Act.3  -Vandal Affection-

 夜明けからスコールが降り出したが、熱帯の雨は唐突に上がって、俺たちの作業の手を止めるほどではなかった。体も濡れたけど、すぐに乾くから平気だとコンカトス半島に良く来ているジジィ博士は言ったが、俺も別に気にならないから無視することにした。

「ふわぁ~」

 盛大に欠伸をして目許の涙を拭うと、周辺警備をしているレンジャーの1人、タユの奴がクスッと笑う。
 くそう、元はといえばコイツのせいなんだ。
 あの後、コーヒーで目が冴えた俺に遺跡まで散歩をしようと言い出して、俺はジジィ博士に断りもなく入るのはいけないんだと言って断ったけど、言葉が判らないせいで結局強引に連れ出されてしまった。全くの漆黒の闇の中、俺はタユの腕だけを頼りに前進したが奴は懐中電灯を懐に隠していて、月明かりに浮かび上がる遺跡を照らして見せてくれた。

「すげぇなぁ。明日、ジジィ…じゃなかった、倉岳博士がいよいよここに入るんだぜ」

 タユは静かに笑っていたが、俺の言葉なんぞ判っちゃいねぇんだろう。
 でもま、感謝しないとな。
 みんながまだ入らない場所に連れてきてくれたんだからさ。

「サンキューな、タユ」

「?」

 ニコッと笑うだけで首を傾げるこいつは、いい奴だ。うん、きっとそうだ。
 …とまあ、そんな訳なんだが、結局、悪いのは俺か?
 タユの行為を無にしないように、ありがたく胸に仕舞っておこう。

「なんだ、佐鳥。何時の間にタユと親しくなったんだ?」

 須藤が訝しそうに俺と、茂みの向こうでライフルを抱えて密林の奥を凝視しているタユの横顔を交互に見比べていたようだが、不機嫌そうに腕を組んだ姿勢で声を掛けてきた。

「親しくって…いやぁ、別にたいしたことじゃないんだ。言葉も通じないし、何となくかな」

「なんだ、そりゃ」

 遺跡の周辺に黙って入ったってこともあるので、俺がなんとか取り繕おうとチグハグなことを言うと、須藤はあからさまに訝しそうな表情をして眉間に皺を寄せる。

「どちらにしろ、あまり足手纏いなことはしてくれるなよ」

 神経質そうな表情に険を走らせて、勝手なことを言い散らすと須藤はさっさと行ってしまった。
 なんだ、ありゃ。

「佐鳥くん。申し訳ないんだけどこれをあれに替えてきてくれないかな?」

「ほいッス!」

 奇跡の12名に選ばれた小松雄二が申し訳なさそうに、と言うか、オドオドしたように緑色のバッグを差し出すのを受け取って、彼の言った【アレ】を探した。

(あり?ないや。誰か持ってたのか?)

 俺は頼まれた荷物を探して右往左往する。
 そろそろジジィ博士と須藤、他6名が例の先古典期のマヤ文明で知られるエル・ミラドールにあったティカル神殿に似た遺跡に入るみたいだ。
 ゾロゾロとそれぞれに何やら持っている。

「あ、【アレ】だ。まっずいなー、小松に言わないと」

 そうして徐に小松のところに引き返そうとした時、不意に、誰かに見られているような気配がして俺は背後の遺跡を振り返った。

「…?」

 昨夜感じた、あの奇妙な雰囲気に似てる。
 なんだろう、この気配は…
 俺は何故か酷く不安になった。
 その時はもう、俺の頭の中に【UMA】のことはなかった。
 誰かの悪戯だろう、そう決め付けてもいたし、タユたちの態度にもそんな噂が嘘のように思えていたんだ。
 だからなのかもしれない。この、得体の知れない腹の底から沸き上がるような恐怖は―――…
 嫌な胸騒ぎがする。

