3.君の名は  -Crimson Hearts-

 結局俺は、奇妙な男が作ったオジヤを食う羽目になった。
 でもそれは、驚くことに泣きたくなるほど旨かった。
 ああ、当たり前か。
 飯らしい飯なんて、ここ数ヶ月まともに食ったことなかったんだっけ…
 無様な姿を晒してるってのもウンザリするが、この鬱陶しい雨続きの毎日だってのに、何もかもがアンバランスなこの奇妙にチグハグな男はさして気にした風もなく淡々と過ごしているようだった。
 脇腹の傷はお陰さまで随分とよくなったのか、傷口は殆ど塞がっていた。
 雨は相変わらず灰色の町に降り続けていたし、奇妙な男が俺のことを『ぽち』と呼ぶのにも慣れてきていた。
 本当は今すぐにでも逃げ出したいんだけど、いや、正確に言えば逃げ出せるんだが…なぜか、俺はこの住み心地のいい場所から離れ難くなってしまっていた。
 男は外見や口調とは裏腹なほど生真面目なのか、部屋の掃除や炊事などは殆ど嬉しそうにこなしていたから、少し気を許してしまうと唐突に顔を覗かせる殺気が心臓の奥の血管を縮み上がらせてくれた。
 曇天の空が晴れることもなく、かと言って陰鬱になりがちな室内は常に清潔だったから、スプリングが軋む安ベッドに寝かされていても然程気にはならなかった。それどころか、いつか何かが潜り込んできて咽喉を切り裂かれてしまうんじゃないかと言う恐怖に怯えることもないその、こんな異常な世界にあっても護られているように安全な場所に警戒心の固まりになっていた心が甘えているんだと思う。
 逃げ出さないと…こんな所で蹲っていられるほど、俺はまだ堕ちちゃいない。
 男が朝から出かけた部屋はやけに広くて、俺はもう起き上がるまでに回復していたから、ベッドを抜け出すとアンティークな部屋の中を横切って窓辺に立っていた。
 もう、歩くことも大丈夫だな。
 確かめるように踏み出した足の動作に、脇腹の傷は少し引き攣れるような痛みを残すだけで、重篤な症状は訴えてこない。
 逃げ出すなら…今だと思おうとしたその時、もう降り止まないんじゃないかと疑いたくなる雨の中を、黒コートの男が道路を挟んだ向かいの街路から車を避けながら渡って来るのが見えた。
 この雨の中を、男は傘も差さない。
 あれほど几帳面なくせに、ずぶ濡れになっても平気そうな顔をしている。
 ああ、そうだったな。
 初めて会ったあの時も、コイツは雨に濡れることも厭わずにずぶ濡れになって俺を見下ろしていたんだっけ。
 虫けらでも見るような、面倒臭そうな、淡々とした冷たい双眸で…

「そのくせ、俺を犬だと言って傍に置くなんてどうかしてる」

 人間を犬だと言うこと自体、コイツの脳も大概イカれているんだろうよ。
 俺が見下ろしていることにも気付かずに道路を渡りきった黒コートの男は立ち止まると、頭を激しく左右に振って脱色しすぎて色の抜けた黄褐色の髪から水飛沫を飛ばしている。片手に紙袋さえ抱えていなければ…アイツこそ犬じゃないか。
 やれやれと溜め息を吐いて、そして俺は息を飲んだ。
 そう、黒コートの男は髪を濡らす雨水を弾き飛ばしたあと、ゆっくりと顔を上げて、目線だけを動かすようにして俺を見上げてきたんだ。
 その口許は、やっぱり何かを企んででもいるかのようにニヤ~ッと笑っている。
 俺は殆ど条件反射でバッとしゃがみ込んでしまったが、あの男、あの距離から俺が見ていることに気付いていたとでも言うのか。いや、気付いていたんだろう。
 気付いていて、知らぬ素振りをしていたんだ。
 何故かとか、どうしてだとか、アイツの中にはそう言った副詞がまるでない。
 思うままに行動しているから、その理由を問われても答えられないんだそうだ。

