Act.29  -Vandal Affection-

「あっ!」

 突然、張り詰めた空気を無視して、俺たちの背後で桜木が大声を上げた。
 その声にビクッとした俺と須藤は慌てて声のした方に振り向いた。
 突然、俺たち三人の目の前に大きな一匹の赤味がかった黒い蜘蛛の顔が現れやがったんだ。

「おッわ!!」

 とっさに俺と須藤は跳ねるようにその場から 退 くと、水の溜まる床に背中から倒れこんだ。すぐに手にしていた銃を大蜘蛛に向けて構える。
 前門の虎後門の狼って状況に、それでなくても張り詰めていた神経の糸が音を立ててプッツリと切れちまうんじゃないかと言いたくなる。目の前に迫った謎の化け物の前に今度は大蜘蛛かよ!?
 全くツイてないぜ、俺たち!
 ヤツを相手にする前にコイツで弾がなくなる…ってこた、ここでエンドってことか?
 うう…冗談じゃねぇ!
 相手の攻撃が来ることに備えていた俺たちにとってその数秒の出来事は、異常なくらいに長く思えていた。
 たが、その時間は〝感じた〟のではなく、実際に流れている時間そのものだったんだ。
 気が付けば桜木がその前に立ってこちらを見ていた。
 焦った顔で、何かを口にしたらしい。
 張り詰めた精神の糸がそれでなくても細くなっていた俺の思考に、漸く桜木の声が耳に届いた。

「やめてっ!!」

 彼女の思いがけない行動に俺と須藤が戸惑っていると、真横のシャッターが二度目の衝撃で口を開けた。
 その亀裂から今までに見た中でも一番凶暴そうな化け物の頭が現われると、この狭い空間に進入しようと必死になっている様子で激しく体当たりを繰り返してゲートを壊そうとしていた。

「ど、どうするよ?マジで。最悪じゃねぇかよ…って、な、何だ!?」

 突発的な出来事に立ち竦む俺たちの足元を、どうしたことか、その大蜘蛛がすくい上げたんだ。

「おわッ!?」

「わッ!」

「きゃあッ!?」

 思い思いに声を上げながら放り投げられて宙を舞う俺たちの身体を、まるで器用に自分の背中の上に落とした大蜘蛛は、八本の足をめいいっぱいにふんばっていた。
 まるで何か、精一杯に力を溜めているような仕種で…

「この傷…もしかしてあなた、やっぱりあの時のクモちゃんなの?」

 大蜘蛛の複眼から背中に続く深い傷を見つめながら、不意に桜木が呟くようにそう言った。
 その言葉を聞くか聞かないかの一瞬後、大蜘蛛は八本の足にため込んでいた力を一気に爆発させたかのような瞬発力で、その巨体を宙に舞い上げていた。
 跳ね上がった蜘蛛は上階にあった手摺りに器用に足を引っ掻けると、俺たちをその内側通路へと放り投げたんだ。

「待って!待ってクモちゃん、あなた、どうして…」

 一瞬、桜木の言葉に 躊躇 したような蜘蛛は動きを止めて、彼女の顔をその複眼で確認するように見ているようだった。
 あの蜘蛛は桜木の顔を忘れていなかったんだろう。
 どう言った理由でかは知らないが、身体は以前見た何十倍も大きくなっていたが、あの赤味がかった黒い体毛に覆われていても、複眼から背中にかけて伸びた傷痕が桜木にあのときの蜘蛛を思い出させたんだろう。だが、そんなモノよりも桜木には自分に向けられた、あの悪意の欠片すら見付けることのできない静かな光を称える瞳に気付いたのかもしれない。いずれにせよ、あの緊張の中でもコイツがあの時の蜘蛛であって、自分たちの為に何がしかの好意を寄せているってことを桜木は理解したんだ。

『ギギ、キシャア!!』

 唐突に扉を体当たりでぶち破ったソイツが水の 奔流 と共に、たった今まで俺たちのいた空間に踊り込んでくると鎌首を持ち上げてきたんだ。
 なんて大きさだ!
 大蜘蛛の背後、まるで新たに現れた獲物を前に嬉しそうに鎌首を振るソイツの、その大きく裂けた口は醜悪そのもので、細く切れ長の目は魚介類には似つかわしくないものだった。
 身体は黒くぬめり気を帯び、その顔には醜悪な表情が、魚介類のクセに!凶悪な表情を浮かべて俺たちと蜘蛛を 値踏 みするかのように交互に見てやがる。

「これがプラント11なのか!?」

 須藤が叫んだ瞬間、そいつは俺たちのいる場所目掛けて思いっきり牙をむいて来たんだ!

