第二部 4  -悪魔の樹-

『この城内は亜空間になっていてね、実に6万人以上の悪魔や人間の奴隷どもが生活しているんだよ』

 その、想像を遥かに超えた桁に、一瞬、我が身を疑ってみたものの、貴公子然としてツンッと顎を上げている灰色猫の自信に満ちた表情を見ていると、どうも強ち嘘ではないんだと信じられた。
 悪魔を信じるってのもどうかしてるんだけど、灰色猫は使い魔だし、こんな胡散臭い場所で唯一信じられるヤツと言えば、唯一、人間のお願いを聞いて白い悪魔に導いてくれるお人好しな灰色猫しかいないだろ。
 悪魔だろうが人間だろうが関係ない。
 今は、レヴィに導いてくれる灰色猫だけが、信用できる。
 取り澄ました猫の表情をして悠々と先を歩く灰色猫の小さな背中を追いながら、俺は人間界(?)から抱えてきたリュックを大事そうに胸元でギュッと抱き締めたまま、長い回廊を忙しなく行き交う、凡そ人間とは到底思えない、二足歩行の化け物に度肝を抜かれながら見守っていた。
 中には、牛のような頭部を持つ奇妙な肌の色をした悪魔らしい悪魔にその華奢な腕を引っ張られて、泣きながら歩いている人間の少年もいて、その姿に呆然と足を止めてしまった俺を心配したのか、その小さな肉球からでは想像できない、思う以上の力強さで腕を引かれて俺はハッとした。

『お兄さん、よくお聞き。立ち止まってはダメだよ。何を見ても、何を聞いても、お兄さんが思い描くのはご主人のことだけでいいんだから』

 金色の双眸を細めるようにして言ってから、灰色猫はまたしてもツンッと取り澄ました表情で歩き出すから、俺は既に背中を向けている灰色猫に頷きながら、改めてリュックを抱え直すと歩き出した。
 あの少年は、いったい何処につれて行かれるんだろう?
 灰色猫は、魔界にいる人間は、悪業を背負って後悔ばかりしている人間の奴隷だけだと言っていたから、あんなに幼い少年でも、何か悪いことをして、いまさらそれを後悔しているんだろうなぁ…子供なのに、悪魔って連中は容赦がないんだな。
 ちょっと理不尽にムッとしていたら、不意に灰色猫が足を止めたから、俺はその小さな身体に蹴躓かないように慌てて足を止めて、そのまま灰色フードに顔を隠したまま、まさかいきなり正体がバレたんじゃないかとか、そんなあらぬ心配に心臓をバクバク言わせながら、何事が起こったのかと耳を欹てていた。

『これは…アスタロト様。御機嫌よう』

 灰色猫は豪く畏まって、まるで貴族がするように、腹の前に手を当てて、片手を広げながら優雅にお辞儀をすると、長い尻尾がピンッピンッと左右に揺れた。
 緊張しているのか、それとも、とても仲が良くて懐いているのか…猫の行動って傍で見ていても良く判らないんだよな。

『あらぁ…灰色猫タンじゃん。今日はどうしたの?ご主人はいないワケ??』

『はい。ご覧の通り、灰色猫の傍にはいませんが、ご主人は今、城内におられますよ』

 灰色猫がニッと笑った気配がして、聞き覚えのあるようなないような、アスタロトと呼ばれたどうやら悪魔は、呆れたように肩を竦めたようだった。

『別にねぇ、レヴィアタンに会いたいワケじゃないけど。もうね、随分と会っていないのよ。どうしてる、彼?元気なワケ??』

『頗るお元気です』

『そのワリにはねぇ、巨体が城を壊したって噂も聞かないのよ。どう言うコト?彼はホントに城内にいるワケ??』

 会いたいワケではないんだろうけど、どうもこのアスタロトと呼ばれた悪魔は、レヴィの消息ぐらいは知りたいんだろうなぁ。やけに食い下がる悪魔に、内心では何を考えているのかサッパリ読み取れない灰色猫が、優雅にクスッと笑ったんだ。

『おられますよ。お会いになれば宜しいのに。アスタロト様でしたらすぐにでもお会いできるのではありませんか?』

『う~…ん、嫌なのよね。彼、嫉妬深いから』

 まるでおネエちゃん言葉なんだけど、その声音は明らかに男のもので、どうやらこのアスタロトと言う悪魔は、レヴィに会いたいんだけど、会ってしまうと嫉妬深いからウザイ…と言いたいんだろうなぁ、怠惰な口調が何処か面倒臭そうだ。

『!』

 一瞬、灰色猫がハッとしたような気配がして、その顔を上げたんだと気付いた時には遅かった。

 怠惰な素振りで面倒臭そうに話していたはずのアスタロトが、何時の間にか俺の目の前に立っていて、灰色猫が妨害するよりも素早い仕種でサッと、俺は灰色のフードを背に払われてしまったんだ!

