第二部 11  -悪魔の樹-

 ベヒモスと灰色猫との優雅な午後のお茶会なんかしていたばっかりに、俺は今日の水汲みをうっかり忘れてしまっていた。
 もう少しで夕暮れ時で、そうなると、幾らベヒモスの圏内にいるからと言っても、やはり迷い込む悪戯好きの小悪魔にちょっかいを出されるだろうと、灰色猫は夕暮れの仕事を嫌がった。
 それでも、何か気晴らしがしたいからと、心配する灰色猫を押し切って木桶を持って近くの小川に向かったんだ。ベヒモスはそんな俺と灰色猫を見ていたが、物憂げなカバ面を左右に振って、灰色猫に『好きにさせておけ』と言ったきり、なんとその場に寝転んじまったんだ。
 どこまで自由なんだ、ベヒモスって。
 そんな連中を放っておいて、俺が小川に辿り着いた時には、既に太陽は随分と傾いていたのか、黄金色の光が射し込んでいた。
 ホント、異空間だよなぁ…こんな太陽、この鬱陶しい木の枝の向こうにあるワケないのに、きっと、悪魔に不可能のないレヴィの兄弟なんだから、やっぱり悪魔に不可能のないベヒモスの成せる業なんだろうなぁ。
 俺が溜め息を吐いて木桶を冷たい水に漬けた時だった。

『つまらんことに精を出すんだな』

 不機嫌そうな声音は頭上から降ってきて、見上げたら、白い大きな蜥蜴が寝そべっていた枝に、白い綺麗な悪魔が横になっていた。
 肘を付いて仏頂面のままで、白い悪魔は胡乱な目付きで俺を見下ろしている。

「今夜の夕飯の用意に必要だからな、勝手だろ」

 最早、俺を捨て去った悪魔なんかに敬語なんか使うかよ、と、最初から決めてたから、本当なら無視のところなんだけど、そこはやっぱり、愛しいレヴィの声は聞きたいとか思うじゃないか。
 素っ気無く返事を返してやったら、それが意外だったのか、ちょっと眉を跳ね上げたレヴィアタンは、それでも途端に苛々したように険悪な色を浮かべる金色の双眸で俺を睨み据えてきた。
 う、負けるな俺。

『なんだ、その口の利き方は。オレを誰だと思ってるんだ』

「性格の悪い悪魔だろ?」

『なんだと』

 ブリザードみたいに冷ややかになった気配にヒヤリとしながらも、それでも、やっぱり負けるな俺と自分に言い聞かせて、水でたっぷりになった木桶をヨイショッと抱えて、無視を決め込んで歩き出すと、その反応に、人間如きが!…と、本気で腹でも立てたのか、白い悪魔はゆらりと立ち上がって、不機嫌のオーラを完全に纏いながら俺と同じ大地に悠然と降り立ったんだ。
 それこそ、まるで重さを感じさせないぐらい音もなく。
 こうなったら、たぶん、俺の分は悪いと思う。
 それでも、負けるもんかと歯を食いしばって、立ち塞がる白い悪魔の険悪で端麗な顔を見上げてやった。

「退けよ」

『退け?このオレに、人間如きが言うじゃないか』

 自分の実力に自信を持っているヤツが見せる、鼻をつく嫌な笑みを浮かべながら、レヴィはゆっくりと腕を伸ばして、蛇に睨まれた蛙みたいに、何故か竦んでいる俺の顎を掴むと値踏みするようにじろじろと不躾に眺め回すんだ。
 そうだな、敢えて言うなら、何かの品評会に出展された作品を、この価格で購入しても損はないかな…とか、そんな目付きだ。
 それが嫌で振り払おうとしたけど、まるで電流に触れたみたいに痺れて、竦みあがっている俺は、声を出すことも、ましてや口を開くこともできなくなっている。
 ずるいぞ、レヴィ!
 きっと、これは何かの魔法とかそんな類のものに違いない。
 クッソー!以前の俺なら、確かにそんなことしなくても黙って話だって聞いただろうけど、今は違う。今は…裏切られたことが悲しくて、俺以上に、他の誰かを想うレヴィに絶望してしまっているから、俺はきっとこの白い悪魔の思い通りにはならないだろう。
 だから、レヴィはこんな卑怯な手を使うんだ。
 …たかが人間だと、侮ってるくせに。

