Papa dont’t cry me! 1  -たとえばそれは。-

『故に現在、我が国の少子化は深刻な問題となり…』

 生真面目にサイドに掻き揚げたオールバックに冷徹そうな縁無し眼鏡の父さんは、居並ぶ幹部たちを前に怯むどころか、この上なく無愛想に巨大モニターの前で講義している。
 いつもの白衣姿ではなく、今日はスーツをビシッと着ていて付け入る隙なんかないんじゃないかって思っちまうけど…こうしたいつものだらしない白衣姿とは違う一面を見てしまうと、ああ、この人はやっぱり世界に名立たる天才博士なんだなぁと思うことができる。
 いや、いつものズボラで無頓着な親父の方が、ホントはどうかしてるんだ。
 この人のこの姿こそ、本来癌の権威と謳われる日本が誇るサイエンティスト、沖田蛍杜その人なんだろう。

『Endocrine Disrupting Chemicalsの影響は世界各地でも問題となり、各国の詳細な報告も届いております。お手元にある資料、S-32をご覧ください。これによると少なくとも日本は…』

 父さんが示した資料に、居並ぶ連中は一斉に意識を集中したようだ。
 完璧に整えているはずの頭髪の何が気に食わないのか、父さんは髪を掻き揚げるような仕草をして手にした資料の説明を始めたようだった。
 何がなんだか…聞いてる俺は、さっぱりだ。
 今日は学会…ってワケではなく、現在、この研究所、製薬会社『レッドロータス』で行われている重要な研究の報告発表のようなものを、100%出資会社である『紫貴電工』の幹部たちが定例で開いているのに参加しないといけないから…と言う理由で、今週は帰れないから研究所においでと言われて足を運んだワケなんだけど。
 助手さんだとか、主要な研究から外れてるチームの面々などが、今後の参考のために傍聴できる、囲うように硝子張りで出来た2階の薄暗い部屋で腰を下ろしたまま聞きながら、俺はどうも耳慣れない話に欠伸すら漏らしてしまう有様だ。

『問題となっている重篤な【生殖異常】の現われはほんのささやかなものであったかもしれません。イボニシの【インポセックス】をはじめ、雌の牡化、牡の雌化…また1980年代にイギリスで発見された雌雄同体の「ローチ」にいたっては、それらが具現化した警鐘の現われであったのではないでしょうか。失礼。さて、このEndocrine Disrupting Chemicalsが齎す影響はそれだけではなく、動物実験の結果等によりヒト精子及び精子形成に悪影響を
与えていると言うことは既に認識されている事実です。また、野生生物で報告されている甲状腺の機能異常、妊娠率の低下、生殖行動異常、生殖器の奇形、脱雄性化、雌性化、免疫機能の低下といった生殖・発生影響は、実験動物においてもこのEndocrine Disrupting Chemicalsの投与によって引き起こされています。もちろん、少量のEndocrine Disrupting Chemicalsの投与により、ヒトに対する影響が現れていることは、学会に於いては既に明らかとなっています』

『ドクター、貴方はEndocrine Disrupting Chemicalsに於ける影響を鑑みて、この「Twelfth」を発表するわけだが、この薬によってどう言った可能性が認められるか説明してもらいたい』

 テーブルに頬杖を着いていた初老の男が、資料を振りながら鋭い双眸で父さんを軽く睨んでいるようだ。
 それがその人の癖なのか、俺はムッとしたけど、父さんはそこら辺は全く無視して、軽い溜め息をコソリと吐きながら頷いて傍らにあるノートパソコンに何かを打ち込んだ。
 モニターに出された俺にはよく判らない図解だとか、数式だとかを指し示しながら、父さんは今携わっている研究について、それが齎す結果を細かく説明しているようだった。

「はぁ~、素敵ねぇ。沖田博士♪」

 ハートマークが飛び散るような溜め息交じりで背後から声を掛けられて、俺は肩越しに振り返ると呆れたように肩を竦めて見せた。

「…美鈴女史。貴女は出ないんですか?」

「出ないんじゃないの。出たいけど出してもらえないの」

 もう!…っと、唇を尖らせた白衣の美人に鼻先を弾かれて、俺は首を竦めながらウハハハッと笑ってしまう。
 この人は、もうずっと、父さんを狙っていたりする。
 俺よりも10歳ぐらい年上なんだけど、実際の年齢は「女性に年齢を訊ねるのはご法度よ」とクスクス笑いながらはぐらかされてしまって、本当の年齢を実は知らないんだよな。

