Act.20  -Vandal Affection-

 その生き物は大きな 鎌 を持っていて俺たちの方を凝視していた。
 どうも、 既 に奴の 射程圏内 にいるらしい…
 マズイ…なんてもんじゃないだろう。

「ど、ど、どうする?」

「どう、って…、どう、するって…」

  固唾 を飲む俺たちの前で、桜木は震えて動けないでいた。
 奴は、目の前の三つの獲物を品定めでもしているように、首を傾げるような仕草をしながらジッと俺たちを見ている。
 だが、その時間がやたらに長くて、俺は生きた心地がしなかった。
 どうしようもない絶望感の中で、必死に生き延びる方法を考えていたんだ。
 何か良い方法…良い方法は…
 ガターンッ!!
 不意に大きな音がして、俺たちはビクッとしたが、それが大きなチャンスを生んでくれたんだ!!
 ダスダスダスッ!!
 その音の方向には俺たちが未だに見た事もない巨大な、その名前からでは目の前の大きさを容易く想像できないごく身近にいる昆虫…黒光りの羽根を油っぽいヌルつく光に反射させているアレ…つまり、ゴキブリがいた。そう、ヤツこそがその音を立てた張本人だったんだ。ただし、フットボールを三回りは大くしたようなゴキブリだが。
 化け物はキーキーと泣き声を上げてそいつに飛び掛ると、その鎌を無造作に振り下ろした。
 ドシュッ!!ドシュッ!!
 薄暗いドーム型のトンネル通路に響き渡る不気味な破壊音。
 そして黒い影が動くたびに、グシャッ、グシャッと奇妙な音が上がる。
 その音はまるで俺たちが次にそうなるのだと見せつけるように、ゆっくりゆっくりとかみ締めている口許から漏れ聞こえていた。

「今がチャンスだろう、奴はきっとこちらに気付いていなかったんだ」

「そんな…馬鹿なことってあるの?」

 桜木は震えながらコソッと須藤に言った。そんな桜木と考えを巡らせている俺の肩を促すように軽く掴んだ須藤は、近くのコンテナに身を隠そうと顎で指し示したから、俺たちはそれに頷いてコンテナの陰にこそこそと姿を隠すことにした。

「とにかく、桜木に今回は頑張ってもらわないとな。佐鳥はあの腕だ、動かすのは無理だろう。それをしくじっちまうと俺たちだってただじゃすまないからな」

「すまん、みんな。腕が…って言い訳なんかしたくねーんだけど…うッ、痛ぅ!!」

 そう言って俺は立ちあがろうとしたが、腕の激痛は 既 に限界に達していたらしい。
 ああ、クソッ!あの麻薬もどきの薬が切れかけてるんだ。

「あっ!無理しないほうがいいよ、佐鳥くん。大丈夫!こう見えてもあたし、やる時はやるッス!!だから…ね、佐鳥くん。本当に無理なんかしちゃダメだからねッ」

 青褪めた表情をしてるくせに、両手でガッツポーズを作って無理に笑いかける彼女に、俺は判ってると頷いた。少し笑って見せると、彼女はホッとしたように震える手で俺の腕を労わるように触れてきたんだ。
 ああ、こん畜生ッ!こんな時に化膿なんかしやがってッ…この腕さえ何ともなければ、あんなに怯えてる桜木を頼るなんてことしなくてもすんだのにな。俺ってヤツは…
 そう考えて舌打ちしていると、桜木がそんな俺の考えを察したのか、ちょっとムッとしたように唇を尖らせて小声で言ってきたんだ。

「ねえ、佐鳥くん。あたしたちって仲間なんでしょ?やっぱりあたしなんか、須藤くんよりもずっと頼りないとは思うよ。でもね、もっとあたしを信じてッ」

 それまで、やっぱ俺は男だし、女の子に頼ることなんてできないと、こんな時なのにヘンなプライドとか持って意地を張っちまってる心を見透かされたんだろう、桜木は泣き出しそうな顔をしながらそんなことを言ったんだ。
 そうか…今は桜木よりも俺の方が頼りないぐらいなんだ。こんな時まで男だって言うプライドを持って、意固地になって足を引っ張るワケにはいかないってのが正直な話だ。
 俺は今更ながら目から 鱗 が落ちる思いで、怖いんだろうに、必死に強がっている桜木に礼を言った。

