第二部 10.烈火の傷痕 -永遠の闇の国の物語-

 森の中を駆け抜けていた魔軍の副将は、ふと、草の汁や泥に汚れた足を止め、刺青が這う頬に金の髪を零しながら、空色の双眸を細めて眼前に佇む砦を見上げていた。
 その砦は第二の砦として、ラスタランに程近い魔軍の治める砦であるはずだった。だが、今は狡猾な沈黙の主の指揮の下、ラスタラン側に落ちてしまった。
 更にラスタランに近い第一の砦は、忌々しい結界に護られ魔軍の手から奪われてしまっている。抜け目のない男である沈黙の主は、何よりもラスタランに近い砦を落とし、生き残っていた神官どもを総動員して、古の結界で魔軍を遠ざけてしまった。
 あの砦が手に入れば…恐らくはもう少しでも、この戦況は魔軍に有利であったはずなのに、僅かなミスで敵将に奪われてしまった。シンナは唇を噛み締める。
 その様を、ゼィとともに指を咥えて見ているしかなかった、あの壮絶な敗北感、もう二度と味わいたくはないと思っていたはずなのに…
 今目の前のこの砦にあるはずの、魔軍の太陽を、またしてもむざむざと人間に奪われてしまった。そのミスを招いてしまった自分の不甲斐なさに、シンナは頭の芯が焼け付くほどの憤りを感じていた。
 ここに、確かに光太郎はいるはずだ。
 ふと、目線を戻したシンナには確信めいた思いがあった。何故ならそれは、彼が残す気配がこの場所には充満しているからだ。
 遠い昔に人間として生きる道を捨ててしまったディハールの鋭敏な嗅覚に、光太郎が残した匂いと、そして胸が痛くなるような想いが感覚として残されているのを嗅ぎ取る力を持つシンナだからこそ、この砦に光太郎がいると確信できているのだ。
 さて、どのようにして侵入するべきか…
 小柄な少女は鬱蒼と生い茂る腰丈ほどの木々の隙間に身を潜めながら、その内部を熟知してはいても、今はどのような変貌を遂げているのかも判らない砦への侵入方法を考えていた。
 と。
 数人の衛兵らしき人間どもが、見張りがてらの散歩にでも出てきたのか、暢気なお喋りなどしながらぶらぶらと城門から出てきたではないか。

(コイツらを使わない手はないわねン)

 だが、そうは言ってもどうやって使うべきか…決まっている、誰かひとり殺して成りすませばいいのだ。
 そこまでシンナが考えてニヤッと笑った時だった。

「地下牢の魔物ども、今夜にも嬲り殺しなんだとよ」

「ああ、もう用はねーしなぁ」

「いらん食い扶持はさっさと始末しねーと、俺たちが上に喧しく言われるんだ」

 口々に忌々しげに言い合う人間たちの会話を聞いて、シンナは竦みあがってしまった。
 今、なんと言った?

(地下牢の魔物どもを嬲り殺すですってン?)

 その捕虜の中には、自分を暗い淵からなんの見返りもないのに、微笑んで救い出してくれたあの優しい光も含まれているのではないか…いや、含まれているのだろう。
 裏切り者の人間を、人間どもは許さなかったに違いない。
 どんなに辛い目に遭っているのか…想像すれば胸が痛むが、シンナはキュッと唇を噛み締めて、魔軍が築いた堅牢な城壁に小便を垂れる人間の見張り兵たちを睨んだ。
 自分の顔は既に割れているのだが、人間などは思い込みの生き物でしかない。
 シンナは慌てて血染めの白い甲冑を脱ぎ捨てると、顔を泥で汚し、それから、腿に挿していた鞘から短刀を引き抜くと、腕と脇腹を斬ったのだ。一瞬、顔を顰めはしたものの、すぐに身体中の刺青を発光させたていた。一瞬、サァッと光が渦巻いたが、立ちションに夢中な人間どもが気付くことはなかった。
 彼らが気持ちよく用を足した後、何気なく振り返ったちょうどその時、ふらふらと森から現れた人影にハッとした連中は、素早く腰に佩いた鞘から抜刀して身構えた。
 慌てたように戦闘態勢に入ろうとした小柄なディハール族の者は、それでも傷付き疲弊しているのか、肩で息をしながら脇腹を押さえ、ジリジリと後退しようとしている。
 最強と謳われるディハールの逃げ出そうとしている姿に、見張り兵たちは一瞬目線を交えたが、それからニヤッと笑ったようだった。