「すまん、小松。【アレ】、実動隊の連中が持ってっちまったみたいだ」

「ええ?そうか、困ったなぁ。あれがないと倉岳博士の仰られた石碑の解読ができないのに…あ、ありがとう、佐鳥くん」

 困惑するように眉根を寄せていた小松は、俺が立っていることに気付いて慌てたように頭を下げた。

「いいってことよ!…でも、必要なんじゃないのか?なんだったら俺が…」

 遺跡まで取りに行ってもいいし…と言いかけたが、小松は困ったように笑って首を左右に振った。
 ちっ、この俺が行きたかったのに。

「うん、大丈夫。なくても何とかできると思うから」

 そう言って持ち場に戻る小松の後姿を見送りながら、俺はふと、警備に来てる連中が少なくなっていることに気付いた。

(あれ?タユもいねーや)

 暫く考えたけど、そうか、実動隊の連中について行ったんだな、と判った。
 アイツ、見た目よりも結構強そうだったからなー…あれ?でもどうして遺跡に入るのにレンジャーの連中がついていくんだ?
 ああ、そうか。未知の遺跡だもんな、こんな密林だし何が棲みついてるか判ったもんじゃねーからな。
 残ってるのは…俺と小松、宮原に栗田、あと学生では紅一点の桜木ぐらいだ。
 それぞれが黙々と今日のノルマを無難にこなしているけど、雑用係の俺としてはやることがポッとなくなっちまった。人数少ないと、頼まれる用事も少なくなるんだ。
 で、なんとはなしにブラブラとジャングルの中を散歩することにした。
 奴らの声で帰ることだって可能な範囲の限られた散歩は、それでも俺に息を吐かせるには充分だった。汗だくになって動き回るのも嫌いじゃないが、こうしてのんびり異国の土地を散策してみるのも悪くない。
 毒蛇だとか毒蜘蛛なんかにも遭遇できて、おお、ここは本当に密林なんだな!と、実感したり。

「おっと、そろそろ戻らないと」

 気付いたら随分と遠くまで来ていて、今朝須藤に言われたばかりのことを思い出した。

(俺たちがいないからと言って、物見遊山でジャングルを見て回ろうなんて思わないことだ。ここは未知の土地だし、何が出てもおかしくないからな)

 たった今、毒蛇と遭遇すれば嫌でもその言葉に真実味が増してくる。
 そうだ、この密林にはUMAだっているかもしれないんだ。
 密林に吹く湿気を帯びた暑苦しい風に吹かれながらも、寒気を覚えた肌には鳥肌が立っている。たとえそれが偽物だったにしても、こんな雰囲気だとあながちリアルに思えてしまう出発前に見せられたあの写真が、脳裏を掠めて恐怖心を呼び起こさせるんだろう。
 慌てて踵を返そうとする俺の前に何かがドサリッと降ってきた。

「?」

 訝しく思いながら足元に無造作に転がる奇妙な物体を見下ろす。
 そして───…

「きゃぁぁぁぁぁーーーーーッッ!!!」

 突然、密林に響き渡る女の悲鳴が聞こえ、続いて乾いた銃声が数度繰り返し発砲された。
 銃声って、乾いた音なんだなとか、あの声は桜木かなとか、どこか遠くでそんなことをぼんやりと考えていた。目の前にある現実が理解できないのに、遠くで起こっている非現実的な銃撃戦なんて気にできるほど余裕はない。
 俺は、足元に転がる物体から目が離せないでいたんだ。
 こめかみから頬に向かって流れ落ちる汗も、めいいっぱい開ききった双眸も、全身総毛だっている体も、何だか全部が嘘みたいで。
 息が、俺の息が、漸く耳元に届いてきた。
 一瞬のフラッシュバックの後。
 これは嘘なんだと笑いたかった。
 足元に転がるそれは、顔半分を食い荒らされて眼窩が虚ろな空洞をさらす、人間の頭部だったんだ。

