12.てのひら  -Crimson Hearts-

 那智に連れられて行った古惚けた灰色の病院は、どこか物悲しくて、俯き加減の入院患者や冷めた目をした看護婦、遽しく怯えているような医者以外に眼を惹くものなど何もなかった。
 こんな鬱陶しい場所でいったいどれだけ長いこと、蛍都はくすんだ個室に閉じ込められているんだろう。
 それを考えるだけでも、彼の置かれている状況の不安定さが浮き彫りされるようで、那智のヤツに悪態のひとつでも吐きたくなったとしても、それは仕方ないように思えてきた。
 看護婦は一瞬、壮絶にムッとしながらニヤニヤと笑っている那智のツラに怯えたようだったけど、(それは誰だって怯えるけど)それでも面倒臭そうに綺麗な細い眉を顰めて胡散臭そうに黒コートの男を見上げて言い放ったんだ。

「何度も言ってるじゃないですか。蛍都さんは月曜日以外は面会謝絶。何故ならそれは、リハビリを集中的に行っていてお疲れだからですよ」

 カルテか何か、もしかしたら医師の指示書なのか、取り敢えず何かを挟んでいるバインダーを大事そうに胸に抱えた、目許に泣き黒子のあるキツイ印象の美人な看護婦は、その表情のまま冷たくあしらった。
 それで怯んでいたら、この場所に浅羽那智なんて言う、凄腕のネゴシエーターは存在していなかったと思う。
 那智はムスーッと、歩道で見れば即死ものの仏頂面で笑ったまま下唇を突き出すと、陰険そうな美人の看護婦の顔を覗き込みながら、あの独特の口調で食って掛かった。

「別にさぁ、蛍都が疲れてようがオレには関係ないし?だから逢う、それだけなのに止めるワケ?」

「凄んでもダメですよ。先生から許可がない限りは、たとえ浅羽さん、貴方でも蛍都さんに逢わせる訳にはいかないんです」

 こんな荒んでぶっ壊れてしまったろくでもない町の看護婦だ、少々の荒くれ者どもの凄味にいちいち反応していたら身体が持たないんだろう。天晴れと言うかなんと言うか、女だってのに看護婦さんは呆れるぐらい那智を相手にしていない。
 どうやらその看護婦と那智は顔見知りのようで、蛍都が入院した当初から、もう随分と遣り合っているってのが手に取るように判ったってのはよく判る。
 ああ、だからベントレーが「そら見ろ」ってな顔してるんだな。
 見ものだとかなんだとか言いながら、本当は最初から会えないことを知っていたんだろう。
 腕を掴まれたままじゃ何とも言えない俺は、背後で何が面白いのか、ニヤニヤ笑ってるベントレーをチラッと肩越しに振り返ったら、ヤツは肩を竦めて今の状況を楽しんでいるようだった。
 …ったく、止めないとそのうち那智のことだ、いきなり殺しちまうかもしれないじゃないか。
 でも俺のそんな心配は杞憂に過ぎず、百戦錬磨の看護婦でも一瞬は怯えた那智の眼光に、それでも怯まなかったナイスバディの陰険そうなおねえちゃん看護婦は、ペンの先で頭を掻きながらシレッとした顔をして言ったんだ。

「何度来られても返事は一緒、面会謝絶ですよ。逢いたいのなら、また月曜日にお越し下さい。では、失礼します」

「って、ちょっとまだ話が…ッ」

「…もう、それぐらいにしておけよ、那智。看護婦さん、困ってるじゃないか」

「アレのどこが困ってるって?ちっくしょー、また断られちまった」

 それがいったい何度目なのか判らないけど、それでも、その台詞からあの看護婦が相当手強い存在であることは確かなようだ。
 どーせ利かん気を出してそのまま看護婦は無視でヅカヅカと病室にでも行くんだろうと、ちょっとばかし高を括っていたってのに、那智はしょんぼりしたように口許に例のニヤニヤ笑いを貼り付けて、迷子になった犬のように途方に暮れた目をして俺を見下ろしてきたんだ。