「おい、見ろよ。ディハールの生き残りだぞ」

「ここまでのこのこ来やがって。この砦が沈黙の主様のモノになっていると知らなかったんだな」

「おもしれーじゃねーか。捕まえようぜ」

 口々に囁きあっているその声が、傷付き疲弊したふりをしているディハール族の耳に、まさか届いているとは知る由もない、憐れな人間どもに茶色の髪を持つシンナは俯き加減にニヤッと笑った。

(そうよン、疲弊してるディハール族なんてそうそういないんだから、早くお城の中に入れてちょーだいなン)

 その相貌は確かにシンナではあるのだが、髪型と色の変化、そして瞳の色の変化で、自分たちが捕らえようとしている人物が、まさか魔軍の副将だとは思ってもいないのだろう、ニヤニヤ笑って近付いてくる見張り兵たちに、シンナは手にしていた短刀を振り翳した。

 「おっと」…とかなんとか、両手を挙げるようにして軽くかわしながら笑った人間の顔を、一瞬、忌々しそうに睨みはしたが、不意に怯えたような顔をしてシンナは『やめて』と呟いた。
 その少女らしい声に、見張り兵たちの内に渦巻く欲望に火を付けてしまったのか、なんとも嫌な目付きをしてゴクリと咽喉仏が上下に動く。

(何時見ても嫌なモンねン。でも、今は仕方がないわン…ゼィ、ごめんねン)

 胸の奥にいつでも大切に仕舞っている愛おしい顔を思い出して、しかし、シンナは強い意志を双眸に秘めて、怯えたような表情を彼らに向けるのだ。そうすれば、単純な見張り兵たちは傷付いた物珍しいディハールを捕らえるだろうし、万が一にも犯されたにしても、捕虜の行き着く先は地下牢だと決まっている。
 あの光を取り戻せるのなら、どうとでもなれる。
 シンナは3人の見張り兵と対峙しながら、白い布を血に染める脇腹を押さえて、この世界にたったひとつしかないやわらかな光を取り戻すために、大地を踏み締める足に力を込めていた。

Ψ

「お前ら、何をしている?」

 怯えるディハール族に襲い掛かろうと見張り兵たちが行動を起こしたまさにその時、低くはあったが、腹の底に響くような声音には、その場に居た誰もが金縛りにあったように動けなくなってしまった。
 魔軍の副将であるシンナですら、一瞬目を瞠ったぐらいなのだ。だが、すぐに怯えたディハールを演じて、人間どもと同じように竦んだふりをした。
 こんなところでバレてしまっては、これまでの努力が全て水の泡になってしまう。

「こ、これは…エルローゼ様」

 見張りの独りが慌てたように片膝を折り、胸に拳を当てる騎士の礼をしたが、他の2人は逃げ出そうとするディハールに剣を突き付けたままだが、恐縮しているのはよく判る。

(エルローゼ?…ってン、ふーん、コイツがあのン)

 シンナと同じような純白の甲冑に身を包みながらも、鎧すら押し上げるような豊満な胸を持つ、まるで美の女神の彫像がそのまま人間になったような、美しい女戦士は野蛮な見張りどもに一瞥をくれただけて、脇腹と腕から血を流す、ガクガクと足が震えている、今にも倒れそうなディハール族に目線を向けた。

「魔族の残党か。地下牢に入れておけ」

 呟くように言ったが、ふと、その黄金色の豊かな髪に包まれた華奢な頤を持つ顔の中、印象的な菫色の双眸が獰猛な肉食獣のように細められ、不満そうな見張り兵たちをジロリと睨むと、撓る鞭のような声音で言うのだ。

