8  -ヴァンパイアと真夜中に踊れ-

 長い舌がだらりと垂れて、まるでそれだけが別の生き物みたいに器用に動き回って長い指先の兇器を舐め上げた。
 まるでエルム街の悪夢に登場するクリーチャーの持つ兇器のようなソレに俺が身震いしたことを、動向を敏感に察するデュークがモチロン気付かないはずもなく、ゆっくりと俺を促しながら立ち上がったヤツは剣呑とした表情で醜悪な化け物を見た。
 ピンと尖った大きな耳と人間には有り得ないその鮮紅色の双眸さえなければ、デュークは超美形のモデルか俳優と言っても過言にはならない、充分人間に見える。俺はてっきり、妖魔やヴァンパイアと言った連中はみんなこんな風貌をしているのかと思っていた。
 でも、本当に禍々しい、お伽噺やゲームに現れるあの魔物の正体が、本当はデュークやアリストアのような綺麗な生き物ではないことを、目の前の化け物が克明に教えてくれる。

『…ギギぎ…』

 耳障りな金属を引っ掻くような音がして、それが化け物の口許から出ていることを知るのに数分掛かった時には、ヤツは肥大した頭部を支える筋の浮いた首を奇妙に捻らせて首を傾げると、滑るように光る真紅の双眸で俺たちを一瞥したんだ。

『…ぎぃ…キキキ…で、…デュー…ギシュゥ…』

 何か言おうと言葉にならない声を紡ぐたびに、その唾液なのか何なのか良く判らない分泌物を垂れ流す口許から瘴気のような呼気が吐き出されて、ドライアイスのような煙が宙を漂う。

「…な、んだ、アレ…」

《しー》

 思わず口をついて出た言葉に、デュークの繊細そうな人差し指が制するように口許に触れてきた。

『デュー…くぅぅぅ…きさ…キサキサ…キサマが…なぜぇぇぇッ…こぉこにぃぃ…』

 デュークの名を呼んで、化け物はそれでなくても禍々しい光を放つ双眸に、一種独特な、濡れ光る嫌悪感のようなものを浮かべたんだ。
 この化け物…デュークを知ってるのか?
 壊れたテープレコーダのように同じ言葉を繰り返しながら、やがてそれが、少しずつ明瞭な言葉として発せられるようになる頃には、俺は頭を抱えて蹲りたくなっていた。
 その声が、デュークの直接脳みそに話し掛けてくるようなあの声にでさえ頭が割れるほど痛い拒絶反応が付きまとってるって言うのに、金属を、ともすれば黒板を引っ掻くようなあの不愉快さを伴った声は吐き気がするほど頭にガンガンと響き渡る。
 不意に。
 一瞬だったが、奇妙なズレが生じた。
 ズレ…ってのが何か判らなかったけど、俺は一瞬だったがその声に嫌悪感を持って化け物から目を離した。その時だったんだと思う、気付いたら突き飛ばされていた。

「…ッて!」

 思い切り背後に転がったとほぼ同時に、タスクに受け止められたのか、すぐ真上でヤツの声にならないような悲鳴が聞こえた。
 ハッとした時には、デュークが化け物のまさに振り下ろそうとしていた腕を掴んでいた。その傍らにパタパタ…ッと何かが零れ落ちて、目に見えなくても床に溜まる液体がなんであるのかすぐに判った。
 俺を庇うことに気を取られた一瞬の隙を、狡猾な化け物が見逃すはずもなくて、デュークは生じた隙のせいで左腕をやられていたんだ。ベロンと何かが垂れ下がっていて、それが服の残骸と…皮膚の切れ端だと気付くにはさすがの俺も時間を要してしまった。そんな時間、ありはしないのに。

「デュークッ!」

 自分のせいだ!嫌な汗が背中にびっしりと張り付いて、そのくせやけに寒い室内で冷えていく指先と爪先を感じながら、俺は目の前の惨状が嘘であって欲しいと願いながら名前を叫んでいた。口の中がカラカラになっていて、思うように声にならなかったし、駆け出したい衝動に突き動かされて動こうとしてるのに、タスクにそれを遮られて俺は滅茶苦茶に暴れた。
 でも…

《大丈夫だよ》

 デュークの声音はなぜか平然としていて、お互いで威嚇していたにも関わらず、ヤツは握り締めていた化け物の腕を離すなり背後に飛び退いたんだ。それは化け物も同じで、だがヤツはしたり顔で長い鎌のような爪に付着したデュークの血液を美味そうに紫の長い舌で舐め取っている。