「そうだな、桜木。ごめんな。それから、ありがとう」

「佐鳥くん!」

 桜木が嬉しそうに笑っていると、どこに行っていたのか、銃を構えた須藤が身を隠しながら戻ってきた。
 どうやらヤツのことを観察していたようだ。

「奴は…ここに生息しているゴキブリのバケモノが主食なんだろう。ソイツを追い回していたんだが、奴の行動には少し変なところがあるようだぞ」

 須藤はそう言って、人差し指と中指の先を自分の瞳に向けて話を続けた。

「奴は目が見えていないらしい。幸い、動いたとしても、音がしている時にだけしか反応しないようだ…だけどな」

 須藤はそこで口を噤んだ。

「“だけど…”って、何?」

 桜木はそれまで俺の腕の様子を診ていたが、不安そうに須藤の方を見て首を傾げた。

「だがな、奴はスゲーんだぜ。音を聞けばかなりの確立でターゲットをヒットしている。と言うことは、囮になれる時間が極端に短くなってしまうってことだ」

 須藤の話を聞いていた俺は、その言葉の何かに引っかかった。

「す、須藤…お前、まさか…」

 須藤は 僅 かに目を伏せると、片方の口角を小さく釣り上げた。奴らしい、いつもの笑い方だ。

「まぁ、お前が考えているようなことはきっと起こらないだろうと信じてはいるけどな。最悪の場合も考えておかないといかんだろう?」

 目線を上げてこっちを見ている須藤には自信があるようだったが、先ほどの奴のハンティングを目の当たりにすれば、全力で走ったところで奴の刃が須藤を捕らえるのにさほど時間はかからないだろう。だとすれば、須藤がどんな方法を考えているのかいまいちよく判らないんだが、今回は桜木とのタイミングとコンビネーションが重要視されてくるんだろう。
 須藤が桜木の方を向くと手招きして呼んだ。

「なぁ…桜木」

 その言葉に小刻みに身体を震わせた桜木が、須藤を見て頷くと、まるで意を決したように立ちあがった。音を立てないように須藤の傍に近付いて行くんだ。その眼差しは決意に満ちていたけど、薄暗い闇の中ではその輝きもくすんでいるように見えた。

「さて、ここからの脱出方法を考えようか?」

「うん…須藤くん」

 須藤と桜木がこそこそと話し合いを始めたんで、せめて俺は須藤たちが気を散らせないように辺りの様子を見張っていようとしたんだ。
 ふいに態勢を変え様として、傷を負っている方の腕をコンテナに当てちまった!
 俺は腕から脳天に走り抜ける痛みに歯を食いしばると、顔を上げて声を漏らすのを耐えた。ついでに滲んでくる涙もな!クソッ!
 その時、上を向いていた俺の視界に『ある物』が飛び込んできた。

「問題は…どうやってアイツを仕留めるかってことなんだよな」

「う~ん、銃でバンバンッて殺せないかしら?」

 そんな話を聞きながら、俺は銃を撃つ真似をする桜木と渋い顔の須藤の傍に這うようにして近寄って行った。

「銃でなんてきっと無理さ。あの速さといい、音に対する洞察力にしても尋常じゃない。それに、あいつには面白い習性があるようだな…そこを使うんだよ」

 俺はニッと笑うと、掻い摘んでだが、しかし要点を絞った一通りの説明を二人にした。

「なるほど…その担当は桜木でもいいな。で、俺が引き付けられるだけ引き付けておけば、後はうまくいくように祈るだけってことか?」

「そう言うことだ。さっすが秀才さまは完璧でいらっしゃる」

 それなりの流れを須藤は理解したらしく、ニッと笑う。俺のお決まりの嫌味にも、やっぱり奴らしい片方の口角を釣り上げるお決まりの笑いで応えてくれた。
 さあ、いよいよ一発勝負の準備に入るぜ。
 俺は予め須藤が持っていた、口径の少し大きめなハンドガンの予備であるマガジンを手渡した。

