耳を劈く女の悲鳴のような響きすら、此の世を統べる者にとっては何の慰めにもなっていない。
魔王は瞼を閉じている。
豊かな漆黒の髪が気だるげに頬に落ち、憂鬱な陰を落としていた。
彼は夢想する。
一度はこの手に堕ちた力の源であるはずの人間を、世界の全てを奪った者が連れ去った事実。
だが、その無垢なる魂を、誰よりも案じている忠実な己の部下の憔悴した顔。
魔獣と成り果ててもなお、高潔な魂の持ち主である彼は、やはり、純粋で無垢な魂に惹かれてしまうのだろうか。
『それが全ての過ちとも知らず』
魔王の酷薄そうな薄い唇から、ふと、冷たい冷気を伴う言葉がポツリと零れる。
瞼を閉じたまま、魔王は未だ夢想の中で旅を続ける。
森を駆け抜ける忠誠を誓った小さな身体は、降り出している雨に濡れ、何処か虚ろな影が雷鳴に浮かび上がっては消えていく。
瞳を真っ赤に染め上げて、降り頻る雨の雫なのか、それとも、暖かなぬくもりを持つ涙なのか、頬を濡らす雫に気付きもしない魔物の存在に、魔王は口許を歪めて微笑む。
場面は一転して闇の中。
魔王は夢想の中で立ち竦む。
『…なるほど』
やはり、瞼を閉じたままの魔王の口許から、冷たいブリザードのように冷徹な声音が零れ落ちた。
いきとし生ける者が耳にすれば、血潮が廻る熱い鼓動すらも瞬時に凍り付いてしまうほど、彼の声音は冷ややかで、そして冷淡だった。
慣れ親しんだ闇の中、その無音の空間の中で魔王は、美しすぎる貌に微笑を浮かべた。
奪われた無垢なる魂の白い輝きを求めて思考を巡らすも、結局、この闇の中でその手掛かりすらも消え去ってしまうのだ。
彼を奪った者は、恐らく、魔王と同じ種族に属するものか、或いは、同等の力を秘めているのだろう。
魔王と同等の力を秘めたる者を、彼は未だ嘗て、1人しか知らない。
その者は、本来有るべく力の存在すらも気付かずに、淡々と闇の国で生きている…はずである。
『やはり、そうか』
最大の脅威は取り除いたと思っていたのだが…魔王は嗤う。
閉じていた瞼をゆっくりと開き、暗い恨みを宿した紫紺の双眸を瞬かせて、魔王は嗤う。
そうでなければ、何もかもが色のない無意味なものに堕ちるのだから。
『沈黙の主よ、其方か』
だからこそ…と、魔王は愉しげに嗤う。
だからこそ、嬲り甲斐があるのだと。
魔王は暗黒の氣を全身に纏いながら、地獄の底よりも冷たく暗澹たる殺意を孕んだ紫紺の双眸で、外界に開けたバルコニーから暗雲が覆い尽くした世界を睨み据えていた。
Ψ
一旦、後宮に引き下がったものの、やはり何処か判然としない面持ちで眉間に皺を寄せる光太郎に気付いて、アリスが訝しげに首を傾げた。
「光太郎ってば、どうしたのさ?眉間に皺が寄ってるゾ」
眉間を軽く指先で弾かれて、アイタッとおどけてみせた光太郎だったが、エヘヘッと笑って弾かれた場所を擦りながらも、やはり浮かない顔で一同を見渡した。
光太郎に与えられた部屋…ではなく、漆黒騎士であるユリウスに宛がわれた部屋に揃った、魔軍の大隊長のバッシュ、元男娼で今はお付きの従者に昇格したアリスとケルトが、そんな光太郎に注目する。
「あのさ、ちょっとヘンだと思わないかい」
「え?何がですか??」
ケルトがキョトンと小首を傾げると、アリスも訝しそうに眉を顰める。
だが、魔軍の大隊長であるバッシュだけが、そんな光太郎に腕を組んで片目を閉じて見せた。
『やっぱ、気付いたか』
その仕種から、どうやらバッシュは光太郎が何を言いたいのか気付いたようだった。
「え?なになに??バッシュには判っちゃったの?う~、それって超ムカツクんですけどぉ」
『なんで俺が気付いたらお前がムカツクんだよ』と、バッシュが傍らで可愛らしい唇を尖らせている、小生意気な人間にうんざりしていると、彼らの主である光太郎が神妙な面持ちで頷いた。
「なぜ、ユリウスは俺たちに嘘を言ったんだろう」
