1  -乙女ゲームの闇深さを知ったのは転生してからです。-

 蜂蜜を溶かしたような陽光を弾く黄金の髪はやんわりと柔らかく心許ないように縺れて豊かに背中を覆い、勿忘草を閉じ込めたような澄んだ水晶の煌めきを宿す不安げに揺れる双眸、縁取る睫毛は緻密な金細工の繊細さで、熟れきらない苺のような瑞々しさを湛えた唇からちらりと覗く真珠の歯…うん、知らないようでアホほども見せられたからよく知っているスチル通りの美しさだなこんちくしょう。
 頬なんて薔薇色なんだぜw
 とは言え、俺は乙女ゲームの乙女しか知らないし、妹ほどやり込むとかワケ判らんし、言わせてもらえればパズルゲームでお腹いっぱいな普通のおっさんだ。
 妹がこのキャラはゲームの中で一番綺麗なのに一番悲惨だと言って、アホほども登場スチルとやらを見せてくれたんだわ。
 だから顔だけは覚えてる。
 だが、ここでものすごく大事なことを言っておくぞ、俺はその乙女ゲームのタイトルも内容も知らない。タイトルも内容も、なんだったらこのキャラの名前すら知らんのだ。
 大事なことだから2回言ったけど、まあ、だからと言って桶の上にある鏡を何時間見てたって始まらないワケだし、おおかた、ストーカー被害に遭ってた同僚を庇って受けたストーカーからのナイフが決まった肝臓のせいでダイしたのは薄々判る。だが、だからと言って妹にアホほども見せられた登場スチルしかご縁のない乙女ゲームとやらの世界に、まさか転生するとか思いもしないだろ?
 あれ、でもこれ本当に乙女ゲームの世界なのか?
 判んねーな、だいたい、さっき棚から落ちてきた瓶で頭打って前世?の記憶みたいに思い出したところで、過去のコイツの記憶も薄らぼんやりとはあるけど、殆ど俺の記憶だからな。
 だから、コイツの名前とか知らねーんだわ!!
 ぐ、ぬぬぬ…だけどまさか、女に転生してるとか思わねぇし、だったら前世?いや、俺の記憶とか思い出さなくていーよ。
 両手で頭を抱えてたって仕方ねーよな、取り敢えずベッドにでも座るか。
 コイツの薄らぼんやりとした記憶では、子供の頃にこの森に…そうそう、今俺がいるのは森深い場所の開けた場所にポツンと建ってるログハウスのような小屋だ。
 薬草とか液体の入った瓶とか、木製の古びたテーブルに椅子は一脚、ちょっと軋る木の床、冬がくればストーブがわりにもなるんだろう鍋がかけられる石造りの暖炉、仕切りがないままに置かれている素っ気ないけどふかふかの布団があるベッド…小ぢんまりとしてはいるけど、都会の生活で腐ってる俺にとってはなかなかいい感じの家だが、コイツは此処に子供の頃から住んでいたらしい。
 ほんの小さなガキの頃に、この森に捨てられたんだそうな。
 この綺麗な顔で売られることもなく捨てられたってことは、コイツを捨てたヤツ、たぶん親なんだろうけど、きっと最後の情けだったに違いない。
 運が良ければこの森に棲む魔女に拾ってもらえれば…なんて無責任に託したんだろう。
 まあ、奴隷として売らなかっただけちっとはマシだろうけど。
