Act.33  -Vandal Affection-

 階上に行く階段は閉鎖されていて、仕方なくタユは俺を担いだままで階下に進む階段を駆け下りた。
 何階まで下ったのかもう判らないけど、あの爆発音が遠ざかって、荒く息を吐くタユもどうやらここまで降りれば暫くは安心だと判断したのか、注意深く周囲の様子を伺いながら白い壁の続く、もう見慣れたリノリウムの床が敷き詰められた廊下に出ると、どれも似たような白い扉の一つを用心深く開いてみた。
 どこにいたって安全なんかありはしないだろうと思うんだけどよ、タユにしてみたら、ゾンビ研究員の方がヘタな化け物よりもいいと判断したんだろう。
 そこは研究員の居住区だったのか、簡素なベッドなんかが置かれている、随分とよく見てきたあの質素な部屋と一緒だった。

「やれやれ。ここで少し休憩でもするか」

 室内を見渡して化け物がいないことを確認したタユはそう言うと、肩に担いでいた俺を埃の被ったベッドのシーツの上に無造作に放り投げるようにして降ろしてくれた…と言うか、投げ出したって方が性格だと思う。クソッ!

「あたッ、いててて…」

 案の定、スプリングなんか効いてないもんだから、衝撃がそのまま身体に伝わって痛いのなんのって…畜生、タユは結構酷いヤツだ。

「やい、この野郎…って。タユ?何をしてるんだ」

 文句の一つでも言ってやろうと上半身を起こした俺の目の前で、長身のタユは灰色のロッカーを開いて内部を吟味している…何をしてるんだ?
 でも、正直。タユがどんなに酷いヤツであっても、やっぱりちょっとどころか、かなりホッとした。
 ホッとしたら気が抜けたのか、俺は埃っぽいベッドの上にうつ伏せにへたり込んで両目を閉じたんだ。
 色んなことがあった。
 いつも顔を合わせていた友達は… 殆 ど死んだ。俺の目の前で死んだヤツもいる。
 何かして、何もできなくて…泣くことすらできなくて俺は、その場所にいることからも逃げ出すように生きている仲間を見捨てて遺跡に飛び込んで行ったんだ。無謀だし、馬鹿みたいなことだって判っていた。でも、何かしていたかったんだ…レンジャーのおっさんたちもみんな、遺跡の中か、この施設の早い場所で全員死んでいた。言葉も出なくて、自分だけ生きていることの罪悪感だとか仲間を見捨てた自分への怒りだとか。
 ああ、でも。
 仲間を救い出すとか言いながらも俺は、そうだ、仲間を見捨てて逃げ出したんじゃねぇか!
 仲間を救い出す?…本気で俺は、そんなことを考えていたんだろうか…いいや、そんなことじゃねぇ。
 俺は。
 情けないぐらい弱いこの俺は。
 自分の心を満足させるって言う自己満足だけで、ドッグタグを回収してたんじゃねーか…
 ん?そう言えばアレはどうしたんだっけ?
 あ、そっか。さっきの場所にズボンを置いてきたまんまだ。
 もう、取戻しにも行けないだろうしなぁ…ん?
 そこまで考えたところで、俺は 唐突 に、今の自分の格好を思い出してガバッと飛び起きちまったんだッ。
 そそそ、そうだ、俺はフィリップのヤツにその、ご、強姦されてて下半身スッポンポンのままだった!
 思わず耳まで真っ赤になってタユを振り返ったら、ヤツは無表情な顔をして俺を見ながら、ニヤッと笑って片手を上げて見せた。その手にあるのは、どうやらここの研究員の誰かが 穿いていたんだろう少し古ぼけたジーンズだった。
 そうか、それを見つけるためにロッカーを探っていたのか…