その台詞に、事態を飲み込めていないケルトが困惑したように眉を顰めた。
アリスですら、物分りの良い魔獣にムカムカしながらも、やはりその台詞には困惑したように顔色を曇らせている。
『俺たちは第五の砦だとハッキリ聞いたのにな。何故、ラスタランの城に戻るなんて言ったんだろうな』
「第五の砦って、やっぱり城のことじゃないんだよね?」
バッシュに確認するように聞くと、蜥蜴の親分のような魔物は頷いた。
「あの場に俺たちがいたことに気付いたんだから、俺たちが話の内容を聞いていたと判ってるはずなのに、何故嘘なんか言ったんだろう」
『まさか、本気であの言い訳を信じた…ってワケじゃなさそーだしな』
バッシュがうんざりしたように笑いながら片目を瞑ると、やはり、神妙な面持ちのままで光太郎は頷いた。
「あのユリウスは、抜け目のない人だと思うんだ。だからこそ、俺はあの嘘が気になって仕方ないんだよ」
しょんぼりと俯く光太郎に、アリスは困惑した顔のままで首を傾げた。
それから、何かに閃いたように頤に当てていた指先で光太郎を指差すのだ。
「あの場にいた、誰かを警戒したとか?」
『はぁ?…なんだよ、あの場って言ったら胸糞悪いセスだろ?それに俺とお前とケルトに光太郎じゃねーか。警戒するも何も、みんな関係者だぞ。意味ねーだろ』
バーカと言って頭を叩かれたアリスは、ムキッと腹を立てて思い切り魔物の尻にキックを喰らわせた。
思わずバッシュが『イテッ』と声を出すと、してやったりのアリスがにんまり笑うその傍らで、考え込んでいたケルトがおずおずと口を開く。
「もしかしたら…本当はラスタランの城に戻ると言っておいて、やっぱり第五の砦に行くってことじゃないですか?もしかすると、その反対かもしれないですけど…」
「なるほど、撹乱するってことか。でも、どうして俺たちにそんなことするんだろう」
ケルトの話に頷いていた光太郎は、それでも、やはり何か腑に落ちない顔をして首を傾げてしまう。
『まあ、何れにせよ。蛇が出るかジャが出るかってなモンだろ』
「そうそう。どちらにしても、何処に連れて行かれるのか判らないのは変わりないワケでショ。だったら、逃げ出すのは今しかないってことじゃない?」
組んでいた腕を解いて腰に当てたバッシュがやれやれと呟くと、肩を竦めるアリスがそれに同意したように頷いて口を挟んだ。
それを聞いて、光太郎は唇を噛んだ。
その仕種に、ケルトが少し驚いたように眉を顰めるから、光太郎は慌てて不審そうな顔付きをする3人に首を振って両手を挙げた。
「いや、違うんだよ。バッシュやアリスが言ってることは尤もなんだよね。でも、今度逃げ出してるのが見付かったら命の保障がないんだ」
それは、恐らくバッシュもアリスもケルトも、みんな三者三様、同じようなことは考えていたに違いない。だが、光太郎の心を慮って、殺されても彼をこの砦から逃がしたいと言う信念が、その言葉を言わせなかったのだ。
「俺は…死んでもシューに逢いたいって思ってる。もしかしたら、ここに向かってくれているのがシューだとしたら、俺は…やっぱり逃げ出してシューに逢いたいんだよ」
その気持ちは痛いほど判る。
自分たちの命を救おうとしてくれている、いや事実、男娼などと言う穢れた身分から解放してくれた光太郎の、それは唯一の弱音だから、バッシュもアリスもケルトも、言葉を失くして小さな人間の少年を見詰めていた。
「でも…俺はそれは違うと思うんだ」
ポツリと光太郎が呟いた。
その意味が判らなくて、首を傾げるバッシュと、顔を見合わせるアリスとケルトを、顔を上げた光太郎は見詰めながら笑って頷くのだ。
「うん、やっぱり違うよ。だってさ、ここで逃げ出したら、逢う前に殺されてしまうかもしれないだろ?それだと、今までの努力が水の泡になってしまうと思うんだ」
