7.鬨を告げる魔獣の者  -永遠の闇の国の物語-

 俄かに遽しくなった城内で、光太郎は甲冑に身を固めた魔兵や、いつもなら暢気な顔をして書物に噛り付いている魔導師たちの緊迫した表情を見ながら、何か大変なことが起こっているのに違いないと感じていた。その只ならぬ気配は、城全体を覆う殺気のような怒りがまるで、具現化したように魔物たちを突き動かしているのだろうか。

「ねえ、どうしたんだい?」

 声を掛けても忙しなく甲冑をガチャガチャと鳴らして行き来する魔兵たちは取り合ってくれず、かと言って、物凄い形相の神官たちには声を掛けることさえ憚られる様な気がするから、仕方なくシューを探すことにした。
 とは言っても、いつもは『俺はお前の世話係だからな。本来なら便所の中まで着いて行かなきゃならんのだが、俺が嫌だからそれだけは勘弁してやらぁ』とワケの判らない屁理屈を言っては、べったりと一緒にいることが少なくなかったから、こうして長く離れているとそれでなくても不安になるのだ。だが今、そのシューが見当たらない。
 光太郎は胸元を押さえながら長い回廊を渡って、上に続く螺旋の階段を上り、見張りがサボる空中庭園になっている高台に辿り着いた。
 まるで外の世界が嘘のように木々だけは茂る庭園の中を歩いて、光太郎はまさかこんな所にシューはいないだろうと思いながらも、彼の大きな身体を捜してキョロキョロしていた。
 と。
 不意にガサリと木の枝を揺らして覗いた空間に、偶然お目当ての大きな背中を見つけてパッと表情を明るくした光太郎は、魔の森を見渡せる高台になっている東屋で、太陽すらも出ていない薄暗い空を見上げているシューに声を掛けようとした。声を掛けようとして、ギクッとした。
 石造りの床に直接腰を下ろして胡坐をかいているシューの膝の上に、何かが横たわっていて、まるで蝋人形のように蒼褪めた腕がブランッと垂れていたからだ。
 シューの背中が、その時になって漸く光太郎は初めて、悲しみに暮れているのを悟ったのだ。
 肩が微かに震えているのは、魔天を仰ぐシューが、もしかして泣いているのかもしれない。
 声を掛けようかどうしようか躊躇っていると、ふと、シューが何事かを呟いているのが耳に入った。

『…ソーズ、お前。どうして魔兵になろうなんて思ったんだ。お前みてぇに優しいヤツは、こんな風に死ぬしかねーんだぞ?』

 呟きは瘴気を孕んだ風に揺れて、どこか虚ろに響いている。

『こんなのは俺だけで充分だったのに…畜生ッ、お前は森で大人しく暮らしてる方がお似合いだったんだ』

 まるで怒りをどこかに置き忘れでもしたかのように、シューの声音は穏やかで、慈しむように冷たくなってしまっている亡骸の上に降り注いでいた。その声は、光太郎がこの永遠の闇の国に来て初めて聞いた、シューの情け深い声音だった。

『お前は馬鹿なヤツだ。馬鹿なヤツだからこそ、なあ、ソーズ。俺はお前を誇りに思うんだろうなぁ』

 不意にシューは外套に包まれた、今はもう息もしていない、まるで壊れた人形のようにぐったりとしているソーズの身体を抱き起こして、その胸元に獅子面を押し付けた。傷だらけで死んでしまったソーズの痛々しい亡骸を、シューは嫌がることもなく抱き締めて、そして声を上げて泣いたのだ。
 身体中を震わせるような、ビリビリと大気を振動させるその凄まじい音声の慟哭は、だからこそ、城を取り巻く悲しみにより一層拍車を掛けて深々と浸透していくのだろう。
 光太郎はとうとう声を掛けることも、その場から立ち去ることもできずに木々に隠れるようにして座り込んでしまった。キュッと唇を噛み締めて、シューと背中合わせになるように膝を抱えて座った光太郎は、いつ果てるともなく続く慟哭を聞いていた。

(シューは…もし、もし俺が死んでも、こんな風に泣いてくれるのかな?)