「親父は何を研究してるですか?俺、聞いててもちんぷんかんぷんだ」

「あはは!当り前じゃない。一般人には知らされていない内分泌撹乱化学物質の影響について研究し、その成果としてある薬を発表されてるのよ」

「内分泌撹乱化学物質?」

「ええ」

 綺麗に塗られたグロスに煌く唇はセクシーだし、頭の良さだって女だてらにぴか一だってのにさ、父さんは彼女を後妻に迎えればいいんだ。俺なんか、もう放っておいてさぁ…

「Endocrine Disrupting Chemicalsって言うのはね、内分泌撹乱化学物質のことなんだけど。まあ、一般的には『環境ホルモン』って言った方が判り易いわね」

「ああ、それならニュースで聞いたことがある」

 美鈴女史はクスクスと笑ってから、やっぱりね、とでも言いたそうに肩を竦めて手にしている資料を椅子の上に放り出した。

「凄いわよね、沖田博士。あの『Twelfth』がこの『レッドロータス』から販売されれば、向かうところ敵無し!…って感じだわよ」

「へー、そんなに凄いのか?」

「凄いわよ!なんたって、ホルモン関係の病に爆発的な効力を発揮するの。ううん、なんて言うんだろう?つまりね、地球に全く優しくない化学物質の垂れ流しに因る病気や生殖異常、簡単に言えばインポテンツや甲状腺癌乃至は乳癌、精巣癌なんかを悉く治してしまうのね。応用すれば、あらゆる癌に効いてしまうという夢のような薬ってワケ」

「そ、それは凄いかも」

 思わず呆気に取られて見上げると、腕を組んだまま眼下で繰り広げられる遣り取りを見下ろしている美鈴女史は、どこか興奮でもしているように薄暗い中で、頬を紅潮させて父さんを見詰めているようだった。

「かもじゃないわ。世紀の大発見よ」

「…親父がまた有名になるのかぁ」

 見上げていた視線を床に落として、思わずボソッと呟いたら、組んでいた腕を解いた美鈴女史が小首を傾げながら近付いて来た。

「あら、博士が有名になるのは嫌なの?パパを独占できないから??」

「いや…そう言うんじゃないけど」

 どうしてこう、父さんにしろ美鈴女史にしろ、高圧的に上からモノを言うのかなぁ…思わず反発したくなっても仕方ないと思うんだけど。
 ああ、この人が後妻になったらたぶん俺、家に一秒だって帰りたくなくなるだろうなぁ。
 父さん+美鈴女史だぜ。
 どこの研究施設よりもおっかないと思う。

「心配しなくてもいいわ。この研究はあくまでもまだまだ未完なのよ。今は『レッドロータス』内のみで沖田博士によって研究されているだけの極秘的な薬なの。だから、今回の発表は途中経過の報告のようなものね。それを見学することができる研究員、もちろん私も含めてだけど、彼らはみんな、今後の『レッドロータス』を担うと目されているエリートたちよ。それで判るでしょう?どれほど秘密裏かってこと」

「そうだったのか…」

 美鈴女史は口許に薄っすらと微笑を浮かべたままで、腕を組みなおすと、食い入るように一連の質疑応答を終えて退場しようとしている父さんを息を潜めて見詰める連中を眺めながら、よく聞けば度肝を抜くようなことをサラッと言ってくれたんだ。

「あら、博士の発表が終わったようね。見てみなさいよ、光太郎くん。あの紫貴電工の幹部連の満足した顔…これで、博士のこの研究所での地位は確立したも同然だわ」

「…よく判らないんだけど。親父は副所長だし?別に地位はもうあるんじゃ…」

「甘いわね」

 クスッと鼻先で笑われてしまうと、25だって言うのに適当に子供扱いされてるよなぁとガックリしちまうよ。
 そりゃあ、ここにいる連中はトップクラスのエリートさまたちですよ?俺なんかじゃ、到底お呼びにもならない秀才揃いだろうけど、それでも俺は、父さんのようにこんな場所で働きたい…なんてことは、これっぽっちも思わない。
 美鈴女史を見ていても判るように、どこか狂気的に、研究なんて言う地位に固執しているようで気味が悪い。

「副所長の次は所長になることじゃない。沖田博士は、紫貴電工から来たお飾りの所長なんかとは比べものにならないくらい、確固たる実力を兼ね備えた方よ。それなのに副所長なんて…どうかしてるって思わないの?」