「デューク、ごめん!俺のせいで…」

 いつからそうなったのか良く覚えていないんだけど、俺の涙腺は確か、こんなに脆くなかったはずだ。なのに、今の俺は、デュークの痛々しい腕を見ながら思わず泣きそうになっていた。
 俺さえいなかったら…その言葉がグルグルと脳裏を駆け巡って、アシュリーの時といい今といい、忠告を無視したばっかりにいつも俺は最悪の事態を招いてしまうんだ。
 タスクの腕から身を乗り出すようにしてデュークに触れようとしたら、なぜかヤツはビクッとして、その行為を疎んで嫌がった。

《ボクは大丈夫だよ…でも、光太郎は気持ち悪いかもね》

 ぶっきらぼうにそう言って、油断なく化け物を睨み据えながら、デュークのヤツは腕からべろんと剥げてしまっている服だとか肉だとか皮膚だとかの残骸を毟り取ったんだ!無造作にコンクリの床に投げ捨てて、ビシャッと音を立てて散る自らの肉体の一部に一瞥をくれることもなく、デュークはそれまで折り畳むようにしていた腕を伸ばして肩を回した…ん?折り畳む?
 そこで俺は気付いたんだ。
 触れることを疎んだデュークの真意に。
 デュークの腕は目の前にいる化け物のソレと同じように不気味に長く、滑るような灰色の皮膚に覆われていて血管が青紫に浮き上がっていた。指先の兇器までソックリで、嫌悪感を抱かずにはいられないほど醜悪な姿を晒していたんだ。
 不機嫌そうに眉を寄せるデュークの横顔は拗ねた子供のようで、この緊迫した修羅場には似つかわしくなんかなかったけど、でも、俺はそれでもホッとしたんだ。
 アレは、あの床で鮮血に塗れた肉塊は、アレはデュークの言っていた仮初の姿だったのか。
 だったら大丈夫なのか?
 お前の腕は、剥ぎ取られたんじゃないんだよな?

「デューク、良かった!」

 俺がホッとしてそう言うと、デュークは化け物に成り果てている妖魔を睨み据えながら、それでも呆れたように眉を上げて首を傾げやがったようだった。

《気持ち悪くないの?》

「モチロンだ!そんなことよりもお前に怪我がなくてよかったよ!」

 タスクの馬鹿力を引き剥がすことはできなかったけど、俺は精一杯に身を乗り出してデュークの背中に頷いて見せたけど、それを思念か何かで感じ取ったのか、それまで強張っていた肩から少し力が抜けたようだった。

『…でゅ、デュゥークゥゥゥ…き、キキ…キサマが人間とぉ…共にあるとはなぁぁぁ!!!』

 それまで無言で動向を見守っていた妖魔は、突然壊れかけた人形のような金切り声で大音声を張り上げやがった。
 次の瞬間、妖魔は不可視の力で空気中にある水分を氷の刃に変えて、冷気の波動を投げかけてきやがったんだ!デュークは本性である長い化け物の腕を広げて一振りすると、その波動は霧散するように空気に散ってしまった。

『キキ…きさまハ……にん、…人間を嫌って……人間をぉぉ…』

《うるさいよ。時が経てば時代も変わる、それと同じように妖魔だって嗜好は変わるもんだよ》

 フンッと鼻先で笑うデュークが本性の腕を軽く振って纏わりつく冷気の名残を払うと、妖魔はギリッと歯噛みするようにギザギザの歯をガチガチと鳴らしたが、すぐにニタリと笑った。

《タスク》

 ハッとするよりも先に何かを感じたデュークが行動を起こした、次の瞬間、ガツンと何か固いもの同士がぶつかり合うような音が室内に響き渡った。
 どんな素早さでそれが可能になったのか、人間の動体視力ではとうてい見極めることなんか不可能な素早さで、妖魔はデュークの眼前に迫っていたんだ。図体のでかいその身体のどこに、そんな敏捷さが隠れていたって言うんだ!?
 デュークはそれでもやはり人間には有り得ない可能性で繰り出してきた鍵爪の攻撃を自分の腕で押さえ込んでいた、そしてすぐにその腕を掴んで身動きを封じた…ように見えたけれど、あの凄まじい力でもってしても、妖魔を完全に押さえ込むことは不可能みたいだった。
 それどころか…タスクの息を飲むような気配がして、俺は複雑に交差しているデュークと化け物の対峙を懸命に目で追っていたが、不意に、有り得ない場所に化け物の腕を見つけて絶句しちまったんだ。
 その化け物の腕…それは、デュークの胸を貫いて伸び、俺たちの方に向かって虚空を切
るような仕種をしていた。
 それでなくても蒼白の頬を持つデュークの横顔は、眉根を寄せて額には汗がビッシリと張り付いていた。
 そ、そんなこと、有り得るわけがない。
 デュークが…死ぬ?
 そんな、まさか…

