていた。俺はてっきり研究の失敗だと思っていたけど…それは、思い込みだったのか?
 なんだ、俺。
 俺も、思い込んでいたのか。
 なんだか一気に脱力しそうになって、いや、それじゃいかんと思い直して父さんの着乱れたシャツを掴んで睨みつけたんだ。

「それで?母さんが交通事故死なのは判った。でも、俺の場合は違うだろ?俺こそ、実験体だったんだろ…」

 アンタは母さんを愛してるから。

「…何を聞いていたのだね?私はお前を愛している。弥生の遺伝子を持ちながら、全く性格の違うお前を、誰よりも愛しいと思っているよ。弥生が生きていても、それは変わらないだろう」

「母さんが生きてても、親父は俺を抱いてたのか?」

 呆れて聞いたら、父さんは軽く肩を竦めて、至極当然だとでも言いたそうな顔をして頷いたんだ。
 なぜ、そんな当たり前のことを聞くんだろうと、半分以上愕然としている俺を訝しそうに見詰めてくる父さんに…ああ、瀬口さん。俺に嘘を吐いたってずっと後悔してるに違いない、重い十字架を背負っている瀬口さん。そんな十字架は発泡スチロールとなんら変わりないから圧し折って投げ出してくれて構わないよ。貴方の言うとおり、父さんは狂ってる。

「勿論、離すつもりもない。お前の身体の準備は整っている。メンタルの部分で納得できれば、いつでも具有体にしてあげるから、私に言いなさい」

「…それは、実験じゃないのか?」

「お前を手離したくない私が、長い時を費やして行った研究の成果だ。動物実験しかしていないからね、実験と言われれば仕方ないかもしれないが、それでもこれは、私の長い夢であり、希望の結晶なのだ」

 どちらにするも、お前次第だよ…と、父さんは囁くように抱き締めながらそう言ったんだ。
 もともと、父さんにとって本当は、その研究結果を俺に使用するかどうかなんてことは、考えていなかったんじゃないかと思った。俺が傍にいるよと言えば、父さんは安心して、こんな奇妙な研究はしていなかったんじゃないかな…だってさ。

「…だから、今日はもう、ここにいなさい」

 何が『だから』なのか判らないけど、命令口調の癖に父さんは、どこか心許無い迷子のような目をして、いつもの人を見下すような高圧的な雰囲気なんか一切なくて、俺がどんな結論を出すのか不安そうだったからな。

「…こんな格好で帰れるか。しょーがないから、今夜はここに泊まってやるよ」

「それは本当かね?」

 まだ疑うのか、この人は。

「だから、思うさま胡散臭い研究に精を出していっぱい稼いでくれよ。でも、会社は辞めないけどな」

 それだけは譲れないプライド…それに、両性具有体になるかどうかなんて、今は考えられない。
 そりゃ、俺だって父さんの傍にいることに苦痛なんか感じてないし、もう25だって言うのにしつこく傍にいるワケだから、実際にそうなる必要があるのかどうか判らない。

「取り敢えず、考えてやるよ。結論は、もっとずっと後だ」

「それでいいよ。その間は、お前は私の傍にいるのだから」

「…俺がいることが、そんなに嬉しいのか?」

「当り前だ」

 父さんはそう言って、ちょっとムッとしたままで俺を抱き締める腕に力を込めた。
 俺は…俺は。
 ここにいるよ。
 その想いが、今やっと、父さんに届いたような気がしていた。

 嬉しくて、嬉しくて…ごめん、母さん。
 貴女が愛した人を、俺も好きになっている。
 その人はとても独占欲が強くて子供っぽい人だけど、それでも、まるで風のように自由な人でもあるから、俺もその風に乗ってみたいって思ったんだ。
 行き着く場所がどこかは判らないけど、その先に、行けるなら一緒に生きたいと思う。
 貴女ができなかったこと、代わりに俺がしてやるよ。
 普通じゃない家族かもしれないけど、俺たちがそれでいいのなら、俺たちはこんな家族でもいいよね。
 母さんのくれた幸せが、じんわりと胸に広がってくる。
 母さん、俺は貴女のことも大好きだよ。