 誰か、とても大事な人を亡くしてしまったのだろうシューを背に感じながら、それは浅ましい考えだったのかもしれない。
 空気を震わせるようにして伝わってくるシューの哀しみはあまりに痛々しすぎて、それだけに、失った者への愛情の深さを感じずにはいられなかった。

(…馬鹿だな、俺。シューが俺なんかのために泣いてくれるはずもないのに)

 自嘲的に笑って、光太郎は立ち上がると、振り返りもせずにまるで逃げるようにしてその場から立ち去った。
 空中庭園には、暫くシューの慟哭が響いていた。
 空に雷光が閃くように、悲しみも一瞬で消えてなくなればいいのに…

Ψ

 長い回廊を甲冑の魔兵たちが行き交うのを、壁に凭れている光太郎は呆然と見詰めていた。
 遽しく戦の準備に取り掛かる者、城に残って警備を固める者、白兵戦に備える者…などなど、今までに見たことがないほど真剣な表情をした魔物たちが、思い思いの準備の為に忙しなく行き交っている。その中で、まるで取り残されたようにポツンッと佇んでいる光太郎は、この時ほど自分の非力さを思い知ることはなかった。

「みんなが忙しい時に…俺って掃除とかそんなことしか出来ないなんて」

 ハァッと溜め息を吐いていると、ふと傍らに人の気配がして顔を上げた。

『掃除ができるだけでも凄いわよン?』

 ニッコリと強い双眸で笑って、雪白の甲冑に身を包んだシンナが腰に片手を当てて立っていた。
 いつもはシンプルすぎるほどシンプルで大胆な衣装を気軽に身に纏っているシンナだったが、さすがに魔軍の武将たる悠然とした態度で、重々しくもあるが覆うところは少ない甲冑に身を包んだ姿はそれでも勇ましく見える。

「…ねえ、シンナ。やっぱりその、戦いが始まるの?」

 恐る恐る尋ねる光太郎に、シンナはそれまで浮かべていた笑みを引っ込めると、キュッと唇を引き締めて真摯な双眸で光太郎を見詰めて頷いた。

『そうねン。北の砦が落とされちゃったから、たぶんラスタラン地方に近い第二の砦も落とされてると思うのよねン。だから奪還しに向かうのよン』

 口調こそ気楽なものの、その戦いはそれほど容易なものではないことを物語っている双眸が、不安に揺れる表情をした光太郎を映し出している。

「そっか」

 溜め息のように呟いた光太郎の顔をジッと見詰めていたシンナは、殊の外キッパリとした口調で言い切った。

『シューも出陣するわよン』

「え?シューも??」

 吃驚したように顔を上げる光太郎に、純白の兜を目深に被っているシンナの双眸が一瞬だったが細められて、それからふと伏せられた。それは言ってはいけないとシューに口止めされていたのだ。

「シューも戦に行っちゃうのかい!?」

 動揺したように目を見開いた光太郎は、唐突にこの世界にたった独りで放り出されるような錯覚を感じて、縋るようにシンナの手を掴んでいた。
 いつも影のように傍にいたシューの不在。
 それはあまりにも突然のことで、順応力があるはずの光太郎でも、不安で仕方ないのだ。
 ましてや、シューの慟哭を聞いた後となれば尚更である。

『仕方ないわン。シューはあんな感じだけど、れっきとした将軍なのよン』

(そうだ、シューは将軍だったんだ…)

 魔物たちの部隊は少し変わっていて、なぜか将軍が二人いるのだ。
 もともと、普通ならば一人で務めるはずの将軍職を、魔王は二人の魔物に与えていた。
 その経緯や意味合いなどを知らない光太郎にとってそれは、理不尽なことのように思えて仕方なかった。

「じゃあ、シューは俺の世話係なんだから!俺も着いて行ってもいいんだよね?」

 目線を上げたシンナは困ったように笑って、真剣に見詰めてくる光太郎の額を徐に指先で弾いた。

「イタッ!」

『ダ・メ・よン。決まってるじゃないン。そんなことしたらシューがお冠だわン』

 クスクスと笑って腕を組むシンナに、光太郎は俯いて弾かれた額を擦りながら床を見ていたが、思い切って顔を上げると縋るようにその手を取って握り締めた。

「お願いシンナ!無茶なお願いだってのは判ってるけど、俺も連れて行って!」

 どうしてそう思ったのか、光太郎には判らなかった。
 ただ、どうしても、シューの傍にいたかったのだ。
 悲しみに打ちひしがれて背中を丸めていたシューを、そのまま戦場に出すことに不安を覚えたのかもしれない。
 いや、実際はそうじゃない。
 シューに置いて行かれる恐怖で、じわじわと取り残される孤独感が足許から這い上がってきて立ち眩みのような眩暈を覚えたせいだろう。
 その思いを知ってか知らずか、だがシンナはニッコリ笑って握られている両手を振り払った。