「四方や…不埒なことを考えていたワケでもあるまい。地下牢に放り込んでおけ!」

「は、はは!」

「承知致しましたッ」

 たかが女、されど女…シンナは脇腹を押さえたまま、肩で浅く息を吐きながら、魔城でも噂の女戦士の威風堂々した、男勝りの風貌に見蕩れていた。ここにシューが居れば、喝采の尻上りの口笛が響いたことだろう。
 思わず唇の端に笑みを刻みかけたシンナはだが、すぐに痛みに顔を歪めた。それは、鋭い菫色の双眸が自分を捉えた瞬間の逃げの一手…だけと言うワケではなかったのだろうが、絶妙のタイミングで目線を逸らすことに成功した。

「異なことだが、まぁいい。高潔なるディハールが自害もせずに身を晒すのも面白いじゃないか」

 ぽってりとした妖艶な唇に笑みを浮かべた麗しの女戦士は、それでもつまらなさそうに蜂蜜色の髪を掻き揚げるとさっさと砦内に消えてしまった。
 その後ろ姿を見送っていた3人の人間たちは、詰めていた溜め息を吐き出して緊張を緩めたようだった。

「やはりエルローゼ様は迫力がある」

 誰かが呟くと、声も出せずに頷く連中を見遣りながら、シンナはそれでも内心は穏やかではなかった。
 まるで女神のような麗しさを持つ、噂に違わぬ美麗な女戦士を目の当たりにして、ムシャクシャしている…と言った方が的確な表現なのか、何れにせよ、砦内に入り込むことに成功したシンナは、そんな見張り兵たちに言ったのだ。

『早いところ地下牢に入れてくれないかしらン。脇腹が痛いのよねン』

「へ?」

 思わず呆気に取られる見張り兵たちに、先ほどまで確かに怯えて竦んでいたはずの魔族の残党であるディハールは、まるで何事もなかったかのように腕を組んだまま、勝気な表情でニヤリと笑っていた。

Ψ

『…ッ!』

 首を傾げている人間どもに引っ立てられて、魔族の捕虜たちが押し込められた地下牢に投げ込まれたシンナは、後ろ手に縛られていたばかりに受身を取れなかったものの、慌ててその身体を支えるように伸ばされた魔物たちの腕によって倒れることはなかった。
 が。

『痛いわねン!もっと丁寧に扱いなさいよンッ』

 口喧しいディハールの厳しい声に怯えたように、人間の見張り兵たちは慌てて地下牢から姿を消した…と言うのも、この地下牢には魔族では第一の砦、人間たちは第五の砦と呼ぶその場所に張り巡らされた結界と同じように、魔族から力を奪う古の結界が張り巡らされているのだ。その中にあっても、元来は人間であるディハールは、特殊な刺青によって魔力を手に入れた経緯からか、その結界の効力が効いていないのだ。とすれば、最強を謳うディハールが、どうも何故かいきなり元気を取り戻しているのだから、たかが見張り兵如きでは太刀打ちできないのだから、さっさと逃げ出すことにしたのだろう。

『…ったくン、失礼しちゃうわねン』

 プリプリと腹を立てているシンナは、魔物の一匹が驚いたように目を見開いて自分をマジマジと見詰めているのに気付いた。いや、よくよく見れば、その場に居る全員が、信じられないものでも見るような目付きで凝視しているのだから、シンナが思わず噴出したとしても仕方ない。
 人間どもの曇った目は騙せても、流石に魔族たちは騙せなかったと言うことだ。

『なんてツラで見てるのよン?』

 両腕を戒めていた縄を、まるでナイフのような爪で切ってもらって、血の滲む手首を擦りながらニヤッと笑っておどけたように肩を竦めて軽口を叩くシンナの、闇の国に在って知らぬ者など居ないその声に、魔物たちの間でどよめくような歓声が上がった。

『…し、シンナ様!やっぱりシンナ様だッ』

『シンナ様ッッ』

 魔物たちは俄かに活気付いて喜んでシンナを見詰めていたが、ふと、すぐにみんなが目線を交えたのを彼らを統べる魔軍の副将が見逃すはずがない。

『なにン?どうしたのン??…ねぇ、光太郎は何処にいるのン』

 眉をソッと顰めたものの、ハッと気付いたようにシンナが周囲を見渡した。これだけの魔物の中に在っても、きっとこんな場合、誰よりも先にあの元気な人間は自分に駆け寄ってくるはずなのに…それを期待していたのに。
 期待外れは嫌な予感を呼び寄せる。