Act.2  -Vandal Affection-

 亜熱帯地方特有の密林は、風に湿気があって日本とは違う暑苦しさがある。
 荷物係の俺は、博士を手伝ってあれやこれやと最新機器と睨めっこをしている須藤を羨ましく思いながらも、太古の昔に生きていた人々が残した遺産を前に感嘆の溜め息を洩らしていた。
 鬱蒼と生い茂る下ばえの草と大木に囲まれて、その遺跡はひっそりと眠っている。
 今日から博士たちの実動隊はこの遺跡を眠りから目覚めさせるんだ。
 ゾクゾクするほど楽しいけど、運搬部の俺がすることと言えば不要になった荷物を縛って保管したり、みんなのできない雑務をしたり、ケーブルを到るところに張り巡らせたり、飯を作ったりと、専ら雑用ばかりだ。
 今だって肩に重い機材の入った袋を下げて、汗だくになりながら密林の中を右往左往している。

「佐鳥くーん!ごめん、これも持って行ってちょうだい」

 人遣いの荒い三浦女史が大声を張り上げて俺を呼ぶ。
 そう言うことは、頼むからさっき言ってくれよな。あんたの前をほんの1分前に通ったじゃないか。

「佐鳥くんってば!」

「へいへい。そんなに怒鳴らなくても聞こえてますよッ!」

 俺は肩から重い袋を下ろし、三浦女史の所まで走って行った。

「ねえねえ、この遺跡ってちょっと変じゃない?」

「は?ヘンですか?」

 奇妙なグッズ一式の入った袋を差し出しながら三浦女史がコソコソと言うから、俺はそれを受け取りながら後方にある静まり返った遺跡を振り返って見た。木々の枝の隙間から射し込む陽射しに、その姿は荘厳な雰囲気を醸し出している。
 マヤ文明で有名な、ティグレピラミッドの形に良く似ている。でも、どちらかと言うとエル・ミラドールにあった小規模なティグレ神殿の方があってるかな。

「どこら辺がヘンなんスか?」

 俺にはさしておかしな所は見当たらなかった。コンカトス半島では珍しくないテの遺跡だ。

「ほら、あの紋章を見て。ここら一帯の豪族のものとは明らかに違うじゃない。なんだかこう、もっと現代っぽい匂いがするのよね」

 32歳と言う年のわりには若々しく見える三浦女史は、顎に右手の人差し指の第1関節を押し当て、興味深そうにピラミッドの頂上付近にある小さな紋章を食い入るように見つめている。

(現代っぽいねぇ…)

 未だここらいったいの時の豪族を把握しきれていない俺としては、そんことを言われても首を傾げるしかない。こんな時、須藤はとっても役に立つ。

「須藤に聞いたらどうですか?俺なんかと違って、ぜってぇ予習とかしてきてると思うから」

「あら!嫌よ。あたしは佐鳥くんだから話してるの。他なんてオタンチンよ」

 オタンチンって…

「佐鳥!見取り図を持ってこい!」

 博士と何やら話し込んでいた須藤が腰に片手を当てて俺に腕を差し出している。

「へいへい!」

 …ったく、人遣いの荒い連中だ!

 渡航日前の1週間は、本来予習復習の為に空けられている時間だった。
 どうせ運搬部なんだからと、俺はバイトに明け暮れて体力をもう少し養っておくことにした。そんな奴、考古学学科にゃいないと思うだろ?チッチッチ、考古学ってのは結構体力の要る分野なんだ。だから俺のようにガテン系でバイトしてる奴は結構少なくない。なんたって女の子だっているぐらいなんだぜ。
 ま、俺ほど働いてる奴はいねぇけどな。

「光太郎ぉ~、知ってっか?」

 寮の同室であり教育学科の御前崎が、胡乱な目付きで寝転がってる俺を上から覗き込みながら唇を尖らせた。

「知らん!お前の好きなアユなんて知らん」

 魚ぐらいしか…と言おうとして、俺は奴に脇腹を蹴られてしまった。

「アウチッ!」

「真剣に言ってるんだぜ!あのなぁ、お前らが今度行く遺跡のある、ほら、なんて言ったかな?コカ?コカトリスだっけ?」

「コンカトス」

「そう、それだ!」

 そう言ってポンッと拳を掌に打ちつけた御前崎は頷いて、そして徐に俺の横にどっかりと腰を下ろした。

「コンカトスがどうしたんだよ」

 日夜のバイトでヘトヘトに疲れた体を長々と横たわらせていた俺はむくりと起きあがると、傍らでやけに神妙な顔つきをした御前崎に眉を寄せる。

「あのさぁ、お前ってちゃんと自分が行く国のことを調べてるか?」

「はぁ?ヤダよ、面倒くせぇ」

「お前なぁ…」

 御前崎は呆れたように息を吐いて、苛々したようにビシッと人差し指を突き付けて来た。
 人を指差すなんていけないんだぞ。…と、言ってやろうと思ったけど、御前崎の迫力は半端じゃなくて、俺は取り敢えず言い訳を試みた。