「この野郎が、なんだって?」

「いや、その。えっと…」

 意地悪く笑いながらベッドに腰掛けたタユは、それでもやっぱり疲れているのか、小さな溜め息をつきながら唇の端を吊り上げた。 精悍 な表情と逞しい体躯は、やっぱ他のレンジャー連中とはちょっと違うんだよなぁ…
 そんなことを考えていたら、タユは腕をきつく縛り上げていた紐をコンバットナイフで切ってくれたんだ。
 これで自由だ。
 ホッと息を吐いて擦れた傷跡の残る手首を見下ろしていたら、ギシッとベッドを軋らせたタユのヤツが上体を傾けてへたり込んでいる俺の顔を覗き込んできたんだ。

「な、なんだよ」

 思わずギクッとして後ろに退いたらすぐに壁に背中が当たって、クソッ、こんな狭いベッドの上じゃ逃げ場だってあるもんかよ。

「その状態で大丈夫なのか?」

「…え?」

 そう言って息がかかるぐらい顔を近付けてきたタユの言っている意味は判らないし、ヤツの精悍な顔つきの中にある、鋭い双眸に蛇に睨まれたカエルのように 射竦められたようになってしまってるしで、俺は心臓ばかりをバクバク言わせて仰け反って首を傾げるぐらいしかできなかった。
 鼻先でフンッと笑ったタユは逞しい腕を伸ばすと大きな掌で、破れかけたT-シャツの裾から剥き出しになっている俺の腿に触れてきたんだ。

「…ッ」

 タユが触れた部分からまるでビリッと電流でも流れたような感触がして、俺はビクッとして間近にあるヤツの顔をマジマジと見つめてしまった。
 何が起こったのか、この時になっても俺はよく判らなかった。
 だから、不安になって縋るようにタユを見つめたんだ。

「た、タユ…」

「…そんな、縋るような目で見ないでくれよ。その気がなくてもその気になっちまいそうだ」

 腿に当てていた掌を離すと、タユは苦笑しながらその腕を俺の頬に持ち上げて包み込むように触れてきた。

「そんな状態だとまとも走ることもできないだろうって思ったんだけどなぁ…抜かなくて平気か?」

「…って、まさか。だ!大丈夫に決まってんだろ!?」

 タユの言いたい意味をこの時になって漸く理解した俺は、思わずフィリップとか、あの変態野郎を思い出して大袈裟に仰け反ってしまったんだ。

「た、タユもソッチ系の人かよ!?」

「はぁ?オレはなぁ…足手纏いに付き合っていられるほどヒマじゃないんだよ。ま、大丈夫ってのなら別にいいんだけどな」

 呆れたように鼻先で笑ったタユはベッドから立ち上がると、片手に持っていたジーンズを投げて寄越しやがったんだ。

「そらよ、ソイツでも穿いとけ。サイズについては対応しかねるんで自分でなんとかするんだな」

 慌てて穿いたジーンズは裾の部分を俺の手首の紐を切ったコンバットナイフで適当な長さに切っていたけど、それは思った以上に身体の大きかったヤツの所有物だったのか、それともこれが外国人体型ってヤツなのか、俺にはブカブカでせっかく切ってくれた裾も少し捲くり上げておかないといけなかった。それでもなんとか穿けないこともなかったけど…この素肌にジーンズってのは初めての経験で、どこか居心地が悪くてモジモジしていると、タユは自分の腰にしていたベルトを引き抜いてそれを差し出してきたんだ。

「ここの研究員はカジュアルがお好みだったようだ。ま、なんにせよその趣味のお陰でジーンズが手に入ったからよしとしておこう。あれこれと文句を言う訳にもいかないだろうしな…とは言っても、そのウェストはアンタには大きすぎるみたいだ」