『し、シンナ様!光太郎はここにはいないでやすッ』

『もしかして…階上にいるのン?』

 切羽詰ったような仲間の声に、人間だから、光太郎はここではなく、奴隷として人間たちに扱き使われているのだろうか…そう考えただけで、シンナは目の奥が真っ赤になったような気がして、奥歯をギリッと噛み締めた。
 だが、魔軍の副将が思うほどに…物事の流れは複雑だった。

『シンナ様!こんなところに居てはダメっすよッ。光太郎はここにはいないんでやす!!』

『どうか、光太郎を助けてくださいッ!!!』

『俺たちじゃどうすることもできないんですッ!シンナ様、お願いしますッッ』

 まるで凄まじい形相をした魔物たちは、呆気に取られているシンナを鉄格子まで追い詰めるようにして詰め寄ると、まるで懇願するように口々に言い合うのだ。現実的に泣いている魔物もいて、シンナの胸に嫌な予感が浮かんでいた。

『何か…あったのねン?』

 それまで喧々囂々と言い募っていた魔物たちはふと静まると、お互いに目線を交えて、それから代表するように犬のような頭部を持つ魔物が進み出て、シンナの前に片膝を折るようにして、床に両の拳を突きながら顔を上げて言った。

『…光太郎は、その前の牢獄に入れられていました』

『…そうン』

 背後にある、今は無人の牢を肩越しに見遣って、その内部でどれほど辛く寂しい思いをしたんだろうと、想像するだけで脳みそが焼き切れそうな気がしたが、シンナはその怒りをグッと抑えて、何が起こったのか、どうしてこれほどまでに魔物たちが嘆き悲しんでいるのか、その理由を聞かねばならないと思っていた。それこそが、自分が犯してしまった過ちへの罪であり、罰なのだから…

『俺たちは尋問を受けてボコボコに殴られました…光太郎も、人間を裏切った裏切り者だと言って、酷く殴られていました』

『…ッ』

 シンナは言葉も出せずにグッと唇を噛み締めたが、頷いて、先を促すように琥珀色の双眸を向けた。

『それから…漸く、傷が癒えた晩でした』

 崇高なるディハールの一族であるシンナは、その瞬間、何故か猛烈な吐き気がして、耳の横の方でドクドクと煩いほど脈打つ音がして、目の前が真っ赤になってしまうような錯覚がした。だが、それは幻覚ではなく、確かにシンナの双眸は戦場に在るときのように、滴るような紅蓮に染め上がっていた。
 でも、そんな…いや、そんなはずはない。幾らなんでも、光太郎はまだ子供だし、何より人間なのだから私たち魔物のような扱いは受けるはずがない。
 シンナはそう思い込もうとした、思い込んで、大丈夫だと自分に言い聞かせながら笑うことに失敗した。
 その顔を、静かに涙を流している魔物たちが見詰めている。
 何時の間にか…誰もが黙り込み、そして、静かに泣いているのだ。
 魔族にはそれほどまでの悲しみはない。
 何か、大切なものを亡くす時だけに、魔族は悲しみに打ち震えて慟哭する。だが、今、目の前にいる魔物たちはどうだろう。
 声もなく、慟哭するでもなく、ただただ、どうすることもできなかった自分たちを戒めるように滔々と涙を零しているのだ。

『何が…あったのン?』

 がなり立てるように激しく脈打つ心臓の音が煩くて、噛み切れるほど唇を噛んでいるシンナは、自分の思い込みの甘さを痛いほど思い知ることになる。

『光太郎は…俺たちの大事な光太郎は、人間どもに犯されました』

 その瞬間だった。
 シンナの中の何かが弾け飛んで、茶色だった髪の色は燃えるように真っ赤になって逆立ち、その双眸も白目までが真っ赤に染め上がってしまっていた。ガシャンッと鉄格子を後ろ手に掴んで怒りを静めようとするシンナは、だが、先を促すように泣いている魔物どもを紅蓮の双眸に捉えて、刃のような牙の覗く唇を捲って、睨むように見据えた。