 思惑通り魔女に拾ってもらったおかげで、薬師として生計は立ててたみたいだしな。
 記憶は薄らぼんやりしてるくせに、スキルは覚えてるんだから少しは良かったよ。俺の記憶になっても粗方の薬造りの知識は知ってるようだ。
 はぁ…兎も角、妹の言ってた乙女ゲームの世界かはまだ判らんが、この見た目の女がこんな森にいるってバレたら大事になりそうだから、髪でも切って野郎のフリでもするか。
 いや、心は立派な野郎だけどな。
 スクっと立ち上がって、使い込んで飴色になっている手触りのいいテーブルの上に無造作に投げ出されている鋏を握って、俺はもう一度洗面用と思しき桶の前に立ってムッツリとした美人を鏡の中に見据えながらゴージャスな蜜色の髪を無言で切り落とした。
 サッパリとショートカットにしたかったけど、切り揃えるなんて高等技術のない俺だぜ?肩まで切って諦めた。
 乙女ゲームと言ったら妹の話では中世ヨーロッパ系が舞台になることが多々あるらしいし、この家を見ても、魔女とか薬師って言葉からもそれっぽいファンタジー世界に違いなさそうだから、そんな場合だと髪は女の命だろ?
 お貴族様とか髪は縦ロールが基本だろ?ってワケで、肩まで切ってりゃそれだけで十分男だって思われるだろ。あとは貫頭衣みたいなこの服をどうにかして、ズボンを手に入れたら完璧だ。
 よし、今日はもう寝よう。
 おっさん、何が何やらでお腹いっぱいなんだわ。
 まあ、あとは起きたら考えよう。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 …おっさん、乙女ゲームのキャラって言ったら普通に女だって思うんだよ。
 朝起きたら朝勃ちでおっきしてた。
 股間のぶら下がりに馴染みすぎてて気付かなかった…髪とか切る必要なかったな。
 お前、野郎かよ?!早く思い出せよ、無駄な労力使っちゃっただろ!…はあはあ、まあいいや。
 ベッドに寝たまま両手で顔を覆っていたけど、溜め息を吐いて早々に諦めた。おっさんになると諦めも早いんだわ。
 こうなったら普通にズボンもあるだろってベッドの下にある物入れを漁ったら、案の定、Tシャツみたいな上衣とズボンとベルトがあって、それから軽く羽織れるローブみたいなのも見つけた。
 早速洗面と歯磨きして着替えたら、床に散らばる綺麗な蜜色の髪を片付けて…これ、売ったら金にならんだろうか。
 そう言えば作った薬液、確かポーションだっけ?それを買い付けに来る若い商人がいたな。
 記憶の中でエロい目でコイツのこと見てたけど、女だって思ってるんだろうな、馬鹿なヤツだ。
 確か今日の昼過ぎに来るんだよな、よし、ポーションと一緒に髪も売ってみるか。
 今日、売らなければならない、注文を受けているポーションは木箱に整然と並べられていて、そのままテーブルの上に放置されていた。
 一つ掴んで高く持ち上げると、明かり取りの窓から朝陽が燦々と降り注ぐ光を受けた小瓶がキラリと反射したけど、中身は薄青い液体が揺れている。