「地図を見るってだけでも頭が痛くなるんだよな。ましてや国家情勢なんて関係ないっての」

「バカか?お前はバカか?…おいおい、その頭ん中は本当に脳味噌が詰まってんのか?筋肉じゃあないだろうな」

 真剣な表情で俺の頭を両手でガッチリ掴んだ御前崎は、これでもかと言うほど前後に揺さぶりやがる!

「な、なにすんだ!この野郎ッ」

「極めて簡単なインターネットって手があんだろう!?この頃、ネットサーフィンしてると決まってUMA関係のページに飛んじゃうんだよな。つーのも、お前が行くコンカトスをW-TRENDYで検索したらヒットするんだよ」

「UMA?」

 聞き慣れない単語に俺が首を傾げると、大丈夫かなぁとでも言いたそうに眉を顰める御前崎は、呆れを通り越して本気で心配しているようだった。

「未確認生物のことだよ。なんでも、コンカトス半島に広がる密林にそのUMAが出没するらしいぜ」

「おおかたデマじゃねぇの?ネットの世界はそんなの多いって聞くし」

「そうとも一概には言えねぇんだぜ。プリントアウトしたんだけど…」

 そう言って御前崎はよれたジーパンのポケットからクシャクシャの紙を取り出した。
 おいおい、お前こそ人に何か見せる時に、その資料をクシャクシャにしてるのかよ。たぶん、半分も見れないんじゃないのか…

「…?」

 俺は最初、それが何であるのか判らなかった。
 緑が生い茂るジャングルの中、何かがぶら下がってる。
 何かが…

「ぅぐっ!?」

 思わず吐きそうになって口許を覆ってしまう。
 それは、そのプリントアウトされた代物は…木の上にぶら下がっていた人間の首だった。
 いや、首と言うよりもなんて説明するべきか…本来あるはずの下半身がなく、背骨だとか内蔵が引き摺り出されて剥き出しになっていて、その先に頭部がだらりと垂れ下がった血塗れの肉の塊とでも言うべきなんだろうか。へたなスプラッター映画を見るよりも胃にきた。

「な、なんなんだよ!?それッ」

 俺は思いきり尻でいざって後方に飛びのくと気味の悪いその紙を投げ出していた。

「だから、UMA。それも、どうやら飛びきり狂暴な」

 どこか遠くから呟くように、俺の投げ出した紙片を拾いながら、御前崎はやけに冷静な声音でそう言ったんだ。

(アレってなんだったんだろう…)

 昼間の重労働でクタクタになってるんだから、ぐっすり眠れるはずのテントを抜け出すと、俺は警護として雇われている地元のレンジャーの連中が囲む炎に仲間入りさせてもらって、炎から舞い上がる火の粉が満天の夜空に吸い込まれていくのを見上げながら、出発前に御前崎に見せてもらった写真のことを思い出していた。
 下半身を食い千切られて、上半身だけ、まるで襤褸切れのように投げ出されていた無残な死体。
 思わず胸が悪くなって、俺は眉を寄せた。
 いや、あんなモノはきっと誰かの、性質の悪い悪戯なんだろう。
 あんなことが現実に起こってたりしたら、それこそ世間が黙っちゃいないだろうし…
 さっきから隣りの、迷彩服に身を包んだ俺と同い年ぐらいの男が、そんな風に物思いに耽っている俺にやたらと話しかけてくる。