「…ところで、誰に母さんが実験の失敗で死んだなんて吹き込まれたんだね?」

「へ?ああ、いや。それは俺の思い込みだったんだ」

 今日はイロイロあってヘトヘトに疲れていたせいなのか、うとうとしてたら頭の上でポツリと父さんの呟く声が聞こえてハッと覚醒した。

「なぁ、じゃあどうして、親父は俺のことをたまに『弥生』って母さんの名前で呼んでいたんだ?」

 ずっと気になっていたから、父さんに聞いてみることにした。
 だって俺は、そのせいで瀬口さんの言った言葉を信じちゃったんだからな。

「お前が…母さんがいなくて寂しがっていると瀬口に聞いたから、どうしていいのか判らなくてね。母さんが息を引き取る前に言っていた言葉を思い出したんだよ。あの子が物心がついて、物事を理解できるようになるまではどうか、自分が生きているように振舞って欲しいと。弥生は最後まで、お前の心配ばかりしていたから…そうすれば、寂しさが紛れるかと思ったんだよ」

 ややこしい!!…けど、母さんが言ったんじゃ仕方ないよな。
 それから俺は、クスクスと笑って父さんの胸元に擦り寄った。

「母さん、父さんの心配はちっともしてくれなかったんだな?俺ってば愛されてる♪」

「当り前だ。私も母さんも、お前が産まれたとき、嬉しくて嬉しくてね。何度もありがとうって言って産まれてくれたことに感謝したよ」

 その言葉は、まるで母さんが生きてそこにいて、そう言ってくれたような気がした。
 やわらかで優しい気持ちが、このむさ苦しい仮眠室に一瞬、溢れ返ったような気がしたんだ。
 ああ、そうだ。
 俺はここにいると父さんに訴えながら、俺も忘れていた。
 母さんはいつだって、ここにいたのに。
 ありがとう、ありがとう。

「産んでくれてありがとう、母さん。育ててくれてありがとう、父さん」

 思わずポロポロ泣いたら、父さんは面食らったようにキョトンッとして、泣いている俺の顔を覗き込んできた。

「親が我が子を愛するのは当り前のことじゃないか」

「それに胡坐をかいてちゃ駄目なんだ。俺も、いつかきっと、恩返しができるように頑張るから。だから…」

 父さんはクスクスと笑って、縋るようにして抱き付く俺の背中を宥めるように優しく叩きながら、俺のボサボサの髪に唇を寄せてやわらかいキスをくれた。

「楽しみにしているよ」

 俺は、父さんのことをもうずっと、勘違いしていたし誤解していた。
 本当はこんなにも、俺のことを考えてくれている人だったのに…幼い俺を抱えて、まだ若かった父さんはどれほど苦労をしたんだろう。
 まだ平の研究員にしたら足手纏いでしかない俺を片時も離さないようにして、それでも業績を積み上げていくことは大変な苦労だったと思う。
 優秀だから…そんな言葉で片付けられる問題じゃない、それだって、どれほどの努力があって成し得たものなのか、考えれば少しぐらいは想像できる。
 …ちぇ、結局俺の空回りだったのかな。

「親父が俺のこと『弥生』とか呼ぶからさ、てっきり、瀬口さんが言ってたことがホントなのかと思っちまったんだ。ちぇ、心配して損したぜ」

 ついつい、ひとりで考えてバツが悪くなって、そんな憎まれ口を叩いちまう。

「瀬口がお前になんて言ったのかね?」

 父さんの声は冷静だったし、抱き付けばやんわりと抱き締め返してくれたから、これはもう嘘でも幻でもなくて、本当に父さんは俺の存在を認めてくれた、父さんになってくれたんだろうと信じられた。
 もう、疑わなくてもいいんだ。
 もう25なのに、子供っぽいのは俺かもしれないなぁ。