「嫌だ!デューク、嫌だ!死んだらダメだ!!」

 俺は滅茶苦茶に暴れて、一瞬のことで腕の力を緩めてしまっていたタスクの腕から逃れると、ヤツの制止を聞かずに妖魔に殴りかかっていた。硬い肉に俺の拳が鈍い音を立てて減り込んだが、ギシッと軋んだ拳が悲鳴を上げただけで化け物にはイマイチ効いてないよいだった。クソッ!なんだってこう、俺は無力なんだ!
 拳でダメなら足だ!
 俺は回し蹴りと踵落しをお見舞いして臨戦したが、妖魔はやはりビクともしなくて、それどころか俺なんかには目もくれずに、ただ一心に目の前にいるデュークの綺麗な顔を睨みつけながら紫の厭らしい舌で舐めやがったんだ。

《タスク…急いで光太郎を…》

 こめかみから頬に零れた汗が鋭角的な顎を伝い落ちていく。
 充血した双眸はますます凄みを増した鮮紅色に彩られて、こんな緊迫した時だと言うのに、デュークは綺麗だった。言葉をなくしてしまった俺は、背後に近付いてきていたタスクにあっという間に抱きすくめられていた。

「た、タスク!何やってんだよ、お前!?早くデュークを助けるんだッ、俺なんか放って置いていいんだから!早くデュークをっ…」

《ダメよ》

 タスクはキッパリとそう言って油断なく妖魔の動きとデュークの動向に気を配り、俺を抱きすくめたままで首を左右に振りながら後退していく。
 な、何をワケの判らんことを!お前だって妖魔じゃねーか!

《あのデュークが苦戦してんのよ!?アタシが出てどうなるってモンじゃないわ。それどころか、今のアンタみたいに足手纏いになって苦労するに決まってんの!アンタこそ大人しくしてなさい》

 俺は唇を噛んだ。
 タスクの言葉は尤もで、いちいち俺の胸にグサリと突き刺さるから黙って…いるワケがない!んなこた判ってるさ!どーせ俺はひ弱で脆弱な人間だよ。デュークやタスクや目の前の化け物にしてみたら、指先でひねり潰せるぐらいの存在だ。でも、だからって人間を舐めんなッ!
 やってできないことなんかあるワケがねーだろ!?
 俺がもう一度タスクを振り払おうとした時だった。

《大丈夫だよ》

 デュークの声がした。
 あんなに苦しそうなのに、あれほど嫌だった脳内に響く声がいっそ心地よくて、人間なんて現金なモノで、俺はデュークの声音がシッカリしていることに安堵すらしたんだ。
 魔物を睨みつけながらデュークは、真っ赤に濡れたように光る唇の端から、その唇とおんなじぐらい真っ赤な鮮血を一筋零して、俺を安心させるように小さく笑った。

「デューク…」

『…き、きさまハ…おれ、オレノ…さ…サヤネを…』

《グッ》

 俺の言葉に被さるようにして妖魔が金切り声を上げ、デュークの表情が苦悶にギュッと歪んだ。
 貫いた腕をグリッと動かして、だからデュークの胸元からは新しい鮮血が溢れ出していた。

『サヤネをぉぉぉ…殺したオマエがぁぁ!!人間と共にあるだとぉぉぉ!?』

 ふざけるな…とその思念が憎悪を伴って渦巻く殺気として襲いかかる。その瞬間、デュークの真紅の双眸がカッと見開いて、吐き気すら催してしまいそうなその醜悪な妖魔の顔を引き寄せてニヤッと笑いやがったんだ。