「ごめんな、俺、言葉が判らねぇんだ。須藤とかだったら、全然OKなんだろうけど」

 地元の言葉で陽気に話しかけられても、勉強不足の俺には理解なんて到底できそうもない。日本語で申し訳なく謝ると、若い男は暫く何かを考えているようだったが、徐に自身を指差した。

「タユ。タユ=キアージ」

「…?ああ!お前の名前か?そうか。じゃあ、俺。俺な?コータロー。コータロー=サトリ」

「コータロー」

 ぎこちなく自己紹介するとタユの奴はすぐに理解したようで、屈託なさそうに笑って片手を差し出した。よく日に焼けた褐色の肌に、白い歯が爽やかな好青年を印象付ける。
 俺だってたいがいバイトで体を鍛えてるつもりだったけど、こいつら、密林を住処にして仕事をしている連中に比べるとすっげぇ生っちろくて頼りなく見えるんだ。当たり前か、ジャングルで猛獣とだって格闘してんだからな、俺なんかが勝てるかっての。
 ひょっとして、コイツらだったら例のUMAのことを知っていたりするんだろうか?
 噂とかにもなってるだろうし…言葉さえ判ればなぁと思いながら差し出された手を愛想良く握り返してギョッとした。
 見た目通り、こいつの手の力強さは思わず眉を顰めてしまうほどだったんだ。
 構内で行われた「腕相撲大会」で2年連続優勝した、この俺が。

『日本人を虐めるのはそのくらいにしとけ。大事なお客さんだからな、タユ』

『わかってるさ。こいつがあんまり馴れ馴れしくて可愛いんでね』

『ケッ、嫌な病を流行らせるんじゃねぇぞ』

 地元の言葉で会話をして一斉に笑うタユたちに、俺は怪訝そうに眉を寄せながら、早くこの手を放してくれないだろうかと思っていた。痛いんだよ、思いきり!

「痛いんだって、マジで。放せよッ」

 俺が必死で手を引こうとすると、漸く気付いたスカンチン野郎はなぜかわざとらしく大袈裟に眉を寄せて手を放した。
 すまない、と言っているようにも見えるその態度に、俺は仕方なく許してやることにした。本来の力が強いんだろうし…まさか、わざとって訳でもねぇだろう。

「コータロー」

 日本じゃ殆どの奴が俺のことをそう呼ぶんだが、ここに来てからはみんな苗字でしか呼ばないから、その独特な異国訛りのある発音で呼ばれると懐かしくて、俺はすぐに気に入った。
 俺を呼んでタユが差し出したマグカップには、深夜を通して野営する彼らの為に用意された飛びきり濃いコーヒーが満たされている。

「お、おう。サンキューな」

 ありがたく受け取りながらも、俺はそれを口にすることに躊躇った。
 何故かって?…俺はガキじゃねぇんだけど、ブラックコーヒーってのが苦手なんだよな。別に飲めないって訳じゃないんだけど、こいつを飲んだ夜は眠れなくなってしまう。明日も朝から荷物運びだってのに。

(ま、いいか。バイトで夜遅いのは慣れてるし…)

 そうして俺が、そのマグカップに口をつけようとした、まさにその時だった。

「!」

 ガバッと咄嗟に遺跡の方を振り返った俺を、タユとその仲間たちは驚いたように眉を上げたが、キョロキョロと周囲を見渡して訝しそうに首を傾げる俺を見て大いに笑ってくれた。クソッ。
 おおかた、動物の気配に驚いたんだろう、とでも思ってるんだろう。
 …でも、なんだったんだろう。今の気配は。
 首の後ろがチリチリするような…怖気みたいな。
 殺気…?いや、まさか。だいたい殺気ってのはなんなんだよ。俺がそんなの判るわけないよな。
 それだったら、タユたちの方が真っ先に気付くはずだ。きっと、何かの間違いだろう。
 俺は自分にそう言い聞かせて、笑っているタユを小突いた後でマグカップのコーヒーを飲んだ。
 苦くて、胃に染みるコーヒーに眉を顰めていた俺は気付かなかった。
 暗い暗い、漆黒の闇が支配する密林の奥地で、ひっそりと佇む旧時代の遺跡から見つめてくるゾッとするほど冷たい、滑るような嫌悪感を抱くその双眸の存在に。
 見知らぬ異国の地で言葉の判らない現地の連中と会話する、そんな風にその夜は深けていった。