「!」

 ギョッと目を見開いて顔を上げたら、ニヤニヤ、楽しげに笑う目許の黒子がセクシーな、やたら垂れ目の派手な兄ちゃんが腰に手を当てて、これまた派手な格好で立っていた。

 悪魔に顔を見られてはいけない、そう灰色猫に言われていたから、俺は慌てて顔を伏せようとして、伸ばされた繊細そうな人差し指の指先一本で、顎をグイッと上げられてしまった。
 こうなったらもう、俯くことなんかできやしねぇ!
 たった指先一本で動きを封じられてしまった俺は、慌てて灰色猫を目線だけで見下ろしたんだけど、猫はソッと怪訝そうに表情を曇らせているようだった。

『あらぁ…小生意気そうな顔をした人間ね。どうしたのコレ?レヴィアタンへのお土産ってワケ??』

『それは…灰色猫の奴隷です』

 灰色猫はなんとか意識を自分に逸らそうとでもするように、俺とアスタロトの間に割って入って、その小さな肉球で派手な悪魔の身体を押し遣ろうとしたんだ。

『ふぅん?そんなに大事な奴隷なら、アタシに預けるべきなのよ。それよりも、ご主人に渡すべきではないのか??』

 あれほど強い力を持っている灰色猫でも、この悪魔の世界では所詮やっぱり猫でしかないのか、アスタロトはビクともせずに、興味深そうにマジマジと俺の顔を覗き込んできた。
 言葉が出ないのは、予め灰色猫が何かを施しているせいなのか、それとも、この派手でチャランポランそうな格好をしているくせに、夥しい殺気のような、チリチリと肌を焼く威圧感を垂れ流すアスタロトの気配のせいなのか、よく判らないんだけど、俺は全く口を動かせないでいた。

『仰るとおりで。この奴隷はレヴィアタン様に献上するつもりです』

『ふふふ…やっぱりぃ、そうじゃなくっちゃね!じゃあ、近いうちにアタシに回ってくるってコト?』

『それは…』

 不貞腐れたように表情を硬くしている灰色猫が、押し遣られるようにして身体を離してしまったから、俺は不安でいっぱいになりながらアスタロトの派手な顔を見上げていた。
 どうしよう、悪魔に顔を見られるなって言われてたのに、これじゃばっちりガン見されてんじゃねーか。
 うう、ドン臭いヤツで悪かったな!
 誰にともなく悪態を吐いていたら、上機嫌で鼻歌を歌いながら、いきなりアスタロトがキスしてきやがったんだ!!

「なな、な…に、すん…だーーーーーッッ!」

 搾り出すように声に出して怒鳴った俺は、漸く動けるようになった身体で思い切り両手を突っ張ったんだけど、俺の唇を塞いで思い切り濃厚なキスをしていたアスタロトは、微かに濡れた唇をペロリと真っ赤な舌で舐めてから、嬉しそうにニコッと笑った。
 な、なんなんだ。

『あっは!元気がいいねぇ。きっと調教のし甲斐があると思うんだ。レヴィアタンに早く渡すように言っておかなくっちゃ』

 アスタロトは平然とそんなことを言ったんだけど…おい、ちょっと待て。
 今、【調教】って言わなかったか!?

「は、灰色猫、今…」

『小生意気な目付きが可愛いから、たっぷり調教してあげるわよぉ』

 そう言って、灰色猫に救いを求めようとする俺のことなんかお構いなしで、派手な悪魔は覆い被さるようにして俺の息でも止めるつもりなのか、噛み付くように口付けてから、肉厚の舌で口腔を蹂躙すると、まだ満足できないとでも言うように、角度を変えてより深く口付けてきた。
 思わず、腰砕け状態に陥りそうになった俺が、闇雲にその背中に腕を回して抱き付いた時だった、不意に一陣の風が吹き抜けるようにして、アスタロトがハッとしたように顔を上げたんだけど、俺はと言えば、それでなくてもレヴィに教え込まれた身体が反応して、肩で息をしながら派手な悪魔に支えられていないと立ってもいられない状態だった。
 それでも、顔だけは動かして何が起こったんだろうと、虚ろな目線で風の行き着いた先を確認したら、ハッと目を瞠ってしまう。
 そこには、不機嫌が服を着ているんじゃないかと思えるほど、忌々しそうに眉根を寄せた白い悪魔が、腕を組んで突っ立っていたんだ!
 れ、レヴィ…ああ、俺、お前に会いたくて…
 泣きそうになりながら、ともすれば会えないんじゃないかと思っていた最愛の人の登場に、俺は安堵して微笑みながらアスタロトを振り払おうとしたんだ。
 きっと、本当は記憶とかあって、みんなで俺をからかったに違いない。
 だって、レヴィはきっと今、嫉妬して駆け付けてくれたんだから…
 でも、そんな淡い期待に胸を躍らせる俺の希望を、粉々に打ち砕いたのは、他の誰でもないレヴィだった。