「ただいまー、ぽち。イイ子にしてたかぁ?…歩けるようになったんだろ?そんなところに座ってないで、来い来い」

 片手に紙袋を抱えたままでシトシトと雨水を滴らせる黒コートの男は、ニヤニヤと笑いながら窓辺の下にしゃがみ込んでいる俺を退屈そうな冷めた双眸で見詰めて手招きしている。
 この場合、近付かないとコイツは癇癪を起こす。
 それはもう、経験済みだ。
 癇癪を起こしたら最後、部屋は壊滅的なダメージを受けて、男の機嫌は延々と悪い方向へ向かっていくんだ。そんな殺気垂れ流しの男と一緒に暮らすのはウンザリするし、相手が殺そうとしないことで余計な恐怖心がジワジワと身体を蝕むから堪らないんだ。

「イイ子にしてたぽちにはぁ…そら、これをやる」

 渋々近付いた俺の首を掴んだ男に一瞬身体を竦ませたものの、このまま圧し折られて死ねば、意外と楽かもしれない。そんな風に考えていると、男は何かを確かめるように俺の首を擦っていたが、ニヤ~ッと笑って紙袋から取り出した何かをサッと嵌めやがったのだ。

「!?…なんだ、これはッ」

 ズシリと下がる首に巻きついたそれは、チョーカーなんて言う生易しいものじゃなく、ハッキリそれと判る首輪だったんだ。
 慌てて引き剥がそうとする俺の無駄な抵抗をハッ…っと瞼を閉じて笑った男は、素早く手にしていた何かでカチリッと金属音を鳴らして取り付けてしまった。

「これで外せなくなったなー?まあ、外せないよなぁ。ぽちはご主人さまがいないと生きていけないし」

 惨めな首輪をぶら下げたままで、俺は胡乱な目付きをして男を見上げた。
 首輪の形状は少し変わっていて、通常犬に嵌めるあんな感じの首輪ではないんだ。
 そもそも留具の部分がベルトのアレとは違って、先端が丸くなっているポッチがついている。そのポッチには穴が開いているんだが、それを上に来るベルトの等間隔に開いている穴に差し込む、そうするとポッチが外に向かって飛び出すからその部分に鍵を取り付けたというわけだ。
 ご丁寧に…こんな時間まで、まさかこの首輪を探していた、なんて言うんじゃないだろうな?
 別に侮蔑するでも、侮辱するでもなく、淡々としたあのほの暗い兇気を醸した双眸で見下ろすだけで、男は満足そうにニヤニヤと笑っている。
 俺は喋れるようになっても、男との会話でヤツの名を呼ぶことはなかった。
 どう言った理由でか、その理由を到底説明できるはずもないんだが、この何もかも奇妙な男は信じられないことに俺のことを犬だと本気で思い込んでいるようだ。
 犬は飼い主をご主人と呼ぶことが当たり前だとでも思っているのか、自分から名乗ることはなかった。俺も然程不便は感じていなかったから聞くことをしなかったんだけど…コイツのことを、何故か知ってみたいと思うようになっている自分が、不思議で仕方なかった。
 どうせ喚いても怒鳴ってみても、このアンバランスな男にとってそれはどこ吹く風で、僅かに突き出たスパイクが禍々しいほど鈍い光を放つこの忌々しい首輪を外してはくれないだろう。
 俺は溜め息を吐いた。

「…ぽちは、アンタのことをご主人様と呼べばいいのか?」

 溜め息を吐いたらなんか無性に悲しくなって、俺は首を左右に振りながら訊ねていた。
 名前なんて、奴隷になってしまった今の俺には必要もないことなんだろうけど…どこかで、まだ人間らしさを失いたくない俺が理性にしがみ付いてでもいるんだろう。
 素っ気無い問い掛けに、男は一瞬ポカンとしたような顔をしたが、ニヤニヤッと笑って紙袋を抱えたままで俺の頬に音を立ててキスしてきやがった。