Act.1  -Vandal Affection-

 俺は膝を抱えて蹲っていた。
 いったい何がそうして、こんな状況に陥ってしまったのだろう…
 考えても始まらない夜は、暗い暗い、月明かりだけが頼りの熱帯雨林の中で暮れようとし
ていた。

 冒険家───確かにそんなものに憧れていた時代もあった。
 高校を出る頃にはそんな夢物語、とっくの昔に諦めていたはずだった。
 大学に入ってから、それでも忘れられないでいた子供の頃の夢が半端に叶って、俺は考古学を専攻することに成功したんだ。
 老いぼれた教授は博士号を習得していて、その分、嫌になるほど頑固なジジィでもあった。点付けとかも厳しく、ほんの一時間でも授業をすっぽかすと落第だと喚きたてる、そんなヒステリックな一面を持っている、実に厄介なジジィだ。
 でも、今回の俺はそんなジジィ博士に感謝しなくてはいけない。

『新しく発掘するべき旧世界の遺産が、南米のコンカトス半島で発見された』

 それは、俺たち考古学の教室がある構内で実しやかに流れた飛びきり一級品のニュースだった。
 外れるだろうな。俺は運が悪いから。
 発掘隊のメンバーは、この大学での伝統的慣わしになっている抽選で決まる。
 伝統と言ったってたかが知れてる。
 まあ、なんと言うか…あみだくじとか、あるいは単なるくじ引きと言った感じだ。
 どちらにせよ、ジジィ博士の気紛れで決まるってのは言うまでもない。
 俺は、あの博士には睨まれているからなぁ…
 普通のサラリーマンの家庭で、一流とも謳われた私立の大学に行くことは自殺行為でもある。
 その上、俺の家はある意味、適度に貧乏だ。
 だから、単位を落とさない程度に授業を受け、あとは四六時中バイトに明け暮れている俺の身体はそれなりに肉体労働には向くようになっていた。でもまあ、そんな身体を作ってるが為に、ジジィ博士に目をつけられることになっちまったんだけどな。
 つまり、えーっと…そんなヒステリックな博士の授業中でも、俺はその、お構いなしに熟睡しちまうってワケだ。
 夜明けと共に起き出して、次の日の夜明け近くに眠る。
 そんな奇妙な習慣が、俺に毛の生えた太い神経を培わせた。
 そんな俺でもやっぱりドキドキはするんだなと、当選確率の極めて低い抽選箱に、汚い字で走り書いた学科名と名前と学生番号の記載された白い紙を投入した。
 当たりますように…必死で願っていた。
 その結果が、俺に人生で最悪の道を歩ませることになるなんて、思いもせずに…

「佐鳥光太郎!やったじゃーん!」

 突然、高校時代からの友人である御前崎彰が背後から抱きついて、構内で、しかも人の目もあるというのに問答無用で歓声を上げた。…いや、奇声とでも言うべきか。

「なんだよ、彰。いきなり人をフルネームで呼びやがって」

「…って、何だよ。感動が足りねぇなぁ…って、もしかしてまだ知らないのか?」

「知るって、なんのことだよ」

 俺はこれからジジィ博士に呼ばれてるんだ。たぶんに、授業態度と成績のことなんだろうけど。だから御前崎に付き合ってる暇はないんだよ。
 明らかに訝しそうに眉を寄せる俺に、同じ構内にある教育学科の御前崎は含めた笑みを零しながら、俺の脇腹を肘で小突いた。痛いんだってマジで。

「とにかく、大講堂の前に行ってみろよ。すんげぇものが拝めるんだって」

 【すんげぇもの】…と言われてもいまいち感動できない。大方、コイツが言ってるのは春先に行われる寮祭に来る芸能人のことだろう。
 プッチモニとか、ミーハーな連中が喜びそうなヤツを連れてくることから、この有名私立大学の寮会長の人気は鰻上りなんだ。俺としては、あんまり興味がないんだけど。