ポロッと頬に一粒の雫が零れ落ちたが、それでも光太郎は泣き言を言わない。
それは揺ぎ無い、光太郎の決意なのだ。
「捕虜は少なければ少ない方がいい。シューには、取り残されてしまうここの地下牢の魔物たちを救い出して欲しい」
そこで漸く、バッシュはハッとした。
恐らく、暗黒騎士であるユリウスと沈黙の主が砦を後にすれば、真っ先にセスの怒りの矛先は地下牢の囚われの魔物たちに向くだろうと言うことに、光太郎は気付いたのだ。
あれほど、無茶をしてでも逃げ出そうとしていた光太郎が、ここにきて、いきなり逃げないと宣言したその理由を知ってしまったバッシュは、ふと目線を伏せてしまう。
この優しさが、バッシュには不思議で仕方なかった。
だが、だからこそ、自分の命を預けてもいいと思ったのも事実である。
生れ落ちたときはまだ平和で、それでも、誰かのために何かをするだとか、自分の為に何かをしてくれる人だとか、そんな奇特な者は1人としていなかった。
平和な時ですらそうだったのだから、戦況の激しい今この時に、心を砕いてくれる者などいるはずもない。
なのに、光太郎は違うのだ。
ただ、『仲間』の為だけに心を砕いて命すら賭けてくれる光太郎の存在は、魔物の荒んだ心に射し込むやわらかな光だった。
(おかしなもんだ。魔物に光だなんて…)
それでも、このあたたかな光を護る為ならば、やはり自分は、今の光太郎のように心を砕くのだろう。
『第五の砦だろうがラスタランの本拠地だろうが、何処へだってついて行くさ。嫌だって言われてもな。勿論だ!』
光太郎の心に気付いたバッシュの態度は、それでも殊の外明るく、鎧に隠した鱗に覆われた胸板をドンッと拳で叩きながらウィンクなどしてくれる。
「バッシュ…ありがとう」
嬉しそうに笑う光太郎に、慌てたようにアリスとケルトもそれに参戦する。
魔物の安否を気遣う習性のないアリスとケルトにとって、魔物に対する光太郎の優しさの意味を理解するには時間が必要だった。しかし、光太郎が何を決意したのかは良く理解できた2人だ、自己犠牲の精神は有り得ないとさえ思っていたのだが、今の光太郎を見ていると胸が痛くなるほど協力したくて堪らなくなる。
だからこそ、両の拳を握って頷くのだ。
「僕だって、光太郎について行くつもりだし!」
「はい、僕も」
何処へだって、光太郎となら怖くないと2人の眼差しが訴えている。
3人の力強い仲間を得て、光太郎は心の底から「ありがとう」と呟いた。
Ψ
魔物すら恐れる闇の国の魔将軍は戻らない小さな少年を想って、己が主の支配する魔城の空中庭園から眼下を見下ろして溜め息を吐いていた。
威風堂々とした雄々しい魔将軍には似つかわしくない態度ではあったが、見回りの衛兵がその姿を見咎めたとしても、何も言わずにソッと姿を隠してしまった。
魔物たちは誰もが魔将軍の不機嫌の理由を理解していた。
彼らだって、少年の不在に心が塞ぎ込んでしまっているのだし、何より不安でもあった。
この空中庭園で、彼は養い子を亡くしていた。
あれ以来、訪れることもなかったのは、しつこく付き纏う光太郎の存在が、彼の心を癒していたからだ。
本人がいれば、たとえ口が裂けてでもけして言うことなどないだろうが、今はその少年がいないのだ。
(あいつ、無鉄砲なヤツだからな。無茶をしていなければいいんだが…)
何度目かの溜め息が零れたとき、同じく魔将軍の地位にある旧知の友が声を掛けた。
『また此処か。辛気臭い顔をしておるではないか。シューらしくもない』
最近、顔色の悪い友は、何処か草臥れたような表情をして溜め息を吐いた。
『ゼィか…鬱陶しいんなら放っとけよ』
獅子の頭部を持つ魔獣の将軍は、ギロリと、闇の国にあってもハッとするほど美しい顔をしている、底知れぬ魔力を持つ友を目線だけで見下ろした。
腰に両手を当てて、クックックッと嗤うゼィは、仕方なさそうに首を左右に振る。