「どうしよう?」

「どうしよう…って、このまま散歩して帰るべきだと思うけど」

 いつもの那智だったら絶対に唯我独尊であるはずなのに、今日の那智は看護婦に牽制されたぐらいで凹んで沈んでるんだ。呆気に取られてポカンとしたまま、動揺しながら返事をするしかない俺が居てもおかしくないと思うんだけどな。
 そこで笑っているベントレーに押し付けちまうぞ、この野郎。

「…今度の月曜日かぁ。つまんねーの!来週末には蛍都も帰ってくるしなぁ?意味ないっての」

「来週末に帰ってくるんだし、月曜もあるんだろ?いいんじゃないのか??」

「…ぽちはさぁ、ホンットに可愛いだけで無防備だよなぁ!」

「はぁ?」

 しょんぼりした那智の怒りの矛先が俺に向いたようだったけど、なんだってそんなことぐらいで怒られなきゃならないんだよ?蛍都とは来週末に会えるんだし、それ以前に来週の月曜日に会えばいいんじゃないか。

「月曜に逢えなかったらどうするんだぁ?来週末には蛍都は帰ってくるんだぜー?」

「別に…いいんじゃないのか?」

「だから無防備って言ってるんだって!」

「??」

 握ってる手に更に力を込めて握り締められれば、確かに那智の怒りってのが良く伝わってくるけど、それだってどうしてそんなに怒っているのかよく判らないんだ。
 いったい、なんだって言うんだ?

「蛍都はさぁ、気に入らないヤツは見境なく殺っちまうしぃー、なぁ?」

「へ?…ああ、それで怒ったのか」

 なんだ、そんなことだったのか。
 じゃあ、話は早いじゃないか。

「それなら大丈夫だ」

 何がだよ?とでも言いたそうに眉間に皺を寄せて見下ろしてくる那智を見上げると、その背後でベントレーが面白そうに高見の見物と洒落込みながら、それでも俺が何を言い出すのか興味津々と言った感じで俺たちを見守っている。

「だって、那智がいるんだろ?さっき、言ってたじゃないか。俺を手離す気はないってさ。だったら、飼い主なんだから殺されないように守ってくれるんだろ?」

 そんなことぐらいで怒るなよって言って首を傾げて笑ってやったら、那智のヤツは眉間に皺を寄せたまま口許には笑みを浮かべるって言う、いつものあの妙ちくりんな表情のまま一瞬、確かに一瞬だけ凍り付いたようになったんだ。
 どうしたって言うんだ?
 訝しげに眉を寄せて首を傾げている俺の前で、那智が凍りついたのとほぼ同時にブーッと思わず息を吐き出したベントレーが、一瞬呆気に取られたような顔をしたが、それでも唐突に腹を抱えて笑い出したんだ!

「な、なんだよ、ベントレー!?」

「なんだもクソもねぇっての!こいつぁいいやッ。戻ってから鉄虎に話すネタができた♪」

「はぁ?何言ってんだよ!?…っつーか、那智も何をボゥッとしてるんだ?」

 ベントレーにあからさまにからかわれてるって言うのによ。

「え?ああ、別にベントレさまなんかどうでもいーよ」

「あんだと、ゴルァァ!!」

 あっさりと相手にされずにベントレーはなんだかムカツイたのか、ムキッと薬でやられたんだろうボロボロの歯をガチガチと鳴らして中指を立てている。すると、カルテを持って忙しなく歩いてきた年配の看護婦さんからギロッと睨まれて、「院内ではお静かに願いますよ!」と言われてちょっとたじろいだようだ。スンマセンと顎を突き出すようにして頭を下げてるから、俺の方が今度は笑ってしまったじゃないか。

「…なんだ、そっかぁ」

 ふと、ニヤニヤしていた那智がニヤァッと笑って俺を見下ろすと、ふふんっと嬉しそうに掴んだ手を上下に振って鼻歌なんか歌いやがるから、力いっぱい振り回されている俺としてはどんな対応をしていいのか判らない。

「な、なんだよ!?」

「そうだよなぁ?別に黙って蛍都に殺らせてる必要なんてないんだし?オレはぽちの飼い主なんだから、ぽちの命はオレのモノだよなぁ」

 とうとう両方とも手を掴まれてしまって、ハッキリ言ってブンブンと病院内で腕を振り回されている俺も振り回している那智の姿も充分人目を引くし、どうかしてると思われるぞ。いや、那智は確かにどうかしているけれども、俺までそんな目で見られるじゃないかー!!…って、ん?そうか、那智は俺の主人なんだから、那智がおかしく見られるのなら俺だっておかしく見られるのか?だったら、仕方ないのか。