「行けって!いいから、ほら」

 背中を押されても困る。だから俺は、これからジジィ博士んとこに行かなきゃ拙いんだって。

「いいよ、別に。興味ないし」

「マジで!?だったらなんで応募なんかするんだよ」

 不満そうに唇を尖らせる御前崎。
 ん?今、何て言った。

「なに、ヘンな顔してんだよ。自分で決めたくせに。あ~あ、派手に喜んでやってソンした気分だぜ」

 御前崎はガッカリしたように溜め息を吐いて、胡乱な目付きで俺を睨んできた。
 いい、ちっとも怖くなんかねぇ!

「どう言うことだ!?まさか…発掘隊の…」

「メンバーリストが貼ってあるんだよ。合格者の」

「こいつ!そう言う大事なことは早く言えッ」

 親切にも教えてくれた上に喜んでくれた友人の脇腹を、俺は容赦なく手刀で突いて、あまりの痛さにうめいて蹲る御前崎を残したまま脱兎の如く大講堂まで走った。
 スマン、御前崎。今はお前のことなんか構ってるヒマはないんだ。
 俺が肩で息をしながら到着した時にはもう、数人の見知った顔が神妙な顔付きで講堂の出入り口付近の壁を睨みつけながら、ある者は落胆し、ある者は嬉々とした顔をし、またある者は当然そうにニヤリと笑っていた。
 そのニヤリ笑いの男、秀才の須藤義章に俺は声を掛ける。

「その顔だと受かってたんだな」

「ん?なんだ、佐鳥か。まあな、あの倉岳博士がこの俺を選ばないはずがなかろう」

 誰もが一目置く秀才の須藤と、誰も俺の名前なんか知っちゃいねぇ佐鳥の組み合わせは、知らない内に構内でも噂になっているらしい。
 コイツと知り合ったのはごく簡単な切っ掛けだった。
 別にそれほど大した理由じゃないと思う。
 たまたま講堂で席が隣同士になり、たまたま奴が間抜けにもシャーペンを忘れ、たまたま俺がそれを貸してやった。ただそれだけのことなんだ。

「へいへい、秀才さまは完璧でいらっしゃる」

 俺が呆れたように肩を竦めて嫌味を言うと、須藤はちょっとムッとしたように唇を尖らせたが、次いですぐにその口角をクッと上げてニヤリと笑った。

「お前も受かってるぞ。どうした気紛れだろうな?あの倉岳博士が」

 よほど意外だったのか、須藤のみならず、その場にいて聞き耳を立てていた考古学専攻の学生どももこっそりと頷いていたりする。
 なんだよ、その反応は。
 でもま、当たり前と言えば当たり前なんだがね。
 落ちこぼれのこの俺さまが、まさか受かってるなんて、何かの間違いじゃないのかと落っこちた連中が思うのも無理はない。
 俺は、結局色んな奴から教えてもらったけど、漸く自分の目で事実を確認することができた。
 嬉しくて嬉しくて、柄にもなくドキドキしながら。
 五十音順で縦に並んでいるサ行に、その名前は載っていた。
 110人中、奇跡の12名だ。
 博士の達筆な字で、1名1名直筆で書いていた。
 名前の下に各所属が、これはワープロか何かで打ち込まれている。

【佐鳥光太郎 ─所属:運搬部─】

 やっぱり。
 体力にだけは自信のある俺のことだ、大方そんなもんだろうと高は括っていたし、だからと言って行きたくないなんて言うわけもない。運搬だろうがなんだろうが、喜んで引き受けるさ。
 費用も渡航手続きも全て大学持ちなんだ。
 こうして、俺の生まれて初めての海外旅行はジャングルに決定したのだった。

 ジジィ博士の用件はつまり発掘隊のことで、俺だけじゃなくて須藤以下10名も呼ばれていた。
 簡単な講習を受け、さらに適正を入念に調べた上で漸く本決定となる。
 その晩俺は嬉しくて、寮の同室である御前崎と祝杯を強かに上げた。
 渡航日は1週間後に迫っていた。