『今回は幾らなんでもダメよン。異世界から来た光太郎にとって、戦場はとても過酷な場所だわン。魔王様も今度ばかりはお許しを出さないから、直々に伺ってもダメよン』

「シンナ~」

 情けなく眉を寄せる光太郎を見詰めながら、そのくせ、シンナは張り詰めた胸元をソッと押さえながら微笑んだ。からかうように、悪戯っぽい微笑は、光太郎など歯牙にもかけていないのだと言われているようで人間の少年は項垂れるかしない。

(ダメだって言いながら、どうして秘密を洩らしちゃったのかしらン…)

 シンナはガックリと肩を落としている光太郎に微笑みながら、ふと床に視線を落としてその微笑を自嘲的なものに変えた。

(本当は残して行くのが怖いからに決まってるわン。どうか、ねえどうか…)

 ふと目線を上げたシンナは、どうしようと眉を寄せて俯いている光太郎の、そのサラサラの黒髪を忘れないように見詰めながら内心で呟いていた。

(儀式が行われないようにン…あたしが戻るまでは…いいえ、本当は連れて行きたいのよン)

 チラッと上目遣いでシンナを見た光太郎は、複雑な表情で自分を見つめる魔軍の副将のその表情を見て、少しドキッとしたような不思議そうな顔で首を傾げた。
 シンナはそんな光太郎に小さく笑って、首を左右に振るのだ。

『どちらにしてもン。これから忙しいから、きっとシューも光太郎の相手は出来ないと思うわよン』

 普段着の上から兜、肩当、胸当などの装備をしただけの、身軽さに変わりのない甲冑を着込んでいる魔軍の副将は、それだけを言い放つと光太郎の前から立ち去った。
 その後ろ姿は毅然としていて、これから命懸けで戦うことになる戦場に赴く一人の戦士としての気高さが漂っていた。シンナの後ろ姿を見送っていた光太郎は、唐突に情けなくなって唇を噛み締めるのだ。

「あんな風に、死ぬことを覚悟した人たちでも気を引き締めて行く戦場に、連れて行ってくれなんて俺…また、シューに怒られちゃうなぁ。良く考えもせずにベラベラ喋るなって…」

 呆れたようにムッとしているシューの獅子面を思い出して、光太郎はふと小さく笑ったが、すぐにしょんぼりと眉尻を下げてしまう。

「でも、独りはやっぱり寂しいよぉ…」

 思わず泣きそうになってしまう光太郎の眼前を、一匹の魔物が遽しそうにガチャガチャと甲冑を鳴らして巻紙に顔を突っ伏すように覗き込みながら歩いている。その姿に覚えのあった光太郎が、思わず声をかけてしまった。

「バッシュ!」

『あーん?』

 ジロリと暗雲を背負っているように胡乱でジトついた怖い双眸で睨みつけてきた甲冑の魔物、バッシュは呼び止めた者が光太郎であることに気付いてパッと表情を和らげた…とは言っても、もともと二足歩行の蜥蜴の親分のような魔物である、普通にしていてもその目付きは充分悪い。

『おや、光太郎じゃねーかい?あんた、またヒマそうだな』

 けっして悪気があるわけではないのだが、魔物と言うのは皆が皆、相当口が悪いのだ。しかもそれに本人たちが気付いていないから尚更性質が悪くもあるが、既にこの国に来て随分長い時間を共に過ごしている光太郎にしてみたら、もう慣れてしまったので別に気になることでもなかった。

「バッシュもその、戦争に行くのかい?」

 不安そうな、その身を案じるような表情で尋ねられて、バッシュは悪い目付きをますます悪くしながらニヤッと笑って肩を竦めた。

『心配してくれるのか?へーえ!そりゃスゲーな。俺には初めての経験だぞ』 

 どうやら本当は嬉しかったのか、バッシュは照れたように長い爪を有する指先で頭を掻きながらも上機嫌だ。

「そりゃ、心配だよ。俺、戦争とか知らないからさ。現場がどうなってるかとか判らなくて喋るのは良くないと思うんだけど…バッシュ、死なないでね。生きて、ちゃんと帰って来るんだよ?」

『うひゃー!そう言うこっぱずかしいことは言ってくれるなよ。照れるじゃん』

 ウハハハッと笑いながらバッシュが手にした巻物を弄びながら、爬虫類独特の尻尾を左右に振って照れている姿を見て、光太郎は困ったように笑ってしまった。
 こんな風に陽気な魔物たちが、戦場で血を流して戦うのだ。
 それは人間も同じことで…だが、一体何の為に戦っているのだろう?
 気の良い魔物たちのその尊い命すら犠牲にして、それは全て人間も同じことなのに、一体何を求めて戦い続けるのだろうか。名誉のため?平和のため?

