Act.15  -Vandal Affection-

 桜木はガタガタと震えていた。
 化け物に襲われたショックがまだ抜けていないんだろう。それに、よくよく見ると、あれほどキッチリと化粧をしていた顔も涙と鼻水でグチャグチャだ。

「さ、さ…とり、くん。あた、し…ごめんなさい。疲れたの…どこか、やす…めないかな?」

 歯の根が噛み合わないほどガチガチと震えていて、両手で薄手のシャツを着た自分の身体を抱き締めるようにして、桜木は縋るような目付きで俺を見ながら申し訳なさそうにそう言ったんだ。
 馬鹿だな…そんな目をしなくてもいいのに。

「ああ、判ってる。もう少し待ってろよ。この階を降りたら、部屋があるかもしれないから…」

 ここら辺はさっき須藤と覗いたが、奇妙な実験台が整然と並ぶ研究室だけだったから、桜木を休ませてやれるような部屋を探さないと…まさか階上に戻るってのは冗談じゃねーから、桜木には悪いけど前進するしかないんだ。

「う…うん。わかった」

 うう、可哀相に。
 俺たち男の体力で考えたら駄目なんだよな。桜木は小さくて細っこくて、強く握れば壊れちまいそうな女の子なんだ。真っ先に守ってやらないといけないのに…ごめんな。
 俺のTシャツは血とゾンビ研究員たちの脳漿とかそんなもんが飛び散って汚れてるし破れてるしで駄目だったけど、Tシャツの上から薄手の木綿シャツを羽織っていた須藤がその上着を桜木にかけてやった。
 別に寒いわけじゃないだろうけど、それで少しは落着けるといいなと、須藤も同じようなことを考えたんだろう。
 震える桜木を連れて階下に降りた俺たちは、油断なく周囲を見渡して前進した。

「気を付けろよ、佐鳥。この異様な静けさは、きっと何か待ちうけてるだろうからな…」

 言われなくても判ってる。
 ゾンビ研究員も姿を潜めてるってことは、何かいるんだろうなぁ。俺の野生の勘のようなものもそれを警戒してるみたいだ。

「何か…って、何かしら?あんな花の化け物なんて、あた、あたしはもう嫌よ」

「俺だってもう嫌さ。取り敢えず慎重に行こう」

 怯えたように身体を竦める桜木に苦笑して肩を竦めて見せたが、俺は敢えて物資の乏しさは口にしなかった。無駄に怖がらせて体力を使わせるワケにもいかないしな。須藤もそれを判っているように、口許に苦笑を貼りつかせて肩を竦めただけだった。

「離れてろよ」

 俺はそう言うと、手近なドアのノブに手をかけて、思いきり引き開けたと同時にマシンガンを構えた。でも、発砲はしない。無駄に弾を使うわけにはいかないんだ。

「…おい、ここは」

 俺は内部から襲ってくる者の気配がないことを確認すると、構えていたマシンガンの銃口を下ろして室内に入って周囲を見渡した。

「やったぞ、佐鳥!ここはきっと、この施設の医務室みたいなところだ」

 背後から続いて入って来た須藤が嬉しそうに俺の肩を叩くと、桜木がホッとしたような溜め息を吐いた。恐る恐ると言った感じで、須藤と一緒に入って来たんだろう。

「ああ、良かった。さあ、須藤。悪いが桜木に怪我がないか診てやってくれ。ありがたいことに、ここは医薬品にだけは事欠かないみたいだからな」

 室内を見渡しながら笑ってそう言うと、身体を屈めて何かをゴソゴソと探っていた須藤が尻上がりの口笛を吹いて俺を振り仰いだ。

「見てみろよ、佐鳥。食料にだって事欠かないみたいだぜ」

 ニッと口角を釣り上げた須藤の両手には、この医務室に常備していたものなんだろう、非常食の詰まった銀色の袋が握られていた。乾パンだとか、そんな缶詰物だろうか。
 途端に俺の素直な胃袋は食い物を求めてグゥッと虚しく不平を零す。
 キョトンッとした桜木は、唐突にプッと噴き出した。
 この緊迫した時に、俺の胃袋が洩らした不平は拍子抜けするほど間抜けな音だったんだ。

「き、昨日から何も食ってないんだ。笑うなよ」

 シドロモドロに弁解しても、いったん笑い出した桜木は釣られた須藤とケタケタ笑い続ける。
 安堵感から、緊張が解けたんだろう。束の間でもいい、少し息抜きをしないとな。
 俺も苦笑して肩を竦めると、広い室内に並んでいるベッドの1つにマシンガンを投げ出して腰掛けた。やっと、少し落ち着ける。

