第二部 2  -悪魔の樹-

『寂しそうだねぇ、お兄さん』

 その声で、ハッと我に返ったら、足許で薄汚れたような灰色の猫が「にゃあ」と鳴いて擦り寄ってきた。
 いつも、寂しい時には一緒にいてくれる灰色猫がいたから、きっと俺は寂しさを紛らわせることができたんだろう。

「ちょっとな。いつもベッタリいるヤツがいないんだ。そりゃ、少しぐらいは寂しいさ」

『別に言い訳なんか聞いてないよ』

 クスクスッと、猫のクセに妙に知ったように鼻先で笑うから、俺はクソーッと思ってそんな猫を抱き上げてやるんだ。

「そもそもだ、どうしてレヴィは俺を魔界に行かせたがらないんだよ!?」

 完全に八つ当たりなんだけど、それでも聞かずにはいられないじゃないか。
 そもそも、魔界があることを俺が知ったのは、この灰色猫のおかげなんだからな。
 なんだってレクチャーしてくれるんだ、最後まで面倒見てくれよなー…って、ちょっと情けないけど聞かぬは一生の恥!って、ばあちゃんが言ってたんだから間違いない。
 さあ、遠慮せずに教えてくれ。

『魔界って言うところはね、以前にも言ったと思うけど、そりゃあ厄介なところなのさ。お兄さんのようなへな猪口人間がヘナヘナ行ったら、すぐに悪魔たちに取って食われるからねぇ、ご主人は気が気じゃないからお連れしないんだよ』

「なんだよ、それ」

 そりゃぁ、俺は確かにレヴィや灰色猫のような悪魔じゃないから、へな猪口ヘナヘナ人間かもしれない。だからって、そんな簡単に取って食われたりしないさ!!
 つーか、泣く子も黙るリヴァイアサンがいるのに、どうして簡単に取って食われるんだよ?

「レヴィが一緒なら大丈夫なんじゃないのか??」

『それが、そうでもなくてね』

 灰色猫は俺の腕の中に具合良くおさまると、やれやれと息を吐きながら、まるで心の奥底までも覗き見ることができるんじゃないかって思うほど綺麗な金色の双眸で見上げてきた。

『魔界には色んな掟やルールがあるんだよ。それはこの人間どもが暮らす世界にもあるよね?それが言わば1つの秩序となって、魔界はたゆたう時の中で静かに時間を刻んでいるんだ。だから、異質な物質は排除されてしまう』

「それが、俺ってこと?はぁ??なんか、良く判らないよ」

 何時もより小難しく、偉そうにツンツンの髭をピンピン震わせて話す灰色猫の、得意そうな顔を覗き込みながら首を傾げたら、灰色猫は金色の双眸を細めると、短毛種特有の滑らかな頭部で顎の辺りに擦り寄ってきたんだ。

『お兄さんはさぁ、ご主人の心から愛する人なワケでしょ?』

「…う、うん。…その、たぶん…」

 顔を真っ赤にして口の中でモゴモゴ言っていたら、灰色猫は呆れたように双眸を細めると、大きな口をパカッと開いて欠伸なんかしやがった。
 灰色猫じゃなかったら殴りたかった。

『まあ、お兄さんの自信の有無はこの際無視して。つまりね、悪魔は人間を愛さないんだよ』

「…え?」

 眉を顰めると、灰色猫はクルリンッとした可愛い目をして俺を見上げてきた。
 そんな小馬鹿にした態度も、気にならない。
 それは、どう言う意味なんだろう…?