「さ、サンキュー」

 礼を言って受け取ると俺はそれで腰の部分を締めるんじゃなくて縛りながら、話題も変えたかったし、タユに今までどうしていたのか聞いてみようと思ったんだ。

「タユさ、今までどこにいたんだ?」

「そんなことよりも、どうしてアンタがここにいるんだよ」

 聞いたつもりが聞き返されて、なるほど、やっぱタユの奴も俺がこんなところにいることに、タユがここにいることに俺が驚いた以上には驚いていたんだろう。

「俺は…仲間を、博士や女史を助けようと思って」

「なるほど。それでベースキャンプにいなかったのか」

 納得したように頷くタユに、俺は慌ててその腕を掴んでヤツの顔を見上げたんだ。

「タユ!お前、キャンプに戻ったのか!?」

「まーね」

 短く言って外方向くタユの腕を掴んだままで、俺は唐突に心臓が早鐘を打つような錯覚に陥った。聞きたい、聞きたいけど、なんだかそれは聞いてはいけないことのような気がする。でも不安が、胃の辺りからせり上がってくるように緊張して、全身が冷たくなったような気がした。

「…連中は。あそこに残ってた奴らは、その、無事だったか?」

 ドクドクと、馬鹿みたいに早く鳴り響く心臓の音が耳のすぐ傍で聞こえて、俺は懸命に不安になる気持ちを押し殺しながら両手を握り締めてタユの返事を待っていた。

「無事だったら、オレはここにいない」

 極めて端的な返事は、多くを語ることもなく俺に絶望を告げていた。
 現実ってのはいつもそうだと思う。いい方向に行ってくれているようでも、よくよくは常に悪い方向ばかりを指し示していたりするもんなんだ。だからこそ、こんな非常事態の時にはそのなかに転がっている良いことだけを考えながら、突き進むことになるんだけど…それにだってやっぱり、限界ってのはあるワケで。
 そっか…やっぱりあの後、あの大毒蛇は戻ってきたんだろう。
 判ってた、判っていたつもりだったけど…やっぱり、胸が抉られるぐらいに辛い。
 俺が残して…いや、置き去りにしてきた仲間は、そうか、須藤が言っていたようにみんな死んでいたのか。
 ああ、なんだそうか、みんな死んでいたんだ…
 仏頂面のタユが不機嫌そうにどっかりともう一度ベッドに腰掛けて、その逞しい腕を伸ばして乱暴に肩を抱いてくれるまで気付かなかった。
 ポロポロと、乾いた頬を 零 れる涙に。
 泣くなんて思わなかった。色んなことが一気に起こりすぎて、感情が微妙に麻痺していたのかもしれないけど、それでも俺は泣くなんて思わなかったんだ。
 きっと、タユのせいだ。
 コイツの存在が俺の涙腺を壊したんだ。
 だったら、責任を取ってもらわないと…なんて、自分勝手に思い込みながら羞恥とか照れだとか、そんなものを忘れてタユの胸元に額を押し付けながら、俺は暫く声もなく泣いていた。暫く泣いていて、底意地の悪そうなタユは、それでも顔を上げた時には外方向いたままで何も言わなかった。
 その時になって唐突に、仲間の死は、タユも同じだったことに気付いてハッとしたけど、彼は別に気にした様子もなかった。いや、気にすることをやめていたんだろうと思う。そんなことを考えていたら、この先まで生きている自信すらなくなっちまうんだ。
 泣いちまった俺は…クソッ、なんて弱いヤツだろう。

「ごめん」

 謝ったら、タユはワシワシと俺の頭を掴むようにして撫でただけで何も言わなかった。

「…でも、どうしてキャンプまで戻ったってのに、わざわざまた遺跡の中に戻って来たりしたんだ?」

 目尻を拭いながら首を傾げる俺の疑問に、タユは肩を竦めてニッと笑ったんだ。

「一目見て、アンタがいないと思ったからさ」

「…は?」

「判んない?オレはアンタを捜してここまで来たんだぜ」

 タユが意地悪く笑ったけど、俺にはその意味が判らなかった。
 俺がいなかったから遺跡に来たのか?