『痴れ者シーク』

 不意にデュークの口許から、化け物と成り果てた妖魔と同じ金属を引っ掻くようなあの不愉快な独特の声音が漏れて、俺はなぜかギョッとした。

『あれは優しいが愚かな娘だった。最後までお前を信じた愚かで哀れなあの娘…捨てたのはお前ではなかったか?』

『ぐぅぅぅ…だだ…ダマ、黙れぇぇ!!』

 ズシャッと鈍い音がして、デュークの胸を貫いていた腕が引き抜かれると、夥しい鮮血が辺り一面にパッと散って、紅蓮の花が一瞬だが虚空に咲き誇った。そんな視覚的効果に惑わされていた俺の目の前で、デュークは一瞬だが引き抜かれる腕に誘導されるように前のめりによろけたが、すぐにグッと化け物を見据えて体勢を維持したんだ。
 恐らく、立っていることすら困難に違いないのに…本来ならけして有り得るはずがない部分はポッカリと空洞を晒すように、時折血飛沫がデュークの鼓動にあわせて噴出している。デュークが人間なら…いや、妖魔だとしてもこの深手だ、もう、ダメかもしれない…
 そんなことは嫌だよ、デューク。
 俺はお前が嫌いだけど、死んで欲しいなんて思っちゃいない。
 長くダラリと垂れ下がっている巨大な腕を振り回して言葉にならない音で喚き散らす化け物は、まるで目に見えない戒めに苛まされたように頭を振って暴れていた。地団太を踏んでいるようにも見えるその姿を、デュークは赤金の双眸を僅かに細めて食い入るように見つめている。その双眸が悲しげに見えるのは、苦痛を堪えている顔の、べったりと張り付いている疲労のせいなのか…?

『シーク…下賎にその身を貶めて、探求の末に捜し求めたモノはそんなお粗末なものであったのか?お前の愛した沙弥音の魂は、そんなガラクタでしかなかったのか?』

 デュークは、俺には判らない感情で淡々と呟いた。そして…

『くくく…だからお前は浅はかな猿知恵しかない愚か者だと言うんだ』

 辛辣さに嘲りを込めたその言葉が、妖魔の何を刺激したのか、いや、かなり刺激したに違いないその台詞に、この非常時になんだって逆撫でするようなことをしやがるんだ、お前は!…と怒鳴りたい俺の目の前でヤツはカッと見たくもないほどおぞましい光を放つ双眸を燃え上がらせて、ギッと眦を吊り上げるなり再度デュークに襲い掛かったんだ!

「デューク!」

 あの血の量だと、もう本当に立っているのがやっとに違いないんだ!
 俺はガムシャラに暴れてタスクの腕の戒めを振り解こうと懸命になったし、それをさせまいとするタスクも腹に蹴りを入れる攻撃に眉を顰めながら臨戦しやがったから、俺はただ、ここでこうして指を咥えてデュークが死ぬのを見ていないといけないのか!?
 アイツの次は俺たちなんだッ!ここでボサッと観戦してたって殺られるのが少し延びるってだけのことじゃねーかよ!そんな延命ならお断りだ。俺は精一杯戦って死ぬ方がいい。
 決意した。
 諦めたフリをして一瞬の隙を突こう…ちょうどそう考えた時だった。

《双方そこまで~☆なんちゃって》

 あまりにも緊迫した空気には不似合いの声音が響き渡って、ポカンとする俺の目の前、デュークと化け物の中央の空間からヒョコッと覗いた青い二股に分かれたピエロの帽子。
 あ、あれは…?

『アーク、お前は相変わらず遅い』

 デュークが赤金のようになった双眸でギロッと、中空からヌッと両腕を出して顔を覗かせるふざけたピエロを睨んだ。

《だって面白かったもの。でもまさか、遠き異国の旅人がシークだったなんてね~》

 指先で軽々と妖魔の動きを止めてしまったアークは、血の気の失せたデュークの顎に空いている方の指先を添えてうふふんと笑っている。
 …なんて、場違いで嫌なヤツなんだ。
 俺が呆れたって仕方がないんだろうけど、デュークのヤツは少しホッとしたように息をついた。

《デュークの、伯爵さまの血を汚すワケにはいかない。ここはボクがお相手》

 ニッコリと不気味に微笑んで、アークが指先を回すようにすると妖魔の身体の周りが次第にボウッと発光した。光なのか、それとも空気中の重力が圧縮でもされているのか、空間がグニャリと歪んで妖魔の身体を飲み込むように急速に光が音もなく消えていく。それは一瞬のことで、気付けばアッという間にもとの静寂とした闇が戻ってきていた。
 …なん、だったんだ、いったい?

