2  -悪魔の樹-

 翌日俺は、久し振りに爽やかな目覚めってヤツで早起きして、いつもギリギリで作っていた弁当を時間内で見事クリアすると言う偉業を成し遂げてしまった。
 やればできる子なんだ、俺って。
 エプロンを握り締めて爽やかな朝陽の中、嬉しさに涙を流す俺の背後に、その不気味な影は迫っていた。
 だっらーっと半分以上やる気のなさそうな両腕が、シンクに向かっている俺の両肩に無造作に投げ出されてきたから吃驚した。

「なななッ…って、なんだ、茜(セン)かよ。兄ちゃん、吃驚しちまったじゃないか」

「朝っぱらから光太郎にこんなことするのって、俺しかいないだろ?他に誰がいるっつーんだよ。誠太郎なんか論外なのにさ」

 ぶすぅっと、寝起きの悪さを物語るように唇を尖らせているような茜は、俺の肩に懐くように顎を乗せながら父親の悪態を吐いている。うん、それは判るけど…

「なんか、今日は朝からツヤツヤしてんな?それに、すげー…いい匂いがする」

「ゲゲ!?そ、そうか??」

 思わずビクッとして肩を揺らしてしまった俺の態度に、それこそ何をしても卒なくこなす茜は、敏感に気付いたように鼻面を耳の下の首筋の辺りに摺り寄せてきやがるから…う、朝っぱらからヘンな気分になりそうだ。
 朝の生理現象も手伝ってるんだ、そろそろ離して欲しいんだけどね。

「なに、反応してんの?朝風呂した…ってワケでもなさそうだし。うーん、それにしてもいい匂いだ。えい、舐めてみよ♪」

「はぁ!?…ッ、よ、よせって!バカ弟!!」

 首筋をベロリと舐められて、妙にゾクゾクしてしまった俺は顔を真っ赤にしながら引き剥がそうとして暴れているってのに、弟は俺の抵抗なんかそよ風とでも思っているのか、興味深そうに首筋にチュッチュッとキスまでしてきやがる始末だ。

「うーん、味はしないんだな」

「あったりまえだろうが!そのクソッタレな脳みそはちゃんと動いてんのか!!?」

 キィッと悪態を吐いて背後の弟を振り返るついでに胡乱に睨みつけたら、茜は面白くないとでも言いたそうな顔をしてチェッと舌打ちなんかしやがった。

「俺にじゃれ付くヒマがあるんだったら朝飯を食ってけ!いつも僕の朝食はコーヒーで結構なんだ、とか、どこぞのジェントルマンみたいな真似ばっかりしやがって。お前は育ち盛りなんだからちゃんと飯を食って行くんだ!」

 外したエプロンを専用のフックに戻しながら、濡れた首筋を手の甲で拭いながらビシィッと食卓テーブルを指差してやると、茜はホカホカご飯に味噌汁、焼き魚に玉子焼き、ほうれん草のお浸しに昆布の佃煮と言う、何処から見ても立派な日本の朝食を目にして尻上がりの口笛なんか吹いたんだ。

「やっぱ、光太郎ってお母さん気質なのな。いつ嫁に行っても苦労はしないだろうよ」

 嬉しそうにいつもの席に腰を下ろす茜の聞き捨てならない台詞には眉が寄ったが、それよりも朝っぱらから俺を脱力させたのは実の父親の暢気なバカ発言だった。

「何を言ってるんだ、茜。光ちゃんがお嫁さんに行ったらお父さんはどうなるんだい?靴下のある場所も判らないのに」

 メソメソ泣いてんじゃねぇぇ!!

「靴下は父さんの部屋の箪笥にちゃんと仕舞ってるだろ?!一番上の右端!」

「え?ああ、そうだったのか」

 ひょこっと2階の自分の部屋を見上げる父親に思い切り溜め息を吐いていたら、行儀悪く両肘をテーブルについて味噌汁を啜っていた茜がぶっきら棒な調子で思わず萎える発言をくださいました。