「な、なな…ッ!?」

 顔を真っ赤にして頬を押さえる俺に、男はニヤ~ッと、鋭く尖って見える犬歯を覗かせて笑いながら紙袋を整頓されているテーブルの上に投げ出した。

「那智だよ、ぽち。ん?なんだ、名前が似ちゃったなぁ~?ハッハ…」

「な、那智?…那智?」

 動揺していた俺はふと、その名に聞き覚えがあるような気がして眉を顰めた。
 そうだ、どこかで聞いたことがある。
 那智…

「それは名前なのか?」

「…おかしなことを言うワンコだねぇ。名前に決まってるだろ?オレは浅羽那智(アサバ ナチ)」

 その瞬間、俺の全身に鳥肌が立っていた。
 ああ、なんてこった!
 苗字と名前を聞くまで思い出しもしなかった。
 いや、まさかそんな馬鹿な…そんな思いが、思い出させなかったんだろう。
 実際、その名を耳にした今だって、目の前の男があの【浅羽那智】だなんて信じられないでいる。

 浅羽那智…ソイツは日本刀を愛用している殺人鬼だ。
 いや、正確に言えば用心棒。
 そう言えば、こんな言い方もある。
 何よりも殺しが好きな殺し屋とでも言うか…ああ、ピッタリな表現だな。
 その実際の姿を見たことはなかったが、街をうろついていれば嫌でも一度は耳にした名前だった。大概が、何処其処の町で実力者が殺られた、その仕業は大方アサバだろう。何処其処のエリアで大量殺人があった、大方アサバを狙った馬鹿どもが返り討ちにでもあったんじゃねーか。ナチがこの街に戻ってきた、また犠牲者が出る、ヤツは狂った殺人者だ…などなど、凡そ負けると言う言葉が出てこない、最後には兇気だけが住民を震え上がらせて、月のない夜の人影を完全に消し去らせていた。
 そんな恐怖をベッタリと俺たち一般人の背中に塗りたくっている張本人が、今目の前にいる奇妙なこの男だと言うのか?

 動悸が激しくなって、渇いた唇を何度も舐めながら、全身の毛穴と言う毛穴から嫌な汗をビッシリと掻いている俺は、首許を締め付ける違和感を思い切り訴えてくる首輪を満足そうに笑いながら触れている男、浅羽那智を凝視していた。
 実際に会ったことなんかなかったし、これからだって会うようなレベルじゃないと高を括っていた。
 浅羽那智は、この廃頽して荒んじまったあらゆる国から来たならず者が跋扈する無法地帯にあってでも、充分怖れられる存在だった。
 それが何を意味しているのか、チンケなコソ泥の脳味噌でだって理解できる。
 浅羽那智を殺れば箔がつく、この世界で顔が利くようになる…そんな噂を信じて何人の豪胆な連中が荒れ果てたアスファルトに命を吸い込まれたか。

 浅羽那智?
 コイツが?
 あの浅羽那智だと言うのか?

 俺に浅羽那智だと名乗った奇妙な男は、とてもそんな存在だとは思わせもしないアンバランスな雰囲気を漂わせながら、テーブルに投げ出していた紙袋をゴソゴソと漁りながら上機嫌で呟いた。

「飯を作ってやるよ。今日はチキンのリゾットかなぁ~?」

 嬉しいだろ?とでも言いたそうにニヤニヤする男を凝視して、どうやら那智らしいその男を見詰めたままで俺はゴクリと息を飲んだ。
 コイツと一緒にいれば、或いは俺が望む幸福が手に入るのかもしれない。
 目の前にポッカリと深淵の口が手招くように開いているのかもしれないと言うのに俺は、もう後には戻れない地獄の日々だとしても、その先にある幸福だけを夢見ながらまるで夢遊病者のようにフラフラと歩き出そうとしていた。

 欲しいものはそう、永遠の安らぎだった…