『光太郎は最初、必死で抵抗したんですッ。なのに、あの野郎ども…俺たちの命をたてにしやがってッ』

 そんなシンナの変貌ぶりに一瞬だけ怯んだ犬面の魔物は、それでも、この場で殺されてしまっても構わないとでも言うようにそう言って、悔しそうに地下牢の、土がむき出しの床に拳を撃ち付けて吐き出すようにして泣いていた。
 炎までも口から吐き出しそうなほど怒り狂っているシンナは、光太郎の優しさに付け入った人間どもを片っ端から血祭りに上げたいと心底思った。だが、それは、その場に居る魔物ども全ての願いでもあった。

『あの野郎ども…何人も何人も…容赦がなくて。最初、光太郎は死ぬんだと思っていたんですが、アイツは必死で我慢して生き抜いてくれました。シンナ様!どうか落ち着いてくださいッ。それでも、アイツは死にませんでした。今でもシュー様たちに逢いたいと、必死で頑張ってくれてますッッ』

 犬面の魔物は散々泣いた真っ赤な双眸を向けながら、しかし、ここで怒りに狂っても始まらないことを、既に学んでいるから、そんなことよりも大事なことがあるのだと必死でシンナの怒りを静めようとしていた。

『……そうン』

 戦闘部族であるディハールの相好は、既に怒りに打ち切れて戦闘態勢に入っているが、それでもシンナの心の何処かがホッと安心したようだった。
 どんなに汚されて、嘆き悲しむほどの辱めを受けたに違いないのに、それでも光太郎は自分たちに逢いたい…少なくとも、シューに逢いたいと、あの小さな身体で頑張っているのだろう。 

『それなら…大丈夫ン。光太郎は、きっと強いものン』

 それでも怒りの治まらないシンナの髪は逆立ち真っ赤なままだったが、掴んだ際に変形してしまった鉄格子から両手を離したシンナに、涙をグイッと腕で拭っている魔物たちは頷きながらすぐに口々に言ったのだ。

『ここの頭領の野郎が光太郎を、連れて行きやがったんですッ…しかし、その時、バッシュも一緒でして』

『バッシュ?!…あのドサクサでバッシュが来ていたのン?!』

 真っ赤だった双眸に、幾分か理性の光を取り戻したシンナが驚きに見開いた目を細めると、泣き腫らして散々計画を練っていたのか、白目を赤く充血させた魔物たちは力強く頷いた。
 大隊長のバッシュが居るのなら…シンナは幾分かホッとはしたものの、だが、この砦の地下牢に張られた結界を見る限りでは、バッシュとて自由の身…と言うワケではなさそうだ。

『ここから一緒に生きて出て、闇の国に帰ろうと…光太郎と約束したんですが、シンナ様が来て下さって本当に良かった』

 傷付いている魔物の1人が言うと、同じく腕を吊っている魔物が大きく頷いた。

『光太郎は連れて行かれる前に、俺たちのところに来たんでやんす。その時、自分は第五の砦に行く…と言ってやした!』

 出立の日に、光太郎はユリウスに頼み込んで仲間にお別れを言いに来ていた。
 その時はユリウスや護衛兵などに見守られていたので、口に出しては言えなかったが、バッシュから魔族は読唇術に優れていると聞いていたので、泣いているふりをして、光太郎は口パクで「俺たちは第五の砦に行くから」と短く伝えていたのだ。
 正体の知れない者が砦に近付いている、それが仲間なら、伝えて欲しいと考えたのだろう。そして、その光太郎の企みは、こうして実を結んだようだ。

『第五の砦ン…』

 それは人間たちがそう呼ぶ、魔族にとっては第一の砦のことだ。

『どうしてまた…光太郎はそんなところにン?』

『アッシたちも詳しくは判らねぇでやすが、あの暗黒騎士が連れて行ったんでやんす』

『暗黒騎士…?え、あの沈黙の主の片腕の…ってことはン、沈黙の主が来たと言うことなのン?!』

 魔物たちは確かに詳細なことは知らなかった。
 だが、セスに可愛い男娼を奪われた人間どもが、毎日愚痴を零しに来ていた時に、みんな同じ話をしていたことを、魔物たちは覚えていた。
 確かにセスは最初、光太郎を酷く抱いたらしいが、その後、何故か沈黙の主が来て、その時同行していた悪名高い暗黒騎士が光太郎に懸想し自分のモノにして連れ去った…らしいこと。そのことは、残念ながら別れに来た沈んだ顔をする光太郎を易々と抱き上げた態度から、魔物たちにも判っていた。
 不気味な暗黒騎士の腕の中、泣き出しそうな顔をする光太郎は最後まで自分たちを見てくれていた。だが、それを暗黒騎士は許さずに、光太郎をすっぽりと外套で隠してしまったのだ。その様子から、魔物たちは人間どもの言っていたことは、強ち嘘ではなかったのだと確信した。
 そして、その後、怒り狂ったセスが捕虜となっている自分たちを皆殺しにしようとしたのだが、またしても邪魔が入った…