「おわッ!!」

 俺たちは桜木を庇いながら横に 避 けた。
 鉄でできた床は音を立てて俺たちを受けとめるが、その衝撃は通常のコンクリートに叩きつけられるのと変わりがないくらいの衝撃があった。
 倒れた瞬間にプラント11が自分の尻尾で床を叩き上げたからだった。
 蜘蛛がプラント11の行動を見て手すりを素早く器用に這うと、ヤツの気を反対に引いたんだ。

「クモちゃん!!いけないッ、あなたじゃ勝てっこないわ!」

 桜木が悲痛そうに叫んだ。
 だが大蜘蛛は 威嚇 するように二本の足を大きく振り上げて、プラント11に挑みかかったんだ。
 桜木には大蜘蛛が何をしようとしているのか伝わっていたんだろうか。
 プラント11はニヤリッとその知能の高さを示すような表情を見せると、一気に手摺りに張り付いた蜘蛛へ向かって牙をむいて襲いかかる。
 だが、次の瞬間。
 大蜘蛛はプラント11の牙を避けると、首筋を這いながら階下へ降りて行った。

「ダメよ!クモちゃん!!あなた水に弱いじゃないッ」

 どうする事もできない俺のシャツを桜木は掴むと、まるで子供のように泣きじゃくりながら何度も繰り返し叫んだ。
 今まで俺たちのいたアクアリウム・エリアの最終地点で大蜘蛛とプラント11が対峙していた。それはパッと見るとタランチュラの化け物とアナゴの化け物同士がいがみ合っている感じだったが、その大きさのせいか殺気がビリビリと肌を刺してくる。
 一瞬の隙を突いてプラント11が蜘蛛の全身を身体で絡みとって縛り上げはじめた。
 ミチミチ…ッと嫌な音をさせて八本の足が力なく 痙攣 を繰り返す。

「いやぁッ!!クモちゃんが!!クモちゃんが…!」

 限界まで身体を乗り出している桜木は、今にも蜘蛛の元へ飛んでいきそうなくらい激しく暴れだした。そんな桜木に大蜘蛛はまるで「来るな」とでも言うように、痙攣とは明らかに違う確かな動きで何度もこちらに向かって足を上下に動かしていた。
 アイツの複眼が泣きじゃくる桜木の顔を幾つも映し出している。
 お前はいったい、何を感じているんだ?
 青白いプラズマが走って大蜘蛛の身体には数万ボルトの電気が流れていた。
 その度に激しく身動きのできない身体を痙攣させる。
 プラント11の発電能力は、並みの電気を起こす生物の比ではなかったんだ。本来は身を守るものや獲物を仕留める為の能力だが、実験室で見た装置用のバッテリー役として改良されたプラント11の発電能力は遥かに通常の能力を 凌駕 している。
 その事はさっき読んだ書類に補足書きされていたからもう知っているさ。
 そう思っているうちに蜘蛛が絶命した。
 その事をゆっくりと確認したプラント11がこちらに視線を向ける。
 この状況は…正直、ヤバイ!!
 プラント11はゆっくりと蜘蛛から離れながら悠々と身体をほどき、次の獲物の捕獲の為にこちらへ鎌首を持ち上げて様子を窺っている。
 次の獲物は…もちろん俺たちに決まってるじゃねぇか!
 絶望感の中で微かだが何かがプラント11の足元で動いた気がした。
 大蜘蛛の身体に何かしらの変化が起きているんだろうか。
 幸いなことに、それに気付いたのはどうやら俺だけのようだ。
 そう言えば…あの時。
 俺は〝【プラント】と【コード】で呼ばれる種では全く違う能力を持って生まれてくる〟と、【実験用動物に関する取り扱い注意書】を、桜木が蜘蛛にかまっている時にチラッと読んだ気がする。
 そう思い出しているうちに蜘蛛の大きさがひとまわり小ぶりになると、先ほどのダメージが嘘のようにすくっと八本の足で立ち上がっていた。
 俺は大蜘蛛がプラント11と異なる一面を見せてくれることを内心で期待していたのか?
 いやそれは…願いだったはずだ。

「キャアァァァ!!」

 桜木の悲鳴が上がると、その複眼を冷たく光らせた大蜘蛛は水面を 蹴 ってプラント11の背中に張り付いた。
 それに気づいたプラント11は身体をよじって先ほど仕留めた蜘蛛が駆け上がってきている事に気付くと、牙をむいて大蜘蛛に襲いかかって行った。
 【プラント】と【コード】の違いが激しく衝突する場面だ。

