7  -Forced Encounter-

 レビン・ヒュイットはマーカス・カーウェイの資料をもう一度読み直していた。
 彼の経歴、そして司法解剖鑑定書、その他現場に残されていた遺留品、証拠物件…等々、何れも事件発生時より何度も確認していたのだが、容疑者である名無しの殺人鬼が示唆するのであれば何らかの見落としがあってもおかしくないはずだ。
 ふと、この数週間のマーカスの足取りを追った報告書が目に付き、レビンは不味いコーヒーを飲みながら目線を落とした。
 よくある最新のマシンで管理しておけば判り易いとは思うが、レビンは昔気質のサモンズの下で多くを学んでいたため、捜査官の勘を信じて、思い立ったようにホワイトボードにマーカで報告書に基いた時系列を書き込んでみた。
 何が気になると言うワケではないのだが、書き込みを行っていると、不意に何かが引っ掛かった。
 暑苦しいスーツの上着は脱いでいて、カッターシャツの袖を捲った状態で、片手で腰を掴みもう片手にはマーカを指に挟んで顎を擦る。
 まんじりともせずに報告書と時系列を眺めていると、ふと、傍らで書類の整理をしていたらしい刑事から声がかかった。

「捜査官。なんだ、豪く難しい顔をしてるじゃないですか」

「俺はいつだって真剣さ」

 ニューヨーク市警察署内に捜査本部を構えて居座っているFBI捜査官を、誰しも遠巻きに眺めているものだが、この刑事はお喋り好きの陽気な性質なのか、物怖じしない彼の軽口など構っている暇のないレビンが軽くあしらおうとしたが、書類整理にうんざりしていたのか、彼は同じように不味いコーヒーを片手に肩を竦めて、邪魔にならない程度に離れたところから時系列が書き出されたホワイトボードを眺めながらポツリと呟いた。

「名無しの殺人鬼でしたっけ。ヤツはフェアリーキル殺人事件にも関わってんですか?」

「え?」

 報告書を手にしたレビンが目を瞠って振り返ったから、コーヒーを手にしている刑事は驚いたように眉を跳ね上げた。

「ああ、いや。この時系列は俺が担当している男娼殺しの事件を追ってるように見えましてね。まだ犯人は捕まっていないんですが…」

 言ってはいけないことでも言っちまったのか…と慌てたものの、だが、目の前のホワイトボードは確かに自分が追っている事件の軌跡を辿っている。

「なんだって?!その、その資料を見せてくれないかッ」

 素っ頓狂な声を上げたものの、レビンは慌てたように壮年の刑事に詰め寄った。

「へ?あ、ああ、そいつは構わないが。やっぱり名無しが事件に関わってるんですかね?」

「いや、まだ確信はないが。そのフェアリーキル殺人事件の犯人が見つかるかもしれない」

 カップを投げ出すように置いて、自らの散らかり放題のデスクから必要資料を漁りながら肩を竦める刑事に、レビンが厳しい顔つきで呟くと、一瞬キョトンとしたように仏頂面の捜査官を見詰めて手が止まってしまった彼は、だが、たははは…っと気のない風に笑った。

「それはそれは。またスゲーことですな」

 幾つかの資料を手にして、彼はレビンに振り返った。

「遺留品なんかは保管所に行かないとお見せできないですが…だいたいの資料ですよ」

「ああ、有難う!…っと、君の名前を聞いていなかった。俺はレビン、レビン・ヒュイットだ。できれば君に協力してほしい」

 はいよと手渡された資料を感謝して受け取ったレビンは、それから徐に自己紹介をして腕を差し出したが、ボサボサの茶髪にヘーゼルの瞳をした、随分と草臥れた出で立ちの刑事は差し出された腕を呆気に取られたように見下ろした。見下ろして頭を掻いている。

「?」

「いやまあ…ヴァル・シャンクリーだ。相方は別件で不在なんで、この件は俺だけになるけどいいですかね」

 軽い調子で差し出された手を握ってそれから溜め息を吐くヴァルに、レビンは頷いていたが、ふと首を傾げた。

「勿論!…この事件を独りで対応してるのか?」

「ん?ああ、連続殺人事件とは言え男娼殺しだからなぁ。若いモンはパッとしない事件にゃ興味がないんだと…おっと、これは失礼」

 やれやれと肩を竦めて呆れたように言ったものの、自分のうっかり失言に拙いと眉を寄せたヴァルの目線に、レビンはああなるほどと頷いて、それから同じように肩を竦めたみたいだった。