「極力使わないようにしないとな」

 須藤はニヤッと笑う。

「もしもの時は馬鹿なことは考えずに使うんだぞ」

 その肩口を拳で軽く小突きながら、俺はそう言って笑って見せた。
 今の俺には冗談さえも、冗談にならないように思えたんだ。
 それでも精一杯強がってみせる。それが、今の俺にできる激励だから…
 クソの役にも立たねぇ、 微々 たるもんだけどさ。

「…ったく、怪我人の癖に」

 肩を竦めた須藤は銃をジーンズの尻に差し込むと、黙って目的のポイントに向かって歩き始めた。
 桜木の方は近くの壁に張り付いた鉄の 梯子 をよじ登り始めていた。幸いスニーカーだったので、音を出す心配はなかったが、少し怯えているらしい桜木の姿の方が心配だった。
 そして、俺は今あるだけの弾薬と武器をコンテナの上に並べると、あのバケモノに気付かれない様に静かに息を潜めたんだ。
 できることなら俺の出番はないほうがいい。
 俺の出番は即、最悪の状態を意味してしまうんだから……頼んだぜ、桜木。
 俺はそう念じるように祈って、コンテナの上で寝そべるとマシンガンを構えた。
 多分、俺のこの腕じゃ須藤を逃がす為の時間稼ぎすらも出来ないだろうけど…

『それじゃ、準備はいいか?』

 須藤は右手を振ると、上の階に上がっている桜木に合図を送った。
 桜木が頷くと、俺には目配せをする。
 緊張した空気が俺たちの間に漂っている。
 心臓の音がバカみたいにデカくて、これじゃあ外に聞こえて、あの化け物に悟られるんじゃないかと冷や冷やした。
 バケモノは巨大ゴキブリの動きをじっと待っているようだった。須藤は一段下がっているレールの引かれたその線路内に進入すると、目を閉じて深呼吸と伸びをしながら、リラックスするように何度か音を出さないように“トントン”と垂直に飛んでいた。
 そんな須藤を、俺はゴクリと 固唾 を飲んで見守る。きっと、桜木も同じだったに違いない。
 桜木も自分が大事なポジションを任されていると言う責任感を理解しているのか、俺同様に須藤の動きから目を 逸 らしてはいない。

「じゃ、行きますか…」

 そう言って須藤が尻に差していた銃に手を掛けた時だった。
 ガタンッ!ゴトト、ガサガサッ……
 須藤の斜め後方から大きな音が上がったんだ!

「しまった!ゴキブリの奴か!?」

 そう舌打ちする須藤の脇を蟷螂の化け物は猛スピードで走り抜ける。
 そのスピードで起きた風が須藤の前髪を揺らした。
 そして、奴の広げた羽根の先が須藤の頬をかすると、その頬に一筋の血が伝っていた。
 須藤は驚愕に目を丸くして、俺のほうに手を振ったんだ。
 その合図は失敗を意味していた…
 だが、ゴキブリを逃がした奴は、須藤の音を覚えていたらしく、すぐさま須藤の方に向き直ってしまった。
 ゴクリッ……
 須藤は 固唾 を飲んだ。緊張したその雰囲気は離れた所にいる俺たちの場所まで届いてくる。

「チッ、しくじっちまったか…」

 須藤はそう言うと手にしていた銃を尻に差そうとして、あのバカ、床に落としやがったんだ!
 その瞬間が桜木にとっても俺にとっても、そして当の本人である須藤にとっても恐ろしく長く感じられたに違いない。だが、現実ってのは無情にも最悪な状態へ導いて行くもんなんだ。
 そう、今、この時みたいにな!
 落ちた銃はレールの鉄の部分に当たると、いっそ気持ち良いぐらいの金属音を立てて奴を挑発した。

