7  -乙女ゲームの闇深さを知ったのは転生してからです。-

『…で間違い……気配がない』

 ふと、知らない声が揺蕩う波のように大きくなったり小さくなったり、よく聴き取れずにイラッとするけど、何故かこの会話は聴いてはいけないような気もした。
 夢を見ていることは早い段階で気付いていたから、ごろんっと横になったままでぼんやりと眺めることにした。

『…ルード、家の中は空っぽだった』

 こちらに背を向けた夜の闇より暗い漆黒の髪を風に遊ばせている、どうやら腕を組んでいる大男に、よく見慣れたログハウスの玄関から出てきたヤンチャそうなオレンジの髪のこれまた長身の青年が、腰に手を充てがって頭を掻きながら疲れたように溜め息を吐いて報告している。

『ヒベアーの跡取りが襲いでもして逃げたんじゃない?』

『屋内に荒らされた様子はないか?』

 オレンジ髪の台詞を軽く無視する大男に肩を竦めると、彼は特に気を悪くした様子もなく顎に当てた手で軽く擦っているようだ。

『ん〜、驚くほど綺麗に掃除してる。空っぽって言っただろ?変な話、見事なほど髪の毛一本見当たらない。つまり自分で片付けちゃってるから誘拐の線は消していいと思うよ』

『なるほど、賢いな。使役防止か…』

『…どうした?』

 何かに気付いたように首を傾げるオレンジ髪に、どうやら黒髪はニヤリと嗤ったようだ。

『髪の毛一本ぐらいは欲しかった』

 途端に嫌そうに眉根を寄せて『うえっ』と口をひん曲げるオレンジ髪に、大男の肩が揺れて、声なく笑ったようだ。
 商人熊並みにキモいこと言うヤツだな。

『で?ヒベアーは2日後、バルモア伯爵はもう直ぐ来るけど、これからどーすんの?』

 腰に剣を下げているし、緩く会話をしているように見えて隙らしい隙もない。気配も慎重に広く、そのくせさり気なく探っているようだ。どうやら、かなりの手練れみたいだから、もし対峙したら狩人如きの俺は走って逃げるべきだ。但し、逃げ切れる自信はない。
 目の前にある黒尽くめの大きな背中の持ち主に至っては、何故か隙だらけに見えるのに、安易に手出しできそうなのに、何故だろう、手を出すなんてとんでもないし物凄く不安になる。
 下手したらオレンジ髪なんかよりもめちゃくちゃヤバいヤツのような気がする。
 絶対に関わりたくない。
 冒険者なんだろうか…こんなヤツにまでまさか追われるんじゃないだろうな。あれ?これ夢だよな。新しい乙女ゲームの記憶が蘇ったとか?

『…』

 大男は何か考えているようだったけど、不意にバッと振り返ってきた。
 ゴロンッとしたままそれでも不安で、恐る恐る見ている俺と目が合ったような気がする。
 夢なのに?目が合う?
 真っ赤なルビーのような透明度のある虹彩を持つ、ゆらりとした、底知れぬ仄暗い執着が見え隠れするような双眸にビクッとして身体が固まった気がした。
 ハクハクと息がし難い。

『どうしたんだよ、さっきから』

 オレンジ髪の惚けた声音が、鳥の鳴き声、水の波紋のような森のさざめきに、驚くほどあっけらかんと響いている。

『…此処はもういい、行くぞ』

 満足したようにニタ…と嗤った男がオレンジ髪を気にせずに歩き出した。長い足が大股で先を急いでいる。

『この家…つーか、小屋は燃やさなくていいのか?』

 その声にも応えずにサクサクと森の奥に消える頭の天辺から爪先まで黒い衣装に身を包んでいる、清廉な森の中に在って驚くほど不協和音を醸す異質な大男に、オレンジ髪は呆れたように天を仰いで溜め息を吐いたみたいだった。
 …ガバッと起き上がった。
 悪夢の後の気怠さと全身をびっしりと濡らす冷や汗、本当だったら気持ち悪さに風呂に入りたいと思う筈なのに、それら全てが全く気にならないほど心臓がバクバクしている。
 確かに目が合った。
 あの恐ろしい大男と夢の中なのに目が合った。
 あんなヤツ、見たことも妹の話にも出てきたことない筈なのに…カタカタと震える指先が恐怖に竦んでいるのを思い知らされる。
 咽喉がカラカラで、腰ポーチの中の革袋を取り出してゴクゴクと水を飲んだ。