「はぁ…俺は別に、胡散臭い研究に没頭できるんなら副所長でも所長でも、親父には一緒じゃないかって思うけど」

 それになんてたってあの人は、莫大な給料を貰ってるし。
 そのおかげでまあ、今頃は薄給でピィピィ泣いてるはずの俺が悠々自適にDVDとか借りて、大型テレビの前に寝転んで映画が観られてるんだ…文句は言えないけどさぁ。

「んもう、光太郎くんには野心ってものがないのね。男としての魅力がなくなっちゃうわよ?博士の息子さんだって、どうしても思えないんだけどなぁ」

「…う」

 男としての魅力がない…いくらオールドミスの美鈴女史、と、これは失礼か。それでも女性に言われてしまうとやっぱり自信がなくなっちまうなぁ。
 それってやっぱり…その、男に抱かれてるせいだからだとか…うわ、俺ってば何を考えてるんだ。
 思わずしょんぼりしそうになった時だった、ふと、ふんわりと嗅ぎ慣れた優しい白檀の匂いがして、ハッとした時には背後から父さんが俯きがちになる俺の肩を掴んでいたんだ。

「待たせてしまったかな?」

「…親父」

「沖田博士!」

 俺の言葉尻に被るようにして美鈴女史が割り込んでくると、父さんはやんわりとした優しげな微笑を浮かべて、まるで今気付いたとでも言うように首を傾げたんだ。

「ああ、橘くん。これから瀬口の研究発表がある。君と似たようなテーマを扱っているようだし、是非とも見ておく価値はあると思うがね?」

「あ、ええ。でも、博士の研究にも感銘を受けましたわ。宜しかったら、この後、私に講義して下さらないかしら?」

 さらりとあしらおうとする父さんに食らいつく美鈴女史に、冷徹な怒りを縁なし眼鏡の奥に隠しながら、ちょっと困ったように笑って肩を竦めている。
 獲物に食らいつく女の怖さを知らなさ過ぎるよ、親父。
 女って生き物はな、一度決めたら諦めない、兎角美鈴女史なんて鑑のような人なんだぞ。
 諦めて今日は女史に付き合うべきだ。

「何事にも関心を持つのは良いことだよ。だが、君の分野は比較行動学に基づくものだろう?せいぜい、精進したまえ。光太郎、おいで」

 そんなことを考えていたら、父さんはにっこりと魅惑的な微笑で美鈴女史を釘付けにしてから、何事もなかったようなアッサリした調子で俺の腕を掴んで薄暗い部屋を後にしたんだ。
 うわ、なんか、親父の知られざる一面をまたしても垣間見たような気がする。
 こんなに面白いんなら、意地なんか張らないで高校の頃からここに来てればよかった。
 あれじゃあ、美鈴女史は振られても振られても、猛然とアタックしちまうわな。

「親父は罪なヤツだ」

「…え?」

 俺が何を言ったのか理解できないとでも言いたそうな顔付きをした父さんは、それまでちょっとだけ寄っていた眉をふと和らげると、やっと面倒臭い会議から解放されたとでも言うように安堵した顔をしたんだ。
 そんなに嫌なのか。
 ああ、でもそうだよな。
 父さんは研究に没頭したい人なんだ、人前で偉そうに舌を振るうのなんかお呼びじゃないんだよなぁ。
 疲れたように、小さく溜め息なんか吐いてるのを見ていると、やっぱり父さんは所長とかに野心は持っちゃいないよと、美鈴女史に言ってやりたくなる。

「なぁ、そう言えば。瀬口さんってどんな研究をしてるんだ?美鈴女史と似たような研究って言ってるし…あ、でも俺が聞いても判らないけど」

 ポリポリと腕を引かれたままで頭を掻きながら訊いたら、父さんはいつものように小さく笑いながら答えてくれるとばかり思っていたのに、今日の父さんは違っていた。

「…瀬口の研究が気になるのかね?」

「は?あー、うん。そりゃあ、まあね」

 瀬口さんの研究ってのは人間行動学に基づく…って確か父さんが言ってたし、その名称はちょっとだけ聞いたことがあるから、どんなものか興味もある。
 人間をボーッと観察でもしてるんだろうか…ってね。