「須藤っー!!」

 そう叫んで俺が立ちあがる。

「キャーッ!須藤くーんッ!!」

 桜木も同時に悲鳴を上げていた。
 すると、須藤の奴はいきなり思いがけない行動に出た。何と奴の懐に突っ込むと股下に潜り込もうとしたんだ!
 そうして奴をやり過ごそうとする須藤を、だが化け物は簡単には見逃してはくれなかった。
 接近しすぎていたせいか、奴の脚に僅かだが須藤の肩が触れてしまったんだ。
 すぐさま、態勢を取り戻した奴は、獲物である須藤の横っ腹に鎌の背をたたき込んできた!!

「グハッ!!」

 須藤はその勢いのまま壁に叩きつけられると、苦しそうな顔で奴を睨んだ。
 奴が須藤の腹にその鎌を叩き込もうと突進した、次の瞬間…
 ドシャッ!!
 突然、天井から落ちてきたコンテナに突っ込んだ蟷螂野郎は、強かに頭を打ち付けるとフラフラとその場に倒れてしまった。
 一瞬の出来事に思わず目を見開いていた俺は、上のコントロール室で震えている桜木を見上げた。彼女が思わず触れたスイッチが運良く須藤を救ったんだ!
 ナイス!桜木!!
 だが、そのコンテナに奴は頭を打ち付けただけで、絶命したわけではなかったようだ。すぐさま起きあがると、落下したコンテナの上によじ登り、その鎌を振り上げて奮起の咆哮を上げると仁王立ちになる。

「ジ・エンドにしちゃ、はやくないか…?」

 須藤はそう呟いて、覚悟を決めたように目を閉じた。
 奴が今にも須藤に飛びかかろうとした瞬間…
 ピィコーン、ピコーン!
 警告ランプと警報が鳴り出すと、辺りは黄色い回転ランプに照らされた。
 そうしていきなり奴の横、数メートル先に止まっていた台車が奴に向かって動き始めたんだ。

「キィー!!」

 奴は大きな音を立てるその獲物に期待を膨らませているのか、大ぶりに 鎌 を振り上げると、須藤を無視して突っ込んでくる台車の天板に二本の 鎌 を突き刺したんだ。
 それは深々と刺さり、不意に奴は、それが今までに無い“ヤバイ”獲物だと気がついたようだった。
 だけどな、それに気付くのが遅すぎなんだよ…

「ナイスだ、そのまま逝っちまいな!」

 須藤は喘ぐように脇腹を掴んでよろけながら立ち上がると、自分の方を見て必死に鎌を抜こうとジタバタしている化け物の姿を悠々と眺め、片方の口角を釣り上げてニヤッと笑うと付け加えたんだ。

「ほらほら、もう後がないぜ。カマキリちゃんよ!!」

 そう言って指差した先には、ついさっき桜木が落下させていたコンテナが台車の来るのを待っていた。
 本来なら台車の上に乗る荷物だが、レールの上に直接落下したせいで、そのコンテナが台車の進行方向を遮る形になって存在を強調している。

「ギィー!ギギィー!!」

 バケモノは全ての力を脚に込めて必死に鎌を抜こうとしていたが、たとえ抜けたとしても、きっと逃げる時間はなかったに違いない。
 ギィギャーギィーッ!!!!
 何かを引き裂くような鋭い叫び声を上げて奴の身体が押しつぶされると、辺りに緑色をした体液が飛び散った。

「キャッ!!」

 桜木は頭上からその光景を目の当たりにしてしまい、目を痃り耳を押さえてその場にしゃがみこんでしまったようだ。
 悲痛な断末魔は長く低く尾を引き、それでなくても反響しやすいトンネル状の通路に暫くは篭っていた。
 俺は奴の返り血というか、体液を真横で浴びたまま、コンテナと残骸が奥の貨物用エレベーターへ押し出されていくのを、ただ茫然と見送っていた。