「親父が、母さんのことを本当に愛していたから、亡くなった時に心を少し壊してしまったんだって。ホントは、親父は俺のことを心配してただけだったのにさ」

「…愛していた部分は確かに間違ってはいないが。そうか、なるほど。瀬口の魂胆が読めたぞ」

「…へ?」

「いや、なんでもないよ。さあ、もうお眠り。今日は疲れただろう」

 そう言って、父さんは昔そうしてくれたように、ゆっくりゆっくり、労わるように俺の頭を撫でてくれる。そうされると、条件反射のように俺は夢の世界に旅立ってしまうんだ。
 もう随分昔から、誰よりも父さんが好きだった。
 たった2人きりの親子で、学校に行く前まではこの研究所で、ほぼずっとべったり一緒にいたのを覚えている。研究員から何を言われても、父さんはどこ吹く風で、きっと陰口とか言われて辛かっただろうに、それでも飄々と一緒にいてくれた。
 母さんがいないことの切なさを、父さんなりに必死にカバーしてくれたんだと思う。
 その、異常なほどの愛情が、いつしか歪んだ形になってしまったのだとしたら、それは父さんだけのせいじゃないと思う。
 異常な父さんだし、異常な俺かもしれないけど、でも。
 俺は、沖田蛍杜と沖田弥生の子供として産まれて良かった。
 今なら胸を張って言えるよ。
 本当に良かったって。
 だってさ、きっとこんな風な形にしても、これほど両親に愛されてるのって俺ぐらいだって思い込めるじゃねーか。
 いや、実際はそうだと思う。
 どーだ、へへん!羨ましーか…なんてな、誰もいないってのに威張ってみたり。
 みんな、きっと誰かに愛されてる。
 そう思える人間に生まれてよかった。
 まだまだ、考えなくちゃいけない厄介ごとは多いけど、それでも今はこのハッピーを身体いっぱいに感じていようと思ったんだ。

 翌日。

「それじゃあ、親父。もう帰るよ」

「ああ、お行き」

 元気に手を振って別れを告げる光太郎が、定期バスのステップに足をかけたところで、アッと何かを思い出したようにチラッと沖田を振り返った。

「?…どうしたのかね」

「あのさぁ、面白いもの見せてくれるって言ったのに…結局、見られなかったな」

「…まるで永の別れのようなことを言う」

「え?」

 ふと、呟いた沖田の言葉にドキリとしたように光太郎は目を瞠ったが、それから途端にムッとしたように眉を寄せて唇を尖らせた。

「じゃあ、もう一日お休み。おいで、見せてあげるから」

「いい。どーせ、いつだって会えるんだし。また、今度の土曜日に来るよ…親父が、帰って来られないんなら」

 不機嫌そうに外方向きながらも、普段は言わなかった台詞をぶっきら棒に呟く息子を、沖田は心の奥底から愛しいと思っていた。
 ビーッと出発を促す合図にビクッとした光太郎に、沖田は名残惜しそうに少しだけ、長年の付き合いである瀬口か、或いは愛息しか気付かないほど僅かに眉を寄せて笑ったのだ。

「さあ、お行き」

「ああ。じゃあ、親父!ちゃんと飯食って風呂入れよッ」

 慌てて車内に乗り込んでバスの後部座席に座った光太郎が、初夏の日差しに弾けるような目映い笑顔で手を振りながら、見送る父親に別れを告げて行ってしまった。
 光太郎を乗せた定期バスを見送った、一見すれば全く冷静に澄ました顔をしているような沖田は、悲しみに暮れた心境で砂埃に消えるバスを食い入るように見詰めている。

「そのうちバスに穴でも開いて、光太郎くんが転げ落ちたりしてな」

「瀬口。貴様よくも私たち親子を実験に使ったな」

 ヨレヨレの白衣を初夏の風にたなびかせた無精髭の男は、ニヤニヤと笑いながら、同じくよれてしまった白衣のポケットに無造作に両手を突っ込んでいるボサボサ頭の、この研究所の副所長の地位にいる男に肩を竦めて見せたのだ。