「いや、そう言うモンなんだろうな。大きな事件に繋がることもあるってのに、見極めるには経験が必要だ。アンタみたいにね」

 やれやれと溜め息を吐きながら、若く見える…いや、実際に年若いレビンは不満そうに洩らして、次いでニッと笑って目線を投げてくるので、ヴァルは相変わらず面食らったように呆気に取られている。

「よし!じゃあ、ヴァル。悪いがまずは事件の概要を簡単でいいから説明してくれないか?その後、証拠保管室まで付き合ってくれ」

 手にした資料で軽く肩を叩いてくるレビンの、その気さくさと勤勉さに内心感心し、ヴァルはこの若い担当捜査官を嫌いじゃないと思ったようだ。
 やれやれと、自分が受け持つ、殆ど誰もが見向きもしない男娼殺しに興味を持つ、短いブロンドが快活そうな印象を見せる緑の双眸の捜査官に、一旗揚げさせてやるのも悪かないかなと苦笑などしてみせる。
 本来自治体警察とFBI捜査官はあまり良好な関係にはないと噂されがちで、実際にそんな場面もあるワケだが、ことヴァル・シャンクリーに関してはそんなモノは何処吹く風で、たいして気にしている様子もない。
 長いこと市警の刑事をやっていれば嫌なことも反吐が出そうなことも、なんだって経験せざるを得ないのだから、自分が捜査を進めているフェアリーキル殺人事件の捜査権を持っていかれたところで、むざむざと逃げ果せた犯人が次の獲物を狙う機会を奪える挙句に、犯人が見つかれば惨殺された被害者の無念も晴れて万々歳だと思っているぐらいなのだろう。

「犯人は男娼や家出少年を狙って最低4人を殺害しているんだ。レイプ中に行われる異常性交で殆どの被害者は助かったとしても酷いことになってただろうが、致命傷はこの咽喉の創傷なんだそうだ」

 資料から取り出した被害者が遺棄された当時の写真を数枚見せると、ヴァルは咽喉元が大きく写された一枚のその部位を指先で示しながら説明する。
 だがレビンは、その一枚一枚を丁寧に確認した。
 大量の血液を失ったから…と言うワケではないのだろうが、この世ならざる者に変わり果ててしまった黄味を帯びた青白い全裸の少年は、自らの死に驚いたような、信じられないような…見開いた双眸に涙は零れていなかったが、ポカンと開いた口唇からは赤い血が零れて白い肌にこびり付いていた。
 全身の所々に殴られた痕跡のようにどす黒いうっ血が散らばり、身体は腫れ、腕は奇妙に捩じれ、足首は反対を向いている。
 最も酷い傷は下半身のものだろうか…傷だらけの両足の腿には尻から流れた乾ききっていないような血液がこびり付いていた。
 その人間だったはずのモノが、無造作に裏路地の汚らしい砂利とゴミだらけのアスファルトの上に転がされているのだ。

「レイプ後にナイフのような鋭利な刃物で咽喉を切り裂いて、絶命させるのがこの犯人の殺害方法だ。遺体は路地裏に放置。残念ながら体液の検出はなし」

 悍ましくも凄惨な遺体の有り様に唇を噛み締めて写真を戻すと、それから、レビンは頷いてヴァルのヘーゼルの双眸を見詰めた。

「なるほど。遺体を遺棄したとされる時刻と、この人物の取った行動、そして時系列が見事に一致してるんだな」

「多少の誤差はあるものの、そうだと思う」

 唇を噛んで苛々しているようにフェアリーキル殺人事件の資料と時系列を見比べるレビンに、直情的では先が思いやられるだろうにと内心で吐息して、だがヴァルはそんなレビンに苦笑しながら報告を続ける。

「血液の量がその場で殺したにしては少なすぎるから、恐らく犯行現場は別の場所だと考えて間違いないだろう」

 恐らくこの忌々しい男娼殺しの犯人は慎重な男なのだろう。
 遺体遺棄現場を散在させることによって捜査の目を撹乱させつつ、だが根本的な行動範囲は大袈裟に広いワケでもない。それどころか、散在しているわりには自分が危険にならない範囲に全て纏まっている。
 そして何よりも、誰もが見向きもしない…この大都会では日常で何人の少年たちが姿を消しているのか、その数は誰にも予想などできはしないだろう。その都会の闇を突いて、選んでいる獲物は社会から切り離された家出少年や男娼なのだ。