(それともただの欲のため…?)

 光太郎は唇を噛んだ。
 その時になって初めて、今から戦いが始まるのだと言う緊張感が襲い掛かってきたのだ。

『まあ、任せとけよ。俺はもう、10回以上も戦場を駆け回ってんだ。そう容易く死んだりしねぇよ。お前みたいなひよっ子と一緒にするんじゃないぞ?』

 カッカッカッと笑う蜥蜴の親分ことバッシュの聞き慣れた悪態に、光太郎は不安を隠せない双眸をしたままで「そうだね」と呟いて頷いた。そのサラサラの黒髪を、鋭い爪を有した大きな爬虫類らしい鱗に覆われた掌でポンポンッと軽く叩きながら、バッシュは縦割れの瞳孔をキュッと絞りながらニヤニヤと笑うのだ。

『だからこそ、ひよっ子のお前は大人しく城で待ってろよ。シュー様もそれを望んでいらっしゃるし、城で待っててくれる存在がいるっつーのは心強いからなぁ』

「…うん、判った。バッシュも待ってるよ」

『うを!?おおお、俺はいいよぅ。俺は、ここに仲間がいるだけで絶対に帰ってこようって思うからな』

 ニッコリと表情豊かに笑うバッシュのその蜥蜴の顔を、ジッと見上げていた光太郎は、その純粋な思いが羨ましくて仕方なかった。信じあえる仲間がいること、それが、それこそが恐らくここに住んでいる魔物たちが持っている優しさの源なのだろう。

「仲間になりたいなぁ…」

 心の底から羨ましく思いながら呟いた台詞を耳聡く聞きつけた、ちょうど戦の準備に追われてガッチャガッチャと甲冑を鳴らしながら走ってきていたブランが駆け足状態で止まって、そんなバッシュと光太郎を交互に見た。

『参戦しようって言うのかい?ははは、光太郎には無理っすよ』

『そう言ってるけどねぇ』

 牛面の魔物が大仰に笑うと、蜥蜴の親分は困ったように腕を組んで片手で顎に触れている。だがその表情は、ピクピクと笑いを噛み殺しているようだ。

「ひっどいなー!これでも、少し。ほんのチョビッとは役に立つと思うけどなぁ」

 ムッと唇を尖らせて眉を寄せる光太郎に、バッシュとブランが顔を見合わせると、堪え切れなくなった二匹の魔物は突発的に噴出してしまう。

『はーはっはっ!チョビッとなんか役立ってもお前、戦場じゃ何の役にも立たないぞ?』

『隠れてるのがオチなら参戦なんか、しなくていいならしねー方がいいっすよ』

 バッシュの足許に軽く蹴りを入れた光太郎がムムッとしたままで、駆け足状態のブランに意地悪く言ってやるのだ。

「急いでるのに俺なんかに付き合ってていいのかな~?」

『うっわ!ヤベっすわ。んじゃ、アッシはこれで!』

 シュタッと片手を上げて慌てて走り出したブランの後ろ姿を見送りながら、そうか、ブランも行ってしまうのかと少し寂しい気持ちを抱えてしまった。その傍らで、蜥蜴を二足歩行にしてそのまま大きくしたような風体のバッシュも、慌てたように巻物を掴んだままで光太郎に別れを告げて立ち去ってしまう。
 そうすると唐突に独りぼっちになってしまったような気がして、光太郎は溜め息をついた。

「シンナにここにいるからなんて言っておいて、自分が落ち込んでたらどうしようもないや…そうか、そうだよな。そうすればシューに迷惑がかからない。なんだ俺ってば、あったまいいな♪」

 ホクホクしたように微笑んで、俄然ヤル気が出てしまった光太郎はグッと両拳を握り締めて決意を固くしたのだった…と、不意にその決意も固く自らに宣言する光太郎のサラサラの黒髪を、唐突にグワシッと大きな掌が掴んできて飛び上がるほど吃驚した。

