Act.22  -Vandal Affection-

 ブルーゾーン。
 どうやらここは幾つかの研究室が集合しているフロアのようだ。
 これがあと1、2階は続いてるんだろうな。
 そんなことを考えながら、俺たちは 階上 で見たのと、あまり変わらない白い壁が左右に続く通路を慎重に進んでいた。壁のほぼ中央に青いラインが走っている。これでフロアを見分けてるんだろう。

「ここはなんだろうな?」

 少しだけドアが開いている研究室を銃口で指し示した須藤が俺に振り返ったが、その誘うように開いたドアに入ろうって言うのか?須藤もちょっと警戒心がねぇんじゃねーか?
 俺が呆れたように肩を竦めて見せると、須藤は片方の口角の端を吊り上げて嫌味ったらしく笑うと顎をしゃくって内部に入ることを勧めてきやがるから、お前が入れと歯をむいてやる。

「なんにせよ、好奇心は満たしておこうぜ。こう言う研究施設ってのは案外、危険物を取り扱っていたりするから銃器を揃えていたりするんだ」

「あら!だったら入りましょうよ。あたしたちって、殆ど武器がないじゃない」

 俺たちの会話を聞いていた桜木が 躊躇 わずにドアを開いて、俺は思い切り焦った。
 そうだ。確かに桜木の言うように武器が少ない。
 それでこんなあからさまに怪しい研究室に踏み込んで、ワケの判らん化け物が襲ってきたらどうするんだ!?と、言うよりもお前、いつから武器の少なさに気付いたんだ?黙っていたはずなんだけど…
 俺がマシンガンの銃口を向けながら桜木の身体を後方に押しやって前面に出ると、傍らに並んできた須藤を胡乱な目付きで睨んでやった。
 俺じゃねーよ、と眉を上げて目配せしてくる須藤に、おおかた、桜木の奴は純粋に武器の少なさを口にしたに過ぎないんだろうと思うことにした。
 確かに、俺がマシンガン、須藤があの変態野郎が寄越した短銃、そして桜木が持っている須藤に俺が渡していた短銃…数えたって3つしかないんだぜ?…本当のことを言えば、弾がないって話なんだけどな。

「きゃぁッ!」

 俺と須藤に続いて入ってきた桜木が口許を両手で覆って小さな悲鳴をあげた。
 そりゃそうだ、俺だって思わず絶句して立ち止まっちまったぐらいだからな。

「なんてこった…こりゃあ、実験体か?」

 銃口を下ろして室内を見渡した須藤に釣られるように俺はその、壁に設置された陳列棚のようなものにビッチリと並ばれた試験管を見渡していた。
 大小合わせて500匹以上はいるんじゃないかって思うほどの蜘蛛に、桜木は気味が悪そうに眉を寄せてはいたが、案外平気そうな足取りで俺たちよりも早くそれに近付いていったんだ。
 おいおい…って、そうか。あんな化け物ばかり見てきたんだ、今さら蜘蛛ぐらいなんだって言うんだ。襲い掛かってこられたらコトだけどさ、結局はこんな試験管に押し込まれてて身動きもできねぇ連中に怯えてたら身体がもたねーっての。桜木も、多少の嫌悪感を感じながらそう思ったんだろう。

「ほとんど…死んじゃってるみたいね」

 桜木の言うように、ほとんど、いや、全部が8本の足を上向きにして萎んだまま 引っ繰り返ってる。世話をする奴もいなくなって何年たつのか判らないが、こんな試験管の中に閉じ込められて生きていたらソイツは化け物───…

「あ!この子、まだ生きてる!」

 桜木が膨大な試験管の中から見つけた、たった一つの小さなビーカーのような試験管に入った少し大き目の梅干大の 蜘蛛 が一匹、身体を引きずるようにして試験管の中を這い回っている。
 試験管の表面には派手な黄色と黒に着色されたラベルが貼られていて、もうあまりよくは読めなくなっているが、何か書いているようだ。

「廃棄処分?可哀相に。人間って、どうしてこんなに罪もない生き物に悪さして殺せちゃうのかな…」

 悲しそうに眉を寄せた桜木は、躊躇わずにゴム製の蓋を押し開けようとして、慌てた須藤にそれを遮られてしまった。

「ば、バカ!お前、この蜘蛛が何か知ってるのか!?」

 驚くほどすごい剣幕で怒鳴る須藤に俺と桜木は目を白黒させながら顔を見合わせて、それから 青褪 めている須藤の顔を見返した。

「大きさこそ実験で小さくなってるが、これは正真正銘のタランチュラって言う猛毒の蜘蛛だぞ!お前らも知ってるだろ!」

 それを聞いて俺はゾッとした。
 実物こそ見たことはなかったが、そうか、これがかの有名な毒蜘蛛の王者なのか。
 桜木は暫くビーカーの形をした試験管の中に蹲っている蜘蛛を目の高さまで持ち上げて見ていたが、口許に小さな笑みを浮かべて俺たちが止めるよりも早くゴムの蓋を開けると掌にソイツを出しちまったんだ。

