「さ、佐鳥くん…」
失神できないほどの恐怖が渦巻いてるんだろう桜木は、大きく見開いた両目からボタボタと、これ以上はないぐらいの大量の涙を零して俺を見下ろしていた。
いつもは、考古学科にあっても女らしさは忘れないわよ、と豪語していた桜木のピンクの口紅は涙と鼻水でグチャグチャで、マスカラも落ちて涙は黒くなっている。
「桜木、生きてたのか」
後になって考えたら、そんなどうでもいいことを呟いちまったと後悔した言葉に、桜木は何か言おうと開きかけた口を、奇妙な花の化け物が茎を揺らしたことで息を飲んで閉ざしてしまった。
「さ、佐鳥くん、助けて…」
花が食虫植物になったようで、その大きさは世界最大と謳われるラフレシアなんかを遥かに凌いでると言い切れる。
けっこう広い研究室いっぱいに腕を広げた悪魔は、花弁の中心から甘い蜜を吹き零しながら、ぬらぬらと俺を誘うように桜木の身体を弄んでいた。
何階まで降りてきたのか判らなかった。
とにかく、須藤の逃げ足の速さには参ったと思っていた。
足の痛みに気付いて少し休もうと、俺は用心深く近くにあった部屋のドアを開けると、さっきみたいに突然襲ってこられないようにマシンガンで一応室内を撃ってみることにした。
良かった、ここは安全そうだ。
まあ、こんな状態で安全もクソもねぇけどな。
どんな研究員が寝泊りをしていたのか、埃臭いベッドに腰を下ろして、俺は溜め息を吐いた。
はあ、疲れた。
いやいや、疲れてる暇はねぇんだ!今まで見たものを整理しておこう…
ここに来るまでの途中で、俺は奇妙な犬を見たんだ。
正確には、犬の死体を。
どこからか迷い込んだ野犬だったんだろうか…下半身が溶けて、もう腐敗していたけど、だらりと垂れた舌の持ち主のその驚愕の表情は犬らしく、素直な恐怖の色をべったりと貼りつけていた。
ねとり…とした、下半身の周辺に撒き散らされた夥しい液体は、腐敗臭と 相俟ってすっげぇ臭いがその通路…いや、そのフロア一帯に漂っていて俺は思わず吐きそうになった。けど、飯を食っていない腹は胃液を上げるだけだったから、口中に苦い液が溢れてますます気分は悪くなるし空腹を訴えるようにキリキリと胃が痛んだ。
俺も大概、根性あるよな。
こんな腐敗臭と気味の悪ぃもんを見ても腹が減ろうとしてるんだから。やれやれだ。
舌打ちして、犬の周辺を見渡した。
「しっかし…今まで見た死体とちょっと違うな。溶けてるし…あの大毒蛇が吐いた毒、ってワケでもなさそうだ。あれは硫酸系だった。これはまるで、何かでゆっくりと溶かしていたみたいな…実験体か何かが逃げ出したのかな」
いやまさか、この施設はどう見ても放置されてから長い年月が経っているように思える。だからまさか、死体の状態から、ここ最近まで普通の姿で生き残っている動物がいたなんて思えなかったんだ。ただ、それなのに電力が生きていることが不思議だった。まあ、その点で考えるのならあの変態研究員が生活しているんだから何かしらのことをしていても不思議ではなくて、そう言った意味では研究用の犬がいてもおかしくはないのかとか、そんなことを考えながら鼻と口を簡易で作ったバンダナで覆った俺は立ち上がると、マシンガンを構えなおして周辺にそれ相応の研究室がないだろうかと探してみた。
実はシーツと布は山ほどあったから、それを裂いてバンダナっぽく作ってみただけなんだ。
菌に感染されてなきゃいいけど…まあ、大丈夫だろう。埃臭いだけで、これといったヘンな臭いはしないし。
無味無臭の菌があることぐらい俺だって知ってるさ。でも、この辺りに漂ってる臭いは半端じゃねぇんだ。1分だっていたくないと思っちまう。けど、こんな死体を見たら俺だって興味が湧く。
このフロアは部屋数が少なく、1つずつ慎重にドアを開けていったが、室内はどれも普通の部屋のようだった。書類が散乱するディスクと、整理の行き届いていない棚、埃が長いこと使われていないことを物語っている。
「なんだ、何もねーじゃん。あの大型犬、きっとただの野犬だったんだろう。ここに住んでたんだろう所員だってあの様なんだ、迷い込んだ犬だって怪死ぐらいするか」
俺は部屋を出るとたぶん同じような部屋だろうと、簡素な通路に整然と並んでいる似たり寄ったりのドアを容易く開いた。
と。
「うわぁああ!?」
急に目の前に現れたゾンビに条件反射でマシンガンをぶっ放していた。
しかし、どんなに運動神経が良くても、マシンガンの突発的な反動に俺の身体はまだまだ役不足だった。漸く慣れてきてたんだ、それだって完璧じゃない。
至近距離で発砲したにも関わらず、銃弾はゾンビの頬の腐った肉を引き千切ったぐらいで、決定的な致命傷までは与えなかったようだ。
それでも、その反動でゾンビ研究員の身体はグラリッと傾いで、重心の 逸れた勢いのまま派手にすっ転んでくれた。
やったぜ!チャンスだ!