『俺に迷惑がかからないだと?オメーがすることで俺に迷惑がかからなかったことなんか、ただの一度でもあったかよ?いいか、迷惑がかからなくするってのなら何もしないこった!』

 ワシワシと髪の毛をグチャグチャに掻き回されて、光太郎はグラングランしながらその大きな掌を掴んで真上にある顔を見上げた。見上げて、もうずっと一緒にいるのに、僅かだったにも拘らずもうずっと長く会っていなかったような気分になってしまう獅子面を見て、心の底から嬉しそうに笑った。

「シューだ♪」

『あ?俺だったらなんだよ』

 相変わらずムッツリとした膨れ面のライオンヘッドの魔物の、掌の脅威から抜け出した光太郎は振り返って、一瞬だけ声を詰まらせてしまった。
 そこに悠然と立っていたのは、漆黒の鎧を身に纏ったまるで一分の隙も窺えない魔将軍その人だったからだ。
 魔城全体に漂う戦の雰囲気は、本当はどこか遠くの出来事のように感じていた光太郎にとって、今まさに唯一無二のシューの出で立ちでもって確実なものへと変わってしまった。

「…シュー」

 黒光りする鎧はズシリと重厚感があって、確かにシューの存在を間違うことのない魔物の将軍であることを印象付けるほど、ある意味では似合っていた。翻る黒地のマントも、腕当てを弄って調整しているシューの態度も、今までのどこか飄々とした暢気さなど窺わせもせずに、戦に赴く戦士の雰囲気を漂わせている。
 戦争が始まるのだと、突然目が覚めた時のようにハッと感じた。

「シュー…」

 不安そうに眉を寄せて見上げてくる光太郎の心許無い双眸は、置いて行ってしまうことに一抹の不安を、シンナが感じたようになぜかシューも感じていた。いや、そうではない何か。
 喪失してしまうような…奇妙な予感めいた思い。

『そんな顔してるんじゃねーぞ?別にいつもあるいざこざにすぎねぇんだ。今は沈黙の主もいねぇってことだしな、すぐに戻れるだろうよ』

 見上げないと顔を見ることもできないほどの身長差がある魔物と人間の少年は、暫し無言で見詰め合っていたが、最初に堪えられなくなったのはやはりシューの方だった。

「すぐに戻ってこれるのか?…そか、良かった」

 ホッとしたように息を吐いて、それからニコッと笑う光太郎に、シューはやれやれと首を左右に振った。

「そーだ、シュー!今回は早く戻れるんでしょ?だったら、俺も連れて行ってよ!足手纏いにならないように頑張るから!ね?ね?」

『ダメだね』

 光太郎の願いは呆気に取られるほどあっさりと却下されてしまった。
 その即答に二の句が告げられないでいる光太郎に、シューはフンッと鼻で息を吐き出してから外方向いて、それから驚くことにすぐにでも判ってしまうに決まっているような嘘を吐いた。

『俺は行かねーのに、どうしてお前が行きたがるんだよ?世話役だからな、俺はまたもや留守番だ』

「…」

 その言葉で、光太郎はハッと気付いたのだ。
 そうか、シューが行くことは光太郎には内緒なのだと。シンナはああ見えてもコッソリと教えてくれたのだろう。

「…また、ゼィとシンナが行くのかい?」

『まあ、そうだろうな』

 実際はなんとも歯切れが悪く頷くシューに、この嘘つきと光太郎は内心でムッと膨れっ面をしているものの、表面的には仕方なさそうに笑うのだ。

「そか、無事でいてくれたらいいね」

『…まあな』

 見るからに出陣体勢であるシューの出で立ちを、異世界から来た光太郎には判らないと思っているのだろう、シューは居心地が悪そうに嘘を吐きながら鼻の横をポリポリと掻いた。それでも、漆黒の双眸に見詰められるのは辛いのか、何を言うわけでもなく、シューは『それじゃあな』と呟くようにモグモグ言って片手を振りながら立ち去ってしまった。
 本当は、見上げてくる黒髪の少年に、きちんと出陣することを告げたかったのだが…案の定、予想した通り着いて来たがったので先手必勝で嘘を吐くことにしたのだ。

『し、仕方ねーな。うん、仕方ねぇ。あんな寂しそうなツラしやがって!…ったく、シンナといい俺といい、全くどうにかしちまってるな。正気なのはゼィだけだぜ』

 大きな巨体を覆うような着慣れた黒の鎧は、主の機嫌の悪さを知ってか知らずか、物静かに鈍く光っている。ブツブツと悪態を垂れるシューの、その後ろ姿を見送りながら、人間の少年は世話役を見習って一つの悪巧みを決行することにした。