『そして、人間も悪魔を愛さない。悪魔と人間は相容れない関係でしかないんだ。でも、悪魔は人間に恋焦がれているし、人間も悪魔の魅力に恋してる。だけど、けして平行線になれない関係だから、悪魔は人間を陥れるし、人間は悪魔を憎むワケ』

 灰色猫は、猫にしてはやけに穏やかな表情をして、淡々と話している。
 まるで万華鏡みたいにクルクル変わる表情が、今日は何処か静かで、レヴィのいなくなった部屋をより閑散とさせていたから、知らずに俺はギュッとそんな灰色猫を抱き締めていた。

『だから、人間を愛する悪魔と悪魔を愛する人間なんて、魔界に存在してはいけない関係なんだよ。だから、ご主人はお兄さんを魔界にけして連れて行かないんだ。連れて行ってしまえば、異質な物質として、他の悪魔たちがお兄さんを唆して、何処か遠い場所へ連れ去ってしまうからね』

「神隠しみたいなもんか?」

 俺の台詞に灰色猫は『なにそれ』と言って、プッと噴出したんだけど、ペロペロと退屈そうに前足を舐めると耳や耳の後ろをセッセと拭い始めたんだ。

『まあ、似たようなもんかな?でも、ちょっと違うのは…お兄さんが無事ではいられないってことだね。だって、彼らは悪魔であって、神ではないんだよ』

 それは尤もだったから、俺は自分がどんな悲惨な目に遭うのか、その時になって漸く、灰色猫やレヴィが何を言いたかったのか判ったような気がして身震いしてしまった。

「取り敢えず、レヴィの帰りを大人しく待つことにするよ」

『それが賢明な判断だね』

 灰色猫は前足をペロリと舐めて、心地良さそうに双眸を細めると、にんまり笑って頷いた。
 その顔を青褪めたままで見下ろして、俺は半分以上引き攣ってたに違いないだろうけど、ニコッと笑って見下ろしていた。
 レヴィ、早く帰ってきてくれよ。

 でも、レヴィはすぐには帰って来なかった。
 と、言うか。
 もう、1週間以上も経っているのに、レヴィはまだ帰って来ないんだ。

「あれ?最近、あの鬱陶しい白蜥蜴がいないんだな」

 なんて、茜に言われると殴りたくなるほど、俺の今の心理状態は最悪だった。
 何故、レヴィは帰って来ないんだろう?
 魔界で何かあったのか…でも、それにしては灰色猫が大人しくしているし、もしかしたら、甚大な被害を及ぼすからと、レヴィがあれほど懸念していた兄弟が、何かとんでもない問題を起こしていて、その後始末に今まで掛かっていたりするんだろうか?
 うん、きっとそうだろうな。
 そんな風に思い込んでいられるのも最初の4日目までで、さすがにそれ以上になると、やっぱり居ても立ってもいられなくなって、俺は暢気に昼寝をかましている灰色猫の首根っこを引っ掴んで無理矢理起こしたんだ。

『アイテテテ…!酷いなぁ、お兄さん。もうちょっとマシな起こし方ってのがあるでショーがッ』

「灰色猫!どうして、レヴィは帰ってこないんだよ!?もう、一週間以上も経ってるんだぞ??」

 脇の下に両手を差し込んで持ち上げれば、何処まで伸びるんだと疑いたくなるほどダランッと両足をたらした灰色猫は、一瞬だけどキョトンとしたけど、胡乱な目付きのままでクックックッと嫌な笑い方をしやがった。

『ああ、ご主人が心配なんだね』

「あったりまえだろーが!心配して悪いかよ!?」

 ムキッと腹を立てていると、灰色猫は悪魔のような顔をして(まあ、実際は使い魔なんだけど)欠伸をしたけど、それでもムッツリした顔でのんびりと言ったんだ。

『そうだね、いつもなら何を差し置いてもサクッと帰ってくるのに…こんなのはご主人らしくない。よし、ちょっと魔界に戻ってみるよ』

 灰色猫はどう言った仕組みかは判らないけど、あれほど確りと掴んでいたと言うのに、スルリと俺の腕から抜け出ると、軽やかにフローリングの床に降り立ったんだ。
 その時にはもう、灰色の薄汚れたようなフード付きのローブを着た、口許に怪しげな薄ら笑いを浮かべている胡散臭い占い師の姿になっていた。