「だから、嫁に行かせなければいいってワケよ。大丈夫、責任持って俺が嫁に貰うし♪」

「未成年じゃダメだけど、18になれば全然オッケーだから、お父さんも協力するね」

 そこ、同意しない。
 しかも、朝っぱらから何の話ですか。

「はいはい!どうでもいいから親父も飯を食ってくれ。片付けは帰ってからするけど、食った後の茶碗ぐらいはシンクに戻しておいてくれよ」

「ふぇ~い」

「うんうん♪」

 気のない返事の茜と至極嬉しそうな父親の陽気な返事を聞きながら、思い切り疲れてしまった俺はガックリと茜の横に腰を下ろしていた。

「あ、そーだ。今日俺、帰らないと思うんだけど。誠太郎と光太郎はどんな感じ?」

「お父さんも今日は残業だよ。もしかしたら、そのまま帰れないかもかも」

「へ?俺はいつも通りだけど…」

 焼き魚を突付いていた茜は、ちょっとムッとしたように唇を尖らせて、肩を竦めながらまたしても俺の肩に懐いてきやがるんだ。

「友達んちにさぁ、お泊りなんだけどぉ。お小遣い、ちょっぴり先取りしたいんだぁ~」

 ははーん、コイツの朝っぱらからのあの態度は、これを切り出すための予防線だったんだな。

「ダメだ!お前、そう言って先月も先取りしただろ??」

「チェッ!あと千円しかないオトートが可哀想だって思わないのかよ、おにーちゃん!」

 せ!…千円って、つい3日前に1万も渡したのに、この見てくれも脳みそもやる気なさそうな弟は、いったい何にそんなに金が必要なんだ!?

「この不良弟が!いったい何にそんなに金が必要なんだよ?」

「え~、イロイロ。ゲーセン行ったり、フラフラしたり~」

「茜には彼女でもいるんじゃないのかい?光ちゃん、可哀想だからあと5千円渡してあげなさい」

「やっり!さすがお父様、話が判る♪」

「ぐはっ!」

 家計は確かに毎月父親に報告してるし、毎日忙しなく働いている父親の稼ぎはそれほど悪くない、と言うか、このご時世では裕福な方だ。
 だからと言って、奔放に遊びまわっている弟をそんなに甘やかしてだな…って、そう言いながらもまるで甘えん坊の子犬のような上目遣いでキュゥ~ンと見上げられてしまうと、苛々しながらも溜め息を吐いて財布から5千円札を取り出す俺って…さようなら、一葉さん。

「へっへっへ~、んじゃ、ご馳走様でした!俺、学校行って来る」

「おう、行ってらっさい」

「明日は早めに帰るんですよ~」

 明らかに弟は父親に似たなと確信する俺の前で、ほんわか眉尻を垂れている父が俺を見ていることに気付いた。

「なんだよ?」

「ホントに、光ちゃんはいい子に育ってくれたと思ってね」

 そんなこと、嬉しそうに笑いながら言われても困るだろ。
 朝っぱらから、昨夜致してしまった悪戯の罪悪感も手伝ってか、俺は顔を真っ赤にしながらわざと怒ったふりをしてガチャガチャと茶碗を集めてシンクに置きに行ったんだ。
 案の定、弟は食器を下げずに行っちまったしな…くそ。

「朝っぱらかヘンなこと言ってないで、父さんもさっさと仕事に行けよ!」

 俺は、本来なら母さんが座ってたはずの椅子の背に掛けていたスポーツバックを引っ掴みながら、どこからでもバッチリ見ることができる母さんの写真を拝んで、それから父親にそう言うと慌てて玄関に突っ走った。
 時間に余裕があると思って高を括っていたら、気付いたらもうこんな時間になっていた。
 ヤバイヤバイ。

「…本当のことなのになぁ」

 父親がやれやれと溜め息を吐きながら味噌汁を啜る音が聞こえたけど、この際無視してスニーカーを履こうと玄関に行ったら、どうしたことか茜が立っていたんだ。

「あれ?お前、先に行ったんじゃないの??」

「…俺、彼女とかいないぜ」

「はぁ?」

 いきなり何を言い出すんだと首を傾げたら、中学3年でピアスをしている充分ヤンゾな茜のヤツは、小脇に薄っぺらい学生カバンを抱えたままでポケットに両手を突っ込んだ姿で、不機嫌そうな仏頂面をしていた。

