Act.6  -Vandal Affection-

 まるで生き物たちは息を潜めているように静かだった。
 比較的、的になりやすい遺跡の階段を慎重に上り詰めながら、俺は上下に視線を走らせた。
 あの化け物は、もしかしたら蛇の形をした奴しかいないのかもしれない。
 立ち去り際に俺を呼び止めた須藤は、思い出したくないだろうに、俺に自分たちを襲ってきた化け物の特徴を教えてくれた。何も聞かずに立ち去ろうとする間抜けな俺を、奴は心配そうに眉を顰めていたけど、俺は大丈夫だからと言って奴と別れたんだ。
 だけど、そう考えてみるとあの転がっていたレンジャーの頭には火傷の跡はなかったし…何か、もっと違う別の化け物もいるのかもしれない。ああ、だったらすっげぇ頭が痛いことになるな。

「ったく、本当はこんな形でこの遺跡に入りたかったワケじゃねーのに」

 わざわざ苦労して入った有名私立大で希望の考古学科を専攻できて、こうして発掘隊のメンバーにもなれたって言うのに、あの順調だった俺の人生の歯車はどこから狂ってきたんだろう。
 それとも、あの大学に入った時点で俺の運命の歯車は軋んでいたのかもしれない。
 全く、何がどうしてこんなところで化け物のことなんか考えているんだ。
 はあ、はあ、と肩で息をする俺は、こんな時でも無頓着なほど晴れている満天の星空を見上げた。
 遺跡の頂上は、手を伸ばせば届きそうなほど星が近い。
 何もなくてこの星空を見上げられるのならどんなに嬉しいだろう。
 俺は大きく息を吸い込んで、深呼吸した。
 ぽっかりと深淵が誘うように口を開いている、真っ暗闇な遺跡の入り口を睨み据えながら、俺はもはや躊躇うこともなく一歩を踏み出した。

 遺跡の中は熱気が篭っているのか、ムッする異臭が鼻をついた。
 黴臭いような、生臭いような、何とも言えない匂いに眩暈を覚えながら、俺は手探りで遺跡の中を進んだ。懐中電灯代わりにポケットに忍ばせておいたペンライトで周囲の壁を照らしながら進んでいると、下に続く階段を見つけた。
 注意をしながら階下に進んでいくと、不意にぬる…っと、何かに足を取られて蹴躓きそうになった。
 な、なんなんだ!?
 俺は慌ててペンライトで足許を照らして、そして吐きそうになった。
 小さな光りに浮かび上がったソレは、既に肉塊と化した人間だった。浮かび上がった服の奇妙な文様みたいな模様は、きっとレンジャーの着ていた迷彩服だ。
 ドッグタグが唯一の身分証明だから、俺は恐る恐るその原型も留めていないほどグチャグチャの肉の塊から、僅かに覗いている銀色に光る鉄のプレートに手を伸ばした。
 血と、肉の破片がこびり付いたソレを引っ張った瞬間、漸くくっ付いていた頭がぐらりっと揺れて俺の方に転がってきた。

「ヒッ…」

 千切れたんだ。俺が、ドッグタグを引っ張ったから。
 恨めしそうな眼球は本当に眼球で、瞼も何もない、たぶん、皮ごと剥ぎ取られたんだろう。

「ぅぐッ!ぐぅおぇ…!」

 ムッとする異臭と血塗れの現状で、俺は今日、何度目かの嘔吐を遺跡の床にぶちまけた。
 俺は震える手でドッグタグを引っ掴み、早くこの場から立ち去りたくて走るようにその場を後にした。
 死体が幾つあったかなんて覚えていない。でも、たぶん俺が知る限りでは一体だけだったような気がする。
 肩で息をしながら遺跡の壁に寄りかかり、手にしていたライフルを肩に掛けると、ペンライトでドッグタグを照らしてその認識票を確認した。

「ア、アルバート…くそっ!血がこびり付いてる。アルバート=セットランド。…タユじゃない」

 出身はミネソタ州だと書いてる、現地人じゃなかったのか。
 血だか肉片だか、それともその両方なのか、判らないものがこびり付いたタグをポケットに突っ込んで、俺はもう1度ライフルを構えると歩き出した。
 映画で見るような迫力は、現実だと、本当はそんなにないものなんだ。
 効果音もないし、あると言えば俺の呼吸音ぐらいで、あとは痛いぐらいに脈打ってる心臓の音だ。
 どんな音より恐怖がこみ上げてくる。
 迫力はないけど、恐怖は深々と身体中に浸透していく。腕が震えるけど、そんなこと気に止めるひまもない。
 誰かに出会わないだろうか?生き残っている誰かに…
 祈るように進んでいると、いきなり開けた空間に出た。
 漆黒の闇が支配する空間の中央で、誰かが呆然と突っ立っている。
 よくよく目を凝らすと…

「辻崎!おい!お前、辻崎だろ!?」

 俺はその空間に躊躇いもなく踏み込んだ。
 だから俺は、馬鹿だって言われるんだ。疑いもせずにこんな暗闇に入り込めるんだからな、くそッ!おめでたい奴だ!