「父さんの研究はわけが判らないと言って聞こうとしない、お前がね」

 嫌味ったらしく見下ろしてきた父さんの、そのいつもと違う髪形だとか服装だとかが奇妙な凄味になって、思わず俺は立ち止まりそうになってしまった。
 双眸を細めて、俺の中にある真意でも見定めようとしているその目付きが、鳩尾の辺りをゾワゾワさせるから…つい溜め息が出てしまう。

「俺を両性具有体にしようとしてる親父の研究なんて、ワケが判らなくて当り前だろ?あの『Twelfth』って薬の実験だったんだろ、俺に飲ませてたし」

「いや、違うよ」

 父さんはムゥッとしながらも、それでもふと笑って、俺と肩を並べながらポツポツと語ってくれたんだ。

「あんなモノは連中の目を晦ます下らないお遊びに過ぎない」

 頬を紅潮させた美鈴女史がその薬を天才の産物だと褒め称えていたって言うのに…いや、俺だって女史から聞いた時には純粋に『スゲー!』と思っちまったんだ。なのに、父さんは、この面倒臭そうにネクタイを緩めているこの人は、その世紀の大発明だと女史に言わしめた薬を、ただのお遊びだと言い放ったんだ。
 環境ホルモンと言った人為的なモノが齎せたあらゆる病気を、悉く治してしまうと言う薬。
 いったい、どれだけの人がそれを待ち望んでると思ってるんだ!

「親父…!」

「私が本当の目的で研究しているのはね、そんな容易いものではないよ」

 抗議しようとした途端、不意にガクンッと力強く腕を引かれてしまって、思わず父さんの胸に倒れ込むような形で空き部屋らしき場所に連れ込まれてしまった俺は、呆気に取られたようにその顔を見上げてしまう。

「あの『Twelfth』は『K-12』の副産物に過ぎないのだよ。私はね、『生殖異常』に着眼したんだ。そこで、見つけ出した原因物質を解明し、『K-12』を発見した。驚いたよ。その矢先に母さんが亡くなって…これはもう、天啓だと思ったのさ」

「…『K-12』ってなんだよ?」

 話が見えなくて首を傾げていると、俺をやんわりと抱き締めてきた父さんがやわらかくキスしてきた。その口付けはうっとりするほど優しくて、俺は嬉しくて忍び込んでくる舌に舌を絡めてそれに応えていた。
 上手にはぐらかす父さんのいつものことだから、これは言いたくないことなんだろうな、まあいいか、今はこの優しいキスに騙されてやろうって思ったのに…俺を追い詰めることもなく離れる濡れた唇は、俺が知りたがったことをキチンと教えてくれたんだ。

「以前にも話したように、遺伝子レベルで両性具有体になることのできる物質だよ」

 いつも嘘ばっかり吐く父さんの唇は、どうやら今度ばかりは本当のことを言っているようだと理解できたけど、その言葉の意味までは判らなかった。

「…俺は『Twelfth』の方が社会に充分貢献できると思うんだけどな」

「社会に貢献?そんなつまらないことの為に私は研究をしているのではないよ。お前を、光太郎を愛しいと思い始めたのはお前がまだ2歳の時だった」

「へ?」

 なんか、混乱してきたぞ。
 俺が3歳の頃に死んだ母さんを想って泣いている父さんを叱ったことで、この人は俺を愛するようになってこんなワケの判らん研究を始めたんじゃなかったのか…?

「可愛らしくてね。でも、お前が女の子だったら…などとは、これっぽっちも思いはしなかったよ。そのままのお前で、私の子を孕んでくれればと思ったら、癌などどうでも良くなった」

 いや、寧ろ子供を孕むとかそっちの方がどうでも良くなるんじゃないのか、普通は。

「き、切欠は…」

「弥生が亡くなる前からどうしようもなく、お前を愛してしまっていて…だから、私はこの研究を始めたのだよ。光太郎に苦痛を与えずに具有体になる方法。20年以上も費やしてしまったが」

「だって、親父は母さんを愛してたから…無気力になって、それで…」

 もう、何がなんだか。
 いきなり、こんな告白をされるとは思っていなかっただけに、免疫もなければ身構えることもしていなかったから、俺は熱を出した人のようにグラグラと天井が回るような錯覚を感じていた。

