Act.19  -Vandal Affection-

「やっほーーーーーーッ!」
 唐突に響き渡った、山の上なんかで聞けば頂上だー!と一緒になって叫んでるだろうほのぼのとした絶叫に、俺たちはギョッとして桜木を振り返った。

「な!?」

「ど、どうしたんだよ、桜木!」

 彼女はやけにスッキリしたような顔をして、 度肝 を抜かれてる俺たちにニコッと笑ったんだ。

「ああ、スッキリした」

「化け物に気付かれたらどうするんだ!」

 俺は桜木が狂ったんじゃないかと思った。
 慌てたように須藤は素早く様子を窺おうとキョロキョロと周囲を見渡している。

「だ、大丈夫かよ、桜木ぃ…」

 ちょっと情けなくその名前を呼ぶと、桜木はムッとしたように眉を寄せるんだ。

「あら、あたしは平気よ。別に狂ったりなんかしてないから安心して。だって、こんなに広いし、声だって反響してるのよ?叫びたくなるのが人間の悲しい性だと思わない?」

「…って、お前。ここにはゾンビだっているんだぞ!何を考えてるんだ!?」

「あら!こんなに広いのよ?いざとなったらそのレールの方に逃げたっていいじゃない!」

「…お前、強くなったなぁ」

 俺が奇妙に感心して桜木に呟いたその時だった、周囲を見渡していた須藤のヤツが何かに気づいたように顔を上げて歩き出したんだ。

「って、おい。どこに行くんだよ、須藤!」

「あ、やっぱりだ。見ろよ、佐鳥!これ、絶版になってるグレッグスの雑誌だぜ!」

 ここに勤務してたヤツの置き土産なんだろうその古ぼけた雑誌を、何かのコントロールパネルらしい台座から持ち上げた須藤のヤツは、嬉々とした表情をして表紙に積もっている埃を片手で払っている。
 ああ、もう…!

「雑誌も絶叫もここから脱出してからにしろ!もっと状況をお願いだから 把握 してくれよ!」

「グレッグスの雑誌は時価で売買されてるんだぜ~?1980年代ものなんて言ったらお前…」

「ヤッホーって叫んだらスッキリするのよ、佐鳥くん。佐鳥くんも試したらいいのに」

 ああ!コイツらどうしたって言うんだ!?
 俺は何か悪い夢でも見てるんだろうか!?

「ちぇッ。まあ、いいや。この本は俺のものだからな」

 そう言って、背負っていた銀の袋に雑誌を 捻 じ込んだ須藤は何事もなかったかのように行こうぜと俺たちを促してきた。
 はぁ、なんか疲れた…
 サッサと歩き出す須藤に追いつこうと歩き出した俺は、深々と溜め息をついて首を左右に振る。
 まあ、多少ぐらいはこんな風に気を抜くのもいいのかもしれない。
 俺がそんなことを考えていると、桜木のヤツが後ろ手に組んで仏頂面になりまくってんだろう俺の顔を覗き込んできた。クスクスと悪戯っぽく笑っている。

「佐鳥くん。そんなに緊張ばっかりしてたら、身体がもたないよ?少しぐらいは羽目を外してもいいんじゃないかって思うのね。だってこんな状況だもの、あたしたちが確りしないとどこかで待ってくれてるみんなが不安になると思うの」

 …桜木が何が言いたくてあんなことを急にしたのか、この時になって漸く俺は理解したんだ。ああ、そうか。張り詰めすぎる緊張の糸ってのはすぐにプッツリ切れてしまうからな。
 そうだな、ああ、その通りだと思うよ、桜木。
 それにしたって唐突すぎるんだよ、お前らは!
 やれやれと溜め息をもう一度ついて、肩を竦めながら須藤に追いつくそんな俺の後を、桜木はクスクスと笑いながら追ってきた。
 さっきと同じように俺を先頭に桜木と須藤という形で先をめざすことにした。

 唐突だけど、俺の右手はやけに震えていた。
 こんな状態だと、銃もうまく握れねぇんだけど、どうしたって言うんだ?
 俺が震える自分の腕を見下ろしていると、須藤が背後から肩越しにその腕を覗き込んできた。俺の後ろを歩いていたのは桜木だったはずなのに…どうしたんだ?