『お前は…以前から思っていたんだが、どうしてそんな目をしてオレを見るんだ?』

 そんな目ってどんな目だよ。
 …たとえば、そう、たとえば?
 悲しいような寂しいような?
 情けないような辛いような?
 それとも…愛しいような、そんな目付きか?
 決まってるだろ、俺、やっぱり、お前が好きだもん。
 レヴィを見てしまうと、やっぱり愛しくて愛しくて、忘れ去られている現実を叩きつけられて、それが死にたくなるほど悲しくて、寂しくて、情けないんだけど、胸が張り裂けるほど辛いから、だから、こんな目付きになるんだよ。
 口が開かなくて良かった。
 そうじゃなかったら俺、この場で想いの全てをぶちまけていたと思う。
 口を噤んだままで自分を睨む小賢しい人間の姿が、レヴィにはどう映ったんだろう。
 それまで、地獄の底にいればそうなるだろう、ぐらいには陰惨な目付きで俺を睨み据えていた金色の瞳が、今はその気配を潜めて、不思議そうな色に揺れている。

『お前は変わっている。ベヒモスも、ルゥも、灰色猫も、アスタロトもだ。お前に関わった奴等は全ておかしくなった。人間如き…と侮ったが、お前はいったい何者なんだ』

 ふと、重く圧し掛かるようにして口を覆っていた何かの圧力から開放されて、俺は取り敢えず新鮮な空気を貪ると、次いで、感情の読めない無表情の白い悪魔を睨み付けたんだ。

「俺は、俺だよ。瀬戸内光太郎。どこにでもいる普通の高校生だ」

『どこにでもいる人間…それは判っている。だが、どうしてオレを…いや、オレは何を言おうとしているんだ』

 ハッと我に返ったように金色の双眸を瞬かせたレヴィは、それでも一瞬、何かを考えるように視線を彷徨わせていたんだけど、彷徨っていた虚ろな金色の瞳は唐突に俺の顔の上で止まった。
 一瞬躊躇って、それでも、レヴィは口を開いた。

『どうして、お前はオレを捜しているんだ』

「は?」

『お前はずっとオレを呼び続けてるじゃないか。お前は誰だ』

 それはどこか痛いような、苦しいような表情だった。
 その顔を見て、俺はやっぱり泣きたくなった。
 もしかしたら、そう、これは俺の勝手な妄想なんだけど、もしかしたら。
 レヴィもやっぱり苦しんでるんだろうか。
 頭のどこか隅のほうで、忘れてしまった小さな人間の存在を、思い出そうとしてさ。なぁ、お前も苦しんでいるのかよ?

「…俺は、レヴィアタンを呼んだりはしていないよ」

 そうだ、俺はレヴィを呼んでいる。
 もうずっと、心の奥深いところから、お前の名前ばかり叫び続けているよ、レヴィ。
 お前は一度だって、振り返ってはくれないけど。

『…そうだな。違う、声が。懐かしい声が聞こえる。だが、ああ、そうだ。それはオレを呼んでいるワケじゃない。それはとてもあたたかいと言うのに』

 レヴィアタンは悔しそうに唇を引き結んだ。
 悔しそうに唇を引き結んで、それから、苛立たしそうに俺を見下ろした。

『お前は何なんだ?!ベヒモスを手懐け、灰色猫さえも傍を離れない。アイツはオレの使い魔だ。オレが呼んでも応えもせず、捜してみればここにいるじゃねーか!』

 身に覚えのありすぎる言い掛かりなんだけど、話せば長くなるし、記憶のないレヴィに何か言ったところで到底信じてくれるはずもない。
 だから、子供みたいに、悔しそうに唇を尖らせているレヴィアタンに答えてやることなんかできるワケがない。