「何だったんだろう、今の夢…」

 …夢?
 おい、俺!感じろ、あの気配は本当に夢の中の気配だったのか?!
 不意に何かを感じて目の前のテントの出入り口に、恐怖で瞼が痙攣するのもそのままに、息を殺して目線を向けた。
 夢の中でオレンジ髪はなんて言っていた?確か俺が旅立ってから3日後のようなことを言ってなかったか?
 俺の足で半月で辿り着いたこの村に、もし、ああ考えたくないけど、もし夢の連中が追い駆けて来たとしたら、とっくに到着して待ち伏せだってできるんじゃないのか…

「ははは、気付かれちゃったみたいだよ、ルード」

「…オレでも入れないようだ。難攻不落の城に籠った姫を誘き出すにはどうすればいい?」

 もう気配を隠すつもりはないようだ。
 隠密レベルがエグ過ぎるだろ。

「中にいるんだろう?テントごと燃やされたくなければ、開けろ」

 大丈夫だ、最強マジでも打ち破れないポーションを使ってるんだ、誰にも開けられないただの脅しだ。
 俺はコイツらが諦めるまで亀の子でいればいい。
 ジリジリと真夜中の時間がカタツムリが這うようにのってりと遅く過ぎても、彼らは無言でそこに立っているようだ。最初こそ感じた圧のようなモノは、今はかなり弛んでいる。この我慢比べを、まさか楽しんでるのか?
 人違いです…とか言ってみようか。今の俺は髪は金褐色だし、夜なら褐色にしか見えない。

「フーフー毛を逆立てちゃってるよ、今日は無理なんじゃね?」

「隠密レベルはそこそこみたいだな。だが、今は恐怖が勝っているようだ。乱暴にされたくないなら、大人しく出てこい」

 俺がちょっと気を抜くと直ぐに仕掛けてくるから、やっぱ人違いです作戦は難しいみたいだ。どうしよう。
 でも、これだけの隠密レベルと威圧レベルを持っているヤツなんて、絶対にSクラス以上の冒険者に違いない。そんなヤツらでも突破できないんだろう、流石俺様の魔法増強ポーションだ。
 …誰の依頼なんだろう?商人熊かな…こんな連中に敵うワケないよ。
 やっぱり乙女ゲーム神は、何がなんでも俺を捕まえて奈落に叩き落とすつもりなんだ。今までの逃亡劇を嘲笑って…俺はまだ何もできていないのに。

「…ヒ、……ぅく、…うぅ……」

 声を殺したつもりなのに、食い縛った歯の隙間から溢れる嗚咽に、そんな弱気な自分が許せなくて一生懸命泣き止もうとするけど無理っぽかった。
 悔しい、悔しくて仕方ない。
 誰だよ、こんなバケモノに依頼したの。バなんちゃら伯爵か?商人熊か?…どっちにしたって今捕まっても絶対に逃げ出してやるからな!
 グッと奥歯を噛んで恐怖を振り払ってから、俺は覚悟を決めてテントの開閉部を開け放つことにした。
 コイツらに捕まっても、商人熊や伯爵からは絶対に逃げ出せる、それを信じて、今は取り敢えず捕まろうと思うんだ。

「あ、あれ…?誰もいない??」

 テントの入り口を開いて恐る恐る外を見たのに、氷点下よりも寒々しいあの声の主も、何処かすっ惚けたような軽い口調のヤツも、まるで最初から誰もいなかったかのように完璧に気配がなくなっている。
 隠密レベルはマックスっぽかったから、たぶん、何処かからこっちを見ているに違いないけど、今は見逃してくれる気になったのかな。
 悔しいし、そんなことしなくてもいいと思うけど、ムゥッと唇を尖らせながらもポソッと呟くことにした。