「わざわざなんで遺跡なんだよ?他のところにいるかもしれないじゃないか」

 半信半疑で眉を寄せると、俺の関心が別の方にあると思ったのか、タユは何か拍子抜けしたような顔をして肩を竦めやがったんだ。

「アンタ、夜中に遺跡に連れて行ったとき、凄く嬉しそうだっただろ。これはもう、何かあったとなると真っ先に遺跡の中に入るんじゃないかって思ったのさ。仲間もいるワケだし…ま、ビンゴだったけど」

「…はぁ、タユって凄いヤツなんだなぁ」

 俺が掛け値なしで感心していると、タユの奴は呆れたように息を吐いて首を左右に振っていた。

「あれ?でも、どうして俺がいないからってわざわざ追いかけてきたんだ?タユだって見たんだろ、あの化け物みたいな研究員のなれの果てを…」

「見た…まあ、だからとでも言うべきかな」

「?」

 眉を寄せると、タユは腰に挿していたハンドガンを取り出してマガジンを取り出すと、その中身を確認して手持ちの武器を確かめながら俺の方を見下ろしてきた。褐色の肌に光る双眸は野生の猛獣みたいにワイルドなハンサムだと思う。うーん…コイツ、やっぱ普通にモテるんだろうなぁ。いや、こう言う状況下だったらもっとモテるのか。
 俺が女だったら惚れてるだろうと思うよ。
 だって、こんな状況下の中でもタユには余裕すら感じるから…
 まあ、タユにしてみても俺が女じゃなかったことがNGだったんじゃねぇかな。ははは。

「アンタら学生に何ができるって言うんだ?まあ、ここでアンタと出会った時は、この施設の中にどんなカミカゼが吹いたんだってぶったまげたけどな」

 生きてることに驚いたって?
 …そっか、俺だってよくここまで生き残れたと驚いてるんだ。地元でレンジャーをしているタユにしてみたら、やっぱ俺がこの階層まで生き残っていることが奇跡みたいに不思議なことなんだろう。日本と言う安全な場所でぬくぬくと育ってきた俺が生き残ってること自体が、野生動物とかと渡り合ってきたタユにしたら、そりゃあ凄い神風でも吹きまくったんだろうと思っても仕方ないか。
 ああでも、そっか。もっとタユの奴を驚かせてやることがあったんだ。

「俺だけじゃないんだぜ?須藤と桜木も…」

 そこまで言って、唐突に俺はあんぐりと口を開いた間抜け面をしてしまった。
 両目をめいいっぱい見開いて…
 想像を絶する得体の知れない生き物をこの施設で見たとき以上の衝撃が、俺の体内を駆け巡って容易に声すらもでなかった。人間、こう言う究極の時ってのは本気で声が出なくなるんだな。

「へえ?ヨシアキとヒトミもいるのか。で、どこにいるんだ?」

 タユが気軽にコンバットナイフの曇りを上着の裾で拭いながら聞いてきて、俺はパクパクと酸欠の金魚みたいに息継ぎをして、徐にゴクンと酸素を飲み込んだ。

「す、須藤と桜木は…」

「ああ…?真っ青な顔してどうしたんだよ」

 俺は怪訝そうな表情で見下ろしてくるタユに詰め寄るようにして立ち上がった。

「フィリップのヤツに捕まったままなんだ。どっかの部屋に閉じ込められてる」

 俺の異変を察したタユは腰のベルトにコンバットナイフを突っ込んで、手持ちの武器を全身のいたるところに器用に隠した軽装で立ち上がりながらヒョイッと眉を上げたんだ。

「そこに…確かあいつ、ペットがいるとかなんとか」

「やってくれるね、あのおっさん」

 タユが額にキラリと光る汗を浮かべたままで、それはそれは爽やかな笑顔を見せてそう言った。
 頬が完全に引き攣っていたことは、この際見なかったことにしよう。