「これは確か回復系のポーションだな。で、この薄赤いのが異常状態を回復するポーションで、魔力回復用の薄紫のもあるな…なんだ、意外と優秀なんだな」

 初めて独り言みたいに喋った声は落ち着いた響きを持った柔らかく心地よい声だった。これが自分から出てる声なのかと思うと、やっぱり少し気後れもするし、転生とかマジかと思ってたけど納得せざるを得ない感じなんだよねぇ。
 とは言え、とは言えだよ、俺。
 まずそもそも本当に転生とかしてるのか?
 頭の打ちどころが悪くて第二の人格の日本人の『俺』が発動してるだけじゃないのか…?
 …自分で言うのも何だが、まあ、第二の人格の俺だとしても日本で生きた記憶がバッチリあるし、日本クオリティの乙女ゲームだからって第二の人格とか何だそれ、逆にこえーわとか思ってしまう。おっさんにはなかなかハードルの高い未解決問題になりそうだ。
 じゃあ、これからぼんやり生きるのか?って言われたら勿論そんなワケにはいかないからさ、取り敢えず記憶にぼんやり残る若い商人のあんちゃんにポーションとか髪を売りつけて、飯代ぐらいは稼がないといけない。
 木箱を抱えて見渡してみると、キッチンと思しき場所を発見したから、木箱を床に置いて早速流しの下に設置されている配管を隠すのと物置を兼ねた扉を開いて見た。
 作り置きの瓶とか乾燥された肉?か何かが入っているけど、どうも量が少ないように感じる。勿論、こんなところ初めて見るワケだし、飯のことを考えたら体が勝手に此処を目指したから、覚えていた感覚がそう言ってるんだろうと思う。
 明かり取りの窓が嵌め込まれた流しの上にも戸棚があって、狭い割には収納が多いから元々住んでいたヤツのセンスが良かったんだろう。
 扉の中にも見たこともない乾物の瓶が所狭しと入っているけど、瓶の中身自体は少なく感じる。
 不意に、今日商人が来たら食材と調味料、それからマジックバッグを必ず買わなければ…と、本当に唐突に頭に浮かんできて強烈な印象を残した。
 いや、マジックバッグとか知らんぞ。
 顳顬がキリキリと痛んで思わず指先で押したけど、だからと言って何かできるワケでもないし、木箱を抱えて外に出てみることにした。
 室内を見渡せば判るけど、どれも1つずつしかないから、コイツは室内に誰かを通すことはなかったんだろう。
 …室内に入れた途端に襲われでもしたら狭い上に雑然とモノがある空間だと逃げ場がないからな。
 まあ、細腕でも一応コイツも男だし、ポーション作りとか薬草採取しかしていないコイツに比べたら、ナイフでもあれば俺なら一撃で倒せるだろうけどさ!
 そんなワケで木箱を抱えて外に出て見たら、案の定、家の前にポツリと木製の古びたテーブルと椅子が向かい合わせで2脚揃ってる。対応は外でしていたってワケだ。
 木製のテーブルに木箱を置いて、さあっと吹いてきた爽やかな風にザンバラに切った蜜色の髪が遊ばれて、俺は片目を細めながら目の前に広がる光景に暫し心を奪われた。

「うわぁ…」

 奥入瀬とか、森林を掻き分けて旅したことがあるけど、この景色はまた格別に綺麗だ。
 開けているとは言え木々に囲まれた煌めく葉の隙間から幾筋も降り注ぐ光に満ちた空間に護られているかのようにポツリと建っている小さなログハウスの前には、静謐を湛えた透明度の高い湖が広がっていた。此処から見ていても小魚が群れ泳ぐ姿が見えるほどだし、邪悪な生き物が隠れ潜んでいる様子もない。ともすれば、これは聖域にも近い神聖な清らかさではないだろうか。
 暫く呆然と見つめていたけど、どれだけそうしていたのか、不意に他人の気配がしてハッとした。
 鳥だとか、小動物の気配は常に其処彼処にあって、だからすぐに侵入者の気配を感じることができたんだ。
 ハッと顔を上げた先にいたのは森の奥?から迷い出た熊…のような大男。びっくりしたような垂れた双眸を見れば、これが毎週末に行商に来る若い商人だと判る。
 俺はさ、コイツは背が高いスラリとしたイケメンだと思ってたんだよ。何故か無条件にそう思っていたワケだ。
 でも認識が誤っていた。
 確かに熊のような大男だし、こんなヤツに伸し掛かられれば逃げられないし、ナイフを刺しても逃げられるかどうかはこの俺だって一か八かだ。
 熊とは言え身長は目測で凡そ190ぐらいで、見上げる高さからすれば俺の身長は160ちょいだろう。
 何故、俺はコイツが180はあるなんて思ったんだ?!
 だって乙女ゲームだし、攻略対象ってのはイケメンだって妹が言ってたんだよ!コイツ、何系男子なんだ?!妹の摩訶不思議発言が微妙な斑らにしか思い出せねぇぇ!!
 ハッ!そうか家だ!
 家にある家具やら何やらが、全部コイツの身長にしっくりきてたんだ。恐らくコイツを育てた魔女のばーさんの身長が160ちょいだったんだろう。それに姿見とかないしあると言えば小さい鏡ぐらいで、俯瞰的に考えることができなかったからな、とんだ失態だ。