『蜘蛛が【コード】で呼ばれ、他の実験動物が【プラント】と呼ばれている違い。それは過酷な環境下でも完全な戦闘能力を保持し続けて勝利条件を得る能力であり、相手に真の恐怖を与える 完璧 な完全体の事をいうのだ。つまり、【コード】が持つ特殊能力から生まれ出る〝絶対〟という名の【闘争本能】である』

 今なら俺でもその意味が判る気がする。
 研究員たちが何を言いたかったのか…
 プラント11はすぐさま同じように大蜘蛛をからめ取った。
 そして同じように電気攻撃を仕掛ける…だが、大蜘蛛は先ほどのような痙攣を見せずに身体をモゴモゴと動かしているだけだった。締め付けがさらに進んでも、身体がへしゃげだそうとも、固唾を飲む俺たちの目の前でヤツは死を恐れることもなくその視線には殺気を浮かべていた。
 だが一瞬、桜木の方をジッと見つめた大蜘蛛は、今までに見せた事の無い凶悪な牙を剥き出して一気にプラント11の背中にカジリついたんだ!
 俺は知っていた。きっと須藤も同じだっただろう。
 大蜘蛛は【コード】…つまり生物兵器で、その能力は世界を震撼させる程の毒に関するスペシャリストだと言うことを。
 そして…ああ、お前。桜木にその牙を見られたくはなかったんだろうな。

「…あの蜘蛛をどうして逃がすことに賛成しなかったのかと言う本当の理由。それはこれから判るはずだ」

 須藤は身体の大きさに変化を起こした大蜘蛛を見ながら呟くように言った。

「〝毒の種類を自分の身体の変化で変えることができる〟って資料に書いてあった。だが、その能力にはある条件が伴っているんだ…」

 俺たちの視界には大蜘蛛に背中を噛まれながらも、必死に蜘蛛を絞り上げながら暴れるプラント11の姿があった。
 そんな姿を見ながら俺たちは固唾を飲んでその状況を見つめていたんだ。

「その条件は…」

 須藤の言葉がそこまで出た時に、『ギャッ!!』と叫び声を上げて慌てて大蜘蛛を放り出すプラント11の姿があった。
 だが、身体が見る見る浅黒く変色しながら、硬直を始める筋肉に逆らえず徐々にまっすぐになって水の中に沈んでしまった。

「クモちゃん…」

 桜木の視線の先には大蜘蛛がプカリと水面に仰向きで浮んでいる姿があった。
 呆然とした視線のままの桜木だったが、 徐 にハッと我に返ると慌てたように須藤の腕を引っ張って言ったんだ。

「ねぇ、須藤くん!クモちゃんはまだ生きてるよね?」

 動かない蜘蛛を見つめながら、瞳に涙を一杯に溜めて須藤に尋ねる桜木の姿は、真実を拒むような仕草でヤツを困らせていた。

「…」

 須藤は言葉なく 外方向 く。
 須藤は教えてくれないんだと思ったのか、桜木は俺の胸の中に飛び込んでくると、俺たちを助けた大蜘蛛の名前を何度も呼んでいた。

「桜木…」

 俺はどうしたら良いのか判らないまま、ただ無言で桜木が泣き止むまでそうしているしかなかった。
 暫くして、桜木はまるで真実を受けとめることを拒否したかのように、唐突に自分の両耳を塞ぐと絶叫するような大声で泣きながら蹲ってしまった。

「クモちゃんーーーッ!お願い…ああ、お願いだから嘘だって言って!」

「桜木!」

 俺は堪え切れなくなって彼女の両腕を掴むと引っ張り上げたんだ。

「いや!離して、佐鳥くん!!強く生きてねって、頑張るんだよって約束したじゃない!辛いかもしれないけど、きっと生き抜こうねって…なのに、なのに死んじゃうなんて!そんなの許さないんだからッ!!」

「桜木!」

 パンッ!…と、乾いた音が周囲の白い壁に反響して、それまで泣き 喚 いていた桜木がプッツリと糸が切れたように無言になった。大きな双眸をもっと大きく見開いて俺を見上げてくる。
 だらんっと垂れていた、もう今は汚れてしまった腕が操り人形みたいに持ち上がって叩かれた頬に触れている。