『それが、あのエルローゼねン。ったく、この砦はどうなってるのン?』

 漸く、落ち着きを取り戻したシンナは全身の刺青を光らせて、剥がれていた化けの皮をもう一度被り直すと、茶髪に琥珀色の双眸と言う、ディハールに有り勝ちな風貌に戻ってから、呆気に取られたように腕を組んで唇を尖らせた。
 今の最大の問題はエルローゼだろうが、暗黒騎士はもっと厄介だろう。
 戦場で何度も対峙したが、その凄まじい殺気と気迫は、流石のシンナですら一瞬、尻込んで戦意を喪失しかかったことがあるぐらいなのだ。できれば、真っ向勝負は御免こうむりたい。
 だが、そうは問屋が卸してはくれないのだろう。
 光太郎の優しさと直向さ、そしてやわらかな心が、恐らく暗黒騎士の頑なな心までも蕩かしてしまったのか…

『罪作りねン』

 うんもう、と思わず溜め息を吐いて思い出す黒髪の少年の笑みは、シンナの心の奥深く、深淵に蹲る兇気すら穏やかに抱き締めて、何も心配いらないと包み込んでくれたのだから、人間の暗黒騎士が手離したくないと考えたとしても、それは無理もないことだとクスッと笑った。

『シンナ様…どうか、お早く光太郎を追ってくだせい!バッシュがお供にいますが、それでもラスタランに入られちまったら、バッシュの身もどうなることか…』

『どうか、シンナ様。お願いです、光太郎を、俺たちの光太郎を闇の国に取り戻してくださいッ』

 無理もないことだと笑ったが、だが勿論、こちらとて手離す気などさらさらない。
 切望するように口々に言い募る魔物たちの想いに、シンナはすぐに応えてやりたいと思っていた。自分ひとりでなら、こんな地下牢を脱出するのは何でもないことだ…だが、この人数を連れて行くとなると、問題は山のように発生するだろう。
 シンナの思いを誤ることなく受け止めた魔物たちは、すぐさま、魔物らしい明るい笑い声を上げた。

『何を悩んでお出でですか、シンナ様。あなたお独りでしたら、こんな地下牢、すぐにでも脱出できます』 

『俺たちのことは任せてくだせい!』

『光太郎は命懸けで俺たちを守ってくれた!今度は俺たちがそうする番だッ』

 そうだそうだと頷く魔物たちは、だが、その役目が自分たちにできないことは残念そうだったが、それでも命など惜しくないと、意気込んでシンナに注目した。件のシンナは顎を引いて、目線だけを上げて何事かを考えているようだったが、そんな連中に意味有りげにニヤッと笑うのだ。

『何を言ってるのよン、アンタたちはン。光太郎と約束したんでしょン?ここから生きて出るって…まぁ、一緒にってのは守れないけどねン』

 力強く笑うシンナの双眸に秘められた思惑に、魔物たちは困惑したように目線を交えて、それからソッと眉を寄せたようだった。
 光太郎にとって、魔城が、そして、シューが世界の全てだったに違いない。そんななか、見知らぬ人間に連れ去られ、ましてや行ったこともないラスタランになど、不安で不安で仕方ないだろうとシンナは唇を噛んだ。
 開いていた掌を震えるほど握り締めて、シンナは虚空を睨んでいた。
 あの輝くような笑顔は消えていないのか…それだけが唯一の希望だから、どうか待って
いて欲しいと思う。
 もう二度と、魔物たちの腕の中から出したりはしないから…魔城に閉じ込めて、もう二度と人間どもに傷付けさせたりしないから、だから、どうか…私たちが在る闇の国に戻って来てね、と、シンナは目蓋を閉じて願っていた。