(慎重…と言うよりもこれは臆病って感じだなぁ)

 ふと、レビンはそう考えて首を左右に振った。

(この報告書がなければ誰もマーカスが容疑者など思いもしないだろう。だが、こうしてフェアリーキル殺人事件の資料を見てみると有名大学に通う学生の持つ、世間や、もしくは親に対する臆病な面が良く見える。報告書を見れば、確かに犯行はマーカス以外に有り得ないのだから)

 レビンは腹の底が冷えるのを感じていた。
 名高い大学に通い、両親は裕福で、誰もが男娼殺しの目など向けもしない上層階級のマーカス・カーウェイのその犯行を、名無しは短期間で狙いを定めて暴き出したのだろう。
 何故か彼が執着しているコータロー・アモウと言う少年のような日本人青年はシリアルキラーに悉く狙われているらしく、手始めにマーカスを殺したのだと嘯いたあの誰をも魅了するに違いない完全なる美貌を持つ名無しの殺人鬼は、ヒントをくれてやってるんだから自分の言葉を信じて行動しろと鼻先で笑っていた。
 これだけ慎重で臆病なくせに、どうしてマーカスはあの名無しの手にかかったのか?

「なぜお前はコータロー君に目を付けたんだ?」

「?」

 組んでいた腕を解いて腰に両手を宛がい、首を傾げるレビンを訝しげにヴァルが見遣った。
 これだけ慎重で、数週間の足取りの報告書がない限りは誰の犯行など判りもしない安全な場所にいたはずのマーカスは、どうしてあのお人好しの穏やかな日本人青年に危険を顧みずに目を付けたりしたのだろう。
 マーカスが獲物にするにしては、光太郎はとても危険な存在ではないのか?

「…それにしても、コイツはすごいな。まるで犯人の足跡を辿っているみたいだ。さすがFBIだなぁ。これだけで犯行現場もハッキリするんじゃないのかい?」

 ふと、数週間のマーカスの足取りを報告している書類を興味深そうに眺めていたヴァルが、感心したように皮肉めいた感じで苦笑して言った。
 他意などはなかったのだろうが、自分がコツコツと聞き込みをしたり物証を漁ったりしている傍らで、昨日今日携わったFBIはサラッと暴き出してしまうのだから…

(…ちょっと待て。この報告書はなんだ?!)

 ヴァルの感心した独り言に、マーカスの光太郎への興味に疑問を抱いていたレビンは顔を上げてヴァルを見た。そして唐突にハッとして、吃驚しているヴァルの手から書類を奪い取ると、その整然と緻密な文章が並べられている几帳面そうな手書きの報告書を見下ろした。
 最初に感じたあの違和感…そうだ、何故気付かなかったのか。

「これは手書きの報告書だ。タイプされていない」

「え?ああ、本当だ。なんだコイツは、豪く仕事熱心なヤツだなぁ」

「そうじゃない」

 額に浮かぶ汗を拭いもせずに、レビンは報告書をグシャリと握り潰した。
 証拠保管所になど行く必要はないし、サモンズ捜査官はその辺りが厳しいのだから、裏を取っておいた方が賢明だ。
 訝しがるヴァルの腕を掴んで、レビンは低い声で言った。

「よし、この報告書に沿って捜査するぞ。防犯カメラの確認が必要だ!」

「??…はあ、まあ別にいいけど」

 肩を竦めるヴァルを引っ張りながら部屋を後にするレビンは、この時漸く、自分が対峙している名無しの殺人鬼の底知れぬ恐ろしさのようなものを感じたのだった。

「光太郎!」

 院内は白を基調とした何処か心許無さを感じる、病院特有の落ち着かない雰囲気を醸していたが、それに似合わぬ厳しい声音に、看護師も患者も、ましてや医師ですら訝しそうな表情でこちらを見たものの、すぐに興味もなさそうに目線を逸らした。
 だが、そうはいかない黒髪の穏やかそうな面持ちの日本人青年は、自販機の前で吃驚したように兄を振り返っている。