「納得してるなよ、そこ!それに、思ってることが口から出てるぞ」

「へ?あ、そうだったか??」

「はぁ…那智が那智ならぽちもぽちか。まあ、案外お前たちっていいコンビなのかもな」

 やれやれとベントレーが「心配して損したぜ」と溜め息を吐きながら首を左右に振る傍らで、それこそ鼻歌を続行しそうな那智は邪悪な笑みに更に磨きをかけて、それでも目を白黒させている俺の掴んだ手をグイッと引っ張って引き寄せると真上から覗き込んできたんだ。

「ぽちはいいこと言うなぁ?一緒にいたいよなー??」

「へ?あ、ああ、そうだな。でも、蛍都が嫌がるんだったらやめておけよ。アンタにとってはとても大切な人なんだからさ、嫌がることはやめておかないと」

「ったく、ぽちはあったま悪いよな?蛍都はオレの嫌がることをしてるんだし?たまには蛍都だって嫌なことされないと判らないんだって」

 もう、別に凹んでもいない那智は、どうやら自分の中に渦巻いていた謎に答えが見つかったのか、ニヤニヤ笑いながらギュッと手を繋いだままで、呆れ果てて開いた口が塞がりませんとでも言いたそうなベントレーに振り返って宣言したんだ。

「よし!今日は気分がいいからぽちはこのまま散歩でも行くよなぁ?ベントレさまはどうしたいワケ?」

「俺はいーよ。今日は鉄虎が珍しく家にいるからさ。土産持って帰る」

「ベントレさまはホンットに鉄虎が好きなんだなー」

 那智が悪気がないようにニヤニヤ笑いながらそんなことを言うと、ベントレーは顔を真っ赤にしてクワッと目を見開くと、ボロボロの歯をガチガチ鳴らして食って掛かるんだ。

「う、うるせーな!仕方ねーだろ、鉄虎は俺の保護者なんだからよぉッ」

 そんな風にしてると照れてるのがバッチリ判るんだけどなぁ、当のベントレーは全く気付いていないようだし、口にした那智ですらよく判ってないみたいだ。

「はーん?まあ、別にどうでもいいし?じゃあ、鉄虎に例の証人のことで話があるって伝えといてくれ」

「…!何か判ったのか?」

「まーねー、殺した分はきっちりカタ付ければいいんだろ?」

「ハッ!それでこそ那智って言っておいてやるよ。んじゃ、ぽち。気を付けて帰れよ」

「帰るんじゃない。散歩だっつってんだろ」

「へーへー」

 いちいち言い直しをさせる那智の上機嫌っぷりに肩を竦めて呆れたベントレーは、それでもちょっと嬉しそうに片方の頬を歪めてニヤッと笑ったんだ。
 その顔は、「まあ、なんかイロイロあるけど一応一件落着でよかったな。今後はどうなっても知らんがな」と言う気持ちをふんだんに染み込ませた複雑なものではあったけれど、それでも俺は、「まあな」とそれに応えて瞼を軽く閉じて開いて見せた。
 肩を竦めたベントレーは首を傾げるような素振りを見せて、那智に手を振るとそのまま別れを告げて病院から灰色の町に出て行ってしまった。

「…ベントレー、行っちまったな。んで、これからどこに行くんだ?」

「んー、ゆっくり町でも歩いてみる?だってさぁ、ぽちはこの町をゆっくり見て回ったこととかないんだろー?」

「まあ…ね。いつも、いつ殺されるかってビクビクしてたからな。ゆっくり、空を見上げることもないよ」

 生まれてから、両親が死んで、この町に住んでいた養父母に引き取られてから、もうずっとだなぁ。
 別に、それを不幸だなんて思ったことはないけど、俺を養ってくれた父さんや母さん、それに紫苑にしてみれば俺が来たことは不幸だったかもしれないけど…