「お前の腕、ちょっとおかしいな。見せてみろ」

「だ、大丈夫だって!ちょっと、怯えてんだよ」

 俺は須藤の腕を振り払おうとして、ヤツがギョッとした顔をしたのに気付いた。

「なんだ、これ!お前、熱くなってるじゃないか!それに、ヤバイな。膿んできてる」

 須藤は俺のボロボロになっているシャツの袖を引き上げると、ゾンビに 齧られた腕を見て舌打ちした。そこは微かに傷口が盛り上がっていて、奇妙な色に変色していたんだ。

「熱で震えていたんだ。お前、よく我慢できたな。これだと、かなり痛んだはずだぞ!?」

「え?…あ、いや。別にそんなに痛まないけど…」

「そんなはずはないって!チッ、参ったな。手当てしないと…」

 俺は慌てたんだ。
 こんなところで治療なんかできるはずもないし、それを須藤も感じてるんだろう。掴んだ腕を離そうとしないくせに、難色を示した表情は背後の桜木を振り返っている。

「桜木、ナイフを持ってるだろ。貸してくれ」

「あ、うん。はい。…ねえ、佐鳥くんは大丈夫なの?」

 桜木の不安そうな声が背後から聞こえるが、須藤は肩を竦めるだけで、その表情は少しも変わらない。う…そんなに酷かったのか?
 なんで気付かなかったんだろう、俺。

「薬だろうな。お前が渡されたあの薬は、一種の麻薬のような効果もあったんだろう。だが、お前の使用方法が拙かったせいで化膿したんだ。使い様によれば、コイツは凄い薬だぞ」

 暗いなぁ…と呟いて、須藤はジーンズのポケットからライターを取り出した。それで、桜木から受け取ったサヴァイバルナイフを焼いている。
 何をしてるんだ…?

「でもま、その薬に感謝しないとな。これから起こる激痛にも耐えられるだろう」

「激痛!?な、何をすんだよ!」

「何って…その傷口を切り取るんだよ。幸いなことに薬は手に入れてるからな。ま、俺を信じて大船に乗ったつもりでいろよ」

 ニコッと笑う須藤の表情に狂気は感じられなかったが、それでも俺の顔は 青褪 めたし、須藤の背後では桜木が小さな悲鳴を上げてる。俺だって嫌だ!なんで傷口を削がなきゃならんのだ!?

「す、須藤!薬があるのならそれでなんとかならないのか!?」

「ムリだ。これだけ化膿してたらヤバイことになる。放っておけない」

「うー…クソッ!」

 俺は、生き残らなきゃいけないんだ。博士たちを助けて、須藤と桜木と一緒に日本に帰る。絶対にだ!うう、こんなところで腕を 化膿 させてるわけにはいかねーんだよな。クソッ!

「わ、判ったよ。畜生ッ!すっぱりとやっちゃってくれッ!」

 須藤は何も言わずに無言で頷いて、俺をその場に座るように促した。その指示に従って腰を下ろすと、須藤も片膝をついて唇を噛み締めている俺の前に座った。

「桜木、タオルとかあるかな?」

 不安そうに眉を寄せて、心配そうに覗き込んでいた桜木は須藤にそう言われると、ハッとしたように背負っていた銀色の袋から医務室にあった清潔…かどうかは判らないけど、白いタオルを取り出して手渡した。須藤は受け取ったそれを無造作に俺の口の中に突っ込んだんだ!

「ふぁにふぃやぐぁるっ!」

 言葉にならない抗議の声を上げても、須藤のヤツはまるで無視して桜木にもう1枚要求した。素直に手渡すそれを受け取って、今度は立てている自分の膝の上に置いて俺の腕を片手で固定した。

「桜木、確かリュックの中に小型のオイルランプとカップが入ってると思うんだ。それで湯を沸かしておいてくれ」

「う、うん…」

 桜木は心配そうな、不安そうな顔で俺を見ていたが、すぐに言われた通りにリュックからランプとカップを取り出して飲み水を注ぐと沸かし始めた。
 小さなオイルランプの揺らめきに浮かび上がる真っ赤に焼けついていたナイフは、少し黒ずんだようだったけど、元に近い色には戻っていた。消毒を施した鈍い光を放つナイフがゆっくりと皮膚に食い込んでくる。
 俺はギュッと両目を閉じて、口に入っているタオルを思いきり噛み締めた。