『…ルシフェルはお前の何なんだ。契約したのか?』

 黙り込んでいたら、ポツリとレヴィアタンが言ったんだ。
 俺は、目線を上げて黄金の双眸を見詰めた。
 その時はもう、怒りとかそんな感情はなくて、ただ、寂しさと切なさしかなかった。

『あの傲慢の代名詞みたいな悪魔が、どうしてお前を懐に入れて、隠そうとしていたんだ?』

「ルシフェルが俺を隠したりはしないよ」

 レヴィアタンはどんな経緯でそうなっているのか、普通の人間である俺が知るはずもないんだけど、ルシフェルにとても執着している。それが判るから、俺は素っ気無く答えていた。
 でも、レヴィアタンはその答えでは満足しなかった。

『いや、したさ。あの野郎…オレが返せと言っても頑として拒否しやがる。かと言って、契約しているワケでもなさそうじゃねーか。怪しいんだよ』

 ムスッと唇を尖らせたレヴィアタンは、顎を掴んだままで器用に人差し指を移動すると、引き結んでいる俺の唇に触れてきた。

『言わないんだな。お前もルシフェルも。ましてや、ベヒモスですら、何も言いやがらねぇ』

 更に腹立たしそうに呟くレヴィアタンは、こんな時なのにどうしてだろう?
 まるで子供みたいで、俺は思わず頬が緩むのを抑えられなかった。
 やっぱ、憎めないよなぁ。
 俺、つくづくレヴィを愛してるんだなぁ。

『…また、その目かよ。畜生ッ。お前は何なんだ、誰なんだよ?!』

「だからさぁ、何度も言ってるだろ?俺は俺!レヴィがなんと言おうと俺は俺なんだ」

 そこまで言って…ヤバイ。
 案の定、俺の心配どおり、レヴィアタンのヤツはキョトンとしてから、すぐに疑わしそうな目付きをしやがったんだ。

『やはり、お前はオレを知っているんだな』

「なんのことだよ?お前は変わった悪魔なんだな。人間の、ましてや奴隷なんかに興味を持つなんて。それはやっぱり…」

 ルシフェルが絡んでるからだろ…ってさ、言い返すつもりで唇を尖らせたんだけど、開いた口からそれ以上の言葉は出てこなかった。
 だって、レヴィアタンのヤツ、まるで捨てられた猛獣みたいな顔をしやがったから。
 くそ、そんな顔されると、意地悪なんか言えなくなっちまうだろ。

「レヴィアタンこそ、どうしてそんなに俺に興味があるんだよ?」

『…』

 つくづく、レヴィを愛してしまっている俺だから、途方に暮れたような白い悪魔を追い詰めることもできずに(いや、俺なんかが海の帝王を追い詰めるなんか夢のまた夢なんだけど)、仕方なく笑ってしまった。
 俺の笑顔をハッとしたように見下ろしたレヴィアタンは、それでも、やっぱりどこか痛いような顔をしたままで首を左右に振ったんだ。
 やけに今日は素直じゃないか。
 まるで、レヴィに戻ったみたいで、ほんの少しなんだけど、俺は嬉しかった。

『…お前なんかにレヴィと呼ばれて、オレはどうかしている』

 独りで考えて、思ったことを口にするレヴィアタンが何を考えているのかは判らなかったけど、悔しそうに伏せた長い白の睫毛が縁取る目蓋に、やっぱり白い前髪が零れ落ちた。
 暫く見ない間に、レヴィの髪は伸びて、どこかボサボサになっている。肩に垂らしたひと房の飾り毛も、所在なさそうに揺れていた。 
 あれだけ光り輝いていた海の魔王は、どうしてこんなに、疲れ果てたような遣る瀬無い雰囲気になってしまったんだろう。
 レヴィ…俺を思い出してくれよ。
 ほんの少しでいいんだ、俺が傍にいることを許してくれよ。