「愛しているよ、もちろん今も。だがね、それ以上に愛しいと思う人を見つけてしまったのだよ」

 父さんはそう言うと、混乱している俺の耳の下あたりに唇を寄せて、やわらかく吸い付いてきた。

「…ッ」

 思わず上がりそうになる声を噛み締めて、俺は抱き締めてくる白檀の香りに酔いながら、その背中に腕を回してしがみ付くようにして抱き締め返していた。

「弥生が亡くなったとき、これは天啓だと思った。あまりにも幸運なことが起こり過ぎて、私は少し自失してしまっていた」

「ッ!…こ、幸運?母さんが死んだのにッ!?」

 父さんの愛撫に流されそうになっていた俺は、その言葉にハッと我に返ると、思わずその胸倉を掴むようにして覗き込んでくる感情を窺わせない冷たい双眸を見上げたんだ。

「幸運だよ。これでもう、弥生は私から離れないし、彼女があれほど懸念していた年を取ることもない。老いの恐怖から離脱した彼女の空っぽな肉体は滅んでも、弥生はもう、私以外の誰をも愛することができなくなってしまった。もちろん、お前のこともね」

「…お、親父」

 ハッとした時には遅かった。
 冷徹に無表情に見下ろしてくる父さんは、電光石火のような素早さで足を払うと、そのまま床に倒れ込んでしまう俺に圧し掛かりながらクスクスと笑うんだ。

「彼女もね、お前を愛してしまっていたから、私たちはお互いに恋敵でもあった。不思議だね、恋焦がれた者同士だと言うのに、私たちは反目するようにお前を取り合っていたのだ」

 忙しなく這い回る熱い指先がシャツの裾から忍んできて、俺はヒヤリと冷たい空気に晒された胸元に、今更ながらハッとして抵抗を試みようとしたんだけど…できるはずもない。
 だって、俺の身体で父さんが触れてないところなんてもう、どこにもないんだ。
 感じる場所も、うっとりするほど気持ちよくなることも…愛しいと想うことさえ全て、俺の世界は父さんなんだから、抵抗なんて出来るはずもない。知っていたけど、妙な世間体とかが邪魔をして、俺はいつだって父さんを素直に受け入れることができないでいる。
 こんなに、病んでしまっている俺の父さん。
 でも、愛してくれていることに間違いはないのかな。

「だから、弥生よりも分の悪い私は考えてしまったのだよ。とても、下らない、他愛のないことではあるんだが…私も必死でね。お前が成長するたびに、急がなければと気を揉んでしまった」

「年を食ったら役に立たないって?」

 憎まれ口を叩きながらもその頬にキスしたら、もう乱れてしまった前髪の隙間から、光を反射させる眼鏡が父さんの感情を隠してしまっている。
 こんなモノで何もかも隠したまま、それが真実なんて認めてやらない。
 そんなつもりで伸ばした指先で弾くように眼鏡を外したら、心臓が高鳴るって言うのはこういう状況のことを言うのか…と、馬鹿みたいに考えている俺を、男らしい野性的な目付きをしているはずの父さんの、その驚くほど優しさを秘めた双眸が見下ろしていたんだ。

「そうじゃないよ。光太郎が誰かを愛しはしないかと不安で仕方なかった」

「親父が?不安??…信じられないよ」

「私はロボットじゃないよ。感情もあれば、不安だって感じる。だから、私はお前を抱いたのだ」

「…それが、信じられないんだよ」

 信じられるかってんだ。
 いきなり12の夏に、少年自然の家から戻ってくるなり犯されたんだ。
 犯された…ってのは語弊があるかもしれないし、俺は父さんを犯罪者にしたくはない。いや、もう充分、立派に犯罪者ではあるけども。
 ガキの頃から下腹部を悪戯されていたし、帰るなり死人みたいな面をして抱き締めてきた父さんの、そのあまりにも悲愴が漂っている姿には、なんだか凄く悪いことをしてしまったような気がして、ついつい、促されるままに全てを許してしまっていた。
 流されたのかもしれないけど…それでも、まるで溺れている人みたいにすがり付いてくる父さんの熱い指先も、侵入されたときの激痛も、忘れたワケじゃないけど、思い出せばいつだって胸の辺りが苦しくなっていた。
 だって俺、本当は嬉しかったからな。
 でもそのあと、父さんがあの微かな嬉しそうな笑みを浮かべて「してやったり」みたいな顔をしやがったから、騙されたと思ってガックリしてしまったってのに…今更、アレが全部本当のことだったなんて言われても信じられるかよ。
 俺の純潔を易々と奪ったくせに、全てが不安だったって?
 父さんのそれが不安なら、俺なんか七転八倒してあまりの不安に恐怖すら覚えてるに違いないっての!