「ぐうううううぅぅぅッッ!!!」

 身体がぶるぶる震える。麻薬のような薬の効果は確かにすごいけど、だからって痛くないわけじゃないんだ。すごい、マジで死ぬかと思う激痛が腕から、心臓や脳天を直撃してくる。息が絶え絶えになって、全身の毛穴が開き切って嫌な汗が噴き出してきた。

「さ、佐鳥くん…」

 見ていられないのか、鮮血と奇妙な色の液体を噴き出して削ぎ取られていく肉片が、びしゃりっと音を立てて床に落ちると、桜木は小さな悲鳴を上げて口許を覆った。激痛と汗で目を薄っすらとしか開けていられないけど俺はぼんやりと、真剣な表情で歯を食い縛りながら俺の肉を削ぎ落とす須藤の顔と、青褪めて、それでも現実を受け入れようと必死で目を逸らさない桜木の二人を見ていた。
 切った腕を沸かした湯をかけて消毒したタオルで素早く止血した須藤は傍らに下ろしていた銀の袋から必要なものを取り出した。チューブに入った薬と、包帯と、そしてガーゼ。

「こ、こんなことならさ、あン時に一緒に手当てしてもらっときゃ良かったかな」

 口に入っていたタオルを引き抜いて、ははは…と笑いにもならない乾いた声で冗談めかして言うと、須藤はヤツらしい口角を釣り上げた笑いを浮かべただけで何も言わずに包帯を巻いてくれた。
 痛みはまだだいぶんあるが、ここにある薬にはどれも麻薬的な成分が含まれているんだろう。そのうち痛みも薄れていった。
 ああ、それで足もすぐに動かせるほど回復したんだ。
 すげぇな、ここの薬。

「…根本的なところじゃただの錯覚にしか過ぎないんだよな。過剰に使うとさっきみたいなことにならんとも限らん」

 須藤はまるで俺の心を見透かしたように呟いて、よっこらっしょと、まるでおっさんのように起ち上がった。酷く 憔悴 している顔は、なぜか俺よりも疲れているみたいだ。

「すまんな、須藤。それでなくても神経使ってんのに…」

「あぁ?お前がそんな 殊勝 なことを言うとはな。こう言った危機に直面した状況ってのは人を丸くするんだなぁ」

 須藤のヤツは意地悪く笑って薬なんかを銀のリュックに仕舞い込みながら肩を竦めるから、俺は思わず眉を寄せて中指を立ててやった。

「言って損したぜ!」

「よし!元気があるようで何よりだ。先に進もう」

 軽く笑いながら立ち上がった須藤に頷いて俺が立ち上がると、ヤツはちょっと真剣な表情をして俺を見ていた。言おうかどうしようか逡巡しているようだったけど、結局須藤は肩を竦めて俺を睨みながら言ったんだ。

「だけどな、佐鳥。どんな状況であれ、我が身のことなんだからこう言うことは悪化する前にちゃんと言ってくれよ?それでなくても命の危機に晒されてんだ。迂闊な行動は即命取りだと思って、気をつけて行動しようぜ」

「わ、判ってるって。今回は俺にも免疫がなかったんだから大目に見てくれよ~」

 慌てて言い訳する俺にやれやれと溜め息をついた須藤が仕方なさそうに笑いかけたその時、桜木が怯えたような小さな悲鳴を上げたんだ。

「なんだよ、今度はゴキブリの死体でも踏んだのか?」

 俺と須藤が呆れたように桜木を振り返った。
 振り返って、凍り付いた…んだろうな。
 息と言葉を飲んで、自分の背後を凝視したままで 後退 ざる桜木の肩に触れながら、目の前の物体を見上げていた。
 背後で、やっぱり同じように須藤が息を飲んでいる。
 なんだ、これは。生き物なのか…?
 ああ、生き物だ。
 俺はこの原型を知っている。
 草の影で人の姿に怯えていた、あの小さな生き物。
 螳螂だ。