「やあ、1週間ぶりだ」

 さすが日本の乙女ゲーム、曜日の数え方は一緒なんだな…まあいい、ちょっと落ち着こう。
 肩を竦めて仕草だけでテーブルに促すと、一瞬、僅かに訝しそうな顔をしたものの、若い商人は人の好さそうな面持ちで何時も通りに背負ったデカいリュックサックをテーブルの脇にドスンと落とし、木製の椅子に腰掛けてニコッと笑ったみたいだ。
 感覚的に違和感がないから、これが何時も通りなんだろうと思えた。
 身長差は腕のリーチの長さにも関わってくるからな、逃げ道はできるだけ確保しておかないと。
 そもそも、なんで俺がこんなに警戒してるのかと言うと、妹の斑ら記憶の中に、商人に襲われる…ってフレーズがあるんだよ。そこから転落の人生とか何とか、楽しげに気持ち悪く語ってた妹が思い浮かぶからだ。
 転落人生の何が面白いんだよ、過酷な状況に無理矢理堕とされて涙する男を見てキャッキャするとか何考えてんだ、ホント気持ち悪い。
 我が身に起こってみろ、キャッキャどころか笑えもしないぞ。今の俺みたいにな!

「折角、あんなに綺麗だったのに、髪、切ったんだね…」

 しょんもりと残念そうに言う男の顔は、どうにも人が好さそうで、疑ってるこっちが拍子抜けするほどモジモジとしてやがる。
 あれ?俺の記憶違いだったか??
 アイツ、色んなキャラのこと話してたし、記憶もあやふやだから、まあもしかしたら別のキャラの話だったのかもな、と思って「ああ…」と頷きそうになった時、不意に男が腕を伸ばして短くした俺の髪に触れようとしやがった。
 しまった!やっぱリーチが…とギクっとした瞬間だった。
 不意に心臓が、ドクンと脈打つように跳ねて、そんなの漫画か小説の中の話だろって思ってたのに、本当に心臓って跳ねるんだなとか、馬鹿みたいに思っていたら今度は急激に頭が痛くなって両手で頭を掴んでしまった。
 俯いた周囲に渦巻くように声が聞こえる。それまでの鳥や小動物の気配も、商人の声も消えて、うまく言えないんだけど、ただランダムに声が反響するように周囲に渦巻いているんだ。

『フィラは商人に乱暴されて起き上がれなくなるの!』

『殴られんのか?不遇なヤツだな。面白そうに言うなよ、気持ち悪ぃ』

 嬉々とした妹の声と呆れた生前の俺の声!

『あははは!兄貴バカだねwフィラはこのゲームの中で主人公を差し置いての超絶美形なんだから!』

『はあ?美形だからなんだよ』

 何かの片手間に聞いてるんだろう、どうでもよさそうに相槌を打つ俺に、妹がバカにしたように阿保ほども同じ登場シーンのスチルとやらを見せているんだろうと思う。
 映像は見えないが声で判る。
 それは、とても日常的な何時ものことだったから…

『レイプされるんだよwその時に商人に一撃をくれて追い払うんだけど、森の中の精霊薬師を捜していた貴族に、腹を立てた商人がお金と引き換えに情報を売っちゃうの!ウケるでしょ?w』

『ウケるとこが判らん。イミフだ』

『もー兄貴つまんないヤツだなぁ!』

 うるせえ、今思い出したってイミフだわ。

『寝込んで3日目に貴族が来てね。拐かされて貴族の家に閉じ込められてそれはそれーはヒサーンな毎日を送るのよw』

『……』

『そこにメイドで居た、ジャジャーン!ワタクシこと主人公様が説得してフィラちゃんを助けちゃうんだなwで、フィラちゃんの好感度を上げるんだけど、フィラちゃんは残念ながら純真無垢なワタクシ主人公に心打たれた貴族に捨てられて如何わしいところに売られちゃうの!それでも健気に主人公の言葉を信じて男娼しながら待っちゃうんだよ、かっわいいーwww』