「ところで、俺はいつまでこうしていないといけないんだ?そろそろ、腹を空かせたベヒモスが暴れだすと思うんだけどな」

 もう少しで、レヴィに詰め寄りそうになって、俺はそれを皮肉で隠した。
 いや、詰め寄って、それで思い出してくれるのなら、俺は何度だって詰め寄ってるさ。
 それができないのは、よく判らないんだけど、この魔界には【均衡】って呼ばれる秩序のようなものがあって、その担い手の1人であるレヴィアタンの思考、もしくは感情とかが暴走すると、その【均衡】が保てなくなってしまうんだそうだ。
 だから、早く魔女の森に咲く花を見つけない限り、危険を冒してまでレヴィアタンの記憶を呼び戻そうとしてはダメなんだ。
 だから、俺は唇を噛み締めて、ここに来て、もう嫌なほど繰り返している言葉を口にしたんだ。

「だから、俺はもう行くから。手、離してくれ」

 もう、行くから。
 お前が見ることがないように、何処か、遠くに。

『…』

 レヴィアタンは、何故か、不機嫌そうに俺を見下ろしたまま、顎を掴んでいる手を離してはくれない。
 そのぬくもりも、甘い、まるで桃のような匂いも、俺はもっともっと嗅いでいたいし、触れていて欲しい。
 でも、それは却って俺を苦しめるんだから、こんなことはさっさと終わった方がいい。今日は、きっと、何かの悪戯で幸せな気分を味わえたんだから、だから、早く終わってしまえ。
 こんな、残酷な幸せは消えてしまえ。

「…レヴィアタンはさ、俺のこと、嫌いなんだろ?」

 聞きたくないけど、こう言えば、きっとレヴィアタンはいつもの冷酷なアイツに戻ってくれる。
 そうして、あの冷ややかな、二度と忘れることなんかできやしない、虫けらでも見るようなあの黄金の双眸に戻って、甘ったるい幸せに喜んでいる俺を奈落の底に突き落としてくれればいいんだ。
 そしたら俺は、また、花を見つけるまで待てるんだから。
 なのに、白い悪魔はそうしてはくれなかった。

『…嫌いかだと?そんなこと』

 言葉を切るレヴィアタンの、その先、『当たり前だろ』の言葉を聞きたくなくて、いや、せめてレヴィの顔で言って欲しくないから、俺は諦めたように目蓋を閉じた。
 この白い悪魔は、どれほど俺を傷付けるんだろう。
 それだけ、本当は、レヴィの一途な想いに自惚れていた俺の、傲慢な態度への罰のような気がして仕方なかった。
 溜め息を吐く俺の唇に、ふと、やわらかくて甘い匂いのする何かが触れてきた。

「?!」

 口付けは突然で、俺は何も言えずに呆然と、レヴィアタンのくれる優しいキスを受けていた。
 随分と触れていなかった唇の柔らかさに、俺は目蓋を閉じた。
 ああ、どうか。
 これは夢ではありませんように。

『…判るわけねーだろ』

 ブスッとむくれたレヴィアタンは、唇を離すなりそんな憎まれ口を呟いた。
 自分が何をしたのか、今更驚いているようで、そんな自分の態度に更に腹立たしさを覚えたのか、苛立たしげに俺を突き放した白い悪魔は、うんざりしたように片手で双眸を覆ってから首を左右に振って、不意に何事もなかったかのように浮き上がると、例の枝の上に舞い上がってしまった。
 勝手にキスされて怒られてる俺って…っと、まさかそんなこと考えるワケもないんだけど、それでも呆気に取られたように見上げる俺の視線の先には、自分の腕に顎を乗せて不貞腐れたように見下ろしてくる大きな白い蜥蜴が寝そべっていた。
 俺はそんな白い蜥蜴を見上げて思わず笑ってしまった。
 ああ、レヴィ。
 これはいったい、どんな魔法なんだ?