「桜木!」

 俺と須藤はほぼ同時に叫んでいた。
 けど、桜木の奴は意に介した風もなく、その掌に乗った蜘蛛を目の高さまで持ち上げてニッコリと笑うんだ。

「大丈夫よ。もうこの子、襲おうなんて気力もないわ」

 小さな、それでも少し大きめの梅干ぐらいには大きな特徴的な赤い剛毛に覆われた蜘蛛
は、桜木の言うように襲いかかろうという気は失せているようだった。

「あら?右目の2つを怪我してるじゃない」

「どうせ死ぬんだ。放っておけよ」

 須藤は面倒臭そうに言ったが、桜木は聞く耳を持たない。こう言うとき、この桜木って奴は本当に気が強くなるんだ。観念したように掌に蹲る蜘蛛に、桜木は囁くように呟いた。

「大丈夫?こんなにたくさんの仲間を失わせてしまって、ごめんね。でもせめて、あなたは生き残ってね」

 そう言って身体を屈めるようにして腰を落とした桜木は、掌を床の上に置いて蜘蛛を放そうとした。
 蜘蛛は暫くそんな桜木をジッと見つめていたが、何かを理解したのか、赤毛に覆われた背中を向けると体を引きずるようにして冷たいリノリウムの床に降りた。
 床の上にジッと立ち止まっている蜘蛛は、6個になってしまった目で桜木を見ているようだ。

「きっと生き延びるのよ、クモちゃん」

 気が抜けてしまうような呼び名に俺と須藤は思わずその場で転びそうになったが、蜘蛛は理解したのか、もう立ち止まることもなくズルズルと身体を引きずって薄暗い部屋から出て行ってしまった。

「ったく、これが死にかけていたから良かったんだぞ!アレは猛毒なんだ。しかもあの大きさだったら象ぐらいは易々と殺しちまうだろう。もう二度と勝手な真似はしないでくれ!」

 須藤が酷い剣幕で叱責すると、バツが悪そうに眉を寄せた桜木は立ち上がりながら首を竦めるんだ。

「ごめん…」

 珍しく、しおらしい態度で頭を下げる桜木は、それでも少しだけ悲しそうな顔をしていた。

「桜木?」

 俺が首を傾げると、彼女は、肩を竦めて部屋の探索に入った須藤から視線を外して振り返った。

「あたし…きっといいことなんてしていないのよ。あのクモちゃん、きっとすぐに死んでしまう。このビーカーの中に入っていても、外に出ても同じことなの。でも、外に出ることはもっと残酷だったような気がするんだ。須藤くんの言いたいことも判るのよ…あたしは偽善者だね」

 桜木は少しだけ泣いているようだった。
 何かに捕食されて死ぬ道と、ビーカーの中で無意味に死んでいく道…ああ、でもな桜木。
 お前があの 蜘蛛 に与えた試練の道は確かに辛くてヤバイかもしれない、それでも充分な可能性を秘めているんだぜ。
 悲しむ必要なんてないんだ。

「こんな薄暗い部屋のビーカーの中で意味もなく死ぬよりも、可能性にかけて突き進む…今の俺たちと同じじゃねーか。あの 蜘蛛 も、運が良けりゃ生き残ることができるんだ。桜木は可能性を与えてやったんだろ?落ち込んでたら、あのクモちゃんだってやる気をなくしちまうぜ?」

 ニッと笑って肩を叩いてやると、桜木は 漸 く少し表情を明るくした。須藤は馬鹿にしたように呆れた顔をしていたが、肩を竦めるだけでそれ以上は彼女を責めるようなことは何も言おうとしなかった。

「桜木はいい女だよ」

「え?」

 俺の台詞に彼女は少し 怪訝 そうに眉を 顰 めたが、俺はニッコリ笑うと頷いて見せたんだ。

「こんな状況下でも必死に生き残ってる奴を助けてやろうって思えるんだからな。俺や須藤だったら無視して行っちまってる。 蜘蛛 はここでなす術もなく死んでただろう。桜木はいい女だよ」

「…そうかな?」

 クスッと笑って、それから小さな声で『ありがとう』と呟いた。

「あの蜘蛛がオスだったら惚れてるんじゃないか?」

 冗談めかして言った須藤に、俺が笑いながら肩を竦めて見せると、桜木も落ち込むことをやめて、いつも通り可愛く笑った。
 他愛のないことだったけど、それでも俺たちは少しだけ救われた気がしたんだ。
 あの蜘蛛のように、俺たちもしぶとく生き残ろう。
 そして。
 さあ、次は人間を、仲間を助け出すんだ。