「…俺、冒険者になりたいんだ。その、今は見逃してくれて有難う」

 不意に声なき笑い声が聞こえた気がしたけど、背筋が冷えて身体を震わせると、夜風のせいだと思い込んで俺はアタフタとテントに避難した。
 それから夜明けまでまんじりともしなかったんだけど、何もないとホッとしたら、そのまま少し寝てしまった。
 目が醒めて、寝惚け眼を手の甲で擦りながら、気配を探ってみる、だけど他の冒険者の賑やかさはあるモノの、恐怖の塊でしかなかったあの冒険者の一行の気配はないみたいだ。
 いや、気を抜いてはダメだろう。
 隠密レベルおばけだったんだ、たぶん、今も何処かで見張っているに違いない。
 腰ポーチを装着してからリュックを背負って弓と矢筒を肩に掛けて、先ずは冒険者広場の中央にある井戸で顔を洗って目を醒まそう。小川に行こうかと思ったけど、今はヒトがいない場所に行くのは得策じゃない気がする。
 森に入るのは旅の準備が整ってからじゃないと…フードを目深かに被り直してテントから出て、周囲を見渡して仮初めの警戒をしてから、そそくさと井戸に移動して、それから腰ポーチからもこもこのヘアバンドを取り出してからフードを外して装着だ。
 魔力zeroの俺は設置されてる蛇口を捻っても水を出すことができないから、ガラガラと桶を投げ込んで、人力で水を確保するしかない。
 冒険者の中にも稀に魔力のないヤツも居て、そう言う連中は極限まで肉体強化をした格闘オバケへと進化を遂げるってワケだ。
 汲んだ水でバシャバシャ顔を洗ってから、水の冷たさに首を竦めてブルブル震えた後、タオルで顔を拭いて、腰ポーチから取り出したコップと歯ブラシで歯磨き開始。
 本当は洗顔にクブ石鹸を使いたかったけど、一定数の人間がチラチラこっちを見ているのを知っているから、態と目立つ必要もないと断念した。変な汗掻いたし、森に入ったら水辺でクブ石鹸使いまくって行水でもしようっと。
 井戸の縁に腰掛けて歯磨きしつつ、ふと年頃の若人にしては細い自分の腕に気付いて、ムーッと眉が寄ってしまう。
 昨夜は声だけだったけど、あの夢が魔法か何かのチートで見たモノでその全てが事実だとしたら、あの2人…いい身体してたよな?
 背も高いし、タッパもウェイトも充実してるとかうら…羨ましくないんだからね!
 成長期だからまだまだ伸びるけど、俺の身長が160ちょっとぐらいで、あの家の前にある木の傍に立ってた黒服野郎は、たぶん少なく見積もっても40センチぐらい俺より高いんじゃないかと思う。オレンジ髪野郎は30センチぐらいだよな。ドアの前に立ってたから判り易い。
 2人とも服パツパツだったし筋肉オバケっぽかったし…

「うーん、俺も身体鍛えたらムキムキになるかな?」

 袖捲りした白い腕をムンッと曲げて力瘤を作ってみても、あの2人、いや遠目にこっちを見ているあの冒険者どもと比べても貧弱なのは理解してる。あの2人は規格外っぽいから除外だ除外!
 でも、決して筋肉がないワケじゃないんだ。弓を引くから細マッチョなだけなんだ!と、誰にともなく言い訳して赤面しても仕方ない。
 誰かにクスクス笑われてもそっちは見ない。
 美と愛欲の女神様の加護のせいで、魅了レベルが10もあるからな、目の合った相手が運命感じて問題が発生するんだよ。下手したらストーカー、運が悪ければ拉致監禁、ぜってぇ嫌だからな。
 コップと洗った歯ブラシを腰ポーチにしまいつつ、ポフっともこもこのヘアバンドを取って同じく仕舞い、ボサボサの髪を手櫛で整えて準備完了だ。
 露店の朝市に行くぞー