「昨日の兄貴の色っぽい声に中てられてさ、欲求不満を解消しに行くだけだ」

「…!!」

 その台詞で一気に顔を真っ赤にしてしまっては、自分が何をしていたのか雄弁にゲロしてるようなもんだ。元来、あんまり嘘とか吐けない体質の俺だから、普通ならニヤッと笑ってさらりと流すモンなんだろうけど、アワアワと泡食ってしまえばますます茜の発言が真実味を増してくる。
 いかん!いかんのに…

「な、何、言ってんだよ」

「判らない?ハッキリ言ってもいいんだけど、俺、光太郎のこと好きだから。アンタのチンコ舐めてしゃぶりたいし、それから尻の穴もたっぷり舐めて俺のチ…むぐむぐ」

「こ、このバカがッッー!!朝っぱらから、そ、それも玄関先で!!な、何をくっちゃべってんだーッッ」

 シレッと事も無げに言い放つ茜の口を慌てて両手で押さえると、それでなくてもダイニングには父親もいるって言うのに、いったいこの弟は何を考えているんだ!?

「…光太郎が聞いたんじゃねーか。俺、アンタのこと兄貴なんて思ったこと一度もない。だって、光太郎はいつだって性欲の対象だったし」

「グハッ!!」

 思わず吐血でもしちまったんじゃないかと思ったほど、俺はブホッと息を吐き出してしまっていた。
 まま、まさか、昨日の声を聞かれていただけでも恥ずかしいって言うのに、こんな頭のネジがどこかに飛んで行っちゃいました、えへ♪…な会話まで言われるとは思っていなかったから、俺はどんな顔すりゃいいんだよ。
 曲がりなりにも兄貴なのに…な、何が兄貴だと思ったこともない、だ。
 あ、なんかムカムカしてきた。

「…あのなぁ、今の台詞は聞き捨てならんぞ。俺を兄貴だと思ったことないだって?いくら俺がちょっとばかり抜けてるとは言えどもな、お前より2年も長く生きてるんだぞ!その年長者を掴まえて何を言いやがるッ、お兄様と呼べ!」

 最後はちょっとエキサイトし過ぎてなんか勘違いしたこと言ってしまったけど、それでもムッとしたままで、シレッとした涼しい顔の弟の胸倉を掴んでその目を覗き込んだら、弟は…ん?なんで、マジマジと見返してくるんだ?ごめんなさいって謝らないのかよ??

「…ああ、もうホント。押し倒して犯してやりたい」

「ぬな!?お、お前ってヤツは口を開けばからかってばっかりでッ!」

「からかう?んなつもりは毛頭ございませんけど。うん、やっぱ今日は2人で学校休んで、このままベッドにゴーしよう。一日たっぷり時間をかけて、ジックリ肛門拡張してやるから…ぶはっ!」

 思い切り片掌でその顔を押し退けてやると、茜は予測もしていなかったのか、思い切りバシンッと殴られてしまってしゃがみ込んじまった。

「自業自得だ。少しは反省しろ」

 ふん!
 俺はスニーカーを履くとそのままズカズカと玄関を後にしようとして、閉じかけた扉の向こうから「本気なのにな…」なんて言う茜の言葉を聞いてしまって、ますます顔を真っ赤にしたまま憤っていた。
 いったい、なんなんだ突然。
 どこか飄々としていて、掴み所のない雲みたいな男だったのに、今朝の茜はどうかしてる。
 た、確かに昨日は1人遊びに夢中になってて、隣にいるはずの弟の存在は綺麗サッパリ忘れていた。そんなヤツ、兄貴と呼ぶのもどうかしてるのかもしれないけど、それでも、俺だって男だし人間だ。
 1人遊びぐらいするだろ!?
 …ハッ、考える部分が間違えてた!
 あーあ、あの『悪魔の樹』を持って帰ってから碌なことが起こらない。
 なんか、朝っぱらから気が滅入ってきた。
 あんなに、爽やかな目覚めだったってのにな…はぁ。
 こんな調子で、本日の瀬戸内家の一日は始まるのだった。