『…オレはどうして、ここに来たんだ?』

 ふと、あれほど忌々しそうに俺たちを睨んでいたくせに、レヴィは、この白い綺麗な悪魔は、古風な衣装に身を包んだ貴公子のような出で立ちで、僅かに白い眉を顰めて、困惑したように自分の行動に戸惑っているようだった。
 どうして自分が、ここに駆け付けたのか判らない…その表情は何よりも饒舌にそう物語っている。
 鈍感な俺にだって判る、レヴィは嘘なんか吐いていない。
 本当に、何故自分が此処に、息せき切って駆け付けてきたのか、まるで判っていないようだ。

『あらぁ!レヴィアタンなの??気配がなかったらちっとも判らなかったよ。凄いわね~、レヴィアタンが人型になってるなんて!アタシ、てっきり貴方は大海蛇の姿のままかと思ってたんだよね』

『アスタロト?いや、何故こんな姿になっているのか判らないんだ。ただ、どうしてもこの姿でなくてはならないような…ん?なんだ、灰色猫もいたのか』

『ご主人、お元気そうで何より』

 冷徹な光を宿す冷たい金色の双眸は、一度も俺を見ようとしない。
 それどころか、レヴィには俺自身が、まるで見えていないかのようなんだ。
 けして認めたくはないんだけど、どうも、レヴィは俺をただの人間の奴隷ぐらいにしか思っていないようで、興味すらないようだ。
 思わず頭が真っ白になってしまって、自分の名前が呼ばれたことにすら気付かないと言う有様で、灰色猫だけが心配そうに、ソッと顔を顰めた。

『そうそう!灰色猫タンがねぇ、人間の奴隷を連れて来たんだって。レヴィアタンさぁ、この奴隷をどうする?』

『奴隷?ふん、下らんな。腹を空かせたヘビモスへの手土産にでもするか』

『やだ、勿体無い!』

 灰色猫が何か言うよりも先に、アスタロトが俺をギュウッと抱き締めながら、腹立たしそうに言い返していた。でも、そのどの言葉も俺には届かなくて、今は呆然と成り行きを見守るしかない。

『じゃあねぇ、この子とアタシの奴隷。交換しない?どれでもいいんだけど~、悪い条件じゃないと思うぜ??』

 アスタロトはニヤニヤと笑って片目を閉じて見せたんだけど、レヴィはあまり乗り気ではないようだった。
 と言うか、レヴィは人間の奴隷そのものに、あまり魅力を感じていないみたいなんだ。

『ふん…じゃあ、そうだな。ヴィーニーとなら交換してやってもいい』

 腕を組んで、あまり面白くもなさそうに言うくせに、どこか金色の双眸には悪戯っぽい光がチラチラ瞬いていて、俺は…ああ、レヴィってこんな表情もするんだなぁと、こんな時なのに馬鹿みたいに考えていた。
 どの表情も、初めて見る、レヴィの素顔だ。

『ヴィーニー!…嘘ん、あの子はアタシの一番のお気に入りじゃないッ』

『嫌なら別にいいんだぜ。灰色猫、ソイツを連れて…』

 レヴィはニヤニヤ笑うと腕を組みながら指先で飾り髪を弄ぶと、アスタロトの苦悩に満ちた表情をたっぷりと愉しんでいるようだった。
 やっぱり、レヴィは生粋の悪魔なんだ。
 俺と一緒にいる時の、あの穏やかさは微塵もなくて、狡猾に取引を交わす様は、見ていて嫌な気分になるほど鮮やかで、吐き気がした。
 でも、これが悪魔たる所以で、だからこそレヴィは、俺に魔界に来て欲しくなかったんじゃないかなと、今なら少し判るような気がしていた。
 レヴィは連れ去られることを怯えていたんじゃないよ、灰色猫。
 自分の、真実の姿を見られること、そのせいで俺がレヴィを嫌ってしまうかもしれない…そんな、悲しいぐらいの憶測で、魔界に来させないようにしていたんだ。

『ああ、もう!判ったわよ。ヴィーニーをあげる。その代わり、この子はアタシの好きにしてもいいんだな?』

『…へぇ?お前がヴィーニーを手放してまでも手に入れたい奴隷ね。どんな魅力があるのか知らんが、オレには関係ない。煮るなり焼くなり好きにすればいい』

 追い詰められて唇を噛んでいたアスタロトが、それでも思い切ったように宣言すると、肩を竦めたレヴィが完全に興味を失くしたように首を左右に振って、どうでもよさそうに言い放った。