「…あのさ」

 とっとと魔界に行こうと煙を身に纏った灰色猫の腕を慌てて掴んで、俺は引き留めながら、ニヤニヤと薄ら笑っている灰色猫の、良く見えないフードの中を覗き込んで言ったんだ。

『?』

 口許の笑みはそのままだけど、不思議そうに小首を傾げる灰色猫、どうかお前まで…

「お前まで…消えてしまうなよ」

 何故そんなことを思ったのか良く判らないんだけど、このまま、灰色猫まで戻って来なかったらと思うと…レヴィに繋がる全てから隔離されるような気がして、不安で仕方ないんだ。
 俺とレヴィの繋がりなんて、こんな風に儚くて、脆いものなのかと現実を叩きつけられたような気がしたから、だから、余計に不安で寂しかった。

『…お兄さん』

 灰色猫は一瞬だったけど、息を呑むような仕種をして、それからまた、口許にお馴染みのにんまり笑いを浮かべて首を左右に振ったんだ。

『心配性のお兄さん。ご主人の情報を引っ提げて、無事にこの灰色猫が戻った暁には、鰹節がたっぷりのあったかいご飯を用意しておくれね』

 そんな風におどけてくれる灰色猫の、何処にそんな自信があるのか、そう言ってクスクスと笑った胡散臭い占い師はフワリと、少しだけ硫黄の匂いのする煙に包まれて消えてしまった。
 ああ…そう言えば。
 レヴィが初めて俺の部屋に誕生した時も、まるで消火器でもぶちまけたようにモウモウと煙が溢れ返っていたっけ?
 と言うことはだ、あの種からレヴィは生まれたんじゃなくて、あの種が魔界とこの世界を結んだ、1つの道だったんだな…とか、硫黄の匂いが微かに残る部屋の中で、俺は呆然とベッドに腰掛けてそんなどうでもいいことばかり考えていた。
 灰色猫は、どれぐらいで戻ってくるんだろう?

 結局、やっぱり灰色猫もすぐには帰って来なかった。
 こうなってしまっては、もしかしたら、実は何もかもあの白い悪魔が仕組んだお芝居で、そろそろ潮時だとでも思って、都合よく理由をつけて戻っただけなんじゃないか…とか、そんなことを考えて途方もなく落ち込みながら、それでも日常生活は毎秒100キロの速さで背後に喰らいついているんだと思い知らされるように、夕飯の買い物にトボトボと出掛けることにした。
 腹を空かせた大きな子供が、家には2人もいるんだ。
 打ちひしがれてばかりはいられないけど…それでも、この日常の生活のおかげで、俺はあまり腐らずに済んでいた。
 何時もの商店街で特売のチラシを握り締めながら、キョロキョロとお目当ての食材を探していると、不意にドンッと背中に何かがぶつかってきたから…すわ!もしやスリじゃねーだろうな!?と、今月の生活費を預かる財布を握り締めて振り返ったら、そこには…

「ふぅん、君がセトウチコウタロウね」

 ふくよかな胸が押し上げるようなブレザーと、細いウエストに引っ掛かるような短いスカート姿の、ふんわり巻き髪が小顔を包み込んでいる少女は、細い腰に片手を当てて、勝気そうな双眸を細めて見上げていたから…コイツ、誰だろう?
 どうして、俺の名前を知っているんだ??
 目許にはセクシーな黒子があって、どう見ても、噂にも話題にも出てくるに違いない、とても可愛くて綺麗な子なんだけど…全く見覚えがない。
 ただ、この制服は確か、隣町のお嬢様学校だって言われている女子高のモノだけど。
 クラスメイトがあの女子高の子と付き合っていたから、制服だけは覚えているんだけど、しがない俺の高校如きじゃなかなか会うチャンスもないから、別に知らなくても仕方ないのか。

「えーっと…誰?」

 失礼なヤツだとは思うけど、顔も名前も知らないんだ、こんなつっけんどんな聞き方になっても仕方ないと俺は思う。うん、勝手にそう思う。
 でも、彼女は気分を害しているようでもなく、小馬鹿にしたようにクスッと鼻先で笑ったんだ。