「に、兄ちゃん?どうしたんだよ」

「なんで下に居なかったんだ?!」 

 切迫した面持ちで詰め寄る惟貴に、光太郎は酷く驚いた様子で困惑したように眉を寄せてそれに応えた。

「え?だって、グレンバーグ博士が時間がかかるから上で何か食べればいいって言ってお金をくれたんだよ」

「お前は…誰からでもモノを貰うんじゃないッ」

 あれほど毛嫌いしているように見えたグレンバーグもまた、光太郎の持つ穏やかな性質に絆されてしまったのか…だが、何れにせよ暢気に貰った小銭で自販機の菓子にあり付こうとしている弟は、ともすればシリアルキラーに狙われても致し方ないのではないかと惟貴は改めてゾッとした。

「俺、そんな子供じゃないってば。例の名無しのなんとかってヤツとの接見をボーッと待ってるだけじゃつまんないだろって言って、あのひと、なんか食べながら院内を散歩して来いってお金をくれたんだよ」

 プリッと腹を立てたような光太郎はグレンバーグに貰った小銭を自販機に投入すると、キャンディバーのボタンを押して、叩き出すようにして落ちてきたソレを取り出した。
 つまり、接見場面を見せてもらえない…いや、見せないように依頼していたから、見たがる光太郎に手を焼いての措置だったのだろう。
 とは言え、だからと言って易々と人から恵んでもらうと言うのは、年が年なのだから…と惟貴が言葉を噛み殺してやり場のない気持ちをどうしてくれようと歯噛みしていると、光太郎はキャンディバーのパッケージを開けながら唇を尖らせた。

「きっと、兄ちゃんが見せるなって言ったんだろうって判ったらからさ。だったら、あの場所に残ってても迷惑なだけだろ?だからお金をもらって上に来たんだよ」

「なるほど…だが、これからはもう少し大人らしい判断をして頂きたいものだな」

 えー、なんだよそれと、プリッと唇を尖らせて膨れっ面をする光太郎は、米国の甘すぎるキャンディバーを一口齧って、その甘さにニンマリご機嫌に笑った。
 無類の甘党である弟を、甘いものが苦手な兄はやれやれと、成長しているのかいないのかよく判らない、少年のようなあどけない光太郎の頭に手を置いてぽんぽんと軽く叩いた。

「光太郎、お前に話があるんだ。ちょっとそこに座ろう」

 精神病院だからなのか、それとも病院だからなのか、清潔な白で統一されている院内は、だが、いっそきっぱりと拒絶されているような潔さがあって、光太郎は少し居心地の悪さを感じながら消毒されている椅子に腰掛けた。

「兄ちゃんさ、眉間に皺が寄って難しい顔してる。何かあったんだろ?」

 ちょっと苦笑しながら首を傾げて見上げてくるその夜の闇のように点在する星が瞬く双眸は、遠い昔に離れてしまった時から少しも変わっていないように見える。身長こそ成長しているものの、幼さの残るあどけない面立ちも、見た目よりもさらりとした黒髪も、何処をどう見ても幼いぐらいで特段変わったところも、目を付けられそうなところもないと言うのに。

「何故、お前なんだろうな…」

「そっか、名無しのなんとかに何か言われたんだな…俺、あれからずっと考えているんだけど、やっぱりどうしても思いつかないんだよなぁ」

 甘いキャンディバーを齧りながら不満そうに吐息する光太郎の傍らに腰を下ろして、惟貴は困惑している横顔に語りかけた。

「どうやらお前は多くのシリアルキラーの標的になっているらしいぞ」

「ふーん。やっぱり、何かが原因だとおも…え?」

 気のない返事で頭の中を名無しの殺人鬼のことでいっぱいにしていたに違いない光太郎は、ふと、兄の言葉が漸くたった今脳裏に到達したようで、双眸を見開いて見詰め返してくる。

「ヤツは顔にも声音にも出さなかったが、それを強く懸念していた…これは私の憶測だが、ヤツはFBIにお前を護らせるためにわざと今回の事件を起こしたんじゃないかな」

「どど、どうしてそんな…ッ」

 明らかに動揺したように目を白黒させる弟には、恐らく事の重大さがあまりよく判ってはいないのだろう。だがその実、その重大な意味を唯一理解して先手を打っているのは、驚くべきことにあの悍ましい殺人鬼だけなのだ。

「お前、何か心当たりはないのか?アメリカに来て、何か変わったことをしなかったか?何かおかしなことを言わなかったか?なんでもいい、些細なことで構わないんだ。何か思い出さないか?」