「まぁた、暗くなってるしー」

「え?」

「パッと気分を切り替えればいいワケよ。お散歩してるワケだし?犬にはそれが一番だって」

 那智はそう言うなり、黒いコートの裾を翻して俺と手を繋いだままで憂鬱な病院を後にした。
 なんだか、済し崩しで散歩に出かけることになったワケなんだけども、俺は那智に言われるまでちっとも気付かなかったんだ。
 この町のことを…そんなにゆっくり散策したことなんて正直言って全くない。
 ゆっくり散歩しようなんて、考えたこともないんだ。
 このクソッタレなろくでもない町を、歩き回ったって命を狙われるぐらいで、その恐怖にビクビクしながら散歩しようなんて気持ちはこれっぽっちも起こらない。それどころか、どうやったら盗みに入れるのか、どうやったらうまく逃げられるのか、逃げるための抜け道はどこにある?…とか、そんなことばかり考えながら生きてきたのに、こんな風に誰かと一緒に歩くことがあるなんて思いもしなかった。
 死ぬ恐怖に怯えることもなく、確りと手を掴んでくれている人が傍らにいるなんて…ああ、こんな気持ち、初めてだ。
 雨ばかり降ってて、灰色に濡れた町はいつだって物寂しくて、膝を抱えて嵐が過ぎるのを待つように
 誰かが殺されるのを耳を塞いで過ごした夜もある。
 養父母がいなくなって、妹と2人、俺に失うものなんて何もないって思っていても、ヘンなプライドだけは残っているから、男に連れ込まれそうになっても従うこともできずに、ひもじい思いの方を取って逃げ出した俺を、妹が許してくれるはずなんてないのに。
 それなのに、俺だけこうして那智に守られているのか?
 こんなのは、おかしい。
 こんなのは、おかしいんだ。

「…那智」

「んー?ここを曲がるとさぁ、公園に出るワケよ。今日は曇ってるし、雨が降らないから少しはマシじゃね?」

 ニヤニヤ笑いながら前を向いたままで話す那智を見上げたら、絶対的な力を持つ者だけが見せる自信に溢れた顔をして迷うことなく歩いている。
 その行く手を遮るものなんか、きっとないんだろうなぁ…
 ああ、力が欲しかったなぁ。
 どうせ男に抱かれるんだったのなら、どうしてあの時、そうして金を作らなかったんだろう。
 そうしたら妹が死ぬこともなかったし、頭領に会うことだってなかったかもしれないのに…

「暗いなぁ。少しは周りを見てみたら?ほら」

 そう言ってピタリと足を止めた那智は俯きがちになる俺の顎を捉えると、ハッとした時にはグイッと上げて俺の目を覗き込んできたんだ。

「7年前に会った男だっけ?出会えるかもよ。そう言う可能性だって転がってるのにさぁ、ぽちは可愛いだけで間抜けだもんなぁ?」

「…え?」

 覗き込んでくる、光の加減によっては赤にも見えるその色素の薄い、渦巻く狂気を漲らせた空恐ろしい殺気を抱え込む双眸を覗き込んでいたら、それこそ何もかも見失ってしまいそうになるんだけど、それでも、俺は那智がどうして散歩に連れ出したのか、その理由が判ったような気がしたんだ。

「もしかして、一緒に捜してくれてるのか?」

「そんなつもりは毛頭ないし?」

「は?」

 思わず眉を寄せたら、那智はニヤニヤッと笑って俺の顎から手を離したんだ。
 なんだってんだ?

「散歩なワケよ。その道中で誰かに会えば、それはそれでラッキーだ、ってなぁ?」

「…ぷ。那智はヘンなヤツだ」

「それ、よく言われるんだけど。まあ、ほっとけ!ってなぁー」

 思わず噴出したら、ツーンッと外方向いた那智は、それでも上機嫌で俺の手を引いて公園を目指して歩き出した。その後ろから引っ張られるようにして追いながら、俺は。
 そう、俺は。
 今だけ、そう、ほんの少しだけ、この幸せな気分を味わっていたいって思ったんだ。
 許されるのなら、ほんの少しだけ…

 辿れる道は、そう、棘しかないのなら。
 それすらも運命だと思いながら。
 貴方の優しい姿を追い求めましょう。
 ああ。
 どうして…
 僕はこんなにも、貴方を想い続けるんだろう…