『まぁ…同じく塞ぎ込んでいる私に言われたところで、少しも応えなどするまいよ』
『…まだ、戻らないのか?』
それは、ゼィが心から信頼を寄せている、そして愛している者を心配する傍ら、副将軍の地位にあるその者の吉報を心待ちにしているシューにとって、落胆を隠せない問い掛けだった。
『今は待つしかあるまい』
見事な柳眉の下、キリリとした双眸で暗夜を切り裂く雷光を睨み据えるゼィを目線だけで見下ろしていたシューは、やはり同じ痛みを持つ仲間の気持ちを痛いほど感じて、無言のまま目線を戻した。
眼下から、遠くへ。
もしかしたら、この闇しかない世界の何処かに囚われてしまった、大事な存在の気配を感じ取ろうとでもしたのか、シューは寂しげにピンッと伸びている髭を震わせた。
見事な鬣が吹き抜けていく風に煽られて逆立つが、雄々しい魔将軍はらしくもない表情を獅子の面に張り付かせて、そうして、遠くを眺めている。
光太郎がいなくなってから、彼がよく浮かべるようになった表情だ。
寂しそうな、腹立たしそうな、見る者を遣る瀬無い気持ちにさせてしまう、複雑な表情を一言で表すとするならば…
(恐らく切ないのであろうな。シューらしくもない…いや、シューだからこそ持ち得る感情なのか)
ゼィは睨んでいた虚空からふと目線を伏せて、傍らで無言のまま遠くを見詰め続ける古くからの友人のその態度を、寂しそうにソッと目線だけで見詰めていた。
自分でさえ、シンナの不在をこれほど不安に思っているのだ。
傍に在れば在るほど、その不在に対する不安は色濃く形作られ、その想いに慣れ親しんでいる自分でさえも耐えられないと感じているのに、そんな感情などとうの昔に忘れてしまったシューには衝撃的で、不安で不安で居てもたっても居られないのではないかと思っていた。
だが、シューは殊の外冷静で、淡々と日々の仕事をこなしていた。
しかし、時折ふと、何処かにその姿を隠してしまうことにゼィは気付き、そして今日、その姿を見つけたのだ。
(シューだからこそ、耐えておるのだな)
この場所は魔獣のシューにとって神聖な場所なのだろう。
彼はここにいる時だけ、本来の彼の姿に戻るのだ。
仮面のように獅子面に感情を隠す、喜怒哀楽も冗談のように浮かべて肩を竦める友は、今この時、寂しいと全身で物語っている。
あの小さな少年は、不思議なほどシューを怖がることもなく、大好きだと憚ることもなくべったりとくっ付いていた。その存在を鬱陶しそうにしながらも、心の何処かで受け入れていたのだろう、魔獣の心の微妙な変化に、それでもゼィは口許を綻ばせた。
(それでいい。シューよ、だからこそ、我らは強くなるのだ)
瘴気を孕んだ不吉な風に青紫の風変わりな色合いを持つ髪を遊ばせて、ゼィは目線を伏せた。
眼下に広がる無限の闇のような魔の森は、心に開いた穴のように、ポッカリと虚ろに凄惨な姿を晒している。この広い闇の世界の何処にいても、お互いを信じる心さえあるのなら、魔物たちは生きていけるのかもしれない。
そんな途方もない夢物語に期待しながら、諦めたように溜め息を吐くゼィは気付かなかった。
シューの双眸が寂しがって落ち込んでいるのではないことに。
燃え滾る憎悪と、危険な気配を孕んで、いっそ世界など破滅してしまえとまるで呪詛するように睨み付けている事実に。
できるなら…と、シューはうっそりと歯噛みする。
今すぐ飛び出して、光太郎を攫ってしまった愚かな人間に、もう殺してくれと叫びだすまで、いや叫んだとしても、生きることを恨めしく思うほどの苦痛を味わわせてやりたいと思っていた。
たとえ舌を食い千切って自ら自害したとしても、その息の根は止めず、じわじわと死ぬ恐怖と苦痛を味わわせてやるものを…
拳が震えるほど握り締めた掌から、ポタッと雫が零れ落ちる。
魔物であったとしても、零れ落ちる赤い液体に、ゼィはとうとう気付かなかった。