「辻崎!」

 俺の言葉に反応するようにピクリッと動いた辻崎は、ゆっくりとこちらに振り返った。
 ペンライトで辻崎の顔を照らしてみると、眩しそうな反応を見せない奴の、虚ろな双眸はこの世ではないどこかを見ているようだ。

「!」

 俺はこの目を知っている。
 ついさっき、見てきたばかりだ。
 ハッとして辻崎の頭上にペンライトを当てると、ギラッと何か多くの小さなものが光りを反射した。

(く…蜘蛛)

 それもとびきりデカい。
 尻から出した見えない糸で辻崎の身体を持ち上げて、さも立っているように見せている。疑似餌で次の魚を釣ろうとしてるのか?
 何人が犠牲になったんだろう?
 俺は周囲に視線を走らせることもできなくて、そのデカい蜘蛛に釘付けになったままで構えていたライフルの銃口を奴に向けた。
 それは反射的な行動で、蜘蛛のどこを狙えばいいかなんて知ったことじゃない。
 ただ、どうしてもぶらりっと垂れ下がっている辻崎を下ろしてやりたかったんだ。

「ギギ…キシャァ…」

 視覚できるほどハッキリと、禍々しい牙のついた口を開いて、カサカサと両手足を不気味に動かす。尻が動く。俺に糸を絡めようとしているようだった。
 それら全ての一連の行動が、酷くゆっくりと緩慢なスローモーションのように思えた。でも、俺の腕の中にあるライフルは、これは現実なのだと銃口から火を吹いて俺に思い知らせた。
 何発か腹に打ち込むと、蜘蛛は素早い動作で天井を駆け抜けてきて俺の真上に降ってきた。それを完一発で避けて、最後の弾を奴の腹に打ち込んだ。

「グギャウッ!」

 奇妙な悲鳴を上げて大蜘蛛はのた打ち回ったが、怒りにギラつかせた八つの目で俺を睨み据え、体液を振りまきながら襲い掛かってくる。予め開けておいた箱から何発か取り出して装填しながら、奴の動きからするといまいち当たってないことを知った。
 乾いた音が数発響き渡る。
 この広間は、遠い昔に生きた人々が祈りを捧げた神の間なんだろうか。
 皮肉なもんだと、こんな時なのに俺の口から笑いが零れた。
 太古の人々が必死で捧げた祈りの間で、もしかしたら奴らが神だと崇めたかもしれない化け物と撃ち合いをしてるなんて…夢なら醒めて欲しかった。

「いったい…ッ!なんなんだよッ!!お前らはッッ!」

 俺は叫ぶようにそう言ってライフルをぶっ放した。
 でもそれはすらで逸れたのか、蜘蛛が俺に飛びかかってきた。

「うわッ!」

 ゾワゾワと顔を撫でる剛毛は確かに蜘蛛の足についているあの毛だ。ライフルで押し返そうとする俺の力なんか比にならないほどの強力で涎のような、奇妙な粘液を垂れる口が八方に開く。

「キシャァ…ッ」

 ゆっくりとしたスローモーションで開く口に、俺は顔色を変えた。冷や汗が背筋を流れていく。
 待ってたんだ、この瞬間を。
 捕らえた獲物を尻から出る糸で、お前が絡めとろうとする、その一瞬の隙を。

「悪かったな。俺はまだ死にたくないんだ」

 そう言って、予め方向を変えていたライフルの銃口をそのえげつない形をした、口とも言えないような器官に捻じ込んでやった。これでも喰らえ。

「じゃあな!」

 ドゥッ…
 重たい音が響いて、驚愕したように動揺していた大蜘蛛の頭が吹っ飛んだ。
 ビシャビシャッと肉片が弾け飛んで、腐った匂いのする体液が辺り一面に飛び散っている。
 俺は大蜘蛛の穴だらけの腹を蹴って上から退かすと、臭いが染み付いてしまったTシャツに眉を寄せながら、ライフルに弾を装填してから辻崎のところまで走っていった。
 どうせ死んでるけど、せめて何か形見のようなものを持っていこうと思ったんだ。

「辻崎…」

 コイツの遺体の状態は、今まで見てきた中でも一番綺麗だった。
 そりゃそうか、疑似餌にしてたんだからな。
 片膝をついて屈み込んで、俺は辻崎の遺体を確認した、そして…

「なんてこった」

 思わず呟いていた。
 コイツは疑似餌なんかじゃなかったんだ。
 卵の温床だったんだ。
 グッと唇を噛み締めて、辻崎の開いていたシャツを閉めた。今の俺にはどうすることもできない。
 燃やしてやることも、埋めてやることも。
 でもせめて卵だけは何とかしようと、閉めたシャツをもう1度開いて、腰に差していたサヴァイバルナイフで剥ぎ落としにかかった。意外と時間がかかったが、俺は全て取り終えると、それを床に投げつけて足で踏み潰した。二度とあんな化け物が生まれないように、渾身の力をこめて。
 飛び散る、まだ形にもなっていない液体を無表情に見下ろしながら、どうして俺は平静でいられるんだろうと頭の片隅でぼんやりと考えていた。