『じゃあ、ヴィーニー!おいで、今日からレヴィアタンがご主人様よ』

 渋々と言った感じで手放す決意を固めたんだろう…って言うか、そんなに大事な奴隷なら、俺のことなんか放っておいて断ってくれればいいのに。
 俺がアスタロトの腕に抱かれたままで不貞腐れたように唇を尖らせていたら、ソッと、灰色猫の小さな猫手がギュッと、ローブの裾を掴んできた。ハッとして見下ろしたら、灰色猫は困惑したような金色の双眸で俺を見上げていて、それでも、一緒に傍にいてくれる意思が伝わってきたような気がして、ソッと眉を顰めて見せた。
 大丈夫だと、言えたら天晴れなんだけど…ごめんな、灰色猫。
 俺、自分が思う以上に弱虫みたいだ。

「はい、ご主人さま」

 ふと、凛とした声が響いて、ハッと目線を上げると、ヴィーニーと呼ばれた人間の奴隷が足音もなく近付いてくると、彼は自信に満ちた表情で笑ってアスタロトを見上げた。
 その顔は、外国人らしい彫りの深さで、どちらかと言えば、並々ならぬ美形なんだけど、どこか抜けてそうなお惚け野郎の雰囲気を持つアスタロトより、キリリとした貴公子のような出で立ちの、白い悪魔のレヴィとの方がお似合いだと思えた。
 少年は、たとえば、天使が悪戯に人間に化けたような、どこか品のある勝気そうな表情の育ちの良さそうなハンサムだった。
 う、思い切り俺、負けてないか??
 所詮は薄い印象の日本人面なんだ、そんな品のある外国人の顔に勝てるはずがない。
 思わず項垂れそうになった目の前で、さらに追い討ちをかけるような光景が繰り広げられて、できれば俺、そのまま卒倒したかった。
 白い悪魔のレヴィは、嬉しそうに片手を伸ばして裏地が鮮紅色の外套を翻すと、まるで恭しくヴィーニーの華奢な手を取って、その甲にキスしたんだ。
 まるで映画のワンシーンみたいに様になる光景に、俺が目を見開いて愕然としているのをどう受け取ったのか、アスタロトが肩を竦めながら首を左右に振った。

『レヴィアタンはあの子をずっと気に入っていたのよ。いつも『くれくれ』って煩かったんだけど…これで彼も満足だろうよ。ただ、レヴィアタンは大嘘吐きで悪戯好きだから、ああして自尊心を擽ってから、奈落に突き落とすんだろうね。ま、もう手放してしまった奴隷がどうなろうと、アタシは興味はないけど』

 ご主人さまと言うよりも寧ろ、彼の美しさに惑った貴族が、その美を賞賛して心酔している…そんな風に見える光景に、アスタロトが鼻先で笑う。

『ふふふ…きっと、彼のアマデウスは役不足だと思うけどね』

 アマデウス?
 そんな名前の悪魔がいるのかな…どちらにしても俺は、それがたとえ嘘だとしても、見ていたくはなかった。
 そんな風に、人間を持ち上げて、そしてお前は奈落に突き落としていたんだ。
 その光景が鮮やかに俺に重なるような気がした…違うのかもしれないけど、その金色の冷たい双眸を見ても、俺の時に見せる、あの情熱に濡れた光は微塵もないから、俺の時とは違うのかもしれないけど、それでも、胸の辺りをギュッと掴まれたような嫌な気分に陥ったのは確かだ。

「…レヴィは、レヴィアタンは彼が好きなのかな?」

『ん~?そうね、お気に入りであることは確かよ。さ、そんな下らないことはどうでもいいわ。アマデウスごっこの好きなレヴィアタンなんか放っておいて、君はアタシの部屋においで』

 可愛がってあげるからね、と、アスタロトは抱き締めている俺の顔を覗き込むと、うっとりするほど綺麗に笑って小首を傾げてきた。
 見るからに上機嫌のレヴィとはにかむように嬉しそうなヴィーニーを見ていたくなかった俺は、心配そうに見上げてくる灰色猫に困惑の眼差しを向けながら、それでも、諦めたように頷いていた。
 口付けをせがむヴィーニーの頬に、俺なんか眼中にないレヴィが微笑んで、優しくキスする場面なんか、それこそ一生見たくなんかなかった。
 色気もクソもない俺の黒髪に、濃紺色の緩やかな長い巻き髪を肩から零したアスタロトが、嬉しそうにニッコリ笑って頬擦りする。
 どうやら俺は、ワケが判らないままアスタロトと呼ばれる悪魔の奴隷になってしまったようだ。
 けど…これからどうなるんだ、俺??