Ψ

 整然と並んだ部隊を引き連れて、その日遅くに早朝を目指して城を発ったシューの一行は、軽く一山越えて陣形を保ちつつ北の砦付近に野営を張っていた。早朝はまだ遠く、思ったよりも早く計画していた場所に陣を構えたシューは、ムッツリと口を噤んで椅子に腰を下ろしたままで腕を組んでいた。

『不機嫌そうねン』

 シンナの言葉にシューはジロリと黄金色の双眸で睨み付けたが、副将はそんな不機嫌丸出しの将軍など怖くもないのか、フンッと鼻を鳴らして肩を竦めて見せるのだ。
 シューの不機嫌の理由を、シンナは何となく判っていた。
 恐らく、出陣の際の見送りに光太郎がいなかったからだろう。
 吐いてしまった嘘がバレたと思っているシューは、恐らくこの戦は圧勝で終わることを確信しているからいいのだが、城に戻ったときの光太郎の始末が大変だなぁと頭を痛めているに違いない。
 そんな矢先にシンナから何か言われても、シューとしては答える気もなければ答えたくもない心境なのだ。どうせ、シンナのことだ、興味本位でからかってくるに決まっている。

『用事があるんだけどン…いいかしらン?シュー将軍ン』

『…はぁ、なんだよ?』

 頬杖をついてコップを置いたらいっぱいいっぱいになってしまう小さな卓に、顎杖をついているシューが面倒臭そうにジロリと見た。将軍ともあろうものが何たる態度かと憤然とするべき場面であるが、シンナは肩を竦めるだけで溜め息も吐かず、腕を組んだまま天幕の外を横柄な仕種で示した。

『ちょっとねぇン、大変なものを見つけましたよン』

『…偵察か?』

『だったら良かったんだけどン』

 肩を竦めるシンナに一抹の不安を覚えたシューは、『どうするのン?』と目付きだけで尋ねてくる副将に『見せてみろ』と合図を送った。やれやれと溜め息を吐いたシンナは大股で天幕の入り口まで行くと、垂れている幕を僅かに開けて外にいる何者かに合図した。それからスタスタと歩いてくると、外方向いて知らん顔である。

『?』

 訝しそうに下唇を突き出す獅子面の将軍はそんなシンナから、コソリと天幕に入ってきた人物を見て腰が抜けるほど魂消たのだった。ついていた顎杖はそのままで、これ以上はないぐらい円らな瞳を見開いたシューが、ポカンと開けた口からエクトプラズムでも吐き出しそうな感じで言葉を吐いていた。

『おおおおおお、おま、お前、ななな!?ど、これは…いや、落ち着け俺。これはどう言うことだ?』

 ジロリと睨む相手が違うシューの態度に、シンナは『知らないわよン』とムッとしたが、何も言わずにフンッと外方向くだけだ。
 シンナでは埒が明かないと踏んだのか、嫌々そうに仕方なく、シューがこの世で初めて腰が抜けるほど魂消た相手を胡乱な目付きで睨んで問い質すことにした。

『どうしてここにいるんだ、光太郎?』

「えーっと、えへへ。戦に参加したんだよ」

 悪びれた風もなく頭を掻いて、重々しそうに甲冑を着込んでいる光太郎が笑うと、額に血管を浮かせたシューがバンッと小さな卓を壊してしまいそうな勢いで叩いて、外にいる兵を震え上がらせた。
 ビクッと首を竦めた光太郎は、怒りに拳を握り締めているシューを上目遣いで見詰めながら、唇を尖らせてブツブツと言い訳を試みる。

「だって、シューが嘘つくから悪いんじゃないか。俺はシューの傍にいたいし、シューは俺の世話係なんだから一緒にいても当然だ…と思ったから」

 語尾が小声になったのは、シューの只ならぬ殺気を感じて首を竦めたからだ。

『お前、それとこれとは別だろうがよ!俺たちはこれから命懸けで戦うんだぞ!?甘っちょろい連中を相手にするってワケじゃねぇんだッ。下手すりゃ死ぬかもしれねーんだ、魔王になんて言えばいいんだよ!!』