 学校に着くと、中学からの悪友である篠沢がニヤニヤ笑いながらお出迎えしてくださった。

「なんだよ、ムカツク」

「うっわ、なに?朝っぱらからイキナリご機嫌ナナメだね」

 不機嫌そうに唇を尖らせて悪態を吐いたってのに、八つ当たりをされた篠沢は一向に応えた様子もなく肩なんか竦めて笑っている。

「弟のヤツが朝っぱらからヘンなこと言いやがったから、一発殴ってきたんだよ」

「あー…茜くんね。ふーん」

「なんだよ?」

 こうして見れば憎たらしいほど甘いマスクの篠沢は、これでも学級委員長で文武両道なところが女子の間でも人気があったりする羨ましいヤツだ。
 その篠沢が顎に手を当てながら何か考え込んでるんだ、どうせ下らないことを悪巧みしてるんだってコトは長年の付き合いでよく判っていたのに、ついつい聞いてしまうのもいつもの俺のクセだ。

「お前さー、弟くんにメロメロだもんな。すっげーブラコンだから、殴ったこと一日中気にし続けるんだろうなぁと思ってさ」

「う」

 …そう、篠沢の言うとおり。
 俺はたった一人の弟、茜を凄く大切に思っている。
 本当はあんな風にヤンゾなんかにさせたくはないんだけど、それでも弟が楽しいのなら、まいっか、なんて思ってしまうのは、父親といい勝負いってるのかもしれない。
 その茜に「兄貴なんて思ったことない」と言われて、「押し倒して犯したい」とまで言われてしまった俺だ、そりゃあ、一日中だって不機嫌だしどっぷり落ち込みそうだ。

「昨日はテストで欠点取るし、なんか大殺界にでも突入してんじゃないのか?」

 ニヤニヤ、相変わらず笑いながら肩に腕を回されて、俺は首筋に当たる篠沢の腕に後頭部を押し付けて盛大な溜め息を吐いてやった。

「あーあ、なんかいいことないかなぁ」

「ははは!そんな、いいことが転がってりゃ誰も苦労して予習復習なんかしないだろ?」

「ぐはー、言われちまった」

 まあ、どうこう言ってもこの悪友がいれば、学校もそれほどつまらなくもないんだけどね。
 他愛のない話をしているうちに予鈴が鳴って、俺たちは自分の席について大人しく勉学に励むのだった。
 それにしても…『悪魔の樹』のことは、さすがに悪友でも篠沢には言えないよな。
 クールで超!現実主義の篠沢のことだ、話せばたぶん、上から人を冷めた目で見下ろしながら腕を組んで、一言「あほう」って言うんだろう。いや、確実に言われる。
 それでもって、俺がアレを咥えて舐めたりしゃぶったりしたって言えば、馬鹿にして「んじゃ、俺のもついでに咥えてくれよ」ってなことを平気で言いやがるに違いない。
 そう言う、嫌な性格なんだ篠沢って。
 やっぱ、アレのことは内緒にしておこう。
 まだ悪魔も生ってないし…悪魔が生ったら教えてやればいい。
 相変わらずダラダラと学校が終わり、さて、帰って米を炊いて夕食の準備をして、それから『悪魔の樹』の世話をしてやろう。いや、昨日は俺が世話をされちゃったんだけども…ぐは。

「瀬戸内!」

 スポーツバッグには律儀に教科書を仕舞いながら、帰り支度をしていた俺に背後から声を掛けてきたのは振り向かなくても判る、篠沢だ。

「なんだよ?」

「これからカラオケ行くんだけど、お前はどうする?」

「あー…俺、パス」

「またかよ!」

 知ってるくせにわざとらしく眉を寄せる悪友に、俺は鼻に皺を寄せて笑ってやった。

「悪かったな。帰ってから米を炊いて夕飯の準備だ!」

 『悪魔の樹』の世話のことはナイショで。
 こんなヤツに教えてやる必要もない。

「ちょっとぉ、瀬戸内ぃ。チョー面白くないんだけど」

 頭を掻きながらピンクのグロスにテカテカ光る、可愛い唇を尖らせた、確か晴美とか言う篠沢信者が鬱陶しそうに細い眉を寄せて睨んでくる。

「はいはい。面白くないヤツは帰るんで、お前たちは楽しんで来いよ」

 バイバイと手を振ろうとしたら、何を思ったのか篠沢が、イキナリ顎に手を当てて何か考えていたくせに俺の腕を掴みやがったんだ。

「俺も、一緒に帰ろっかな…」

「はぁ!?ちょっとぉ、冗談じゃないんですけど!」

 晴美と、その背後に控えている派手な女子と悪友の男子が残念そうな顔をするから…ほら、学年のアイドル様が意地悪なことしてるんじゃねーよ。

「お前を連れて帰ったら俺が殺される。だから、とっとと行ってくれ」

 端から行く気満々のくせに、絶対に俺に絡んでくるんだからムカツクよなー

「あ?そうかぁ??」

 ニヤニヤ笑いやがって…そうなんだよ!
 思わず軽い回し蹴りで脛を蹴ってやったら、「うお!?」とか言ってわざとらしく蹴られた足を抱えてピョンピョン飛び跳ねる篠沢を尻目に、カラオケ行く組の男子や女子が「瀬戸内、ぐはーい♪」と言うのに片手を振って、そのまま商店街を目指すことにした。