『意味が判らん』

 意味が判らん。

『そのゲームってさ、お貴族とかいるのかよ?』

『そりゃ、剣と魔法のファンタジーなんだからいるに決まってるでしょ!フィラを誘拐したのはバ***伯爵って言って商人の****が…』

 がなり立てるように渦巻いていた声が急にシンッとなって、頭を抱えていた俺は真剣に飴色の古ぼけたテーブルを見据えて考えていた。
 まず妹よ、バなんとかじゃ名前が判らん。商人に至っては想像もできん。
 いくら俺が上の空で聞いてたからって肝心なところが呆けてたら意味がねえんだよなー
 ふと、目線を上げると、突然の奇行でもオタオタしている商人の何ちゃらは、挙げた両手をどうしたらいいのか判らない、そんな情けない顔で心配の声を発しつつも戸惑っているみたいだ。
 いい人そうだ。
 だけどこれは油断かもしれないって思うだろ?
 だが、だがな、俺は本来のコイツと同じ16歳ってワケじゃない。成人式は2回目も迎えてる、人間を見る目はこう見えて結構養ってるんだよ。
 大柄で熊みたいだけど、この商人は俺を襲うほどの勇気も度胸もない。それどころか、お人好しにも程があるのが、リュックから覗く商品の数々から見受けられる。
 こんな森の奥深くで、どうして栄養価の高い白パンとか、高級で手が出せない食品、日持ちする食品をわんさか持ってきてるんだ。
 この森が最後の販売地で、この後商人は品物を仕入れながらボチボチと大きな街に戻って、また仕入れてここに売りに来るのがルーチンだ。この森はこの国の一番端にあって、道中に大きな街はない…だからここに到着する頃には、本当はもう殆ど商品がない状態なのが一番無駄がなくてベターな筈なんだよ。
 商人はフィラを好きなんだろう、それは判る。
 そりゃあ妹がこのゲーム史上最高の超絶美形と言わしめる俺様なんだから、老若男女に惚れられて当然だろう。貢ぎたくなるのも十分同じ男として理解できる。
 だからって触れるようなフリをして、触れることもできない男が、ある日突然豹変して俺を襲うのか?
 幾ら夢見がちな乙女ゲームだからって、そんな青年誌みたいな展開はないだろう。
 確かに綺麗な、ましてや惚れたヤツのふとした姿にドキッとして、たまに勃起することもあるけど、勃ったらすぐ襲う…なんてのはエロゲかAVぐらいだろ。男ってのはだいたい臆病で実際は繊細な生き物なんだ。
 悪さする連中だって大概色んな個室に連れ込んでヤるだろ。
 さっきの妹の会話で思い出したけど、この商人はこの野生動物だって、下手すりゃ魔物だって彷徨く、この見晴らしのいい絶好のロケーションでレイプするんだぜ。
 乙女ゲーム的にはそれがロマンなのか?
 ロマンだからシナリオ通りの強制力で発動するイベントなんだろうか。
 だとすれば切欠はなんだったんだ?イベントを発動するトリガーはなんだ?
 ふと、俺は目を瞠った。
 考えたくないが考えられること、もしかして…誘ったのか?フィラと言うこの薬師が、善良で朴訥としたこの気の優しい商人を、自分を襲うように仕向けるために誘ったとでも言うのか。
 それがイベントの強制力だとしたら…俺はゾッとした。それが事実であるなら目配せ一つ、仕草一つ気を抜くことができなくなる。

「リィンテイル?どうしたんだい。大丈夫か」

 それなら、と、俺はグッと両拳を握った。
 それなら抜け出せばいい、こんな何が面白いのかさっぱり判らない、そもそもその世界かどうかも判らないとは言え、クソッタレな乙女ゲームに真っ向から喧嘩を売ってやる。
 乙女ゲームでBLありとかどれだけ盛り盛りなんだこのゲーム…はぁ。
 本名リィンテイル・セント。
 無理矢理男娼にされて、何人目かのやたら執着して、遂には水揚げまでしようとした貴族だったかの客の男が、フェリシア…幸福と呼んだことを皮肉って付けられたフィラと言う名前。
 男娼フィラ・セント、これがゲームでの正規の名称だ。リィンテイルなんて最初にチラッと商人との会話で呼ばれるぐらいで馴染みは薄いってのに、ずっと付き纏う名前になるから、フィラを名乗るのが正解なんだろう。