ソイツに銃口を定めて引き金を引いた、その瞬間だった。
「ぐぁッ!」
俺は右足の脹脛に感じた鋭い激痛に、恐る恐る足許を見下ろしていた。
腐った口から突き出たギザギザの牙のような歯で、旨そうに俺の肉を齧り取った下半身のないゾンビは、腕だけで這ってきたのか縋り付くように俺の足に両腕を 絡めてもぞもぞと口を動かしている。
思ったよりも硬い指先には殆ど肉がなく、腕の力は尋常じゃない。
悪夢のような光景と脹脛の痛みに遠退きそうになる意識を必死で繋ぎとめながら、俺は夢中で銃口をゾンビの頭部に押し当てて狙いを定めた。痛みに霞む目じゃ、狙いが定まるかどうか…
下手すれば自分の足を打ち抜くかも知れない…冗談じゃねぇ!
俺の気配などまるで無視して、一心不乱に齧り付こうとするゾンビの空洞を晒す脳天に銃口が火を吹いた。
「ギャッ!」
ゾンビは呆気なく頭部を吹っ飛ばされて、もう腐っている脳漿やどす黒い血液、腐った皮膚を飛び散らせてズルズルと床に倒れ込んでしまう。
「はあ、はあ…うッ!クソッ!」
その場にへたり込んだ俺は急いでギザギザに裂けたジーパンを膝までたくし上げ、弾けた筋肉が真っ赤な血に濡れて柘榴のような傷口を晒す脹脛に思わず目をむいちまった。こいつは…酷ぇ…
ハッとした。
痛みで忘れていたが敵は一人じゃない!
ずずず…ッと鈍い音を立てて床を這うようにして近付いてきたのは、たった今マシンガンで留めをさすはずだったゾンビ研究員だった。
「畜生ッ!」
俺は痛まない方の足でゾンビ研究員の腐って殆ど頭髪も抜けている、頭蓋骨の露出した頭部を蹴りつけて、両手で支えたマシンガンで打ち抜いた。
「ギゥッ…」
耳障りな声を上げてゴブ…ッとヘドロのような腐敗臭のする淀んだ体液を吐き出したゾンビ研究員は、ベシャッと奇妙な音を立てて倒れると、そのまま動かなくなった。
頭部を床に叩きつけた拍子に、ドロッとした目玉が床に飛び散った。
「う、うわぁあああ!!」
その凄惨な光景に、俺は思わず胃の辺りからせり上がってくるようなおぞましさを感じて、弾かれたようにもう完全に息絶えているはずのゾンビ研究員に乱射してしまった。
ドッドッと鈍い音を立てて死んでしまっている研究員の薄汚れた白衣に穴が開いて、そこから血液だったものが腐敗臭を撒き散らしながらドロッと溢れ出してくる。
い、いやだ。こんなのはもう嫌だッ。
逃げ出したい衝動に駆られてへたり込んだままでいざろうとしたその瞬間、まるで俺の意識を正気に引き戻そうとでもするかのように、唐突に右足にズキリと痛みが走った。
「…ッ!」
眉を寄せて見下ろしたら、弾けたピンク色の筋肉と鮮やかな血液がドクンッと溢れ出していた。
ああ、そうだ。こんなところで怯えてるヒマはねぇ…
俺は、痛む足を動かして引き攣れるような、今まで感じたことのない激痛に顔を思い切り顰めながらも、どうやら足首はちゃんと動いていることを確認した。
良かった、腱とか筋をやっちまったってワケじゃなさそうだ。
「あうっ!」
激痛に脂汗が滲む額にくっきりと皺を寄せて、俺はやや大きめのウェストポーチに手を突っ込んであの救急セットを手当たり次第に漁った。
そうこうしてる間にも傷口から鮮血が溢れ出して、血の臭いが腐った臭いと交じり合って強烈な眩暈がする。
「ああ、クソッ!」
バンダナ代わりに鼻と口を覆っていた布を剥ぎ取ると、それで脹脛を押さえ付けた。
埃でくすんでいるものの、白かった布が見る間にジクジクと真っ赤に染まっていく。
本当はそんなに深い傷じゃないのかもしれない。
こんな傷、現場で働いている時には何かに引っ掛けたりしてしょっちゅうだったはずだ。
でも、環境が俺に酷い恐怖心を与えていたんだと思う。
何かに食い千切られる恐怖。脳裏にはフラッシュバックのように死んでいった連中の惨状がありありと浮かび上がってくる。
「死ぬもんか!死んだりなんかするもんか!」
やけに感傷的じゃねーか!こんな傷で死ぬかっての。
食い千切られた痛みは半端じゃねぇけど、止血さえできたらなんとかなるだろう。
傷痕は残るだろうな…組織も皮膚もぐっちゃぐちゃだから。
こんなところで蹲っていても仕方がない。いつゾンビ研究員が襲ってくるとも判らないんだ。
俺は立ち上がると、足を引き摺るようにしてその場から離れながら、あの誰もいなかった部屋まで壁伝いに歩いていく。
治療をしないと…
奇妙な犬の死体。
下半身がなかったゾンビ。
不可解な粘液。
頭の中には警鐘がガンガンと鳴り響いてるって言うのに、俺の本能は自分の傷のことばかり考えていた。
助けると言いながら、最後はやっぱり我が身が一番可愛いんだ。
でも、その時の俺には、そんなことすらもどうでもいいと思いながら、懸命に部屋を目指していた。
自分を唯一守ってくれる、あの密室。
俺の頭の中は自分のことでいっぱいだったんだ。