「しっかりしろよ、桜木!!なんの為にあの蜘蛛が身体を張ったんだ!?お前を狂わせるためか?違うだろ!アイツは桜木が〝頑張るんだ〟って教えたことを忠実に守っていたじゃねぇか!アイツは、アイツは…一番大事なものを守るために頑張ったんだろうがよ…ッ」

 なんとも言いようのない、遣る瀬無い気分で目線を伏せた俺を、桜木がどんな思いで見ていたかなんて判らない。ただ、大きく見開かれた目からプカリと浮かんだ大粒の涙は、汚れてしまった頬をゆっくりと滑り落ちて、音もなく床に零れてしまった。

「…クモちゃん…」

 本来なら桜色で綺麗な桜木の、それでもやっぱり綺麗な唇から零れ落ちた 儚 い呟きに、まるで応えるかのように水面に浮かぶ蜘蛛の身体が…
 パシャ…ン。
 静かな音を立てて、まるで桜の 花弁 のような 塵 になって、水面いっぱいに広がって浮かんだんだ。
 その光景は気味が悪い…なんてとても思える状況じゃなくて、なんて言うか。
 凄く、ああそうだな。
 凄く綺麗だった。

「桜木…あの蜘蛛は今までにない、最高の体験をしたんだよ。生物兵器としてこの世に生を受け、だがその役目さえ果たせないまま無意味に死のうとしていた自分を助けてくれた、その人間を自分の恐ろしくて 忌 わしい能力で救うことができたんだ。これ以上の経験なんてきっと、俺たちにだってできやしないさ。だからあの蜘蛛は、幸せだったんだ」

 ガクッとくず折れるようにへたり込んだ桜木の肩に触れながら、須藤にしては珍しく穏やかな口調でそう言った。
 須藤も感じたんだな。
 あの蜘蛛が 垣間見 せた一瞬の想い。
 蜘蛛にしてはやけにカッコイイ、あの静かで情熱的な眼差しを…

「良かったな、桜木。ハンサムな奴に惚れられてさ」

 同じ男として、賞賛できるよ。
 蜘蛛、お前…人間よりも人間らしかったな。

「だからほら、笑ってやれよ。アイツが惚れたイイ女の最高の笑顔で見送ってやれ」

「…佐鳥くん、須藤くん」

 桜木の呆然としていた双眸に理性の光が戻って、小さく瞬きをすると、ほんの微かに彼女は微笑んだ。

「クモちゃんは…きっと綺麗なところに逝けるよね?もうこんな場所じゃなくて、きっと、今度生まれてくる時はちゃんと幸せになれるよね?」

「当たり前だろ?惚れた女がいるんだ、今度生まれてくる時は飛びきりイイ男になって戻ってくるに決まってんじゃん!」

 俺が 軽口 を叩くようにそう言って、笑いながらその肩を手加減しながら 叩 いてやると、桜木は不意に笑った。
 まるで何かを吹っ切ろうとするように、笑っていた。
 笑いながら、ポロポロと零れる涙は綺麗だった。
 振り返りながら、あの蜘蛛は桜木を見ていた。
 大蜘蛛になっても、桜木だけを一心に見つめていた。
 忘れないように。
 忘れないでいて欲しいように…
 だから、なあ桜木。

「クモちゃん、あたしきっと。あなたを忘れないから」

 さようなら…
 溜め息のように零れた言葉を聞き届けた蜘蛛の桜色の 残骸 は、その想いをまるで 遂げられたんだと、そして桜木の心を見届けられたんだと、ホッと安心したのか、満足したように水面の底に沈んでいった。
 こんな生死をかけた場所で、たった一瞬の 邂逅 だったけれど、俺たちは世にも得難いものを手に入れることに成功したんじゃないだろうか?
 須藤と目線が合って首を傾げると、ヤツはなんとも言い難い複雑な表情をして笑いながら、小さく肩を竦めてみせた。
 幸せか?と聞かれて、簡単に答えられるヤツなんていないだろう。
 でも、あの蜘蛛は。
 幸せか?と聞かれて、きっと今なら素直に頷くに決まってら。
 さあ、今度は俺たちの番だろ?
 幸せか?と聞かれて、その通りだと頷けるように、博士たちを助け出して日本に帰ろう。
 そうすることが、今の俺たちの幸せなんだ。

 なあ、蜘蛛。
 お前、忘れられなかったんだよな?
 あの、掌のぬくもりを。
 無条件で与えられた優しさを。
 「生きてね」と掛けられた、無償の言葉を。
 そして、直向きに向けられた。
 あの優しい眼差しを…