「バレたか」

「だが、あまり役には立たなかっただろう?ふん、それが罰だ」

 だが、さほど怒っていないような沖田の態度に、瀬口は意表を突かれたような顔をして、思わず組んでいた腕を解いてしまう。

「怒らないのか?」

「…怒ってはいるが、だがこちらとしても役得だったんでね」

「はぁ…お前が悪魔だってことはよく判っているがな。光太郎くんも25だ。そろそろ自由にしてやったらどうだ?」

「余計なお世話だ」

 ズバリと斬り捨てる沖田に肩を竦める瀬口は、それから唐突にハッとしたような顔をした。

「まさか、お前あの薬を…」

「使ったよ。やっと成功したのでね。好むと好まざると、光太郎は私のものになる。もう、誰も手離したりしない。私はあの日、そう誓ったのだ」

「…俺を利用したな?」

「なんのことだ?」

 飄々とした口調に寒気を覚えた瀬口は、相変わらず涼しい顔の沖田を食い入るように見詰めている。
 自分の実験にコソリと巻き込んでいたつもりが、沖田の壮大な実験の道具でしかなかった事実に、瀬口は絶句したのだ。

「…」

 瀬口の言葉に偽りなどなかった。
 妻である弥生を失った瞬間から、少しずつ人生の歯車が狂い出して、沖田の心は壊れ始めていた。
 幼い息子に劣情を抱きだしたのもその頃で、異常な執着を愛情とはき違え、瀬口が宥め賺しても聞く耳も持たずに、保育園に預けることもなくべったりと縛り付け、とうとう研究所内にある幼稚園に通わせて手元に置いたほどだった。

「25年間も観察し続けて…お前こそ、光太郎くんをどんな実験に使っているんだ?」

 ふと、瀬口が思い余ったように口を開くと、沖田は胡乱な目付きでジロリと肩越しに振り返ったが、すぐにフッと鼻先で笑うのだ。

「思い込み、だよ。人間と言う生き物はね、瀬口。あまりに滑稽で面白い。思い込ませてやれば、ご覧のとおり、25になっても私から離れようとはしないだろう?」

「解放された今、離れて行ったらどうするんだ?」

「甘いなぁ、瀬口は」

 初夏の風に正面を見据えた沖田は薄っすらと笑った。
 あまりに感情の窺えないその冷たい微笑みは、背中しか見られない瀬口には幸いだったのか、見ることはなかった。

「第2の思い込みさ」

「…ッ、この悪魔め」

「なんとでも」

 呆気に取られて言葉もない瀬口だったが、それでも我が息子を掌中に閉じ込めようとする沖田のその、異常なまでの執着心にはいっそ、哀れさと言うよりも寧ろ感心さえしていたのだ。
 呆れたように笑えば、沖田は肩を竦めて見せた。

「…妻に似たのかな?アレは単純な子でね。だが、お前のおかげですんなりと全てを受け入れようとしているよ。私はね、瀬口」

 ふと、薄ら寒いものを感じた瀬口は初夏だと言うのに、まるで何かから自分を守ろうとでもするかのように腕を組んで首を竦めていた。
 そんな、一種異様な、不気味な微笑を浮かべた沖田は肩越しに振り返り、ニヤリ…と笑ったのだ。

「寧ろお前に感謝しているぐらいだよ。輝かしき未来を、ありがとう、とね」

「…お、沖田」

 ハッと息を呑む瀬口をその場に残し、沖田は勝ち誇ったような笑みを浮かべて歩き出す。
 未来を見据えた、強かな眼差しで。
 初夏の風が、取り返しのつかない片棒を担いでしまったのではないかと、立ち尽くす瀬口と、振り返りもせずに迷いのない足取りで立ち去ろうとする沖田の白衣をはためかせていた。

 たとえばそれは、偽りの私だとしても。
 それでもお前は、私を、愛してくれるのだろうか…

─END─