《ヤバイ。失敗してるかも?ちょっと行ってくる》

 俺が呆気にとられていると、青いピエロは怪訝そうに眉を寄せて暫く虚空を睨んでいたが、ハッとしたように双眸を見開いて慌てたように来た時と同じように唐突に漆黒の闇に滲むように消えてしまった。
 何から何までが一瞬のような出来事で、今までの俺たちの努力はいったい…いや、そんなこたどうでもいい!今はデュークだッ。
 呆れたように溜め息をついたタスクは何時の間にか腕の力を抜いていて、ガクッと冷たいコンクリの床に片方の膝をついて屈み込んでしまったデュークに、俺は思わず駆け寄っていた。

「デューク!おい、デューク!大丈夫か!?」

 額にビッシリと嫌な汗を浮かべているデュークは、釣り上がり気味の切れ長の双眸を僅かに細めて、心配そうに覗き込んでいるだろう俺の顔を見上げて小さく笑いやがったんだ。

《光太郎…心配してくれるの?》

「当たり前だろうが!このヘッポコ妖魔!」

 押さえ込むようにしている胸元は、繊細そうな白い指先を濡らして、吹き出す鮮血が真っ赤に染め上げている。本性を晒してしまった左腕を庇うように身体を傾いでいるデュークは、俺に触れようとして、でもその指先が血塗れになっていることに気付くと苦笑して諦めたんだ。

《アークったらもう!ホントに遅いんだからッ。きっとまた高見の見物してたのよ。根性悪いんだから~》

 タスクがヘトヘトに疲れきったように溜め息をついて俺たちの背後に近付くなり、青いピエロが消えてしまった空間を睨み据えながら悪態をついた。

《アークったら最低。取り逃がしちゃってるよ。馬鹿だね》

《馬鹿はアンタよ》

 呆れたように胸元を抑えているデュークを見下ろしたタスクは溜め息をついて、俺に傍らに退いておくような仕種をしてから屈み込むようにしてその胸元を覗き込んだ。

《全く!自分の血液を代償にするなんて大馬鹿者よ!おまけにおっかない奥様を貰ってるんだから。アタシなんて蹴り5発、パンチ十数発よ?慰謝料でも請求しようかしら》

 ブツブツと本気だとも冗談ともつかない悪態をつきながら、それでも熱心に患部を覗き込むタスクの背後で、俺はハラハラしながらそんな2人を見守っていた。
 そんな俺を、デュークのヤツは真っ赤な口許に笑みを浮かべてジーッと見上げてるんだけど、そんなことに構ってられるかってんだ。

「ど、どうなんだよ?なあ、タスク…」

《やーね、どうして光太郎が死にそうな顔してんのよ?大丈夫、大したことないわ》

 服を掴んでグイグイ引っ張る俺に犬歯をむいて威嚇しながら、タスクはやれやれと呟いて立ち上がるなりそう言ったんだ。へ?こんな重症で、血がたくさん出て、あんなに辛そうにしていたのに大丈夫だと!?エセ診療をしたんじゃねーだろうな?
 こうなったら俺の知り合いの医者を呼んで診てもらった方が…

《大丈夫だよ》

 不意に何度も聞いた台詞が聞こえて、俺はデュークを見た。デュークを見て、ぶったまげた。
 その胸元にポッカリと開いているはずの傷が、あのザックリと抉られていたあの傷跡が、服の下から覗く皮膚に引き攣れたような傷跡を残しているだけで、綺麗さっぱり消えていたんだ。
 俺は思わず屈みこんで、床に膝をついているデュークの服を引っ掴んで乱暴にその胸元を覗き込んでしまった。

「傷が…消えてる?」

《うん。そんな大したことないから、大丈夫だよって言ったでしょ?》

 あっけらかんと言ってるくせに、でも、デュークの顔色は紙のように白い。
 具合が悪くないはずはないって判っているけど、それでも、元気そうなヤツの表情を見ていたらスッと力が抜けちまって、思わずその場にへたり込んでしまった。

《やっぱ、気持ち悪いかな?》

 デュークが心なしか不安そうな表情でそんなこと言って覗き込んできても、俺は相手をしてやれる気にもなれなくて、ただホッとして息をつくしかできなかったんだ。

「や、無事で何より…」

《無事ってワケでもないのよね》

《タスク》

 タスクが散乱してしまっている衣服の残骸を拾い上げながら、本性の腕を晒しているデュークを呆れたように見下ろして呟くと、デュークがムッとしたように名前を呼んだ。

「やっぱり…どっか悪いのか!?」

 俺が慌ててデュークの襟元を締め上げると、タスクがくすくすと鼻先で笑いやがった。

《いいじゃない、奥様なんだから》

 服の残骸を棚に戻して、何やら黒い塊と化したデュークの腕の残骸を拾い上げて始末しながら、タスクは肩を竦めて膝をついている妖魔の反撃の双眸なんかどこ吹く風と言った感じで全く相手にせずに言い放つから、それはどうやら、俺によってどうにかなる類のことらしい。