 グワーッと一気に捲くし立てるシューの剣幕に、光太郎はビクビクしながらも「それは判ってるけど…」とモゴモゴと反論しながら唇を突き出している。

『いいや、お前は何にも判っちゃいねーんだ!クソッ、ここまで来ちまったら引き返すってわけにもいかねーし、どうしたもんか…いや、だいたいなんでお前は俺が出陣するって判ったんだよ!?ギリギリまで黙ってたんだぞ!?』

「えーっとそれは…」

 そんなシューと光太郎の遣り取りを傍らで見ていたシンナが、唐突にえへへへっと笑って頭を掻いた。

『シュー、ごめんなさいン。実はあたしがバラしちゃったン♪』

 グハッと思わず吐きそうなほどポカーンと顎が外れるぐらい口を開いて、目玉が飛び出しそうなぐらい目を見開いたシューは、椅子から乗り出すようにしていた身体を落ち着けようと改めて腰掛け、コホンッと咳払いなどしてみる。

『えへ、バラしちゃった♪』

 シューが困ったように眉を寄せて笑うと、舌を出して可愛らしくコツンッと頭を叩くようなふりをした。呆気にとられたシンナと光太郎が顔を見合わせた瞬間、当にその瞬間だった。

『…だと、このクソ副将軍がぁ!!!!!』

 小さな卓を引っ繰り返しながら叫んだシューの怒声が天幕を貫くようにして、夜のしじまに響き渡ったのは言うまでもない。
 ガミガミギャーギャーと真夜中近くまでお説教の続く天幕で、八の字のように情けなく眉尻を下げた光太郎が上目遣いに見上げながら、唇を突き出して言い募ってみる。

「シンナのせいじゃないよ。シューが嘘吐くのがいけないんだ」

『…嘘を吐かなかったらテメーが着いて来るんだろうが』

「もう、来ちゃったもんね」

 ヘヘーンッと胸を張る光太郎に、呆れ果てたように目をむくシューは、肩を震わせながらまたもや1時間ばかりの説教が続くのだが、当の秘密をバラした張本人であるシンナはと言えば、神妙に俯いている光太郎の傍ら、シューの為に誂えられたソファー式のベッドに長々と延びて高鼾である。
 絶対にこの戦が終わったら一度シンナは絞めておくべきだと心に固く決意して、シューは苛々したように小さな卓に顎杖をついて溜め息を吐いた。激しい剣幕が粗方終わったのを確認してから、光太郎は少しずつ怒りのオーラを陽炎のように立ち昇らせている、頭から湯気を出して怒っているシューの傍に近寄りながら訊ねるのだ。

「えーっと、今回はでも、うん。俺が悪かったと思う。でも、シンナのせいじゃないよ、俺は自分でちゃんと考えて、どうしてもシューの傍にいたかったから黙って着いて来ちゃったんだ。だから悪いのは俺なんだ」

『当たり前だ!…ったく、どうしてそんなに俺の傍にいてーんだよ?城にいるほうが安全だろうによ。ゼィやシンナが戦に出ても着いて行きたがるのか??』

 呆れ果てたように聞いてくるシューに、光太郎は小さく笑って首を左右に振った。

「ううん、シューだったから。俺、やっぱりシューがいないとダメなんだよ」

『…この馬鹿野郎が。はぁ、魔王になんて言うかな~』

「その点は大丈夫」

 ニッコリ笑う光太郎がいつの間にか傍に来ていて、それでもそんなことには然して気も留めていないシューは、やれやれと仕方なさそうに肩を竦めてそんな少年を見下ろした。

『どういう意味だ?』

「えっへっへー♪…えーっと。あのね、シュー」

 モジモジしたように俯いている光太郎に、大方また何か企みでもしているんだろうとますますこめかみの辺りが痛くなったシューは、それでも一応律儀に応えてやるのだ。

『なんだよ?』

「…もし、もし俺が死んだら、シューは泣いてくれる?」

 不意に獅子面を覗き込むようにして、キラキラと明り取りの蝋燭の炎を反射しながら煌く漆黒の双眸に見詰められ、シューは一瞬ギクッとした。なぜそんな風に思ったのかは判らなかったが、一瞬、その目に射竦められてしまったかのように心臓が萎縮した…ような錯覚を感じてしまったのだ。
 そんな馬鹿げた気の迷いを振り払うように、真摯に見詰めてくる少年の気持ちを思い遣ってやる余裕もなく、シューは大袈裟に片手を振って大声で言い放った。