「…あ、確かこの辺に、昨日はあの怪しい占い師がいたんだっけ」

 あの壊れそうなパイプ椅子も、薄汚れたクロスを掛けただけの丸テーブルも、胡散臭い灰色のフード付きローブを着たあの占い師の姿も、もう何処にも見当たらなかったけど…それでも俺は、なぜかちょっと立ち止まってしまった。
 にゃーん。
 あの占い師が座っていた場所の脇にある路地から、不意に灰色の猫が出てきて、思わずあの占い師は本当は猫だったんじゃないかとか思ったりして、そんなワケないと誰に聞かれたワケでもないのに派手に照れてしまった。
 にゃーん。
 猫はゴロゴロと咽喉を鳴らしながら足元に擦り寄ってきて無邪気に甘えたりするから、茜の動物嫌いさえなかったら直ぐにでも拾って帰ろうと思ったんだけど、猫はその気配を察したのか、一緒には行かないよとでも言うようにフイッと気紛れに離れて行った。

「おい、猫。腹は空いてないのか?」

 ピンッと伸ばした尻尾を左右に振り振り、路地に戻ろうとする猫は、そんな俺の言葉に「んにゃ?」と振り返ったんだ。

 振り返って、金色のビー玉みたいな両目をくるんっと細めて、それからニヤッと笑った。
 笑った!?
 た、確かに今、笑ったように見えたんだけど…

『いらないよ。悪魔の樹に精液も唾液もかけちゃって。主従関係が逆転したよ。それでもいいから忘れずに、名前だけは聞くんだよ』

 まるで歌うように韻を踏んだ声が頭に響いて、ギョッとした時には灰色の猫の姿は何処にもなかった。
 幻覚でも見たのかな…
 どちらにしても馬鹿らしいことを考えていたと首を左右に振って、俺は狐に抓まれたような気分のままで頭を掻きながら商店街に向かって歩き出した。
 それにしてもアレはなんだったんだろう…あの猫が、やっぱり灰色ローブの占い師だったんだろうか。
 いや、そんなまさか。
 『悪魔の樹』を手に入れてから、俺の周りはなんだかおかしい。
 やっぱり悪魔に関わってしまったからなのか…よく判らないけど、それでも何故か俺は『悪魔の樹』を手離そうとは思わなかったんだ。

 家に帰ると怒涛のように炊事に明け暮れてから…それからハタと、そうだ、今日は父親も弟もいなかったんだと、食卓テーブルの上にホカホカの肉じゃがが盛られた皿を置いた時点で気付いた。

「しまった。今日は料理しなくて良かったんだ…はぁ、まあいいか。どーせ、父さんは帰ってくるだろうし」

 エプロンで濡れた手を軽く拭ってからそれを仕舞うと、俺は肉じゃがにラップして、それから2階の部屋に戻ったんだ。

「さて、悪魔の樹はどうなったかな?」

 ゴチャゴチャと置いていた物を1個ずつ退かしていたら、相変わらずエグクてキモイ、あられもない露骨なモノが姿を現したんだけど…あれ?

「お前、もっさり葉っぱが出てるじゃないか!」

 あのチンコの形を覆うように、目に優しい緑の葉っぱをまるでベンジャミンのように茂らせていたんだ。
 そして、思わず目がいってしまったのは…真っ白な花が、醜悪な原形の樹にはとても似つかわしくない可憐な花が、少しずつ少しずつ、花開こうとしていた。

「花だ!う、うわー、スゲースゲーッ!花が咲こうとしてるッ」

 大輪なのに、まるで白百合のように可憐に俯きがちの花は、ゆっくりゆっくり、一枚一枚を惜しむようにして開いていたんだ。
 3分なんてあまりにも短くて、ジックリ見詰めている先で、白い花はゆっくりと満開してしまった。