「信じておくれ。私は、もうお前なしでは生きることすらできない。確かに、弥生が亡くなったときにも感じたように、いやそれ以上に、全てが無意味で、明日の光すら見えなくなってしまうのだから」

 父さんはまるで切実だとでも言わんとばかりに、悪戯しているはずの俺の身体をぎゅうぅっと抱き締めてきたんだ。息苦しさに耐えながら見上げたその顔は、長い睫毛の縁取る瞼の裏にあの鮮烈な双眸を隠したまま、切迫した雰囲気が頬を緊張させていた。

「…親父は、俺を、俺のことを愛してるのか?」

「もちろんだ。愛しているよ、光太郎。この心を見せてあげられたらいいのに…もうずっとね、お前に夢中だよ」

 囁くように呟いて、父さんはゆっくりと俺にキスをしてくれた。
 母さんを愛している父さん。
 その想いは確かに変わってはいないんだろうけど、それ以上に、俺を好きだと言う父さんは…心を壊してしまったのかな。
 息子を愛してしまう父親なんかいない。
 娘だったら、判る気もするけど…そんなの、どちらにしてもヘンだ。
 俺の父さんはきっとおかしい。
 どこかで何かを履き違えてしまったに違いないんだろうけど、それでも。
 ああ、それでも。 
 俺、嬉しいって思ってる。
 俺だって、すげーおかしいのかもしれない。
 でも、俺も。
 俺だってもうずっと、父さんのことしか考えていなかった。
 俺の全ては、父さんだったのに。

「…嬉し、俺…う、うぅ…」

 父さんの首に腕を回して、抱き付くようにして泣きじゃくってしまう俺を、父さんは無言で抱き締めてくれた。でもその腕が微かに震えていて、俺と同じ気持ちを共有してくれているような錯覚に陥ってしまった。
 震えるように抱き締めて、泣きじゃくる俺の背中を宥めるように擦ってくれる父さん。

「お、俺も…父さん、俺も…貴方を愛してる」

 ヘンな家族かもしれない。
 それでもいい、世間が何を言ったって、俺は最初から父さんのものだったんだ。

「光太郎?それは、ホントかい?」

 父さんが震える声で、嬉しそうに囁いた。
 溶けて、このまま自分の中に取り込んでしまいたいとでも思っているような父さんの腕はきつく抱き締めてきて、それだけでも窒息してしまいそうな気がするのに、初めての愛の告白に動揺してしまう俺の気持ちを知っているのか、父さんは囁くように呟いた。

「もう、嘘だと言っても駄目だよ。私は、お前を離さない」

「うん、父さん。俺を離さないでくれ…俺、俺は」

 ヒクッとしゃくり上げて、俺は思い切りぎゅうっと抱きつきながら、これ以上はないってぐらい必死に…後で思い出したらきっと、赤面モノだってことは判っているんだけど、愛の告白とやらをやらかしてしまったんだ。

「俺は…具有体になるよ。それで、父さんの子供を産むんだ」

 だって、それが。
 愛の証ってヤツなんだろ?
 俺にはよく判らないけど、それが間違っているのならせめて、父さんの研究を成功させたくなったんだ。俺の身体で試せばいい、もう俺、たとえ壊れてしまった父さんでも、母さん以上に俺を愛してくれた父さんになら、俺の人生の全てを捧げても、もういいやって思ってしまったんだよ。
 なんだかそれは、早くに亡くなってしまった母さんの想いでもあるような気がして…どうしてそんなことを考えたのかよく判らないんだけど、生きてたら母さん、もう1人ぐらい産めたよなぁ…とか、単純に考えてしまったからなのかもしれないけど。

「お前がいなくなってしまったら、私はどうなってしまうのか判らない。たとえその胎に子供を宿して、その子が産まれたとしても私は、やはりお前を亡くしてしまったら、今度は立ち直れないだろうと思うよ。それほどに、この愛は必死で、より深いのだ」

 父さんはまるで夢遊病者のような心許無い口調で、ポツリ、と呟いた。
 その言葉が何を意味しているのか、頭の悪い俺じゃあ到底理解できないけど、俺の身体をこれ以上はないぐらい激しく強く抱き締めながら、父さんは虚ろに何かを凝視しているようだった。
 その胸の内に渦まくものを混沌とした闇が飲み込むように、何もかもが幸せだと感じて浮かれている俺の、そのささやかで浅はかな想いすらも、何もかも全てを飲み込もうとでもしているように…
 父さんは俺を抱き締めたままで、虚空を睨み据えていた。