「なんだよ、デューク。俺でできることなら何だってしてやるぞ?」

《ああ言ってるんだし…》

《やだね》

 デュークが子供のようにプイッと外方向く。
 その顔を引っ掴んで無理矢理こっちを向かせて引き寄せると、俺は歯をむいた。

「何を駄々こねてんだ、このスカンチン妖魔!身体大事に、命大事に!がモットーだろうがよッ」

《それは人間だけでしょ…はぁ》

 デュークは拗ねた子供のように下唇を突き出して言ったが、踏ん張る俺に諦めたように溜め息をつきやがった。なんだ、その態度は。この俺様がわざわざお前なんかの為に一肌脱いでやろうって言ってやってんのに!

《有り難いけどね…ボクは、もう二度と光太郎から血を貰おうとは思っていないもの》

「…血?血が欲しいのか?」

《軽蔑するでしょ?》

 即答に、不安交じりの複雑な感情が交じっていて、それでなくても晒したくもなかった本性を無様に晒してしまってバツが悪いってのに、よりによって血液が欲しいなんてどんな口で言うんだと、デュークの金と赤の微妙な色合いを持つ不思議な双眸が不機嫌そうに物語っている。
 血…血か。
 吸血鬼なんて言うなと言ったデュークは、やっぱり吸血鬼だったのか…

「そらみろ。やっぱり吸血鬼だったんじゃないか!」

 関係ないとは思いながらも、コイツに犯られちまった時のことを思い出して、俺は自分の首筋に触れながら胡乱な目付きでデュークを睨んでやった。

《別に…ボクは吸血鬼じゃありません…なんて言ってないよ?》

 キョトンとしてデュークのヤツが首を傾げるから、俺はよくよく思い出したんだ。
 コイツはなんて言ってたっけ?

(吸血鬼!?よして。吸血鬼になんかするワケないでしょ?)

 …だったっけ?
 うう…ホントだ。コイツは別に自分は吸血鬼じゃない、なんて一言も言ってねぇ。
 探偵業に就いているくせに物覚えの悪い自分の頭を恨めしく思いながら、俺はうるうると涙を堪えてデュークのヤツに言ってやった。

「判った。だったらとっとと俺の血でよけりゃ吸っちまえ!」

 おお!今日の俺はなんて仏様なんだ!
 タスクは呆れたように俺たちの遣り取りを見物していたが、馬鹿らしいと思ったのか、肩を竦めて《事務室に行ってるから好きにしてなさいよ》と言って立ち去ってしまった。
 その後姿を見送っていたデュークは、不意にちょっと意地悪な顔をして俺を見ると小さく笑ったんだ。

《タスクがいなくなったよ。逃げ出すなら今がチャンス!…って思わない?》

 その途端、俺はハッとした。
 そうだ。
 俺はずっと逃げ出すことばかり考えていた。運が良ければ今日だって逃げ出してやるんだって…デュークは血液不足で力が出ないんだろうし、あのおねぇちゃん言葉が様になる妖魔もいない。
 本当だ、全くもって今がチャンスって感じじゃねーか!
 俺は散乱しちまった室内を見渡して外に通じるドアが弾き飛ばされていることを確認すると、それから、傷付いて、外見的には平気そうにしてるくせに、内面的な部分でかなりのダメージを被っている妖魔を見た。
 本性の末端が曝け出されている双眸は、いつも見るあの金の綺麗な瞳じゃなくて、爬虫類が、特にイグアナが持っているだろう、あの金に赤の縁取りのある独特な目で、俺をただ静かに見守っている。
 逃げるか、このままここに残るのか?
 …決まってる。結果なんてたった1つしか弾き出せないのが、人間の無能な頭が弾き出す答えだ。
 それも自分に一番有利な道を選ぶしかない、腐りきった人間の出す答えなんかただ1つ。
 俺が逃げ出そうとしていることを、ずいぶん前からこの妖魔は知っていたんだろう。
 事の成り行きに任せながら、いつかそのチャンスが来たら、俺を手放すつもりでいたのか?
 言葉の端々にあったあの躊躇いのようなものは、いつか俺を手放す時に、自分の理性が収まるだろうかと心配していたんだろう。だから、敢えて自分が傷付いたこの時を狙ったんだろうな。
 馬鹿なヤツだ、お前って。
 もともとヘンなヤツだとは思っていたんだけどな、タスクが言うように馬鹿なのはお前の方だ。
 やれやれと、俺は溜め息をつく。
 溜め息をついて、袖を捲くった腕を差し出した。