 両肩を掴んで揺すりながら必死の表情で覗き込んでくる兄に言い募られても、光太郎はどうしてもピンッとくることは何も思い浮かばないのだ。
 兄たちに言われなくても、名無しの殺人鬼に面談相手として指名された時から、もうずっと何が原因で自分が殺人鬼に目を付けられたんだろうと考えていた。

「わ、判らないんだよ。ずっと考えているんだけど…此処に来て変わったことなんか、俺何もしていないよ。兄ちゃんにパーティーにも行くなって言われてたから、誘われても断ったし」

 困惑して不安そうな表情で首を左右に振る光太郎を見詰めても、答えは端から判っていた。一見、気弱そうに見えるが芯の強い光太郎ではあるのだけれど、兄の言いつけはよく守り、本当に勉学に勤しむだけにアメリカに来てしまったような弟なのだ。
 殺人鬼どもの理不尽な押し付けで、この可愛らしい弟は最大の窮地に追い込まれていると言うのに、何もしてやれない自分が歯痒くて仕方がない。

「…そうか。本当はヤツに関わらせるなど虫唾が走る思いだったんだが、こうなってしまえば、やはり何がそうさせてしまったのか殺人鬼自身に聞くしかないんだろう」

 惟貴はポツリと呟いた。
 弟の意思とは言え、実はギリギリまでまだ未練たらしくこのまま日本に帰してしまおうか?とすら考えていたのだが、事は命の危機ともなるとそうはいかない。
 レビンの答えを待ってもいいのかもしれないが、理知的な光を宿すシルバーグレーの双眸を持つあの血まみれの殺人鬼が、冷静且つ整然としたサイコキラーが、自分の量刑の軽減を求めるのでもない他者の為だけにこんな無茶をして…そう、ともすれば必死に光太郎を護れと訴えたのだ。
 それを考えるのならば、何処に居るのか顔も判らない殺人鬼どもが見守るなか、弟を日本に帰すことほどゾッとしないことはない。
 ともすればどんな酔狂を持ったシリアルキラー…いや、『自分が戻るまで』などと物騒な台詞を吐いた、弟に異常なまでに執着しているあのサイコキラー自身が、光太郎が日本に帰ると知ればどんなことを仕出かすか判ったものではない。剰え、名無しに感化されたシリアルキラーもいるかもしれない。
 そうなれば、空港は阿鼻叫喚にならないとは言い切れない。

「…俺は何をしてしまったんだろう」

 溜め息を吐く兄を見詰め、そして思い詰めたように俯いて呟く光太郎に、惟貴は何も言えなかった。
 何故人が人を殺すのか、その理由について名無しの殺人鬼は呆れたように『そうしたい欲求があるからだ』と嘯いた。そんなあやふやな動機の為に、弟は命を狙われていると言うのか。

「…勘違い、か」

 ポツリと呟いた兄の顔を見上げて、光太郎はソッと眉を寄せたようだ。

「お前はいったい、誰に何を勘違いされたんだろうな?」

 やわらかな黒髪に指を絡めながらわしゃわしゃと掻き混ぜて呟いたところで、光太郎には皆目見当もつかない質問であることは致し方ない。
 その優しい穏やかな笑顔を勘違いされたのか、困っている人をみると放っておけない性格を何か性質の悪い連中に勘違いされたのか…光太郎はお人好しで気が優しいから、勘違いされるとしたら全てなのではないかと惟貴は頭を抱えたくなった。
 ならば、毒を以て毒を制す…と言う諺の通り、毒には毒を、殺人鬼には殺人鬼で対抗するしかないのではないか。
 相手が単純なシリアルキラーであるのならば、こちらには、少なくとも光太郎に熱心な興味を持っているサイコキラーがいるのだ。我々のように正義に目が眩んでいる人間では見えないところを、闇に慣れた双眼を持つヤツならば全てを見抜くのではないか。
 何より、ヤツが光太郎に興味を持っているからこそ大事にしようと考えているその想いを、我々が利用したところで何が悪いと言うのだ。

「だがまあ、こちらにはFBIもついているんだ。ヤツがいれば鬼に金棒だな」

 クスッと惟貴は観念したように苦笑したが、相変わらず、ワケも判らず、まるで小動物のような心許無さで光太郎は小首を傾げている。
 今日から一週間、悪いモノも悍ましいモノも、何もかもをその脳裏に刻みつけて、彼はヤツと対峙しなければならない。その間に、その優しい心は何処まで蝕まれてしまうのか。
 真っ白で美しい、無垢なるものを護れるのだろうか…