「よし、桜木。ちょっと椅子に腰掛けろよ」

 漸く笑い終えてくださった須藤は桜木を手近にあった椅子に腰掛けさせると、彼女の身体を思いきり触りまくった!な、何やってるんだよ!?
 俺はギョッとしたように目を見開いたが、腕を持ち上げられた桜木が僅かに顔を顰めると、須藤は彼女から離れて医薬品の並んでいる棚に近付いた。

「肩を少し痛めてるみたいだ。変な形で釣り上げられた時に痛めたんだろう。少し冷やせばすぐに直るよ」

 だから安心しろよ、と言って湿布の入った袋を取り出した須藤が振り返ると、桜木はホッとしたように笑った…なんだ、触診してたのか。そっか、俺が頼んだんだよな。
 うー、腹が減りすぎてヘンなこと妄想しちまった。
 すまん、須藤!
 俺が思いきりベッドに倒れ込むと、桜木と須藤がちょっと噴き出した。
 きっと顔を見合わせて、俺の奇行を笑ったんだろう。
 ああ、疲れた…ちょっと眠いかな。
 グゥ!
 いや、それどころじゃねぇ!食いモンだ食いモン!
 俺はやおら起き上がると、銀の袋までダッシュした!
 須藤と桜木が笑い転げたことは言うまでもない。

 俺の腹鳴り事件で桜木のショックは少し癒えたのか、震えはおさまったようで、俺たちは輪を描くようにして銀の袋を中心に床に直に座って久し振りの飯を食った。
 バイト以上に身体を動かした後で丸一日以上飯を食ってなかったんだ、その乾ききった乾パンの旨かったこと!俺は生きてて良かったと思った。
 そして何よりも、空腹よりも耐えられなかった凄まじい欲求を、俺はようやく満足させることができた。
 それは、水。
 銀の袋の中には飲み水も入っていて、ペットボトルが三本あるにも関わらず、俺たちは貪るようにして一本を回し飲みしたんだ。残りは持って行こうと決めたから。今度はどこで食料が調達できるか判らないからな。

「桜木はどうやってここまで来たんだ?」

 一息ついた俺が水で濡れた口許を拭いながら訊くと、彼女は途端に顔を曇らせて涙ぐんだ。

「うぉ!?お、俺、なんか悪ぃこと言っちまったか!?」

 焦って須藤を見たが、ヤツは訝しそうに下唇を突き出しただけで何も言わず、肩を竦めて首を左右に振った。

「ううん、何でもないの。ごめんね、佐鳥くん。あたし、自分の身勝手な行動にうんざりしていたの」

「身勝手な行動って…ここに来たことか?そりゃあ、良かったんだぞ。あそこにあのままいたら、須藤の話じゃ全滅だったらしいからな」

 俺が慰めるつもりでそう言うと、桜木は弾かれたように顔を上げて須藤を振り返りヤツが眉を寄せて軽く頷くのを見て、信じられないと言うように首を左右に振ってそれから徐に両手で顔を覆って俯いてしまった。

「あ、あたしが悪いの!レンジャーの人を連れ出してしまったから!きっと、その後で…」

「どう言うことなんだよ?泣いてたら判らないだろ」

 須藤が声をかけると、桜木はもう化粧もすっかり落ちてしまった素顔でしゃくりあげながら、俺と須藤を交互に見ながらポツリポツリと語った。

「あたし…目が覚めたらみんな怖い顔してて、話を聞いたら佐鳥くんがたった一人で遺跡に行ったって言うじゃない。あんな怖いことがあったのに、たった一人なんて…それで、あたしは佐鳥くんを追うって言ったの!みんな止めたけど、あたし、本当はあそこにジッとしてるのが怖かったの。何かしていたかった…そしたら、レンジャーの人が一人ついて来てくれて、それでそれで…」

 桜木はそこまで言うと、また泣き出してしまった。
 俺と同じ気持ちだったんだな。あの重苦しい雰囲気に、女の子だと押し潰されちまいそうだったんだろう。俺、気持ちわかるよ。
 震える肩を恐る恐る抱きながら、俺はその細っこい肩を軽く叩いてやった。
 細くて華奢で、凄く頼りない。
 こんな女の子が俺なんかを追って、あの真っ暗な密林を抜けて遺跡の、この施設までどんな思いで来たんだろう。
 そう思ったら、自然と腕が動いていたんだ。
 桜木は堰を切ったように泣きじゃくりながら俺の胸元に頭を擦り付けてきた。初めての経験で、どうしたらいいのか判らなくて須藤を見ると、ヤツは慰めてやれよとでも言うように顎をしゃくる。
 俺はそうして、震える桜木の肩を片腕で抱きしめてやりながら、ジッとアイボリーの床を見つめていた。
 いったいどれぐらい進んだら、俺たちの出口は見えるんだろう。