「誰でもいいのよ。貴方、悪魔が憑いてるわよ」

「え!?」

 ギクッとした。
 いやまさか、レヴィのことを言ってるなんて思ってもいないし、何か、性質の悪い冗談か何かだろうぐらいにしか思わなかったんだけど…彼女の、少しだけ色素の薄い勝気な瞳が、何かを探るように細められたりするから、俺はヘンに動揺してしまって目線を泳がせてしまった。
 こんな、顔も知らないようなヤツの台詞に簡単に動揺するなんて…とか、思うだろ?
 実際は、そんなことに動揺したんじゃないんだ。
 誰かが、たとえばこの胡散臭い女子高生だったとしても、まだ俺に、悪魔が憑いていると言ってくれたんだ。
 ほんの少し、胸の奥でずっと燻っていた不安のようなものが、ゆっくりと溶けたような…そんな安堵。

「強ち、満更でもないようね。人間如きが第一階級の悪魔を手懐けるなんて、やるじゃない」

 名前も名乗らないような失礼な女子高生は、フンッと鼻先で笑うと、すぐにニヤリと笑いやがったんだ。
 あう、こんな往来で悪魔の談議なんて冗談じゃないよな。
 顔馴染みの八百屋のおばちゃんが、あからさまに怪訝そうな顔をしてるから、俺はコホンッと咳払いして軽くあしらってやるつもりだったんだ。

「何を言ってんだ?この暑さだ、熱中症とかかからないように気を付けろよ」

 じゃーなと片手を振って立ち去りかける俺を慌てたように追い駆けてくると、ふんわり巻き毛の女子高生は、なんだか、見ているだけで嫌な気分になるような笑みを、その綺麗な唇に浮かべていた。

「随分と落ち着いてるじゃない。アンタにレヴィアタンは勿体無いのよ」

「…え?」

 ふと、見下ろした先の彼女の顔は、まるで妖艶な熟女のようにしっとりとした雰囲気を漂わせていて、俺は思わず我が目を疑って瞬きを繰り返してしまう。
 そうすると彼女は、そんな俺の隙をついて、いきなり、そうまるで嵐のように唐突に、いきなり胸倉を掴んでグイッと、それはそれは凄まじい力で引き寄せると、問答無用でキスしてきた!

「ななな…ッッ!?」

「…ふん、キスぐらいで動揺しないでよね」

 呆気に取られている俺や、道行く買い物客たちが驚いたように目を瞠っているのに、彼女は全く動じた様子も見せずに、まるで勝ち誇ったかのようにフフンッと笑いやがったんだ。
 なな、なんなんだ!?

「アンタの中にあるレヴィアタンの記憶は貰ったわ。これでお仕舞い。結局、人間如きが第一階級の悪魔の愛を得ようなんて、100万年早いってことよ」

 彼女は不意に、憎々しげに俺を睨むと、フンッと胡乱な目付きで一瞥してから外方向くようにして行ってしまったんだけど…いったい、何が起こったんだ??
 あのお嬢様学校の女子高生は、レヴィの記憶を貰ったとか言いやがったけど…そもそも、どうしてレヴィのことを、彼女は知っていたんだろう。
 有名なお嬢学校はカトリックだと彼女持ちのクラスメートが言ってたから、もしかしたら、彼女はエクソシストだったんじゃないだろうな?
 それだと、もしかしたら…俺は目を付けられたのかもしれないから、レヴィが危険かもしれない。
 俺は、実際に第三者として聞いていたら、おかしな会話だと思われるに違いないんだけど、それでも俺は、胸に微かに巻き起こった旋風に、ソッと眉を顰めて俯いていた。
 レヴィも、灰色猫も帰って来ない。
 ここで俺は、待っているのに。
 どうして、2人とも帰って来ないんだろう?
 それとも…もう、帰って来ないのかな?
 ここにはエクソシストとかいて、危険だし…
 帰って来ない方がいいのか?
 でも、俺は。
 俺は、ここに、いるのに…