『馬鹿らしい!どうして俺が人間なんかが死んだぐらいで泣かなきゃならんのだ』

「…そっか、そうだよね。シューは魔物だから当たり前だよね」

 ちょっと笑って俯いた光太郎に、シューは自分の揺らぐ気持ちの意味が判らなくて、却ってムカムカしながらそんな光太郎の顎を掴んで上向かせた。そうして、その泣き出してしまいそうな双眸を見つけた瞬間、シューはドキッとした。その大きな瞳から、今にも大粒の涙が盛り上がって、そのまま頬に零れ落ちてしまうんじゃないかとなぜかハラハラしてしまうシューに、光太郎は困ったように微笑んだ。

「シュー、ごめん」

『…フンッ!馬鹿らしいことばっかり言ってねぇで、少しは反省しやがれッ!』

 そうして、まるで感じたことのない胸の動揺を払拭しようとでもするかのように、シューはガミガミと怒り散らした。でも光太郎は、なぜかそれほど怖くないなと思いながら、シューに内緒でコソリと欠伸をするのだった。
 そしてその日の早朝、とうとう一睡もできないでいたシューが目の下に仲良く熊を飼い馴らしているその顔を、光太郎が恐る恐ると覗き込んだ。昨夜遅くまでこってりと絞られはしたものの、結局、あの後すぐにもう来てしまったものは仕方がないと言って同罪であるシンナの傍から離れないことを条件に許したのだった。

『いいか、一歩でもシンナから離れたら俺が殺してやるからな』

 ニッコリ笑う精神状態がちょっとヤバくなっているシューの発言に、光太郎がうんうんと蒼褪めたままで大人しく頷いていると、ふと背後から声がかかった。

『あれ?嘘、まさか光太郎かよ!?』

 その声はもちろん聞いたことがあって、光太郎は振り返ると困ったように笑いながらその名を呼んだ。

「や、やあ、バッシュ」

『これは!?へ??シュー様、大丈夫なんですかい?』

 光太郎に何か言うのではなく、やはりと言うべきか、蜥蜴の親分が甲冑を着ているようなバッシュは獅子面の将軍に困惑したような視線を向けるのだ。

『仕方ねぇ、こればっかりは俺の責任だ。光太郎のことは気にせずに確り殺してくれればそれでいいからな!』

『は、はい』

 バッシュはそれでも心配そうに光太郎に振り返り、内心では何かあったら助けてやらねばと決めていた。そんな雰囲気がシューには伝わって、この無鉄砲が服を着ているような光太郎の、その行動力が今回ばかりは裏目に出ないことを腹の底から願っていた。

『やれやれ、とんだヤツの世話役なんぞになっちまったな』

 間もなく奇襲攻撃の時を迎える陣は既に整然と並んでいて、朝日を背にして立ち向かう馬上の人になっているシューは、眼前に居並ぶ白兵部隊の歩兵たちを見渡しながら溜め息を吐いた。
 さすがに将軍と同じ馬に乗るわけにはいかず、もちろんそれは、将軍たる者はいつもその首を狙われる立場にあるから誰の馬よりも危険になるからで、仕方なくシンナの前に乗ることになった光太郎はふと、暗い表情をしてそんなシューを見詰めた。
 いつもなら切り込みに先陣を切って突っ走るシンナだが、今日は秘密を洩らした責任を取って光太郎を全面的に護ることを約束したのだ。

「…大丈夫だよ。この戦争が終わって城に帰ったら、もうシューは自由だ」

『なんだと?』

 光太郎が小さく笑うと、その瞬間、なぜかシューは言い様のない不安に駆られた。
 唐突に何を言い出したのかと目を瞠るシューに、不意に傍らにいた伝令から時を知らせる合図が届いた。どういう意味なのか聞かずにはいられないと言うのに、シューは将軍である。その合図を無視して作戦を失敗させるわけにはいかなかった。

(まあ、城に帰ってこってり絞ってもいいか…)

 不安そうに笑う光太郎の言動に動揺してしまっている心の内を押し殺して、シューは安易にそんな風に考えていた。そう、それは、当然のように来るはずの未来だったからだ。

『さぁーッて、いっちょ派手にやってやろーぜ!』

『弔い合戦だ!』

『うおぉぉぉーーー!!!』

 シューの言葉を合図に鬨の声を上げて、魔軍の群れが怒涛のように北の砦目指して雪崩れ込んで行く。
 もう何度目かになる、人間対魔物の合戦が今、火蓋を切って落とした。