 《…光太郎?》

 デュークが、ヤツにしては珍しく困惑したような表情を見せて首を傾げやがるから、俺はその口許に強引に自分の手首を押し付けてやったんだ。

「俺もとことん自分が馬鹿だって思うよ。そら、吸えよ!」

 一瞬、怯んだようにデュークは俺を見たが、それから、クスッと笑って目を閉じると俺の手首に口付けたんだ。

《手首なんか噛まないよ》

「首筋か?いいぞ、ほら」

 そう言って咽喉元を晒すと、デュークは抑えがたい欲求に耐えるように開いた目をもう一度閉じて、それからゴクッと咽喉を鳴らしたんだ。かなり餓えているし、理性の限界も近そうだと鈍い俺にも良く判った。殺されるかもしれない…そんな考えがチラッと脳裏を過ぎりもしたけど、それでも仕方ない。俺はこの妖魔を見捨てられないんだ。

《…ボクは、もう二度と光太郎から血は吸わないって自分に誓ったんだよ。あんなに嫌がることを、愛するヒトに強制するのはよくないって》

 震える吐息が頚動脈のすぐ上の皮膚に触れて、俺はなぜかギクッとした。
 怖い。
 血を吸われることにモチロン慣れているはずもないこの俺が、平気でいるってのもおかしな話だ。ましてや前回吸われた時だって、意識がなかったのが救いだったってのに…
 それでも、ふわりと片腕だけで抱き締められると、デュークのひんやりした身体が沸騰しそうになった俺の意識を冷静に引き戻してくれて、まあ、いいかって思えるように落ち着いた。
 どうせ、1回吸われるも2回吸われるも一緒じゃねーか。
 吸血鬼にならなきゃ…俺はアシュリーと逢える。
 甘い考えかもしれなかったけれど、俺はそれでもやっぱり、デュークを見捨てることもできないんだ。

《ボクは…もう二度と。沙弥音の二の舞を見たくないのに…なんて罪深い》

 そう言って、デュークは目を閉じた。
 泣いてるような仕種に俺はどうしてそうしようと思ったのかよく判らないんだけど、片手を背中に回して、もう片方の手でその頭を抱くようにして首筋に押し付けていたんだ。

《光太郎…ごめんね》

 呟きが終わるか否かの時だった。
 デュークの口許に煌く犬歯が牙をむき、鼻にシワを寄せたヤツは妖魔そのモノのような禍々しい相貌で俺の首筋に喰らいついたんだ!

「…ッ!…ぅ、……ぐッ!…あ、……あぅ!」

 メリメリ…っと、皮膚を切り裂いて肉を貫く刃のような牙は、お目当ての頚動脈を噛み切るようにして切り開くと、溢れ出した鮮血を舌を蠢かして咽喉元に流し込んでいく。その行為は、身体中を切り裂かれるような苦痛と、初めて抱かれた時に感じたあの激しい激痛を思い出させ、俺は歯を食いしばりながらデュークの背中を引っ掻くようにして力任せに抱きついていた。
 漏れる声は苦痛と痛みと…快楽めいたものに犯されていて、なぜか、認めたくはないのに淫らな喘ぎ声そのものだった。
 不意に酩酊感のようなものが襲ってきて、頭の芯が痺れるような、フワフワとした夢見心地に足が地に付かない感じがしたが、そのすぐ後にスパークする閃きのようなモノを感じていた。これは一種の性行為のようで、アリストアが言っていた、官能的なキスの意味を我が身を持って思い知ってしまった。
 官能的な口付けを施すデュークは、一心に何かを見つめるように虚空を睨みつけていて、時折俺の鼓動に合わせて脈打つ血管から牙が外れそうになるのを噛み締め直したりしながら、血液の甘い味を思う様堪能しているようだった。

「…ん、…うぁ……ッ、…あ」

 淫らな快楽に犯されていく脳に比例するように、俺の下半身には失っていくにも関わらず、血液が集まっていた。感じていたんだと思う。
 デュークの牙は収まりがいいように体内で蠢いて、その行為に従うように快楽が官能の灯火を脳裏に打ち込んでいく。冷たい牙は、以前抱かれた時に体内に受け入れたあの、熱い楔を思い起こさせるには充分すぎるほどの刺激だった。

「デュー…」

 呟きかけた名前は結局最後まで言えず、朦朧とする意識のなかで、唇に触れる甘い血の味を感じていた。
 俺は結局、デュークに血を吸われながら、そのまま気絶してしまっていたんだ。