「なあ、髪って売れるのかな?」

 黙り込んでいた俺が唐突にそんなことを聞くもんだから、商人の男は目を白黒させて動揺したような間抜けな声を出した。

「へ?え、えーっと…リィンテイルほどの金糸のように貴重な黄金の髪は売ろうと思えば売れるよ。だけど、絶対に売らないほうがいい」

「何故だ?売っちゃいけないってルールでもあるのか?」

 それでも気を取り直して、ちゃんと教えてくれるところは生真面目で律儀な性格が滲んでいる。
 俺だけにかもしれないし、持ち前の性質であるなら商人としてそれはどうなんだろうとも思うけど、何にせよこんないいヤツ、犯罪者にしたくない。

「ルールと言うか…魔法的な制約に因るモノだよ。長い髪はそれだけ魔力が宿るモノだから、売り出してリィンテイルを欲しがるヒトの手に渡ってしまうと、下手をすれば心を縛り付けられて人形のように従ってしまう羽目になるかもしれない」

「ああ、マジか。じゃあ、髪は燃やす」

「うん。勿体無いけれど、そうするほうがいい」

 商人は心底心配しているようだから強ち眉唾ってワケでもないんだろう、だからフィラは髪を伸ばしていたのか。切って、誰かの手に渡ることを怯えていたんだ。
 自分の容姿をちゃんと理解していたのか、それとも魔女のばーさんが教えてくれたのか、何れにしても目を付けられる美貌って生前の俺なら羨ましいって思っただろうけど、実際その状況に置かれたら面倒くさいことこの上なしだ。
 人生で得すること一割で不遇なこと九割なら平凡だった俺が一番優勝じゃないか?まあ、威張れることじゃないが。
 若くなってもあんま嬉しくねーなー。商人熊みたいな図体と若さなら断然ウェルカム!だったんだけどよ。

「じゃあ、このポーションを全部売ると幾らぐらいになる?乾燥肉と調味料、ああ、日持ちしない食材よりも日持ちする食材を多めに、それからマジックバッグも買えるかな?」

「…何処かに行くのか?」

 話の途中で調味料?と首を傾げているからアレを作ったのはフィラなんだろう、とは言え、話し終わったと同時にふと、暗い目付きになって声音が低くなる商人に、ちょっとギクッとしちまった。
 いいヤツだけど、腹の底には俺に対する得体の知れない感情がトグロを巻いているんだから気を付けないと。

「いいや?家が狭くてそろそろ荷物がさ。だからマジックバッグを購入して荷物入れに使おうと思ったんだけど変かな…」

 殊更なんでもないことみたいに肩を竦めて言ってみたら、室内の惨状とか、家に入れてないから知らない筈なのに、商人はホッとしたように誠実そうに笑って頷いた。
 その顔を見て、俺もニッコリしながら薄寒いモノを感じたのは気のせいじゃないだろうし、其処彼処に転がっているこの乙女ゲームの絶対的な恐怖感のせいだと思う。

「ああ、そう言うことなら!うん、大丈夫。リィンテイルのポーションは評判が良くてさ。1つの価格が青系と赤系は1000ティン、薄紫系が2000ティンだから、正規版マジックバッグのリュック型が1つと、リィンテイルは薬草採取に行くだろう?だから腰に付けるポーチ型を1つ、乾燥肉が大袋で5つと各種薬草を10束ずつ渡せる。それからお釣りもね」