「う、うわー…悪魔の樹なんて恐ろしげな名前なのに、花は凄く綺麗だ。あ、この匂い…」

 頭の芯に熾き火のように燻る官能に訴えかけるように鼻腔を擽った匂いは、昨夜嗅いだ、あの桃のような甘ったるい芳香だった。
 部屋中にも充満しそうな強香に条件反射で頬を上気させてクラクラしていると、匂いの元であるはずの白いあの花が、あれほど綺麗に咲き誇っていたのにあっと言う間にシワシワと萎れて汚らしい茶色へと変色してしまった。それでも甘い桃のような匂いは部屋中に充満していたし、身体の芯が疼くように火照っていた俺は、萎んで汚い茶色になった花弁が一枚ずつ散って、その中央に大きな種が姿を現すのをぼんやりと見ていたんだ。

「あ…種だ」

 つるんっとした滑らかそうな種はぷっくりと大きくて、思わず触りたくなってしまう。
 触ればぷるるんっと震えるほど柔らかそうなイメージだったのに、本当に触ってみるとそれは思う以上に硬かった。硬い種はそれでも確りと細い枝にぶら下がっていて、この後これを、一体どうしたらいいんだろうと頭を抱えたくなった俺の鼻先で、種は一瞬だけもそ…っと動いたんだ。
 そう、動いたんだ。

「ひ、ひえぇぇぇ~ッッッ!!何かいるッ、中に何かいる!!」

 思わず座っていた椅子からずり落ちてしまった俺の声に呼応するように、最初こそ微かだった動きが、いきなり『暴れる』と表現する行動ってこんな感じなんだろうなぁと思わせるほど、激しく動き出したんだ!

「何か動いてるッ!なんだ、これ!?ど、どうしよう!ヘンなの出てきたらッッ」

 激しく動いてるってのに、『悪魔の樹』から伸びている頼りなげな細い枝は折れるどころかうまい具合に撓って、種はなかなか落ちることができないでいるようだった。
 俺はもう観念した表情で床にへたり込んで、デスクの上で妖しく蠢くように動いている種を呆気に取られたようにポカンッと見詰めていた。
 いったい、何が起こるのか。
 何が、生まれるのか。
 悪魔っていったい…
 俺がそこまで考えた時だった、やっとブツリと鈍い音を立てて千切れた枝から転がり落ちた種は、そのままコロコロとデスクの上を転がって、床にボトンッと落ちると、まるで意思でもあるかのように俺の手前まで転がってきたんだ。

「…種、よかったな。落ちられて」

 どうも落ちたかったような気配の真ん丸い種は、それから暫くは身動ぎもしなかったから、恐る恐る俺は震える指先を伸ばして、その硬い種子に触れたんだ。
 その瞬間だった。
 カッと部屋中に眩い閃光が走って、驚くことに種子からシュウシュウッと煙が噴出していたんだ!

「うっわ!やべぇッ!!火事になる!爆弾だったのか!?」

 支離滅裂なことを喋りながら片手で顔を覆った俺は、噴出す煙に気圧されたように仰け反りながらも確りと何が起こるのか目の当たりにしようと躍起になっていた。
 そして。
 漸く辺りに溢れ返っていた光が静まると、もうもうと充満した煙にゲホゲホと咳をしながら周囲を見渡したら…ギクッとした。
 ユックリと晴れてくる煙の向こうに、人影が立っていたからだ。

「だ、だだ、誰だ!?」

 思いっきりビビリまくっている俺の前に突っ立っていたのは、傲慢そうに腕を組んで、一段高いところから人を見下げるような尊大な目付きをした裏地が赤の漆黒の外套に身を包んだ、赤と黒を基調にした年代がかった衣装を着ている男が…真っ白な髪、その髪から突き出した大きな尖った耳、腹の底から突き上げるような恐怖心を煽る、それはそれは冷たい金色の双眸…どれをとっても人間なんて思えない、高い鼻梁に酷薄そうな薄い唇を真一文字に引き締めた、不機嫌そうな男が立っていたんだ。
 もちろん。
 俺はソイツの姿を認めるなり、「あははは」と陽気に笑って、それから思いっきり後ろにバッターンッと派手に倒れてしまった…ってことは、言うまでもない。