◇ ◆ ◇

 気を失っていたのはそんなに長くはなかった。
 ペロリと傷口を舐められる感触で、霞みのかかった両目を開いて自分がどうなっているのか確認しようと、朦朧とする頭を振ったところで、デュークの聞き慣れた声がしたんだ。

《光太郎?大丈夫?》

「…デューク?大丈夫なのは…ッ、お前の方だ」

 憎まれ口が叩けたのは自分なりに天晴れだと思うけど、喋るたびに咽喉元が引き攣れるような感じがするのは…やっぱりアレが夢じゃなかったってのを物語っているんだろう。オマケのこの頭痛と眩暈は…

《ごめんね、また無理をさせちゃったみたい。見境なくなるね、光太郎の血はとても甘いから》

 そんなゾッとすることを言いやがる元気そうなデュークの腕の中で俺はホッと息をついたけど…ん?両腕がある。ってことは、もう随分と大丈夫なようだな。
 あーあ、これで俺はせっかくの逃げ出すチャンスを失ったってワケか。

《ちょっと残念?でも、ボクは。光太郎が逃げ出さなかったことがとても嬉しくて。思わず犯っちゃいそうになりました》

 エヘッと笑われても困る。
 なんてヤツだ、クソッ!この次は絶対に逃げ出してやるからな!
 そう思いながら、俺はなんか凄く体力を使った後のようにヘトヘトで、抱きかかえてくれているデュークにそのまま体重を預けながら溜め息をついたんだ。それぐらいはさせろよな~、ったく。
 一時はどうなることかと思ったけど、コイツが無事でよかった。
 判らないことだらけで、聞きたいことは山ほどあるし…血をやったんだから情報ぐらいは貰っとかないとな。ギブ&テイクってヤツだ。

《光太郎、ありがと。嬉しかった》

 子犬…と言うにはデカすぎて凶暴すぎるけど、犬のように額を摺り寄せてきてご機嫌に笑うデュークに、俺はくすぐったくて首を竦めながらその片方の袖が引き千切られている服の襟元を引っ掴んだんだ。

「やい、デューク!探偵ってのはギブ&テイクだと相場が決まってるんだ。血をやったんだから、俺の質問に答えろよ!」

 ポカンとしたように、いつもの金色の双眸に戻っているデュークは目を丸くしたが、次いで、ムッとしたように唇を尖らせた。

《なるほど。情報を聞くために血をくれたってワケだね》

「当たり前だろ!?情報のためなら血ぐらい幾らでもくれてやる」

 貧血起こして頭がクラクラしてるけど…

《…命懸けだね》

 デュークは困ったようにちょっと苦笑して、仕方ないなぁ…と呟いた。

《問題はきっと【遠き異国の旅人】のことで、シークの正体ってワケでしょ》

「ああ。なんか…その、お前の知り合いなんだろ?」

 デュークの腕に凭れていないと満足に座ることもできないぐらいの量をくれてやったんだ、それぐらいの価値がある貴重な情報を提供しろよな!…ってか、俺ってばいつもこんな手段で情報をゲットしてるような…気のせいだ。うん、気のせい。

《それにはまず、ボクとアークとシークの関係を話さないとねぇ…》

 いつものピエロのあのふざけた化粧をしていないのにデュークの肌はもともとから綺麗なのか、女の子がどんな手段を使ってでも手に入れたいと思うような染み1つない肌は、吸収した血潮で生気を取り戻しているようだった。

「それと、サヤネだ」

《…そこまで聞いてたの?恐るべし地獄耳。さすがは探偵さん》

 ムッとした不機嫌そうなツラをして、スマートではない厭味を言ってのけたデュークのヤツは、それでもポツポツと話し出した。

《どこから話そうかな?たとえばそうだね、まだ倫敦にガス灯があった時代。19世紀の初頭のお話なんかどう?》

 陽気な語り口調、でも…
 本当に話したくなかったのか、話すという行為を明らかに疎んでいるようなムスッとした表情をして、デュークは遠い昔に起こった、俺には判らない出来事を、思い起こすように懐かしむように双眸を細めたんだ。

《悲しい悲しい妖魔のお話。ねえ、人間の光太郎。覚悟して聞くんだよ》

 そう言ってデュークは、貧血でクラクラする俺に口付けてきた。
 突発的なことでギョッとする俺に、デュークはしてやったりの顔でクスッと笑う。
 クスッと笑って、何かを断ち切るように硝子の弾けた電灯が並ぶ天井を振り仰いで、遠い、俺が生まれるよりももっともっと遠い昔の、誰も知らない妖魔たちの話を始めたんだ…