 まあ、ポーション作りに薬草採取は必須だから腰ポーチは正直有難いな。
 それと流石乙女ゲームの世界だからか、小難しい貨幣の呼び名の変化はなくて、単純に通貨はティンで統一されている。
 しかも流通を見ると、だいたい1ティン1円に換算されると思うし、そう考えたほうが俺には優しい。数は十進法だし計算式は小学生の算数でいけるお馴染みの足す引く割る掛けるで事足りるから、わりと簡単にこの世界に馴染めて生きていけそうだ。
 硬貨は1ティンが丸い鉄貨、5ティンが丸い鉄貨の中央に穴が空いている。10ティンが丸い銅貨で50ティンが丸い銅貨の中央に穴が空いている。100ティンが銀貨で500ティンから紙幣になる。但し、10万ティンからまた貨幣に戻って金貨を使用するようになるそうだ。
 商人が見せてくれたのは100万ティンの大金貨までだった。大金貨はそれでも凄いんだとかで、商人の家系はこの世界では名の知れた商家だから持っているのであって、通常は金貨を持っている商人が殆どなのだとか。
 貴族との大きな、喩えば冬支度の準備とかで出張する時は、念の為、1000万ティンを意味する白金貨を持って行くんだそうな。何故かって言うと商人は売るだけじゃなくて仕入れもするからさ、冬支度時は道中で購入する時に偶に白金貨が必要になる時があるんだって、スゲーよな。
 1億を意味する大白金貨とかもあるそうだけど、商人でも見たことはないから、億がなかなか稼げないのはどの世界も共通なんだなぁってしみじみと思った。
 一介の薬師如きの場所に大金貨を持ってくるな。
 それと、通貨が判らん俺の為だからって大金貨を見せびらかすのもやめろ。

「…もしリィンテイルが必要なら、その、この100万ティンを渡しても…」

「いらない。及ばざるは過ぎたるより勝れり…だからね」

「?」

 まあいいや、これで通貨の意味も判ったぞ。
 因みに、マジックバッグってのは次元魔法を駆使したバッグで幾らでも入るし、時間も止まっているから中に入れたモノが劣化しないって優れモノなんだとか。劣化版だと空間魔法が使われていて時間停止がないってことかな。常に中身を気にしないといけないから、旅立つなら劣化版より断然正規版だろう。
 オマケしてくれたんだろうけど、良い買い物をした。

「じゃあ、これでまた1週間過ごせるよ。有難う。また宜しく」

「ああ、うん。…今日はその、ちょっと雰囲気が違う…よね」

 言い難そうに手遊びをしながら困ったように笑う商人を見ると、ちょっとじゃないだろうけどなと改めて思う。
 フィラの一人称は『僕』だし、大人しくて控えめ目な美人で、見た目はゴージャスなのに風が吹けば倒れる可憐な百合のような性格だ。
 物怖じしない言いたいことはポンポン言う俺の性格…ではないよな。

「昨日、落ちてきた瓶で頭を打ってから記憶があやふやでさ。だから様子がおかしくても勘弁してよ」

 できるだけフィラちっくに言ってみたぞ。

「え?!大丈夫なのかい??!」

「ははは、大丈夫大丈夫。もし性格以外で何かあったら頼らせてもらうし」

「そうして欲しい、心配なんだ。他に行く場所があるから直ぐには無理だけど、今度は早目に5日後に来るよ」

 物言いも変わってるだろうけど、これはこれで商人のお眼鏡には適ったらしい。適わんでもいい…けど面倒いのはゴメンだからにっこり笑っておく。
 痘痕も靨なんじゃない?

「いいよいいよ、有難う。じゃあ、また5日後に」

「どうか無理しないで」

「了解」

 大荷物を担いで手を振ると、商人熊は元来た道をのっそりのっそりと戻って行った。
 無理するなって言った時に初めて手を握られたけど、生ぬるくて少し湿った感触にも背筋がゾッとしたのに、にっこり微笑んだ俺は偉いと思う。誰かに褒めて欲しい。
 さて、んなことはどうでもいい。
 俺はさっさと家に入るとマジックバッグの口を開いて腰に両手を当てて仁王立ちする。
 荷物は揃ったし、服なんかは有り合わせでも旅支度には事欠かない。残ってる調味料とか、使えるモンはなんだってバッグに入れて、生前の記憶を頼りにサバイバル術だって駆使してやる。
 商人熊が来る前に、早ければ明日の朝にでも旅立つぞ。
 頑張れ俺!乙女ゲームなんかクソ喰らえだ、俺独りぐらいシナリオから逸脱したって文句ないだろ。
 BL要員とか舐めんな。
 そもそも妹から用語を聞いたぐらいで、男同士で恋愛するってことしか知らないんだぞ。レイプってなんだよ、すげー怖いだろ!
 ギュウギュウにならずに不安を抱えながらも、引っ越し宜しく室内の荷物をほぼ納めたリュックを見つめて、俺は大きく頷いていた。